BloodBorne Another story 〜闇を追い求めた者〜 作:カッサバ
「……窓を閉めてくれるかしら?」
ヨセフカの声が、部屋の静寂をやさしく破った。
背後を振り返ると、彼女は白衣の袖をまくりながら、試験管を火にかけていた。
外の空は、不穏な曇天に染まり、遠くでまた鐘の音が鳴っている。
アラリックは、静かに窓を閉めた。
「……外が、騒がしくなっている」
「ええ。夜が来るわ。ヤーナムの、ね」
ヨセフカの声は穏やかだが、どこか遠い。
その目には、何かを覚悟している者の光が宿っていた。
「この診療所は、今のところは安全よ。
でも、患者の中には……兆候が出ている者もいる」
「獣化、というやつか」
「ええ。あなたなら分かるでしょう?
血の質が変わるの。ある夜を境に、ある一定の周波で――“血が鳴る”。」
ヨセフカはそう言って、試験管を置き、アラリックの方へ向き直った。
「……あなた、ビルゲンワースの人間だったわね」
その言葉に、アラリックの表情がわずかに硬くなる。
「……“だった”とはまた、随分な言い方だ」
「今のあなたは“ビルゲンワースの人間”ではないでしょう?
あそこに属するということは、真理のために人であることを捨てること。
あなたはまだ、人の目をしているもの」
アラリックは鼻で笑った。
「なら、そのうち変わるかもしれない。
“瞳"は、外から入ってきたものに染まりやすい」
「そのとき、私はあなたをこの診療所に二度と踏み入らせる事はないかも。」
「君がそうするなら、納得しよう」
短く言葉を交わすふたり。
だがその空気の中にあったのは、敵意でも軽蔑でもない――
科学者同士の静かな緊張、そしてわずかな信頼だった。
ヨセフカは立ち上がり、壁の棚から銀の鍵を取り出した。
「夜が深くなる前に、準備だけはしておいて。
私はまだ“彼ら”を看なきゃいけない。
でも、あなたは……違うわよね?」
アラリックは頷き、背中の鞄を締め直す。
「観測者として……少し、外の空気を吸いたいだけだ」
ヨセフカは少しだけ微笑んだ。
「その“外気”に毒されないことを願ってるわ。
今夜は、特に毒が濃いから」
扉の前に立つアラリックに、
ヨセフカは一つだけ問いを投げかける。
「アラリック。
もし“人を辞めた何か”が、
目の前で手を差し伸べてきたら……あなたはどうするの?」
一瞬だけ、彼の目が鋭くなる。
だが次の瞬間には、笑みすら浮かべていた。
「その“何か”が、知的好奇心を満たしてくれるなら――
握り返すかもしれないね」
扉が、静かに閉まる。
その背中に、ヨセフカは呟く。
「良い狩り……いや。良い学びを……」
ただ深く、白衣の胸元を押さえた。
そして彼女は振り返る。
新たな治験者。血の医療を受け、異邦からヤーナムを訪れた"狩人"をゆっくりと見下ろした。
それはまるで死んでいるかのように安らかに眠っていた。
外の鐘が、また鳴っていた。
扉の前に立ったまま、彼はしばらく動けなかった。
掌に感じる冷たい金属の感触。
取っ手は開け放たれているのに、まるで自分の意思だけが、この場に縫いとめられているようだった。
外からはまだ、獣の咆哮も、銃声も届いてこない。
だが、それは“静かだから安全”なのではなく、
まるで――深海に潜る前の静寂のようだった。
「……何を怖がっているんだ、俺は」
呟いてみた。
自分の耳に言い聞かせるように。
だが、その声は震えていた。
“理性”が揺れている証拠だった。
ふと、思い出す。
ビルゲンワースの学び舎。
あの石造りの講堂。
誰も入ってはならぬ禁書保管室。
瓶を持ち出した夜、後ろ髪を引かれるようにして去った研究机の上に――
一冊のノートを、置き忘れていた。
《「真理とは、自我の再構成によって訪れるのか?」》
何度も記していた問い。
そして、答えが出る寸前で、あの夜が来た。
「……俺は……まだ、あそこに触れていない……」
本当は、“触れること”を恐れて逃げただけなのではないか?
自らに問いかける声が、胸の奥から這い上がってくる。
だが、その声に返す答えは、もうない。
腰の瓶が、かすかに脈動する。
血液のような鈍いぬくもりが、
なぜか“今だけは外に出ろ”と訴えているように感じられた。
「――クソッ……!」
舌打ちと共に扉を開く。
風が吹き込む。
生ぬるく、腐臭と血の匂いを孕んだ風が、
まるで歓迎するかのように彼の外套を揺らした。
夜が始まっていた。
街はまだ完全に喰われていない。
だが、“人”が歩ける時間は、もう長くはない。
アラリックは一歩、外へ踏み出した。
それは、過去の罪を探しにいく旅。
あるいは、自らの正体を明かす旅。
否――それらすべてに名前をつけないために、
彼はただ、こうつぶやいた。
「……観測だ。ただの、観測だ」
ー ー ー
ヤーナムの街並みは、死んだように静かだった。
霧が低く垂れ込め、石造りの建物がぼんやりと歪んで見える。どこかから焼け焦げた香りがして、それが空腹と不安を同時に呼び起こした。
アラリックは重い足取りで歩く。診療所を出たのは、突き動かされるような感情のせいだった。理由はまだうまく言葉にできない。ただ、このままではいけないという思いだけが、彼を前へと押していた。
鞄の奥にしまったガラス瓶が、かすかに冷たく揺れる。
中に眠る“胎なる妖精”は今も変わらず沈黙を守っている。
ただの標本かもしれない。それとも、何かの鍵なのか。
だが、使い方はわからないし、それを試すべき場でもない気がしていた。
アラリックは息をつき、ぼんやりとした街の輪郭を眺めた。
「……こんなに静かだったか……?」
記憶にあるヤーナムは、もっと騒がしく、もっと生々しかったように思う。
だが、今は——人の声も、犬の吠え声も、何ひとつ聞こえない。
歩を進めると、遠くからかすかな物音が聞こえた。
何かが軋む音。重い足を引きずるような、地を擦る音。
一瞬、身構えるが、すぐに物陰に隠れるようなものの気配が霧に溶けていった。
「……まだ夜は来ていない。なのに、なぜ……」
そのとき、ひとつの扉が音を立てて閉まった。
視線を向けると、家の窓からこちらを睨むような視線があった。
扉越しに聞こえた声はかすれていたが、はっきりと恐怖に染まっていた。
「お前も……もうおしまいだ……」
それだけを残し、街は再び沈黙に包まれた。
アラリックの鼓動が速まる。
街は、何かを隠している。いや——
街そのものが、何かを“孕みつつある”。
彼はもう一度、鞄の中のガラス瓶に手を添えた。
瓶の中の存在は何も語らない。
それでも、どこかで感じていた。
この街は、目覚めようとしている。
かつての学舎の記憶が、真か偽かも分からぬまま。
アラリックは、街の奥へと足を踏み入れた。
ー ー ー
ヤーナムの街に夕暮れが差し始めていた。
私は静かに歩を進めていた。足音が、やけに響く。
風が吹くたび、霧がゆるく流れていく。石畳は濡れていて、踏みしめるたび冷たさが靴底を通して伝わってきた。
街の輪郭は、私の記憶にあるものと似ていたが、どこかが違う。
どこが、と問われればはっきりとは答えられない。ただ……街が息を潜めているように感じた。
人の声も、車輪の音も、犬の遠吠えもない。
静かすぎる。
それなのに、誰かの視線だけが、濃密にまとわりついてくる。
鞄の中の瓶に触れる。
『胎なる妖精』——私が持ち出してきた、名状しがたいもの。
今は、ただの瓶詰めの標本に見える。
だが、その静寂の奥には、何か得体の知れない感触が、いつも僅かに渦巻いている。
……それでも、私にはまだ、これの正しい使い方すらわからない。
私は瓶から手を離し、深く息を吐いた。
そのときだった。遠く、赤い光が揺れているのが見えた。
通りの先、開けた場所に大きな焚き火があった。
近づくにつれて、声も聞こえてくる。
「燃やせ……この獣め……!」
「ヤーナムを、守れ……!」
私は思わず足を止めた。
火の周囲には、松明や鉈を持った市民たちが集まっている。
彼らは怒りの言葉を吐きながら、焚き火を囲んでいた。
火の中に投げ込まれていたのは……人間に見えた。
しかし、その腕は異様に長く、皮膚が裂けかけていた。
恐らく、“かつて人間だったもの”。
彼らは『獣狩りの群衆』——
獣の病に侵され、自らも蝕まれながら、他者を「獣」として狩る者たち。
知識としては知っていた。
だが、目の前に現れたその姿は……教本に書かれていたどんな記述よりも、恐ろしく見えた。
私は身を低くし、壁沿いに後ずさった。
見つかってはならない。
私のような者は、あの狂気の群衆にとって、絶好の獲物だ。
けれど、逃げ道を探そうとしたそのとき、背後から乾いた音が鳴った。
振り返ると、路地の奥に車椅子に乗った男がいた。
男は私に向けて銃を構えていた。
目が合った瞬間、彼は何のためらいもなく引き金を引いた。
「……ッ!」
私の横を、火花と破裂音が駆け抜ける。
身体が勝手に反応し、私は地を蹴って、近くの建物の扉に手をかけた。
開いてくれ——と祈るように。
ギィ、と扉が音を立てて開いた。私は転がるように中へ滑り込み、背中で扉を閉める。
すぐに外から、怒声が上がるのが聞こえた。
「銃声がしたぞ! 誰かいる!」
心臓が、内側から喉を叩いている。
私は目を閉じ、息を潜めた。
部屋の中は薄暗く、埃の匂いが満ちていた。
崩れた家具、ひしゃげた椅子、割れたコップ。生活の気配があった。
だが今は、誰もいない。
……少なくとも、今は。
私はその場にしゃがみ込んで、再び鞄を開けた。
瓶は冷たいままだ。
喋ることも、動くこともない。
それでも、私は思う。こいつは、ただの物じゃない。
何かが……この街と、私自身と、繋がっている気がする。
「……私は、何を信じていた?」
呟いた声が、部屋の奥へ吸い込まれていった。
私はゆっくりと立ち上がり、奥の出口を探し始めた。
外ではまだ、狂気の火が燃えている。
私はランプを掲げ、慎重に建物の奥を進んだ。
薄暗い廊下には、床板の軋む音がときおり響くだけで、誰の気配も感じられない。
空き家……というには、あまりにも生活感が残っている。
家具は古く、埃をかぶっていたが、最近誰かが手を加えたような痕跡があった。
引き出しの一部は開け放たれたまま、戸棚には空の瓶が並び、床には布の切れ端が落ちている。
きっと、誰かがここに逃げ込み、荷をまとめる時間もなくどこかへ行ったのだろう。
私は棚の一角に目をとめた。
擦れた皮革の手帳が置かれている。埃を払ってページをめくると、いくつかの記述が目に入った。
『狩人はもう来ない。鐘が鳴らなければ、ここは守られない。
感染の兆候がある者は、この家から出すべきではなかったのだ。』
「……感染?」
私は眉をひそめた。
記述は断片的で、書いた人物の精神状態も不安定だったように思える。
だが、ひとつだけ確かなのは、この家がただの避難所ではなかったということだ。
私はさらに奥の部屋に入った。
そこには簡素な寝台と、医療用と思われる器具がいくつか置かれていた。
手術台のようなものではない。
もっと素朴で、あくまで民間療法の域にあるような代物だった。
「誰かを、看ていたのか……?」
血の滲んだ包帯、乾きかけた薬草、そして壊れた水差し。
何かがこの家で起きた。
だがそれは、制度だった実験や計画ではなく、もっと身近な、生活の中での悲劇だ。
私はそっと小さな戸棚を開けた。
中には瓶詰めの安酒と、紙で包まれた乾ききった薬草。
ビルゲンワースでは見ないような粗雑な道具だった。
「……私は、こういった現場を知らなさすぎるな」
私は小さく笑った。
学徒としての誇りは、常に“知”の積み重ねの中にあった。
だがこうした“生”の現場には、あまりにも不慣れだ。
階段を登る途中、私はふと振り返る。
この空き家に、誰がいて、何があって、どこへ消えたのか。
答えは出ない。
ただ、確かに誰かの「死にたくない」という意志だけが、あの包帯や書き残しに宿っていたように思えた。
私は静かにランプを掲げ、上階へと足を運ぶ。
私のような外来者が見逃されるには、まだ早すぎる時間帯だ。
階段は古びていたが、よく整えられていた。
踏みしめるたび、わずかに軋む音がする。
私はそれを押し殺すように、慎重に一段ずつ登った。
階上の廊下は狭く、ランプの明かりだけが頼りだった。
扉が二つ。片方は半開きで、もう片方はぴたりと閉じている。
半開きの方には、薬の匂いと……僅かに、鉄の香りが混じっていた。
私は迷わず、閉じられた扉の前に立った。
そのほうが、音も気配も感じない。
予期せぬものに出くわすのなら、先に自分からその気配に踏み込んだ方がいい。
ゆっくりと、扉に手をかける。
冷たい。湿気を含んだ木の感触が、掌に伝わってくる。
「……さて」
私は声を出さずに息を吐き、静かに扉を押した。
扉はほとんど音を立てず、滑らかに開いた。
部屋は……暗い。カーテンが引かれ、外光すら入っていない。
私は足を一歩、踏み入れる。
湿った空気、閉め切られたままの室内。
だが、それは不快なものではなかった。
むしろ、“静けさ”そのものが固まって残っているようだった。
私はランプを掲げた。
部屋の奥には、机がひとつ。
そこには古びたインク壺と、乾いた羽ペンが置かれていた。
手紙のようなものが書きかけのまま、ページが開かれている。
周囲を見回すと、整頓された本棚、小さなベッド。
明らかに、この家の主の部屋だった。
私はそっと、机に近づき、手紙の内容を読んだ。
『私の目の前で、あの子の喉が裂けた。
私の処置が遅れたせいだ。
神の罰だというのなら、それでもいい。
だが、あの目を、私は忘れられない。』
筆跡は震えていた。
文章の下に、名前はなかった。
私は唇を結び、目を閉じた。
この街に蔓延しているものは、病や狂気だけではない。
悔恨と、罪の記憶が、静かに部屋を満たしている。
机の上にはもう一枚、封のされていない紙があった。
私はそれをめくった。
『鐘が鳴ったのに。狩人が来ない。
けれど、まだ誰かが歩いている気がする。
あの家の通りに、時折足音がする。
生きているのか、そうでないのか、確かめる勇気がない。
私はただ、この部屋で祈る。
早く夜が明けることを。』
私は紙を折り、そっと元に戻した。
その“誰か”は、今この家に入った私のことなのか。
あるいは、別の“もの”がかつてこの通りを歩いていたのか。
静かな部屋だった。
死の匂いは、ない。
けれど、ここには確かに、
「夜を恐れ、夜を迎えることを拒んだ者」がいた。
私はもう一度、周囲を見渡し、扉を閉めた。
足音を忍ばせて階段を下りながら、胸の奥にうっすらとした重さが残った。
この街では、誰もが何かを悔いているのかもしれない。
いや、違う。
悔いることすらできないまま、変わってしまう者もいるのだ。
私は再び扉の前に立った。
外の空気は、まだほんのりと夕の色を残している。
扉を開いた瞬間、空気が変わった。
……否。空気が“裂けていた”。
叫び声、金属が石を叩く音、犬の吠え声、火の爆ぜる音、泣き叫ぶ子供の声——
それらが一斉に押し寄せ、私の鼓膜を貫いた。
通りにはすでに群衆が溢れていた。
老若男女、誰もが何かしらの武器を手にしていた。
松明、斧、鉈、鎖付きの鉄球、折れた長柄槍。
まともな武装ではない。だがその手の力だけは異様に強かった。
その目は狂気と信仰が入り混じり、もはや獣を狩っているのか人を殺しているのかも分からない。
「そいつだ!目が光った!獣だ!」
「こっちにもいる!あの女の喉が震えてる!」
「家の中だ!隠れてやがる!焼け!」
何もかもが標的だった。
逃げ惑う人々が通りを駆ける。
だが、通りの出口はすでに群衆が塞いでいた。
若い母親が子供を抱えて走る。
老人が杖を手に、よろめきながら壁に身を押しつける。
少年が転び、泣き叫び、起き上がろうとする。
そのどれにも、群衆は容赦しなかった。
ひとりの若い男が手を上げて叫ぶ。
「違う!俺は正気だ!見ろ、牙も出てない、眼も——」
松明が、その言葉を焼き尽くした。
火は男の顔に叩きつけられ、彼は地面を転がりながら叫んだ。
服が燃え、皮膚が剥がれ、声が掠れるまで誰も止めなかった。
女が声を張り上げて逃げようとする。
だが群衆の一人がそれを背後から鉈で引き裂いた。
赤い水が宙を舞い、彼女の白い布地がぐしゃりと濡れる。
叫びは悲鳴ではなかった。
断末魔だった。
それでも群衆は止まらない。
むしろその“音”に酔っているようにすら見えた。
私は石壁の陰に身を潜め、息を殺した。
これほどまでに街が“自壊”していく瞬間を、私はまだ知らない。
獣狩りの群衆。
その名の通り、彼らは“獣”を狩っているのだろう。
だが私の目には、獣とは彼ら自身にしか見えなかった。
これは病か?
否、これは信仰だ。
「自分は正しい」と思い込んだ者の、正しさによる破壊だ。
私はそれを“観察”していた。
冷静に。
ただの学徒として。
どこかで、まだこの惨劇が“研究の対象”であるかのように。
けれど、そのときだった。
ひとりの子供が、泣きながらこちらに向かって走ってきた。
「たすけて——だれか——!」
そのすぐ後ろに、斧を持った男がいた。
片目が潰れたように腫れており、歯をむき出しにして笑っていた。
「おいで坊や……痛くしねえよ……すぐ終わる……!」
私は思わず、手を伸ばしかけて——
だが同時に、身体が動かなかった。
私は、何もできなかった。
少年は、私の目の前で殺された。
斧は、容赦なく振り下ろされた。
その小さな背中に。
白いシャツに、赤い水が噴き出して、地面に模様を描いた。
ひと太刀で済まなかった。
男は、狂ったように何度も何度も叩きつけた。
骨が砕け、肉が裂け、声が途切れ、それでもまだ、斧は止まらなかった。
私はただ、それを見ていた。
動けなかった。
頭では、止めねばならないと叫んでいた。
身体は、ただの観測機械のように凍りついていた。
「……っ」
言葉も、息も出なかった。
私は学徒だ。
武器を振るう術も、怪力もない。
あるのは、ただ理性と記録と、わずかな理解の灯火だけ。
けれど——
あれほど小さな命が、
地面に潰れるように沈んでいくのを見届けたのは、
この私だった。
少年の身体を押しのけて、別の男が踏み込んだ。
そしてまた別の者が家の扉を蹴破り、火を投げ入れた。
老いた女の悲鳴が上がり、その後、音はすぐに止んだ。
血の匂いが濃くなる。
煙が視界をぼやけさせ、火の粉が空へと舞い上がる。
夜が来る前に、この街は燃え尽きるのではないかと思った。
「そっちに逃げたぞ!獣が紛れてる!」
「誰でもいい!焼け!殺せ!」
「鐘はもう鳴らない、なら俺たちがやるしかねぇんだよ!」
誰かが転び、頭を打ち、また誰かが泣いている。
だが、誰も助けない。
恐怖が、命よりも正義よりも、上に立っている。
私は石塀に背を預け、目を伏せた。
震えてはいない。
ただ、私の内側で何かが静かに崩れていくのがわかった。
この街はおかしい。
この人々も、私も。
だが、何が“正しい”のかを語ることなど、私にはできなかった。
なぜなら、私は——
少年が殺される瞬間に、一歩も動けなかったからだ。
風が吹き抜けるたびに、火の粉が空を舞い、煙が肺を侵した。
叫び声は絶えない。通りにはもはや人の数を数えることもできないほどの群衆が溢れ、武器を振るい、泣き叫び、火を投げ、崩れた家屋の中に誰かを引きずり出しては叩いていた。誰もが信じている、自分が正しいと。誰もが恐れている、自分の中に獣がいることを。そして——誰もが知らない、すでに“理性”が壊れていることを。
その中に、やってきた。
あの影たち——医療教会の狩人たちが、煙と火の向こうから静かに現れた。
長い外套、銀の装具、無駄のない動き。屋根を伝い、壁を滑り、音もなく通りへと舞い降りるその姿を、私は目に焼きつけた。美しくさえあった。死が具現化したような、過不足のない運動だった。
だが、それを見た群衆の反応は……異常だった。
「見ろ、牙をむいてるぞ!」
「やっぱりだ、奴らこそ獣だったんだ……!」
「獣の皮を被った狩人め……お前たちが獣を連れてきたんだろう……!」
群衆の瞳に映っていたのは、狩人ではなかった。
あれは、巨大な獣の影だった。
斧を持った男は、怯えきった声で叫びながら、必死に武器を振るった。
だが狩人は、音もなくその斧を受け流し、逆に男の胸を裂いた。
血が、斧の持ち主のほうに吹きかかる。
それでもなお、別の者がその“影”に飛びかかり、叫びながら地に伏した。
私は凍りついた。
彼らには見えているのだ。狩人たちが、獣として。
その歪みは、病の症状ではない。
——この街全体がそうなっている。
理性という名の境界線が、地盤ごと崩れ落ちている。
女の一人が叫んだ。「あれは角が生えていた!あの背中に毛が!見た、私は見たんだ!」
群衆は一斉に狩人へ向かって走り出した。
包囲していた側が、包囲されていく。
血に狂った者たちが、恐怖の対象を獣と見なし、自らの“正義”の刃を振るい始めた。
だが狩人たちは揺るがない。
手慣れた動きで足を狩り、背を断ち、喉を裂く。
その一つ一つが、命を奪うというより、儀式のように冷ややかだった。
私はそれを、ただ見ていた。
壁の陰に、まるで影のように張り付きながら。
理解できなかった。
いや——理解してはいけないのかもしれない。
狩人は人を守るものではない。
彼らは病の進行を“止める”ためにある。
それがたとえ、まだ人の形をしていたとしても。
そのとき、ひとりの狩人と私の視線が交差した。
灰色の瞳が、煙の向こうからこちらを見据えていた。
私は息を止めた。
だが、その視線には警戒も敵意もない。
ただ、確認だった。
そこにいるのは、まだ“理性を保っている者”か、それだけ。
一瞬で視線は逸らされ、狩人はまた群衆の中へと消えていく。
その背には、もはや獣にしか見えなくなった者たちが、狂った声で群がっていた。
私は立ち尽くしていた。
どこまでが人で、どこからが獣なのか。
もはや外見は意味を成していない。
見ている者の目が壊れれば、それはすべて獣なのだ。
獣狩りの群衆が、殺意と恐怖で沸騰している。
私は壁の陰に身を潜めながら、その光景を見つめていた。いや、見届けてしまっていた。崩れた街の上で、人々の叫びが火の粉に乗って夜空に吸い込まれていく中、三つの影が殺気の渦の中心に歩み出ていた。
一人目の狩人は、優雅でさえある動きだった。
黒いコートの裾をひるがえしながら、腕に握るのは細身の銀の杖。
敵との距離を見計らって、杖をひと振りした瞬間——それは分裂し、鞭となった。
鋼線に刃を仕込んだような長いしなりが、群衆の間を走る。
「ギャッ……!」
「何だ、何をされた……ッ!?」
広がった鞭の一撃が、三人の腕を裂いた。
血が空に舞う前に、鞭が元の杖へと収束する。
音もなく、目にも止まらぬ速さで。
その狩人は言葉を発することもなく、ただ獣狩りを“こなして”いた。
その姿は、舞踏のようだった。流麗で、冷たく、そして容赦がなかった。
二人目は、まるで逆だった。
巨体。鉄のような筋肉。そして、その手には銀の直剣を組み込んだ、教会の石槌。
剣を振るって接近するかと思えば、両手で柄を回し、巨大な石塊を振り下ろした。
轟音が響いた。
地面が揺れる。
一撃で三人の身体が粉砕された。
まるで虫を叩き潰すように。
骨が砕け、血が吹き出し、肉が石に貼りつく。
その狩人の動きは荒々しく、単調で、しかし絶対的だった。
叫び声があがる。
「バケモノだ……あれが人間なわけが……!」
それに返る言葉はない。ただ、再び振り上げられた大槌だけが、答えだった。
三人目は、群衆の中を滑るように移動していた。
細身の体に重装はなく、手にしているのは変形武器──ノコギリ槍。
最初はノコギリの刃で接近戦を捌き、斬撃で腕を裂き、肩を断ち、
そしてすぐにそれをスライドさせるように変形させ、槍として突く。
突きは、速い。鋭い。
刃の先が腹を貫き、背中まで突き抜ける。
引き抜けば、切れた腸が垂れ下がり、足元に落ちる。
さらに切り替えてノコギリ形態に戻し、歯を引っかけて胸を裂く。
動きは流動的で、まるで武器の形そのものが意志を持っているかのようだった。
群衆はもう叫んでいない。
泣き喚きながら、逃げようとしている。
だが彼らには、狩人の姿が“巨大な獣”にしか見えていない。
「目が……目が赤い……」
「おれの妻を、喰ったんだ……獣だ……獣がまた来たんだ……!」
血にまみれた“正義”が、“恐怖”へと変わる。
そしてその恐怖は、“確信”に変質する。
自分が斬られたのは獣のせい。
自分が焼かれたのは獣のせい。
ならば殺せ。それだけが真実。
だが狩人たちは何も言わない。
怒らず、嘲らず、迷わずにただ刈り取っていく。
獣を。人を。何であろうと。
私は、ひとつの問いに縛られていた。
——彼らは、なぜこんなにも正確で、迷いがない?
その答えは、まだわからない。
だが私の中にある冷たい何かは、確実にその姿に惹かれていた。
知りたい。
この世界の“秩序”の形を。
だから私は、まだ、目を逸らせない。
やってしまった!またスタイリッシュアクション!さあ、アラリックと彼らの邂逅がどんな結果を産むのか!お楽しみいただければ嬉しいです。