CHAPTER #15 「繋がる、なまえ」
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放課後の風は、甘いホットケーキみたいな匂いがしていた。それはきっと、学食の残り香なのかもしれない。
ギターケースの重みの中で、きっとそれを青春と呼ぶんだろうな、とふと私は考える。
それならきっと、この状況ももしかしたらそうなのかもしれない。
松ノ木児童遊園からバス停の方へ向かい、約十五分ほどのバスに揺られたあと、私達は一緒に永福町駅の改札口へ向かっていた。道中、恥ずかしくて、うれしくて、不思議な感覚だった。吉沢くんはさり気なく色々な会話を振ってくれて、私は一言二言にならないように何とか返事を返す。その繰り返しだった。
そのペースも、とても緩やかだった。
人と話すのは怖い。怖くて、何を話したらいいか分からない。それは、正直バンドの皆と話しててもたまにそうなる。それなのに。
吉沢くんとは気まずい感覚は相変わらず全く無くて、変に意識しなくてもいつも吉沢くんが会話を投げてくれる。絶妙に綺麗な軌道のボールをそっと投げてくれる様な、そんな感じ。
なんていうか、慣れている。
たぶん、吉沢くんは本当に私なんかと違って、コミュニケーション能力が圧倒的にずば抜けているんだと思う。いつもなら、誰かの発する一言で青春コンプレックスを拗らせて独りの世界に入りがちなこんな私でも、凄く話しやすい、と感じる。
それを考えた所でこのひとは、やっぱり本当にすごいひとなんだな、としみじみそんな事を思う。
気付けば、そうこうしてる内に私達はもう目的地の駅まで着いていた。靴底からアスファルトのざらつきが伝わってくるたび、心拍も一緒に跳ねていく。赤い信号。
真横からリズム良く鳴り響く、音響信号機の「ピヨ」という音。そして「カッコー」という音が脈拍と重なる。
「そういえば言い忘れてたけど……昼の時に話そうって言ってたのに、結局話せなくてごめんな?」
そして信号を渡り終えたタイミングで横から落ちてくる声は、どこか申し訳なさそうで、でもあったかい。私は首を小さく振って、指先で頬を掻く。
「あっいえ、大丈夫です、……ど、どちらにせよ私も多分……お昼時にあの屋上に行ける勇気は、正直あまりなかったので」
言ってから、自分の顔が勝手にゆるむ。うへへ、ってやつ。最悪だ。自分でもやっててそれを恥ずかしく思う。けど、それはほんとのことだった。
「えっ、そう……なのか?」
驚いた音の色。
「かっ考えてみてください……昼時の屋上なんてそりゃもうカップルだの陽のオーラが溢れる喜多ちゃんみたいな人達がうじゃうじゃ溢れてるんですよ……そんなとこにそもそも顔を出しなんてしたら……ヴッ考えるだけで目がァ!! 目がァ……!!」
しまった。言い過ぎた。思わず目を覆って、オーバーリアクションをしてしまった。
どこかの某アニメで見た事のあるようなそれ。確か金曜ロードショーか何かで見て印象に残ってたんだっけ。胸の内側が熱くなって、私は慌てて俯く。
「ハッ……す、すみません、変なことまた言っちゃいました」
肩越しに、彼が吹き出して手の甲で口をおさえる気配。
あっ、やっぱりこの人、笑ってくれるんだ。笑われるのは怖いのに、彼に笑われるのは少しだけ嬉しい。変だ。またすこし胸がふわっとする。
「なに、つまり後藤さんにとっては屋上に行くだけでバルスされるのと同義の強い光に目がやられるの?」
「あっ………はっ、はい、まあ、そういうことになります。な、なんていうか、変ですよね、お見苦しい所を見せて本当にすみません」
「いや……っ、ふふっ。別に、全然大丈夫だけど……」
「まあ君も見てたと思うけど、俺の周りにいるやつってさ、結構押しが強い奴が多くてね。昼時の時みたいに無理やり引っ張られちまうともーー割りと断るのもキツくてさ。……次からは、予定があるって言わないとな」
その言い方が、私の方へ少し傾いて聞こえた。それは、勝手な錯覚だ。でも、どうしてか胸がじんわりとして、思わず声が漏れながら彼を見上げる。
「えっ………?」
「……ふふ。だって、これからは、後藤さんともご飯、食べたいし」
空気が変わった。耳の奥で、ぴ、と星が点いたみたいに音がする。同時に、とくん、と心臓が跳ねる音もした。
「あぇっ……? い、いいんですか……? わ、私みたいな陰キャが近くにいたらきっと空気が重くなって気分悪くなっちゃう気が………しかも、わ、私普段教室では食べてないですし………」
「えっ、じゃあ逆にどこで食べてるんだよ?」
ぎくっ。質問が心の芯に触れて、私は目線を逸らす。これはきっと、良くない癖だと自分でも思う。言いづらいことを言うときは、いつもこうなる。
「あっえっと…………でっ出来れば内緒にして欲しいんですけど、階段下の物置付近でぼっち飯、キメてます……うへへへ……」
沈黙。彼の白目が見えた気がした。
自分で自分を嘲笑いたい。
でもそうしないと耐えられない。あの真空空間のような場所に長く居たら、そのうち呼吸ができなくなりそうな気がするから。
あぁ、ほんとに。
言ってて自分でも、何か悲しくなる。私の心もいっそ白くなりたい。
「……それなら、一緒に食おうぜ。今度からそこで」
「…………えっ?」
そんなことを思っていた時、彼は突然、食事の提案をしてきてくれた。それを聞いた瞬間、思いがけず勝手に私の足音も止まる。一瞬遅れてその言葉を知覚した時、世界が、一つ分だけ明るくなった。
「え゛っ…… ほ、ほ、ホントですか!? い、いやでも、吉沢くん、他にもクラスの友達だって居ますし……そ、それに吉沢くんみたいな人をそんなとこで食べさせるのは!」
「いやいいってそんなん」
「………っ、ほ、本当に、いいんですか??」
「もちろん。だって食べる場所なんて正直どこでもいいし」
「それに、俺が後藤さんと食べたいからさ」
「………!」
そうして吉沢くんの白い歯が夜空の一等星みたいに光って、私の心を晴らしていく。やっばり、きれいな笑顔。
“俺が” 、 “君と” 。そのたった二語で、胸の奥に小さな星座が描かれていく気がした。
「…………」
本当に、いいのかな。そう悩んで少し俯いてから、やがてもう一度彼の方を見上げる。
吉沢くんは相も変わらず優しく微笑む。それを見て、勝手に心が思った言葉が滑り出ていた。
「………吉沢くんが、嫌じゃ、なければ、一緒に食べたいです」
前の私だったら、きっと無理です、と断っていたはず。
なのに、どうしてか私の口は独りでにそんな言葉を喋っていた。それを聞いてやっぱり彼は嬉しそうに微笑み、頷いてくれる。
「おぅ、やった! 毎回は無理だけど、場所を教えてくれれば、行けるタイミングで行くからな」
「………っっ!! あっ、はいっ。わ、わかりました……!」
だめだ。無理。なんで。頬のニヤけが抑えきれない。
私は初めて“誘われる側”になったんだ。余りにも嬉しいことが続き過ぎていていっそ怖くなる。指先がじんわり震え続けている。
ちょうどその時、スマホがピコンと鳴った。それは私を現実に引き戻す音。画面には喜多ちゃんの名前。そうだ、そういえば。
「あっ……喜多ちゃん……! そうだ……昨日から日課のギターの練習できてない……! すっすみません、吉沢くん、メッセージだけ返しますね」
「ん、おぅ? ……あ、てか、もう良い時間だよな。後藤さん、そろそろ電車行くよな」
喜多ちゃんへのメッセージを入力しようとしたタイミングで時計を見て、血の気がすぅっと引く。
「えっ……? あっ……もうあと十分もないっ……!」
ギターケースを背負い直し、ショルダーストラップを咄嗟に左手で掴む。思わず彼へ視線を向ける。言いたい言葉が喉の奥でつっかえる。
まだ、話終わってないのに。夕暮れ時の長い影が重なり、遠く伸びていく。
その名残惜しさは、まるで透明な糸で私を引っ張るみたいだと、そんなことを思う。
目を見開いていた彼は、それを察してくれたかのようにその瞳を細める。
「………大丈夫。また明日、話そ?」
「っ………あっ、は、はい……!! じゃあ、行ってきます。ま、また明日……」
そうだ。明日も話せるんだから。
逸る胸を抑えながら、そうして私は踵を返す。その次の瞬間だった。
「……………っ、……ご、後藤さん!!」
彼が私の背中に向かって大声で名字を呼んだ。その突然の出来事に鼓動が一段高くなる。心臓が口から飛び出そうになるのを抑えて「ひゃいっ!??」と変な声を私は漏らす。そのまま、静かに振り向く。
「………?? は、はい、どどどどうしたんですか、吉沢くん!?」
彼は顔を赤くしている。目をこれでもかと開ききって、どこか緊張したようなそんな様子だ。それは、どこかで見た顔。そう、確か──────私に告白をしてきてくれた時と、同じ顔。
「っ、あっ、あのさ!!」
「な、名前!! 後藤さんのこと、さ!」
なまえ? もしかして、と私も揃って目を見開く。
「─────名前で、呼んでも……いいか!?」
その刹那、空気がぱん、と音を立てて弾ける。顔が熱を持って赤くなるのが自分でも分かる。
名前。ネーム。私の、私だけのなまえ。狼狽えながら私は思わずぎゅっと胸を抑えて聞き返す。
「────────っ………え………っ、そ、その、いいんですか……!?」
「むしろ、その、後藤さんは、嫌じゃない?」
赤くなった顔と見開ききった両目のまま、彼は緊張した様子で確認をする様に問い掛けてくる。そんな訳ない。そんなの、嬉しい。嬉しいに、決まってます。
「……い、嫌なんてそんな!! そっそんなこと、ないです。む、むしろ中学までは、名前すら……呼んで貰えなくて」
「『おい』とかそんな風に呼ばれてたので……愛称で呼ばれるのだって、高校から、バンドに入ってからが、初めてだったんです!! ………っ、だから……」
「………せ、切ねぇ……え、ていうか、愛称って?」
「……あっえっと……愛称としては、私のことは『ぼっち』って呼ばれることが多い、ですかね。結束バンドのリョウ先輩が……命名してくれたあだ名で、気に入ってます」
そう。結成当日。
虹夏ちゃんからバンドで呼ぶ時、本名でいいかな、と聞かれてそれはちょっと、と返したあの時。そのタイミングで、リョウさんが「ぼっち」でいいんじゃない、と名付けてくれたんだ。吉沢くんはそれを聞いて何とも言えない顔で頬を僅かに引き攣らせている。
「ぼ、ぼっちか……。そりゃまた、なんかなんとも言えないあだ名だな。センスは悪くねーと思うけど………でも、名前では? 呼ばれること、あるの?」
「えっ……」
ふと考えてみる。そういえば、考えてみると虹夏ちゃんやリョウさんに最初の方は名前を呼ばれたことはあった気がする。だけど、基本的に普段から名前を呼び捨てしてくれる人は、今のところほぼ居ない。
そう考えると、実際に名前だけで私を呼ぶのは、本当にお父さんとかくらいかもしれない。すこし俯いていた視線を上げ、彼へ呟く。
「あっ実は私……名前、呼び捨ては、呼ばれることはないんですよね。親以外からは、誰にも」
「………!!」
彼はそれを聞いた瞬間に顔を上げ、ハッキリと声のボリュームを上げて訴えかけてきた。
「……なら!! 俺が呼ぶ!」
へ? え? ゑ? 思わずビクッと肩を揺らしつつ彼を見つめ返す。
吉沢くんが、私の、名前を? 呼び捨て?
彼はどこか必死そうな様子でそう伝えてくる。彼の前のめりがどストレートに真正面から向かってきて、反射的に仰け反ってしまう。
「ひ、ひぃっ……!? え、えぇぇっ!!?」
私は一歩、下がって、でも踏みとどまる。逃げたくない。ぐっと堪えて、足裏に力が入る。彼の言葉は、まるで光を照射しているみたいに、私の心へ届いてくれるから。
「俺が、呼ぶよ。……君の、名前さ!」
「………!!」
それを聞いた瞬間、私も思わずビクリと身体をまた揺らして強くつよく視線を返す。
なんて、真っ直ぐで、眩いんだろう。それは、あまりにも真っ直ぐすぎる光源だと思う。でも思うことは、眩しいのに、目を逸らしたくないということ。
この人は、必死な時に見せる顔がある。告白してきてくれた時も、どこか不安そうな表情を見せてくれた時も────そして、今、この瞬間も。
「………呼びたいんだ。嫌か?」
瞳が震えているのが、分かった。そうだ。
この人は決して、こういうことを悪ふざけなんかで言ったりしない。
不安なのを押し殺して、きっとこんな私の為に伝えてくれてる。それが、直感で分かる。だから、思う。
応える。答えなきゃ。その気持ちに、応えたいから。そして小さく、呟く。
「…………っ、………い、嫌じゃ……ない、です」
「………吉沢くんから名前で、呼ばれるの、嬉しい……です」
彼はそれを聞いた瞬間、まるでパァ、という効果音が聞こえてきそうなほど表情が華やいだ。
「ほっ、ほんとか!?」
「……………はっ、はい」
「っ………じゃあ、ひとり、って呼ぶな?」
ひとり。お父さん以外から、はじめて、呼ばれたなまえ。
生まれて初めての、感覚。それは内側から熱が爆ぜて、生まれたての感覚そのもの。頭の上で、ドラムのシンバルが開くみたいに光が降り注ぐ。私はその真下に立っている。自分の名前が、まるでなにかこの世界の特別な言葉そのもののように、感じる。
「………!! ───────っはい…!!」
「………ぁ! あ、あのっ……!」
喉が乾く。勇気をひとかけらだけ、前に出す。嬉しくて、堪らない。止まらない。語尾を震わせながらも聞く。
「……まっまた、明日も会えますか? 吉沢くん」
「えっ、うん。もちろん」
私の表情が勝手にほころぶ。星が一つ、増えた。
「……あっ、あのさ?」
「はっ、はい?」
「俺の事、君も名前で呼んでよ。……フェアだろ、その方が」
え? いいの? 私なんかが、吉沢くんの事を名前で呼んでも。ほんとうに、本当にいいんですか。両手で手を握り締め、思わずその疑問を口に出す。
「えっ!? いっ、いいんですか? わっわわ、私みたいなミジンコド陰キャが、吉沢くんのこと、名前で、呼んでも」
彼はふるふる、とゆっくり首を振る。いつもの穏やかな笑みを向けてくる。違う、と呟いてそして吉沢くんは囁く。
「むしろ、呼んで欲しいんだ」
その言葉を聴いた瞬間、どくん、どくっ、とく、と不規則に耳の中にまで鼓動が轟く。
私はそれを何とか堪えて、俯いて、スカートの前で両手をこまねく。
「………あっ……は、はい。分かり、ました。……じゃ、じゃあ…………」
そうして、彼はそっと手を伸ばす。「………えっ」
差し出された縦向きの手。あっ、手。
思わず、見つめる。吉沢くんは柔く目を細めている。
「…………」
えっ、これ、どうしたらいいんだろう。なんで手を伸ばしてくれてるの。彼の顔を何度も見つめて困惑する。重ねたら、いいの? 手のサイズ比べ?
「……あははっ、仲良しの証! なんてな。ハイタッチしよ!」
「えっ、あっえっ、はい……???」
なかよしのあかし? えっ陽キャの皆さんはこんな風にハイタッチするんですか。り、理解出来ない。日本陰キャ協会にはこんな情報ありません。いやっ、そもそも陽キャの情報なんて得られるはずもないんですけど! い、いいのかな。
こんな私なんかが、この人の手に、触れても。
そう思って、もう一度だけ彼を見上げる。
吉沢くんは変わらず無言のまま、優しい雰囲気でその姿勢を崩さない。まるでその視線は、大丈夫だよ、と言ってくれてる気がして心がふわつく。
「………っ」
ドキドキして、痙攣する心臓と震える指を、ゆっくりと伸ばす。何となく、その雰囲気に流されている気にはなりながら、そっとそれを重ねる。
恐い。こわいはずなのに、重ねたくなる。なに、これ。
その手は、温かい。
掌の温度が、不安をかたどった心の温度すらも上書きしていく気がする。
弾けて空の彼方へ飛んでいきそう。でも、それを堪える。あぁ、そうだ。名前。名前を、言わなきゃ。
そのまま思いきって彼の名前を、身震いしつつ呟く。春樹、くん。はるき、くん。
「………っ、は、は、は、はる、き、くん」
「………っ。うん!」
「……!」
言えた。言えちゃった。震えながら春樹くんへ目を向け直す。
彼は息を詰まらせるような声を出しつつも、嬉しそうに微笑み返してくれた。目をこれでもかと見開き過ぎてドライアイになっちゃいそう。
なにこれ、なに、これ。こんなの、夢みたい。知らない。
こんな胸がぞわぞわする感覚。しかも男の子の手って、こんなにゴツゴツしてるんだ。いや違う、なんでこんなこと考えてるの私。
いつもみたいに胞子化して溶けそうな程に、身体の奥のおくが熱い。
頬の筋肉が勝手にゆるんで、ニヤけを手で押さえてなお、指先が熱くなっている。
あぁ、そうなんだ。誰かに呼び捨てで名前を呼ばれるって、こんなに嬉しいんだ。誰かと繋がれるって、こんなに嬉しいんだ。知らなかった。そうして彼は、真っ直ぐに私へ笑いかける。
「……ふふっ。改めてこれからもよろしく! ひとり!」
「ぐはぁ!?」
その笑顔は反則。私はかざしていないもう片方の手で顔を覆い、指の隙間から彼を見る。
「………っ、あっ……うっ生まれて、初めて、男の子に名前で呼ばれました……」
「ふふっ。それに、なんていうか……ひとりの手って柔らかいし、意外と小さいね」
「ふにゃぁッ!? そそそそう、ですか……?」
突然手の感想を言われて、一気に全身が熱くなる。身体のパーツが飛び散りそうになって、伸ばしていない方の手で胸を抑え込む。おねがいです、春樹くん。
変なこと言わないでください、お願いだから。私の心臓無くなっちゃいます。だけどそんなことを思っているとも露知らず、彼はどこか人懐っこさを感じる無邪気な笑顔を浮かべる。
「にひひ、早く慣れてくれよな。ひとり」
「…………っ」
そんなことを言われちゃったらもう、慣れるしかない。
頑張って、このありえないくらい心臓に悪い出来事に、順応するしかない。私は喉の奥が詰まりつつも、それでもせめてめいいっぱいに頷く。
「……はいっ!」
その返事を聞いたからか、春樹くんは微笑んだままそっと手を離す。ゆっくりと、指の先から手のひらまでをどこか名残惜しげに離していく。そのまま彼は少しだけ切なげな表情で笑う。
「じゃあ、また明日。ひとり!」
「あっはい、春樹くん……!」
「ほら、電車! 行かないと!」
「あっ! そうだった………ごっごめんなさい!! 急がなきゃ……また連絡しますっ、春樹くん!!」
「うん!! じゃあな、ひとり!!」
「っ………はいっ……!! 春樹くんも、気をつけて!」
名前を何度もわざとみたいに呼び合う。だってどうしようもなく、嬉しいから。もしかして、それは春樹くんも同じなのかもしれない。そう思うだけで、居てもたってもいられなくなる。
スネアとバスドラの同時打ちみたいに、心臓の奥のおくから不安と歓喜が届いてきて、堪らない。
角で、そっと振り向いて手を振る。
彼もそれに気付いて、手を振り返してくれた。はじめて、返してもらえた。はじめて、バイバイできた。とくんっ、と脈動する心臓の音を感じながら、たったそれだけの事で胸をいっぱいにして走り出す。
その時、背中の方で、誰かが勝利の雄叫びを上げたみたいな音がした。
「…………っ、ふふっ」
今振り向いたら、きっと戻っちゃう。練習に行けなくなる気がする。それはダメだ。
早く電車に乗らなきゃ。
私は笑いを飲み込んで、階段を駆け下りていく。
※
ホームへ続く階段。
私は胸元に手を当てる。鼓動が指先に触れてくる。弦楽器でリズムを刻むように、まだそれはバクバクと鳴り響く。
「…………吉沢く………ううん……」
思わず口の中で、名前の形を整える。
「…………っ、春樹、くん………」
言えた。喉の奥がまだ熱い。
名前を小声で呼んだだけなのに、爆音で胸の奥が跳ね回る。強烈な熱が、内側から溢れ出ていく。
名前をちゃんとハッキリと呼び捨てにしてもらえたのは、春樹くんが初めて。
ああ、でも、とふと思い出す。一週間前。秀華祭のライブの日。
演奏が終わってからステージから飛び降りて気絶した私。
その後は、保健室で目が覚めた。確か、殆ど頭は回っていなかったと思う。
だけどそうだ。その瞬間に感じた不思議な気持ちだけは、はっきりと記憶から取り出せる。
風が一気に私の髪を撫でていく。物凄い速度で私の前を通り過ぎ、ホームへ停車しようとする普通列車。それが静かに、思考もクリアにしていく。
この時間帯はまだ人の気配が辛うじて少ない。
私はそそくさと人の流れが少ない車両に乗り込む。隅の席が空いていたこともあって、そこへこっそりと腰を落ち着かせた。
「京王をご利用くださいまして、ありがとうございます」
「普通、渋谷ゆきです。途中、明大前、東松原、新代田、下北沢、池ノ上、駒場東大前、神泉に停まります。次は明大前です。出口は右側です。明大前の次は東松原に停まります────」
聞き慣れた京王井の頭線の自動音声。その音をボーッとした頭で耳に入れながらふと思う。
名前、と無意識に脳が呟き、そこからそれに関して海馬の引き出しが開く。あの日、保健室で私のことを、“名前” で呼んでくれた一番最初の人。
そうだ。
その人は、喜多ちゃんだった。ちゃん付けでは、あったけど。
そんな事を考えながら、秀華祭の終わり際に見た彼女の顔を思い描く。囁くように呟いていた、彼女の言葉を思い出す。
『────私は、人を惹きつけられるような演奏はできない』
『けど、皆と合わせるのは、得意みたいだから』
『……これからももっとギター頑張るから教えてね!』
『後藤さ───────ひとりちゃん!』
そうして優しく、あの時の喜多ちゃんは満面の笑みで私の名前を呼んでくれたんだ。
春樹くんの時とは違って、感じたことはどっちかって言うとびっくりした、の方が大きかった。だけど、そう。
嬉しかったのも本当だった。
後々になっても、どうして私の名前を呼ぶようになってくれたのかは、結局よく分からなかった。でも、ひとつ確かなのは、あの時の驚きと今の幸福。
どっちも同じ “名前” だったけど、胸の色はまったく違っているということ。だけどとにかく、嬉しいという感情だけは、どちらも本物だった。
一週間前のその出来事を思い出しながら、静かにLOINEを開く。既読をつけていたメッセージをもう一度読む。
『ひとりちゃん、今日は皆で下北沢駅に集合だって! 間違えてSTARRYに行かないようにね、だそうよ』
私は親指と呼吸を落ち着かせて、丁寧に打つ。
『教えてくれてありがとうございます』
『昨日から遅れてしまったりとかで、喜多ちゃんのギター練習一緒にできなくてごめんなさい……』
送信。すぐ既読。喜多ちゃんは、メッセージを送るといつも光の速さで返信が届く。すぐに『大丈夫よ。今日は遅れずに来れそう?』と返事が届いた。
私は『あっはい、大丈夫です。ギリギリでしたけど……なんとか! 少し用事があって』と返す。
まさか、春樹くんと帰ってたなんてとてもじゃないけどまだ言えない。
「………」
「……あれ?」
珍しい。何でだろう。
「…………??」
そこから、五分ほど待つ。
明らかに、いつもより間が空く。途端に返信が途絶えた。
基本的に、喜多ちゃんの方からメッセージで既読が着いたまま終わることは、あまり無い。電車を乗り換えたとか、そういうことかな。話す時は、秒で返信が来る人なのに。
喜多ちゃんの姿は、そういえば今日は殆ど学校で見えなかった。というか、確か割と早い段階で春樹くんに声を掛けられたから、そのままなし崩し的に松ノ木児童遊園に行くことになったし。そもそも会えなかった。
何となく、静かに画面を見つめたまま、こつん、とふとガラスへ頭を預ける。横目で流れていく、黄昏時の景色を見つめた。
「………………」
窓越しの景色がブロックノイズみたいに移り変わっては消えていく。喜多ちゃんに、この事を話したらどんな反応をしてくれるんだろう。
(……皆に。リョウさん以外にも、春樹くんのこと、話したら……どんな反応、するんだろう)
胸の奥が、こわい、とたのしい、の真ん中で揺れてるのを感じる。そのとき、電車内の音声アナウンスも響いた。
「まもなく────下北沢です。小田急線は、お乗り換えです。出口は右側です」
リョウさんがきっと、もしかしたら金曜日に言ってた通りその場を設けてくれたのかもしれない。勇気を、出さなきゃ。
そう思って私は、耳に届いた電子音声を合図に、手で支えていたギターケースをもう一度背負い直した。
次回更新は10/8 19:00です。
少し文章量落としてみようと思います。少しでも読みやすいと思ってもらえるように練ってみるので、よろしければ次もお楽しみください。
皆さんが学生時代の頃感じた甘酸っぱいエピソードなどありますか? 良かったら感想ついでに合わせてお聞かせくださいませ。