BloodBorne Another story 〜闇を追い求めた者〜   作:カッサバ

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煙の狭間

視界の奥で、何かが軋む音がした。

 

それは人の骨か、それとも剣が肉を断ち割った音か。

もはや区別など、私の耳にはつかない。

 

石畳の上には、火と血が交互に濡れていた。

焼けた肉の匂い、乾いた泥のような煙、そして……

蠢く者たちの咆哮。

 

狩人の仕込み杖が、鞭のように宙を切る。

群衆の中の一人、顔に火傷を負いながらもなお叫び続けていた男の喉を、

その一閃が斜めに裂く。

 

声は途切れた。だが、表情は止まらなかった。

口は動いたまま、あえぐように何かを訴えていた。

その動きは、まるで獣のそれだ。

 

別の場所では、教会の石槌を構えた狩人が、

重々しく構えを取り、飛びかかってくる複数の者たちを、

まるで瓦礫を押しつぶすかのように叩き潰していた。

 

腕が千切れ、脚が裂け、頭蓋が潰れる。

その一つ一つが、現実のものとは思えなかった。

けれど、それは確かに、目の前で起きていた。

 

ノコギリ槍の狩人は、すでに刃を長く変形させ、

空間を泳ぐように舞っていた。

その軌道は流れる水のようで、次にどこを斬るのかを、誰も予測できなかった。

 

そのときだった。

群衆の一人が、明らかに“別のもの”に変わった。

 

背中が隆起し、皮膚が音を立てて裂け、

内側から黒い毛のようなものが生えてくる。

腕が異様に太くなり、眼窩が広がり、

そして口から——獣のような嘶きが漏れた。

 

「……獣め……!」

群衆の誰かが狩人にそう言った。だがもう、その者も口をきく暇などなかった。

“それ”は手当たり次第に近くの者へ殴りかかった。

爪でも牙でもなく、ただ腕だけで人間を裂いた。

 

誰の言葉も届かない。

火が燃える。叫びが裂ける。

何が人で、何が獣で、何が狩人で、何が裁きなのか。

どこまでも曖昧な、獣狩りの夜が、まだ始まってもいないというのに。

 

私は手の中の瓶の感触を確かめた。

それはいつもと同じ冷たさで、何の反応も示さなかった。

理性はまだある。

だがこの街には、それを保つ理由があまりにも少ない。

 

私が視線を上げたとき、

仕込み杖の狩人がすでに変異しかけた“それ”の方へと静かに歩いていくのが見えた。

 

その動きには焦りも怒りもない。

ただ——終わらせる意志だけがあった。

 

通りの中心に、それは立っていた。

 

皮膚はひび割れ、ところどころに濡れた毛が滲み出し、

両腕は肥大し、指はすでに人の形を成していない。

獣の病に呑まれながらも、完全には変わりきらぬその姿は、

まるで“人間”が後戻りできなくなった瞬間そのものだった。

 

対峙する狩人は、変形前の仕込み杖を手にしていた。

細身の銀の杖。刃を秘めた殺意の細工。

その動きに無駄はなく、足取りも重くない。

まるで、舞台に上がる役者のように、静かに間合いを詰めていた。

 

私はそれを、ただ見ていた。

瞬きすら惜しいほどに。

 

杖が振るわれた。

その刃は杖の先に仕込まれており、短く鋭い突きを生み出す。

それは居合のように速く、獣の肩口を正確に斬り裂いた。

 

「──ッッアアアアアアア!」

 

獣が咆哮を上げ、両腕を振るいながら突進する。

その姿は暴風。だが、狩人は退かない。

左手が動いた。外套の隙間から覗いていたのは、銀の短銃。

 

──火花が咲いた。

 

獣の胸部に銃弾がめり込む。

鋭く短い破裂音とともに、動きが一瞬だけ鈍る。

それだけでいい。

その“ひるみ”こそが狩人の命を繋ぐ。

 

狩人はもう杖を引いていた。

体を低くしながら、反対の脚で地を蹴る。

仕込み杖は、そのまま変形する。

 

刃が分かれ、鋼の鞭となって宙を滑る。

銀の線が獣の顔面をなぞり、眼窩と鼻梁を削り取った。

 

さらに左手の短銃が二発目を放つ。

今度は足元へ。獣の脚が崩れる。

それを見越していたように、狩人の鞭が、

今度は下から上へ、縦に裂くように走る。

 

毛皮が剥がれ、肉が割け、赤黒い血が雨のように地面へ散る。

 

それでも獣は死なない。

叫び、暴れ、まだ誰かを殺そうとしている。

その叫びの奥には、人の声が混じっていた。

……助けを、求めていたのかもしれない。

 

狩人は何も応えない。

構えを変えず、短銃を下げ、

もう一度、ただ仕込み杖の“刃”を返すように振るう。

 

喉を、裂いた。

 

今度は確かに、命が絶たれた。

獣は一歩も動かず、その場に崩れ落ちた。

血が杖に滴り、石畳に落ちる音がやけに鮮明だった。

 

狩人は振り返らない。

血に濡れた武器を無言で払うと、

次の獣を探すように、また炎の中へと消えていった。

 

私はまだ動けなかった。

理性が残っているのか、もうそれさえ疑わしい。

 

だが、確かに“何か”を学んだ。

 

これが、狩人だ。

これが、夜の入口だ。

 

私は動かなかった。いや、動けなかった。

 

死と殺意が交錯する光景を、理性の檻の中から眺めていた。

だが、現実は私を見逃さなかった。

 

「おい……そこだ、誰かいるぞ!」

「待て、あいつ……さっきから見てたな……!」

「こいつも獣だ!ああいう目をしてやがるッ!」

 

声が飛ぶ。

罵声が熱を持ち、空気を裂き、私の方へ向かってきた。

 

——最悪だった。

隠れていた路地の陰から、私は“発見されてしまった”

 

足音が増える。

松明の火が視界を染める。

焼け焦げた皮膚の臭いと、焦燥と怒りが渦巻いている。

 

「おまえもあいつらとグルか!?獣か!?」

「違う!私は——」

叫んだ声は、誰にも届かない。

いや、届く意思が彼らには最初から無かったのだ。

 

一人が飛びかかってくる。

鈍く光る鉈を振りかぶって。

私の脚が勝手に動いていた。

瓦礫を蹴って背を翻す。

咄嗟に逃げようとしたが、何かが足に絡まり、私は地面に倒れた。

 

咳き込みながら起き上がると、もう目の前に何人もの影が迫っていた。

私は腰の鞄に手を伸ばした。

そこにあるものは一つしかない。

 

——瓶だ。あの瓶だ。

 

『胎なる精霊』

 

触れた指先に、ぬるりとした感触が返る。

中の“それ”が、わずかに動いたような気がした。

 

「……やめろ……私は……」

誰かに向けて言ったのか、自分に言い聞かせたのか、もう分からなかった。

だが、そのとき——

 

群衆の一人が私に手を伸ばし、顔を近づけてきた。

 

その目。

その目には、私の姿が**“獣”として映っていた。**

 

私は——叫んだ。

否、叫ばされた。

 

喉の奥から、抑えられない何かが突き上げる。

声とも悲鳴ともつかぬ震え。

血のような光が視界の端で揺れる。

 

私の体が、一瞬だけ熱を帯びた。

瓶が、微かに仄暗く青く光った。

 

そして——

“何か”が私を守った。

 

それは幻だったのか。

群衆の一人が、急にその場で口から血が混じった泡を吹き、

頭を抱えて地面に転がった。

別の者は私の方を見て叫びながら後退りし、

「見たぞ……眼が、眼があった……!」と意味不明な言葉を呟きながら、

逃げ出した。

 

私はその場で、ただ立ち尽くしていた。

 

心臓が激しく脈打つ。

手は震えている。

でも、あのとき確かに私は——“力”を使ったのかもしれなかった。

 

意識の奥で、誰かが笑っていた気がする。

 

まだ私は、何も知らない。

けれど、“それ”は、もう目を覚まし始めている。

 

火の粉が空に舞い上がる。

一瞬の静けさがあった──けれど、それは永遠には続かない。

 

「いたぞ!あそこだ!」

「さっき逃げた奴だ!やっぱり獣の仲間だッ!」

 

声が、音が、また迫ってくる。

今度は別の連中。息つく暇もなかった。

 

私は咄嗟に走った。

思考よりも先に、脚が勝手に地を蹴る。

火の粉が舞う石畳を踏み鳴らして、路地へ、陰へ、迷路のような街の闇へ。

 

風が抜けるたび、松明の炎が揺れ、

照らされた石の壁に自分の影が一瞬だけ浮かぶ。

それがまるで獣に見えた。

怖かったのは、私自身かもしれない。

 

「止まれェェッ!!」

すぐ後ろから、足音と金属の打撃音。

鉄棒か鉈か、武器を振るう音が耳を打つ。

 

一歩踏み外せば、殺される。

ただそれだけの現実が、私の背中を押した。

 

身体が痛む。息が切れる。

私はまだ無傷だ。

 

角を曲がり、樽の山を飛び越え、

くぐもった悲鳴がどこか遠くで響いた。

ここでは誰も助けてはくれない。

だから私は逃げ続ける。

 

狭い裏道へと滑り込むと、

思わず壁に背を預けて息を潜めた。

 

音が、すぐ近くまで来る。

「……逃げたか?」

「……くそ……あんなひょろっこいのに……」

 

会話が遠ざかっていく。

喉が焼けるように熱い。

それでも、私は息を潜めて、そこに居た。

 

この街は狂っている。

そして、私はその“外側”ではいられなかった。

 

逃げた。

それだけが、唯一の成果だった。

 

私は、しばらく動けなかった。

 

呼吸を殺し、傷ついた肺を無理やりに静め、

冷えた石壁に背中を預けて、

ただ“生きている”という事実だけを、噛み締めていた。

 

そのときだった。

 

足音がした。

一瞬、心臓が跳ね上がる。

松明の火でもない。怒声でもない。

控えめで、不規則で、……怯えていた。

 

私は壁の陰に身を寄せたまま、

足音の方を、じっと見つめた。

 

——若い男だった。

 

痩せている。服はぼろつき、顔はすすで汚れている。

だが、その動きには“獣のような躊躇い”はなかった。

彼もまた、誰かから逃げてきたのだろう。

 

こちらに気づいたその瞬間、彼は咄嗟に身構えた。

拳を握るでもなく、逃げるでもなく、ただ硬直した。

 

「……人間、か?」

小さく、くぐもった声。

それは、自分自身に問いかけるようでもあった。

 

私はすぐに答えられなかった。

喉がまだ焼けつくようで、言葉が出てこない。

 

ようやく、一言。

 

「……たぶん、そうだ。」

 

男の目が揺れた。

少しだけ息をついたように見えたが、それでも警戒を解かない。

 

「襲わないでくれ。俺も、もう限界なんだ。」

 

私はゆっくりと両手を見せた。

武器はない。仕込み杖も短銃も持たない。

あるのは、学徒の外套と、肩から下がる鞄だけ。

 

それを見て、彼は一歩、近づいてきた。

 

「……おまえも、逃げてきたのか?」

「……ああ。」

 

互いにそれ以上言葉はなく、

しばしの沈黙が、二人の間を満たした。

 

火の粉が、遠くで再び爆ぜる音がした。

ヤーナムはまだ、夜を迎えていない。

それでも、この街はもうすでに地獄だ。

 

そして、こうして誰かと“言葉”を交わせたことが、

ほんの少しだけ、体を軽くした。

 

男はまだ若かった。

私と年の近い、あるいは少し年下か。

頬はやせこけていたが、眼はまだ光を失っていなかった。

 

「……おまえ、医療教会の人間か?」

 

ぽつりと、問いが落とされた。

 

私は少し考えてから、首を横に振った。

 

「違う。私は……ビルゲンワースの者だ。」

 

そう口にしたとき、自分の声が妙に硬く響いた気がした。

それは、自信でも誇りでもない。

ただ“刷り込まれた記憶”をなぞるような響き。

 

男が一瞬、目を細めた。

そして、少し間を置いて言った。

 

「……ビルゲンワース?

あそこは、もう随分前に門を閉じたはずだ。

何年も前に、誰も出入りできなくなってる。

今じゃ地図にも名前が載っちゃいない。」

 

……え?

 

思わず言葉が喉に詰まった。

頭の奥に、何かが引っかかる。

 

「いや、そんなはずは……私は確かにあの学舎で……」

 

だが、続ける言葉が出てこなかった。

“どこで”“誰と”“何を学んだか”が、すっと指の間からこぼれていくようだった。

 

男は私をじっと見ていたが、

やがて、わずかに眉を寄せて言った。

 

「……変なこと言って、すまない。

この街じゃ、記憶も夢も狂ってくるからな。

俺もよく、自分がどこにいたか分からなくなる。」

 

それは気遣いだったのだろう。

けれど、私は黙ったままだった。

 

ビルゲンワースの門……閉じている……?

そんな馬鹿な。

私は確かに、あの……あの……。

 

記憶が、妙に曖昧だった。

 

そのとき、風が吹いた。

冷たい空気が、外套の裾を揺らす。

 

「……そういえば。」

 

沈黙を破ったのは、彼のほうだった。

細い声は空気に溶けるようで、それでも確かに耳に届いた。

 

「オドン教会の墓地……あそこに、避難してる人たちがいるって話を聞いたことがある。」

 

私は顔を上げる。

彼は虚空を見つめるように言葉を継いだ。

 

「どこで聞いたかは、はっきりしねぇ。

 たぶん、逃げてる途中で誰かが言ってたんだ。

 “大橋のほうじゃなくて、墓地のほうだ”って。」

 

その言い方には、確信のなさと、何かに縋る気配が混ざっていた。

 

「俺も、直接見たわけじゃない。

 けど……明かりがある場所があるって話だけで、ちょっと、な……」

 

言い澱む声には、恥じらいにも似た響きがあった。

けれど私は、それを馬鹿にはしなかった。

 

この街で、誰かの声が残っているというだけで、

それはどれだけ価値のある噂だろうか。

 

「場所は……わかるのか?」

「だいたいは。俺、あの辺りで昔……ちょっと用があって通ってた。」

 

青年は、地図を思い出すように指先を宙に滑らせた。

 

「裏道が続いてる。大通りを避ければ、たぶん……いや、たぶんな。」

 

私は一呼吸置いて、頷いた。

 

「行ってみよう。」

 

それは、信じたというよりも、

他に信じるものが何もないことを受け入れたということだった。

 

「そういえば、名前も聞いてなかったな。」

 

青年が、焚き火のない暗がりでぽつりと言った。

 

私は少し戸惑った。

名乗ることが、こんなに難しく感じたのは初めてだった。

 

「……アラリック。アラリックと呼ばれていた……はずだ。」

 

自分で言ってから、妙な引っかかりを覚える。

“呼ばれていた”という表現が、どうにも不自然に響く。

けれど、他に言いようがなかった。

 

「私は……かつて、ビルゲンワースにいた。……と、思っている。」

 

青年がこちらを一瞬見たが、何も言わなかった。

沈黙の中にあるのは、同情でも疑念でもない。

ただ、理解しようとする静かなまなざし。

 

「……へえ。あそこに学舎があったってのは、昔話でしか聞いたことないや。」

 

そう言って、彼は肩を竦めた。

 

「俺はリアム。

 昔は、工房で機械細工の仕事をしてた。武器じゃない、小物や道具のほうさ。

 でも……今はただの逃げ損ないだよ。」

 

自嘲気味の笑いが夜に溶けた。

それでも彼の声には、どこか地に足のついた響きがあった。

 

「よろしくな、アラリック。

 今は名前だけが、自分が人間だった証だろ?」

 

私は、少しだけ微笑んだ。

それには、うなずくしかなかった。

 

リアムが扉を押し開け、私たちは黙って建物の中へと滑り込んだ。

 

中は……荒れていた。

 

壁紙は剥がれ、天井からは煤けた木片が垂れている。

床には粉々になった陶器の破片と、割れた椅子の脚。

何より、あちこちに刻まれた鋭い爪痕が、そこに何がいたかを物語っていた。

 

「気をつけろ。……中にいるかもしれない。」

 

リアムが低く呟いたその瞬間、奥の部屋から何かが這うような音が聞こえた。

重く、湿った衣擦れのような、肉のこすれる音。

 

私たちは本能的に、壁際に身を寄せた。

息を、殺す。

 

奥の扉がわずかに揺れた。

ギィ……ギィ……

何かが、あちら側で動いている。

姿は見えない。

だが、確実に“それ”はいる。

 

「こっちだ。階段を抜けて二階へ。あそこなら通れる。」

 

リアムの声は限りなく小さかった。

私はうなずき、音を立てないよう細心の注意で足を動かした。

 

階段の一段ごとに、床板が軋む。

わずかでも早く、しかし絶対に急がず。

目線は常に影と物音へ。

 

息が苦しい。

冷や汗が背中を伝う。

でも、止まれない。

 

やがて二階の踊り場へ出ると、

リアムが扉の隙間を覗き込み、私に合図をした。

 

「行ける。いま、こっちには気づいてない。」

 

私たちは、音を立てず、息を潜め、

ただ通り抜けるためだけに、歩き続けた。

 

「……臭いが強くなったな。」

 

リアムの声にうなずき返しながら、

私たちはさらに奥の部屋へと足を踏み入れた。

 

その扉は半ば壊れかけており、

中から漂ってくる空気が、明らかに“他とは違っていた”。

 

部屋はめちゃくちゃだった。

家具は倒れ、窓は割れ、

床には皿や本が砕けたまま散らばっている。

 

そして——

壁際に、死体が一つ、転がっていた。

 

男だった。

年は……中年か、それ以上か。

服は破れて血に染まり、腹部から大量の内臓が零れ出していた。

目は見開かれたまま、口は絶叫の形で固まっている。

 

何かに喰われたのではない。

何かに“引き裂かれた”のだ。

 

「……ここで、暴れられたようだな。」

 

リアムが囁く。

その声すら、この空間ではひどく大きく響く気がした。

 

私は目を細めて、部屋の様子を改めて見渡した。

 

引きずられた跡。

壁に叩きつけられたような血痕。

落ちたランプが、床の焦げを残している。

 

——逃げた。

この男は逃げようとして、

扉に辿り着く前に、背後から引き倒された。

 

その光景が、頭の中でゆっくりと再生される。

 

「……なあ、アラリック。あれ……」

 

リアムが指さす先。

扉の内側——ちょうど鍵のかかる場所に、

血まみれの爪痕が、何重にも重なって刻まれていた。

 

それは、開けようとした誰かのものか。

それとも、外へ出ることを止めた何かのものか。

 

私の喉が、ひとつ震えた。

 

「もう行こう。」

 

リアムが言った。

 

私は頷いた。

それ以上、この部屋にいたくなかった。

 

「……こっちだ。」

 

リアムが指差した先には、

かろうじて開く窓があった。

その向こうには、隣の建物の屋根。

石板の瓦が並ぶ、急斜面の不安定な足場だった。

 

「……跳べるか?」

 

「跳ぶしかない。」

 

会話は短く、動きは早かった。

リアムが先に身を翻し、窓枠を跨いで外へ。

私は深く息を吸い、身体を小さく縮めて後に続いた。

 

瓦の感触が靴裏に伝わる。

冷たく、滑りやすく、不安定。

 

私はしゃがみ込むようにして、バランスを取った。

背後の建物からは、まだ肉の擦れるような音が遠く聞こえていた。

どこかで、まだ獣が息を潜めている。

 

リアムが振り返る。

 

「大丈夫か?」

 

「……問題ない。」

 

声がかすれた。

けれど、自分でも不思議なほど冷静だった。

 

屋根の上から見下ろす街並みは、

まるで焼け落ちる舞台のようだった。

 

煙が立ち昇り、火の粉が空に吸い込まれていく。

地面ではまだ、どこかで叫び声が響き、

何かが走り、何かが倒れている。

 

この街全体が、すでに何かに喰われているのだ。

 

私はそっと立ち上がり、次の跳躍の準備をした。

まだ道は続く。

オドンの墓地は、遠い。

けれど、あの場所に辿り着くまでは、止まれない。

 

「こっちだ。足元に気をつけろ、端っこは滑る。」

 

リアムは、まるで昔からこうしていたかのような身のこなしで、

屋根の傾斜をすいすいと進んでいく。

 

彼の足は瓦の上を正確に選び、音もほとんど立てない。

まるでこの街の屋根という屋根を全部踏破してきたような、妙な余裕すらあった。

 

「……慣れているな。」

 

「子供の頃、よくやってたんだよ。

 下で親が喧嘩してるときは、屋根の上のほうがずっと静かだった。」

 

冗談のように聞こえたが、振り返った彼の顔は冗談ではなかった。

だから私も笑わなかった。

 

私は慎重に足を進めた。

屋根の縁は崩れてはいないが、濡れている箇所もある。

足を滑らせれば、ただの怪我では済まされない高さだった。

 

そのすぐ下、通りではまた別の獣狩りの群衆が何かに向かって暴れていた。

誰かが追われ、叫び、撃たれて、倒れていた。

 

リアムが私を振り返る。

 

「上のほうがいいだろ? ヤーナムは下が腐ってる。」

 

その言葉は、なぜか深く刺さった。

 

煙の向こうに、うっすらとオドン教会の塔が見えた気がした。

距離はある。まだ遠い。

けれど、確かに“そこにある”。

 

私たちは、静かに、ひとつまたひとつ、瓦を踏みしめて進んでいった。

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