BloodBorne Another story 〜闇を追い求めた者〜   作:カッサバ

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深き森を抜けて

進むにつれ、森の音が──変わった。

 

それは風でも鳥でもなく、

ただ、何かが“擦れる”ような音。

 

──金属と、土の摩擦。

 

私はすぐに身を低くし、

腐りかけた倒木の陰に隠れた。

 

視界の先。

 

木々の合間を、一つの影がゆっくりと歩いていた。

 

背は高くない。

衣も、どこかの村人のものと大差ない。

 

──だが、動きがおかしかった。

 

片足をひきずるように、

そして、右手に持った斧を地面に引きずったまま歩いていた。

 

刃が石を擦るたび、耳障りな金属音が響く。

 

顔は見えない。

 

頭には、粗末な頭陀袋が被されていた。

縛り紐が緩み、布が揺れている。

 

最初、それはただの外套の一部に見えた。

 

だが──その布の下、頭の形が静かにうねっていた。

 

形が変わる。

膨らみ、沈み、またわずかに波打つ。

 

それは、まるで内部に“蛇”が這いまわっているかのようだった。

 

私は息を止めた。

 

その者は、音を立てずに歩き続け、

森の奥へと消えていった。

 

──蛇憑き。

 

私は確信した。

 

人の姿を保ちながら、

人ではないものに蝕まれた存在。

 

それが今、あの森に息づいている。

 

「……理など、どこにもない」

 

思わずこぼれたその言葉が、

森の闇に、溶けていった。

 

蛇憑きの足音が遠ざかっていく。

 

私はもう一度、辺りを見回した──

そして気づいた。

 

少し離れた斜面の上、

木々の間に、白い布がちらついた。

 

私は息を呑み、静かに身を低くする。

 

そこにいたのは──

偽ヨセフカだった。

 

彼女は私に気づいていない。

顔を伏せたまま、森の地面を見つめ、

何かを必死に探しているようだった。

 

その姿には、

あの診療所で見せた冷静さはなかった。

 

髪は乱れ、

白衣には血が滲み、乾きかけた泥が付着している。

 

歩き方も荒く、

手袋の指先は土に擦れて黒ずんでいた。

 

「……いない……どこにもいない……」

 

その唇が、震えながら言葉を紡いでいた。

 

「胎なるもの……私の中に……

どうして……なぜ、“私”には、宿らないの……?」

 

かすかに聞こえたその声に、

私は思わず背筋を凍らせた。

 

あれは、

“追跡者”の声ではなかった。

 

まるで、

“奪われた母”のようだった。

 

いや。違う。

それは──母になれなかった者の、渇望だった。

 

彼女は、胎なる精霊を探している。

 

ただそれだけのために、

森を彷徨い、血を流し、焦り続けている。

 

私はそっとその場を離れた。

 

彼女に気づかれぬように。

 

この森では、

執念すらも獣に似ていく。

 

私は岩陰に身を潜めたまま、その光景を見ていた。

 

偽ヨセフカの前に、森の影から一体の蛇憑きが姿を現した。

 

──まるで、呼び寄せられたかのように。

 

蛇憑きは最初、静かだった。

ゆっくりと斧を引きずりながら近づいてくる。

 

彼女は動かない。

 

その距離が一歩ずつ詰まった、その瞬間──

 

蛇憑きの頭部が“裂けた”。

 

袋の中でうねっていたものが、

音もなく皮を破り、数十本の蛇となって飛び出した。

 

牙が銀に光る。

 

それは、まるで血の匂いに飢えた弾丸のようだった。

 

しかし──彼女は冷静だった。

 

一歩、横へ流れるように身を滑らせる。

 

そして、

白衣の内側から仕込み杖が抜かれた。

 

細身のその杖は、音もなく伸び、

しなやかな鞭のように振るわれた。

 

パシィン──!

 

空気が裂ける音と共に、

蛇の一匹が吹き飛ぶ。

 

彼女はもう一度、足を止める。

 

杖が変形した。

 

鞭のようだったそれが、今度は鈍い銀色の杖となって構えられる。

 

彼女は静かに、首を傾けた。

 

「……あなたでは、ないのよ」

 

その言葉に、情はなかった。

 

次の瞬間、彼女は飛び込んだ。

 

蛇たちが突進する。

 

彼女はそれを正面から打ち据えた。

 

刺突。切断。粉砕。

 

動きは無駄がなく、情け容赦もなかった。

 

むしろそれは、優雅ですらあった。

 

だがその刃には、明らかに何かがこもっていた。

 

まるで──

自分の焦燥を、

“八つ当たりのように”吐き出すかのように。

 

蛇憑きの胴が真っ二つになった瞬間、

その頭部の蛇たちが一斉に悲鳴のようなうねりを上げて崩れた。

 

血が飛び散り、

森の一角が再び沈黙に包まれた。

 

彼女は刃についた血を振り払い、

また、何もなかったように歩き出した。

 

──ここは危ない…。

 

そう思って、私は少しだけ身体を引いた。

 

そのとき。

 

パキィッ……。

 

乾いた音が、足元から走った。

 

枯れた木の枝。

 

沈黙の森に、その音がまるで叫びのように響いた。

 

息を呑んだ。

動けない。

 

そして──彼女が、止まった。

 

血に濡れた仕込み杖を手に、

白衣の背中がぴたりと静止した。

 

首がゆっくりと動き、

音のした方向──つまり、私の潜む木陰を振り向く。

 

その動きに、人間らしさはなかった。

 

まるで、

“視線”という概念すら超えて、

音そのものに本能が反応したかのような、研ぎ澄まされた挙動だった。

 

私は息を止め、石のように硬直した。

 

そして彼女の顔が、完全にこちらを向いた。

 

銀髪。血に染まった白衣。

表情は、微笑のまま。

 

だがその目には、

見つけたという光が、確かに宿っていた。

 

「……アラリック、かしら?」

 

その声は、優しかった。

それが、余計に恐ろしかった。

 

だがまるで昔から私を知っていたように優しかった。

 

私は、返事ができなかった。

 

彼女は一歩、ゆっくりと歩み寄る。

 

血が滴る白衣を、風が揺らす。

私の存在はバレてしまっているのだろう。ならばと私は岩陰から身を乗り出す。

 

「驚かせてしまったかしら。……でも、大丈夫よ。

私は、あなたに傷一つつけたいわけじゃないの」

 

彼女の目が、鞄に向けられる。

 

「ねえ……その子。

胎なるものを、渡してくれない?」

 

私は無意識に、鞄を背に庇った。

 

彼女は笑った。

 

それは穏やかで、微笑みで、

それでいて──底なしの飢えがあった。

 

「大丈夫。

あなたと私で、正しく“産む”のよ。

そして私たちは上位者に伍するのよ。」

 

私は絶句した。

 

彼女の目は狂っていなかった。

 

むしろ、あまりに澄んでいて、

その透明さが恐怖よりも先に吐き気を呼び起こすほどだった。

 

「あなたも、感じているでしょう?

その子は……もうすぐ“外”に出ようとしてる。

なら、一緒に迎えてあげましょう? ねえ、アラリック──

あなたの体はまだ“機能している”のでしょう?」

 

私は、初めて一歩後ずさった。

 

彼女の笑みは変わらなかった。

ただ、その足音だけが、確実に距離を詰めてきていた。

 

「ねえ、アラリック……

あなたがまだ夢に囚われていた頃──

私は、ずっと、あなたを見ていたの」

 

彼女は一歩、また一歩と近づいてくる。

 

その声音は、

まるで恋人が昔話を語るときのように優しかった。

 

「あなたの寝顔はね、

まるで……死んでいるようだったの。

でも、それがあまりに綺麗で、神聖で……

まるで聖骸布に包まれた祝福のようだった」

 

彼女の目が潤む。

 

その美しさに、私は吐き気を覚えた。

 

「その時、分かったの。

あなたと上位者の子供を、私が産まなきゃいけないって。

あなたと“結ばれる”のは、私でなくちゃいけないって」

 

私は後ずさる。

 

彼女は、笑った。

そして、囁くように続けた。

 

「でも……あなたを“管理していた”のは、ヨセフカだった。

だから私は、あの女が憎かった。

あなたに触れて、薬を与えて、名前を呼ぶ……

それがどれほど、羨ましかったか、分かる?」

 

白衣の袖から、乾いた血がこぼれた。

 

「私は、彼女になりたかった。

あの女に成り代わって、あなたの隣にいたかった。

だから……切ったの。

自分の顔を、刻んで、削って、彼女に似せたのよ」

 

口元の笑みが、裂けるように広がる。

 

「痛かったわ。でも──嬉しかった。

ようやく、彼女に近づけた気がして」

 

私は、もう言葉が出なかった。

 

その瞬間、私の目に映っているのが“誰”なのか、

一瞬だけ分からなくなる。

 

偽ヨセフカは、

優しい顔のままで、

自らを破壊しながら愛を語っていた。

 

「……ようやく、私と“あなたたち”で……」

 

偽ヨセフカの声が震えたその時だった。

 

それは、私の鞄の中から響いた。

 

直接、声がしたわけではない。

だが、脳髄に焼きつくような啓示の言葉が、はっきりと刻まれた。

 

──お前ではない。

 

空気が震える。

 

偽ヨセフカの目が、見開かれた。

 

「……なに?」

 

──お前は、母ではない。

 

その言葉は、

拒絶ではなかった。

裁きだった。

 

彼女の瞳から、音もなく涙がこぼれる。

 

「……違う……違う違う……そんなはず、ない……」

 

彼女の手がぶるぶると震え、

仕込み杖を落としそうになる。

 

その時だった。

 

私の鞄が、脈動した。

 

「……まさか」

 

──天が裂けた。

 

空も、森も、彼女の視界すらも飲み込むように、

小さな、しかし鋭い光の粒たちが天から降り注いだ。

 

──小さな流星群。

 

音よりも速く、

光よりも鋭く、

それは偽ヨセフカの周囲を焼き尽くす。

 

彼女は叫ばなかった。

 

ただ、呆然と崩れ落ちた。

 

その姿を、私は──見てしまった。

 

「……!」

 

衝動に任せて、私は踵を返した。

 

心臓が跳ね、肺が悲鳴を上げる。

 

足元の枝が折れ、泥が飛び散る。

 

私は、ただ、森の奥へと逃げた。

 

それが唯一の選択であると、

胎なる精霊も、私自身も知っていた。

 

──走る。

 

息が荒い。

鼓動が耳の中で鳴り響いている。

 

けれど、足を止める理由はどこにもなかった。

 

後ろを振り返るな。

あそこにはもう、私の知る現実はない。

 

……だが。

 

それでも、聞こえた。

 

「アラリック──ッ!!」

 

彼女の声が、森に響き渡った。

 

「逃げても無駄よ……ッ!!」

 

「見つけてやる……ッ!!

私の手で、上位者の子供を……っ、産んでやる……!!」

 

その叫びは、

愛情とも憎しみともつかない、ねじれた祈りだった。

 

だが、その声にかぶさるように──

 

──ガギンッ!

 

──ギャァァァ!

 

斧の音、金属の音、獣の叫び、蛇のうねり──

彼女の周囲で、再び戦いが始まっていた。

 

別の蛇憑きだ。

這い寄ってきた“理の失われた守人たち”が、

彼女の動きを遮ったのだろう。

 

「邪魔よ──ッ!!」

 

怒声と共に、鋼が唸る音。

彼女が狩人としての本能で再び戦っていることは、音だけで分かった。

 

だが、その間にも──

私は森を走っていた。

 

その声も、音も、怒りも、執念も──

すべて背中に浴びながら。

 

私は、逃げた。

 

胎なる精霊を抱えたまま、

まだ見ぬ“真理”へと近づくために。

 

 

ー ー ー

 

 

──見失った。

 

また、逃げられた。

 

白衣の裾が、風に揺れる。

 

血と泥にまみれたそれを見下ろしながら、

私は嗤った。

 

「……また、逃げるのね。アラリック」

 

その名を口にした瞬間、

胸の奥が焼けるように痛んだ。

 

「どうして……私じゃ、ダメなの?」

 

「顔を変えて、言葉を学び、仕草まで真似たのに……

“あの女”を、ちゃんと消したのに……!」

 

足元でぬるりと音がした。

 

森の草陰から、何体もの蛇憑きが這い出してくる。

 

その頭部が割れ、銀色の牙を剥き出しにしながら、

蠢くように私を囲んだ。

 

「邪魔……」

 

私は杖を構えた。

 

感情はなかった。

 

あるのは、ただ──

 

苛立ちだけ。

 

「せっかく“母”になれると思ったのに……

あの女を“正しい形”で殺してあげたのに……

なのに、私には何も残らない……?」

 

「ふざけないでッ!!」

 

私は踏み出した。

 

杖が鞭のように唸り、蛇の頭を砕く。

返す手で突きを放ち、胴体を貫く。

 

それは戦いではなかった。

感情の発露そのものだった。

 

「私だって……っ、

あの子を、育ててみせるって……!」

 

「愛してたのよ……!

あの人の眠った顔を見て、どれだけ──

どれだけ、生まれて初めて心が震えたか──!」

 

蛇塊の一体が唸りを上げて飛びかかる。

 

私はそれを、真正面から迎え撃った。

 

銀の牙が私の頬を裂いた。

 

だが痛みなど、とうに忘れていた。

 

私の中にはもう、

怒りと、愛と、否定された絶望しか残っていなかった。

 

──血の匂いが、甘い。

 

焼けた皮膚、崩れた肉、蛇の内臓。

そのすべてが、私の感情を、ゆっくりと落ち着かせていく。

 

ふと、私は天を仰いだ。

 

木漏れ日すら届かないこの森の空に、

どこか、あの子の声がまだ残響している気がした。

 

「……なら……いいじゃない」

 

私は血まみれの手で、頬をなぞる。

 

生温かい血が、乾きかけた傷に染みて、

私はひどく、心地よく、笑った。

 

「アラリックがくれないなら……私が作ればいい」

 

「新しい胎なる精霊を。

新しい、アラリックを。

……私の手で、“治験”を完成させるのよ」

 

声に出した瞬間、

その言葉はもう、揺るがぬ理となった。

 

「……あの診療所に、戻ろう」

 

「材料なら、まだ残ってる……

私の実験記録も、手術台も、

血も、肉も、記憶も──全部、そこにある……」

 

恍惚とした表情のまま、

私は血に濡れた手を、顔へ押し当てた。

 

肉が裂けた部分から、血が頬を這い、

私の口元を歪な笑みに染めた。

 

「“あの子”は、私のもの」

 

「“母”になるのは……私よ」

 

 

ー ー ー

 

 

走り続けた。

 

足元は泥で滑り、枝が体を打ち据えた。

森はまるで、私を“ここから出すまい”としているかのようだった。

 

それでも──

 

ようやく、気配が途切れた。

 

私は朽ちた倒木の陰に身を隠し、

ようやく──息を吐いた。

 

「……撒いた、か……?」

 

声がかすれる。

 

心臓の鼓動はまだ荒いが、

あの白衣の気配は感じられなかった。

 

あれほどの執念だった。

 

それがようやく背後から消えたというだけで、

体がぐったりと重くなる。

 

「……ふぅ……」

 

私は膝をつき、手で額を拭った。

 

その時だった。

 

──“ズル……ズル……”という音。

 

沼に何かが引きずられているような、

湿った摩擦音。

 

私は振り向いた。

 

そこにいた。

 

──蛇憑き。

 

顔は見えない。

だが、頭陀袋の下で何かが“動いている”のが分かる。

 

片手には斧。

地面を擦る音の主だ。

 

そして、もう一体。

その後ろにも──

 

「……なんて、タイミングだ……」

 

呼吸を整える間も与えない。

 

この森は、

本当に一息の“猶予”すら許してくれないらしい。

 

私は、再び立ち上がった。

 

胎なる精霊が、わずかに蠢く。

 

「分かってる……まだ、終わってない」

 

逃げるべきだった。

 

本来の私なら、そう判断していただろう。

 

だが──

背中の鞄が、脈打った。

 

「……またか」

 

それは心臓ではない。

私の体のどこにも属していない“何か”が、

確かに、私の血に呼びかけていた。

 

目の前の蛇憑きが、頭陀袋をかすかに震わせた。

 

その中から──

低く、喉を這うような囁きが漏れた。

 

私は、逃げなかった。

 

「……分かったよ。やればいいんだろ」

 

鞄から、重みが抜けた。

 

振り返らずとも分かる。

胎なる精霊が、意志を放っていた。

 

私の背中から、空へ──

音もなく何かが“解き放たれる”。

 

蛇憑きが一歩踏み出すその瞬間、

空が“破れた”。

 

──隕鉄の雨。

 

鋭く、青白い閃光を帯びた小さな流星たちが、

大地を抉り、蛇の肉を焼き、樹を裂いた。

 

一体はそのまま貫かれ、

もう一体は叫ぶ暇もなく斧ごと斃れた。

 

煙と光の残滓の中、私は立っていた。

 

胸が痛む。

肺が焼けるように熱い。

 

それでも私は、

立ったまま、拳を握った。

 

「……何度でも言うが……

こんなものが、私の“力”だなんて──笑えないな」

 

だが、

胎なる精霊は何も返さなかった。

 

ただ、静かに。

次なる歩みを──促していた。

 

森が終わった。

 

不意に、風の音が変わったことに気づく。

 

木々のざわめきが止み、空気がひときわ澄んで──

私は、重い門の前に立っていた。

 

石造りの門。

古び、苔むし、誰にも開かれた気配のない巨大な扉。

 

そして──その前に、三つの影。

 

ヤーナムの影。

 

彼らは動かない。

 

長刀を持った者。

蝋燭を掲げる者。

そして、炎をまとった者。

 

その三体は、あまりにも静かに佇んでいた。

 

私は一歩も動けなかった。

 

戦うべきか? 逃げられるか?

いや、もうそのどちらも不可能だった。

 

だが不思議と、恐怖はなかった。

 

むしろ──

 

「……会ったことが、ある気がする」

 

思わずそう呟いていた。

 

記憶ではない。

だが確かに、夢の中で、私は“彼らの一族”と会っていた。

 

言葉を交わしたわけではない。

ただ、並んで森を見つめていた。

 

そこにあったのは、敵意でも、試練でもなかった。

 

──ただ、守りと、静寂。

 

私は一歩、影たちに近づいた。

 

彼らは動かなかった。

 

さらに一歩。

 

長刀の男の頭が、わずかにこちらに向く。

 

炎の者が、静かに灯火を持ち直す。

 

蝋燭の影が、かすかに揺れた。

 

だが──それだけだった。

 

彼らは刃を振るわなかった。

 

私は歩き続け、彼らのすぐ脇を、

まるで誰にも止められないかのように通り抜けた。

 

それは、まるで認められたようだった。

 

──門は、開き始めていた。

 

門が開く音を背に、

私は、ふとその場に膝をついた。

 

──何かが、切れたようだった。

 

全身を走っていた緊張。

心の底に張りつめていたもの。

 

それが音もなく弾け、

身体の芯から、疲労がどっと押し寄せてきた。

 

肺がうまく働かず、

呼吸は荒く、浅くなる。

 

「……は、っ……」

 

喉が痛む。

指先が震える。

 

ここまで──

いったい、どれだけのものを見てきた?

 

獣の病。

狩人たち。

教会の陰謀。

胎なる精霊。

そして──ヨセフカ。

 

「……戻ってきたのに……」

 

そう、戻ってきたはずだった。

 

憧れていた場所。

かつて“学び舎”だったはずのその門の前で、

私は何もない空を見上げた。

 

ただ、重さだけがあった。

 

過去の自分。

知を求めた純粋な動機。

狂った世界でそれを抱えたまま生きてきたこの道のり。

 

それが全部、

背中にのしかかっている気がした。

 

「……ようやく……着いたのに」

 

扉の先にあるのが、希望なのか、絶望なのか。

そのどちらでもなかったとしても──

 

今はただ、

座っていたかった。

 

ほんの数秒でも。

一人で、息をついていたかった。

 

──私は、立ち上がった。

 

足が重い。

胸が痛む。

鼓動が耳の奥を叩く。

 

それでも、私は──歩き出していた。

 

「……まだ、足りない」

 

声に出した自分の言葉に、我ながら驚く。

 

だが本心だった。

 

まだ見ていない。

まだ知らない。

まだ、知りたい。

 

私がここまで来た理由は、

それだけだった。

 

疲れなど、どうでもよかった。

 

血にまみれた道も、裏切られた記憶も、

意味を失った学びも──すべてが、

この“扉の先”に繋がっているのならば。

 

私は、行く。

 

たとえその先が、

人の理を焼き尽くす深淵であったとしても──

 

「知りたいんだ。

……この世界の、すべてを」

 

門の向こうに、静かな湖が広がっていた。

 

──そして私は、

何の躊躇もなく、その地に足を踏み入れた。

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