BloodBorne Another story 〜闇を追い求めた者〜 作:カッサバ
「……ここで行き止まりだな。」
リアムが屋根の端で立ち止まり、瓦の切れ目を見下ろす。
その先、数メートルの距離で、隣の屋根が一段深く崩れ落ちていた。
飛び越えるには遠すぎる。
それに、下には松明を持った獣狩りの群衆が、何かを打ち据えている姿が見えた。
「こっちしかないな。」
リアムが横手の古びた煙突の裏側にある、窓枠を指差す。
さっきの建物よりは新しそうだが、それでも汚れや煤に覆われ、
そのガラスは割れていた。
私は口を結び、小さくうなずいた。
中は、静かだった。
窓枠を越えて入った部屋には、積まれた本と木箱、
打ち捨てられたベッドフレームに、焦げ跡の残る床。
かつて誰かが暮らしていた気配が、生ぬるい空気として残っていた。
「今度は住居か……」
リアムが小声で呟く。
私は耳を澄ませた。
軋む音はない。
息づく気配も、獣の匂いも、今のところは。
けれど、ここも安全ではない。
ヤーナムに“安全な場所”など、もう存在しない。
「奥へ抜けられるかもしれない。階段が……あった。」
リアムが指差す先には、半ば崩れかけた木製の階段があった。
その先に、また別の部屋が続いているようだった。
私たちは、再び屋内の闇へと身を沈めた。
建物の内部は、先ほどの屋内とは少し趣が違っていた。
荒れてはいるが、どこか整っている。
崩れた椅子、引き出しの開いた机、壁にかかる鏡。
しかし、それらの乱れは「暴力」によるものではなく、
まるで——誰かが慌ただしく“逃げ出した”痕跡のようだった。
「……なんか、獣が暴れたって感じじゃないな。」
リアムが呟いた。
私は頷きつつ、壁の棚に残された紙束に目をやった。
煤と埃にまみれたメモや帳簿、その中には一部、血の染みたページもあった。
内容までは判別できないが、
字が震えていた。
まるで書き手が、何かに怯えながら書き殴ったような痕跡だった。
「誰かがここで何かをしていた……が、
それを中断して、そのまま逃げたように見える。」
「それか逃げられなかったか。」
リアムは手元のランタンで周囲を照らしながら、
壁の裏へと続く通路を覗き込んだ。
狭い。
奥にはまた別の部屋があるらしい。
「行ってみよう。もし通り抜けられるなら、墓地に近づける。」
「了解。」
私は瓶の重みを確認しながら、リアムの後に続いた。
床は所々抜けかけていたが、ぎりぎりで耐えていた。
踏み込むたび、木の軋む音がまるで警告のように耳に響いた。
何もいないはずなのに、
どこかで誰かがこちらを見ているような感覚が、
ずっと、背中にまとわりついていた。
階段を下りた先の廊下で、リアムがぴたりと足を止めた。
私は彼の後ろからその様子をうかがった。
「……ここ、なんか変だ。」
彼の声は小さいが、確かな緊張が滲んでいた。
「変?」
「いや……言葉にしにくいんだが、なんか……“ちゃんとしてない”歩き方の跡がある。」
私は彼の視線を追って床に目を落とした。
埃の積もった板張りの床に、微かに靴の跡があった。
人型の足跡だが、妙に間隔が不自然で、片方だけが深く沈んでいる。
まるで、片足を引きずるかのように、何かが“意図を持たずに”歩いた跡だった。
「……獣じゃない。けど、人間でもない。」
リアムが呟いた。
私は無言で、近くの部屋を覗いた。
埃と古い木の匂いに混じって、どこか金属のような臭気が漂っていた。
そして、家具の影には……何かの頭巾のようなものが落ちていた。
私はそれを拾い上げた。
布は乾いて硬くなっており、内側にはすでに乾いた血痕があった。
おそらく頭に巻かれていたのだろう。
しかも——明らかに医療用、いや、何かを隠すためのものだった。
「……これは?」
「怪我人が、巻いていたんじゃないか?」
リアムが眉をひそめる。
だが私は答えを持たなかった。ただ、妙な既視感だけが残る。
「もしかして、ここにいたのかもしれないな……あれが。」
「“あれ”って……何だよ。」
私は口をつぐんだ。
自分でもよく分かっていなかった。
ただ、空気の奥底に残る微かな圧迫感と、
背中に感じる視線だけが、静かに確かなものだった。
「……もう、ここに用はないな。」
リアムの声は、玄関の扉を前にして硬くなっていた。
私は頷いた。
妙な痕跡、血まみれのボロ切れ。そして正体の見えない気配。
何一つ確証は得られなかったが、この家に長く留まるべきでないことだけは確かだった。
玄関の扉は古びていたが、まだ開閉は可能だった。
リアムがそっと取っ手に手をかける。
「いくぞ。」
扉が、ゆっくりと開く。
ぎぃ……と、軋む音がやけに長く響いた。
外の空気が、いきなり肌にまとわりついてきた。
煙と血と、焼け焦げた街の匂い。
でも、それでもこの家の中よりははるかに“生きた空気”だった。
「……外のほうが、まだマシか。」
リアムがぼそっと呟く。
私は玄関の敷居をまたぎ、街へと戻った。
空は夕闇の色を深めており、遠くのほうで誰かの叫び声が風に乗って運ばれてくる。
私たちは視線を交わし、再び歩き出した。
墓地は、もう少し先だ。
だがその距離以上に、まだ越えるべき試練は多い。
煙を抜けて、視界が少しだけ開けた。
その先に見えたのは、石造りのアーチ橋だった。
ヤーナムの灰色の建材で作られた重厚な橋。
その先には、まだ遠くに見える尖塔。オドン教会——そして墓地。
「……ここか。」
リアムが小さくつぶやいた。
だが、橋の手前で足を止める。
橋の中腹に、二つの大きな影が立っていた。
レンガを片手に持ったような姿。
その巨体は人のそれとは思えないが、まだ、完全に“異形”ではなかった。
「動いてるな……人間、なのか……?」
私は目を細めて観察した。
動きは鈍い。
だが、明確な意志を感じさせる。
ただ立っているわけではない。
あれは、橋を“守っている”。
リアムが、ぽつりと言った。
「見てる……でも、こっちを“獣”とは見てない。」
私は頷いた。
あの目には狂気が宿っているが、敵意はまだ……ない。
警戒心、あるいは、命令に従うような硬さ。
人の姿を保ちながら、人ではないものになりかけている男たち。
「通るだけなら、いけるかもしれない。」
「……でも一歩間違えば、あいつらに頭潰されるな。」
リアムの言葉は冗談にも皮肉にも聞こえなかった。
橋の先には、墓地と、避難所がある。
だがその手前には、まだ“理性のある獣”たちが立ちふさがっている。
私は深く息を吸い、心の奥で何かが軋むのを感じた。
“まだ人間に見えている”——
それは、どこまで信用できる境界なのだろうか。
「……行こう。今なら、通れる。」
私の言葉に、リアムは一瞬だけ目を細めた。
その目には、「それ、本気かよ」という色が一瞬浮かんで——
けれど、彼は何も言わずに頷いた。
私たちは、橋の石畳を静かに踏みしめた。
瓦礫を避け、火の残り香を吸い込まぬように、そっと息を殺す。
前方の大男たちは動かない。
ただ、見ている。
まるで石像のように沈黙したまま、こちらを観察している。
鉄槌を持ったその手は力を緩めておらず、
それがいつ振り下ろされてもおかしくないことは、
たとえ素人でも理解できた。
私たちは“選別されている”のだ。
橋の中程に差しかかる。
私の背には冷たい汗が伝い、喉はごくりと鳴った。
歩調を崩せば、それだけで判断が変わる気がした。
その時——
大男の一人が、こちらに顔を向けた。
「……お前たち。どこへ行く。」
声は思いのほか低く、濁っていたが、
まだ“人間の言葉”だった。
私は即座に答えた。
「オドン教会へ……避難民がいると聞いた。」
沈黙。
風の中、微かに火が揺れ、橋の影がずれる。
もう一人の大男が、低く唸った。
「……通れ。」
リアムが小さく息を吐いた音が聞こえた。
私はそれを聞いてはいけないような気がして、前を向いたまま歩き続けた。
二人の巨体の間を、私たちは抜けた。
その瞬間、彼らの足元から立ち昇る熱と、
人ではない“匂い”が、ふっと鼻を突いた。
私はただ前を向いて歩いた。
一歩でも立ち止まれば、二度と進めなくなる気がしたからだ。
橋の石畳を踏みしめた私たちは、振り返らなかった。
あの巨躯たちはまだそこに立っていたが、今はそれを確かめる意味がなかった。
「さっきより……空気が変わったな」
リアムが言った。
橋を抜けた先は、わずかに傾斜のある下り道になっていた。
建物の間を縫うように伸びる通路は、左右に分かれていて、どちらも行き止まり。
正面の石階段だけが、静かに上方へと続いていた。
「ここから墓地に繋がってるはずだ」
私はそう答えたが、その声が思ったより小さく聞こえた。
街灯のない通路には、薄暮の空がまばらに差し込んでいるだけだった。
古びた看板が揺れており、風が吹いた痕跡だけが残っている。
左手の壁沿いに並んだ木箱は、どれも壊れていた。
中には薬瓶の破片や、古い白布が散らばっている。
もしかしたら、誰かがここを通ったのかもしれない。
階段の一段目を踏み込んだとき、
靴底が微かに、べたりとした感触を伝えてきた。
「……血か?」
「いや、雨水に混じった泥だろう」
そう言ってみせたが、匂いは明らかに違った。
濃い鉄の匂い、そしてそれよりも鋭い、“生”の残滓。
階段は一段ずつ、ゆっくりと私たちを上へ誘っていた。
やがて右手に、かすかに開いた鉄の門が見えてくる。
鉄格子越しに覗くと、そこは広場だった。
中央に枯れかけた樹が一本。
周囲に幾つかの墓石、そして……小さな灯りが見えた。
「誰かいる」
リアムが言った。
私は頷いた。
その光は、確かに“灯してある”ものだった。
人がいて、光を点けて、ここに留まっているという証。
「よかった……」
リアムの声が少しだけ緩んだ。
私たちは門を押し開けた。
重い音を立てるその鉄の扉は、まるで夜の境界線のようだった。
——オドンの教会の墓。
ようやく、闇の中に“わずかに残された灯り”の場所に、たどり着いたのだ。
鉄門の奥に広がっていたのは、思っていたよりも広い空間だった。
かつては厳かな墓所だったのかもしれない。
だが今は、石棺の間に干し草が敷かれ、蝋燭がそこかしこに灯されている。
人の声も聞こえた。低い声、高い声、いくつかの争いごとの響き。
「……本当に、人がいるんだな」
リアムがぽつりと呟いた。
その声に振り向いたのは、斜めに座っていた一人の老人だった。
「……おい、おい。誰だお前ら。どこから来た」
老人は痩せこけた体をむっくりと起こし、まるで汚れた鴉のように目を細める。
白髪がまばらに残った頭に、古びた毛布を巻いていた。
「通ってきたのか?あの橋を?……ふん、物好きな連中だ」
「俺たちは……避難所があると聞いて来ました」
そうリアムが応えると、後ろから声が飛んできた。
「避難所?ここが?笑わせるな!」
振り返ると、声の主は腕組みをした壮年の男だった。
筋肉質の体格に、荒くれ者のような目。
上着の袖は破れ、片手には血のついた鉄棒が握られていた。
「ここはただの墓場だ。誰も何も助けちゃくれねぇ。あんたらも、期待しないこった」
リアムが身を引いたのがわかった。
「ねえ、こんな時に、よくそんな口をきけるわねぇ!」
甲高い声が響いた。
見ると、焼けたランプの前で手を振り回している女がいた。
中年の女で、やせぎすな体にぼろ布を巻きつけている。
「新しく来た人がいるなら、少しはマシな情報を持ってるかもしれないでしょ!?
あたしはもう、こんな暗いところであんたたちと死ぬのなんてごめんだわ!」
「黙れ、女。喧しくて仕方ねぇ」
「なんですってぇ!?」
人々の声が重なり、空気は一瞬で濁った。
だがそれでも——
私は確かに思ったのだ。
“生きている者が、ここにはいる”。
荒んではいるが、火は灯されていた。
人がいる。人としての言葉がある。
それはこの街で、どれほど貴重なものか。
リアムが静かに言った。
「……悪くない。ここは、まだ……人間の場所だ」
私は、かすかにうなずいた。
「……君たちは、ここの住人か?」
私が声をかけると、最初に反応したのは老人だった。
「住人?ハッ、冗談だな。
ここは死者の宿だ。俺たちゃ、墓石の隙間に紛れ込んだ、ただの亡者だよ」
老人は口元だけで笑った。目は笑っていなかった。
その視線は私の外套の裾を見て、それから胸元へ、そして——顔へ。
「……で、お前さんのその服は何だ。
教会か?それとも……それに連なる学者の連中か?」
私は口をつぐんだ。
答える言葉が、正しいのかどうか、まだ自分でも分からなかった。
「私は……学び舎にいた。少なくとも、そう聞かされてきた」
その一言で、もう一人が動いた。
壮年の男が、重たい足音を響かせて歩み寄ってくる。
「やっぱりか。学者面しやがって。
お前らが、“あれ”を広めたんじゃねぇのか?旧市街で起きたこと、知らねぇとは言わせねぇぞ」
その目は、怒りというよりは、冷たい警戒で満ちていた。
「化け物だらけになったあの街で、誰が生きて帰ってきた?
……ああ、あんたらの同類だけだ」
「私は……医療教会とは無関係だ。そういう研究に関わった記憶もない」
そう口にしても、声が震えていないことに自分で驚いた。
それでも、男の視線は緩まなかった。
「記憶がない?都合のいいこったな」
「……いいか、坊主」
老人が低く言った。
「ここにはな、もう“信じる”ってことを捨てた連中ばっかりだ。
教会も、狩人も、学者も、俺たち皆んな等しく呪われてる。
それでも居させてやってんのは、死んだような街で、まだ生きてるからだ」
私はただ頷いた。
否定しても、言葉は届かない。
リアムがそっと私の腕に触れてきた。
「……別に、無理に話さなくていいよ。ここはそういう場所だからな。」
その言葉に、ほんのわずかだけ救われた気がした。
だが私は、それでも視線をそらさずに言った。
「私は、ただ知りたいだけだ。何が起きているのか、そして、何が人をこうさせたのかを」
老人の顔に、何とも言えない色が浮かんだ。
「……なら、せいぜい後悔しないことだな、“先生”。」
「ねぇ、あなた……!」
甲高い声が、すぐ背後から響いた。
振り向くと、あの中年の女性が腕を組み、今にも噛みつきそうな勢いで迫ってきていた。
「アンタ、学者なんでしょう?なんでも知ってるんでしょう!?」
私は一歩、無意識に下がった。
だが彼女は距離を詰めてくる。
「ねえ、いったい何が起きてるの!? 街は、どうなってるの!?
獣があちこちで人を引き裂いてるって、ほんとなの!?
家族は、隣の棟にいたはずなのよ!? あたしを置いてどこかに逃げたの!? それとも……」
声が震えていた。怒りとも悲しみともつかない、縋るような声だった。
「お願いよ……教えて。誰かが何か知ってるって、そう思わなきゃ、もうやってられないのよ……!」
私は、言葉を探した。
だが。
私が持っている情報は——
ただ、自分の目で見た断片だけだ。
街に広がる悲鳴。
獣と化した者たち。
そして、病のように染み渡った狂気の気配。
「……正確なことは、わからない。
ただ、確かに“獣の病”が街全体を蝕んでいる。
理性を失い、姿を変えた者たちが、人を襲っているのは……事実だ」
それ以上、言葉は出てこなかった。
すると、彼女の顔が歪んだ。
「……なによ、それだけ?
あんた、学者なんでしょう?偉そうな顔して、何にも知らないの!?
ふざけないでよ……ふざけないで……!」
ヒステリーのような叫びとともに、
彼女は傍にあった木の桶を蹴飛ばした。
空の版が転がり、静まり返った避難所に音が響く。
「もう……イヤよ、こんなの……!
誰も知らない、誰も教えてくれない。
あたし、こんな場所で死にたくなんか……!」
誰も何も言わなかった。
偏屈な老人も、壮年の男も、黙っていた。
もう、同じようなことを何度も聞いたのかもしれない。
私はただ、視線を伏せることしかできなかった。
「……すまない」
その言葉に、彼女は睨みつけるような目を向け、舌打ちして踵を返した。
リアムがぽつりと、私の肩越しに呟いた。
「……ああいう人が、一番苦しいんだ。
知ろうとして、分からないまま、ただ震えている」
私は、ただ静かに頷いた。