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「──────聞いていいかな」
「……………寂しくは、なかった?」
そうして彼はまた空を見上げながら、横目で静かにそう聞いてきた。
「えっ………ど、どうして、ですか」
「……独りでいたら、もしかしたらきっと」
「寂しいんじゃないかな、って思うから」
そう言って彼はまたあの顔で、目を細めて青空を見つめる。それを見て、硬直する。身を固くしながら、思わず拳を固くなるのを感じた。
「………………」
なんて、返せばいいんだろう。
そのまま、私は少し俯く。そしてもう一度彼へ目線を向け直す。すると、胸の奥の古い引き出しが勝手に開いた。
風が
きっと、こわくない。この人に話しても、きっと大丈夫。そう、思えたからかもしれない。ガタガタとかたつくその古びたドロアをそっと更に開いていく。
追憶に残るのは、砂の匂い。園庭の陽射し。
「………昔、思ったことがあるんです」
やがて顔を上げて、フェンスの向こうへふと視線を向ける。
小さな自分の背中が、その向こうで見える。
その奥に見えるのは、指を立ててる誰かの姿だ。
「かくれんぼする人 この指止まれ」。今でも時々夢に出る。十年も前の事なのに、まだ幼い男の子の声が脳裏に響く。
「幼稚園に通ってた頃のことです。クラスの中心にいた男の子が、「一緒に遊ぶ人、この指とまれ」って言ってて……」
自分は、その子達へ指が伸ばせない。
止まったまま、動けなかった────ただそれを見つめることしか出来なかった、幼稚園児の頃の、あの日の私の背中。
「あの時、思ったんです。『私なんかが、あの指に、止まってもいいのかな』って」
そうして悩んでる間に、行列はいつも出発している。
「そうやって悩んでいるうちに、いつも乗り遅れていました。……気付いたら、どうしてかいつも、私は……独りで」
そう。気付けば『独り』。遠足も、班も。優しい先生の気遣いを、いつも貰ってばかり。
「遠足の時も、班行動の時も、先生が気を遣ってくれて……お弁当のおかずを何度も交換する、……『独りぼっち』の子だったんです」
それが、当たり前だった。自分のような人間が、あの場所に手を伸ばしちゃダメなんだ、といつからか思うようになっていた。
それが、私なんだ、って。
本当は感じていた。
このままでいいんだろうか、って。
でも。
私には所詮「THE 陰キャ」のような日々が身の丈に合っているんだ。だから、これでいいんだ。そんな風にずっと思っていた。それこそが分相応。
もういつからそう思うようになったのかは覚えていない。
でも確かなのは。
そもそも、望まなければ──────願わなければ、傷つくことも、ないんじゃないのかな、と思ったことだった。
そんな風に、何もかもに諦めがつくようになっていた、ある頃。学校から帰ってきて、いつも通りぼーっとソファで寝転がっていて、不意にお父さんが隣に座ったときのこと。
「……そんなことを何度も繰り返して、中学一年生になった時」
たまたま見ていた、テレビの向こうで名前も知らないバンドの誰かが言った言葉。
「“学生の頃は、教室の隅っこで本を読んでるフリをしてる奴でした。友達が、居なくて”」
「でも、“バンドは、陰キャでも輝けるんで”────って」
それは、引き金だ。言うなれば、自分の未来へ、そんな諦観しきった思考へ、撃鉄を落とした合図。
今思えば、と私はそのまま吉沢くんへ続ける。
「テレビで、あるバンドの人が言ったその言葉を聞いたこと。それが、きっとすべての始まりだったんだと思います」
「思ったんです。私みたいな人間にでも、バンドを組めば……輝ける居場所があるんじゃないか、って。そう思っていいんじゃないか、って」
「お父さんが、ギターをやってた人で……だから思いきって頼んだんです。ギターを貸してほしいって」
「そう、だったんだ」
「……あっ、はい。喜んで、貸してくれました」
思い出す。そう。あの時、確かだったのは、世界が色付いた気がしたということ。
灰色の様な、色のなかった世界に、音と一緒に色彩が彩られていくような。そんな気になったあの瞬間を、今でもよく覚えている。
「そこからは、ただ毎日、毎日毎日……ひたすら練習しました。気づいたら六時間くらい。朝早く起きた時も、放課後も、夜遅くまで」
「休日なんて……一日中なんてことも、ざらでした」
お父さんのギター。最初はすごく重くて、弦が痛かった。何度も左手の爪先が深爪になった。
けど、それでも痛いほど “ここ” にいる感じになれたのを、今でも覚えている。
練習は、孤独の穴をペグで巻き取っていくような作業だった。
参考書なんていくら
だから、自分で何度も、何度も何度も調べた。納得いくまで、ただひたすらに。
六時間なんて普通。休日は一日中。汗とクリック音とページをめくるだけの部屋。ふたりが隣で遊んでいても、お母さんが敷布団を干してくれる間中も、ずっとだった。
それが、始まりだった。でもふと思う。それは、いったい、何のためだったんだろう、と。
(─────寂しい?)
背後から、幼い私の声が響く。
聞こえてきたその声に、思わず目を見開く。だけど振り向くことはなく、ただ俯く。その言葉を、真剣に鑑みる。
そして彼の言葉も、私は丁寧に
考えたことも、なかったのかな、と。
─────ううん、違う。
もしかして、とそこで気づく。
私、考えたく、なかったのかな。だから、ずっと練習に没頭していたのかな。
その思いを彼に伝えたくて、少し間を置いて続ける。
「最近になって、考えるんです。実際のところ、私が『寂しい』って感情を……あまり感じずに済んでいたのは、そのおかげかもしれないなって」
でも現実は、そんなショーウィンドウみたいに綺麗に物事が進むわけなかった。アルバムを机上に出してアピールをしたり、トートバッグに有名なバンドの缶バッジも大量に付けてみたりしてみた。
そんなしょうもない行動も、全ては、話しかけてもらいたかったから。
友達が欲しかったから。ただ一緒にバンドをやれる人が、欲しかったからなんだと思う。
でも、でも本当は、それは本質じゃなくて。
そうだ、と気付く。それは、ずっと言葉に出来なかったもの。
寂しく、なりたくなかったんだ、私。
当然、そんな事をしたところで誰にも話しかけられることなんかなかった。当たり前の話。
自分から何かを行動できない人間にそんな奇跡は降りるはずもない。自分でも、本当はこんなんじゃダメだ、ってわかってた。
他人任せで、他力本願で、そんな人間が上手くいくはずないんだって。
でも、仕方無かった。言い訳だと思う。自分でも、情けないと思う。分かってた。だけど。
分からなかった。
どうしたらいいか、どうすればいいのか、聞くのも怖くて。
だって聞いたらきっと、きっと─────否定される気がした。
『え? それくらい分かるでしょ』
『インキャ可哀想』
そう言われる気がしたから。
別に誰かにそんなことを言われた訳じゃない。
それは自分が、勝手に思っているだけ。でも怖い。恐くて、怖くて堪らない。そんなことをたったの一度でも言われたら、もう二度と立ち直れない気がしたから。
だから、ずっと踏み出せなかった。
だけどせめて。
そう。自分から、何かを行動できない人間には、何も起こらないって本当はわかってたから。
だからこそ私は、せめてギターを上手くなろうと思った。
ギターが上手くなって、沢山の人に見てもらえるような人間になれれば、きっと認めてもらえる。
必要としてもらえるんだ。頑張れば報われるんだから。
だからチヤホヤされようとした。そうすれば、誰かが私を、見てくれるって。
そう、思った。思いたかった。思い、込みたかった。
だけどダメだった。違った。上手くなる=認められるなんて、そんな連立方程式じゃこの問題は解けなかった。結局、世の中はそんな単純なはずもなかった。
そもそも、根っこの性格がダメなんだから、上手くいく訳ない。
そして、またいつもの私にループしてしまう。答えが見つからなくて、見つけたくて、頑張ろうとしても、怖くて起き上がれない。
それが、いつからか強烈な “青春コンプレックス” を形作った。
それは、誰にも言えない “痛み” 。誰にも、きっと認めてもらえるはずもない、そんな、自己否定と
勝手に自分で作り上げた被害妄想や、誰が言った訳でもない言葉に怯えることしか出来ない─────それが、今の弱い私の、本当の姿だ。
「……でも、現実はうまくいかなくて」
「頑張っていれば、ギターさえ上手くなれば、人前で弾けるようになれば……きっと、たくさんの人に認めてもらえる。きっとちやほやされて、みんな、私を見てくれる」
「そんなふうに、思い込んでて。でも……結局、そんなことはありませんでした」
「い、いやー……上手くなりさえすれば、友達なんて、ちょちょいのチョイで出来るもんだと思ってたんですけどねー!」
そうしてふざけて両手を振ってみせる。
だけど、それを保つのも辛くなって、すぐ腕が落ちた。重力は正直。
「……………ごめんな」
彼の声が、やさしく低く落ちた。その謝罪は、私の失敗を、自分の責任みたいに抱え込もうとする声みたいに思えた。思わず彼に顔を向ける。「……え?」
「こんな事言うのも、なんか、違う気がするけど……俺がもっと早く、そのことを知ってたら……できること、色々あったかもしれないのに」
「え? あっ、えっ、ち、ちがいます、そんな……っ」
私は慌てて首を振る。違う。違う。本当は分かってる。違う。私が悪い。
私が悪いんです、ってそう言いかけて、彼に止められる。
「……それは違うよ。君は、君だろ?」
穏やかに、でもとても真剣な想いを感じる吉沢くんの声は、私の胸に水平線のように一直線で届く。初めて、言われた言葉。
「………えっ?」
君は君。シンプルな言葉ほど、真ん中に刺さる。私は、私?
「やり方が……経験がなくて、上手く行く方法が分からないから……空回ってしまう。ただそれだけだよ。聞きたくても、ずっと怖かったんだろ? 聞けなくて、分からなくて、でも怖くて」
「だから、ずっと上手くいかなくて。それを、ギターでならきっとなんとかできるって、そう思った」
「違う?」
吉沢くんはそう言って真剣に顔を向けて。
目を向けて、真っ直ぐに、向き合ってくれる。────────まるで、人生で初めての光を見つけたみたいだと、思う。視界が眩しくて、目を剥くほど見開いて、止まらない。
ただそれだけ? こんな本音も肯定してくれるの?
本当に?
どうして、そんなふうに言ってくれるの? どうして分かってくれるの? どうして、誰にも聞けなかったことまで、見抜いてくれるの?
だけ、って言い切ってくれる。私のことを何も否定せず、私の思ったことを、まるで全部見抜いてるみたいに言葉にしてくれる。
それが、どうしようもなく救いになる日がある。きっと、今がそうだ。
「……誰かのようになる必要なんか、ないんだ。君は君なんだ。……俺は、そういうところも含めて、君のこと、良いなって思ってるよ?」
「……ぁ」
“良いな” の二文字が、胸の中で花になる。
嘘だ。言葉って、こんなに嬉しいって感じる時もあるんだ。
恥ずかしい。どうしてか分からないけど、恥ずかしいと嬉しいが混同する。
でも間違いなく嬉しい。嬉しくて、うれしくて、泣きそうになる。私へ当てられる太陽みたいな光は、いつもみたいにコンプレックスに感じない。むしろ、その花の形をずっと指でなぞっていたいとすら思う。
「………はっ初めて、そんなこと、言われました」
「まあ、本心だよ」
彼の笑顔がまぶしい。私は袖の陰に逃げ込む。
「……俺、そんなこと知らなくて……君のこと、誤解してた。ほんと、ごめん」
「そ、そんな……! 謝らないでくださいっ」
だって、今ここで謝るより、今ここで話してくれてることの方が、ずっと。ずっと。
「……わっ私、どちらにしても……例えば吉沢くんが会話を振ってくれても、気を遣ってくれても……それに、応えられた自信、あまりないですし……」
「そうかな。でも、少なくとも」
「君のことを、分かろうとしてくれる人は、いると思うよ?」
「そ、そうですかね……」
ふと、浮かぶ。みんなの顔が。
最近、嫌に思わなくなった、バイト先。行くことそのものを、日常の様に受け入れるようになった、居場所。そこにいる、みんなの顔が。
「………でも、私、今はその……寂しいとか……結束バンドの皆のおかげで、感じずに済んでますし……それに……」
目が合う。前髪の隙間から、思わず彼を見つめて、ぴたりと合って、すぐに崩れる。
「………ッ、あばばっ、ァァァぁあわぁわぁ!!」
情けなく叫んで、しゃがみ込む。背中を丸める。両手を握り込む。その冷たさが、ちょっとだけ落ち着かせてくれる。
「…………ふふっ。それに、なぁに?」
彼はそれを全く気にしないように、背中越しに優しく聞いてくる。なぁに、という余りにも柔らかい言葉が果てしなく胸に沁みる。胸の紐が、すこしほどけた。ゆっくりと、丸めた背を伸ばしてもう一度彼へ視線を向けようとする。
「そ、そ、それに……」
顔を上げる。涙で少し濡れた視界の向こうに、彼の顔。語尾が震える。でも、言う。
「それ、にっ……………私はそもそも、吉沢くんが、こうして話を……私なんかの話をずっと、真剣に聞いてくれて……嬉しいん、です……」
すると吉沢くんは、ぱちくりと目を見開く。やがて、またゆっくりと目を細める。
「………良かった」
満面の笑み。直球。
あぁ、だめ。だめだ。受け止めた胸が、じんわり熱い。俯いてしまうけど、笑いが勝手に込み上げる。
沈黙。どくん、どくん、と。心臓の音だけが妙に大きく響く。すごく、すごく、締め付けられる。まるで。
まるで、心臓を指先でやさしく撫でたような、ぞわぞわとした気持ちみたいだ。キュンキュン唸るこんな気持ち、どうすればいいか分からない。扱い方なんて、まるで知らない。
「………な、なぁ、後藤さん?」
「っひゃぅ、は、は、はい……?」
思わず変な声を上げて、私は咄嗟に吉沢くんを見上げた。
「……………続きは、昼にでも、話そっか?」
スマホの時間。あ、現実。時間ってちゃんと進むんだ。
「あっもう、こんな時間……なんですね」
立ち上がって、スカートの埃を払う。胸の前で、小さく手を握る。まずい。大切なこと、まだ言えてない。
「あっ……あの、よ、吉沢くん……」
「ん?」
小さく、息をつく。
「さっき言ってくれた事、ほんとに嬉しかったんです……ありがとう……」
敬語が少しだけ剥がれる。素直な声が、風に乗る。
「……あっ、お昼、その、楽しみに、してます」
「……うん!」
彼が、照れたようにみえる笑顔で、また私に笑いかけてくれる。私もつられて、笑う。彼のくしゃっとした微笑みに、思わず見蕩れる。
「………うへへ……じゃあ、行きましょうか。吉沢くん」
「あぁ」
階段へ向かう足音。ふと、タタタタ、と別の足音。人影。空気が揺れる。
「……!?」
「? 今誰かいたんでしょうか……?」
「さ、さぁ……??」
キーンコーンカーンコーン——予鈴。現実が鳴る。
「ッ!! やばっ、行こっ後藤さんっ!!」
咄嗟に、手を取られる。え?
ゑ? ワタシ、イマ、テ、ニギラレテ。
強くない、でも確かな力。脳がバグったまま、引かれて駆け出す。
「ひ、ひょぇぇぇぇぇぇ!?」
階段を駆け下りる。
ドアを開ける音が派手すぎて、クラスの視線がこちらに刺さる。
「あっぶねー、セーフセーフ……」
「ぜはぁ……はぁ、はぁ……はぁっ、せ、せーふでしたっ……ね……」
呼吸が地面に落ちる前に、ふと気づく。左手の感触。彼の右手。——握られたまま。クラス全員の視線と、私の手と、彼の手が一直線で結ばれてる。
「………ぁ」
脳が一周遅れで理解する。
「〜〜~~〜~~~〜~~ッッッッッッ!!!?!?」
「ぁぁ゛ぁ゛ァアアアア゛あ゛っあ、あああすみません、吉沢ぐん゛!!」
濁音混じりのまま秒速で手を離して席へダイブ。机に頭をぶつけて、痛覚で現実に戻る。いや無理。戻れない。
「…………え、えーと、アレよ! 後藤さん、なんか転んでて遅刻しそうだったから心配になってな! 思わず引っ張ってきちまったって訳よ!」
「ごめんな! 皆! HAHAHA!」
「あ、あああありがとうございます!! 大丈夫です!! 転ばなかったです!!」
台無し。誤魔化そうとして、結果、吉沢くんのフォローを燃やした。
ごめんなさい。いやほんとうに、ごめんなさい。なんならもっとクラスがざわつく。黄色い声。疑問符。視線。視線。視線。視線の嵐。
(おぉぉぉぉぉ……お母さんの子宮に還りたい、いやそれどころか二度と生まれないように土に還りたい……今すぐ堆肥になりたい……)
先生が入ってきて、鐘のようにクラスの注意が逸れる。助かった。先生、ナイス。ほんとナイスです。助かりました。
机に突っ伏したまま、呼吸を整える。
いや整わない定期。顔が熱い。無理。
視界の端に、彼。横の少し離れた席。同じタイミングで目が合う。
「……!」
彼が、苦々しくも優しい笑みをまた向ける。それは大丈夫だよ、の形の笑顔。私は目をぱちくりさせて、それから小さく、笑い返す。首を、ぺこり。
以前なら、こんなこと、きっと男の子相手になんか絶対できなかった。だけど、今は、違う。それは何故なのかまだ上手く言葉にできない。
だけど確かなのは、胸の中のメトロノームはすごく正確になっているということ。
そのテンポは、もう怖さじゃなくて、嬉しさという緻密な音でそのリズムが合っているということだった。
それが、嫌じゃない。
今はただ、それだけで十分だと─────私はそう、思った。