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課題を閉じて、月曜日のプリントを鞄に差し込んだとき、机の上でスマホが小さく震えた。胸が一拍、静かに跳ね飛ぶ。
画面に浮かぶ「後藤ひとり」という名前を見たその瞬間、肺の奥に新しい空気が入ってくるみたいに俺の身体は軽くなった。
「………!」
布団にダイブして、天井の灯りに透かすみたいにスマホを掲げる。画面には短い一文。
『吉沢くん。練習、終わりました。今から帰るところです』
俺は思わず、口の端が勝手に上がった。
「………なんか、アレだな、すげぇ緊張してんのが文越しでも伝わるな」
慎重に指を動かす。変に重くも、軽くもならない温度で。
『お疲れさま。今日も大変だったろ、気をつけて帰ってね』
送信。
……沈黙。既読のまま、時間だけが伸びる。
「………返信、来ないな」
ベッドの上でスマホを胸に置いて、天井の白い四角を眺める。電車で座ったまま、そのままコクリコクリ、って落ちる後藤さんが脳裏に浮かぶ。吊り革に揺られて、前髪がほつれて、はっと起きて辺りを見回す姿まで浮かんで、俺はついひとりで笑いそうになる。
それか、あるいは今も打っては消して、をやってる。あの細くて綺麗な指先で。
歯でも磨くか、と洗面所へ向かう。ちょうどコップに水を汲んだところで、部屋のほうから「ピコン」と音がした。情けないことに、歯ブラシくわえたままダッシュで戻る。
迷わず布団へダイブ。画面には、整った文字列だ。
『はい、大丈夫です。ありがとうございます、吉沢くんも、しっかりやすんでほしいです』
うん、と喉の奥で頷く。
短くて、まっすぐ。絵文字の一つもないのに、指が震えてたのが目に見えるみたいだ。不思議だな、と思う。
『うん、ありがとう。おやすみ』
サッとそれだけを送って、枕に後頭部を沈めた。深い息がひとつ抜けるたび、胸の中心がじわりと熱くなる。
『大丈夫、です。ちゃんと、聞いてました。届いてました。私の事、想ってくれて……ほんとうに、ほんとうに、嬉しいです』
昼間の後藤さんのあの声が、音源のリピートみたいに耳の内側で鳴り響く。
あの時の彼女の頬の赤さ、指先の震え、前髪の隙間から覗いた碧い目。そのどれもが、音になる。
心臓がうるさい。けど、その拍動のひとつひとつが嫌いじゃない。
むしろ、彼女のギターのダウンピッキングと合ってくる感じがする。あの台風の夜、ステージの光を浴びていた「ギターヒーロー」のストロークと同じ速さで、胸が刻む。
「……………後藤さん…………」
無意識に呼んでいた。
スマホの画面では、彼女のオーチューブチャンネルの再生履歴が並ぶ。音量は絞っているのに、指が覚えているフレーズが脳内で自然に鳴り響く。
あの手、この音。
あの人。
顔が、浮かぶ。
あぁ。やっぱり、と思う。確信をする。
やっぱり俺は、後藤さんのことが─────どうしようもないくらい好きなんだ。
言葉にした途端、胸の中のパズルピースがまたひとつ、カチリと定位置にはまった気がした。
怖さも、不安も、最早ゼロにはならない。それは言うなれば、全部ひっくるめてきっと前に進める種類の熱だ。
目を閉じる。暗闇の瞼にすら届く一番星。
記憶に残っているあの光の残像の向こうで、ピンクの前髪がふわりと揺れている。
ここ最近、ずっとまともに寝られなかった。だけど、今日に限ってはこれ以上ないほどに、穏やかに眠れる気がする。襲い来る微睡みを、だんだんと受け入れていく。
次の通知音が鳴る前に、今は眠りにつこう。
記憶の中に眠る、君のことだけを──────思い出していたいから。
今はただ一つ、それだけを願った。
※
玄関を閉めた勢いのまま、私は靴を蹴って浴室へ一直線に向かう。
長く歩いたローファーの感触は、慣れた方だと思うけど、やっぱりたまに足が痛くなる。
ジャージを脱ぎ捨て、熱すぎないシャワーを頭から浴びると、残っていたライブハウスの音と汗が、泡と一緒に流れていく。指先に残っていた弦の感触と、肩口に残っていた抱きしめられた温度だけは、どうしても落ちない。
落としたくない、とも思う。
ドライヤーの風が前髪を揺らす。
鏡の中の自分は、まだ少し赤い。初めて、異性から可愛いと言われた自分の顔と、見つめ合う。
頬の色も、耳の縁も。目を伏せると、胸の奥のビートがまたひとつ跳ねた。うるさい。でも、嫌じゃない。音程を持った鼓動みたいに、さっきの言葉をリフレインする。
自分の顔を、鏡でハッキリと見るのはあまり好きじゃなかった。どうしても、喜多ちゃん達に比べたらずっと劣ってると感じてしまうから。自信なんて、持てるはずもなかったからだ。
夕食はそこそこにして、自室へ戻った。飾って置いてあるギターへ目を向ける。
「…………」
いつもなら、この時間でも最低でも二時間は練習する。睡眠不足になったら元も子もないから極力二時間に抑えるけど、それでも長い時はもっと練習する。
だけど、今日に限っては珍しくそれをする気にならなかった。勿論、本当は良くない。出来ることなら毎日少しでも弾き続けるのが理想なんだから。
でも、今日だけは本当に色んなことがあり過ぎた。頭の中に音が入ってこない。少しでも練習しようと思って十五分ほど弾いてみたけど、やっぱりダメだった。諦めて押し入れからのそのそと布団へ潜り込む。
枕元の灯りにスマホを掲げる。画面には短い会話が光っていて、指でなぞるたびに、もう一度同じ温度が返ってくる。
『お疲れさま。今日も大変だったろ、気をつけて帰ってね』
そのメッセージを見るだけで、胸が締め付けられたような、そんな気持ちになる。相変わらず数分以上掛けて私は返信をした。
『はい、大丈夫です。ありがとうございます、吉沢くんも、しっかりやすんでほしいです』
そう打ち込むと、秒速で吉沢くんから返信は帰ってきた。
『うん、ありがとう。おやすみ』
句点の一つ一つが、ちゃんと私のことを見てるみたいで、胸がきゅっとなる。余計な飾りが何もないのに、あたたかい。たぶん、それは本当だから。
こんな気持ち、初めてだった。男の人と、こんなに話せたのも、こんなに足先までもが震える程の高揚感に襲われるのも。
「お姉ちゃーん? どしたのー? 今日遅かったね」
襖の向こうから小さな声。ふたりの足音が畳を踏むリズムで近づき、静かに襖が開いた。
「……んーんー、なんでもないよ……」
生返事でも、ふたりはそれ以上は踏み込もうとはしなかった。珍しいな、と思う。こういう時大概この妹は深掘りしてくるのに。じっと私の顔を見つめるふたり。ちらり、と見つめ返す。
「……おやすみ、お姉ちゃん」
「うん……おやすみ」
見つめ合った視線のまま、襖が静かに閉まる。部屋の空気が落ち着く。
画面の明かりを見上げたまま、さっきの夜道、ベンチ、ミルクティーの甘さ、そして─────「ぼっちは、どうしたいの」というあの人の声が蘇った。
どうしたいんだろう。でも、思うこと。
それはこわい、ということ。
失敗したくない。傷つけたくない。傷つきたくない。
……でも、いま頭の中に最初に浮かんだ答えは、もっとシンプルだった。
——もっと、話したい。
——もっと、知りたい。
——また、会いたい。
その三つを胸の内側でそっと並べる。単純明快な、そんな答え。だけど声に出したら壊れてしまいそうで、出さない。代わりにたいせつな名前だけを、心の中で何度も呼ぶ。
(吉沢、くん……)
(吉沢、春樹……くん……)
とくん、と胸の奥が弾ける音が響く。名前を呼ぶ度に、彼の存在が自分の中に降りてくるような、そんな気分になる。それはまるで、真夜中の空に夜明けの太陽が昇るみたいだった。
ふと、スマホを胸に置く。
彼の名前を呼ぶだけで、バイブの余韻と鼓動が重なって、一拍だけ世界が静かになる。瞼を閉じると、ピンクの前髪の向こうで笑う朝日の様な顔が、すぐ手の届く距離にいるみたいに浮かぶ。
指先に残る弦の硬さと、肩に残る抱擁の柔らかさ。その二つの質感が混ざって、やさしい重さになる。
明日、ちゃんと話そう。ちゃんと、言葉で。
そう思ったところで、眠気は足元からやってくる。布団の匂いに沈みながら、最後にもう一度だけ薄ぼんやりな瞼のまま、画面を点ける。「おやすみ」の四文字を見て、そっと微笑む。
心臓はまだ少し速い。でも、テンポはもう怖さじゃなく、期待に合っている。
小さく息を整えて───────私は彼の名前を胸の中で抱えたまま、静かに眠りに落ちていった。
ぼっち・ざ・ろっく!
フラッシュバッカー
#01「今、僕、アンダーグラウンドから」
《了》
The Next.
「とりあえず、さ? 落ち着いて、話そ? な?」
「あっ、あの、なんというか、不思議な、人ですね。吉沢くんって……」
「あくまでも、君からはそう見えてるだけだよ」
『伊地知先輩、リョウ先輩!! き、き、緊急事態発生ですっっ!!』
(あれ? 何かしら、これ)
「誰かのようになる必要なんか、ないんだ。君は君なんだ」
「聞いていいかな」
「寂しくは、なかった?」
「……どうして、そんなにやさしくしてくれるんですか? こんな、こんな私、なんかに」
次回
#02 『君という花』
ひとり「みっ、見て下さい」