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屋上。鍵の油の匂い。風がジャージの裾を引っ張って、フェンスの向こうの空が開けている。
錆びつきかけた扉を開けた私達は、二人揃って少し離れる。そのまま、屋上に設置されていた休憩用のベンチに一緒に座った。
距離は近くないはずのに、どうしようもなく耳に届く心臓の爆音は近い。今にも気を抜いたら、喉から飛び出していきそう。
吉沢くんはそんな不信すぎる私の顔を見つつ、柔らかく微笑んでこちらを見つめてきた。ねぇ、後藤さん、と楽器のような声が届く。
「こないだの告白の話。考えてくれた……?」
「……えっ、あっへっ、あっそ、そっその、それは………」
喉がキュッと締まる。胸の中で残り続けていた言葉が、また光る。目をまたも彼から逸らす。
眩しい。まっすぐすぎて、そのまま視線を細めずにいられない。喜多ちゃんとこの人のこういうところは、そんなに変わらないかもしれない。本当によく似てる。
「……ふふっ、いや、なーんてな。さすがに、昨日の今日じゃそんなすぐに返事なんて無理だよな」
「……あっえっその、すすすすみません………吉沢くん」
「いいよ、大丈夫」
“いいよ” の二文字に、肺が広くなるみたいだった。問い詰める訳でもない、そんな温もりのある声は、相変わらず優しい。
そんな中、彼が持っている包みがふと目に入って、さっきの衝突の再生が始まる。
そうだ、あのお弁当。もしかして私のせいで形が崩れたりしてるんじゃ。
「………あっあの、さっきの、お弁当……すみません、その、大丈夫でしたか……? わっ私のせいで、結構、その、走らせちゃいましたし」
「え? あぁ、こんなん余裕! 大したことないよ。全然食べられるし」
「ほ、本当ですか? でも、せっかく作ったのなら、その……っ」
「ふふっ、大丈夫。後藤さんは気にし過ぎだよ」と、そう言って彼は微笑む。その笑顔に、少しだけ胸が痛くなる。あの、と私は呟く。
「……わっ私、こういう時いつも、上手く振る舞えなくて……。ほんとに」
「ねっ、後藤さん」
彼は目を合わせてくる。笑顔のまま、急にこれまたスッ、と指を伸ばされた。思わず反射で私は肩を揺らす。
「もう、謝らないで?」
そして、彼の人差し指が触れるか触れないかの距離が私の唇に近づいた。シー。
心臓も、一瞬だけシー。全身の時が、ほんの一瞬止まる。何も言えなくなった。な、なんでこの人、こんなにそういう仕草が似合うの。
「………………………はい」
そのまま私はされるがまま、ただ無意識に頷いた。頷けてしまっていた。
「ふふっ、ならよし!」
そのままからっとした笑顔で、彼は笑いかけた。そこには、打算やわざとらしさなんか、どうしてか全く感じない。
これが、俗に言うナチュラルボーン陽キャなのかな。その仕草に見蕩れてしまう。自分でも驚くくらい、簡単に身体が動く感じがする。そこで、ふと思う。
「………。あっ、あの、なんというか、不思議な、人ですね。吉沢くんって……」
「え? なんだよ、急に」
「あっいえ、その……なんていうかこんなミジンコみたいな私にも……吉沢くんは、本当に優しくしてくれる、ので」
言ってて途中で恥ずかしくなり、思わず私はまーた目を逸らす。そして、もう一度顔を向ける。
「いやそれは………ていうかミジンコとか、そんな事ないのになぁ」
すると彼は、そう言って困った様に笑う。そんなことを言って引かないでくれるのは、この人だけ。いちいち嬉しく感じてしまう。
吉沢くんは、ちょっとだけ顔を逸らして、空を眺める。そんなさり気ない全部。全ての所作がなんか、ずるい。胸が“ずるい”って鳴り響く。
「……あれ。なんかさ。あの雲、可愛い形してるよな」
「え?」
不意に空を見上げていた彼にそんなことを呟かれ、思わず目線を向ける。
「なんていうか、溶けた顔してる時の君みたい」
吉沢くんはそうしてくすくすと笑って、穏やかな横目をこちらに向ける。その言葉に、胸がとんでもなく変な跳ね方をした。
なっ、なに、それ。そんな例え、嬉しすぎる。
今度はドッドッドッどころじゃない、ドコドコドコドコ、ととんでもない地殻変動を起こす。あ"っこれ、やばい。いずれ不整脈で力尽きるかもしれない。
「なんかやたらこの辺ドラムみたいな音響くな……」
ひぇぇええええええええ。どこか不思議そうな様子で呟く吉沢くん。すみません私のせいなんですそれ。
「あっあっあっあっ、あんなふうに見えてますか私!?」
思わず私は顔を隠して叫ぶ。呂律がまるで回らない。たぶん、今耳まで赤い気がする。ものすごい熱い。隠せてない。全然。恥だ。
「そ、その、なんというか、おみぐるしいものをぉ……」
「え、あ、いいや、見た目の話だよ。別に深い意味は無いよ!」
そう言った彼の楽しげな笑い声が、風に混ざって私の耳に届く。
あっ、な、なんだ。良かった。
つられて、口元が緩む。「あっそうなんですね……よっよかった」
いやまあ、あんまり良くないかもだけど。
それにしても私の顔、きっとだらしない。なんだろう。
からかわれてるのかもしれないのに、どうしてだろう。不思議と、彼の言葉は全く嫌じゃない。多分、からかってきても、それすら優しいと思えてしまう。
「…………あっあの」
「……聞いても、いいですか? 吉沢くん」
何となく、私は胸を撫でてから、深く息をつく。視線を下ろしてから一呼吸。やがてそのまま、彼と同じ目線を青空へ向けた。彼は顔は見上げたまま、そっと視線だけ隣の私へ向けてくる。それにすら、小さくどきっとする。
「んー……?」
「……っ、あっあの、さっき、吉沢くんのこと、不思議な人って言った、理由のこと、なんですけど」
「うん、もちろん。なんでも聞くよ」
吉沢くんは相変わらず空に耳を傾けるみたいに、目を閉じて待ってくれる。その振る舞いは、どうしようもなく優しくて、温かい。
まるでおばあちゃん家の縁側に差し込む陽の光みたいだ、とそんなことを思う。それはいつまでもそこに居たくなるような、そんな陽だまりそのものだった。その待ち方が、やっぱりずるい。喋りたくなる。
「…………吉沢くんは、その……今まで私が接してきた男の子とは違って……すごく、優しいな、と思うんです」
「……その……嫌じゃないですか? 私みたいな……地味で、根暗で、コミュ障で、こんな人間と関わるのって……」
言いながら、自分で自分を小さくしていく感覚がある。それは、言うなれば癖。悪い癖だ。
分かっている。でも、ついそうしてしまう。自分でも歪んでると思う。
だけど、そうせずにはいられない。そしたら彼の返事は、予想の外側から来た。
「そんなことないよ」
「だって、言ったでしょ。告白の時も。俺は根本の君が……優しい人だってこと、ちゃんと知ってるもん」
「────────────え」
知ってる、って。胸の奥の古い鍵穴が、カチ、って鳴る。
涙腺の蓋が、ふわっと緩む。嘘。やだ。まずい。耐える。耐えなきゃ。じゃなきゃ、昨日みたいにまた泣きそうになる。
「あっあの、ありが、とう、ございます……」
うまく言葉が出ないから、お辞儀みたいに俯きながら、瞼で言葉を返す。袖でそっと目を拭く。きっと髪に隠れて、顔は見えてないと思う。そうじゃなきゃ、バレそうで恥ずかしい。
「お礼を言われるほどのことじゃないよ。紛れもなく、本心だし」
風が髪を撫でる。そのまま、私はまたチラリと右横を見つめる。静かに目を閉じている彼の横顔は、とても穏やかだった。なのに。
ふと、気づいた。
「…………」
その顔が、どこか少しだけ寂しそうに見えていることに。
どうして。
どうして、そんな顔をしているの? そう思って、彼を見つめる。
「…………あくまでも、君からはそう見えてるだけだよ」
「……俺は、別にそんな優しい人間じゃないし、……君みたいに努力できるような、そんな、……立派な人間じゃないんだ」
「………え?」
彼の言葉に、胸がきゅっとなる。なんで、そんなことをいうの?
どうしてかわからない。なのに、どこか彼は自分に対して価値を置いていないように聞こえた。
既視感。
誰かに似ている、と気付く。
あぁ、そうだ。
どうしてかその言葉は、私と似ている気がした。私なんかと比べるなんて、そんなのおごがましいにも程があると思う。
でも。思ってしまう。
わからないけど、わかりたい、って。
「あっ、あの」
思わず、袖を掴もうとする。
すると彼はあっけらかんとした様に、急に表情を変える。それは、いつも通りの笑顔だった。
「んーん、ごめん。俺の話はどうでもいいね」
その瞬間。急激に違和感が走った。
その笑顔は、“違う”気がして咄嗟に呼び止める。
「ッ、待って、待ってください!」
「え…………?」
彼は目を丸くしてこちらへ視線を返す。
違う。今の笑顔は、きっと、本物じゃない。貼り付けている。それは、本当の彼の顔じゃない。思わず、訴えていた。
「……そんなこと、ないですっ!」
「…………後藤、さん?」
気付いたら、私は袖を掴んでいた。彼は不思議そうに見つめてくる。
袖を掴んだまま、離したくなかった。だって、そうしないと、そうでないと────と、思う。
「私は……本当に吉沢くんが、優しくて、強い人だと思っているんです! だから……その………!」
そうでないと────この人は、どこかに行ってしまう気がしたから。
どうして、なんでそんなことを思ったかはやっぱり分からない。
でもこの気持ちを言おうにも言えない。言いたくても、言葉の先が見つからなくて、唇を噛む。
言いたいのに。そんなことない、だって、だってこんな私のことをこんなにも肯定してくれてるのに。その先を、言いたいのに。
彼は困惑しているのかもしれない。
言葉の続きが紡げない私を見たまま、彼はまるでそっと響く鈴のように、私の名を呼ぶ。丁寧に。「……後藤さん……」と。
あぁ。本当に。
情けない。
嫌だ。こんな、私。
ごめんなさい。なんで、どうして私はこんなんなの。
こんな時に、もっと上手く言葉を伝えられたなら。彼の寂しげな横顔から垣間見えたものを、きっとうまく言語化出来た筈なのに。
私が喜多ちゃんだったら、きっともっとちゃんと想いを伝えられたはずなのに。
その喜多ちゃんの時も、虹夏ちゃんの時も、何となくは分かる気がするのに、全然上手く想いを言葉にできなかった。やっぱり私なんかには、そんなこと無理なのかな。
「…………すみ、ません。上手く、こういうとき、なんて言えばいいか、わからなくて……」
「……ううん、全然、いいけど」
沈黙が、私達の間に薄い布みたいに降りる。
気まずい。多分、いつもの私だったら耐えられなくて逃げ出してた。なのに、どうしてだろう。
(……………あ、れ)
(…………なんでだろう。気まずいはずなのに、気まずく、ない)
これは、嫌じゃない種類の気まずさに思えた。なぜかは分からないのに、不思議と気が重くない。すると、彼は気を遣ったように少しだけ笑って呟く。
「……ごめん。『どうでもいい』は、違うよな」
「………え……」
彼は、笑顔の仮面を外したように、さっきと同じどこか寂しげな表情を見せてくれた。そこで気付く。そうか、この人の“雰囲気”がそうさせてるのかな、と。
だけどこの先の言葉をどう伝えたらいいかは、私にはやっぱり分からなかった。
「…………あっ………うっ」
「わっ、私も、ごめんなさい。うまく、話せなくて……」
いつもの通り情けなく吃る。情けない。そんなこと、ずっと思ってる。だけど、それでも。
そして、拳を小さく握る。
それはきっと、音が鳴らないタイプの決意だ。もっと、伝えたい、と胸が勝手に呟く。すると吉沢くんは、穏やかに返してくる。
「………ううん。嬉しいな、って思ったよ。さっきの言葉」
「……え?」
「ほ、本当ですか……?」
こくり、と彼に頷かれる。
目を見開ききったままそれを見て、思わず胸の中で小さく拍手が起きるのを感じる。私は慌てて、でも確かに言い切る。
「う、嘘じゃ、無いですから! 紛れもなく本心です、さっきのは……!!」
「………そう、なんだ」
吉沢くんはまたやさしく笑って、目を細める。
「どうして、そう思ってくれたの? 俺のこと、そんな優しくて、強いとか……さ」
「え………」
問われて、言葉を並べる。どうして。いざ聞かれると、上手く言うのって、難しい。
こんなの、虹夏ちゃん達にも言えたことがないから。
だけど、どんなに時間がかかっても、きっとこの人は聞いてくれる。
そんな気がして、作詞とギターの技術にばかり振ってきた脳のストレージを回しまくった。
「………………」
震えるけど、消えない言葉。歌詞を考える時みたいに、私の中で、言葉が降ってきた。
それはきっと、ノイズだと思ってた私の音を“必要な余韻”に変えてくれる人だからなんだと。でもそれを、もっと分かりやすく、彼に伝えたい。そうして手をこまねきながらも呟く。
「……吉沢くん、は……クラスの中心的存在なのに、私みたいなその、クラスで浮いてるような……そんな存在にも、何も分け隔てなく接してくれてるじゃないですか……?」
「……そう、かな。俺自身は別に、普通だと思うけどな」
普通、という言葉に、胸が少し沈む。けれど、頑張って私は首を横に振る。違う、と伝えたい。
「……吉沢くんの、それは……私からしたら普通の事じゃなくて、すごい、事だと思います」
「……よ、吉沢くんは、十二分に、強くて、優しいと、私は……思って、ます、ハイ…………」
なんか変な語尾もくっついてきて、しかも語尾も萎むのは仕様。でも意思は本物。
そんな言い訳を内心思ってはいても、やっぱり彼は目尻を柔らかくして、「ありがとう。後藤さん」と返してくれた。胸の奥が、あったかくなる。逆に私は慌てる。
「っっ、ご、ご、ごめんなさい……! 調子に乗りました……! 忘れてくださいっ!」
「え、今の言葉嘘なの!??」
「あっえっあっ、ち、ちっちが、ちが、チガいま、そ、それは嘘じゃありません! ほ、ほほほほんとで……!!」
自分の顔が溶けてるのが分かる。するとそんな私を見て、彼が吹き出した。
「っ、あははっ、あははは! へんな、かお!!」
「……!!」
まさか笑われるとは思ってなくて、多分鳩がマメ鉄砲を食らった様な顔を私はしてると思う。
「………ふふっ、うへ、うへへ………あはは……っ」
でもなぜか、勝手に笑えてしまう。青空に、笑い声が跳ね返る。私、こんなに笑えるんだ。こんな私でも。
しばらく笑いあった後、自然に私達は空を見上げていた。口篭りながらも、本音が漏れる。あぁ、久しぶりだ。ううん、いや、なんなら初めて、かもしれない。
「……わたし、こんなに笑ったの、初めて、かも……しれません」
「……そなの? バンドの皆と一緒にいる時、そういう時くらいありそうだけど」
「あっいつも、バンドの皆さんは困らせてばっかりなので……あっでも、楽しい瞬間はあるんです。間違いなく」
うんうん、と頷く彼は、少し前のめりに私の顔を覗き込む。ちらりと見つめ返すと、視線は変わらず優しい。私は、自分の空白を少しずつ言葉で埋める。
「………そもそも結束バンドの皆以外、友達はいないし。普段は一人でいることも、多いので……あんまり笑う機会って、ないんですよね」
「そっか……」
「ねぇ、後藤さん」
「あっ、は、はい」
吉沢くんはふと、見上げてた視線を隣の私へ向け直す。問いかけきた。
その質問を聞いて何故だろう、と私は思う。
やっぱり、彼の言葉の節々には──────
「──────聞いていいかな」
「……………寂しくは、なかった?」
「えっ………」
どうしてか、私と同じ「痛み」を感じさせるような、そんな何かを感じた。