BloodBorne Another story 〜闇を追い求めた者〜   作:カッサバ

3 / 19
まだ夜は来ない。

聖堂街を抜け、私は診療所を目指していた。

 

人影はまばらになり、石畳の裂け目からは、濁った水が滲み出している。

街の中心部に比べればこのあたりはまだ“まし”だ。

だが、その“まし”という基準自体が、すでに狂っていることに気づかねばならない。

 

街灯の油が切れかけているのか、明かりはちらつき、風に揺れる影が不自然に伸びていた。

路地の奥からは、誰かが祈るような呟きが聞こえる。

いや、祈りではない。啜り泣きのような、何かが渇きを訴える音だった。

 

私は足を止めずに進む。

この街の異常は、もはや目に見えずとも、肌で感じられる。

 

石造りの橋を渡ると、空が少しだけ開けた。

橋の下の方に白い建物の影が見える。

医療教会直属の“診療所”のひとつ。

その中でも、あの扉だけは、私にとって特別だった。

 

かつて、まだ何も知らなかった頃、私は何度かあの場所を訪れた。

彼女と話すために。

ただ、静かに時間を分け合うために。

 

今、私はそこに異形の瓶を抱え、また足を運んでいる。

 

扉の前で立ち止まり、私は一息ついた。

 

ここが、変わらぬままであることを、少しだけ祈りながら。

 

扉を叩こうとした、そのときだった。

背後から、かすれた咳と、引きずるような足音が聞こえた。

 

私は振り返る。

 

そこには、痩せ細った老人が立っていた。

衣服は煤けて薄汚れ、肌は骨に張り付くように青白い。

歩くだけでも痛そうに、片足を引きずっていた。

 

「……あんたも診てもらいに来たのか?」

 

声は、風に消え入りそうなほど弱々しい。

だが、その目だけが、どこか懇願の光を残していた。

 

「ここは……あの人は、まだ診てくれるのかね?

 血が、治すって……そう言ってたんだ。ほんの少しでも……」

 

私は、返す言葉を持たなかった。

 

どこかで聞いたような台詞。

それは、誰かが語った希望の残響にすぎない。

この街で“治る”という言葉が、すでにどれほどの人間を狂わせたかを、私は知っていた。

 

老人の足取りはよろよろと診療所の壁際まで進み、そこで立ち止まった。

まるで、自分が入れてもらえる順番を待つように。

 

私は、それを振り返らずに扉を叩いた。

 

コン、コン……

 

扉を叩いてから、十秒ほどの沈黙が続いた。

 

鍵の開く音。

ギィ…と重たい音を立て、扉の覗き窓がわずかに開いた。

 

その奥から、柔らかな声が漏れた。

 

「……まさか、あなた?」

 

私の名を口にしたわけではなかった。

それでも、彼女にはわかったのだろう。私が、ここへ戻ってきたことを。

 

「久しぶりだ、ヨセフカ」

 

彼女はしばらくの間、何も言わなかった。

その沈黙が、言葉よりも雄弁だった。

 

やがて、扉が軋みながら開かれる。

 

「入って。……他人の目がある場所で話す内容じゃないでしょう?」

 

私は軽く頷き、建物の中へと足を踏み入れた。

扉が背後で閉まる音が、妙に重たく響いた。

 

診療所の中は、変わっていなかった。

薄く漂う消毒薬の匂い。整然と並んだ薬瓶と棚。

陽光が白いカーテンを透かし、室内に柔らかい影を落としている。

 

彼女は私を待たせることなく、奥の部屋へと案内した。

 

「……何があったの?」

 

その問いは、医師としてのものではなかった。

ただの旧友が、黙っていられなくなったときの、静かな問いだった。

 

私は、一瞬だけ口を閉ざした。

 

そして――

「いくつか、禁じられた扉を開けてしまった」とだけ、答えた。

 

私がそう言うと、ヨセフカはわずかに眉を寄せた。

しかし、詰め寄るような勢いは消えていた。

 

代わりに、静かに椅子を引き、私の正面に腰かける。

 

「……わかったわ」

 

しばしの沈黙が流れた。

診療所の窓から差す光が、二人の影を長く落とす。

 

「あなたが何をしてきたのか、私は知る権利があるとは思っていない。

 でも――この街で、それを背負って一人で生きるのは、無理よ」

 

私は目を伏せた。

責めてはいない。ただ、真実を述べているだけ。

そのことが、私には何よりも重く感じられた。

 

「……ここにいても?」

 

問いというより、確認だった。

私の声は、いつになく弱かった。

 

ヨセフカは少し微笑んだ。

それは、彼女がかつて患者に向けていた、“本当に残しておきたいもの”の表情だった。

 

「もちろん。今はね。……アラリック、あなたが私に話す準備ができるまで、ここにいなさい」

 

「感謝する」

 

それだけを返すと、私は深く椅子に身を沈めた。

 

診療所の外では、遠くで鐘の音が響いていた。

それが時刻を告げるものなのか、それとも別の意味を持っているのか――

今の私には、まだ判断できなかった。

 

 

ー ー ー

 

 

あの頃、私はまだ「逸脱者」ではなかった。

 

ただ、知識を渇望する学徒として、教会が管理する診療記録の調査を命じられ、

この診療所を訪れたのだった。

 

ヨセフカとは、その一度きりで言葉を交わした。

 

彼女は白衣をまとい、淡い光の射す窓辺で書類に目を通していた。

振り返ったときのあの眼差しは、

患者でもなく、同業者でもなく、“ただの訪問者”を見る冷静な目だった。

 

「……ビルゲンワースから?」

 

「ええ、記録調査のために来ました。必要であれば、書類も提出します」

 

「いえ。必要なものがわかっているのなら、それだけ持ち帰って」

 

彼女はそれだけを言って、また視線を紙へ戻した。

私はしばらく何も言えず、黙って棚を探った。

 

沈黙の中に、医療器具の金属音だけが響いていた。

 

やがて、私の手が一冊の記録に触れたとき、彼女の声がふいに重なった。

 

「――あなたたちは、いつも“上”ばかり見てるのね」

 

「上?」

 

「空とか、星とか。あるいは神とか。

 でも私には、“下”の方が恐ろしいと思えるわ。

 ほら、足元。

 患者たちは皆、地面に這って死んでいくのよ」

 

私は黙った。

 

彼女の声には、憤りも悲しみもなかった。

ただ、“それを何度も見てきた者の声”だった。

 

「……医師には、そう見えるのかもしれません。

 でも、学徒にとっての答えは、常に上にある」

 

私はそれしか言えなかった。

 

それを聞いた彼女は、ほんのわずかに視線を上げ、

私を見た。

 

「なら、いつか……その“上”に何があったのか、教えて」

 

たったそれだけのやり取りだった。

 

だが、あのとき私は、

彼女に“人としての言葉”を投げかけられたことを、今でも覚えている。

 

硝子越しに交わした、とても淡く、けれど確かだった対話。

 

 

ー ー ー

 

 

「――その“上”に何があったのか、教えて」

 

ヨセフカのあの言葉が、頭の奥で反響していた。

静寂の中、まるで夢の底から引き上げられるように、私は現実へと戻った。

 

目を開けると、診療所の一室。

午後の光が斜めに差し込み、机の上の薬瓶に反射している。

 

本棚に並ぶ手記。乾いた紙の匂い。

すべてが整っている――だが、それゆえに、“閉じられた空間”としての圧迫感があった。

 

 

ここで私は、数日を過ごすことになった。

ヨセフカは多くを聞かなかった。

代わりに、いくつかの観察と、形ばかりの検査を行い、

「特に問題はないわね」と言って笑った。

 

彼女の目は優しかった。

だが私は、その優しさが“人としての距離”によって保たれていることを知っていた。

 

彼女は患者を助ける。

だが、それ以上に深入りはしない。

それが彼女のやり方であり、私がかつて惹かれた理由でもあった。

 

 

それでも、夜になると――

私は、夢を見るようになった。

 

夢の中で、誰かが囁いていた。

その声は、言葉にならず、ただ感情のような形をしていた。

 

名もなき嘆き。あるいは、未だ生まれぬものの声。

 

朝になると、枕元にわずかな“冷気”が残っていた。

 

 

ー ー ー

 

 

獣狩りの狩人エロイーズは、机の上に布を広げ、

そこに“彼女の相棒”を横たえた。

 

《獣狩りの剣》。

変形前は、両刃のショートソード。

重量はそこそこ。だが、その重さは“芯のある信頼”のように彼女の手に馴染む。

 

刃の中央には、細いスライドレール。

変形機構は、内部の小型バネと、嵌め合いによるスライド展開。

機械仕掛けのくせに、まるで呼吸するかのような動きをする。

 

彼女はピンセットで小さな欠片を摘み上げた。

刃の溝に詰まった血のかけら。

乾いていたが、酸のような匂いがまだ残っていた。

 

「……まだ“夜”じゃないっていうのに」

 

彼女は無言で清掃布を取り、

刃の片面を何度も、まるで祈るように擦った。

力はこめない。だが一切の無駄もない。

 

次に、柄の根元へ指を滑らせる。

そこには教会工房の印が、控えめな浮き彫りで刻まれていた。

長年の使用で、いくらか摩耗している。

だがその崩れ方もまた、彼女には美しく思えた。

 

刃をスライドさせると、シャラリと軽い音が鳴る。

 

中央部が開き、内部の構造が僅かに露出する。

油を一滴、二滴。

それを指で撫で、丁寧に染み込ませる。

刃を戻せば、感触が一段階軽くなった。

変形時の引っかかりが取れた証だ。

 

最後に、布を畳み、道具を一つずつしまっていく。

その所作もまた、戦闘の一部のように正確だった。

 

そして、静かに剣を背に収める。

 

それは、誰かを斬るためではなく――

“まだ誰も知らぬ夜”を迎えるための、ただの準備。

 

彼女は立ち上がり、工房の窓を一度だけ見た。

 

外の陽は、少し傾き始めていた。

 

――誰かを守るため、なんて言葉には、もうとっくに飽きている。

 

エロイーズは、そう思っていた。

 

彼女は昔、その理由で剣を振るった。

血に呑まれかけた若者を、獣に成りかけた娘を、

まだ戻れると信じて、剣の柄を握っていた。

 

でも現実は、ほとんど戻ってこなかった。

 

獣になった者を斬るとき、

その目が、まだ人間だった頃の涙を残していたことが何度もあった。

それを見て、彼女はこう思った。

 

「それでも、あれを斬ったのは、私の意志だ」と。

 

彼女は信じていない。

神も、教会も、夢も。

狩人の誓いや、救済の物語にも興味はない。

 

ただ、自分の手で何を斬り、何を残すか――

その選択だけは、他人に委ねないと決めた。

 

それが、彼女が“狩人”として留まっている理由。

 

“誓い”なんて言葉は似合わない。

けれど、剣を研ぐその手は、

確かに“信念”を形にしている。

 

静かに。

黙って。

誇り高く。

 

工房の奥にある整備場で、エロイーズが整えた剣を再び背に収めると、

軽い足音と、かすかな息遣いが聞こえた。

 

「エロイーズさん。まだいたんですね」

 

振り返るまでもなく、声の主が誰かはわかっていた。

 

「テオ。相変わらず声だけは元気ね」

 

「声だけって……褒めてます?」

 

「褒めてないわ」

 

エロイーズは苦笑を浮かべながらも、振り返った。

 

若い狩人、テオは傷の少ないコートに身を包み、

手には新品同然の銃剣を抱えていた。

 

「またどこかで獣の報告でも?」

 

「いえ、まだ夜も来ていないのに騒ぎ立てるのは愚か者ですよ。

 でも、なんというか……街の空気、変じゃありません?」

 

エロイーズは返事をしなかった。

 

代わりに、工房の壁にかかった古い斧をちらりと見やった。

 

「皆が同じことを言うようになったら、それはだいたい合ってるのよ」

 

「……じゃあ、そろそろですか。鐘が鳴るのは」

 

「かもね。まだしばらくは眠っていてほしいけど」

 

テオは少し沈黙した後、手にした銃剣を見下ろした。

 

「でも、僕は……来るなら来てほしいって思うんです。

 あの夜が来れば、僕にも――誰かを救える場面があるんじゃないかって」

 

エロイーズの目つきが、わずかに鋭くなった。

 

「そう。じゃあ聞くけど、救える“誰か”ってのは、

 あなたが“今まで何もできなかった相手”のことかしら」

 

「……!」

 

「そう思う時点で、あんたは自分のために誰かを救いたいだけよ。

 それは悪いことじゃない。

 でも、“そういう動機”で剣を抜くとき、人は一番残酷になる」

 

テオは、何も言い返せなかった。

 

エロイーズは溜息をついて、立ち上がる。

 

「今のうちに、武器の整備でもしておきなさい。

 夜が来てからじゃ、誰も見てくれないわよ」

 

そう言って、彼女はその場を離れる。

その背中は静かで、しかし確かに“剣を帯びた狩人”だった。

 

狩人の火は、まだ灯っている。

 

工房の奥では、数人の狩人たちが椅子を囲み、血の酒の匂いと笑い声を交わしていた。

 

「おいおい、あの獣、見たか? 牙が二本も足りてなかったぜ!」

 

「お前が切り落としたんだろ、それ! 剣振り回しすぎて後が大変だったんだぞ!」

 

「だから言ったろ? 俺の刃は礼儀を知らねぇって」

 

彼らの笑い声が天井の梁にまで跳ねている。

 

エロイーズはその輪には加わらなかった。

ただ黙って、廊下の片隅に立ち、壁に背を預けていた。

 

彼らはまだ笑っていられる。

酒も飲める。冗談も言える。

だからこそ、彼女は知っている。

 

“次に笑えなくなるのが誰か”を、今この中から数えてしまう自分がいることを。

 

彼らのうち何人かは、すでに兆候を見せていた。

手の震え。言葉の歪み。

戦の記憶が断片的になり、血の香りに過剰に反応する者もいる。

 

そして何より――

 

目だ。

 

獣に堕ちる直前の目は、“内側が光って見える”という。

人間のはずなのに、どこか空洞の奥から光が漏れてくるような――

そんな、奇妙な眼差し。

 

彼女は、数秒だけその場に視線を落とし、

深く、息を吐いた。

 

「……見送る側の方が、いつだって正気じゃいられないのよ」

 

その言葉は、誰に向けられたものでもない。

ただ、これからも何度も繰り返す“別れ”への、

ささやかな準備のような呟きだった。

 

笑い声が響く中で、エロイーズは静かに工房を出ていった。

 

夜はまだ訪れていない。

 

 

ー ー ー

 

 

ジョシュアはいつものように、手にした包帯をまき直していた。

小さな診療所の隅、ひっそりとした空間で彼は傷を隠しながら、静かに黙考している。

 

獣の力。

それに憧れ始めたのは、いつからだっただろう。

 

最初に感じたのは、ただの恐怖だった。

夜の街を歩いているとき、道端で見たその目。

誰もが見ないように避けるその目。

だが、ジョシュアにはそれが引き寄せられるような美しさに見えた。

 

彼はその目を忘れることができなかった。

獣になりかけた者たちが残す痕跡、それが何を意味するのか、最初は恐ろしいと感じた。

しかし、次第にその力強さに魅了され、次第にその力が必要だと思うようになった。

 

「もっと強くなりたい……」

 

ひとり、ジョシュアは鏡を見つめた。

そこで見つめ返してくる自分の顔は、少し疲れているが、

それでもまだ人間であり、変わりたいと願っていた。

 

「もし、あの力を――」

 

ふと視線を上げると、鏡に映る自分が見えた。

血に濡れた手、傷だらけの顔。

それでもまだ“人間”として残っている。

 

ジョシュアは、獣の力を追い求めることに迷いを感じつつも、同時に強く欲していた。

その力があれば、変わることができるのではないか。

 

だが、彼は知っている。

獣になった者たちがどうなるかを。

それは、誰もが知っている終わりだった。

獣の体に自分を投げ込むことは、確実に破滅を意味している。

 

「まだ、手を出すべきじゃない」

 

ジョシュアは呟きながら、再び包帯を巻き直す。

無理に止めることはない。

だが、その力を求める心が、どこかで彼を焦らせていた。

 

傷口から滲み出る血が、再び手のひらを赤く染めた。

その血が、もう少しだけ温かく感じる。

 

ジョシュアの心の中では、獣になることが恐怖でありながらも、その恐怖を超える何かが、

彼の中でじわじわと成長している。

それを抑えきれずに、手を伸ばす時が来るだろう――




まとめ書きした分です。書きかけのものがあともう一話。すぐ投稿できそうです。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。