BloodBorne Another story 〜闇を追い求めた者〜 作:カッサバ
診療所の壁にかけられた時計の音が、やけに大きく聞こえる。
コツ、コツ、コツ。
まるで、何かがすぐそばを歩いているかのように。
アラリックは窓辺に立っていた。
外にはまだ夕日が差している。
しかし、彼の背筋を這うような不快感は、明らかに夜の感触だった。
机の上には、ヨセフカが残した薬品と器具が整然と並んでいた。
全てが静かで、清潔で、理知的なはずなのに――
どこか、「死後の整然さ」にも似ていた。
息苦しさを覚えた彼は、手のひらを押さえる。
その中にある、瓶詰の『胎なる妖精』
目には見えぬが、確かにぬるりとした熱を持って脈打っていた。
「お前まで騒ぐのか……?」
アラリックは小声でそう呟く。
だが答えはない。
代わりに、窓の外の風が止まった。
一瞬の静寂。
次の瞬間、彼の胸を、ぞわりと何かが這い上がった。
それは恐怖ではない。
だが、決して理屈で片付けられないものだった。
「……もうすぐか」
声にしても、心は静まらなかった。
昼の終わりにしては、街が静かすぎる。
音がすべて、どこかへ逃げていく。
何も始まっていない。
でも、何かがもうこちらを見ている。
アラリックは、静かに窓から目を離した。
ー ー ー
最初は、耳鳴りのような音だった。
低く、地の底から響いてくるような…そんな“鐘のような音”。
ジョシュアは部屋の窓を開け、灰色の空を見上げた。
日が落ちたわけではないのに、もう街の色が消えかけている。
影が伸び、煙のように路地を這う。
「……来るんだな、やっぱり」
彼の声は震えていた。
だが、それは恐怖ではない。
どこか――期待に似ていた。
この数日、街はおかしかった。
血の匂いが濃く、誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが黙り込んだ。
病人が増え、咳が響き、銃声が夜風に混じった。
そして今、鐘が鳴る。
それは合図だった。
人間でいられるのは、ここまでだと――そう告げる音。
「俺も……」
彼は包帯を巻いた手を見つめた。
その下にある小さな痕は、自分で刻んだ印だった。
儀式ではない。
誰にも教わっていない。
けれど、何かに従っていた。
血に呼ばれるように。
内側から湧き上がる力の熱に応えるように。
「強くなれる……俺だって、強くなれるはずだ」
ジョシュアは息を吸い込んだ。
肺が焼けるように痛い。
でも、それが心地よかった。
そして彼は、その手で顔を覆った。
その瞬間――
骨がきしむ音がした。
皮膚の内側で、何かが動いた。
「ッ――……!」
口から洩れたのは言葉ではなかった。
咆哮でも、呻きでもない。
何か、もっと獣に近い呼吸音だった。
まだ完全ではない。
だが――確実に“始まった”。
彼の中の何かが、目を覚ましたのだ。
ジョシュア。
まだ名を呼ばれることがあるなら、それは人間としての最後の呼び名になるだろう。
獣狩りの夜。
鐘が、もう一度、鳴る。
心臓の鼓動が――やけに、遅い。
まるで、時間の外に出てしまったようだった。
誰もいない。
声がない。
そして、自分の内側だけが、やけに騒がしい。
包帯を巻いた手が震えている。
震えているのは、恐怖のせいじゃない。
待ちきれないだけだ。
「やめろ……おれは……」
喉が焼けるように乾いていた。
言葉は途切れ、舌が重くなる。
誰に言い訳しているのかすら、もうわからなかった。
軋む扉の音がした。
誰かが階段を上がってくる。
スリッパの擦れる音。
重さのない歩幅。
「ジョシュア? 夕飯……食べてないでしょ? また下りてこなかったから……」
女の声だった。
隣に住む、気のいい未亡人。
ヤーナムに相応くない。気前が良く、美人な彼女はよく食事を分けてくれた。
ジョシュアにとって、それは人間でいられる最後の救いだったはずだった。
なのに。
「……下がれ」
そう言おうとしたのに、声が出ない。
代わりに――咳のようなうめき声が喉から漏れた。
女は扉を開けかけた。
そして見た。
包帯の下から覗く、黒く肥大した指先。
発熱して膨張した静脈。
歪んだ、ジョシュアの目。
「……あなた……どうしたの……?」
そう問いかける彼女の声は、震えていなかった。
ジョシュアの頭の中で、
それがなぜか――腹立たしかった。
なぜ怖がらない?
なぜ逃げない?
なぜ俺を、まだ“ジョシュア”として見る?
「……ちがう……」
彼の口が裂けた。
歯茎から血がにじむ。
声が、叫びが、止まらない。
「俺は……もう違うんだ……!!」
獣の咆哮が響いた。
その瞬間、扉の向こうの悲鳴はなかった。
ただ、骨の折れる音と、柔らかい肉が裂ける音だけが部屋を満たした。
血が壁に散る。
絨毯に染み込む。
古い皿が転がり落ちて割れた。
ジョシュアは立ち尽くしていた。
膝が震え、口から赤い泡が漏れていた。
女の体はもう形を保っていない。
けれど、彼女の表情だけが、どこか安らかだった。
「……俺は……ちが……う」
その言葉の意味を、もう彼自身もわからなかった。
理性は、もう半分、崩れている。
それでも彼はまだ人間の姿をしている。
血にまみれたその手が、
いつか獣の爪に変わることを――
彼だけが、知らなかった。
上からの物音に、老人は目を覚ました。
寝間着のまま、杖をついて廊下に出る。
長い夜は、もうすぐ始まる。
だがそれよりも早く、血の匂いが漂ってきた。
「また誰か喧嘩でもしておるのか……ヤーナムの若いのは、血の気が多すぎる」
小さく呟きながら階段をのぼる。
だが、言葉の途中で鼻孔を刺す匂いに変化があった。
それは、血の匂いなどという生やさしいものではない。
腐敗に似て、それでいて熱く――
まるで命が歪められた”匂い"だった。
ジョシュアの部屋の前に立った時、
扉がわずかに開いていた。
そして――
そこにあったのは、無惨に裂けた女の肉体と、
その傍らで口元を血に染めたまま、震える“誰か”の影だった。
「……ジョシュア……?」
声が出た。
だが、反応はなかった。
ただ振り返ったその目だけが――
人間の目ではなかった。
老人は何も言えず、そのまま尻餅をつく。
若者の背中から突き出しかけた、
何本かの“骨ではない”異形の隆起。
包帯の中から、黒く爛れた皮膚が裂けていた。
ジョシュアはそのまま立ち上がる。
血まみれの手を見下ろし、
かすかに口を開き、低い声を漏らした。
「見ないでくれ……じいさん……」
老人の目に、一筋の涙が浮かんだ。
それは――
哀れみか、絶望か。
あるいは、人間だった者への最後の見送りだったのかもしれない。
老人は、何も言えなかった。
「見ないでくれ……」
その言葉を聞いたとき、
老人の中にあった全ての理性が、音もなく崩れ落ちた。
その声には、人間の声色が残っていた。
けれど、言葉の裏にあるもの――
その“響き”は、明らかに別物だった。
獣だ。
血の臭い、皮膚の裂け目、目の奥の光――
そこにいるのは、
もはや“ジョシュア”ではなかった。
「獣だ!!」
悲鳴は、自分の口から漏れたことにすら気づかぬまま響いた。
乾いた喉から絞り出すように、
怒鳴るでもなく、泣き叫ぶでもなく、
獣を見てしまった人間の絶望が、その声に滲んでいた。
階下の扉が開く音。
窓が軋む音。
人々が“異変”に気づき始める。
老人は壁に手をつき、体を支えた。
震えながらも、もう一度叫んだ。
「獣だ! 獣がいる!!」
それは恐怖ではない。
助けを呼ぶでも、誰かに訴えるでもない。
それは――鐘の合図だった。
夜が始まる。
そしてそれは、もう誰にも止められない。
ジョシュアは動かなかった。
ただ、部屋の中央に立ち尽くしたまま、
その叫びを黙って聞いていた。
聞きながら――
舌なめずりをしていた。
「獣だ!!」
老人の叫びとともに、何かが頭の中で砕けた。
けれど――
それは、彼の理性そのものではなかった。
目に映る世界が、変わっていっただけだった。
廊下に現れた老人の顔が、崩れていた。
皮膚が垂れ下がり、口は裂け、目の奥が暗黒に沈んでいる。
“人間のふりをした獣”――そう見えた。
「……ちがう……違うだろ、お前も――!」
震える声とともに、彼の爪が動いた。
血が飛び、肉が裂けた。
だが彼の耳には、悲鳴も罵声も届いてこない。
「そうだ…!ここから出なくては…!」
階段を駆け下りる途中、ジョシュアの脳裏に浮かんだのは、
扉の隙間から覗いた“赤い目”。
ガリガリに痩せた体つき。
よれたシャツ。
右手には、夕飯の鍋を持っていた。
「あの女と、いつも一緒にいた若造……!」
彼の脳がそう理解した時には、
すでに身体が飛びかかっていた。
「やめ――ッ!」
若者の叫びは、悲鳴にもならなかった。
ジョシュアの爪が、胸骨を裂き、鍋ごと地面に叩き落とす。
鍋の中身――小さなパンと干し肉のスープが地面に散らばる。
それが、血と混じり合い、ぐちゃりと音を立てた。
通りへ出ると、路地裏の隅に老婆がいた。
丸く背を曲げ、背負い籠を抱えていた。
ジョシュアの目には、
その背中から触手のような腕が生えて見えた。
「化け物……化け物だろ、どう見たって……!」
彼は爪を突き刺すように走った。
老婆は手を差し伸べた。
それは逃げるでもなく、拒むでもない動きだった。
「ジョシュア坊……? 何を――」
その声は、幼い頃に何度も聞いた声だった。
だがもう、耳には届かない。
牙が肉を噛みちぎる音だけが、世界の中心にあった。
通りの向こうから、青年が走ってきた。
見覚えがある顔――街の仕立て屋の息子。
彼の手には刃物があった。
「おい!お前、なにを――!」
彼の叫びは、ジョシュアの頭の中でこう変換された。
『お前を裂いてやる、獣め』
ジョシュアは吠えた。
牙を剥き、飛びかかり、
仕立て屋の息子の首筋に噛みついた。
彼の手から落ちた刃物が、カン、と音を立てて跳ねた。
一人ひとりに“理由”がある。
名前があり、家があり、誰かの思い出がある。
だが今のジョシュアには、
そのすべてが“敵”にしか見えない。
自分を傷つけようとする、
恐ろしい、歪んだ、獣たち。
「俺は……俺は、違う……!」
吐き捨てるように叫びながら、
彼は血を浴び、喉を鳴らす。
まるで、誰かに助けを求めるように。
街の奥で、誰かが叫んだ。
「獣が出たぞ!狩人を――誰か狩人を呼べッ!!」
鐘が、また一つ、重く鳴り響いた。
「……聞こえたな」
路地裏を照らすのは、ランプの光ではない。
燃え上がる油の匂い。
地面にこびりつく鮮血。
そして、空気を切り裂く獣の咆哮。
無名の狩人は、静かにフードをかぶった。
腰に下げた鉄刃の刃器を抜く。
銃器は古い火薬式――それでも十分だ。
「夜が来たか……」
路地の先、血濡れの“影”が立っていた。
ジョシュア。
その身体はまだ人間の輪郭を残していたが、
腕の皮膚は裂け、爪は黒く変質し、
顔の半分には獣の影が染み付いていた。
「誰だ、誰だお前……ッ!」
声が震えていた。
だがそれは、恐怖の震えではない。
理性と混乱がぶつかり合う、叫びだった。
「下がれ、獣」
狩人の言葉は静かだった。
血の夜において、慈悲は躊躇と同義である。
ジョシュアが吠えた。
視界に入るすべてが、また“敵”の顔に歪んで見えた。
狩人の姿は、毛むくじゃらの怪物のように見えた。
手には斧があり、眼は獣のように爛れている。
「化け物が……俺を喰らうつもりか……!」
彼は飛びかかる。
爪が風を裂く。
狩人はそれを回避し、
地面を蹴って反撃に転じた。
刃がぶつかり、血が散る。
「人の姿を捨てたか……だがまだ完全ではないな」
狩人は冷静に見極める。
動きに“迷い”がある。
戦いに“躊躇”がある。
つまり――まだ、殺されたいと思っていない。
それが狩人にとって、
最もやっかいな“獣”である。
「やめろッ!!近づくな、近づくなああああッ!!」
ジョシュアは獣の腕で壁を叩き壊し、
その破片を手に投げつける。
狩人はひるまず前進し、
銃口を突きつける。
「……せめて、楽にしてやる」
引き金が引かれた。
爆音とともに、
ジョシュアの肩が砕けた。
血と肉が飛び散る。
それでも倒れない。
彼は呻き、蹌踉けながらも前を睨みつける。
「俺は……違う……獣じゃ、ない……!」
その言葉に、一瞬だけ狩人の眉が動いた。
「だったら証明してみろ、理性で生き残れると」
自分の口からこぼれたその言葉に、
狩人は一瞬、胸の奥に鈍い痛みを感じた。
何度も、何人にも同じ言葉を浴びせてきた。
それが“夜の掟”だった。
人の顔をした者に刃を振るう理由だった。
だが――
「俺は……違う……獣じゃ、ない……!」
その言葉が、
どこかで聞いた“誰か”と重なった。
誰だ。
思い出せない。
でも確かに――
かつて狩りの夜に、刃の先で震えていた若者の声と、同じだった。
その一瞬、
狩人の腕が――止まった。
それは僅かな躊躇。
だが、夜においては致命的だった。
ジョシュアが吠えた。
その目に、もう“人間”はいなかった。
あるのは生きるための衝動と、恐怖に染まった本能だけ。
「やめろ……やめてくれ……!」
叫びとともに突き出された鉤爪が、
狩人の腹を貫いた。
返り血が、月の下で虹色に煌めいた。
狩人の刃が、
空を裂くだけで終わった。
彼は膝をつき、
腹からこぼれ落ちる温かな命を感じながら、
ただ、呆然と呟いた。
「……やはり……お前は……まだ……」
最後の言葉は、
血で濁った咳に呑まれた。
ジョシュアはその場に立ち尽くしていた。
自分の手が、また一つ命を奪ったことに、
気づいている。
だが、理解できない。
「……俺は……ちがう……違うんだ……違うってば……」
もう、誰に届く言葉でもなかった。
鐘が、また鳴った。
今度は、遠くの街並みにもその音が響いていた。
最初の狩人が倒れた。
それは、
夜の“始まり”が終わり、
“本当の血戦”が始まる、
最初の合図だった。
ー ー ー
鐘の音が止んだ夜――
風は重く、街の空気は泥のように濁っていた。
石畳に横たわる布の下、
一人の老人が目を覚ます。
その胸の奥で何かが――疼いた。
「……喉が乾いた」
違う。
それは飢えではない。
血の渇きだ。
彼の視界に映る通行人の顔が、
皮膚の剥がれたような、黒ずんだ獣面に見えた。
「……お前も、俺を……!」
彼はごそごそと袋の中をあさり、
錆びた鉈を取り出す。
「こっちが先だ、そうだろ?」
男は獣のように吠えて、
通行人に襲いかかった。
街の角で、少女が震えていた。
母を探していたのか、
それともただ、逃げ遅れたのか。
そこに、血の付いたシャベルを引きずる男が近づいた。
歯が抜け落ちた笑み。
肌には毛細血管が浮き出ていた。
「おい、お前……それ、獣の目だろう?」
少女は首を振る。
けれど男の目には、それが獣の“牙を隠す仕草”に見えた。
「嘘つきめ……」
シャベルが振り上げられた。
こうして、路上の片隅から“感染”は広がった。
完全な獣ではない。
だが、人でもない。
誰かの視線が、
誰かの言葉が、
誰かの“気配”が――
獣に見える。
そして、そう見えた瞬間に、
手にした刃が動く。
「殺される前に、殺さなきゃいけないんだ……!」
「やつらは獣なんだ、見ろよ、見ろよ、この目を……ッ!」
「俺はまだ人間だ、お前たちとは違うんだ……!」
叫び声が、街の通りという通りに反響する。
それはまるで――本物の獣の咆哮のように。
ヤーナムに火が灯る。
それは灯火ではなく、
血の匂いに導かれた暴走の業火。
今宵、“獣狩りの夜”が確かに始まった。
続きは明日になります!遂にジョシュアが獣にっ!!
獣視点を描いてみましたが彼ら(ホワイホワイ)の視点はこんなものだったんでしょうかね?