BloodBorne Another story 〜闇を追い求めた者〜 作:カッサバ
書物をめくる手が震えていた。
古文書庫の奥に埃をかぶって眠っていた、誰にも触れられていなかった記録。そこには、信じ難い内容が書かれていた――ビルゲンワースの学者たちが、ある漁村を襲撃し、そこに眠る上位者の遺骸を冒涜したという記録が。
私は、学問を愛し、知識の力を信じていた。
それが人を導き、真理へと近づける唯一の道だと信じていた。
だが、その記録は私の信じていた“知”の尊厳をあまりにも醜く踏みにじっていた。
記録は語っていた。
遥か昔、海辺の村に、死んだ上位者――ゴースあるいはゴスム(Kos)――が漂着した。巨大な軟体のような亡骸。だが、村人たちはそれを“神の恩寵”と信じ、祈りを捧げ、寄生虫すら生活に取り込んだ。信仰の対象と化した死骸が、村を異形へと変貌させていった。
村人たちは魚のように変わり果て、それでもなお、母なるゴースを敬っていた。しかし、そこへ踏み込んだのが、我らがビルゲンワースの先人たち――知の探究者たちだった。
彼らは“真理”を求め、村を襲い、村人を生きたまま開き、頭蓋を穿ち、その中に瞳を探した。
「知のためなら、犠牲をいとわぬ」
その精神は、かつての私にも理解できるものだった。だが――。
『あまりにも酷い・・・ッ!!』
「畜生どもめ…貴様らも、その子らも、永久に呪われるがいい――」
私は末尾に記録されていた老いた村人のその言葉を読み、胸が締めつけられるような思いに囚われた。
これは、ただの探究ではない。呪いの根源だ。
この一件が、後にゴースの死を招き、ヤーナムに降りかかる獣の病の呪いへと繋がっているとしたら――。
私は震える手で書物を閉じた。
心の奥で、何かがささやいた。
「それでも…君は知りたいのだろう?」
私は、知の追求者だ。上位者の真理を解き明かすためにこの道を歩み始めた。だが、そんな私の心にも、確かに良心が残っているのだと、今ようやく気づいた。
「もし私が、この道の先に“同じ罪”を繰り返すことになるなら――」
恐ろしい。だがそれでも、私は前に進まねばならない。
全ての真実を知るために。
ー ー ー
「――ああ、自己紹介か。
まあ、必要ならば、語っておこう。私という人間について。」
私はアラリック。ビルゲンワースで最も優れた“学徒”の一人だった。
貴族の末裔だという噂には聞き覚えがあるが、私にはさして関係のない話だ。
血統に価値を見出すのは、知を持たぬ者の慰めだろう?
真の力は、学びの中にある。私は、それを誰よりも理解していた。
「なぜ、ビルゲンワースに入ったのか……?」
さあ、どう答えたものか。
運命、という言葉を使えば詩的すぎるかもしれないが、少なくとも偶然ではなかった。
才能のある者は、いずれ“見出される”ものだ。
私は、そういう存在だった。
幼少の頃から私は、周囲に不気味がられていた。
泣きもせず、笑いもせず、ただ書を読む。
他の子供たちが土遊びに夢中になる傍ら、私は聖書の挿絵に描かれた天使の翼の形に違和感を覚えていた。
「なぜ、それが飛べるのか」と。
それが私の最初の問いだった。
誰も教えてくれなかった。だから、私は自分で調べた。
解剖図、聖職者の論文、古い海の怪物の伝承書――
本棚はすぐに埋まった。私の小さな部屋には、本と器具と硫黄の匂いだけがあった。
やがて、その異様さに気づいた者がいた。
古い学徒か、引退した狩人だったか。今ではもう、名前すら覚えていない。
彼は私の机に乱雑に置かれた紙束を見て、目を細めた。
「お前の目は、まだ濁っていない」と言った。
そしてそのまま、私をビルゲンワースの門へ連れて行った。
私は当然のように試験を受け、当然のように合格した。
私からすれば、それは“当然”だった。
あそこは、私のための場所だったからだ。
学舎の扉が重々しく開いたとき、私はようやく息をついた。
ここにあるのだ、真理が。
誰もが恐れて見ようとしない、その先の世界が。
私は、選ばれた者だ。
扉を叩いたのではない――私は、最初からその中に入るべき者だった。
話を戻そうか。
周囲の“学友”たちは年を重ねてもなお、基礎の理論にすら手こずっていた。
私はその遥か先を見ていた。彼らが恐れる未知を、私は美しいと思ったのだ。
彼らが“見てはならない”と避ける領域こそ、私にとっての楽園だった。
上位者。この世の理を超えた存在。
誰もが夢物語として口を閉ざすその名を、私は真剣に追いかけていた。
なぜなら、私はそれに“触れる資格”があると、疑ったことがなかったからだ。
そして、私は知ってしまった。
ビルゲンワースの罪。ゴースの死。そして、漁村で行われた儀式。
それは愚かで、拙劣で、滑稽なまでに人間的だった。
学問の名のもとに、彼らは臆病者のように力にすがり、やがて破滅を招いた。
…私は、同じ轍を踏まない。
私は、もっと賢く、慎重で、そして貪欲だ。
私は、特別なのだ。
それを証明するために、私は歩みを止めない。
“良心”というやわな足枷もあるにはあるが、それすらも使い道がある。
私は自分の内面を理解しているし、制御する術も知っている。
私が真理に辿り着くことは、約束された未来だ。
……さて、これで満足だろうか?
私はアラリック。
選ばれた者であり、知の高みを正しく見上げる者。
そして、何よりも――真実に、最も近い者だ。
ー ー ー
学び舎の奥、禁断の倉庫は施錠されているはずだった。
鍵は教官が管理しており、夜間に立ち入ることは許されていない。
だが、私には――いや、私「だけ」には、抜け道があった。
誰もが見過ごす壁の隙間。石材がわずかに崩れているのを、数週間前から私は観察していた。
闇の中、ランタンの灯を消し、音を立てぬように息を整える。
倉庫の空気は、湿っていた。血と薬剤と――腐った臓腑の香りが混じる。
棚の並ぶ薄暗い室内。
無造作に積まれた古文書、奇妙な器具、剥製になった異形の胎児。
この場所は、語られざる歴史の墓場だ。
誰かがこの知識に溺れ、狂い、そして沈んだ――その痕跡が壁に染みついている。
だが、私は怯えなかった。
探すものは決まっていた。
標本棚、最奥、封印指定資料の箱の中――
そこにあった。
銀の留め金がついた厚い瓶。
中には、不気味なほど淡い薄水色に輝く軟体生物の塊が浸っている。
細い器官が何本もひくついていた。まるで、夢の中でだけ動くような、異界の触手。
私はそれを見て、息を呑んだ。
美しい、と思った。
『胎なる妖精』
記録上の名称ではない。学者たちが口にすることすら躊躇った代物だ。
この瓶を最後に見た者は、行方不明になったと聞いている。
残された記述は断片的で、
「夢を宿す」「声が届く」「悪夢の内にあれは棲む」――そんな詩のような言葉ばかりだった。
何のための器官なのか。
どうやって生まれたのか。
なぜ、ここにあるのか。
誰も知らない。
それでいて、誰もが“それを手放せなかった”。
私は瓶を両手で持ち上げた。被っていた埃が宙に舞う。
その瞬間、脳の奥がきしんだ。
音ではない。
言葉でもない。
ただ、“概念”が流れ込んできた。
遠い宇宙の律動のようなもの。
膨大な意識の断片が泡のように弾け、私の思考に染み込んでいく。
心が濁る感覚。
いや、ちがう――澄んでいくのだ。異質な理(ことわり)に順応するように。
「これが、始まりか。」
私はそれを盗んだのではない。
選ばれたのだ。この“もの”に。
私は『胎なる妖精』と共に、ビルゲンワースを去ろうと思う。
もう、あの場所は私を閉じ込めておけない。
翌朝早く私は外套を纏って学舎の外へ出る。風が、冷たかった。
ビルゲンワースの石造りの門を越えた瞬間、私は初めて“外の空気”を肺に通した気がした。
自由。
それは、理想よりもずっと静かで、そして寒いものだった。
外套の内側には、例の瓶がある。
いまだ沈黙を保っているそれは、まるで私の体温を吸っているかのように生温い。
それでも私は迷わなかった。
ここを出るべきだと、ずっと感じていた。
あの学び舎では、もう私は“次”へ進めない。
――いや、彼らが進むべきではなかったものへ、私は向かおうとしているのだろう。
道を歩く。
背中に風が吹きつける。
だがそれは自然のものではない。
何かが、こちらを追っている。
教官か、狩人か。
いや、あるいはあの瓶を見た誰かが、“それ”に引き寄せられたのかもしれない。
いずれにせよ、このままでは足がつく。
私は、ある一つの場所へ向かうことにした。
ヨセフカの診療所。
古い縁がある。
彼女ならば、口外せず、そして――多少の非常識にも耐えてくれるだろう。
瓶の中の臓器が、わずかに揺れた。
「……まだ、眠っていてくれ。」
私はそう呟いて、深くフードを被った。
追われているのは、私ではないのかもしれない。
けれど、“何か”は確実に、目を覚まし始めている。
ヤーナムの空は、変わらず鈍い灰色だった。
舗道に染みついた血と油の匂い、煤けた建物の並び、遠くで咳き込む声。
この街はすでにどこか狂っている。
だが、それでも人々は、日常のふりをして歩き続けていた。
私は診療所を目指し、石畳を急ぎ足で歩いていた。
コートの内側には、慎重に包んだ『胎なる精霊』。
――今もただ、冷たく沈黙している。
まるで、自身の意味を隠しているかのように。
そのとき、不意に肩がぶつかった。
「……っ、すまない」
若い声。咄嗟に振り返ると、そこには細身の青年がいた。
汚れた裾、くたびれたマフラー。
見ようによっては路地裏に埋もれて消えそうな、薄い影のような姿。
だが、目が――目だけが違った。
まっすぐに、こちらを見ていた。
瞳の奥に宿る、得体の知れない“何か”。
それは自我か、欲望か、それとも――憧れか。
私は口をつぐんだ。
妙な感覚が、胸の奥にわずかに引っかかる。
私は短く頷き、青年を避けて歩き出した。
彼の名前を、私は知らない。
今はただ、ひとつのすれ違いに過ぎない。
けれど――
この出会いが、静かに何かを動かしたことだけは、確かだった。
ヤーナムの街は、まだ“夜”を迎えていない。
狩人も、鐘も、獣の咆哮も、今はまだない。
だが、すでに何かが腐り始めていた。
石畳を踏むたび、靴裏に染み込む煤と血の湿り気。
どの建物も曇った窓を閉ざし、壁には薬の広告が剥がれかけている。
大通りでは、医療教会の使いが「血の療法は神の恩寵なり」と叫び、信徒たちは手を合わせていた。
だが、その目は濁っていた。
敬虔さではない。依存の光だ。
“神の血”はこの街に信仰と病を同時にもたらした。
血に頼らなければ生きられない身体、そしてそれを正当化するための信心。
すでに、誰も疑っていなかった。
すれ違った老女が、片手で口元を押さえながら咳をしていた。
手のひらに垂れたのは、粘り気を帯びた紅。
それを見た瞬間、私の脳裏に、以前読んだ報告書の一節が蘇った。
「血に濡れた者は、やがて人としての形を失う」
病の正体を誰も知らぬまま、血を浴び、血を求め、血を賛美する。
市場の裏通りでは、子供たちが犬のように地面を嗅ぎながら、何かを探していた。
鼻血を垂らしたまま笑う男が、路地で説法を唱えていた。
教会の鐘が遠くで鳴った。時刻を告げるものではない。
――ただ、誰かの終わりを知らせる音だった。
私はフードを深く被り、顔を隠す。
この街では、“知っている者”の顔はすぐに目を引く。
学び舎の追っ手に睨まれるより先に、私は目的地へ辿り着かねばならない。
診療所まであと数街区。だが、この街は油断を許さない。
そのとき、風向きが変わった。
背後から歩いてくる誰かの気配が、妙に強い。
重くもなく、早くもない。ただ、音を立てぬ歩調なのに“圧”だけが残る”。
私は振り返らなかった。
だが、すれ違いざまに、確かにその姿を捉えた。
女性だった。
黒いコートのような装束に身を包み、顔の下半分を覆っている。
髪は肩にかかる長さ、帽子の影に隠された瞳は、何も見ていないようで、すべてを見ていた。
歩き方が静かすぎる。
ただの市民ではない――
あれは“訓練された者の足取り”だ。
私は『胎なる精霊』のことが気になり、僅かに左手を胸元に当てる。
…反応はない。いつも通りの沈黙。
だが、それでも。
本能だけが告げていた。
――この女、ただ者ではない。
すれ違いざま、女はほんのわずかにこちらを見た。
目が合った気はしなかった。
けれど、見抜かれた気がした。
“お前もまた、こことは異なる理を抱えている”
そんな言葉が、心の奥底に焼きつくように残った。
⸻
振り返ると、彼女はもういなかった。
路地の向こうへ、音もなく消えていた。
私は息を吐いた。
冷たい空気が肺に刺さる。
狩人――
あれは、まだその名で呼ばれていないが、
“夜が始まれば”確実にその名に応じる者だろう。
まだ陽は沈んでいない。だが今宵は長い夜になりそうだ。