BloodBorne Another story 〜闇を追い求めた者〜   作:カッサバ

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悪夢と真実

沈まぬ夕焼けが、石造りの街を血のように染めていた。

 

私たちは建物の壁際をなぞるように進む。

物音は、驚くほどなかった。

 

「……静かすぎるな」

 

そう呟くと、エロイーズが短く応じた。

 

「そういう時ほど、厄介なのが出てくる」

 

抑揚のない声。経験に裏打ちされた断言。

 

「……まるで、何かを待ってるみたいな感じがする」

 

「勘が利くのね。狩人向き。」

 

皮肉なのか、褒め言葉なのか。

でも声に刺はなかった。

 

歩きながら、私はふと訊かれた。

 

「診療所って、どんな場所?」

 

「……綺麗だけど、落ち着かない。

今思えば何かを……隠してるみたいだった」

 

「なら、その“何か”に気をつけなさい」

 

その一言で会話は切られた。

 

けれど、私はそれを冷たくは感じなかった。

彼女なりの“忠告”だと思った。

 

私たちは、橋へと続く道に差し掛かる。

 

風が吹く。

夕焼けの中、ただ一層、色が深まっていく。

 

夜は近づいているはずなのに──

この街では、それが永遠に来ない。

 

瓦礫の間をすり抜けるように、私たちは無言のまま進んでいた。

ただ、完全な沈黙は、逆に耳を鈍らせる。

 

私は、ほんの少しだけ声を落として口を開いた。

 

「……さっきの戦い、驚いたよ。あの斧の動きを、どうしてあそこまで正確に躱せる?」

 

エロイーズは歩みを緩めず、しばらく沈黙したままだった。

 

「慣れ」

 

それだけだった。

 

だが、私にはそれが単なる謙遜や省略には聞こえなかった。

 

「動きの軌道を読むというのは……経験の話か?」

 

「それもある。でも、見てから反応していたら遅い」

 

「つまり、“来る”と決めて動いている?」

 

「そう。予想じゃない。決め打ち。間違えたら死ぬけど、それでしか生き残れない」

 

私はそれを聞きながら、やはり自分との違いを思い知らされた。

 

私は常に考えてしまう。状況を整理し、根拠を探し、確実な一手を選びたがる。

だが狩人は、それを待ってくれない。

 

「……人間の動きじゃないと思ったよ」

 

エロイーズは、短く鼻を鳴らした。

 

「そう言われたの、何度目かわからないわ」

 

その声に感情はなかったが、どこか現実に馴染みすぎた疲れを感じた。

 

風が止まった。

 

それに気づいたのは、狩人ではなく、私のほうだった。

 

エロイーズは歩を止め、低く呟いた。

 

「……おかしい」

 

「何が?」

 

「空気が変わった。風の流れが逆になってる」

 

私も立ち止まり、周囲を見渡す。

 

路地の先、石畳の隙間に何かが落ちていた。

私は一歩、足を踏み出してそれを拾う。

 

──灰色の、薄くてねばついた何か。

 

粘膜のようで、しかし乾いていて……明らかに、獣のものではなかった。

 

「これは……血じゃないな」

 

「それに触るな」

 

エロイーズが、珍しく語気を強めた。

 

私は驚いて、手を離す。

 

彼女はその液体を見つめてから、視線を上に向けた。

 

「何かが通った。」

 

「獣じゃない?」

 

「違う。……これは、人間とか獣のものじゃないものよ。」

 

そう言った彼女の表情には、わずかな緊張が滲んでいた。

 

これまでのどんな獣の気配を前にしたときよりも、彼女は用心深かった。

 

「構えて。何が来ても、おかしくない」

 

彼女は変形前の獣狩りの剣を静かに抜き、

地面に擦らぬように構えた。

 

私の背中に冷たい汗が伝う。

 

“夜が狂っている”──そう確信するには、十分すぎる予兆だった。

 

空気がねじれていた。

 

先ほど感じた粘膜のような痕跡は、

あれ一つだけではなかった。

 

道の石畳。壁の割れ目。

どこかから、乾いた何かが垂れたような跡が続いている。

 

私は、確かに聞いた。

 

──ひそやかな声。

 

否、音ではない。

耳の奥に染み込むような、理解と形を持たない囁き。

 

思考の奥底を撫でるように、

“見ている”と語りかけてくる気配。

 

「……いる」

 

私の声に、エロイーズが即座に構える。

 

変形前の剣が滑らかに抜かれる音。

周囲に走る静電気のような緊張。

 

「位置は?」

 

「分からない。けど──」

 

言いかけた瞬間、頭の中に針を突き立てられたような痛みが走った。

 

「っ……!」

 

両手で頭を押さえる。視界が二重にぶれる。

景色が揺れ、喉の奥がひどく乾いた。

 

そのときだった。

 

路地の奥、建物の隙間から“それ”が現れた。

 

人のようで、人ではない。

頭部は膨張し、顔は溶けかけたように歪み、

その奥に黒い、底のない瞳。

 

その目は──まっすぐに、私を見ていた。

 

「っ、脳喰らい……!」

 

エロイーズの声が低く唸る。

 

それは私に向かって、すう……っと手を伸ばしてくる。

 

何の音もなく、ただ確かに“精神”を引きずる感触だけが迫ってきた。

 

理屈ではなく、私は直感した。

 

──こいつは、私の中の“何か”を喰おうとしている。

 

“それ”の目が、私に向けられている。

 

意識を触れられているような、

思考の奥を探られているような──そんな感覚。

 

私は思わず一歩退いた。

 

「下がってろ、アラリック」

 

エロイーズが、すっと前に出た。

 

その背は、異様な存在の前でもまったく揺らがなかった。

 

「……あれは、獣じゃない。眷属だ」

 

「眷属……?」

 

彼女は剣を軽く構えながら、短く続けた。

 

「かつて人だったもの。だが、何かに触れて、変質した存在。

理を喰い、形を失いながら、なお“人間”だった面影だけを保っている。」

 

その言葉に、私の背筋が冷えた。

 

つまり──

目の前の“それ”は、私の中の“理解”を感じ取って寄ってきた。

 

「……眷属というのは、“神に近づいた者のなれの果て”ということか」

 

私は、目の前のそれを見つめた。

 

膨らんだ頭部、崩れた顔、

何より、あの目──それは何かを見ていた。私の中を、確かに。

 

「……では、神に近づいた代償か。なら、知識を得るということは──」

 

私はそこまで言って、口をつぐんだ。

 

言葉にすれば、それは“真理”になる。

そしてそれは、取り返しのつかない何かを招くかもしれない。

 

エロイーズの剣が、静かに鳴った。

 

「考えるのは後にしなさい。……今は、生き残る」

 

それが、狩人の流儀だった。

 

空間が、ねじれている。

視界の端がぼやけ、脳喰らいの気配が宙を滑るように近づいてくる。

 

エロイーズは、それでも一歩踏み込んだ。

 

ショートソードの柄を握りしめ、

その身を沈めるように構える。

 

「来い……」

 

脳喰らいが動いた。

裂け目から放たれた光弾が、青白い軌跡を描く。

 

彼女は地面を蹴る。

その動きは獣のように鋭く、直線的で迷いがなかった。

 

すれ違いざまに刃が閃く。

 

──ジャッ!

 

ショートソードの斬撃が脳喰らいの腹部を裂く。

返すようにもう一撃。

彼女の体は回転し、腰の捻りごとに刃が連なる。

 

「……っ!」

 

だが、脳喰らいは怯まない。

足を使わず、滑るように距離を詰め、両腕を開く。

 

掴みに来る──

その動きは、人間の範疇を逸脱していた。

 

エロイーズは即座に剣を逆手に持ち替え、

そのまま変形機構を起動させる。

 

──ガシャッ!

 

ショートブレードの中心がスライドし、凹みが露出。

瞬時にロングソードが展開される。

 

変形の勢いそのものを利用し、

回避からの一撃が脳喰らいの側頭部を打ち抜く。

 

「……っ!」

 

ぬるりとした音。だが、手応えは確かにあった。

 

彼女はさらに一歩踏み込む。

片手で剣を引き、脇から斜めに振り払う。

 

金属の唸りと共に、斬撃が空間を断ち割る。

脳喰らいの片腕が、異常な動きで千切れ、地に落ちた。

 

だが──

 

その断面は、血を流すことなく、ただ粘液のように蠢いていた。

 

「……厄介ね」

 

エロイーズは短く吐き捨てる。

剣を再び短く折りたたむように戻し、

素早い切り返しへと備える。

 

変形の動きすら、戦術の一部として織り込まれている。

 

それが、教会工房の技術を知り尽くした狩人の戦い方だった。

 

だが、“それ”はまだ終わっていなかった。

 

彼女の声に、焦りはなかった。

ただ、目がわずかに細くなった。

 

──冷静なまま、次の斬撃を読む狩人の目だ。

 

私は、その背中を見つめながら、

ようやく、自分が“何を見ているのか”を理解し始めていた。

 

これは、命のやり取りではない。

“異常”と“人の矜持”のぶつかり合いだった

 

エロイーズの剣が再び火花を散らす。

 

だが、その一閃の直後──

脳喰らいの首が、静かにこちらを向いた。

 

……目が合った。

 

いや、違う。

奴の目は、私の目を見ていない。

 

“内側”を覗いている。

思考の奥、意識の最深部──そこに潜む何かを。

 

「……来るな」

 

思わず後退しかけた瞬間、

脳喰らいは地を滑るように跳躍してきた。

 

エロイーズの斬撃を無視するかのように。

音もなく、確信を持って──私へ向かって。

 

足が、震えた。

身体が言うことを聞かない。

逃げなければ。分かっているのに──

 

「ッ、離れ──!」

 

エロイーズの声が届くと同時に、

奴の両腕が、私を掴みに伸びていた。

 

時間が、止まったようだった。

 

──その時。

 

鞄の中で、何かが蠢いた。

 

──コトン、と小さく鳴る瓶の音。

私は反射的に、それを取り出していた。

 

胎なる精霊──

瓶の中で沈殿していたはずの“それ”が、淡く脈打っていた。

 

それを見た瞬間、思考のどこかが崩れた。

 

「────ッ!」

 

声にならない叫びが喉を突き抜け、

次の瞬間、脳喰らいの腕が、何か“見えないもの”に押し返された。

 

空間が歪む。

いや、空間そのものが“陥没”したように見えた。

 

その中心に──私は立っていた。

 

何もしていない。だが、“力”が発動していた。

 

頭上から、小さな彗星のような光の粒が舞い降りる。

 

それはやがて速度を増し、

脳喰らいの膨れた頭部に、音もなく衝突した。

 

──ズ、ッ!

 

鈍い圧と共に、頭部が歪む。

光は一点で炸裂し、灰のような残滓が空中に散る。

 

私は、初めて気づいた。

 

これは──「神秘」ではない。

もっと、根の深い、“何か”だ。

 

「これに……こんな力が……」

 

手が震えていた。

 

けれど、瓶の中の精霊は、脈打つことをやめていなかった。

 

エロイーズが、息を飲んだような声で言った。

 

「それ……いまの力、どこで……」

 

私は答えなかった。

 

「……死んだな」

 

エロイーズの声は、静かだった。

 

戦いの余熱がまだ残る空気の中で、

彼女は一歩、私の方へと歩み寄る。

 

「……今の、“あれ”は何」

 

私は何も言えなかった。

 

手に握ったままの瓶を見下ろす。

中に沈む“精霊”は、先ほどの光を放つような動きはもうしていなかった。

ただ、脈動をやめた代わりに──どこか満足したような沈黙があった。

 

「アラリック」

 

エロイーズの声が、少しだけ低くなる。

 

「私は……今まで、あんなものを見たことがない。

あれは狩人の技とも違う。もっと異質なもの……何を使ったの?」

 

問い詰めるというより、それは確認のための問いだった。

 

彼女は、敵ではない。

ただ、隣に立つ私が“何者か”を見極めようとしていた。

 

私は唇をかすかに動かし──

 

「……胎なる精霊、というものらしい。

ビルゲンワースでも……その存在は、記録の奥底にしかないはずの……異質な存在だ」

 

「それを、どうやって?」

 

「……拾ったんだ。診療所の書架の奥で。

そのときは、ただの奇妙な標本だと思っていた」

 

嘘ではない。

けれど、本当のすべてもまだ語るには早い気がした。

 

エロイーズは黙ったまま、瓶を見つめていた。

 

そして、ほんのわずかに息を吐く。

 

「……なるほどね。そいつのせいで、あれが君を狙った」

 

「……そうかもしれない」

 

「じゃあ……余計に、君から目を離せないな」

 

彼女は背を向けた。

だが、剣の柄から手を離さなかった。

 

私は──そのことに、言いようのない安心を覚えていた。

 

脳喰らいの亡骸を一瞥して、

エロイーズは何も言わずに歩き出した。

 

私も瓶を鞄へと収め、後を追う。

 

再び、街道へ。

診療所へと続く道は、まだ遠い。

 

だが、その道中で──私たちは、幾度となく“出会った”。

 

獣と化しかけた人々。

曲がり角の先に立ち尽くす獣性の男たち。

血に狂った群衆。

 

だが、エロイーズは一度も足を止めなかった。

 

仕込み剣が音を立てるたびに、一つ、また一つと肉が裂ける。

変形の金属音と、淡い閃光。

斬撃の間合い、狙い、捌き──どれも狂いがない。

 

刃は流れるように獣の首筋を切り裂き、

次の瞬間にはすでに別の敵を見据えていた。

 

私はただ、後ろからついていくしかなかった。

 

まるで、この街の地図が彼女の中にあるかのように。

 

そして、気づいた。

 

私にとっては命がけの一歩一歩も、

彼女にとっては“ただの掃除”に過ぎないのだと。

 

「……これが、狩人の実力か」

 

呟いた声は、誰にも届かず、

沈まない夕焼けの風の中に消えていった。

 

静かだった。

 

先ほどまで、怒号と悲鳴がこだましていたはずの街が、

まるで息を潜めたように沈黙していた。

 

夕焼けは、まだ落ちていない。

まるでこの時間だけが、ずっと止まっているかのようだった。

 

そして、曲がり角を抜けたとき。

 

見えた。

 

──診療所。

 

高い門扉、石造りの外壁、

見慣れた、はずの建物。

 

けれど、何かが違って見えた。

 

空気が、重い。

ただの建物なのに、視線を刺すような圧力がある。

 

「……あそこが、君の言ってた場所か」

 

エロイーズが問いかける。

 

私は無言で頷いた。

 

懐かしさはない。

帰ってきた、という実感もない。

 

あるのはただ一つ、

“確かめなければならない”という焦燥だけ。

 

「……どうする?」

 

エロイーズの問いに、私は少しだけ息を吸って答えた。

 

「……入る。私の疑問は、すべてあの中にある」

 

剣を握り直す音が聞こえた。

 

彼女は私を見なかった。

ただ、その背で、狩人としての覚悟を伝えていた。

 

そして──私たちは、門の前に立った。

 

もう、後戻りはない。

 

再び風が止まった。

 

静寂の中、ぬるりと現れたのは──脳喰らい。

一体ではない。

石壁の陰、屋根の上、両側の路地……

四体が、無音のまま私たちを見ていた。

 

私は言葉を失った。

 

「……君に反応してる。間違いない」

 

エロイーズの声は淡々としていた。

すでに剣を抜いて、足元を見据えている。

 

「ここは私が引き受ける。君は、診療所へ行きなさい」

 

「でも……!」

 

「大丈夫。深追いはしない。ある程度相手を引きつけたら、すぐに戻る」

 

彼女は私を見た。

 

「……聖堂街へ戻る。弟子もいるし、まだやることがある」

 

それは、約束ではなかった。

 

けれど、確かに“帰る意思”だった。

 

私は、その言葉にほんのわずかだけ安心して──

だからこそ、ちゃんと返した。

 

「……分かった。気をつけて」

 

「君も」

 

最後の言葉を残して、彼女は剣を変形させる。

 

ガシャリ、と金属音が空気を裂く。

 

私はその場を駆け抜ける。

振り返らない。

 

彼女が“帰る”と言ったのだから──

私は、前を向く。

 

門をくぐった瞬間、空気が変わった。

 

さっきまで聞こえていた風の音、獣の咆哮、剣戟の響き──

そのすべてが、どこか遠くへ引き剥がされていくようだった。

 

診療所の敷地内は、静まり返っていた。

 

石畳に足音だけが響く。

見慣れたはずの中庭。

けれど、記憶よりも色が浅く、輪郭がぼやけて見えた。

 

扉が、目の前にある。

 

あの重い扉──

私が何度も出入りした、はずの場所。

 

手を伸ばす。

取っ手に触れ、力を込める。

 

……動かない。

 

鍵が、かかっている。

 

「……っ」

 

無言で叩く。

だが、反応はない。

 

数秒、躊躇して──私は叫んだ。

 

「ヨセフカ! そこにいるんだろ……!?」

 

沈黙。

 

もう一度、扉に手を当てる。

 

「……ヨセフカ。私だ。アラリックだ。……帰ってきた」

 

その言葉が、空気に溶けていく。

 

返事は、まだない。

 

それでも私は、扉の前から動けなかった。

 

ただ、その向こうに──

彼女がいると、確信していた。

 

沈黙が、長く続いた。

 

扉に手を当てたまま、

私はその向こうからの何かを、ただ待っていた。

 

すると──

 

「……なぜ、帰ってきたの?」

 

くぐもった声が、扉の向こうから聞こえてきた。

 

確かに、彼女の声だ。

 

ヨセフカ。

 

その声には、驚きも、喜びも、怒りもなかった。

ただ、静かに疑問だけが置かれていた。

 

「……アラリック」

 

彼女は名を呼んだ。

だが、距離があった。

すぐそこにいるはずなのに、遥か遠くから届くような、静かな声。

 

「あなたは……もうここには戻らないはずだった」

 

私は返す言葉を探す前に、もう一度だけ、扉に手を押しつけた。

 

「僕は……確かめなきゃならないんだ。

あの夜、診療所を出た理由も、僕が“何者なのか”も」

 

少しの沈黙。

 

扉の向こうで、彼女が息を吸ったのが分かった。

 

「……知るべきじゃなかったことまで、知るつもりなの?」

 

その声は、確かに震えていた。

 

警戒と不安と──

それでも、どこかに私を覚えている気配があった。

 

私は言った。

 

「すでに、知ってしまったこともある」

 

「……なら、覚悟して入ってきなさい」

 

鍵が、カチリと音を立てた。

 

私は息を飲む。

 

扉にかけていた手に、わずかに力を込める。

 

押すと、鉄の蝶番が軋む音とともに、

扉はゆっくりと開いた。

 

一歩、足を踏み入れる。

 

空気が、変わった。

 

外の冷たい空気が閉ざされ、

代わりに肺を満たすのは、懐かしさと嫌悪の入り混じった薬品の匂い。

 

照明は落とされておらず、

廊下の奥へと連なる灯りが、ぼんやりと白く灯っている。

 

足音が、反響する。

 

整然と並んだ棚。

見覚えのある絵画。

扉の位置、窓の形、床の擦れ跡──

すべてが、記憶と重なる。

 

けれど、そのどれもが“わずかに違って”見えた。

 

私がここにいたのは、つい最近だったはずなのに。

まるで何年も昔のことのようだ。

 

奥の廊下。

そこに、気配がある。

 

彼女は姿を見せない。

 

だが、感じる。

 

「……ヨセフカ」

 

名を呼んでも、返事はない。

 

廊下をゆっくりと進む。

 

照明の光は冷たく、

壁に掛けられた額縁や、並んだ器具の影が、私の足音と共に揺れていた。

 

懐かしさはあった。

でも、今の私は、その懐かしさに寄りかかることができなかった。

 

──風が、吹いた。

 

どこからか、かすかな空気の流れが生まれた。

 

カーテンが、ひとつ、はらりと揺れた。

 

その向こうに──人影が現れた。

 

私は息を飲む。

その立ち姿に、見覚えがあった。

 

白衣。

整えられた銀髪。

疲れたような肩の落ち方。

 

──ヨセフカ。

 

彼女は、私の存在を確認するように目を細め、

そして、ふっと表情を歪めた。

 

悲しみがにじんだその顔に、怒りも恐れもなかった。

 

ただ、確かに──彼女は泣きそうな顔をしていた。

 

何かを言おうとして、けれど言葉は出てこない。

声を飲み込んだまま、彼女はただ私を見ていた。

 

私もまた、声が出なかった。

 

この扉の先にいたのは、“医師”ではなかった。

 

“何かを隠し続けた女”でも、“秘密の番人”でもなかった。

 

あのとき、私をここに閉じ込め、

そして解き放った人物。

 

──ヨセフカだった。

 

ヨセフカは、ゆっくりと歩み寄ってきた。

 

カツ、カツとヒールの音が診療所の石床に響くたびに、

私は背筋が冷たくなるのを感じた。

 

彼女はすぐ目の前で足を止め、

銀のポニーテールを揺らしながら、私を見下ろす。

 

そして言った。

 

「……後悔はしていないわ」

 

その声は、冷たくも優しくもなかった。

ただ、“事実”だけを置く口調だった。

 

「なら、話してくれ。……私は、何者なんだ」

 

私の問いに、彼女は目を伏せることなく、淡々と語り始めた。

 

「あなたは、どこかの貴族の家から攫われた子よ。

ううん──“迎えられた”と言った方が、正しいかもしれない」

 

「……何?」

 

「先代のこの診療所の主人がね、探していたの。

“接続しやすい器”を。夢と、そして……悪夢と繋がれる存在を」

 

彼女の言葉の意味が、すぐには理解できなかった。

 

「あなたの他にも、何人もの子供たちがいた。

皆、奇妙な薬を投与されながら育ったわ。

そして──『学徒』としての教育を受けた。

ビルゲンワースの記憶を植え付けられて、あたかもそこにいたかのように」

 

私は凍りついた。

 

「……嘘、だろ」

 

「……その感覚は本物よ。あなたの意識は、確かに夢の中で学んだ。

そしてその夢は、“かつてのビルゲンワースの教室棟”と深く繋がっていた」

 

私は震える手で鞄を握った。

 

「どうして……そんなことを……」

 

「医療教会の依頼よ。

かつてのビルゲンワースの知識は、いまやほとんど失われた。

でもそれを取り戻したい人たちがいた。どんな手段を使ってでもね」

 

沈黙が落ちる。

 

「……君も、その手伝いをしていたのか」

 

「私は──後を継いだだけ。あなたが残されていたから」

 

彼女はそう言って、微かに笑った。

でもその目は、まるで泣き出す寸前のようだった。

 

「アラリック。あなたが“学徒”だという記憶は、ある意味で正しいの。

でも、現実のあなたは……診療所で、夢と薬に繋がれて育った実験体」

 

私は言葉を失った。

 

──けれど、その言葉が真実であることを、どこかで確信していた。

 

胸の奥で、何かが崩れた音がした。

 

「……嘘だ」

 

声が震えた。

 

「じゃあ……私の学びは?知識は?

ビルゲンワースで過ごしたあの時間は、全部──」

 

言葉が喉で詰まった。

吐くように、私は叫んだ。

 

「──全部、幻だったのか!!」

 

診療所の壁に声が反響する。

私の怒りとも悲しみともつかぬ叫びが、

白く整えられた空間を無残に汚した。

 

「私が覚えてる友人たちは?

教授たちは? 共に学んだ教室は?!」

 

呼吸が荒くなる。

視界が滲んで、壁が歪んだ。

 

「私はずっと、学徒であることに誇りを持っていた……

なのに、それすら与えられた幻想だというのか……?」

 

ヨセフカは動かなかった。

ただ、私の言葉を静かに聞き続けていた。

 

「……その通りよ」

 

短く、肯定された。

 

私は、崩れそうな足取りでヨセフカに近づいた。

拳を握って、怒鳴ることもできた。

でもその代わりに、私は小さく呟いた。

 

「……じゃあ、私は……なんだったんだ」

 

その問いに、彼女は初めて優しく目を細めた。

 

「アラリック。あなたは──唯一の成功例だった」

 

「……何?」

 

「夢へと“物理的に接続できる”存在。

自我を保ったまま、意識だけでなく、身体をも夢の中へ持ち込める存在。

そういう子を、ずっと彼は探していたの。」

 

彼女の声は、まるで医師が臨床報告を述べるような冷静さだった。

 

「他の子たちは、夢の中で壊れたわ。

脳が耐えきれなかった。

でも、あなたは違った。

あなたは“理解”したの。

夢の理を、受け入れてしまったのよ。恐れることなく」

 

私の喉がひりつく。

それでも、彼女は静かに続けた。

 

「あなたは、失敗作じゃない。

この街に存在する“異常”のすべてが、あなたの中に宿っていても、

それでも自分のままでいられる。

あなたは、学徒だったという記憶を信じきった。だからこそ、そこに立っていられるの」

 

「……皮肉な話だな」

 

私は自嘲した。

けれど、その声にはもう怒りはなかった。

 

ただ──壊れそうな自分を、言葉で支えていた。

 

「だったら……私は、何を信じればいい」

 

ヨセフカはほんの一瞬だけ黙り──

 

「“今のあなた”を信じなさい。

夢が始まりだったとしても──そこに戻ることも、進むこともできるのは、あなただけよ」

 

ヨセフカは静かに、割れたガラス瓶を私に差し出した。

 

それは明らかに“破裂した”痕跡を持っていた。

内側から砕けたように、ガラスの縁は内向きにひび割れている。

瓶の内側には、乾いた血と粘液のような薄い膜がへばりついていた。

 

「……それは…?」

 

「ええ。失敗作の一つ。

こんなふうに壊れるまで、何度も繰り返された」

 

私は無意識に、鞄に手を伸ばしていた。

瓶の中の“それ”──胎なる精霊は、今も静かに沈んでいる。

 

ヨセフカはその視線を追い、わずかに頷いた。

 

「……あなたが持っているそれは、他のと違う」

 

「違う?」

 

「痕跡がないのよ。

普通なら、胚を加工する過程で生じた癒着や、薬液の滲みがあるはず。

けれどそれには、何もない。まるで──過去からそのまま抜き出されたみたいに」

 

その言葉に、私は微かに目を見開いた。

 

「それが“何か”は、今も分からない。

でも……私は、それを“上位者が求めた赤子”と仮定していた」

 

私は瓶の重みを感じながら、

その言葉の意味を、深く、重く、胸の奥で受け止めていた。

 

「精霊は、何度も生成された。

人の胎を使って、寄生虫を埋めて、育てて……

でもほとんどは失敗した。

壊れて、弾けて、発狂して、消えていった」

 

ヨセフカは瓶を見つめたまま、ぽつりと呟いた。

 

「覚えているかしら……私があなたを、初めて“悪夢”に送ったときのこと」

 

私は息を呑む。

 

彼女は続ける。

 

「そのとき、あるものを持たせていたわよね。

……特製の、輸血液。私が自分で調合したもの」

 

記憶が、じわりと蘇る。

 

夢の中、あのねじれた城で──

私はその小瓶を落とした。瓦礫の隙間に転がり、見失って……

結局、戻ってはこなかった。

 

「……無くしてしまった」

 

「そう。あなたは、夢の中で失くした。

そして現実でも、跡形もなく消えていた」

 

私は彼女の目を見つめ返す。

 

「まさか、それをきっかけに──?」

 

「ええ。仮説を立てたわ」

 

彼女の声は、変わらず冷静だった。

 

「あなたが夢に“意識”だけでなく、“物理的に”踏み入っているのなら──

逆もまた、可能なのではないかと」

 

私はその意味を、瞬時には理解できなかった。

 

「つまり……夢の中の“もの”を、現実に持ち帰れる、と?」

 

「その通り」

 

ヨセフカは静かに頷く。

 

「そしてあなたが戻ってきたとき、手にしていたのが……それ。

“胎なる精霊”」

 

瓶の中のそれは、何の主張もせず、ただ揺れていた。

 

けれど、その存在が今ここにあるということ──

それこそが、夢と現実を繋ぐ“証拠”だった。

 

私は、思わず呟いていた。

 

「……そんなことが、本当に……」

 

「ええ。あなたなら、できてしまうの」

 

それは断言だった。

優しさでも希望でもなく、ただ事実として。

 

私は、いま自分がどこにいるのかさえ分からなくなっていた。

 

現実の床を踏みしめているはずなのに、

感覚だけが、何処か遠い夢の中にいるようだった。

 

ヨセフカは壁際の器具棚に歩み寄り、

ラベルも貼られていない小瓶を一瞥する。

 

「……あなたの夢は、私が作ったのよ」

 

私は言葉を失った。

 

彼女は、何の感傷もなく続ける。

 

「投与する薬剤の種類と濃度を調整することで、

夢の“行き先”はある程度コントロールできる。

あなたが“ビルゲンワースから逃げた”と感じるように構成した。

そうすれば、夢の中の記憶に反動が生まれる。

本当に手放したくないものが、現れるはずだから」

 

「……“胎なる精霊”を、引き出すために?」

 

「ええ。結果的に、あなたは持ち帰った。

つまり──私の仮説は正しかった」

 

私はそれを聞きながら、ふと湧いた疑問を口にした。

 

「……じゃあ、なぜそのまま私をヤーナム市街に送り出した?

“それ”を回収するチャンスはいくらでもあったはずだ。

なのに、なぜ?」

 

ヨセフカの背がわずかに揺れる。

 

彼女は振り返らずに答えた。

 

「……憐れみかもしれない。

あるいは、最後の実験だったのかもしれないわ。」

 

声はかすかに掠れていた。

 

「あなたが自分の意志で行動し、選択し、どこまで“人間でいられるか”──

見てみたかった。

研究の結果としても、半分だけど育ての親としても」

 

彼女はようやくこちらを振り向いた。

 

「私は、あなたに何も教えられなかった。

でも……見届けたいと思ったの。

それが、憐れみでなければ、何だったのか……今でもわからないわ。」

 

私はその言葉をどう受け止めればいいのか分からなかった。

 

けれど、そこにだけは嘘がなかった。

 

たとえ動機が実験でも、

そこにほんの少しでも“私個人”を見ていたのなら──

 

私はその矛盾ごと、ヨセフカという人間を見つめていた。

 

その余韻がまだ空気に残っていたとき──

背後の扉が、ゆっくりと音を立てて開いた。

 

私は振り返る。

 

そこに、もう一人のヨセフカが立っていた。

 

白衣。

銀髪のポニーテール。

優しく整った表情。

そのすべてが、今ここにいるヨセフカと瓜二つだった。

 

けれど──私は、すぐに理解した。

 

その“優しさ”には、体温がなかった。

 

「こんばんは。お久しぶりね。アラリック。」

 

声も、優しい。

だが、どこか空虚だった。

 

まるで、

“誰かの真似をしている人形”が言葉を発しているかのように。

 

「よかった。あなたが胎なる精霊を持ち帰ってくれて、本当に……うれしいわ」

 

笑みを浮かべながらそう言ったその口元が、ほんのわずかに歪んで見えた。

 

ヨセフカ──本物の彼女は、息を詰めて目を見開いていた。

 

「……あなた……」

 

「お話はあとで。まずは、それをお預かりしましょう。」

 

視線が、私の鞄へと向かう。

 

「……その子は、私たちがずっと待っていた“赤子”ですもの。

ねえ、アラリック。

あなたも、きっと分かってくれるわよね?」

 

優しく、穏やかな口調だった。

 

でもその言葉の一つひとつが、

心の奥を、氷の指先でなぞるように冷たかった。

 

私は、返事ができなかった。

 

私は一歩、無意識に後退しかけた。

 

その瞬間、目の前に白衣が飛び込んでくる。

 

──ヨセフカだ。

 

私と偽者の間に、彼女が立ち塞がっていた。

 

背筋を伸ばし、震えひとつ見せないその姿に、

私は言葉を失った。

 

「アラリック──逃げなさい」

 

彼女は私の方を振り返らない。

 

その声は、静かで、でも明確だった。

 

「ここで“それ”を奪われてしまえば、

あなたは……何のために夢を歩いてきたのか、分からなくなる」

 

「でも……!」

 

「お願い。行って」

 

その背中に、私の声が届く前に──

彼女は囁いた。

 

「それが、私にできる……せめてもの、罪滅ぼしなのだから」

 

私は、言葉を失った。

 

あの冷静だったヨセフカが、

自分の行いに対して、初めて“答え”を出した瞬間だった。

 

彼女の白衣が、揺れた。

 

その向こう側で、偽ヨセフカはまだ微笑んでいた。

 

「あなた、随分と情緒的ね。……それとも、これはあなたなりの実験?」

 

ヨセフカは答えなかった。

 

ただ、私のためにそこに立っていた。

 

私は──

その背中を、今度こそ、振り返らずに見送るべきだと分かっていた。




…いかがでしたか。
アラリックの真実…。
なんだか書いてて悲しくなりました。本物のヨセフカ。本編ではちょっとだけ影が薄かった(薄くない)彼女がどのようにして偽物と入れ替わったのかを私の作品に絡めて描写してみました。
あと気がついた人がいるかはわかりませんがあの輸血液を落としたくだりはメンシスの悪夢に彼女特製のそれがあったという我的伏線回収になってます笑
初見で気がついた方がいたらまじでブラボマスターですよ!!笑
では次の話でお会いしましょう!!
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