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ぼっち・ざ・ろっく!
フラッシュバッカー
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Interlude「名前を呼ぶ、その前に」
※
それは、秀華祭が終わって最初の登校日だった。
十月四日。日曜に文化祭本番をやって、月曜が振替休日。
なので、今日はその次の火曜日だ。たった一日休みが挟まっただけのはずなのに、教室の空気は未だに妙な熱を持っていた。
黒板の隅には、多分、教室をメイド喫茶に改造する時に使ったのであろう色画用紙が中途半端に残っているし、窓際には掃除しきれなかったのであろうラメみたいな細かい光がそこかしこに落ちている。
なんというか、クラス中のどこを見ても「昨日まで祭りでした」って顔をしていて、朝から少しだけ眩しい。
隣の席の女子達はスマホを見せ合いながら何か騒いでいるし、男子は男子で「いやマジであれヤバかったって」だの「えー! 絶対話盛ってるだろ!」だの、好き勝手にうるさい。
────その中心に、当然のように、彼女は居なかった。
俺は通学リュックを机の脇へ引っ掛けて、なるべく何でもない顔をしながら右斜め後ろへおもむろに目を向けた。
廊下側、一番後ろの席。
中心どころか、ひっそりと気配を消すような形で、後藤ひとりは今日も席に座っていた。
「……」
思わず、少しだけ横目で彼女の姿を眺める。
ピンクのジャージ。学校指定ですらない、不思議な格好。
あまりにも個性的で、ロックな服。
机の上に揃えられた両手。教室のざわめきに身体ごと薄く押し潰されるみたいに小さく背を丸める姿勢。
それはなんというか、あまりにも静かで。
見ているこっちが心配になるくらい、椅子の上で気まずそうに俯く姿だった。しかも、そうしてるうちに、やがてバツが悪そうに彼女は、両腕の中に顔を埋めてしまう。
(────………うーん)
おかしい。妙な話だな、と思う。
数日前、あれだけの歓声の真ん中に立っていた人間と、目の前で息を潜めてるあの子が、本当に同じ人物だなんて。
二日前。─────秀華祭二日目。
体育館のライブステージ。
弦が切れても折れなくて、近くにあった酒瓶を手に取って、そのままナットへ滑らせた、あの姿。そんな無茶苦茶な離れ業を、本当にやってのけた少女。
あの瞬間のことが、まだ頭から離れない。
そんな彼女が、今は、同じ教室の中にいて。しかも何故か今日はギターケースすら持っていない様子だった。
いつもは教室の片隅、決まったポジションに巨大なギターケースが立て掛けられているのに、それが無かった。それだけで「あれ、今日ギターケース無いんだ」とか囁くクラスメイトも居るくらいだ。
そのことに気付いた瞬間、胸の奥が少しだけ変な風に揺れ動く。
ギターヒーローでもない。
結束バンドのリードギターでもない。
普通の、秀華高校一年二組の女子生徒である、後藤ひとり。
光り輝く恒星の様だった、あのギタリストの女の子ではない。
ライブハウスで見た、あのバンドのギタリストでもない。
いうなれば普通の───いや、まぁクラスでは多分、少し浮いてる感じの、どこにでも居そうな女の子。正確に言うと、あんまり誰かといるところは見たことない女の子ほ姿。
「……!」
そう考えた途端、逆に落ち着かなくなる。
な、何考えてんだ俺は。いや落ち着けよ。だから何だ。
たまたま同じクラスの女の子の、文化祭ライブが凄かったってだけ。それだけの事だろう。
そう自覚して、慌てて視線を外す。
やめろやめろ。あんまり露骨だと普通に気持ち悪いだろうが、俺。
そもそも、向こうからすれば俺なんてまだまともに話したこともない同じクラスの男子だ。せいぜい良くて名字と顔が一致してる程度。
いや下手したらそれすら一致してないかもしれない。
もしそうだとしたらまあ凹むけど。
でも、そんな相手からいきなりそんな興味持たれたら怖いだろう。
「……………はぁ」
小さく、溜め息を着く。
「ん? 春樹、どしたー?」
前の席の男子が俺のそれに反応して目を向けてくる。俺は俯いたまま、何事も無かったみたいに「………いや、悪ぃ。なんでもない」と呟く。
───だというのに。困った話だ。
どうも二日前のあの光景が、いやもっと言えば、これはもう八月の “あの時” から彼女の姿が脳裏から離れない。離れてくれないのは、一体どういう訳なんだか。
気付けば彼女を探している自分がいて。
ふと何気なく、なんかあのギターケースの後ろ姿が目につくときがあるのだ。というか、ここ最近その数が露骨に増えている。
(───────これじゃ、まるで)
その気持ちに、自分の中で答えのレッテルを貼ろうとした時。
ちょうど狙い済ましたかのようにチャイムが鳴り響く。
ガラガラと小気味良く横開きの扉が開き、担任が入ってきた。間もなく、朝のホームルームも始まる。いやタイミングよ。
「はいはい席つけー。皆おつかれ、おはよー。ただ、文化祭終わったからって浮かれっぱなしなのは今日までだぞー」
教室のあちこちで、ぶー、とか、けちーとか、緩い不満の声が上がる。
俺はそれに苦笑しつつ、思わず小さく頬杖をつく。
そのままプリントが前から順番に回されてきた。それは、今週の提出物だの、十月の予定表だの、クラスの熱を現実に引き戻すには充分すぎるくらいには色気のない紙の数々。
前の方からプリントが流れ始めて、しばらくして俺の机にも数枚重なった用紙が届く。
通路を挟んだ隣の列。ちょうど隣の席の女子のところで回されていく紙が止まったのが視界に映り込む。
俺はふと何気なく、俺から見て右斜め後ろの席へ横目を向ける。それはちょうど─────後藤さんの席。
「でさー! 喜多ちゃん凄かったよねぇ、ちょーー歌上手かったし!」
「分かる、それな! 可愛かったよねえ」
俺から見て隣に座る女子は、身体だけは横を向けたまま前の席の女子と会話に夢中なようで、後ろの後藤さんへプリントを渡し損ねている様子だった。
「………っ」
「……あっ………ぅ………」
喋る女子の後ろで彼女は、まるで自分から声を掛けるべきか迷ってるみたいに、指先だけ小さく浮かせて、それからまた引っ込めている。
「……………─────」
たったそれだけの動き。頬をついたまま、俺は微かにそれを眺める。
─────何故だか目についた。
別に、俺には関係の無いこと。というか下手すれば余計なお節介だろう。だというのに。どうしてか、放っておけなくて。見て見ぬふりなんか、出来なくて。
「……」
だから俺は、気付けば自分の席を立つついでみたいな顔で、隣の席の女子の机からその紙を静かに手に取っていた。
「……これ」
「っ……!? えっ?」
小さく肩を跳ねさせて、後藤さんがこっちを見る。思ってたよりその声はずっと小さくて頼りない。顔なんか片手で収まりそうなくらいで、そのくせ目だけは大きくて、驚いた時の揺れ方がそのまま分かった。
「あっ……えっ、あっうっ、ひゃ、ひゃい─────あ、ありがとうございます」
教室の喧騒に呑まれそうな程小さかったけど、彼女の声色はちゃんと聞きとれた。そこで、前の席の女子もようやくそれに気がつく。
「ん? あっ紙回ってたじゃん! 後藤さんごめんね! 気づかなかった!」
「あっい、いえ……」
後藤さんはビクッと肩を縦に揺らし、首を何度も横に振る。
次いで、隣の席の彼女の視線が俺の方へ向いた。
「よっしー、ありがとー!」
「んーん」
軽くそう返してから、俺はもう一度だけ後藤さんの方を見る。互いに、ほんの少し、目が合う。
「……びっくりしたよな。ごめん」
「あっ……い、いえ……だ、大丈夫、です」
「そっか。ならよかった」
それだけ言って、俺は席へ戻る。
それは言うなれば、本当にただのクラスメイト同士のやり取りそのもの。別段、変なことは何も無いのだろう。
ぎし、と音を立てて椅子に座り込む。
俺はそうして何気なく、教壇にいる担任の方へ視線を戻す。自然な仕草の、つもりで。
(…………いや、全然自然な自信がねぇんだけど)
顔は努めていつも通りの真顔を維持しようとする。でも、だめだ。
正直いうと、心臓が少しうるさい。いや、少しどころじゃない。
実のところ、ものすごいバクバクしていた。
頬杖をつく姿勢に戻りつつ、その時の腕に当たる脈動がまるでバスドラムの如く跳ね回っている。………いや。何してんだほんと。プリント回しただけだろ。
でも、その “だけ” が妙に残るのは一体、どういうんだ。だけど、それを今考えると表情を保てなくなる気がした。
だから今は、せめてそれを見て見ぬふりをするしかなかった。
※
四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴ると、教室は相変わらず一気に別の生き物みたいになった。
椅子が一斉に引かれて、机が寄せられて、購買へ走る足音が廊下へ弾けていく。さっきまで “授業” だけに満ちた空間が、急に “青春” の顔を見せ始めてくる。
そういうのが、やっぱり私、後藤ひとりは堪らなく苦手だった。この学校に通い始めて、半年近く経つのというのに、未だに。
文化祭でライブをしてからの登校日は、今日がその初日。の、はず。
だというのに、今日 “も” いつも通り、特段誰かに話し掛けられることは無かった。私は気付けば昼休憩の時間になっていたことに白目を向いて絶句する。
(─────………あれぇぇぇえ〜〜?)
何で? 私文化祭でそれなりにがんばったのに。どうして……どうして……?
文化祭でライブをしてからの登校日は、今日がその初日なのに。
そうして、朝のホームルーム振りに私は再び机の上に顔面を突っ伏す。
「………………………」
なんだろう、これ。
懐かしいな。デジャブ。なんかこう、既視感が凄い。
そういえば虹夏ちゃんと出会ってSTARRYに連れてかれたあの日も、こんな感じのこと思ったっけ。
『よっ! 人間国宝!!』
『頑張ったねひとり!!』
なんかどこからともなくいつものギターの顔をしたイマジナリーフレンドたちの声が響く。ありがとう、ありがとう。でも今は君達はお呼びじゃないの。
「………はぁ」
どっと溜め息を着く。
いやまあ─────分かってますよ。
他力本願でね、どんな物事も上手くいくわけないなんてこと。これなんか前も似たような事何回か思ったな。
別に、文化祭ライブで頑張ったからと言って、次の日からみんながみんなチヤホヤしてくれるだなんて思ってはいなかった。
そんなね。
Zeppスーパーアリーナのライブ風景の夢みたいな、絵に書いたようなキラッキラな展開はね、えぇ、考えてはいませんでしたよ。はい、ほんとに。
でも、とは言え。とは言えだ。
(いやッッッッ、流石に誰からも声掛けて貰えないなんて思わなかったあああああああぁぁああああああああ──────!!)
内心、私は頭を抱えて叫び散らかす。あぁ、ザパーン、と波の音が聞こえる。多分今なら風になれそう。正直なところ、いくら何でも普段と何も変わらなさ過ぎて流石に朝から凹んでいたのはここだけの話だ。
だって。
さすがに一人二人くらいは「昨日凄かったよー!!」とか喜多ちゃんみたいに話しかけてくれると思ってもいいじゃないですか。
ちょっとくらい頑張った陰キャにご褒美くらいあってもいいじゃないですか。─────なのに、それすら無かったのはいやもうなんかもう、うん、死にたくなった。
ていうかなんなら二日前なんか教室に入ろうとしたら「あっ、ダイブの人」「あぁ、ロックのやべーやつか」とだけ通りかかった後ろの男子から言われたりもしたし。ソウデスヨネ。間違ッテナイモン。
「………………はぁ」
二度目の溜め息。幸せが逃げる? そんなの知りません。
通りかかった時に言われたその言葉も、地味だけど未だに引きずってはいるんだもん。溜め息くらいつきたくなりますよ。
そうして、んごご、と私は机へまた顔を沈ませる。あぁ、このまま地の底まで沈んでいきたい。
……まあはい。ギターどうこうより所詮文化祭ライブ中に客席へダイブしたってことの方がそりゃ目立つに決まってますよね。えぇ。逆の立場でも多分そうなるとは思う。いやまあ、わかってはいましたよ。
(………………あぁ、もういや。このまま消え去りたい……)
なんかもう、このまま静かに教室から静かに名簿ごと消えたい気分だった。
文化祭ライブ、頑張ったのに。がんばったのにぃ。つらい。
きっと喜多ちゃんは皆からいっぱいチヤホヤされてるんだろうなぁ。
(……良いなぁ。私も褒められたいなぁ)
でも、いつまでもそんな落ち込み方をしてる訳にもいかなかった。
そうこうしてるうちに、昼休みなんて一瞬で終わってしまう。
良いんだ、別に。私みたいなドチャクソミジンコ陰キャなんて所詮、こんなもの。日常が戻ればいつも通りなんだ。気にしても仕方ない。
だから今日も、なるべく目立たないタイミングを見計らって、お弁当を持って教室を出ようとした、その時だった。
「あの」
「あっひッッ、ひゃっ……!?」
思わず変な声が出た。
弁当箱を両手で持ったまま視線を見上げると、同じクラスの男子。
あっえっあ、こここここここのひと、たしか、えっと。あっそうだ。朝、プリントを渡してくれた人だ。たしかサッカー部の……えっと、吉……よし………なななな、何だっけ。だめだ、名字が最後まで出てこない。でも顔は知ってる人! ごめんなさい!!
「……あ、あっっ、あの、あっ、な、何でしょうか」
しまった、と思った時にはもう遅かった。
たぶん今の私は、だいぶ変な顔と声色を出していたと思う。
男子から話し掛けられることなんて冗談抜きで十六年の人生の中で数えるくらいしかない。分母が無い。虹夏ちゃんに初めて話しかけられた時みたいに全く思うように声が出ない。
そう言った瞬間、その人は一度だけ教室の中を見た。
「……─────あー……」
「……?」
つられて私も目を動かす。
近くでは女子が机を寄せ合ってるし、後ろの方では男子が大声で笑っている。いつものことなのに、昼休みの教室はどうしてこうも胸に悪いんだろう。
「えっと、……いや」
彼は、そんな私を見て少しだけ困ったみたいに笑った。
「ごめん。やっぱり、何でもない。今、話しかけるタイミングじゃなかったよな」
「えっ……」
「いや、何でもない。ほんとごめん」
それだけ言って、一歩引いて、廊下の方へ歩いていった。
私は少しだけ固まる。
「……?」
(──────え? えっ? どういう、こと………なんだろ)
今の、何だったんだろう。
別に何か言われたわけじゃない。ただ、私が今まともに話せないことだけは、見抜かれた気がした。
でも、変な人、ではないんだと思う。
少なくとも、それを笑ったりしなかった。
でも何故だか、胸の奥が少しだけざわついたのは確かだった。
※
その日の放課後。
私は気付けば結束バンドの皆と下北沢駅へ向かっていた。
文化祭で壊れたギターの代わりに、新しいギターを御茶ノ水へ向かう形で結束バンドの皆と買いに行くことになったからだ。
そう。元々中学一年の頃から使っていたレス・ポール カスタムを文化祭の時に弦やペグを揃って壊してしまったのが今回の話のきっかけだ。
幸い、昨日お父さんにその事を謝ったらそんなに修理費もしない上に、意外とすぐに直るとのことだったらしい。お父さんが大切にしてたギターだから、直りませんでした、じゃ私の内蔵何個売っても足らない。本当に胸を撫で下ろした。
そうして、オーチューブの広告費も貰えたし、せっかくなら新しいギターを買っておくのも悪くないんじゃないか。
経緯としてはそういう話になり、それをバンドの皆に伝えた結果、今のこの展開に至るという訳で。
いや。
本音を言うと、その広告費でバイト辞めたかったんですけどね。はい。でもそんなことを店長さんに言えるはずもなく。
ダメでした。知ってた。
ワンチャン店長さんに好きなものを献上して辞めさせていただければなどと奢がましいことを考えて一瞬無敵の人になってたけど、結局要らないとか言われたし。終わった。
…………うん。まあ、というかそんなの言えるなら十六年陰キャやってないです。しかも、実際のとこギターは通販で買いたかったし。
「ぼっちちゃん? どしたんぼーっとして」
「えっあっえっ!? あっ、い、いいぇ………」
「?」
隣を歩く虹夏ちゃんに声を掛けられて、今更それもやっぱり言えるはずもなく。結局、喜多ちゃんやリョウ先輩を含め、私はそのまま駅まで向かうしかないのだった。
いつも背負っているものが無いだけで、身体は少し軽いはず。
なのに物凄く落ち着かない。トートバッグだけだと心許ないのはどういう訳なのか。
それなのに、どうしてかその日の私は、いつもより自分の心臓の位置が分かりやすい。一体どういうことなんでしょうね。
※
次の日、水曜日。
教室へ入った瞬間、俺は少しだけ目を留めた。
あっ、またギターケース背負ってる。
それだけで、妙に安心した。なんかその姿をいつも見かけてたこともあって、足りないものが揃った感が凄かった。
ああ、多分あれか、ライブの時弦が切れてたように見えたし、ついでに新しいのを買ったってとこか。
昨日は持ってなかったし、多分そういうことなんだろう。まあ、いや知らないけど。知らないけど、たぶん。
自分でもちょっと気持ち悪いくらい、そんなことばっかり気になってしまう。何考えてんだか。
そうして昼休み。
昨日みたいにいきなり話しかけるのはやめようと思っていたのに、結局また教室の中で彼女をほんの少し目で追ってしまっていた。
ギターケースにそっと触れる仕草。
周りが騒がしくなるほど、少しずつ肩が固くなっていくところ。
誰かが近くを通るだけでびくっと反応する感じ。
「───────………」
ああ、この子、やっぱり教室とか人の多い場所だとダメなんだな、と思う。
多分、人と話したくないとかじゃ、無い気がする。それなら昨日、前の席の子にあんな仕草は見せないだろう。何となくの予想だけど誰と、以前に、まずこの空間そのものがしんどいのかな、なんて思う。
昨日の一瞬で何となく思ったことが、今日のそれを見ててほとんど確信になった。
(………いきなり話しかけるのも、違うよな)
そうだ。場所を間違えちゃダメだろう。
昨日の俺がやったのは、ただタイミングをミスったんじゃない。
息のしにくい場所で、息をしろって言ったようなものだろう。
そこまで考えたところで、ふと自分にツッコミを入れたくなる。
……いや待て。何で俺、こんなに真面目に同じクラスの女子の “話しかける場所” について考えてるんだ。普通に怖いだろ。いや昨日からずっとヤベー奴やん。落ち着け。でも、落ち着けない。
(…………なんなんだよもう)
そんな事を考えながら、思わず俺は顔を腕の中に埋めた。
※
木曜日の放課後。
私はいつものように、人の流れが少し減るのを待ってから立ち上がった。ギターケースを背負い直して、教室のドアへ向かう。さーて。今日もSTARRYでバイト。がんばろう。
その時だった。
ごっ、と鈍い音がした。
「ひゃっ……」
やってしまった。
ギターケースの上の方が、半開きのドアの縁に引っかかった。こういう、誰も助からない地味な恥ずかしさ、ほんとにやめてほしい。こういう惨めな姿、なんというか私の人生に多すぎる。
なんか凄く注目を集めてる気がする。恥ずかしい、いや怖い。私は慌てて引っ掛かりを戻そうともがいた、その時だった。
「待って」
「え?」
すぐ後ろから声がして、次の瞬間、ドアが大きく開いた。
「あ……」
振り返ると、あの人だった。
一昨日の朝、プリントを渡してくれた。あの日の昼、私が固まったのを見て、すぐ引いてくれた。すぐ近くの席の男の人。
「ほら、今なら通れる」
そう言って彼は片手でドアを押さえたまま、少しだけ身体を引く。
邪魔にならないように、こっちが通りやすいように。そういう、さりげない距離の空け方だった。
「あっ……ありがとう、ございます」
「ん」
私は慌てて小さく頭を下げて、その前を通る。
このまま逃げるみたいに行ってしまいたかった。けど、背中にもう一度声が落ちてきた。
「─────………あっ、なあ、後藤さん」
鼓動がひとつ跳ねる。思わず全身が激しく縦に伸びる。
「ヒッ!? あっ、えっ、は、はぃ」
教室よりは静かだった。
完全に誰もいないわけじゃないけど、廊下の夕方は、昼休みよりずっと呼吸がしやすい。窓の外では、もう空が少しずつ橙色に傾いている。
どどどどうしよう、何か見返り求められる? 怖いこと言われる? からかわれる? どうしよう。プルプル震えながら私は恐る恐る振り向く。
彼は少しだけ言葉を探すように目を逸らして、それからまた私を見た。
「昨日の昼の時、ごめん」
「えっ……?」
だけど。
帰ってきた答えはまるで想像の斜め上を行くものだった。私は思わず目を見開いて硬直する。き、昨日? あぁ、そういえば話しかけてもらったけど、何でもないって言われてそれきりだった話かな。
「なんていうか、その……俺、タイミング悪かったよな」
(? えっ? タイミング? 何の話だろう)
「あっうっ、あっ、い、いえ……その、私の方こそ……すみません」
「いや、後藤さんが謝ることじゃないよ」
そう言って、彼は少しだけ困ったように笑う。
その笑い方は、教室の中で見る時より、少しだけ柔らかい気がする。
「たぶん……教室とか、人が多い場所だと、あんまり落ち着かないだろ」
「……」
図星だった。な、なんでそれを。
喉がきゅっと鳴る。
そんなの、分かるんだ。たった数回のやりとりで。
でも彼は、そのことを別に責めたりしなかった。ただ、そのまま続ける。
「変な意味じゃなくてさ。秀華祭のライブのこと、少しだけ話したくて」
「……らいぶ」
「うん」
その一言だけで、胸の奥が少しだけ熱くなる。
あの日のこと。弦が切れたこと。ステージからダイブした気絶したこと。思い出したくない部分もいっぱいあるのに、それでもギターと一緒に音を鳴らした記憶だけはちゃんと身体に残っている。
えっ、この人。
まさか、私のライブ、見てくれてたのだろうか。
そのことは、結局アレから誰にも声をかけてもらってないのに。
「それで、その……もし嫌じゃなければ、だけど」
彼の声が少しだけ緊張した。
「明日、放課後、少しだけ話せる、かな? 少しさ、その事で話、したいんだ」
「例えば体育倉庫裏とか、どう? そこなら人目もいないし、落ち着いて話せるかなって思うんだ。君も、なんか人の居るとこで話すのしんどそうに見えるし」
「……え?」
「昼とか教室だと、たぶん……落ち着かないよなって思ったから。加えて体育倉庫裏の方なら、そもそもあんまり人来ないし。どうかな? 他の場所でもいいんだけど……」
「あっ、でも無理はしなくていいからね。無理なら無理で」
「えっあ、えっ、えっと────」
体育倉庫裏。
その単語に、私は一瞬だけ固まる。
普通なら、もう少し警戒してもいいのかもしれない。けど、不思議とそこまで怖くはなかった。
たぶん彼が、最初からずっと “来てほしい” じゃなくて、“嫌じゃなければ” で話してくれていたからだ。強制の空気は、何一つ、何も無かった。
昨日の昼の時も、私がダメそうだと分かったらすぐ引いた。今もそうだ。押しつける感じが無い。
こういう時、陰キャは断れない。
断れ、自分、と普段の自分なら内心叫ぶだろう。でも、珍しくイマジナリーフレンドもドッペルゲンガーも何も反応してくれなかった。何でだろう。
「あっ……その……」
喉が詰まる。
でも、ここで黙ったまま逃げたら、また何も始まらない気がした。
同じクラスの男子。
朝、プリントを渡してくれた人。
昼、私が固まったのを見て、笑わずに引いてくれた人。
そして今、少しでも私が話しやすそうな場所を選んでくれた人。
この人は、なんとなくだけど。────怖くないかも、しれない、だなんて。
そこまで考えてから、私は小さく無意識に、息を吸った。
「……だ、大丈夫、です」
「えっ」
「……明日、なら……多分」
(──────────……ん? え?)
自分でも驚くくらい小さい声。えっ。あ、えっ、私、今なんて?
自分で、了承した? それを? えっ何言ってるの私。
口が勝手に滑っていた。目を見開ききってフリーズする。なっ何言ってるの私。なんで断ってないの、なんで? 頭の中がたちまち疑問符だらけになる。
でもちゃんと届いてしまったらしい。もう手遅れだった。彼は目を見開いたあと、すぐに少しだけ顔を綻ばせた。
「ほんと!? いいの? 迷惑じゃないか?」
「あっ……えっあっえっ、ええっと、あっ、ひゃ、ひゃぃぃ」
「………そっか。ありがとう」
彼は、物凄く緩く微笑む。
私は、それを見たまま硬直する。さっきまでの疑問も、なんで了承できたのかも自分でも何一つ分からないまま、その思考が止まった。
ありがとう、なんて。その笑顔を見て、何も言えなくなった。
そんな大袈裟なことをした覚えはないのに、彼は本当にほっとしたみたいな顔をしていたから。
「じゃあ明日、放課後。……無理そうなら、来なくていいから」
「……」
「でも、来てくれたら嬉しいな」
その一言が、夕方の冷たい空気の中で、妙にあたたかく響いた。
私は何も言えずに、こくりと一度だけ頷く。
「じゃあ、また明日ね! 後藤さん」
「……は、はい。……また、明日」
そう言ってから、彼が去っていく後ろ姿を見つめる。
(あ、名前───………私のこと……)
思わず目を見開く。自分でも、困惑まみれだった。
なんで急に同じクラスの男子に声を掛けられたのか、とか。なんで私も呼び出しを了承しちゃったのか、とか。そういう諸々の理由が、結局自分でも全く分からない。分からないのに。
ただひとつ、確かなのは─────また明日、という言葉のこと。
そんな普通の言葉が、どうしてこんなにくすぐったいんだろうってことだ。そう。これはあの日、あの時。初めてバイトをしてSTARRYから出て、虹夏ちゃん達から同じことを言われて感じたものと近かった。
(──────…………また、あした)
心の中で、もう一度その言葉を独りごちる。
廊下の窓から隙間風が私の頬を撫でて、小さく髪が揺らぐ。その今の私の心には、不思議と怖いとかそういう気持ちがあんまり無かった。
その理由は、何一つ、なんにもわからない。
でも、それでも。
その「明日」という言葉だけは、胸の中で抱えていたいと、確かにそう思った。
※
その日の夜。
ベッドに寝転がったまま、俺は枕へ顔を押しつけていた。
「………………」
いや待て。いやいやいやいやいやいやいやいや。
体育倉庫裏って露骨過ぎるだろ!!
こんなの告白の呼び出し同然じゃないか。ていうか普通に怖くないか? 大丈夫か? いや大丈夫なわけあるか。何やってんだ俺。
勢いで呼び出したはいいものの、今さらやっぱ無しで、とか当然言えない。そもそも連絡先も知らない。
明日学校で「ごめん昨日の話なしで」? いやそれはそれで何だ。ダサすぎるだろ。もう、最悪だ。何やってんだ俺。
「うわ……終わった……」
枕に顔を埋めたまま、じわじわと現実味を帯びてきた明日の予定に頭を抱える。告白なんかしたことない。されたことは無いわけじゃないけど、そんなの全く別の話。
どうする。
そもそも、まだまともに話したこともない同じクラスの女子だぞ。何でそんな相手に、こんな一人で人生みたいな熱量になってんだ。重っっっっった。キモいな俺。キモすぎる。ダメだ!!
自分への罵倒が止まらない。どうしてこうなったのか。
思わず足をばたつかせる。
我ながらキツい。誰にも見られてないから許されてるだけで、客観視したらかなり終わってる。何やってんだほんと。
「………………………」
でも。
しばらくそうして悶絶したあと、不意に動きが止まる。
違う。
違うだろ、と、心のどこかで思った。何かが、呟く。
俺がいちばん伝えたいのは、そこじゃないだろ、と。
何より先にあるのは、もっと単純で、もっとどうしようもないこと。ただ、シンプルなこと。君の演奏が、ほんとに、マジで凄かったってこと。
俺は、それに救われたんだってこと。
礼だけは。
それだけは、伝えたいんだ。
────────伝えないと、多分、一生後悔する。
「……重いなあ」
ごろんと仰向けになる。でも結局、思わず天井へ向かって呟く。
「…………言えるかな」
ぽつりと、独り言を零す。いや、なにを。
すぐに、自分でそれを打ち消す。
「いや」
言おう。
せめて、ありがとうって。それだけでも言おう。
そこまで思った瞬間、胸の奥が妙に静かになった。
本当に、それが本心なのか、って。
違うだろ、って、聞こえてくる。
断られなかった。
その事実だけで、心臓がまだ少しおかしい。
──────そうだ。その通りだ。本当は違う。
“秀華祭のライブのことを少し話したい” なんて、半分くらいは自分に対する言い訳だ。
だって。思ってしまったんだ。
せめて、自分の名前くらいは覚えてもらいたい。
せめて、あの日のことを伝えたい。
そのくらいのつもりだった。
そのくらいで収まると思っていた。
だけど、廊下で彼女が立ち止まってくれて、あの小さくも透き通ったような声で “また明日” って返してくれた瞬間、何かが変わった。
違う。
俺が明日伝えたいのは、ライブの感想だけなんかじゃない。
違うんだ。
あの日、あの時。文化祭ライブよりも前、あの台風ライブの時から、ずっと見て見ぬふりをしてきたもの。もっと、ずっと手前で、もっとどうしようもないところにあるものだ。
九月。夕暮れの教室に、部活の忘れ物を取りに行って、その時にたまたま見かけた彼女の姿。クラスメイトの為に、誰もいない教室の中で探し物をする姿。思えば、ずっとあの時から、意識はしてしまっていた。
ギターを演奏する姿だけじゃない。ただの変わった子じゃない。
誰かの為に、何かを頑張ろうとする、あの子の姿に俺は、いつからか惹かれていた。
─────好きなんだ、と気付く。
いつからか、好きになってしまっていたんだ。
そんな、後藤ひとりのことが。確信する。
そんなの、八月のあの時点でとっくに始まっていたのかもしれない。
時計の針。エアコンの微かな排気音。窓の奥から聞こえてくる夜の街道の音。
それらが響く静かな空間の中で、俺はようやくちゃんと自分の中でその感情に名前がついた。
それはいい。でも、明日結局ライブの感想とか言っといて、告白をする気か? 正気か?
なら何を言う。いや何を言うも何も、もうこうなった以上、好きです以外無いけど。
いや、無いだろう。普通に考えて振られるに決まってるだろ。振られるとか振られないとか、好きだとかどうとか、もちろんそれもある。あるけど、──────でも、やっぱり、なによりも。
あのステージの光に救われたこと。
教室で息を潜めてる姿が頭から離れないこと。
それを、ちゃんと言葉にしてからだ。そんなのを話すのは。
溜まったもんじゃない。なんたこれは。
たった数回の小さなやりとりで、こんなにも胸がかき乱されていること。
全部まとめて、これはもう間違いなくそういうことなんだろう。思わず、今世紀最大規模の溜め息を漏らす。
「……………はぁ」
「………………マジかよ」
枕に顔を押し付けたまま、小さく呟く。
こんなの、ただのクラスメイトの女子に対して考えるには、やっぱりあまりにも激重だ。自分でもそう思う。でも、仕方ない。重いものは、重い。
一体どうすりゃいいんだ、これ。
そこまで思ったところで、枕元のスマホへ手を伸ばす。
検索欄を開く。
『告白 気をつけること』
『告白 場所 高校生』
『好きな人 呼び出し 変じゃない』
『振られた後 クラスメイト』
とか、そういうのを打ち込み始める。
「───────…………」
いや。いやいや………。
耳が死ぬほど熱くなる。手汗でスマホが滑る。今度はうつ伏せになって、思わずまた枕へ顔面を押し付ける。
「何やってんだ俺……」
口ではそう言いながら、静かに顔を半分枕から上げ、フリック入力を続ける。指は止まらない。
アホみたいに記事が出てくる。
“清潔感が大事” だの “夜は避けましょう” だの “いきなり重すぎる言葉は相手に負担になります” だの──────耳が痛いにも程がある文言ばっかり並んでいて、読めば読むほど、しっかりじわじわダメージが入る。まぁ夜は避けましょうに関してはどう考えても俺には関係ないけど。
いや、じわじわっていうか、もはやクリティカルヒットだった。
「………………」
「重すぎる言葉は負担になります、か……」
いやほんとそれな。
自分でも、考えずにはいられない。
知ってる。知ってるけど、じゃあどうしろっていうんだ。これ。
あの日の文化祭ライブを見て、そのまま何も感じませんでした、みたいな顔で今さら居られるほど、俺は器用じゃない。
スマホの画面を眺めながら、長く息を吐く。
(あぁ………ほんっと、もうさ……はぁ)
でも、こんなのただ話すだけで終われるわけがない。そんな自信ない。
明日、顔を見たら、多分もう無理だ。いや、もうそれはこないだから彼女を見る度に心臓が弾けてる時点で間違いない。立証していやがる。
もう後戻りできないのは、きっとあの文化祭ライブの時から、いや、台風ライブの時から、ずっとそうだった。
そう。あの光は、この命が潰えるその日まで何度でもフラッシュバックする。そう確信してしまった時から、俺はもう、止まれなくなっていたんだと思う。もうきっと、彼女を知る前の俺には、もう二度と戻れないんだ、って。
ただひたすら、枕を握る手に力を込める。
手汗が、ひどい。心臓が暴れ回っている。頬も、耳も、全身までもが物凄く火照っていた。
彼女が「また明日」と返してくれた時の、小さな声を思い出す。
ああ、もうだめだな、と思った。
明日。
放課後。
体育倉庫裏。
あぁ。
だめだ。言おう。限界だ。気付いてしまったらもうこんなの止めようがない。
ちゃんと話そう。
ちゃんと、自分の言葉で。
もう、ごまかさないで。もう、これ以上見ない振りをするのは、辞めよう。
「……………………」
怖い。
怖いけど、それでももう、明日言うしかない。じゃないと、それこそほんとに一生後悔する。
上手くいくかなんて知らん。ていうか、多分上手くなんかいかない。振られるだろう。無理に決まってる。
でも、もうそこじゃない。
──────無理なんだ。理屈じゃない。こんなの、もう抑えようがない。これだけは、ちゃんと言いたい。
ありがとうって。
好きだって。
エゴだよな、って思う。自分が言いたいだけじゃないか、こんなの。最低だ。分かっている。
でも、それでも、全部本当のことだった。これを伝えなきゃ、死ぬに死ねない気がした。
救われたって─────なにより、伝えたいんだ。
どういう順番になるかなんて分からない。多分、めちゃくちゃになる。絶対噛む。変な間も出来る。最悪、顔もまともに見られないかもしれない。
でも、それでもいい。
ごまかしたまま終わる方が、もっと嫌だ。
じゃないとこの “暗闇” から俺はもう一生、出れない気がするから。
そうして、押し寄せた闇を払う様に、俺はムクリと身体を起こす。
制服、今からでも整え直しとこう。あと、身だしなみ、今からでも整えとこ。いや、早いかもだけど。
まあやりすぎても別に損はしない。彼女に情けない姿なんか、見せたくない。
ベッドに腰掛けながら、微かに俯く。そうして、意を決するように顔を上げる。
うん。決めた。
彼女へ、迷惑をかけないように。嫌な思いをさせないように、動画を見るなりネットを見るなり、いろいろ情報を集めよう。
覚悟は決まった。─────これはきっと、俺の中で一世一代の、告白。最大限、出来ることをやる。やれる限りのことはやろう。
明日、君の名前を呼ぶ前に────後悔しなくて済むように。