BloodBorne Another story 〜闇を追い求めた者〜 作:カッサバ
私は、言葉を交わすことに疲れていたのかもしれない。
リアムにひと声だけかけ、私は避難所の奥へと歩を進めた。
石の壁には苔が生え、長い年月の湿気と死の匂いが染み込んでいる。
だがその上に、誰かがかけた布があった。薄い毛布のような、色褪せたもの。
床には板が敷かれ、その上に藁を詰めた寝床が並ぶ。
そのひとつひとつに、小さな暮らしの痕跡があった。
壊れかけのランタン、空になった瓶、破れた聖書の切れ端、子供の靴。
壁際にいた若い女が、揺りかごのように膝の上を揺らしていた。
膝に乗っているのは、もう動かない赤ん坊の遺体だったのか、それともただの包みか。
彼女は何も語らなかった。ただ、静かに揺れていた。
別の場所では、老いた夫婦が互いの手を握ったまま、身を寄せ合っていた。
目を閉じているが、眠っているのか、それとも祈っているのか、私には分からなかった。
奥まった通路には数人の男たちが輪になり、火の代わりに蝋燭を囲んでいた。
低く、誰にも聞こえぬような声で会話を交わしている。
不安、憎悪、絶望、すべてが息をひそめた声に滲んでいた。
私は歩いた。
この“人間の終着点”のような場所を、ゆっくりと。
かつて誰かが愛した墓地。
今は、死者よりも先に生き残った者たちが眠っている。
ああ……
この空気すら、いずれは誰かに喰われてしまうのだろうか。
私は、ひとつだけ蝋燭の灯に手をかざした。
ほんの僅かに、手が温もりを拾った。
——それだけで、今日は十分だった。
私は、広場の端にある石棺に腰を下ろした。
誰にも声をかけられず、誰の目も気にせずにいられる場所。
蝋燭の炎が揺れていた。
リアムは、少し離れた壁際で横になっている。
私はただ、その揺らめく光を見つめていた。
そして、思い出していた。
あの一度だけ、私の手からあふれた——説明のつかない力。
あれは、なんだったのか。
私が手にしていたのは、瓶詰めの臓器。
その中にいた、薄青く発光する、名もなき……生き物。
あのとき、ただの絶望が、静かに形を持った。
理屈ではなかった。魔術でもなかった。
“向こう側”としか言いようのない何かが、私の呼びかけに応じたのだ。
頭では理解している。
あれは質量を伴っていた。
あの隕石のような塊は、確かに現実に落ちた。
私の目の前にあった世界を、強引に、他のものと接続したのだ。
でも、それは……
果たして、私の意思だったのか?
私はふと、瓶の中の精霊を思い出す。
──“それ”は何かを語っただろうか?
いや、語らなかった。声も、意志も、感じなかった。
ただ……私の中の何かが、それを媒介にして働いた。
この力は、
“知”の果てにあるものなのか、
それとも、“無知”が呼び寄せた災いなのか。
私は、今も分からない。
だが、あれをもう一度振るうべき時が来たなら——
果たして私は、それを「自分の力」と言えるのだろうか。
炎がかすかに揺れ、影が石棺に落ちた。
私は膝の上に置いた鞄の中に、あの瓶があることを感じながら、
ただ、じっと、沈黙の時間に身を委ねていた。
──私は、学び舎にいた。
いや、“戻っていた”というべきかもしれない。
空は薄曇りで、冬の空気が海から吹き込んでくる。
石造りの外壁。錆びた鉄の門扉。
重厚な扉を押し開けたとき、嗅ぎ慣れた書物と薬草の香りが鼻をついた。
階段を上り、渡り廊下を渡る。
その先には、いつもの講義室があった。
木製の机が縦に並び、書見台には積み上がった論文。
天井から吊るされた油灯が、書面にちらちらと光を反射させていた。
私は中央の席に座っていた。
筆記具を取り出し、震える指先で表紙をめくる。
古い紙が、懐かしい音を立てた。
「──アラリック」
声をかけたのは、講師だった。
背の高い男で、深緑の外套を纏っている。
彼の名は……エルハルト教授。
そう、確かにそうだったはずだ。
「君の考察は読ませてもらった。海神にまつわる記述はやや冗長だったが、核心は悪くない」
「……ありがとうございます」
私は答えた。
声は震えていなかった。
黒板には、今日の講義の題が書かれている。
《内なる海と、神経の協奏》
その下には、脳と脊髄を繋ぐ構造を示す図があった。
だが、矢印の向きが逆だ。
脳からではなく、何かが“外”から流れ込んでいるように見えた。
「……?」
私は思わず眉を寄せた。
それでも講義は進む。
教授が指を鳴らすと、助手の者が小瓶を持って入ってきた。
中には、奇妙なものが浮いていた。
白く、ぬめり、透ける膜に覆われた軟体。
それは、今の私が持っている“胎なる精霊”と、どこか似ていた。
「これは精霊の標本。漁村より回収された個体のひとつだ」
教授が淡々と説明を続ける。
「君たちはまだ知らないだろうが、“神秘”の研究は神経を媒介に“接続”へと至る。
つまり――」
その瞬間、空間が揺らいだ。
私は、気づいた。
壁にかかった絵画が、かすかに動いた。
教授の言葉の語尾が、歪んでいた。
そして──隣の席の誰かが、こちらをじっと見ていた。
顔が、見えない。
フードの奥で目だけが、燃えるように光っている。
私は、振り返ろうとした。
「──アラリック。おい、アラリック!」
……声が重なった。
夢の中のものではない。
視界がかすれ、私はまぶたをゆっくりと開いた。
蝋燭の炎。石の天井。リアムの顔。
「ああ……夢を、見ていた」
「……だいぶうなされてたぞ」
私は口元に手をやった。
冷たい汗が指先に触れた。
夢の中の講義は、今も脳裏に鮮明に残っていた。
だが、思い出せば思い出すほど、記憶と重ならない箇所がいくつもあった。
教授の名。教室の構造。黒板の筆跡。
そのどれもが“確かに覚えているのに、どこか違っている”。
「……どうかしたか?」
リアムの問いに、私は小さく首を振った。
「いや、なんでもない。ただの……夢さ」
その時。避難所の門が開いた音に、ざわめきが広がった。
私は夢から醒めたばかりの頭を上げ、音の方へと目を向ける。
灯火の揺れるその先に、ひとりの女性が立っていた。
赤い外套をまとい、肩には風に吹かれる金髪。
手には何も持たず、ただ、震えながらも真っ直ぐな目で中を見据えていた。
「……ヴィオラ・ガスコインです。夫を、探しています。
狩人としてこの街を守っていた男です。
……あの人を、見かけた方はいませんか……?」
その名を聞いた途端、空気が変わった。
「……ガスコイン?」
「ガスコイン神父の……奥さんか……?」
低く囁いた声が、次第にざわめきとなって広がった。
「なんだよ、あのガスコインの……!」
「……そりゃあ、追ってくるさ。あの人の奥さんならな……」
老婆がそっと立ち上がり、彼女の手を取り、震える指先で撫でる。
「まあまあ、ようこそおいでなさった……
あの方には、どれほど助けられたことか……」
男たちも、口々に語り出す。
「旧市街がまだ生きてた頃、俺の弟を獣から救ったって話だ……」
「医療教会の連中が黙って見てる中、ひとりで街を駆け回ってた。
血に染まりながらも、人を見捨てなかった……あれが狩人だったよ」
赤い外套を咎める声は、もうなかった。
むしろ、それは“その人”の影を背負ってここに来た証のように見えた。
ヴィオラは、黙って頷いた。
言葉を探すように唇が揺れたが、やがて、かすかに笑った。
「ありがとうございます……
あの人は、何も言わずに出ていきました。
でも、戻ってくると思っていたんです……
それでも、ずっと……あの人の背中を信じていましたから」
私はその姿を見つめながら、
墓地の冷たい空気の中に、かすかな温もりが差したように思えた。
「……ようこそ、ヴィオラさん」
リアムがそっと声をかけた。
「ここは……まだ、人が人として迎え入れてくれる場所です」
その言葉に、彼女は静かに目を伏せ、深く一礼した。
「……ようこそ、ヴィオラさん」
リアムの穏やかな声が、場を優しく包んでいた。
彼女は深く礼をして、その場に佇む。
だが、すぐにその静寂を裂くような声が響いた。
「チッ……」
背後で、あの壮年の男が舌打ちをした。
「偉そうに迎え入れてんじゃねぇよ。あの狩人の女房だろうが……
何人が、あの“善良な狩人”に殺されたか、忘れたのかよ」
周囲がざわついた。誰かが言いかけたが、男は止まらなかった。
「ガスコインが街で何をした? 狩りに取り憑かれて、血まみれで、
“あれ”になりかけてたって噂もある。そんな奴を探してるだと?」
ヴィオラの手がわずかに震えた。だが彼女は、俯かず、男の方を真っすぐに見つめた。
「……それでも、あの人は私の夫です。
どれほど堕ちようと、あの人の背を見て私は生きてきました」
「それで、娘はどうした?」
低い声が割って入った。老婆ではなく、若い男だった。
「……え?」
ヴィオラが顔を上げる。
「娘さんがいるんだろ?なぜ、こんな危険な場所にひとりで?
あんた、家に置いてきたってことか……?」
周囲の者たちも、言葉には出さずとも、その問いに耳を傾けていた。
「……娘は……家に……」
ヴィオラの声が掠れた。
「オルゴールを……あの子に持たせて……
万が一、私が戻れなくても……夫に届くようにと……」
言葉が、墓地の空気に消えていく。
老婆がそっと肩を抱いた。
「大丈夫だよ、お嬢さん……
あの子も、きっと生きてる。あんたがそう思っているなら、きっと……ね」
ヴィオラは微かに目を閉じ、口元を震わせながら頷いた。
私は彼女の後ろ姿を見ながら、
「善良な狩人」の記憶の輪郭と、避けられない闇の気配が、静かに胸を締めつけるのを感じていた。
静まりかけた空気を、再びかき乱す声が上がった。
「ったくよ……」
例の壮年の男が、腰を上げて吐き捨てるように言った。
「こんなとこで、いつまでも震えてたってしょうがねぇだろ……
聖堂街に避難できりゃ、少しはマシな思いができるってのに……!」
彼は苛立たしげに、地面の石を蹴り飛ばす。
「……けどよ、あそこの扉の鍵は……ガスコイン神父が持ってんだよな。
肝心なときに、あいつはどこほっつき歩いてんだ?
人の命がかかってんのに、何してんだってんだよ!」
その言葉は、あからさまにヴィオラへ向けられていた。
彼女の肩がわずかに揺れる。
だが、俯かない。
彼女は静かに前へ出た。
「……あの人は、必ず戻ってきます」
「はっ、ずいぶん呑気なこったな」
「呑気なんかじゃありません。
あの人は、誰よりも街を見てきた。人を守ろうとしてきた。
苦しんで、血に塗れて、それでも……決して背を向けなかった」
男が口を開きかけるのを、ヴィオラは遮った。
「……遅れているのは、命を諦めていないからです。
誰かを守っているからこそ、ここに来れないだけです」
その目は、赤く滲んでいた。
けれど、その視線はまっすぐだった。
男は、しばらく口を開けたまま黙り込んだ。
やがて、顔を背けると、何も言わずに座り込んだ。
場に沈黙が戻る。
しかしそれは、さっきとは違う沈黙だった。
誰もが、彼女の言葉の重さを受け止めていた。
ヴィオラの言葉が場を包み、
一度は沈黙が戻った避難所。
蝋燭の光が揺れ、人々は自分の胸に宿った想いと向き合っているようだった。
だがそのとき、
その空気を引き裂くように、一人の若い男が立ち上がった。
「……もう限界だろ」
低く、通る声だった。
やせた顔、焦げたようなマント。手には使い込まれた短剣が握られている。
「このままここで神父を待ってたって、いつ来るとも知れねぇ。
化け物に見つかって殺されちまうのがオチだ。」
誰かが息を飲んだ。
「だったら俺は、正面から行く。大橋を渡って、聖堂街まで」
「……正気かよ」
誰かが呟いた。
「正気じゃなきゃ、ここで腐っちまう。
ガスコインが来ねぇなら、自分で門を叩くしかねぇだろ」
その声は、怒りではなかった。
ただ、焦燥と、諦めかけた希望の混ざったものだった。
「運が良けりゃ門を開けてもらえる。運が悪けりゃ……まあ、死ぬだけさ。
それでも、何もしねぇよりマシだろ」
彼は人々の間を見渡した。
「一緒に来る奴は、今言え。数が多けりゃ抑止にもなる。
ただ黙って座ってるだけの連中は、もう何も言うな」
誰もすぐには返事をしなかった。
その言葉の重さが、避難所にじわじわと広がっていく。
私は、ヴィオラの顔を見た。
彼女は何も言わなかった。けれど、その手は強く外套を握っていた。
リアムが小さく私にささやく。
「……どうする? 動くか、それとも……?」
私はまだ、答えを出せなかった。
「……俺は、行く」
若者の決意が、避難所の静寂を割いた。
緊張がはじけ、空気が軋む。
壮年の男が立ち上がると、低く、怒りを噛み殺した声が響いた。
「……そうだ。もう、待ってられねぇ。
あの神父がいつまで経っても来ねぇせいで、俺たちはここで朽ちかけてるんだ」
拳を握り、蝋燭の炎がその横顔を照らす。
額に浮かぶ汗が、怯えと焦燥の証のようだった。
「門を開ける鍵は、あいつが持ってる。だが来ねぇ。
だったら、もうこっちから行くしかねぇだろ……!」
声がぶつけられたその場で、偏屈な老人はうつむいたままだった。
が、ひとつ咳払いし、ゆっくり口を開いた。
「……愚かなこった」
その声に、場が凍りついた。
「外に出たところで何がある。
行けば聖堂街が笑顔で迎えてくれるとでも?
門の内側にいる連中は、お前らの顔も知らんのだ。
獣だと思えば、撃ち殺すだけさ」
それでも、壮年の男は怯まなかった。
「黙って待ってりゃ、助かるのかよ!?
こっちは、娘を目の前で殺されたんだぞ……!」
その声に、ひとり、ふたりと視線が揺れる。
「俺も……妻が……」
「ここにいても、何も変わらない。何も助からない……」
言葉ではない呻きが、灯火の影で積もっていく。
声に宿るのは希望ではなかった。
ただ、どうにかして“ここ以外”へ逃れたいという、恐怖と逃避の叫びだった。
「なら、行けばいいさ」
老人は言い捨てるように言った。
「わしは行かん。足腰が利かんだけじゃない。
あの橋に立った時、お前らはきっと知るだろう。
“外の方が、もっと狂っている”ってことをな……」
その言葉は、誰にも届かないようだった。
人々は、もう聞いていなかった。
灯火の下、焦りと恐怖が静かに形を取りはじめていた。
「お願い……!」
強い声が響いた。
私は振り返る。
ヴィオラが立っていた。顔は強張っていたが、目は決して逸らさなかった。
「まだ……あの人は、必ず戻ってきます。
こんなにも遅れるのは、誰かを守っているから……
ここまで来られなかっただけで、絶対に見捨てる人じゃありません」
彼女の声は、切実で、静かだった。
「だから……今はまだ、信じて。お願い。
動いた先にあるのが、安全とは限らない……それだけは、わかってほしいの」
だが、火がついた心に、静かな言葉は届かない。
「もう遅いんだよ!」
壮年の男が怒鳴った。
「信じてりゃ助かるってんなら、俺の女房もまだ生きてたはずだ!」
彼は誰にも制されず、荷をまとめる。
続いて、若い男も立ち上がる。
「行く者は行く。それだけだ。
……もう、選ぶ時が来たんだよ、ここで腐るか、外で死ぬか」
避難所のあちこちで、ざわめきが散った。
震える手で荷物をまとめる女。
子供の肩を抱えて、迷う母。
口を閉ざしたまま、ひたすら蝋燭を見つめる男。
「……わたしは、ここに残ります」
老婆がそっとヴィオラの腕を取った。
「若い頃から、祈りで何かが変わるとは思っとらんかったがね。
でも、あんたの言葉は嘘じゃないと、そう思うんだよ」
「……あたしも、残る」
一人の中年女が口を開いた。
「脚も悪いし、外で走るなんて無理だわ……でも、それ以上に……」
彼女は小さく笑った。
「なんだか、信じたくなったのよ。ねえ、神父の奥さん」
ヴィオラは、ほんの少しだけ微笑んで、深く頭を下げた。
「……行く者は付いてこい。」
若者が荷を背に、扉の方へと歩き出した。
それに続く者たちが、躊躇いがちに立ち上がる。
蝋燭の火が揺れ、冷えた墓地の空気が吹き込んでくる。
その時だった。
──ギリリ……ギギッ……ガシャァァァン!
鉄の音が跳ね、次いで何かが石壁にぶつかる音。
「……な、なんだ……!?」
叫び声が上がる前に、扉が破られた。
火が、跳ねた。
風が、血の臭いを運んできた。
そして現れたのは、歪んだ四肢、ただれて割けた顔、
元は人であった何か。
──獣。
「っ、くそ、なぜ……!」
若者の声が途切れた瞬間、獣が唸った。
爪が地を叩き、蝋燭が次々と倒れる。
混乱が、爆発した。
「ひいいいいいっ!」
「隠せ!子供を!こっちへ!」
「外へ出るな!戸を閉めろ!」
人々が走り、叫び、荷物を放り出す。
行くと決めた者たちは動けず、残った者たちは恐怖で立ち尽くした。
獣が吼えた。
空気が揺れ、蝋燭の火が一斉に吹き消える。
墓地に張り巡らされた通路が、ただの石と血の牢に変わる。
叫び声が響き、誰かが転んだ音。
そして、彼女の声が聞こえた。
「いやっ、いやあああああああっっ!!」
ヒステリックな中年の女。
いつも口を尖らせ、誰かに不安をぶつけていた女が、
今、真っ先にその不安に喰われようとしていた。
「誰か!助けてっ……お願い、お願いだから!!」
彼女は倒れていた。
片足を滑らせ、壁際で尻もちをついたまま、手を伸ばしていた。
誰かが振り返った。誰かが口を開けた。
だが、足は動かなかった。
獣の爪が、石を弾いた。
跳びかかる瞬間、目だけが女を捉えていた。
「やめてえええええええええっ!!」
裂けた。
爪が喉を引き裂き、血が蝋燭台にまで飛び散った。
誰かが嘔吐した。
誰かが子供を抱えて泣いた。
彼女は声を出さないまま、崩れた。
苦しそうな瞳だけが、最後まで「なぜ」と問い続けていた。
彼女の体が、ぐしゃりと音を立てて崩れた。
血が床を這い、蝋燭の残骸を濡らしていた。
空気が変わった。
それは恐怖でも絶望でもなかった。
もっと、原始的な何か。
「う……あ……ッ」
誰かが呻いた。
「このやろおおおおおおおおおっ!!」
最初に吼えたのは、あの壮年の男だった。
腰の後ろから取り出した鉄の棒を、無造作に掲げて――
「こっちはもう何人も失ってんだよッ!!てめぇなんかにっ……!」
火がついた。
怒りが、恐怖を焼き尽くした。
「うおおおおおおおおおおッ!!」
「やめろおおおおッ!!出ていけええええッ!!」
次々に、男たちが立ち上がった。
石くれを手に、折れた薪を手に、蝋燭台を武器に。
まだ人間のままだ。
だがその目に、理性は残っていなかった。
雄叫びのような咆哮が、地下墓の闇を満たす。
「殺せっ……!殺せっ……!」
獣が唸り、振りかざされた棒をはじいた。
けれど男は怯まなかった。
返す拳が、顎を割り、もうひとりが肩に突撃し、
ふたりがかりで押し倒した。
私は呆然と見ていた。
「アラリック!」
リアムの声に、我に返る。
「死ねぇぇええッ!!」
男のひとりが獣にしがみつき、鉄の棒を何度も何度も振り下ろす。
それを合図に、周囲の者たちも叫びながら襲いかかった。
まるで、自分たちが“獣よりも獣になれば”勝てるとでも言うように。
だが現実は、残酷だった。
「うわああっ!」
「腕が……ッ、ちぎ……っ!!」
呻き、叫び、血が飛ぶ。
立ち向かっていた者たちのうち数人が、もはや立ち上がることもできずに倒れていた。
そのとき、隣にいたリアムが、肩を掴んできた。
「なあ、アラリック……ヤバいぞ、あれ」
私は彼の顔を見た。
額に汗が浮き、目はまっすぐ混乱の只中を見据えていた。
「……なんか変だ。怒ってるっていうより……あいつら、目が違う。
やってることが……人間じゃなくなってきてる」
「……」
「俺、あんな声、聞いたことねぇ。
あれ以上あいつらの近くにいたら……俺たちまでおかしくなる」
彼は息を呑んだ。
「逃げよう、な? 今ならまだ出られる。
全部がぶっ壊れる前に、ここを出よう」
私は数秒、獣と人間たちの境目を見ていた。
──何かが、もう戻れないところに差し掛かっている。
頷いて、私はリアムの肩に手を置いた。
「……行こう」
「おい! こっちに来い!」
リアムが叫んだ。
倒れていない者たち――壁際で震えている避難民に向かって、手を伸ばした。
「動けるやつは来い! まだ間に合う!」
彼の声は真剣で、焦っていて、でも……届かなかった。
誰もが、恐怖に飲み込まれていた。
「無理だ……外は……もっと……」
「もうダメだ……出たら殺される……」
中年の女が子供を抱きしめて、ただ揺れている。
男たちは何人か立ち上がりかけたが、仲間の惨たらしい死を目にして、また膝をついた。
誰一人、動こうとはしなかった。
リアムが振り返ったとき、
ヴィオラの姿が視界の端をかすめた。
赤い外套が、黒い石の間をすり抜けるように走っていく。
「ヴィオラさん!」
私が呼びかけるより早く、彼女は墓標の並ぶ奥へと消えていった。
彼女は何も言わなかった。
ただ、夫の名を信じるように、その背を押されたまま、闇に溶けた。
私は一瞬、足を向けかけた。
だが、リアムが腕を掴む。
「……今は無理だ。追ったら、戻れなくなる」
「……ああ。わかってる」
仕方なかった。
──私たちの声は、もう誰にも届いていなかった。
ー ー ー
うるさい ひかり あかるい くさい
ああ また ヒトだ
たくさんいる 震えてる
おれを 見てる
──いいぞ、いいぞ もっと見ろ
手が動く
伸びる
裂ける
肉の中 あたたかい
ひとり、泣いた
泣いても無駄だ
それは もう しった
ヒトは 皆んな
獣なんだ
肉を引きちぎると 音がする
血が出る
それが合図 戦いのはじまり
誰かが ぶつかってきた
痛い? いや、違う
──たのしい
骨が、強い
足が、速い
おれは いま つよい
ヒトの声が する
でも もう言葉が わからない
言葉より 声より 肉の音のほうが すきだ
──ヒトは皆んな
ヒトは皆んな
ヒトは皆んな、獣なんだ
おれは それを証明する
この手で
この爪で
また 来た
また 裂ける
──まだ足りない
もっと 見せろ
もっと 闘え
もっともっともっともっと──