BloodBorne Another story 〜闇を追い求めた者〜   作:カッサバ

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〜ビルゲンワース編
過去の世界へ


石の壁には古い苔が斑点のように張り付き、

靴の足音だけが、狭い空間に虚ろに響く。

 

アラリックの手は梯子を握っていたが、

その手の力が強いのか弱いのか、自分でもわからなかった。

 

胸の奥に残るのは、母という存在の残した空白。

 

「なぜ」

そう何度も繰り返した問いは、

今や返答を期待することすらやめていた。

 

それでも──進んだ。

 

地下へ。

 

梯子を下り切った先、

扉を押し開けると──

そこには見覚えのある風景が広がっていた。

 

白い壁。銀色の器具。消毒薬の匂い。

 

まるで、ヨセフカの診療所のようだった。

 

だがここには、

温かみも、声も、物音もなかった。

 

整えられすぎた室内。

無人の医療台。

記録の残っていないカルテ棚。

そして奥の部屋に──ただひとつの椅子と、机。

 

「……これは」

 

言葉にせずとも、わかっていた。

 

ここは模倣だった。

記憶に刻まれた“過去”を、忠実に再構成した空間。

 

だがそれは、懐かしさでも安堵でもなかった。

むしろ、冷たい吐息のような拒絶感が背筋を這った。

 

“あの場所”に似すぎている。

 

だが、確かに違う。

 

この診療所は、彼女の手で構築された“儀式の部屋”だった。

 

そしてその中央に、彼女が──ユリエが、

すでに待っていた。

 

部屋の中心にあったのは、

白いシーツがかけられた、鉄製の医療用ベッドだった。

 

誰も横たわっていない。

それはただ、問いを投げかける者のために用意された場所のように見えた。

 

アラリックは一瞬だけためらい、

それからゆっくりと腰を下ろした。

 

冷たい金属のきしみが、沈黙の部屋に擦れる。

 

真正面には、ユリエ。

 

彼女は照明の下に佇み、

まるで過去の亡霊を見守るように静かだった。

 

アラリックは、まっすぐに彼女を見つめる。

 

その瞳には怒りも憎しみもない。

ただ、知ろうとする“意志”だけが灯っていた。

 

「……あなたは、俺を実験体にした。

その事実からは、もう目を背けない」

 

声は低く、はっきりとしていた。

 

「なら、最後にひとつだけ聞かせてくれ。

──俺は、それでも“人間”なのか?」

 

「知の器として作られた存在。

夢に触れ、悪夢を渡り、胎児と共に歩く者。

君が見つめたその先に、俺という“人”がいるのか?」

 

「それとも、俺はただの……失敗作か?」

 

沈黙が落ちた。

 

それは、返答を促す時間ではなく、

彼女の“覚悟”を試すための間だった。

 

ユリエは、しばらく答えなかった。

 

その沈黙は、今までのどの間よりも重かった。

 

やがて彼女は、そっと一歩だけ前へ出た。

 

「……あなたを見ていると、今でも思い出すの」

 

その声はかすかに震えていた。

 

「産んだことを、後悔していた。

でも……顔を見るたび、泣き声を聞くたび、

どうしようもなく、情が湧いてしまったの」

 

「私は、“母になってはいけない女”だった。

あの時代のビルゲンワースでは、

知を求める者が“生む”ことなど、許されなかったのよ」

 

アラリックの目がわずかに揺れる。

 

ユリエは、言葉を選ぶように続けた。

 

「……それでも、私は産んだ。

あなたをこの世に“連れてきた”。」

 

「そして……あなたの父は、ローレンスだった」

 

その名が口にされたとき、

空気がわずかに張り詰めた。

 

アラリックは息を飲み込んだ。

 

「彼は、追いすぎた。

血に囚われ、堕ち、

かつての“彼らしさ”を失っていった」

 

「でも……私が彼を愛したことは、嘘じゃない」

 

「そして、あなたはその果てに生まれた。

ローレンスの“知への欲望”と、私の“理の残滓”を宿して」

 

「それがどんなにおぞましい実験の過程であっても、

あなたの“存在”だけは……

私が誰よりも、美しいと思ってしまったのよ」

 

私は、無言のままベッドの上に寝そべる。

 

背中がひやりとした鉄板に触れ、

白いシーツがくしゃりと沈む。

 

こんな感覚──覚えがあった。

診療所での、あの無機質な寝台。

夢と現の境が曖昧になる、あの時の。

 

私はゆっくりと、仰向けになった。

 

天井が静かに視界を覆う。

変哲のない白、しかしどこか不安になるほど整っている白。

 

ユリエの足音が、静かに近づいてきた。

視線を動かさずに、ただ気配でそれを感じる。

 

「……腕を出して」

 

私は言われるまま、左腕の袖をまくった。

 

冷たい布が皮膚をなぞり、消毒液の匂いが鼻をついた。

 

懐かしい。いや──忌まわしい感覚だ。

 

「少し、冷たいわよ」

 

細い声とともに、皮膚に小さな痛みが走った。

 

だがそれは“痛み”として知覚される前に、

身体の奥に吸い込まれていった。

 

冷たい感覚が、静かに血管を満たしていく。

 

だが、それは血とは逆の方向へ──

指先から心臓へ、そして脳へと這い上がってくる。

 

まるで、現実をひとつずつ内側へ押し返すような感覚。

 

私は、息を吐いた。

 

「……これでいい」

 

誰に向けた言葉だったか、自分でもわからない。

 

ユリエは何も返さなかった。

ただ、その場に立っていた。

“送り出す者”として。

 

視界が、わずかに滲んだ。

 

音が遠くなっていく。

 

私の感覚が、私から剥がれていく。

 

脳の奥に、“接続の光”がきらめいた。

それは理でも、夢でもない。

 

──それは、私という存在が、世界に問いを投げる瞬間だった。

 

私は、沈んでいった。

 

深く、深く。

 

再び──悪夢へ。

 

 

ー ー ー

 

 

沈む感覚は、もはや“夢”ではなかった。

 

私は落ちていた──確かに、

だがその落下は意識のものではない。

肉体の重みごと、時の底へと引きずられていく感覚だった。

 

浮遊ではない。転送でもない。

それは、まるで“戻された”かのような現実。

 

世界の膜を突き破るような圧迫の果てに、

私は、地に立っていた。

 

──息が、白い。

 

冷たい風が、肌を刺す。

本物の空気。

本物の重力。

そして──

 

「……ここは」

 

目の前に広がるのは、荒涼とした大地だった。

 

まだ石畳も、ガス灯も、教会の尖塔もない。

そこに“都市”というものは存在していなかった。

 

かすかに木の根が絡む丘陵。

草のない湿った地面。

灰色の空。

太陽のない、鈍い光だけが広がる空間。

 

その中に、遠く歪んだ建造物の影が見えた。

それは塔とも、祠ともつかない形。

 

けれど、私は知っていた。

 

「……あれが、“始まり”だ」

 

かつてのヤーナムなどではない。

まだ名前すら持たぬ時代の、原初の世界。

 

私は立っていた。

 

確かに、自分の脚で。

 

体ごと、完全に“ここ”にいた。

 

足元の土は柔らかく湿っていた。

草はまばらで、踏みしめるたびに粘つく感触が靴底を伝う。

 

私は、ゆっくりと山を登っていた。

 

道と呼べるものはなかった。

けれど、太古の樹木がざわめくたびに、

“そこを進め”と誰かに示されている気がした。

 

空気は薄く、冷たい。

だが不思議と、嫌悪感はなかった。

 

ここには──“穢れ”がない。

 

それに、私は気づいた。

 

「……この地には、まだ呪いがない」

 

血の臭いがない。

肉が焼けた痕も、乾いた悲鳴もない。

 

この土地はまだ、“獣の病”に触れていない。

 

それは安堵ではなかった。

むしろ、予感だった。

 

“まだ起きていない”という事実が、

やがて“起きる”未来の残響を呼び起こす。

 

風が吹く。

その向こうに、いくつかの影が見えた。

 

家々──

否、粗末な掘っ建て小屋のような住まいが並んでいた。

 

屋根は草葺き、壁は乾いた土と木材。

扉の代わりに布を下げたものもある。

 

それでも、そこには確かに“人々の暮らし”があった。

 

焚き火の煙。

薪を割る音。

子どもの声が、小さく風に乗って流れてくる。

 

私は立ち止まり、

その静かな光景を見つめていた。

 

──まだ何も始まっていない。

だが、何かが確実に、始まろうとしている。

 

私は再び歩き出した。

この山の奥に、“始まりの学び舎”がある。

 

私は、集落のひとつに足を踏み入れた。

 

地面は踏みしめられ、草は抜かれていた。

小さな畑があり、干し魚や薬草が軒に吊るされている。

 

だが、そこにあるのは文明ではなく“暮らし”だった。

 

老人が薪を割っている。

女たちが鍋をかき混ぜ、子どもたちは泥だらけで笑っていた。

 

私は一人の年配の男に近づいた。

 

「……少し、話を聞かせてほしい。

 このあたりに、外から来た者たちがいるんじゃないか?」

 

男は斧を止め、こちらを一瞥する。

 

「……ああ。あんたも“そっち側”かい」

 

「そっち?」

 

「なんだ、学者風ってやつさ。

 最近な、湖の近くの遺跡に、

 都会から来たらしい者たちがテント張ってる」

 

「派手な服着ててよ、

 難しい道具広げたり、木に触ってたり変な言葉を呟いてたりな─

 ありゃ呪文ないのか。

 まぁ、こっちじゃ“物好き”って呼ばれてるがね」

 

「ビルゲンワース、という名を聞いたことは?」

 

男は首を傾げる。

 

「知らんなぁ。そんな名の村も人間も、

 ここいらにはいねぇと思うが……」

 

「ただ、あの連中はいつの間に現れた。

 ……よくわからねぇもんさ」

 

私は軽く頭を下げて、その場を離れた。

 

彼らは何も知らない。

だが、その“何も知らない”という事実が──

私にとって、何よりも確かな“時の深さ”を感じさせた。

 

まだ、この時代では“それ”は始まっていない。

 

けれど──

すでに水面下で、何かが動いている。

 

私は風に揺れる木々を見下ろしながら、

村人の言葉を反芻していた。

 

“学者風の連中が、湖のそばにいる”。

 

道具を広げ、呪文のような言葉を唱えていた──

そう村人は言ったが、

それは決して、いま私たちが知る「神秘の儀式」ではない。

 

「……違う。

 当時のビルゲンワースに神秘などなかったはずだ」

 

私は思考を深く掘り下げる。

 

この時代、彼らが追い求めていたのは

“血”ではない。

“上位者”でも、“啓蒙”でもない。

 

彼らの始まりは、考古学と歴史学の延長にあったはずだ。

 

地層を掘り、碑文を解読し、

古代人の暮らしと死の痕跡を記録する。

 

ただそれだけの、

学としての営み。

 

湖の底に“何か”を見たのだとしたら、

それは“神秘”ではなく、

もっと具体的で、もっと古い──地下遺跡の構造や、

異質な文化の断片だったのだろう。

 

「……ビルゲンワースは、理から始まり、理に堕ちた」

 

ならば今は、その“理”だけが存在する時代。

狂気の萌芽は、まだ誰の目にも映っていない。

 

私は息を吐き、背を伸ばす。

 

まだ遅くはない。

この目で確かめられる。

 

知は、どこで歪んだのか。

歪んだ知は、どこから始まったのか。

 

そして私は、そこに何を見出すのか──

 

私の旅は、まだ“学徒”としての姿を保っていた。

 

 

ー ー ー

 

 

木立を抜け、湿った風に肌を撫でられながら進むと、

やがて目の前に開けた一角が現れた。

 

そこには──テントがいくつも立ち並んでいた。

 

色褪せた帆布。焚き火の跡。

風に揺れる洗濯物と、乾いた羊皮紙を押さえる石の重み。

 

周囲には簡易の観測台や木製の測量道具が散らばっていた。

地面には縄で囲った発掘ポイントがいくつもある。

 

「……学者たちの野営地、か」

 

私は木陰に身を潜め、観察した。

 

テントの合間を、若者たちが忙しく行き来している。

 

誰も血にまみれていない。

誰も獣の皮をまとっていない。

 

彼らはまだ、ただの学生たちだった。

 

ひとりは測量棒を掲げながら、仲間と地形の傾斜を確認し、

もうひとりはスケッチブックに岩の模様を写し取っていた。

 

「教授──この地層、明らかに人工の干渉があります」

 

そんな声が、風に乗って聞こえてくる。

 

中央のやや大きな天幕から現れた男が、頷きながら近づいた。

落ち着いた態度、簡素だが質のいいローブ。

おそらく、この一団の“教授”なのだろう。

 

私の知る“ビルゲンワース”の教壇に立つ者とは異なる──

だが、理を愛し、理を信じる人間の背中だった。

 

「……始まっている」

 

私は呟いた。

 

この小さなテント群が、やがて“学舎”になる。

 

神秘ではなく、観察から。

血ではなく、記録から。

 

私はしばらく、風の中に立っていた。

 

見守るように。

探るように。

そして──確かめるように。

 

私は覚悟を決め、木立の影から一歩、足を踏み出した。

 

遠くで談笑していた学生たちが、私の姿に気づきざわめきを止める。

 

誰も武器を取らない。

この時代の彼らには、“異形の侵入者”という想定がないのだ。

 

私は慎重に手を見せ、穏やかに言った。

 

「失礼──騒がせるつもりはなかった。

 ただ、どうしても……興味を惹かれるものがあってね」

 

最も近くにいた若い男が、一歩前へ出た。

野外活動に慣れていない学者らしく、靴が泥に沈んでいる。

 

「あなたは……学者の方ですか?」

 

「そうだ。ただの旅の学徒だよ。

 いくつかの古文書を追って、この辺りに来ていた」

 

「ほう……」

 

その声は、背後から聞こえた。

 

年長の男──おそらくこの集団の教授。

ローブの裾を引きずらないように歩きながら、私を見据えていた。

 

「旅の学徒が、こんな辺鄙な湖畔まで足を運ぶとは。

 よほど、珍しい文献でも読まれたか?」

 

私は薄く微笑んだ。

 

「文献には、確かに“湖の底に遺された文明”という一節があった。

 だが、それ以上に──“誰も答えを得ていない”という点が、私の好奇心を動かした」

 

教授の目がわずかに細まる。

その背後で学生たちが、気まずそうに顔を見合わせていた。

 

「……あなたは、湖を覗くことに、どんな価値を見出している?」

 

私は静かに言った。

 

「価値か……。

 それは、覗く者の“眼”によって決まるのではないか?」

 

「表面だけを映す者にとっては、ただの水溜まり。

 だが、“構造”を見る眼を持つ者にとっては、理を抱えた口だ。

 口は黙っている。だが、語らないものほど、価値がある」

 

沈黙が落ちた。

 

教授は、やがて息を吐き、笑った。

 

「面白い。……よろしければ、お名前を」

 

「名前は要らないさ。私はただの観測者──

 君たちの“問いの強さ”を、確かめたくて現れただけだ」

 

私はそう言い残し、少しだけ距離を取った。

 

私は背を向けかけた。

だがその時──静かに、だが確かに声が届いた。

 

「私の名は──ウィレーム。学びの都から来た者だ」

 

その名に、胸の奥がかすかに波立つ。

 

振り返ると、彼は真正面からこちらを見据えていた。

 

まだ若い。

三十代後半──だが、学者としてはすでに中心にいると感じさせる風格があった。

 

その姿には、後の姿に見られるような衰えや歪みはない。

ただ──目が、違っていた。

 

燃えていた。

 

観察者の瞳。

理を求める者の瞳。

まだ信じている──“人は知に至れる”と。

 

「あなたの言葉には含みがある。

 だが私は、それでも構わない。

 問いを持っている者には、必ず理由がある」

 

風が湖の水面を揺らし、彼のローブの裾がかすかに翻る。

 

「どうか、また我々の問いに耳を貸してほしい。

 そして、もしあなたが見つけたものがあれば──

 それを我々に示してほしい」

 

私は答えなかった。

 

ただ、その目を見つめた。

 

これが、あのウィレームか。

 

まだ、人を信じる瞳をしている。

まだ、真理を言葉で伝えられると信じている。

 

私はほんのわずかに頷き、再び視線を逸らした。

 

この時代の彼を、

どうか──失いたくはないと思った。

 

「……私は、生物学を学んでいる。

 偶然にもこの地で記録に残らない種の痕跡を追っていてね。

 もしよければ、君たちの調査に同行させてもらえないだろうか?」

 

私はそう口にした。

 

正確には嘘ではない。

だが、本当でもなかった。

 

この地で起こるはずのこと──

その兆しを、あらゆる“生命”の痕跡から探りたかった。

 

ウィレームは短く考えた末に、頷いた。

 

「生物学……ふむ、ちょうど動物痕の記録係が一人抜けていてね。

 君の観点からも、きっと違う洞察が得られるだろう」

 

その言葉に安堵しかけたその時──

 

「……教授。彼を加えるのは、少し早計ではありませんか?」

 

声が割って入った。

 

若い男だった。

年は私と変わらないか、やや若い。

 

鋭い目をしていた。

観察の目ではない。

断定と論破を旨とする学者の目。

 

「私はローレンス。教授の助手を務めています」

 

彼は一歩前へ出ると、まっすぐに私を見た。

 

「生物学の者が、なぜこの地に?

 あなたが語った痕跡など、ここには記録されていない。

 ……本当に、偶然ですか?」

 

その声音は礼節を守っていたが、

明らかに私を“排除する意図”が含まれていた。

 

若く、聡明で、苛烈。

まさしく──“ローレンス”という名にふさわしかった。

 

私は、視線を逸らさなかった。

 

「学は、分野を超えてこそ真に価値がある。

 あなたの見ている地層の“上”を歩いていた生き物が、

 何を感じ、どこへ消えたのか。

 その痕跡を、私は読みたいだけだ」

 

沈黙。

ローレンスは眉をひそめたが、教授が静かに手を挙げた。

 

「ローレンス。

 異なる視点からの干渉こそ、我々が追う真理の証明になりうる。

 それが“今の私たち”の在り方だと、忘れないでくれ」

 

「……わかりました」

 

ローレンスは一礼し、私に背を向けた。

 

その背中に、私はただ、

何とも言えない痛みのようなものを感じていた。

 

──君が、ローレンスか。

 

未来に血の理に囚われていく男。

 

けれど、今の君は、

誰よりも“理”を信じているように見える。

 

 

ー ー ー

 

 

薪が弾け、静かな焚き火の輪が広がっていた。

 

私はその輪の端に座り、湯気の立つスープを両手に抱えながら、

彼らの語り合いに耳を傾けていた。

 

議題は──“我々人間が現れる以前、この地に存在した痕跡”について。

 

ウィレームが焚き火を見つめながら語る。

 

「ここの南斜面で見つかった礫層の中に、

 意図的な加工を思わせる直線的な刻みがあった。

 それが自然の侵食によるものか否か、現在調査中だが……」

 

隣にいたローレンスが補足する。

 

「同じ地層から出た炭化物には、器の縁のような湾曲が確認されている。

 しかし、植物繊維の遺残がないため、用途は不明です。」

 

彼の声は冷静で理知的だった。

憶測を排し、確証だけを語る姿勢には、どこか研ぎ澄まされた潔癖さがあった。

 

ウィレームがふと私に目を向ける。

 

「旅の学徒として──

 あなたの見たものに、これと似たような遺構や痕跡は見られたか?」

 

私は少しだけ考え、言葉を選んだ。

 

「……かつて、ある湿地帯で石を積み上げた構造物を見たことがある。

 だが建築というには粗く、自然物というには整いすぎていた」

 

「誰が何のために作ったかは不明だった。

 だが、最も印象的だったのはその配置だ。

 人が通る“道”の概念を持っていたこと。

 すなわち“移動と意図”がそこにあった」

 

ローレンスがこちらを見た。

 

「それが、定住の痕跡か、巡回か。

 あるいは供儀の場であった可能性は?」

 

「すべて排除はできない。

 だが、あえて言うなら──“誰かが見ていた”という意志は感じられた」

 

ローレンスはしばらく黙考し、

やがて短く頷いた。

 

「……参考になるよ。

 断定はできないが、思考の幅としては有用だ。」

 

それは、彼なりの肯定だった。

 

火がまたひとつ、弾けた。

 

この時代の学者たちはまだ、

問いを持ち、問いを恐れていなかった。

 

私はその静かな炎に、目を細めた。

 

焚き火の中で交わされる言葉は、やがて静かになった。

誰もが己の見解を一通り語り終えたそのとき──

 

焚き火の輪のやや外、地面に背を丸めて座っていたひとりの学生が、

ぽつりと口を開いた。

 

「……でもさ。どうして“ここから始まった”って前提で話すんだい?」

 

皆の視線が、そちらに向く。

 

ローブの袖で半ば顔を隠すようにしていたその青年は、

焚き火に目をやることもなく、地面を見つめたままだった。

 

「もしかしたら──この星そのものが、何かを“迎えた”だけかもしれない」

 

静まりかえる焚き火の輪。

 

「例えば、隕石だよ。

 あるいはもっと……“意志を持った飛来物”。

 それがこの星に触れたとき、何かが“芽吹いた”んじゃないか?」

 

ローレンスがわずかに目を細める。

 

「ミコラーシュ。君はまた、物理法則を逸脱した思考をしているな」

 

「法則なんて、我々が作った後追いの言葉だよ」

 

焚き火の火が揺らいだ。

 

ミコラーシュの声には、怯えも誇りもなかった。

ただ、異様な確信の色があった。

 

「誰もが“人間が最初”だと思ってる。

 でも、もし僕たちの前に……別の支配者がいたとしたら?」

 

「その存在が何かを残した。

 その痕跡が、いま僕らが探してる“遺構”なんだとしたら?」

 

ローレンスが眉をひそめた。

 

「その仮説には、根拠がない。

 言語的遺物も、骨格も、文化の層も……全てが存在しない以上、

 推測の域を出ないだろう」

 

ミコラーシュは、焚き火の明かりにちらりと目を向けた。

 

「……ないんじゃない。

 “見えてない”だけさ」

 

誰も言葉を返さなかった。

 

私は、ただ一人、彼を見つめていた。

 

その仮説は、未来から見れば──

いや、私の知る“別の世界”では、確かに正しかった。

 

彼は、まだ名もない“悪夢”の入り口を、

この時代にして、最初に見つけかけていたのかもしれない。

 

若きミコラーシュ。

ただのひとりの学徒。

 

その言葉が、火の粉とともに夜空へ消えていった。

 

夜は更け、焚き火の炎もゆるやかに痩せていく。

 

私たちは、それぞれの理を語った。

 

その余韻の中で、私は静かに、彼らの顔を思い返していた。

 

──ウィレーム。

 

彼の言葉にはまだ熱があった。

だがその熱は情ではない。

思索の炎、知を信じる者に特有の“理性への信仰”だ。

 

今の彼は、まだ世界に期待している。

真理が人を救うと、どこかで信じている。

 

その瞳の輝きは、

いつか──あの“冷たい湖”を見つめ続ける者のものへと変わっていくのだろう。

 

だが今はまだ、“導く者”の背をしていた。

心が、少しだけ揺れた。

 

──ローレンス。

 

対照的に、彼の言葉は鋭かった。

余白を許さない。

理の形を保つためには、情も詩も切り捨てる。

 

だがそれは──恐れからではない。

 

むしろ、真実に触れることへの渇き。

それが“学としての在り方”に結びついているのだ。

 

彼はこの先、必ず迷う。

理を突き詰めた先に、血という名の異端が口を開く。

 

そしてきっと、その口を見つめるだろう。

それでも──彼は歩く。理を手放さぬままに。

 

──ミコラーシュ。

 

……言葉にしがたい印象だった。

 

声に力はなかった。

語尾も不安定で、周囲の空気を読む気配もない。

 

だが彼だけが、常に“どこか別の場所”を見ていた。

 

彼の語りは異端だった。

だがそれは、私にとっては既視感のある言葉でもあった。

 

世界の形を否定するようでいて、

その裏側の“意味”を正確に突いている。

 

この男だけが、

“悪夢を知る者”になる。

 

今はまだ、誰もそれを知らない。

ただの風変わりな学徒として見られている。

だが彼はきっと──私と同じ地平を一度だけ踏む。

 

そう、感じた。




アラリックは遂に過去へと戻ってしまう。悪夢としてではなく現実の過去へ。
これから彼はどうするのか気になる!自分も勢いで書いてるから解らないッ!!
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