BloodBorne Another story 〜闇を追い求めた者〜 作:カッサバ
壁の扉が軋む音と共に、冷たい空気が肌を撫でた。
私は手で目をかざしながら、墓標の並ぶ石畳に足を踏み出した。
月は高く、雲は薄く。
旧市街の濁った空とは違い、ここには風が流れていた。
「……静かだな」
思わず口をついたその言葉は、誰に向けたものでもない。
けれど、私の声すらも、この場には場違いに思えるほどだった。
墓標の間を縫うように続く道。
遠くには大聖堂の尖塔が見える。
その影が、月光を受けて墓地の地面に長く伸びていた。
火の気配はない。
血の匂いも薄い。
ここはまだ──“人の街”だ。
誰かの足音がする気配もなく、
呻き声も、叫びも、ない。
私は墓標のひとつに背を預け、しばらくその場に腰を下ろした。
疲労がどっと押し寄せた。
体は冷えていたが、ここに立っているだけで、
自分がまだ生きていると実感できるような錯覚があった。
地獄から這い上がったばかりの身には、
この“静寂”が逆に痛いくらいだった。
だが、私にとって、
それは何よりも貴重な時間だった。
獣でもない。
血でもない。
誰の叫びもない。
ただ、風が吹き、鐘の音が遠くに響いているだけ。
……それだけで、充分だった。
私はしばらく目を閉じて、
束の間の夜に、呼吸を重ねた。
風が揺れ、墓標の影が伸びる。
しばらく静寂に身を預けていた私の前に、
どこか不安定な足取りの男が現れた。
教会の外套を着てはいるが、裾は泥と血で汚れていた。
肩は落ち、顔は青白く、目の奥に焦燥が滲んでいる。
私を見るなり、彼はわざとらしく目を見開いた。
「お、お前……教会の者か!? いや、違うな、どこかの学徒か……!?」
私は返答しなかったが、彼は勝手に話を進めた。
「いや、いい……もう誰でもいいんだ。
聞け、聞いてくれ……っ、時間がない」
男は墓地の奥へ、そっと指を向ける。
そこには、まだ静かな石碑の群れ。
だが──何か、沈黙の奥に蠢いている気配。
「もうすぐだ……もうすぐ奴らが……。」
「“奴ら”……?」
「“使い”と“大男”さ! ああ、あれは本来、我らの誇りだったんだ……
だが、もう駄目だ。大男の方は……もう理が、効かん。
さっき……さっき、扉が……!」
目が泳いでいる。
「激しく反応していたから閉じ込めていただけなんだ!
馬鹿げたことだがな! 我らがそれを選んだ。
奴らは普段は大人しいんだ。だが今夜の血の香りは強すぎる……!」
彼は頭を抱え、肩で呼吸していた。
嗚咽のような音が喉から漏れる。
「だが、手は足りん。狩人は……もう市街から帰っては来ぬ。
だから、使わねばならん……我らが手で、あれを」
私はじっと彼を見ていた。
「“使う”……?」
「うるさい! 仕方ないだろう!」
彼は吠えるように叫んだ。
「教会の門を守る者がいなければ、すべては瓦解する!
奴らを止められるのは……奴らしかいないんだ!」
その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。
私は何も言わなかった。
彼の靴音が、墓石の間に消えていく。
その後ろ姿からは、祈りでも信仰でもなく、
ただ“間に合わせの策”に縋る、哀れな人間の焦りしか感じなかった。
墓地の奥で、風が一瞬、重くなった。
その向こうに、何かが目を覚ます音がしたような気がした。
彼の背が墓標の列に沈みかけたその時、
私は思わず声をかけていた。
「待て。……安全な場所は、あるのか?」
男は足を止めた。
振り返った顔は、どこか燃え残る信仰に縋るようだった。
「安全だと……?」
彼は乾いた笑いをひとつ漏らす。
「……いや、そんなもの、この夜に残っていると思うか?」
だが、ほんのわずか、ためらってから彼は付け加えた。
「……強いて言えば、“大聖堂”だ。
教区長様と従者が、あそこを守っておられる。
我らの導き、聖血の加護に包まれた場所……」
「教区長……エミーリア、か」
「名を知っているのか? なら話が早い」
男は少しだけ目を細めた。
「今ならまだ、門は閉じられていないはずだ。
聖堂街の上層だ。ここからなら……真っすぐに登れば、辿り着ける」
私は頷いた。
男はそのまま踵を返し、再び闇の中へと消えていった。
──大聖堂。
教会の中枢、導きの象徴、そして“あの女”がいる場所。
私は再び空を見上げた。
月はまだ青く、地上の混沌を照らし続けていた。
安心とは程遠い言葉だったが、
少なくとも、そこには“目的”がある。
今の私はそれだけで、歩き出す理由になった。
大聖堂へ向かう道を、私は静かに歩いていた。
空気は凍るように冷たいが、熱を持ったような疼きが肌の下で騒ぐ。
それは啓蒙による代償なのか、あるいは──別の“視界”のせいなのか。
坂の途中、私は彼らを見つけた。
教会の使い。
白く無表情な顔、歪な長身、同じ服、同じ歩調、同じ武器。
棘だらけの十字杖。
祈りの形をしたそれは、信仰の仮面をかぶった暴力の具現。
そしてもう一つ、彼らの左手には、重たげな方形のカンテラがぶら下がっていた。
光っている。
青白く、淡く、揺れている。
……いや、光ではない。
私には“それ”が見えてしまう。
カンテラの外側にびっしりと、無数の眼球が張り付いていた。
濁った硝子のようなそれは瞬きもせず、湿り気を帯びて一斉に私を、見ていた。
何かを測っているような──
価値を、観察し、記録しているような視線。
それはもはや灯りではない。
選別の器だ。
列の先頭にいた使いが、私の前に立ち塞がる。
その顔の奥にもはや人間らしい瞳はない。
だが、カンテラの眼球たちがじっと、私の内側を覗いている。
──判断されている。
私は息を潜めた。
すると、使いは動いた。
「コッ」
杖の石底が、石畳を一度だけ打った。
その音は合図のように、私の脳裏に染み込む。
使いは、ゆっくりと身を引き、道を空けた。
後続の者たちも、滑るように列を歪ませ、私のための隙間をつくる。
通れ、という意思。
だが、それ以上でも以下でもない。
私は一歩踏み出しながら、確信した。
──今の私は、“対象ではない”。
それが意味するのは安全ではなく、ただ“未処理”という保留の印だ。
すれ違いざま、カンテラの眼球たちは最後まで私を追っていた。
私は私の行く末をもその瞳に覗かれているようだった。
私は何も言わず、振り返らず、階段の上を目指した。
大聖堂の塔が、月を背に沈黙していた。
──私は、門へと近づいていく。
そして最後の使いを抜けた瞬間──
ガチャン……ッ
背後で、重厚な門が閉じる音が響いた。
誰も見ていなかったはずの、その音が、
まるで“戻る道が失われた”ことを告げるようで、
私は思わず足を止めた。
だが振り返らない。もう戻れないという現実を知りたくないから。
門の閉じる音が耳から離れぬまま、
私は一度立ち止まり、あたりを見渡した。
大聖堂はすぐそこだ。
だが、その威厳ある石造りの階段と装飾の奥、
この聖堂街の空気に、私は微かな異常を感じていた。
──静かすぎる。
整いすぎている。
あまりにも「整えられた跡」が、目につくのだ。
足元の石畳には、洗い流されたばかりのような濡れ跡。
だが、よく見るとその隅には、褐色に乾いた血痕が残っていた。
雑に布で拭き取ったような、不規則な跡。
そして、その血痕は道端から階段の影へと、
何かを引きずったようにして続いていた。
“引きずられた”。
それは、死体だ。
既に処理された、あるいは“消された”何か。
私はしゃがみこみ、痕跡の端に指先を触れる。
乾いた血。臭気は薄いが、まだ新しい。
獣のものか? 人間のものか?
わからない。
だが、はっきりと違和感があった。
これは“病気”ではない。
“片付けられた混乱”の跡だ。
誰かが、あるいは何かがここで倒れ、
それを処理した者がいる。
そして、それがすでに“珍しいことではない”という顔をしている、この場所。
──聖堂街。
本来ならば、ヤーナムの中でも秩序と神聖が保たれた地。
だが、すでにここにも、
あの病が、あの“変質”が、染み出してきている。
私は立ち上がる。
空を見上げると、その黄昏が一層濃くなり、まるで血で空が染められていたかのようだった。
この空の下に、逃げ場はもう……ないのかもしれない。
私はゆっくりと、聖堂の扉へと歩き始めた。
巨大な荘厳に作られた扉は黒く煤け、年月の重みによって歪んでいたが、
その隙間からわずかに灯りが漏れていた。
……だが、すぐに異物に気づく。
門の左右。
その脇に立つ、二体の教会の使い。
彼らは他の使いと違い、手に棘の打ち込まれた十字杖ではなく、
棘の巻かれた磔刑台のような十字架を両手で抱えていた。
その“十字架”は、ただの木製ではなかった。
どこかで引き剥がしてきたかのような血の跡が残り、
鋲のような棘が全面に打ち込まれていた。
磔にされるべき者が、かつてそこにいたのか。
あるいは、これからそこに立つ者がいるのか。
私が一歩近づくと、
彼らの頭部が、わずかにこちらを向いた。
口はきかない。
だがその反応は明らかに「拒絶」だった。
進もうとすれば、
棘の十字架が静かに、だが確実に私の前に掲げられる。
──入ることは、許されない。
言葉なき判断。
命令を、ただ忠実に守っているに過ぎないその無言の警備。
私は足を止めた。
見間違いではない。
彼らは、明確に私を門前で留めたのだ。
中に誰がいるのか。
教区長エミーリアは、本当にそこにいるのか。
その全てが、いまは遠く閉ざされていた。
私は門の前に立ったまま、
無言の使いたちと、ただ冷たい夜気の中で向かい合っていた。
門は目前にある。
だが、私の足はそこに届かなかった。
両脇に立つ二体の教会の使い。
彼らは棘の巻かれた磔の十字架を無言で抱え、門前に立ち塞がっている。
その顔――
白く滑らかな素肌、穴のように沈んだ黒い眼と口は、
生き物というよりは彫刻に近く、だが確かに、こちらを見ている。
一歩進めば、十字架が静かに持ち上がる。
“ここから先は通すな”という命令が、血肉ではなく骨の芯から滲み出していた。
私は息を吐き、肩をすくめて口を開いた。
「……まったく、お利口な番犬だな。
門の前に突っ立つだけで、信仰を果たしたつもりか?」
当然、返事はない。
私は少し笑って、さらに毒を含ませた。
「言葉も持たぬ信者とは……。
いや、もしかして、自分のしていることすら分かっちゃいないのか?」
そのとき、
右手の使いが静かに、首を傾げた。
……いや、“傾げた”というよりは、
ぎこちなく角度を変えたという表現がふさわしかった。
人間の所作とは似て非なるもの。
まるで、「人を模したもの」が、見様見真似で“戸惑い”を再現しているようだった。
中身がないのに、形だけをなぞったような不気味さ。
その仕草に、理解があったのかどうかは分からない。
ただひとつ分かったのは──それが人ではない、ということだけだった。
「……やっぱり、分からない方が、それらしいか」
私は目を細め、再び扉を見た。
ほんの数歩の距離。
それでも、あの扉は今の私にとって果てしなく遠い。
門は閉じられたまま。
使いたちは、相変わらずの白い顔で、黙ってそこに立っていた。
門の前から少し離れたあたりで、
風に混じって何か音がした。
──遠くから、人の声が聞こえたような気がした。
私は足を止めた。
聞き間違いかもしれない。
でも、聞き間違いじゃないかもしれない。
なんとなく気になって、そちらの方へ向かってみることにした。
坂を下りながら、私は周囲を見渡した。
誰もいない。
窓は閉じられ、扉も硬く閉ざされている。
石畳の上には、何かが流れた跡のような濃い染みがあった。
それはたぶん、血だ。
けどもう乾いてるし、いつのものかもわからない。
誰かが倒れていたのかもしれない。
あるいは運ばれたのか、引きずられたのか。
……考え出すと、きりがなかった。
私は歩きながら、耳を澄ました。
また何か聞こえた。
怒鳴り声みたいな音。足音。
誰かが走っている……逃げている?
よくわからない。でも確かに何かが起きてる。
別に、助けようなんて思っていない。
でも……
「何が起きてるのか、知りたい」
それだけだった。
私は背を丸めて、静かに足を速めた。
あまり騒がしくならないうちに、
そっと、できるだけ遠くから、
その現場がどうなっているのかだけ、見届けるつもりだった。
路地を抜け、私は音のする方へと出た。
その先の小広場。
瓦礫と倒れた屋台が散乱する場所に、
人の群れと、教会の使いが対峙していた。
市街から逃げてきたのだろう。
血まみれの服、泣き叫ぶ女、子供の手を引いて走る男。
誰もが疲れ切っていた。
だがその目には、まだ“助かる”と信じている光が残っていた。
「頼む!中に入れてくれ!なあ、あんたたち教会の――ッ!」
男が叫ぶ。
その手が、門の脇に立つ使いの肩に触れた瞬間。
──音もなく、
十字架が振り下ろされた。
乾いた音が響き、男が倒れた。
その背中に、深く棘が突き刺さっていた。
「やめろ……!やめろよ!何してんだ……っ!」
別の者が声を上げ、石を投げた。
が、使いは無言のまま、首だけをゆっくりとそちらへ向けた。
その顔。白く滑らかで、目と口の黒い穴だけが、まるで仮面のようだった。
人々は怯み、後退りし、それでも誰かが門を叩く。
「開けてくれ!助けてくれ!」
叫びは増していく。
子供が泣き、女が悲鳴を上げる。
けれど、使いたちは一言も発さず、
ただ“粛々と”、
命令の通りに動いていた。
誰がその命令を出したのかも、もう分からない。
だが確かに、そこには迷いも慈悲もなかった。
私は近くの建物の陰に身を潜めながら、それを見ていた。
誰が正しいのかなど、もう関係なかった。
ただ──
この場に、“正気”を持った者はひとりもいないように思えた。
叫びは続いていた。
誰かが倒れ、誰かが逃げ、誰かが門にすがりつく。
その度に、教会の使いが動く。
感情はない。
命令だけがある。
杖は無言のまま振り下ろされ、
悲鳴は、次第に絶望の喘ぎに変わっていった。
私は建物の陰に身をひそめたまま、それを見ていた。
血の匂い。泣き声。
引き裂かれた叫びの数々。
なのに──
彼らは、混沌の中で私には気づかない。彼ら一般市民はもう獣として切り捨てられているのだろう。
白い顔の彼らは私を“対象外”としていた。
思い返せば、門の前に立ったときもそうだった。
私は拒まれたが、攻撃されはしなかった。
扉の内側にいた私。
教会に近い存在と見なされた私。
その立場が、今の私を守っている。
私は、それに気づいて、思わず背筋をなぞる冷たいものを感じた。
けれど、それと同時に──
わずかに胸を撫でおろす自分がいたことにも、気づいてしまった。
安堵。
救われたという実感。
他人が打ち倒される光景を前にしながら、
自分だけが“選ばれなかった”ことに安堵していた。
私は、唇を噛んだ。
だが、否定できなかった。
「……ああ、そうだ。私は……ここで、死にたくはない」
誰かを救いたいわけでもない。
獣を滅ぼす気概もない。
ただ──
知りたい。生きて知って、知り尽くしたい。
そんなことを思いながら、
私はなおも争いの先を、目を逸らさずに見続けていた。
血と嘆きが広がる広場に、
乾いた金属音が静かに割り込んだ。
振り向いた先に、
一人の男が歩いていた。
コートの裾は引き裂かれ、
鋲の打たれた胸元には血が滲んでいる。
それでも、背筋は真っ直ぐに伸び、
手には一振りの剣が握られていた。
──ルドウイークの聖剣。
分厚く、重量のあるそれは、まるで断罪の象徴のようだった。
だが彼はまだ、それを抜かずにいた。
「止まれ」
声は静かだったが、通る音だった。
彼の背後には、数人の狩人が従っていた。
皆、傷を負い、足取りは重い。
それでも立ち止まる教会の使いの前に並び立ち、
その存在が、“命令”よりも重みを持っていることを示していた。
「この者たちはまだ、裁きの段にない。
祈りも悔いもある者を、いきなり磔にするのは導きとは言わん。
……戻れ。ここで血を流すな」
教会の使いは、微動だにせずに佇んでいたが、
やがてゆっくりと首を動かし、男に視線を向けた。
静寂が満ちる。
やがて、使いたちはゆっくりと十字架を下ろし、
血濡れの門前から一歩、身を引いた。
狩長は、剣を腰に戻したまま、門の前へと進む。
その横顔には疲労の色が濃い。
ヤーナムの市街で、何を見てきたのか。
どれほどの血を踏み越えてきたのか。
その沈黙が、全てを物語っているようだった。
私は、それを隠れた場所から見つめていた。
胸の奥で、言いようのない違和感が残っていた。
この男が、英雄なのか、
それともまた別の“執行人”なのか。
判断は……まだつかない。
争いは収まっていた。
だが、静寂ではなかった。
「並べ。全員だ」
狩長の声が、広場に響いた。
恐怖に顔をこわばらせた市民たちが、
狩人たちに促されながら、一列に並ばされていく。
子どもを抱いた女、傷ついた男、
服を掴み合うようにして怯える者たち。
私は少し離れた場所から、その様子を見ていた。
狩長はルドウイークの聖剣を地面に立てかけ、
一人ずつ、じっと目を見つめていた。
「……咳は?」
「……いいえ、出ません」
「最近、肉は?」
「……食べてません。パンと、スープだけ……」
彼は頷いた。
隣にいた狩人がその人物の肩に手を置き、「行け」と促す。
次。
老人。
返答が遅い。
「……返事が遅い。目が赤い」
「わ、わたしは……、目薬を……」
狩長は動かず、片方の狩人が無言で首を横に振った。
「押さえつけろ。おい。」
彼は隣に控えていた狩人に目配せをすると、その狩人は無言で老人に刃を振り下ろした。
家族らしき者が声を上げたが、誰も聞いていなかった。
その後も、選別は続いた。
基準は明確ではなかった。
咳、目の色、皮膚の状態、そして「雰囲気」。
何か“違う”と見なされれば、それだけで引き離された。
私は、見ながら思った。
──これは、正義じゃない。
彼らは助けるために来たのではなかった。
彼らはただ、境界を引くために来たのだ。
人間と獣の。
安全と危険の。
信徒と異端の。
そしてその線引きは、あまりに曖昧で、粗い。
私は手を口に当て、しばらく動けずにいた。
「……この街には、救いなんて無いんじゃないか」
誰にともなく私は呟いた。
「目が赤い。咳をしている。皮膚が硬化している」
狩長が、静かに告げた。
列に並んでいた男は、顔を青ざめさせた。
「ま、待ってくれ!それは──風邪だ!咳は今朝だけだ!違う、俺は──」
だが狩長はもう、ルドウイークの聖剣に手をかけていた。
「祈る時間は与えよう」
男は膝をついた。
喉を引きつらせ、何か言葉を紡ごうとした。
けれど、それは声にならなかった。
狩長の聖剣が、無言のまま振り下ろされた。
刃は深く肩口から胸を裂き、
石畳に血の花が咲いた。
周囲の市民が息を飲んだ。
誰かが小さく嗚咽を漏らしたが、
狩人たちは何の反応も示さなかった。
「次」
その言葉だけが、断ち切るように響いた。
次の者は少女だった。
十にも満たないような、小さな子。
「……この子は、ただ怯えてるだけだ」
狩人の一人が、わずかに言葉を漏らした。
だが狩長は目を細め、しゃがんで少女を見つめた。
「怯えは獣の入口だ。
理性が壊れれば、欲と本能に呑まれる。
この街で、何人そうなった?」
沈黙。
少女の顔は涙で濡れ、
それでも何も言えなかった。
狩長は、聖剣を肩に担いだ。
だが、その刃は下りなかった。
ほんのわずか、迷いがあった。
「……あちらの壁のほうに連れて行け。後で対処する。」
私は、遠くからそれを見ていた。
そして理解した。
これは信仰だ。
信仰に基づいた処刑。
悔いのない断罪。
人を人でなくす前に、刃を与えるという、“救済”。
だが、それが正しいかどうかなど、
誰も考えていなかった。
私は、口の中がひどく苦くなった。
「……正義なんかじゃない。
これが“聖なる教え”なら、俺には到底受け入れられない」
呟いても、誰も聞いてはいない。
この街は、もうずっと前から狂っていたのだ。
裁きは終わった。
整列していた人々のうち、十数人が広場の壁際に並ばされた。
しゃがみ込み、身を寄せ合うその姿は、もう抵抗の意志すら残っていなかった。
「……やれ。」
狩長はそう呟くと、静かに一度だけ頷いた。
その合図に応じて、教会の使いが進み出た。
彼の左手には、黒鉄の筒状の装置が装備されていた。
まるで植物に水を与える噴霧器のようなその形状。
蒸気弁のような装飾が施され、側面には錬金印を模した金属板が打ち込まれていた。
銃ではない。だが、これは明らかに殺すための装置だった。
管の内部には、水銀弾由来の液体燃料が詰められているのだろう。
甲高い「チャキン」という装填音が響き、
次の瞬間──
「ゴォォ……」
赤黒い炎が唸り声のように放たれた。
ゆらめく炎が、壁際の人々を一斉に包んだ。
最初に悲鳴を上げたのは若者だった。
だがそれも長くは続かず、炎がその音すら飲み込んでいく。
私は、その光景を見て、言葉を失った。
教義。正義。導き。
そんな言葉では片づけられない。
これは処理だ。粛清だ。
それ以外に意味はなかった。
思わず、鞄の中にてをやった。
瓶が冷たく手のひらに触れた。
──胎なる精霊。
瓶の中の、あのぬめりとした青いものが、
今、微かに身を震わせていた。
ゆっくりと蠢き、
まるで、何かを感じ取るように。
「……やめろ……」
声にならない声が、喉の奥で詰まった。
炎がすべてを覆い尽くす中で、
私は初めて、本当にこの街に“神”など存在しないのだと、悟った。