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キーン……コーン……カーン……コーン。
放課後のチャイムが、やけに規則正しく胸に刺さった。教室の空気が一斉に動く。椅子のきしみ、机の引き出しの金具、帰り支度のざわめき。
その真ん中で、私は机に突っ伏したまま、ジェル状のツチノコみたいに溶けかけていた。白目。思考ゼロ。
さ、最悪だァ。お昼、屋上でまた話そうって決めてたのに。
(お、お、お……。屋上に居る陽キャの方々が多すぎてムリィィィィィィ!!)
そうして私の顔はムンクの「叫び」に乗っ取られ、さながらカタカタ震えるだけの妖怪そのものになっていた。
「……とう、さん……ご…………さん」
誰かが呼んでる。でもたぶん気のせいだ。こんな私に声なんて掛けてくれる人なんかいるわけない。白目のまま現実逃避ループ。脳みそはとっくに非常口から脱走。
それに吉沢くんの方も───クラスメイト───眩しすぎる恒星の皆さまにお昼誘われて、断ろうとしてくれてたけど、結局そのまま連行されちゃって話せなかった。うぁぉぁ。なんで私はこうなんだろう。
先約あるのでダメです! なんて、言えるわけない。
言えたら十五年陰キャやってないです。あぁもう、やっぱり私はこういうところも含めてまだ全然ミジンコのままだ。「ごとうさん?」
肩を、優しく叩かれた。
ぴくん、と魂が背骨に帰ってくる。とうとう誰かに声を掛けられる幻覚すら見始めるなんて。
やっぱり私は陰キャで、彼は陽キャ。これはもう生まれつきの仕様なのかもしれない……。あんな優しい人の隣に、私なんかが並ぶの、やっぱりおごがましい────そう決めつけかけた、そのとき。
「後藤さんっ!」
「びょえ゛ぇあ゛は゛ぃィィ!??!?!?!?」
気のせいじゃない。明らかに、現実の感触として前から大声で声を掛けられた。次の瞬間、反射で椅子から秒速で立ち上がる。視界ががらんと開けて、真正面。
吉沢春樹くん。今朝からずっと頭の中にいた本人が、目の前で苦笑していた。
「良かった、やっと気づいたな、遅いよもう。……随分長い考え事してたんだな」
「ひ、ひっ……えっ? えっ、こ、これは……まさかのまさかで夢!? 幻覚!? ま、まさかこんな私に陽キャ代表格の吉沢くんが自分から話しかけてくれるなんて!?」
「あばばばあああああ゛ァぁばばば」
脳内からの言語と喉から飛び出る言語に
「HAHAHA陽キャ代表格かは知らんが安心しろよ後藤さん、紛れもなく現実だから。あとそろそろ戻ってきて」
「ハッ!! あっ、えっと………」
現実。リアル。その言葉でようやく視界が明瞭になり、崩れかけていた意識が輪郭を保ち始める。
「…………ぁ、は、はぃ…………ご、ごめんなさい。うへ、うへへ……ありがとうございます……吉沢くん。おかげさまで現実だってことがようやく理解できま…………」
───────と、にへらっとだらしなく笑って周りを見た瞬間。クラスメイトの視線がこちらに集中しているのに気づいた。
「……………」
瞬きした後、顔が一瞬にして鉄製のフライパン。真っ赤になるのを、自分でも感じる。
「笑い方がこぇぇぞ」
これまたどこからか誰かのツッコミが飛んできて、さらに真っ赤。顔面のパーツが吹き飛ぶ程の羞恥心が一気に私を襲う。
やばい、完全にやらかした!! みんな見てるの忘れてた!! 明日には「あの子ヤバいやつじゃん……」の噂が廊下を歩く。
いや今更か。そう思って脳内にガーンと巨大なゴングが鳴る。どうしよう、何かもうこのまま一生穴倉に籠っていたくなってきた。
「後藤さん、まだ結束バンドのみんなとライブ練習とか行く時間、大丈夫なのか?」
行こ、と手招きして、彼は荷物を背負い直し、ドアを開ける。
「えっ? あっ、えっ、は、はい?」
思わず困惑して声が変な風に裏返る。
「どしたんだよ、行こ! 行きながら話そうよ。バンドの皆のとこ、行かなきゃなんだろ?」
「………………あっ、はっ、はい!!」
嘘だ。気づいてくれてる。というか察してくれてる?
こんな私の予定まで。胸がきゅっとする。私は彼に引っ張られるように、慌ててトートバッグと立てかけていたギターケースを背負う。
「いける? 大丈夫そ?」
「えっ、あ、っぁ、えっと、まだ電車の時間までは余裕あるので……!!」
「そっか、じゃあ…………良かったら駅までいっしょにあるこーぜ」
太陽みたいな笑顔。白い歯。
それを見た瞬間、心臓が何かの発作みたいに轟く。ひゅぐ、って変な声が喉から飛び出る。なんだろうこの感覚。すごいデジャブ。そうだ。似ている。
「…………あ゛あ゛ぁあ゛あ゛ァァァき、き、喜多ちゃんと似た部類を感じるッッッッッ陽の光が眩しすぎるゥ!!」
「やっぱおもしれー女過ぎる…………」
目がどこかお亡くなりになっておられる彼の笑いを垣間見つつ、私たちは並んで廊下を歩き出す。
これが俗に言う「一緒に帰ろう」イベント? 噓だよね。こんな陰キャ女にどこぞの恋愛ゲームのシナリオみたいなこと起きていいんですか。いきなりすぎて脳が靴ひも結べてないのに。処理が追いついていないのに。
「……大丈夫?」
「……ッ、え、ぁ、すみません、いま、なにか、言いましたか吉沢くん……?」
「んや、大丈夫かなって、さっきからどこぞの珍獣のごとくおもしれーことになってるからさ」
「ふぁっ?! ち、珍獣扱いされてるぅ!??!?!?!? あ、ありがとうございます」
「そこでお礼は笑っちゃうわ、あっはっははははっ!」
「ひ、ひっ…………!!」
笑顔が眩しくて、思わず両手で顔を覆う。
これ以上笑われるの、色んな意味でつらい!! でも、嬉しい。矛盾で胸が忙しい。そしてその俯いたタイミングで、あることに気付く。
(…………あれ?)
足元のリズムが、揃っているような。
凄く、歩幅が合う気がする。そこで吉沢くんは楽しげに笑いつつ手の甲で口元を抑えて微笑む。
「あっはははっ、はーっ……ごめんごめん、いや、バカにしてるとかじゃなくてさ。後藤さん、ちゃんと話すとほんっとに面白いから、っ、っあははっ……!!」
え、褒められてる……? 私の醜態、ついに価値を見いだされた……?
へ、へへ、ふへへと、たぶん不審者極まりないのであろう危ない笑い方が漏れる。
どうしよう、嬉しい。そんなに笑ってもらえたの、初めてかもしれない。結束バンドの皆には基本ドン引きされるのがスタンダードなのに。
「重そうだな、持つ? それ」
そのとき、ふと彼の視線が私のギターケースに向かう。
「ふぇ? え、えぇっ?! い、いえいえいえいえぁぁあのあのあのぅ、だ、大丈夫ですっっ!! 自分で持てますから! そっそんなおごがましいことお願いできません!!」
「別にいいのに。大丈夫なん? 女の子が長距離歩いて持つには男でもキツいと思うんだけどそれ」
眉をハの字にして、彼は本気で私を心配してくれていた。
初めて、こんなことを言ってもらえた気がする。
胸の奥がじんわり温かくなるのが分かる。でもやっぱり、そんなのおごがましすぎる。咄嗟に首をぶんぶん振り回す。
「い、いえっ、そんなとんでもございませんっ!! こ、これくらい全然平気でしてっ!!」
「そ、そう?」
下駄箱でローファーに履き替えながら、私はふっと息を吸う。
「…………す、すみません。いつものことなんです。……確かにちょっと重いですけど、この子は、大事な相棒なので、自分で持たなきゃ気が済まないというか、すごく、凄く……気持ちは、嬉しいん、ですけど……」
言ってから、ハッとする。あれ? 何で。
私、断った? 私今、初めて人の優しさを断ったんじゃ? 今までずっと、虹夏ちゃんからバンドに誘われても、喜多ちゃんに指南を頼まれても断らなかった筈なのに。断れなかったくせに、なんでこの時になって、こんな断り方をしてるの。
こんなの、生まれて初めてくらいの申し出なのに。調子に乗ってない? 私。
そこまで考えて一気に体内の温度が氷点下まで下がり、冷たい汗が額から流れる。どうしよう、嫌な思いさせたら、どうしよう。どうしよう、怖い。震えながら、情けなく怯える。そうして、静かに俯いた視界を上げた。
「……そっか」
だけど。勇気を出して仰いだその視線の先で──────彼は、微笑んでいた。
彼は、怒らなかった。むしろ柔らかく笑いかけてくれる。温かい。なんで。どうして、そんなにやさしく、笑ってくれるんだろう。
「…………キツかったら言って、いつでも支えるし、代わりに持つから」
昇降口の縁に座り込む私は、無意識に視線と身体が、彼の方を向いたまま硬直する。
その中に映る笑顔と、その言葉に、思わず限界まで瞳を見開く。
「………………」
目が合うのが怖かったのに、そのはずだったのに。
どうしてかそれが、今は恐くない。
きっと気を遣ってくれる声が、ふわっ、とやっぱり温かいからなのかもしれない。
怒らないんだ。私の、ちっぽけなこだわりも否定しないんだ、この人。
肯定して、くれるんだ。こんなくだらない、自分でも価値を見出せないようなこだわりも、受け止めてくれるんだ。
「…………ぁ、ありがと、ございます……」
「いいって」
じっと見つめたまま、思わず呟く。背中を見せつつも、こちらへ向けられる彼の横顔の笑み。
胸の奥で、氷が溶ける音がする。でもそのままずっとじっとしてる訳にもいかなくて、慌てて踵を靴底へ押し込む。勢いよく立ち上がった。
「……おっお待たせしました。行きましょうか、吉沢くん」
「あぁ。行こ!」
ローファーを履き終え、すっかり歩き慣れた靴の足裏の感触を感じる。笑いかけてくれる彼と一緒に、ゆっくりと歩を進め始める。
そして、コツコツと固い音ともに歩き出した拍子に、すぐにまた気づく。
やっぱり。さっき俯いた時もそうだった。気のせいかと、思っていた。でも違う。間違いない。
吉沢くんは歩幅を合わせてくれてる。言わなくても、まるで当然みたいな顔で。この人はずっと、私なんかの歩幅に沿ってくれているんだ。
それにそれは、歩くスピードの話だけじゃない。
ここまで何回か話してる時も、ずっと、ずっとそうだった。
話す温度も、話すリズムも、喋る時の内容も、全部そうだ。
この人はずっと、こんな私なんかの為に──────寄り添おうとしてくれているんだ。そう気付いて、堪らなく胸がぎゅっと締め付けられる気がする。唇もきゅっと結び、身体が勝手に芯から震えてしまう。
「どうしたの……?」
「へ………っ」
陽だまりのような。そんなこえが、左肩上から私の耳に届く。ふと視界をそちらへ向けると、優しい下向きの視線がこちらを向いていた。
声色までもが柔らかくて、心の芯に染みていくみたい。
「…………っ、ぁ…………」
胸の真ん中が、またぎゅっと締め付けられた。涙腺に、知らない手が触れる感覚。
ぞくぞくって、止まらない。これ、なに。どうして。嫌じゃない。むしろ。
「…………後藤さん??」
いや。なんで。
いやだ。みないで。
屈み込むように、心配そうに彼が私の顔を覗き込む。
距離が、近い。だめ、いやだ。いま近いのは、だめ。
「……っ」
ぎゅっと瞬きを噛みしめる。笑顔、貼り付ける。だっ大丈夫。
私は大丈夫、私は平気────
「なっ何でも無いです……!!」
顔を上げる。笑う。
けど、もうダメだった。頬を伝うものは、ごまかせない。
「………………後藤、さん。─────なんで」
「……泣いてるの?」
「───────っ、ぁ」
ぽろ、ぽろ、と勝手にそれは零れ落ちる。頬を勝手に伝う彼らの止め方なんて、知らない。
「っ、あれ?」
「…………なんで、なっなんで。ご、ごめ、ご、ごめんなさい、……なんで、なんでだろ……分からないんですけど、涙が止まんなくて……」
「……っ、え、…………ど、どうしたの…………っ?」
彼の狼狽えた声が、まっすぐ届く。いやだ。ごめんなさい。
距離がまた、少し近づく。いやだ。ごめんなさい。おねがいだから、こないで。
そんな、いまそんな、やさしいこえをかけられたら、たえられない。
いまこられたら、もう─────
「あ、あの…………っ、…………っ、実は……っ」
「…………うん」
あふれる。溢れて、零れて、止まらない。こんな姿、虹夏ちゃん達にも、お母さんたちにも見せたことないのに。なんで。
必死に拭う。でも止まらない。
喉の奥から、赤子のように叫びだしたいほどの痛みと、切なさが溢れて、止まらない。それを、必死に抑え込んでふと、隣の彼を仰ぐ。私より、ずっと大きな身長。
その彼は心配そうにしつつも、でもずっと。ずっとやさしく八の字の眉のまま、口元は微笑んでくれている。それだけで、胸の結び目がほどけていくみたいだ、とそんなことを思う。
ただ、待ってくれる。責めないで、急かさないで、ただ、待ってくれる。たったそれだけのこと。
それなのにどうしてこんなに、うれしく感じるんだろう。救われるんだろう。
────────なんて、なんてやさしいんだろう、このひとは。
「……座ろ?」
そうして歩いて、気付いたら辿り着いたのは松ノ木児童遊園。虹夏ちゃんと初めて会った、学校から少し離れた距離のブランコのあるあの公園だった。頷いて、その遊園へ彼とブランコの方へ向かう。
私は前髪で顔を隠しながら、ぎゅっと鎖を握って座る。彼も隣に腰掛けて、夕方の空を見上げた。
風。息。沈黙。
少しずつ、まるで波が引くみたいに、涙が落ち着いていく。
「…………吉沢くん」
「うん…………?」
「さっ、さっきは、急にその、泣き出しちゃって、ほんとうに、ごめんなさい」
「……気にしてないよ。大丈夫」
鼻の奥が、つんとなる。簡単で、真っ直ぐで、温かい言葉。
また、目尻が熱くなってしまう。
「……っ、ご、ごめんなさい…………」
「いいって」
また彼は困った様に笑う。それを見つめる。
どうして。
どう、して。
私は、ずっと気になっていたことを訊く。
「…………何で、どうして……吉沢、くんは……」
「……そんなに────やさしくしてくれるんですか? こんな、こんな私、なんかに」
言ってて、耐えられなかった。また、ぽろぽろと目尻から流れてくる。言葉の節々が、涙ぐんでるせいで崩れてしまう。
「………………」
彼はそんな、情けない私をゆっくりと顔を向けて見つめる。風が彼の前髪を揺らした。
そして、こちらを一目見てまた微笑みかけてきた後に、やがて宙を仰いだ。その表情はどこまでも切ないのに、どうしようもないほどに、ただただやさしい。
「君が、好きだから」
「君を、守りたいから」
「君を、支えたいから」
「俺が、ギターヒーローの君に、救われたから」
「理由なんて、挙げたら……キリがないなぁ」
空へ零れる声に、胸の鼓動が跳ね飛ぶ。
驚いて固まって、目だけが忙しく泳いだ。
「…………」
静かに、私は俯いたまま、呟く。それに、応えたくて固まってすらいないぐちゃぐちゃな気持ちを舌へ載せる。
「…………………………わっ私、はじめて、なんです」
「……え?」
「こっこんなに、私のことを好きっていってもらえて、やさしさも、こんなにもらえたのが。こんなにもだれかに、特定の、男の人に……やさしさを、貰ったのが」
「大切に、してもらって。私のこと、全部受け止めて、肯定してくれて。否定しないでいてくれて」
言っているそばから、また涙が増える。拭いても、増える。思わず叫ぶ。
「こっこんな、私の事を、見つけてくれる人がいて。でも怖くてっ……これが嘘だったら、どうしようとも思ってて、本当の私なんて知られたらすぐに幻滅されて、見捨てられるんじゃないかって……!!」
「それに……っこんなにも、こんな、私なんかのこと、すき、でいてもらえたのが、初めてで…………」
「生まれて初めてで……っ!! わかんないんです…………っ、私、私、…………どう、したら、いいか……!!」
次の瞬間。
せかいの音が、止まった気がした。
ブランコの鎖がふっと軽くなって、せかいが暗くなる。
いや、違う。それは私を包んでくれる彼の腕。左腕に感じる彼の胸。体温だった。
「…………!!」
「───────吉、ざわ、く…………?」
息が止まる。瞳孔が開く。
動けない。だけど、思うのは──────全く、こわくないということだった。