BloodBorne Another story 〜闇を追い求めた者〜 作:カッサバ
聖堂街を抜け、私は診療所を目指していた。
人影はまばらになり、石畳の裂け目からは、濁った水が滲み出している。
街の中心部に比べればこのあたりはまだ“まし”だ。
だが、その“まし”という基準自体が、すでに狂っていることに気づかねばならない。
街灯の油が切れかけているのか、明かりはちらつき、風に揺れる影が不自然に伸びていた。
路地の奥からは、誰かが祈るような呟きが聞こえる。
いや、祈りではない。啜り泣きのような、何かが渇きを訴える音だった。
私は足を止めずに進む。
この街の異常は、もはや目に見えずとも、肌で感じられる。
石造りの橋を渡ると、空が少しだけ開けた。
橋の下の方に白い建物の影が見える。
医療教会直属の“診療所”のひとつ。
その中でも、あの扉だけは、私にとって特別だった。
かつて、まだ何も知らなかった頃、私は何度かあの場所を訪れた。
彼女と話すために。
ただ、静かに時間を分け合うために。
今、私はそこに異形の瓶を抱え、また足を運んでいる。
扉の前で立ち止まり、私は一息ついた。
ここが、変わらぬままであることを、少しだけ祈りながら。
扉を叩こうとした、そのときだった。
背後から、かすれた咳と、引きずるような足音が聞こえた。
私は振り返る。
そこには、痩せ細った老人が立っていた。
衣服は煤けて薄汚れ、肌は骨に張り付くように青白い。
歩くだけでも痛そうに、片足を引きずっていた。
「……あんたも診てもらいに来たのか?」
声は、風に消え入りそうなほど弱々しい。
だが、その目だけが、どこか懇願の光を残していた。
「ここは……あの人は、まだ診てくれるのかね?
血が、治すって……そう言ってたんだ。ほんの少しでも……」
私は、返す言葉を持たなかった。
どこかで聞いたような台詞。
それは、誰かが語った希望の残響にすぎない。
この街で“治る”という言葉が、すでにどれほどの人間を狂わせたかを、私は知っていた。
老人の足取りはよろよろと診療所の壁際まで進み、そこで立ち止まった。
まるで、自分が入れてもらえる順番を待つように。
私は、それを振り返らずに扉を叩いた。
コン、コン……
扉を叩いてから、十秒ほどの沈黙が続いた。
鍵の開く音。
ギィ…と重たい音を立て、扉の覗き窓がわずかに開いた。
その奥から、柔らかな声が漏れた。
「……まさか、あなた?」
私の名を口にしたわけではなかった。
それでも、彼女にはわかったのだろう。私が、ここへ戻ってきたことを。
「久しぶりだ、ヨセフカ」
彼女はしばらくの間、何も言わなかった。
その沈黙が、言葉よりも雄弁だった。
やがて、扉が軋みながら開かれる。
「入って。……他人の目がある場所で話す内容じゃないでしょう?」
私は軽く頷き、建物の中へと足を踏み入れた。
扉が背後で閉まる音が、妙に重たく響いた。
診療所の中は、変わっていなかった。
薄く漂う消毒薬の匂い。整然と並んだ薬瓶と棚。
陽光が白いカーテンを透かし、室内に柔らかい影を落としている。
彼女は私を待たせることなく、奥の部屋へと案内した。
「……何があったの?」
その問いは、医師としてのものではなかった。
ただの旧友が、黙っていられなくなったときの、静かな問いだった。
私は、一瞬だけ口を閉ざした。
そして――
「いくつか、禁じられた扉を開けてしまった」とだけ、答えた。
私がそう言うと、ヨセフカはわずかに眉を寄せた。
しかし、詰め寄るような勢いは消えていた。
代わりに、静かに椅子を引き、私の正面に腰かける。
「……わかったわ」
しばしの沈黙が流れた。
診療所の窓から差す光が、二人の影を長く落とす。
「あなたが何をしてきたのか、私は知る権利があるとは思っていない。
でも――この街で、それを背負って一人で生きるのは、無理よ」
私は目を伏せた。
責めてはいない。ただ、真実を述べているだけ。
そのことが、私には何よりも重く感じられた。
「……ここにいても?」
問いというより、確認だった。
私の声は、いつになく弱かった。
ヨセフカは少し微笑んだ。
それは、彼女がかつて患者に向けていた、“本当に残しておきたいもの”の表情だった。
「もちろん。今はね。……アラリック、あなたが私に話す準備ができるまで、ここにいなさい」
「感謝する」
それだけを返すと、私は深く椅子に身を沈めた。
診療所の外では、遠くで鐘の音が響いていた。
それが時刻を告げるものなのか、それとも別の意味を持っているのか――
今の私には、まだ判断できなかった。
ー ー ー
あの頃、私はまだ「逸脱者」ではなかった。
ただ、知識を渇望する学徒として、教会が管理する診療記録の調査を命じられ、
この診療所を訪れたのだった。
ヨセフカとは、その一度きりで言葉を交わした。
彼女は白衣をまとい、淡い光の射す窓辺で書類に目を通していた。
振り返ったときのあの眼差しは、
患者でもなく、同業者でもなく、“ただの訪問者”を見る冷静な目だった。
「……ビルゲンワースから?」
「ええ、記録調査のために来ました。必要であれば、書類も提出します」
「いえ。必要なものがわかっているのなら、それだけ持ち帰って」
彼女はそれだけを言って、また視線を紙へ戻した。
私はしばらく何も言えず、黙って棚を探った。
沈黙の中に、医療器具の金属音だけが響いていた。
やがて、私の手が一冊の記録に触れたとき、彼女の声がふいに重なった。
「――あなたたちは、いつも“上”ばかり見てるのね」
「上?」
「空とか、星とか。あるいは神とか。
でも私には、“下”の方が恐ろしいと思えるわ。
ほら、足元。
患者たちは皆、地面に這って死んでいくのよ」
私は黙った。
彼女の声には、憤りも悲しみもなかった。
ただ、“それを何度も見てきた者の声”だった。
「……医師には、そう見えるのかもしれません。
でも、学徒にとっての答えは、常に上にある」
私はそれしか言えなかった。
それを聞いた彼女は、ほんのわずかに視線を上げ、
私を見た。
「なら、いつか……その“上”に何があったのか、教えて」
たったそれだけのやり取りだった。
だが、あのとき私は、
彼女に“人としての言葉”を投げかけられたことを、今でも覚えている。
硝子越しに交わした、とても淡く、けれど確かだった対話。
ー ー ー
「――その“上”に何があったのか、教えて」
ヨセフカのあの言葉が、頭の奥で反響していた。
静寂の中、まるで夢の底から引き上げられるように、私は現実へと戻った。
目を開けると、診療所の一室。
午後の光が斜めに差し込み、机の上の薬瓶に反射している。
本棚に並ぶ手記。乾いた紙の匂い。
すべてが整っている――だが、それゆえに、“閉じられた空間”としての圧迫感があった。
⸻
ここで私は、数日を過ごすことになった。
ヨセフカは多くを聞かなかった。
代わりに、いくつかの観察と、形ばかりの検査を行い、
「特に問題はないわね」と言って笑った。
彼女の目は優しかった。
だが私は、その優しさが“人としての距離”によって保たれていることを知っていた。
彼女は患者を助ける。
だが、それ以上に深入りはしない。
それが彼女のやり方であり、私がかつて惹かれた理由でもあった。
⸻
それでも、夜になると――
私は、夢を見るようになった。
夢の中で、誰かが囁いていた。
その声は、言葉にならず、ただ感情のような形をしていた。
名もなき嘆き。あるいは、未だ生まれぬものの声。
朝になると、枕元にわずかな“冷気”が残っていた。
ー ー ー
獣狩りの狩人エロイーズは、机の上に布を広げ、
そこに“彼女の相棒”を横たえた。
《獣狩りの剣》。
変形前は、両刃のショートソード。
重量はそこそこ。だが、その重さは“芯のある信頼”のように彼女の手に馴染む。
刃の中央には、細いスライドレール。
変形機構は、内部の小型バネと、嵌め合いによるスライド展開。
機械仕掛けのくせに、まるで呼吸するかのような動きをする。
彼女はピンセットで小さな欠片を摘み上げた。
刃の溝に詰まった血のかけら。
乾いていたが、酸のような匂いがまだ残っていた。
「……まだ“夜”じゃないっていうのに」
彼女は無言で清掃布を取り、
刃の片面を何度も、まるで祈るように擦った。
力はこめない。だが一切の無駄もない。
次に、柄の根元へ指を滑らせる。
そこには教会工房の印が、控えめな浮き彫りで刻まれていた。
長年の使用で、いくらか摩耗している。
だがその崩れ方もまた、彼女には美しく思えた。
刃をスライドさせると、シャラリと軽い音が鳴る。
中央部が開き、内部の構造が僅かに露出する。
油を一滴、二滴。
それを指で撫で、丁寧に染み込ませる。
刃を戻せば、感触が一段階軽くなった。
変形時の引っかかりが取れた証だ。
最後に、布を畳み、道具を一つずつしまっていく。
その所作もまた、戦闘の一部のように正確だった。
そして、静かに剣を背に収める。
それは、誰かを斬るためではなく――
“まだ誰も知らぬ夜”を迎えるための、ただの準備。
彼女は立ち上がり、工房の窓を一度だけ見た。
外の陽は、少し傾き始めていた。
――誰かを守るため、なんて言葉には、もうとっくに飽きている。
エロイーズは、そう思っていた。
彼女は昔、その理由で剣を振るった。
血に呑まれかけた若者を、獣に成りかけた娘を、
まだ戻れると信じて、剣の柄を握っていた。
でも現実は、ほとんど戻ってこなかった。
獣になった者を斬るとき、
その目が、まだ人間だった頃の涙を残していたことが何度もあった。
それを見て、彼女はこう思った。
「それでも、あれを斬ったのは、私の意志だ」と。
彼女は信じていない。
神も、教会も、夢も。
狩人の誓いや、救済の物語にも興味はない。
ただ、自分の手で何を斬り、何を残すか――
その選択だけは、他人に委ねないと決めた。
それが、彼女が“狩人”として留まっている理由。
“誓い”なんて言葉は似合わない。
けれど、剣を研ぐその手は、
確かに“信念”を形にしている。
静かに。
黙って。
誇り高く。
工房の奥にある整備場で、エロイーズが整えた剣を再び背に収めると、
軽い足音と、かすかな息遣いが聞こえた。
「エロイーズさん。まだいたんですね」
振り返るまでもなく、声の主が誰かはわかっていた。
「テオ。相変わらず声だけは元気ね」
「声だけって……褒めてます?」
「褒めてないわ」
エロイーズは苦笑を浮かべながらも、振り返った。
若い狩人、テオは傷の少ないコートに身を包み、
手には新品同然の銃剣を抱えていた。
「またどこかで獣の報告でも?」
「いえ、まだ夜も来ていないのに騒ぎ立てるのは愚か者ですよ。
でも、なんというか……街の空気、変じゃありません?」
エロイーズは返事をしなかった。
代わりに、工房の壁にかかった古い斧をちらりと見やった。
「皆が同じことを言うようになったら、それはだいたい合ってるのよ」
「……じゃあ、そろそろですか。鐘が鳴るのは」
「かもね。まだしばらくは眠っていてほしいけど」
テオは少し沈黙した後、手にした銃剣を見下ろした。
「でも、僕は……来るなら来てほしいって思うんです。
あの夜が来れば、僕にも――誰かを救える場面があるんじゃないかって」
エロイーズの目つきが、わずかに鋭くなった。
「そう。じゃあ聞くけど、救える“誰か”ってのは、
あなたが“今まで何もできなかった相手”のことかしら」
「……!」
「そう思う時点で、あんたは自分のために誰かを救いたいだけよ。
それは悪いことじゃない。
でも、“そういう動機”で剣を抜くとき、人は一番残酷になる」
テオは、何も言い返せなかった。
エロイーズは溜息をついて、立ち上がる。
「今のうちに、武器の整備でもしておきなさい。
夜が来てからじゃ、誰も見てくれないわよ」
そう言って、彼女はその場を離れる。
その背中は静かで、しかし確かに“剣を帯びた狩人”だった。
狩人の火は、まだ灯っている。
工房の奥では、数人の狩人たちが椅子を囲み、血の酒の匂いと笑い声を交わしていた。
「おいおい、あの獣、見たか? 牙が二本も足りてなかったぜ!」
「お前が切り落としたんだろ、それ! 剣振り回しすぎて後が大変だったんだぞ!」
「だから言ったろ? 俺の刃は礼儀を知らねぇって」
彼らの笑い声が天井の梁にまで跳ねている。
エロイーズはその輪には加わらなかった。
ただ黙って、廊下の片隅に立ち、壁に背を預けていた。
彼らはまだ笑っていられる。
酒も飲める。冗談も言える。
だからこそ、彼女は知っている。
“次に笑えなくなるのが誰か”を、今この中から数えてしまう自分がいることを。
彼らのうち何人かは、すでに兆候を見せていた。
手の震え。言葉の歪み。
戦の記憶が断片的になり、血の香りに過剰に反応する者もいる。
そして何より――
目だ。
獣に堕ちる直前の目は、“内側が光って見える”という。
人間のはずなのに、どこか空洞の奥から光が漏れてくるような――
そんな、奇妙な眼差し。
彼女は、数秒だけその場に視線を落とし、
深く、息を吐いた。
「……見送る側の方が、いつだって正気じゃいられないのよ」
その言葉は、誰に向けられたものでもない。
ただ、これからも何度も繰り返す“別れ”への、
ささやかな準備のような呟きだった。
笑い声が響く中で、エロイーズは静かに工房を出ていった。
夜はまだ訪れていない。
ー ー ー
ジョシュアはいつものように、手にした包帯をまき直していた。
小さな診療所の隅、ひっそりとした空間で彼は傷を隠しながら、静かに黙考している。
獣の力。
それに憧れ始めたのは、いつからだっただろう。
最初に感じたのは、ただの恐怖だった。
夜の街を歩いているとき、道端で見たその目。
誰もが見ないように避けるその目。
だが、ジョシュアにはそれが引き寄せられるような美しさに見えた。
彼はその目を忘れることができなかった。
獣になりかけた者たちが残す痕跡、それが何を意味するのか、最初は恐ろしいと感じた。
しかし、次第にその力強さに魅了され、次第にその力が必要だと思うようになった。
「もっと強くなりたい……」
ひとり、ジョシュアは鏡を見つめた。
そこで見つめ返してくる自分の顔は、少し疲れているが、
それでもまだ人間であり、変わりたいと願っていた。
「もし、あの力を――」
ふと視線を上げると、鏡に映る自分が見えた。
血に濡れた手、傷だらけの顔。
それでもまだ“人間”として残っている。
ジョシュアは、獣の力を追い求めることに迷いを感じつつも、同時に強く欲していた。
その力があれば、変わることができるのではないか。
だが、彼は知っている。
獣になった者たちがどうなるかを。
それは、誰もが知っている終わりだった。
獣の体に自分を投げ込むことは、確実に破滅を意味している。
「まだ、手を出すべきじゃない」
ジョシュアは呟きながら、再び包帯を巻き直す。
無理に止めることはない。
だが、その力を求める心が、どこかで彼を焦らせていた。
傷口から滲み出る血が、再び手のひらを赤く染めた。
その血が、もう少しだけ温かく感じる。
ジョシュアの心の中では、獣になることが恐怖でありながらも、その恐怖を超える何かが、
彼の中でじわじわと成長している。
それを抑えきれずに、手を伸ばす時が来るだろう――
まとめ書きした分です。書きかけのものがあともう一話。すぐ投稿できそうです。