BloodBorne Another story 〜闇を追い求めた者〜 作:カッサバ
これが、死の気配というものなのかもしれない。
若い狩人の体から流れ出る血は、もう温かさすら感じなかった。
それでも私は、手を止めなかった。
「……止まってくれ……」
願いに近い声が漏れた。
誰に向けたものなのか、自分でも分からない。
私は学者だ。
薬の扱いも、止血の技術も心得てはいない。
それでも、やるしかなかった。
手探りで鞄を開き、埃をかぶった包帯を引き出す。
古い布。けれど、今はこれしかない。
震える手で布を裂き、腹部の傷に巻きつける。
何度も、何重にも。
布が赤く染まっていくのを見るたびに、焦りが喉にせり上がる。
それを飲み込むように、私は黙って作業を続けた。
──こんな時、知識は役に立たない。
何百年も前の墓の構造を語れても、目の前の命は救えない。
私の学問は、この世界ではあまりに無力だ。
それでも。
「……死なないでくれ」
かすれるような声が口をついて出た。
その時、鞄の中の瓶が、小さく揺れた。
中にいる“それ”が、かすかに蠢いている。
──呼ばれている気がした。
けれど、私は目を逸らした。
今は、違う。
これは、私の手でやらなければならない。
知識の欠片をかき集めてでも、救いたい。
震える指先で包帯を結んだとき、狩人の眉がわずかに動いた気がした。
息をつめて見つめる。
……ほんの、わずかに。呼吸がある。
私は胸の奥で、ようやく息を吐いた。
私は包帯の端を結び終え、そっとその手を離した。
息を吐くと、胸の奥に溜まっていた緊張が少しだけ抜ける。
そのとき、どこかで金属が地面を引きずるような音がした。
耳に残るその音に導かれるように、私は顔を上げた。
──そこにいた。
闇を背負って立つ、異様に細い長身の男。
白すぎる肌に、真っ黒な眼。
感情の一切が読み取れない。
引きずる鎖が、石畳を傷つけていた。
そしてその手には、あまりに重たそうな斧。
ただ振るわれるだけで、人間の胴体が容易く裂けるであろう鉄塊。
そいつが──教会の大男。
そして、その前に立ちはだかるのは、ひとりの女だった。
痩せた肩。真っ直ぐな背筋。
斧を前にしても、彼女は剣を下げていない。
大男が足を引きずるたびに、空気が震える。
その存在は“人間”という言葉から遠くかけ離れていた。
だが、彼女はそれを真正面から見据えていた。
私はただ、目を逸らすことができなかった。
息をひそめながら、私は石壁の隙間から戦場を見ていた。
冷たい石の感触。足元には、さっきまで必死に止血していた狩人の血が、まだ生ぬるく残っている。
その隣で、私はただ、目を逸らせずにいた。
斧が振り下ろされる。
大男の動きは鈍重で、なのに“恐ろしく速い”。
女狩人は一歩踏み込んで、真横に滑るように躱した。
その手には、短い両刃の剣──いや、ショートソード。
教会の工房特製の、装飾が施されたそれは、彼女の動きと一体だった。
一瞬の隙を突いて、斬り込む。
短剣はその分、取り回しが早い。
肩口、膝裏、喉元──
狙いは鋭く、確実に“人間の急所”を突いていた。
だが、その“人ならざるもの”には、急所がない。
斧が振り返され、火花が散る。
彼女はバックステップで距離を取ると、剣の柄を回し込み──
カチッ。
あの音が再び鳴った。
剣の中央がスライドし、刃が伸びる。
一瞬でロングソードの形状へと変わった。
そこからの流れは、見惚れるしかなかった。
長剣の間合いを活かし、先ほどは届かなかった胴体に深く一撃。
重く、しなる刃が斜めに肉を断つ。
音が、鈍い。
だが、すぐに距離を詰められ、再び至近戦へ。
間合いを詰められた瞬間、彼女は柄の根本を引き、再び──
変形。
短剣に戻る。
目にも止まらぬ速さで、斬撃を三度、四度。
深くない。だが、確実に削る。
「……本物の狩人だ……」
気づけば、私は声を出していた。
彼女の動きには、迷いがない。
一撃で仕留めるのではなく、状況に応じて武器を変え、削り、躱し、崩していく。
獣と化した大男は、彼女の“技術”に翻弄されていた。
斧が空を裂き、石畳を砕く。
その隙間を縫って、剣が唸る。
刃が変わるたび、彼女のリズムも変わった。
それはまるで──
獣を断つために設計された、一つの完成された技術体系。
「……仕込み武器…」
あの剣の機構が、ただの見せかけではなく、“生きている”。
私には剣を振るう力はない。
けれど今、確かにそれが“美しいもの”だと感じていた。
彼女は、戦っている。
変形のたび、戦局を握っている。
人ではない存在に対して、人の技術と意志で、挑んでいる。
それだけで、私は──
ほんの少しだけ、胸が熱くなるのを感じていた。
剣の変形音が、また響いた。
伸びる刃──長剣。
縮む刃──短剣。
間合いが変わるたびに、彼女は冷静に形を切り替えていた。
ただ闇雲に変えているわけではない。
タイミングは完璧だった。
斧の振りが重い時は短剣で翻弄し、間合いが取れた時は長剣で深く切り裂く。
一瞬のためらいもなく、変形と斬撃が繋がっていた。
まるで彼女自身の筋肉や骨が、あの剣に溶け込んでいるようだった。
「……あれが……本物の戦い……」
思わず唇から漏れた。
そして、次の瞬間だった。
大男の斧が、彼女の正面から振り下ろされる。
回避が間に合わない距離。
私は思わず身を乗り出していた。
だが──
バシュッ!
乾いた破裂音。
続いて、黒い液体が霧のように舞った。
大男の頭部が、跳ねるように揺れた。
私は一瞬、何が起きたのか分からなかった。
よく見ると、女狩人の左手が袖口から何かを──
小さな銃だ。
それを、まるで合図のように自然な動作で引き抜いていた。
引き金を引いたのは一度だけ。
弾丸は、まっすぐにあの白い巨体の頭部に撃ち込まれていた。
「……あんな所に、武器を……」
気づかなかった。
戦いに集中していた彼女の、あの冷徹な判断。
斧の振りが避けられないと見た瞬間に、彼女は動きを変えたのだ。
距離、軌道、威力──
全てを一瞬で計算して、最も有効な一点に撃ち込んだ。
銃口は煙を上げていた。
彼女はその手をすぐに戻し、また剣を構え直した。
まるでそれが“想定内”であったかのように。
私は言葉を失った。
これは、芸術ではない。
これは、殺し合いでもない。
これは──“技術”だった。
知識も、経験も、誇りも。
全てを組み合わせた上で、一撃を通す。
大男の体が、ぐらりと揺れた。
銃弾は、確かに頭部を撃ち抜いたはずだった。
黒い液体が頭蓋の隙間から溢れ、目の奥で何かが崩れ落ちていくように見えた。
だが──それで終わらなかった。
「……え……?」
異変はすぐに訪れた。
その巨体が、軋んだ。
骨が、関節が、耐え切れずに軋み、裂け、悲鳴をあげるような音が空気を満たす。
皮膚の下で何かが暴れ、白い肌が赤く染まった。
血が、吹き出す。
関節から、背骨から、眼窩の奥から。
それでも、大男は倒れなかった。
むしろ、倒れることすら忘れたかのように。
「な……何なんだ、あれは……!」
私は思わず声を漏らす。
明らかに死んでいてもおかしくない致命傷だ。
だが、“死んでいない”。
斧を握る指が軋み、握力が過剰な力で戻っていく。
骨の可動域を越えた動きが生じるたびに、肉が裂け、血が吹き出していた。
それでも、大男は前へ進む。
女狩人は後退しながら、剣を構え直す。
だが、その顔に迷いはなかった。
次の一手を、冷静に、見極めようとしていた。
──その時だった。
「下がれ、エロイーズ!」
鋭い声が、夜の空気を裂いた。
私の視線が跳ねるように動く。
通路の向こう、黒い影が現れた。
一人──いや、五人。
その先頭にいた男は、金属の板を繋いだような胸当てを付けていた。
その手には、巨大な銀細工の大剣。
月明かりの下、それはまるで聖具のように輝いていた。
──ルドウイークの聖剣。
「狩長……!」
女狩人がその声に驚きを乗せた。
狩長は一歩、また一歩と、剣を引きずるように前へ出た。
その背後には、複数の狩人たち。
それぞれが仕掛け武器を手にし、静かに構えていた。
夜風が吹き抜ける。
その音の中で、狩長は言った。
「せめて我らの手で楽にしてやろう。」
そして、大剣を肩から持ち上げる。
「その穢れ、我らが斬り捨てる」
空気が、震えた。
白い巨体が、吠えた。
肉が裂け、骨が軋み、関節が悲鳴をあげている。
けれど、それでも大男は動き続ける。
もはや理性のかけらすら感じさせない。
そんな怪物に、彼らは立ち向かった。
狩長が聖剣を掲げ、短く叫ぶ。
「構えよ!」
その声に応じ、五人の狩人たちが一斉に散開する。
まず、仕込み杖の狩人が前へ出た。
杖を振るいながら──瞬時に、鞭へと変形。
鎖のように解けた刃が空を舞い、白い腕に絡みつく。
「止めている間に──ッ!」
次いで、ノコギリ鉈の狩人が突っ込む。
刃を変形させることなく、手数で押す。
その動きはまるで獣のようだった。
肩、胸、脚へと連続で斬りつけ、肉を裂いていく。
大男が腕を振り上げる。だが、その瞬間──
「撃て!」
三人の狩人が同時に銃を放った。
──パァン! パァン! パァン!
火花が走る。煙が舞う。
仕込み杖の狩人は小型の連発銃、
ノコギリ槍の狩人は旧式の散弾銃、
そして銃槍の狩人は銃口を突き出して、至近距離で火を吹いた。
白い巨体がよろめいた。
そこへ、ノコギリ槍の狩人が躍り出る。
槍はすでに変形し、長く鋭い突きへと変わっていた。
その一撃が、腹部を深く貫く。
血が噴き出し、体が仰け反った。
だが、倒れない。
「まだだ──!」
叫びながら、教会の石槌の狩人が剣を変形させる。
銀の直剣が、巨大な石塊に呑み込まれた。
振り下ろされたそれは、地を揺らすほどの衝撃を伴い、
大男の左肩を叩き潰した。
「う……わ……」
私は声が出なかった。
あの質量の身体があんな風に壊れていくのを見たことがなかった。
だが、大男は、それでも、動いていた。
「下がれ、全員!」
狩長が声を張る。
その声に応じて、狩人たちが一斉に距離を取る。
そして、聖剣を振りかぶる。
長く、美しいその刃が、月光に煌めく。
「教会の名の下に──」
剣が唸りを上げ、
次の瞬間、白い肉体が大地に叩きつけられた。
轟音。土煙。
断末魔のような咆哮が、夜の闇に消えていった。
私は──目を逸らせなかった。
これが、狩人の戦い。
これが、“正義”の剣。
だが。
なぜだろう。
その“正義”が、どこか、怖く見えた。
静寂が戻った。
さっきまで吹き荒れていた咆哮も、
土を裂くような斧の軌跡も、もうそこにはなかった。
白く染まった巨体は、ぐったりと地に伏している。
血を流しすぎた肉体は、まるで別の何かの抜け殻のようだった。
私は思わず息を吐いた。
──終わったのだ。
それでも、誰もすぐには動こうとしなかった。
一人、歩を進めた者を除いて。
狩長だった。
聖剣の柄を肩にかけるようにして、彼は静かに歩いていく。
その足取りには重さがあるが、威圧はない。
周囲の狩人たちは自然に道をあけた。
女狩人の前で、その足が止まる。
彼女は剣を下げていた。
左肩がわずかに揺れている。疲労と、痛みと、そして──緊張。
狩長は、少しだけ目を細めたように見えた。
言葉は遠くて聞こえない。
だが、私は読み取ろうとした。
「……よくやった」
そんな言葉だった気がする。
女狩人は、静かにうなずいた。
だが、次の瞬間。
彼女は、顔を上げて何かを言った。
小さな声だが、はっきりとした意思を込めていた。
狩長の眉がわずかに動く。
その後、彼は頷いた。
何も言わずに。
彼の背が向けられる。
それに合わせて、狩人たちも動き出した。
私は、女狩人の顔を見た。
その瞳は、戦いのときよりもずっと静かで──
ほんの少し、何かをかみしめているようにも見えた。
狩長たちは、何も言わず広場へと戻っていった。
残されたのは、血と肉の匂い、そして沈黙。
その静寂を破ったのは、黒衣の影たちだった。
教会の使い。
顔を深く隠したローブの者たちが、何の前触れもなく現れる。
一人、また一人と。
台車を押し、白く光る刃物を手に携えたまま。
彼らは、大男の傍へと無言で近づく。
その巨体を前にしても、誰ひとり動揺の色はなかった。
ひとりが片膝をつき、血に濡れた肉を調べる。
やがて、何かの合図のように、彼らは刃を振るい始めた。
ズシャ……ズシュ……
音が耳に刺さる。
皮膚が割かれ、筋肉が断たれ、骨が露わになっていく。
巨大すぎるその体は、そのままでは運べないと判断されたのだろう。
彼らはそれを、“解体”して運ぶつもりだった。
腑分けされていく教会の大男。
人の形をしていたものが、肉として処理されていく。
ただの“物”として。
「……どうして、そんなに……」
私は、言葉を飲み込んだ。
そこへ──声がした。
「助けてくれて、ありがとう」
私は肩を震わせ、振り返る。
そこにいたのは、あの女狩人だった。
彼女は私のすぐ傍まで来ていた。
片手はまだ剣の柄に添えているが、刃はすでに収められている。
「……あの青年。」
彼女は、短く言った。
「……あなたが助けてくれて、本当に助かった」
その言葉は、冷静で、飾り気がなかった。
けれど、確かに“人間の声”だった。
血の匂いが満ちた中、私は久しぶりに、
この夜に“人の温度”を感じた気がした。
「本当に、ありがとう」
その一言だけを残して、女狩人は私の前を通り抜ける。
そして、あの青年の傍に膝をついた。
私はその背中を、言葉もなく見つめていた。
彼女は慣れた手つきで鞄を開き、小さなガラス瓶を取り出した。
封蝋に教会の印章。中にはどろりとした暗赤色の液体。
──輸血液。
教会が誇る“奇跡の治療法”。
狩人たちは、それを当然のように使う。
彼女もまた、何の迷いもなく瓶を割り、注射器に中身を移した。
「少し、ちくっとするわよ」
そう言って、針を彼の腕に刺し込む。
液体が、血管へと注がれていく。
彼の体が、わずかに反応した。
彼女の表情に、安堵の色が浮かぶ。
「大丈夫……すぐに意識が戻るはず」
私は、言葉を飲み込んだ。
代わりに、ほんのわずかに眉をひそめてしまったのだと思う。
輸血液──
それを見たのは初めてじゃない。
だが、こうして“流し込まれる”様子を間近で見たのは初めてだった。
血が、別の血を飲み込んでいく。
──それは、本当に“癒し”なのか?
どうしても、そう思ってしまう。
知識では説明できない“違和感”が、肌を這った。
私は学者だ。だからもちろん知っている。
断片的な資料の中で、血に関する記述には必ず何かしらの“歪み”があった。
古い儀式。獣の血。血の聖餐。
それらに共通するのは、“境界を曖昧にする力”だ。
頭の中にある言葉が浮かび上がる。
「かねて血を恐れたまえ。」
その警句は確かに私の記憶としてある。
それでも、狩人たちは迷わない。
彼女の横顔には、少しの不安も見えなかった。
私には、そのことのほうが、何よりも恐ろしく思えた。
輸血を終え、彼女は弟子の顔をじっと見つめていた。
私は一言も発さず、ただその横顔を見ていた。
“あの液体は、本当に癒しなのか?”
その疑問が喉元までこみ上げてきたが──
口にすることはなかった。
代わりに、私は深く息を吸って、静かに言葉を置いた。
「……アラリック。私の名前だ。」
彼女がゆっくりとこちらを見る。
その視線に、驚きも疑いもなかった。
「エロイーズ。狩人よ」
たったそれだけのやりとりだった。
名乗りを交わした後、短い沈黙があった。
広場のほうからは、狩人たちの足音と、教会の使いたちの刃が肉を裂く鈍い音が、まだかすかに聞こえてくる。
その中で、彼女が言った。
「……これから、どうするつもり?」
言葉は淡々としていたが、問いは鋭かった。
まるで、戦いの合間にも相手の心を読んでいるかのような、狩人の勘。
私は少しだけ視線を逸らし、それから答えた。
「……ヨセフカの診療所に、戻るつもりだ。」
私はあそこに戻らなければならない。絶対にだ。
だが今はそこまで言う必要はないだろう。
「……理由は、うまく言えない。でも、確かめたいことがあるんだ」
エロイーズはそれを聞いても、表情を変えなかった。
ただ、ほんのわずかに目を細める。
「……あそこに?」
それが意味するものは、私には分からない。
だが、その一言には、何かが含まれていた気がした。
私は、黙って頷いた。
私の言葉に、彼女はしばらく沈黙していた。
その沈黙は、問いを見定めている時間だったのかもしれない。
やがて、彼女はそっと立ち上がった。
まだ地面に伏したままの弟子を一瞥し、それから私を見た。
「……診療所まで、私が護衛するわ」
私は、思わず目を瞬いた。
「え?」
「テオを助けてくれた。……礼よ」
彼女は淡々とそう言った。
その声には、何の感傷も混じっていなかった。
だがそれは、軽い申し出ではなかった。
狩人としての責任。
そして、何よりも“選ばれた言葉”。
「……ありがとう」
そう答えるしかなかった。
彼女はそれを受けて、少しだけ視線を遠くに向けた。
「でも、ひとつだけ伝えておく」
「……なに?」
「ヤーナムは、もう崩れかけてる。街も、人も、限界よ」
その言葉に、私は自然と背筋を伸ばした。
「ダメだと思ったら、無理はしないこと。引き返せるうちに引き返す。……それが、死なないための基本よ」
短く、はっきりとした言葉。
まるで、剣のように鋭く、そしてまっすぐだった。
私は小さく頷いた。
「わかった。……ありがとう、エロイーズ」
それ以上、何も言う必要はなかった。
ただ、彼女の申し出が
“狩人の恩義”であり、
同時に“人としての誠意”でもあったことだけは、はっきりと分かった。
エロイーズは無言のまま、弟子の体を背負い上げた。
驚くほど軽々と。
私はすぐに後を追う。
石造りの建物が、夕陽を受けてぼんやりと光っていた。
オドン教会。
かつては祈りと救いの場所だったはずのその空間は、
今では狩人たちが傷を癒し、獣から逃れるための避難所になっていた。
扉を開けると、乾いた空気の中に、わずかな煙の匂いが混じっていた。
獣避けの香。
「ここなら、しばらくは大丈夫」
エロイーズがそう言って、布切れを広げる。
その上に、彼女は慎重に弟子の体を横たえた。
私は香炉に火をつける。
くすぶるように立ち昇った白煙が、淡く室内を満たしていく。
教会の窓から差し込む光は、すでに赤みを帯びていた。
夕刻──だが、それ以上は落ちない。
私はずっと違和感を覚えていた。
日が傾いてから、何時間経ったのだろう。
なのに、太陽は沈まない。
夜が……終わらないんだ。
そんな確信が、胸の奥にひたひたと満ちていく。
「……ありがとう、エロイーズ。少し、休もう」
私がそう言うと、彼女はうなずき、壁にもたれて腰を下ろした。
香がほのかに漂う中、
エロイーズは弟子の様子を見ながら、ぽつりと呟いた。
「……“狩人の夢”って、知ってる?」
私は一瞬、彼女の顔を見た。
「……名前だけは。教会の古い記録で少しだけ」
彼女は乾いた笑いを漏らした。
その目は、窓の外の沈まない空を見ていた。
「皆が言うの。“夢の中で目覚める場所がある”って。
狩人が死ぬたびに戻る、祝福された牢獄。
古い狩人の魂たちが集まる、正気と狂気の間にある楽園」
「……でも?」
「そんな都合のいい場所、私は一度も見たことがない。
何人も、仲間が死んでいったけど……誰ひとり戻ってきやしない」
淡々とした声。
けれど、その奥には、何か小さな悔いのようなものがにじんでいた。
私は少しだけ考えた。
そして、そっと問い返す。
「でも……おかしくないか?
日が落ちそうで、落ちない。
さっきから、ずっと“黄昏れ時”のままなんだ」
エロイーズがこちらを見た。
「だからといって、“夢”だと信じたいわけ?」
「……違う。ただ、これは現実じゃない気がする。
何かが……狂ってる。
でも、それに名前をつけるほど、私はまだこの街を深く知らない」
「ふん……」
彼女は鼻で笑って、肩をすくめた。
「なら、知ればいい。
ここが現実かどうかなんて、もうどうでもいいのよ。
獣がいて、人が死んで、誰かが剣を振るう。
それがすべてだわ」
「……冷静だな」
「慣れただけよ。諦めたとも言える」
私は、何も言えなかった。
でもその言葉に、何か救われたような気もした。
現実か夢か。
名前のない夜が、ただ静かに続いていた。
話し終えたエロイーズは、再び弟子の傍らに立ち、無言で様子を見ていた。
私は少し離れた場所で、夕暮れの赤い光を背に彼女の横顔を見つめていた。
「……ん、く……」
かすかな息の震え。
私は立ち上がり、彼に近づいた。
目を閉じたまま、テオの指が微かに動いていた。
そして、しばらくして、ゆっくりと瞼が開く。
焦点が合うまでに、少し時間がかかった。
だが、やがて彼の目はエロイーズを捉える。
「……エロイーズ……?」
その声は掠れていて、浅く震えていた。
だが、それでも彼は目を逸らさなかった。
エロイーズは頷くだけだった。
過剰な言葉も慰めも、彼女には必要なかった。
「……生きてるのか。」
その一言に、思わず私は息を漏らした。
弱り切った声のくせに、彼の目はどこか冴えていた。
「お前は、まだ動くな」
エロイーズが短く告げる。
その言葉に、彼は小さく笑ったような気がした。
「ま、また……怒鳴られるかと思ったけどな……」
「怒鳴る気力もない。おとなしく休め」
「……はは……了解……」
それを最後に、彼の目がまたゆっくりと閉じる。
今度は苦しみではなく、休息の眠りだった。
エロイーズは立ち上がり、静かに息を吐いた。
その動きにも、感情は表れなかった。
けれど私は、彼女の一瞬の視線に
わずかな安堵が宿っていたのを見逃さなかった。
テオの呼吸は落ち着いていた。
彼の額にはうっすらと汗が浮かんでいるが、顔色は先ほどよりもずっと良くなっている。
「しばらくここに置いていく。大丈夫、香があれば獣は近づけない」
エロイーズがそう言って、香炉にもうひとつ香を足す。
白い煙がふたたび立ち上り、空気がぴりりと変わった気がした。
「扉には封をしておく。何かあれば……戻る」
彼女は短くそう言い切る。
その言葉に私は何も返さなかった。ただ頷いた。
私は鞄を開き、持ち物の確認をする。
小瓶──二つ。
筆記具に紙。
触媒──無事。
それだけあれば、なんとかなる。……はずだ。
エロイーズは彼女の仕込み武器を手に取り、
一度変形を確かめるように構え、音を確かめる。
「じゃあ、行くわよ」
その言葉に、私も立ち上がった。
外はまだ夕暮れのままだった。
赤い空は止まり、鳥も飛ばず、ただ風が石畳を撫でていた。
“夜は終わらない”――
その予感は、もう確信になりかけていた。
「診療所は北側よね?」
「……ああ。だけど、橋を渡る必要がある。正門から行くしかない」
「了解」
エロイーズは一言だけ返し、扉に手をかけた。
私はもう一度だけ振り返って、
教会の中に横たわるテオを見た。
「すぐ戻る。」
彼女のその声に、誰も応えなかった。
そして扉が開く。
外の空気が流れ込む。
沈まない夕暮れの街へ、私たちは再び踏み出した。
ブラボらしからぬ集団戦!だけどこの武器にはこんな使い方もあるんじゃないか?と思うと妄想が止まりませんでした笑
他にも色々ありそうですね。トニトルスとかマッサージに使えそうですよね笑