BloodBorne Another story 〜闇を追い求めた者〜   作:カッサバ

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狩人の流儀

これが、死の気配というものなのかもしれない。

 

若い狩人の体から流れ出る血は、もう温かさすら感じなかった。

それでも私は、手を止めなかった。

 

「……止まってくれ……」

 

願いに近い声が漏れた。

誰に向けたものなのか、自分でも分からない。

 

私は学者だ。

薬の扱いも、止血の技術も心得てはいない。

それでも、やるしかなかった。

 

手探りで鞄を開き、埃をかぶった包帯を引き出す。

古い布。けれど、今はこれしかない。

震える手で布を裂き、腹部の傷に巻きつける。

何度も、何重にも。

 

布が赤く染まっていくのを見るたびに、焦りが喉にせり上がる。

それを飲み込むように、私は黙って作業を続けた。

 

──こんな時、知識は役に立たない。

 

何百年も前の墓の構造を語れても、目の前の命は救えない。

私の学問は、この世界ではあまりに無力だ。

 

それでも。

 

「……死なないでくれ」

 

かすれるような声が口をついて出た。

その時、鞄の中の瓶が、小さく揺れた。

中にいる“それ”が、かすかに蠢いている。

 

──呼ばれている気がした。

 

けれど、私は目を逸らした。

今は、違う。

 

これは、私の手でやらなければならない。

知識の欠片をかき集めてでも、救いたい。

 

震える指先で包帯を結んだとき、狩人の眉がわずかに動いた気がした。

 

息をつめて見つめる。

……ほんの、わずかに。呼吸がある。

 

私は胸の奥で、ようやく息を吐いた。

 

私は包帯の端を結び終え、そっとその手を離した。

息を吐くと、胸の奥に溜まっていた緊張が少しだけ抜ける。

 

そのとき、どこかで金属が地面を引きずるような音がした。

耳に残るその音に導かれるように、私は顔を上げた。

 

──そこにいた。

 

闇を背負って立つ、異様に細い長身の男。

白すぎる肌に、真っ黒な眼。

感情の一切が読み取れない。

 

引きずる鎖が、石畳を傷つけていた。

そしてその手には、あまりに重たそうな斧。

ただ振るわれるだけで、人間の胴体が容易く裂けるであろう鉄塊。

 

そいつが──教会の大男。

 

そして、その前に立ちはだかるのは、ひとりの女だった。

 

痩せた肩。真っ直ぐな背筋。

斧を前にしても、彼女は剣を下げていない。

 

大男が足を引きずるたびに、空気が震える。

その存在は“人間”という言葉から遠くかけ離れていた。

だが、彼女はそれを真正面から見据えていた。

 

私はただ、目を逸らすことができなかった。

 

息をひそめながら、私は石壁の隙間から戦場を見ていた。

 

冷たい石の感触。足元には、さっきまで必死に止血していた狩人の血が、まだ生ぬるく残っている。

その隣で、私はただ、目を逸らせずにいた。

 

斧が振り下ろされる。

大男の動きは鈍重で、なのに“恐ろしく速い”。

 

女狩人は一歩踏み込んで、真横に滑るように躱した。

その手には、短い両刃の剣──いや、ショートソード。

教会の工房特製の、装飾が施されたそれは、彼女の動きと一体だった。

 

一瞬の隙を突いて、斬り込む。

短剣はその分、取り回しが早い。

肩口、膝裏、喉元──

狙いは鋭く、確実に“人間の急所”を突いていた。

 

だが、その“人ならざるもの”には、急所がない。

 

斧が振り返され、火花が散る。

彼女はバックステップで距離を取ると、剣の柄を回し込み──

 

カチッ。

 

あの音が再び鳴った。

 

剣の中央がスライドし、刃が伸びる。

一瞬でロングソードの形状へと変わった。

 

そこからの流れは、見惚れるしかなかった。

 

長剣の間合いを活かし、先ほどは届かなかった胴体に深く一撃。

重く、しなる刃が斜めに肉を断つ。

音が、鈍い。

 

だが、すぐに距離を詰められ、再び至近戦へ。

間合いを詰められた瞬間、彼女は柄の根本を引き、再び──

 

変形。

 

短剣に戻る。

目にも止まらぬ速さで、斬撃を三度、四度。

深くない。だが、確実に削る。

 

「……本物の狩人だ……」

 

気づけば、私は声を出していた。

 

彼女の動きには、迷いがない。

一撃で仕留めるのではなく、状況に応じて武器を変え、削り、躱し、崩していく。

 

獣と化した大男は、彼女の“技術”に翻弄されていた。

 

斧が空を裂き、石畳を砕く。

その隙間を縫って、剣が唸る。

刃が変わるたび、彼女のリズムも変わった。

 

それはまるで──

獣を断つために設計された、一つの完成された技術体系。

 

「……仕込み武器…」

 

あの剣の機構が、ただの見せかけではなく、“生きている”。

 

私には剣を振るう力はない。

けれど今、確かにそれが“美しいもの”だと感じていた。

 

彼女は、戦っている。

変形のたび、戦局を握っている。

人ではない存在に対して、人の技術と意志で、挑んでいる。

 

それだけで、私は──

ほんの少しだけ、胸が熱くなるのを感じていた。

 

剣の変形音が、また響いた。

 

伸びる刃──長剣。

縮む刃──短剣。

間合いが変わるたびに、彼女は冷静に形を切り替えていた。

 

ただ闇雲に変えているわけではない。

タイミングは完璧だった。

斧の振りが重い時は短剣で翻弄し、間合いが取れた時は長剣で深く切り裂く。

 

一瞬のためらいもなく、変形と斬撃が繋がっていた。

 

まるで彼女自身の筋肉や骨が、あの剣に溶け込んでいるようだった。

 

「……あれが……本物の戦い……」

 

思わず唇から漏れた。

 

そして、次の瞬間だった。

 

大男の斧が、彼女の正面から振り下ろされる。

 

回避が間に合わない距離。

 

私は思わず身を乗り出していた。

 

だが──

 

バシュッ!

 

乾いた破裂音。

続いて、黒い液体が霧のように舞った。

 

大男の頭部が、跳ねるように揺れた。

 

私は一瞬、何が起きたのか分からなかった。

 

よく見ると、女狩人の左手が袖口から何かを──

小さな銃だ。

それを、まるで合図のように自然な動作で引き抜いていた。

 

引き金を引いたのは一度だけ。

弾丸は、まっすぐにあの白い巨体の頭部に撃ち込まれていた。

 

「……あんな所に、武器を……」

 

気づかなかった。

戦いに集中していた彼女の、あの冷徹な判断。

斧の振りが避けられないと見た瞬間に、彼女は動きを変えたのだ。

 

距離、軌道、威力──

全てを一瞬で計算して、最も有効な一点に撃ち込んだ。

 

銃口は煙を上げていた。

 

彼女はその手をすぐに戻し、また剣を構え直した。

まるでそれが“想定内”であったかのように。

 

私は言葉を失った。

 

これは、芸術ではない。

これは、殺し合いでもない。

 

これは──“技術”だった。

 

知識も、経験も、誇りも。

全てを組み合わせた上で、一撃を通す。

 

大男の体が、ぐらりと揺れた。

 

銃弾は、確かに頭部を撃ち抜いたはずだった。

黒い液体が頭蓋の隙間から溢れ、目の奥で何かが崩れ落ちていくように見えた。

 

だが──それで終わらなかった。

 

「……え……?」

 

異変はすぐに訪れた。

 

その巨体が、軋んだ。

骨が、関節が、耐え切れずに軋み、裂け、悲鳴をあげるような音が空気を満たす。

皮膚の下で何かが暴れ、白い肌が赤く染まった。

 

血が、吹き出す。

関節から、背骨から、眼窩の奥から。

 

それでも、大男は倒れなかった。

むしろ、倒れることすら忘れたかのように。

 

「な……何なんだ、あれは……!」

 

私は思わず声を漏らす。

 

明らかに死んでいてもおかしくない致命傷だ。

だが、“死んでいない”。

 

斧を握る指が軋み、握力が過剰な力で戻っていく。

骨の可動域を越えた動きが生じるたびに、肉が裂け、血が吹き出していた。

 

それでも、大男は前へ進む。

 

女狩人は後退しながら、剣を構え直す。

だが、その顔に迷いはなかった。

次の一手を、冷静に、見極めようとしていた。

 

──その時だった。

 

「下がれ、エロイーズ!」

 

鋭い声が、夜の空気を裂いた。

 

私の視線が跳ねるように動く。

 

通路の向こう、黒い影が現れた。

 

一人──いや、五人。

 

その先頭にいた男は、金属の板を繋いだような胸当てを付けていた。

その手には、巨大な銀細工の大剣。

 

月明かりの下、それはまるで聖具のように輝いていた。

 

──ルドウイークの聖剣。

 

「狩長……!」

 

女狩人がその声に驚きを乗せた。

 

狩長は一歩、また一歩と、剣を引きずるように前へ出た。

その背後には、複数の狩人たち。

それぞれが仕掛け武器を手にし、静かに構えていた。

 

夜風が吹き抜ける。

 

その音の中で、狩長は言った。

 

「せめて我らの手で楽にしてやろう。」

 

そして、大剣を肩から持ち上げる。

 

「その穢れ、我らが斬り捨てる」

 

空気が、震えた。

 

白い巨体が、吠えた。

 

肉が裂け、骨が軋み、関節が悲鳴をあげている。

けれど、それでも大男は動き続ける。

もはや理性のかけらすら感じさせない。

 

そんな怪物に、彼らは立ち向かった。

 

狩長が聖剣を掲げ、短く叫ぶ。

 

「構えよ!」

 

その声に応じ、五人の狩人たちが一斉に散開する。

 

まず、仕込み杖の狩人が前へ出た。

杖を振るいながら──瞬時に、鞭へと変形。

鎖のように解けた刃が空を舞い、白い腕に絡みつく。

 

「止めている間に──ッ!」

 

次いで、ノコギリ鉈の狩人が突っ込む。

刃を変形させることなく、手数で押す。

その動きはまるで獣のようだった。

肩、胸、脚へと連続で斬りつけ、肉を裂いていく。

 

大男が腕を振り上げる。だが、その瞬間──

 

「撃て!」

 

三人の狩人が同時に銃を放った。

 

──パァン! パァン! パァン!

 

火花が走る。煙が舞う。

仕込み杖の狩人は小型の連発銃、

ノコギリ槍の狩人は旧式の散弾銃、

そして銃槍の狩人は銃口を突き出して、至近距離で火を吹いた。

 

白い巨体がよろめいた。

 

そこへ、ノコギリ槍の狩人が躍り出る。

槍はすでに変形し、長く鋭い突きへと変わっていた。

その一撃が、腹部を深く貫く。

 

血が噴き出し、体が仰け反った。

だが、倒れない。

 

「まだだ──!」

 

叫びながら、教会の石槌の狩人が剣を変形させる。

銀の直剣が、巨大な石塊に呑み込まれた。

 

振り下ろされたそれは、地を揺らすほどの衝撃を伴い、

大男の左肩を叩き潰した。

 

「う……わ……」

 

私は声が出なかった。

あの質量の身体があんな風に壊れていくのを見たことがなかった。

 

だが、大男は、それでも、動いていた。

 

「下がれ、全員!」

 

狩長が声を張る。

 

その声に応じて、狩人たちが一斉に距離を取る。

 

そして、聖剣を振りかぶる。

長く、美しいその刃が、月光に煌めく。

 

「教会の名の下に──」

 

剣が唸りを上げ、

次の瞬間、白い肉体が大地に叩きつけられた。

 

轟音。土煙。

断末魔のような咆哮が、夜の闇に消えていった。

 

私は──目を逸らせなかった。

これが、狩人の戦い。

これが、“正義”の剣。

 

だが。

 

なぜだろう。

 

その“正義”が、どこか、怖く見えた。

 

静寂が戻った。

 

さっきまで吹き荒れていた咆哮も、

土を裂くような斧の軌跡も、もうそこにはなかった。

 

白く染まった巨体は、ぐったりと地に伏している。

血を流しすぎた肉体は、まるで別の何かの抜け殻のようだった。

 

私は思わず息を吐いた。

 

──終わったのだ。

 

それでも、誰もすぐには動こうとしなかった。

一人、歩を進めた者を除いて。

 

狩長だった。

 

聖剣の柄を肩にかけるようにして、彼は静かに歩いていく。

その足取りには重さがあるが、威圧はない。

周囲の狩人たちは自然に道をあけた。

 

女狩人の前で、その足が止まる。

 

彼女は剣を下げていた。

左肩がわずかに揺れている。疲労と、痛みと、そして──緊張。

 

狩長は、少しだけ目を細めたように見えた。

 

言葉は遠くて聞こえない。

だが、私は読み取ろうとした。

 

「……よくやった」

 

そんな言葉だった気がする。

 

女狩人は、静かにうなずいた。

 

だが、次の瞬間。

 

彼女は、顔を上げて何かを言った。

小さな声だが、はっきりとした意思を込めていた。

 

狩長の眉がわずかに動く。

 

その後、彼は頷いた。

何も言わずに。

 

彼の背が向けられる。

それに合わせて、狩人たちも動き出した。

 

私は、女狩人の顔を見た。

 

その瞳は、戦いのときよりもずっと静かで──

ほんの少し、何かをかみしめているようにも見えた。

 

狩長たちは、何も言わず広場へと戻っていった。

残されたのは、血と肉の匂い、そして沈黙。

 

その静寂を破ったのは、黒衣の影たちだった。

 

教会の使い。

 

顔を深く隠したローブの者たちが、何の前触れもなく現れる。

一人、また一人と。

台車を押し、白く光る刃物を手に携えたまま。

 

彼らは、大男の傍へと無言で近づく。

その巨体を前にしても、誰ひとり動揺の色はなかった。

 

ひとりが片膝をつき、血に濡れた肉を調べる。

 

やがて、何かの合図のように、彼らは刃を振るい始めた。

 

ズシャ……ズシュ……

 

音が耳に刺さる。

 

皮膚が割かれ、筋肉が断たれ、骨が露わになっていく。

巨大すぎるその体は、そのままでは運べないと判断されたのだろう。

彼らはそれを、“解体”して運ぶつもりだった。

 

腑分けされていく教会の大男。

 

人の形をしていたものが、肉として処理されていく。

ただの“物”として。

 

「……どうして、そんなに……」

 

私は、言葉を飲み込んだ。

 

そこへ──声がした。

 

「助けてくれて、ありがとう」

 

私は肩を震わせ、振り返る。

 

そこにいたのは、あの女狩人だった。

 

彼女は私のすぐ傍まで来ていた。

片手はまだ剣の柄に添えているが、刃はすでに収められている。

 

「……あの青年。」

 

彼女は、短く言った。

 

「……あなたが助けてくれて、本当に助かった」

 

その言葉は、冷静で、飾り気がなかった。

けれど、確かに“人間の声”だった。

 

血の匂いが満ちた中、私は久しぶりに、

この夜に“人の温度”を感じた気がした。

 

「本当に、ありがとう」

 

その一言だけを残して、女狩人は私の前を通り抜ける。

そして、あの青年の傍に膝をついた。

 

私はその背中を、言葉もなく見つめていた。

 

彼女は慣れた手つきで鞄を開き、小さなガラス瓶を取り出した。

封蝋に教会の印章。中にはどろりとした暗赤色の液体。

 

──輸血液。

 

教会が誇る“奇跡の治療法”。

狩人たちは、それを当然のように使う。

 

彼女もまた、何の迷いもなく瓶を割り、注射器に中身を移した。

 

「少し、ちくっとするわよ」

 

そう言って、針を彼の腕に刺し込む。

液体が、血管へと注がれていく。

彼の体が、わずかに反応した。

 

彼女の表情に、安堵の色が浮かぶ。

 

「大丈夫……すぐに意識が戻るはず」

 

私は、言葉を飲み込んだ。

代わりに、ほんのわずかに眉をひそめてしまったのだと思う。

 

輸血液──

それを見たのは初めてじゃない。

だが、こうして“流し込まれる”様子を間近で見たのは初めてだった。

 

血が、別の血を飲み込んでいく。

 

──それは、本当に“癒し”なのか?

 

どうしても、そう思ってしまう。

 

知識では説明できない“違和感”が、肌を這った。

 

私は学者だ。だからもちろん知っている。

断片的な資料の中で、血に関する記述には必ず何かしらの“歪み”があった。

古い儀式。獣の血。血の聖餐。

それらに共通するのは、“境界を曖昧にする力”だ。

 

頭の中にある言葉が浮かび上がる。

 

「かねて血を恐れたまえ。」

 

その警句は確かに私の記憶としてある。

 

それでも、狩人たちは迷わない。

 

彼女の横顔には、少しの不安も見えなかった。

 

私には、そのことのほうが、何よりも恐ろしく思えた。

 

輸血を終え、彼女は弟子の顔をじっと見つめていた。

 

私は一言も発さず、ただその横顔を見ていた。

 

“あの液体は、本当に癒しなのか?”

 

その疑問が喉元までこみ上げてきたが──

口にすることはなかった。

 

代わりに、私は深く息を吸って、静かに言葉を置いた。

 

「……アラリック。私の名前だ。」

 

彼女がゆっくりとこちらを見る。

その視線に、驚きも疑いもなかった。

 

「エロイーズ。狩人よ」

 

たったそれだけのやりとりだった。

 

名乗りを交わした後、短い沈黙があった。

広場のほうからは、狩人たちの足音と、教会の使いたちの刃が肉を裂く鈍い音が、まだかすかに聞こえてくる。

 

その中で、彼女が言った。

 

「……これから、どうするつもり?」

 

言葉は淡々としていたが、問いは鋭かった。

まるで、戦いの合間にも相手の心を読んでいるかのような、狩人の勘。

 

私は少しだけ視線を逸らし、それから答えた。

 

「……ヨセフカの診療所に、戻るつもりだ。」

 

私はあそこに戻らなければならない。絶対にだ。

だが今はそこまで言う必要はないだろう。

 

「……理由は、うまく言えない。でも、確かめたいことがあるんだ」

 

エロイーズはそれを聞いても、表情を変えなかった。

ただ、ほんのわずかに目を細める。

 

「……あそこに?」

 

それが意味するものは、私には分からない。

だが、その一言には、何かが含まれていた気がした。

 

私は、黙って頷いた。

 

私の言葉に、彼女はしばらく沈黙していた。

 

その沈黙は、問いを見定めている時間だったのかもしれない。

 

やがて、彼女はそっと立ち上がった。

まだ地面に伏したままの弟子を一瞥し、それから私を見た。

 

「……診療所まで、私が護衛するわ」

 

私は、思わず目を瞬いた。

 

「え?」

 

「テオを助けてくれた。……礼よ」

 

彼女は淡々とそう言った。

 

その声には、何の感傷も混じっていなかった。

だがそれは、軽い申し出ではなかった。

 

狩人としての責任。

そして、何よりも“選ばれた言葉”。

 

「……ありがとう」

 

そう答えるしかなかった。

 

彼女はそれを受けて、少しだけ視線を遠くに向けた。

 

「でも、ひとつだけ伝えておく」

 

「……なに?」

 

「ヤーナムは、もう崩れかけてる。街も、人も、限界よ」

 

その言葉に、私は自然と背筋を伸ばした。

 

「ダメだと思ったら、無理はしないこと。引き返せるうちに引き返す。……それが、死なないための基本よ」

 

短く、はっきりとした言葉。

まるで、剣のように鋭く、そしてまっすぐだった。

 

私は小さく頷いた。

 

「わかった。……ありがとう、エロイーズ」

 

それ以上、何も言う必要はなかった。

 

ただ、彼女の申し出が

“狩人の恩義”であり、

同時に“人としての誠意”でもあったことだけは、はっきりと分かった。

 

エロイーズは無言のまま、弟子の体を背負い上げた。

 

驚くほど軽々と。

 

私はすぐに後を追う。

 

石造りの建物が、夕陽を受けてぼんやりと光っていた。

 

オドン教会。

かつては祈りと救いの場所だったはずのその空間は、

今では狩人たちが傷を癒し、獣から逃れるための避難所になっていた。

 

扉を開けると、乾いた空気の中に、わずかな煙の匂いが混じっていた。

獣避けの香。

 

「ここなら、しばらくは大丈夫」

 

エロイーズがそう言って、布切れを広げる。

その上に、彼女は慎重に弟子の体を横たえた。

 

私は香炉に火をつける。

くすぶるように立ち昇った白煙が、淡く室内を満たしていく。

 

教会の窓から差し込む光は、すでに赤みを帯びていた。

夕刻──だが、それ以上は落ちない。

 

私はずっと違和感を覚えていた。

日が傾いてから、何時間経ったのだろう。

 

なのに、太陽は沈まない。

 

夜が……終わらないんだ。

 

そんな確信が、胸の奥にひたひたと満ちていく。

 

「……ありがとう、エロイーズ。少し、休もう」

 

私がそう言うと、彼女はうなずき、壁にもたれて腰を下ろした。

 

香がほのかに漂う中、

エロイーズは弟子の様子を見ながら、ぽつりと呟いた。

 

「……“狩人の夢”って、知ってる?」

 

私は一瞬、彼女の顔を見た。

 

「……名前だけは。教会の古い記録で少しだけ」

 

彼女は乾いた笑いを漏らした。

その目は、窓の外の沈まない空を見ていた。

 

「皆が言うの。“夢の中で目覚める場所がある”って。

狩人が死ぬたびに戻る、祝福された牢獄。

古い狩人の魂たちが集まる、正気と狂気の間にある楽園」

 

「……でも?」

 

「そんな都合のいい場所、私は一度も見たことがない。

何人も、仲間が死んでいったけど……誰ひとり戻ってきやしない」

 

淡々とした声。

けれど、その奥には、何か小さな悔いのようなものがにじんでいた。

 

私は少しだけ考えた。

そして、そっと問い返す。

 

「でも……おかしくないか?

日が落ちそうで、落ちない。

さっきから、ずっと“黄昏れ時”のままなんだ」

 

エロイーズがこちらを見た。

 

「だからといって、“夢”だと信じたいわけ?」

 

「……違う。ただ、これは現実じゃない気がする。

何かが……狂ってる。

でも、それに名前をつけるほど、私はまだこの街を深く知らない」

 

「ふん……」

 

彼女は鼻で笑って、肩をすくめた。

 

「なら、知ればいい。

ここが現実かどうかなんて、もうどうでもいいのよ。

獣がいて、人が死んで、誰かが剣を振るう。

それがすべてだわ」

 

「……冷静だな」

 

「慣れただけよ。諦めたとも言える」

 

私は、何も言えなかった。

 

でもその言葉に、何か救われたような気もした。

 

現実か夢か。

名前のない夜が、ただ静かに続いていた。

 

話し終えたエロイーズは、再び弟子の傍らに立ち、無言で様子を見ていた。

私は少し離れた場所で、夕暮れの赤い光を背に彼女の横顔を見つめていた。

 

「……ん、く……」

 

かすかな息の震え。

 

私は立ち上がり、彼に近づいた。

 

目を閉じたまま、テオの指が微かに動いていた。

そして、しばらくして、ゆっくりと瞼が開く。

 

焦点が合うまでに、少し時間がかかった。

だが、やがて彼の目はエロイーズを捉える。

 

「……エロイーズ……?」

 

その声は掠れていて、浅く震えていた。

だが、それでも彼は目を逸らさなかった。

 

エロイーズは頷くだけだった。

過剰な言葉も慰めも、彼女には必要なかった。

 

「……生きてるのか。」

 

その一言に、思わず私は息を漏らした。

弱り切った声のくせに、彼の目はどこか冴えていた。

 

「お前は、まだ動くな」

 

エロイーズが短く告げる。

その言葉に、彼は小さく笑ったような気がした。

 

「ま、また……怒鳴られるかと思ったけどな……」

 

「怒鳴る気力もない。おとなしく休め」

 

「……はは……了解……」

 

それを最後に、彼の目がまたゆっくりと閉じる。

今度は苦しみではなく、休息の眠りだった。

 

エロイーズは立ち上がり、静かに息を吐いた。

その動きにも、感情は表れなかった。

 

けれど私は、彼女の一瞬の視線に

わずかな安堵が宿っていたのを見逃さなかった。

 

テオの呼吸は落ち着いていた。

彼の額にはうっすらと汗が浮かんでいるが、顔色は先ほどよりもずっと良くなっている。

 

「しばらくここに置いていく。大丈夫、香があれば獣は近づけない」

 

エロイーズがそう言って、香炉にもうひとつ香を足す。

白い煙がふたたび立ち上り、空気がぴりりと変わった気がした。

 

「扉には封をしておく。何かあれば……戻る」

 

彼女は短くそう言い切る。

その言葉に私は何も返さなかった。ただ頷いた。

 

私は鞄を開き、持ち物の確認をする。

 

小瓶──二つ。

筆記具に紙。

触媒──無事。

それだけあれば、なんとかなる。……はずだ。

 

エロイーズは彼女の仕込み武器を手に取り、

一度変形を確かめるように構え、音を確かめる。

 

「じゃあ、行くわよ」

 

その言葉に、私も立ち上がった。

 

外はまだ夕暮れのままだった。

赤い空は止まり、鳥も飛ばず、ただ風が石畳を撫でていた。

 

“夜は終わらない”――

その予感は、もう確信になりかけていた。

 

「診療所は北側よね?」

 

「……ああ。だけど、橋を渡る必要がある。正門から行くしかない」

 

「了解」

 

エロイーズは一言だけ返し、扉に手をかけた。

 

私はもう一度だけ振り返って、

教会の中に横たわるテオを見た。

 

「すぐ戻る。」

 

彼女のその声に、誰も応えなかった。

 

そして扉が開く。

 

外の空気が流れ込む。

沈まない夕暮れの街へ、私たちは再び踏み出した。




ブラボらしからぬ集団戦!だけどこの武器にはこんな使い方もあるんじゃないか?と思うと妄想が止まりませんでした笑
他にも色々ありそうですね。トニトルスとかマッサージに使えそうですよね笑
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