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十月の空気は、こんなにも冷たくなるのが早いんだって、ふと思う。
同時に川の匂いもまた、どうしようもなく心を不安にさせてくる。それは草の匂いや夜の冷たさと一緒になって、私の胸の奥にまで痛みをじんわり沁み込ませてくるみたいだった。
ざぁぁ、って優しげな顔をして吹くくせに、実際は少しも優しくなんかない風。
寄り添ってくれるような顔をして、ちっともその実はそうじゃない。
ただひたすらに、不透明で不確かな苦しみだけを、それは連れてくる。
「……………」
リョウ先輩や伊地知先輩に挟まれる形で、そうして私は土手の斜面に三角座りして、両腕の中に顔を押し込んでいた。
喉の奥からぐつぐつ煮こまれたみたいな熱がこみあげてくる。吐き出さないと破裂しちゃう、って分かってるのに、言葉にしたくなかった。言ったら、戻れない気がした。
「……………私にとって」
かすれた声が勝手に零れていく。それは自分の声のはずなのに、やけに遠くから聞こえるみたいだ。
右側にいるリョウ先輩は、視線を川へ落としたまま、ただ「……うん」とだけ息みたいに返す。
感情を混ぜない声。混ぜすぎないように、ってきっと無意識に言葉を選んでくれてるような、声の選び方。リョウ先輩はいつも、そんな話し方をしてくれている気がする。
「……」
反対側、左に座る伊地知先輩は、私の背中をずっと撫でてくれていた。何も言わない。さっきからずっと、ただそばにいてくれる。
そのやさしさが今はつらすぎて、でも離れてほしくなくて、矛盾したその想いが私を掻き乱し続けていく。私は、ぎゅっと膝を抱く。
「────ひとりちゃんは、憧れだったんです。私にとっても」
また、空を見上げる。
そこはまだ夜になりきらない青灰色。独りで空を仰いだ時よりも、星はどんどん増えていて、確かに光ってる。
爪の先でつつけそうなくらいにそれは、弱くて、か細い。
それは「何者」にもなれない私の姿なのだろうか、と思う。こんなにも星空は輝いているのに、私みたいな偽者は、きっと何一つ「特別」にはなれない。
「……それは、なんで?」
リョウ先輩が、目線だけこちらに寄越した。無表情のままなのに、それは、まるで真正面から投げられたような問いだった。逃げないようにって言われているような気がして、身を固める。
「ひとりちゃんにとっては、私は凄い存在だったのかもしれない。でも、実際はそんなんじゃないんです」
「喜多ちゃん……」
伊地知先輩の声が小さく揺れる。
それはまるで、どこから触れればいいのか、迷ってるような声。当たり前の話。こんな事言われても困惑するのが普通の話。だけど、どうしてか私の口は止まらない。
膝頭に額を押しつけたまま、爪が食い込むほど自分のスカートを握る。
「本当にすごいのは、ひとりちゃんの方で……私は、星なんか、星座になんか、なれるような人間じゃなくて」
夜空を見上げた時に見えた、あの一際輝く『一番星』。
それって、なんていうか、ひとりちゃんみたいだなって思ってた。
そう。ひとりちゃんは、私なんかとは違う。
どんなに眩しくても、それでも、決していなくなってはくれない光。
自分がどんなに辛くても、哀しくても、必ず人に寄り添うことを忘れない。本当のヒーロー。
言いながら、心臓の真ん中のやわらかいところを、何度も殴ってるみたいに痛くなる。
「……本当の私は、何にもなれない、ただのたくさんある星の中の小さな欠片程度でしかない」
ほんとは「欠片」なんて綺麗なものにすらなれない。ただの、代替品。
ただの砂。踏まれたら終わりのやつ。誰が踏んだかなんて、誰も覚えてないやつ。思い出しても貰えない、誰かの代わりで終わってしまう、そんな程度の存在。
でもそこまで言ったら、この二人はきっと引いてしまう。だからそれだけは抑え込む。けど、それでもやっぱり、私は思わず叫んでしまう。
「────でも、ひとりちゃんは違います……! ひとりちゃんは、ひとりちゃんこそ………」
言葉が少しずつ震える。
口の中が熱い。それともそれは冷たいのか、もうよく分からない。
「……………私にとって、私達にとっての、星そのものじゃないですか」
それが、本当のこと。
ステージの上で、手が震えても、膝が折れそうになっても、それでもギターを鳴らして、無茶な場所で人前に立って。
それがどれだけ恐ろしいことか、私は骨身に染みて理解してる。
あの子は、それでもやった。
私の目の前で、ちゃんとそれを、成し遂げた。
伊地知先輩が少しだけ息を飲んだのが聞こえた。
きっとあの、オーディションの日の事か、台風ライブの日の事を思い出している。
ひとりちゃんが背中で私たち全員を支えて、音で守ってくれたあの光景。あれは、あの子の覚悟そのものだった。眩くて、煌めいていて、ただひたすらに美しくもがく、そんな姿。
私なんかとは、違う。私みたいな、仮初の光なんかとは。そうだ。
私は────なれない。
「本当は、私は、何かになんてなれない。星座になりたかったのは、私の方です」
なれっこなんかない。星座になれたら、ただひとりちゃんと、皆と繋がる存在でいられたら、一緒に輝いていられたら。
どんなに、幸せだったんだろう。それが絵空事だって分かってても、それでも、想っていたかった。
こんな私なんかでも、と私は夜空をもう一度見上げる。でも、無理だ。
無理だ、私なんかに、そんな
喉の奥から勝手に、また激しく熱が昇る。
涙が止まらない。熱くて、苦しくて、痛くて。
止まれって命令してるのに、止まってくれない。口が勝手に、想いを運んでいってしまう。
「むしろ本当になりたかったのは………ひとりちゃんと一緒に輝けるような、ひとりちゃんを支えられるような、そんな星に、なりたくて……!!」
視界がぼやけ続ける。涙で、じゃない。
たぶん自分に対して言葉の暴力を、ずっと振りかざしているから。全身に鈍く痛みが走り、その苦痛で輪郭が揺れ動く。
「でも、でも私は、結局………そんな存在になんて、どうしたって、なれなくて……ッ!!」
声が、まるで悲鳴みたいだった。
痛くて辛くて、その苦悶も、悲痛も、どんなに叫んでもそれは終わってくれない。
「ッ……!!」
「!!」
伊地知先輩が、私の背中をさすっていた手をそのまま回して、ぎゅっと抱き締めてくれた。
制服ごしの体温。あったかくて、でもこんなあったかいの、いま私がもらっていいのかなって、思ってしまう。そんな資格、あるのかなって。
「……………っ、喜多ちゃん………そんなことない!! そんなことなんかないんだよ、そんな何かになんてなれないなんてこと……」
ああ。もう、おねがいです、やめてください。
伊地知先輩、そんなふうに呼ばないで。そんなに優しく「喜多ちゃん」って言わないで。崩れる。辛い。ただひたすらに、つらいんです。
隣から、リョウ先輩の低い声が静かに入ってきた。その声色は、まるで私に毛布をかけてくれるような温かさ。
「そうだよ。郁代は……紛れもなくそれで言うならちゃんと輝いてる星そのもの。……何にもなれないなんて、そんなの分からないでしょ」
「いえ、いいえ……そんなことないです………」
私は何度も横に首を振る。ごめんなさい、って。
違うんです。
違う。
違う─────違う。涙がまた流れる。分かってるんです。本当は、本当は自分が一番よく理解してる。もう、止めなきゃって思うほど、止まらなくなる。
「本当は、自分が一番よく分かってるんです……!」
喉が焼ける。
だけど言わなきゃいけなかった。ここで言わないときっと私はまた嘘をつく。もう、嘘なんかつきたくないのに、被りたくないのに、助けてって心の奥が叫んでるのが聞こえるのに。
いつもみたいに、笑って誤魔化す。もうそれだけは、いやだった。ほんとうに、嫌だった。
「私の本当は………いつだって、自分なんか無くて……ただ他人に合わせることしかしてこれなかった」
そうだ。これが、私の本音。弱くて、情けなくて、最低な──────そんな私の、全て。自分の口から言うの、たぶん初めて。
「恐かったから。他人と違うことをする事で、自分が独りになるのが恐かっただけなんです……!!」
この言葉は鋭かった。自分で自分を刺してるみたいだった。
痛くて、血が止まらない。絆創膏を、包帯を、沢山沢山貼りつけようとする。でも、無理だ。
止まって、くれない。
「そんな人間に、人を惹きつけられるような演奏なんか、できる訳もなかった。できなくて当然だったんです!!」
あは、って無理に笑ったときの顔を、私は今すごく嫌ってる。
こんな私なんか、大嫌い。嫌い、キライ、大嫌い。
STARRYの最初の日。あのときだってそうだ。あんなの嫌い。
皆の隣にいる為に、私は嘘をついた。
そうじゃなきゃ資格なんかない、って、勝手に思い込んで。
リョウ先輩や伊地知先輩の隣に、『ギターを弾ける』私じゃないと
舐めてた。
本当は心のどこかで思ってたのかもしれない。努力すれば、今までみたいに努力すればきっと、『何者』かでいられる「あの人たちにみたいになれるんだ」だなんて、舐めてたのかもしれない。そんな訳、なかった。
そんなこと、許されていいはずがなかった。
そんなんだから、ひとりちゃんにも「ギターを弾けるようになってから謝りに行く」なんて見当違いのことも言えた。本当はすぐに直接謝りに行かなきゃいけなかったのに、分かってたのに、怖くて、恐くて、行けなかった。
どうしたらいいか分からなかった。
『
だって、必要とされなきゃ、必要としてもらえるような私になる為には、
ひとりちゃんが私をあの時誘ってくれなきゃ。そもそも、引き止めてくれなきゃ、多分私は私を一生許せなかった。伊地知先輩にも、リョウ先輩にも、本当は顔を合わせる資格なんて、一ミリもなかったんだ。
怖くて逃げただけなのに、「陽キャの私」とか勝手に決めて、ちゃんとしてるふりして。最低。
嫌だ。いやだ─────嫌い。嫌い、キライ、こんな、こんな私なんか、大っ嫌い。
こんな私なんか、消えてしまえばいいのに。
こんな私なんか─────。
「─────だからこそ、なりたかったんです」
私は息を大きく吸い込んで、叫ぶみたいにそれを先輩達へ吐き出す。
「人を惹きつけられる演奏が私にはできないのなら、皆さんを、ひとりちゃんを、支えられるような、そんな存在になれれば………私は、ここにいてもいいんじゃないかって……!!」
ここにいても、いいんじゃないかって。そうすれば、
それを言葉にした瞬間、胸のどこか深いところがぎゅっとひきつって、視界が幾度もぐらついた。吐きそうにもなる。
「……………………」
伊地知先輩も、リョウ先輩も、何も言わなかった。ただ、聞いてくれた。
それだけで、もう、苦しくて、苦しくて。
「っ〜〜〜〜、本当は私、わたしも…………本当は、喜びたいんですっ!!」
とうとう、漏れ出す。
伊地知先輩の腕の中にしがみついて、子どもみたいに縋りながら、息が切れるのも構わず叫んだ。止まらない、呼吸ができない、苦しい。辛い、つらい。
「ほんとう、は……ひとりちゃんに、彼氏さんが出来たこと、喜びたいんです…………でも、でも………!!」
胸を両手で押さえる。
痛い。押さえても押さえても痛い。痛い、痛い、いやだ。
「なんでか……どうしてか、辛くて、痛くて、苦しくて…………!!」
「ッッ……私、思っちゃったんです……!」
喉の奥が焼けた。息の仕方が分からない。苦しい、涙で視界がまるい光の粒みたいになって、川の街灯が滲む。それでも、私はとうとう叫ぶ。
「どうして、どうして────────私じゃないの、って……!!」
言ってしまった。
言っちゃいけないと思ってた。絶対に、言っちゃいけないと思ってた。本当にそう思ってた。
だって、これは私のエゴなんだもの。最低な人間の言葉だもの。
応援したいって言いながら、心のどこかで「私が一番のはずでしょ」なんて、そんな、そんなの最低じゃん。でも本音は、もう止まらない。
無理。抑えられない。抑えなんて、もう機能してない。無理。だって。
私が、私が支えたかったのに、大好きなの、私だって同じなのに。
私だって、────────ひとりちゃんのこと、大好きなのに。
「私がずっと、ずっとひとりちゃんのこと、支えたかったのに……!!」
取らないで。わたしから、わたしから、ひとりちゃんを取らないで。
お願いだから、望まないから。
決してこの恋が叶わなくったって、いいから──────ひとりちゃんが私なんかを選んでくれなくてもいいから。
ただ、ただ二人きりで夜空を見上げて笑っていられるような、あんな、ささやかで静かな幸せだけで我慢しますから。それ以上、望みませんから。だから、返してよ。返して、おねがいします。生まれて初めて、本気で、好きになった人なの。
取らないで、私の、私なんかの、大切な人を。
ひとりちゃんは、私にとってこの世界でたった一人のひとなの。
だから、お願いです。おねがいします、神様。
吉沢くん。
おねがいだから、わたしから、ひとりちゃんを、とらないで─────
うまく声にならない。嗚咽がジャマをする。
息がうまく吸えない。
まるでそれは、大切な思い出のテディベアを先に持っていたのは自分だからと、他の子に取られてしまって、大声で泣きじゃくる子どものよう。
とらないで、とらないで、と泣き叫ぶ、小さな子どもみたい。
「私が、傍に居たかったのに…………」
そこまで言って、私はぐしゃぐしゃに歪んだ顔のまま、土手の草へ腰を折り曲げて沈み込んでいく。
「初めて、初めて………見たんです、見ちゃったんです、はっきりと……!」
指先が震えている。必死に土を掴む。
爪に冷たい水気が入る。それでも、叫ぶ。
「吉沢くんと一緒にいるとき、話してる時、今まで見たことないくらい、ハッキリと幸せそうに笑う、ひとりちゃんの姿を……!!」
あの笑顔。
私、あんな顔、見たことなかった。あんなに安心して、あんなにまっすぐに、誰かだけを見て笑うひとりちゃん、見たことなかった。あの目、私には向けられたことのない目だった。見たくなかった、みたくなんか、無かったのに。
胸が、ぎゅう、って圧縮されるみたいに痛んで、呼吸が止まる。
「…………もう、いいよ。郁代、もう」
リョウ先輩が、珍しく顔を伏せた。それを聞いて、小さく私は顔を上げる。
普段は何を言われても揺れないはずの人が、今は苦しそうな顔をしてる。それが逆に、すごく申し訳なかった。
「…………聞いてあげよ、リョウ」
そう言って、また私の体を持ち上げてくれる伊地知先輩の声は細く震えていた。
その腕に、もういちどぐっと力を入れて支えてくれる。ずっと、抱きしめ続けてくれる。
「………………………ん」
リョウ先輩はほんの少しだけ目を閉じて、またゆっくり開いた。
それはまるで、逃げないって合図だった。私の本音から、耳を逸らさないって宣言みたいで。
その掛けてもらえるやさしさに、私は猛烈にまた鼻の奥がツンとする。目尻が熱くて、痛くて、零れてくる。それはもう一度、壊れた蛇口みたいに溢れてくる。
「……………っ、ひっ、っうぅ………うれしかった、のに………」
しぼり出すような声が出る。
「………ひとりちゃんが、私に贈ってくれたあの歌の、あの意味……もちろん、私だけじゃなくて、結束バンド皆への思いも篭ってるけど………でも、でもひとりちゃんは………」
そこまで言って、喉が詰まった。「言葉」という形になる前の熱いなにかが、逆流してきて涙といっしょに落ちていく。
「いの一番に、先に私に見せてくれたんです。あの歌詞を、私に」
そう。
ひと月前の、あの星空を見上げた夜の次の日、あの子は震えながらプリントの紙を持ってきて、私に見せてくれた。「変じゃないですか……?」って。あの時点で、もう、私に託してくれてたのに。
「……………どうして」
声が勝手に震える。
「どうして、もっと、早く気づけなかったんだろうって」
気づけてたら。ちゃんと守れた? もっとちゃんと支えられた? あの子の “一番” でいられた? そんなの、分かんない。きっと、そんなものはただの無意味な “もしも” 。でも、考えちゃう。
「………やっと、あの歌の言葉の意味、今さっき、演奏してて、ひとりで、弾いて、やっと、全部わかったのに」
指が勝手に弦をなぞっていく。さっきまでの音の残り香が、まだ爪に貼り付いてる。
伊地知先輩の腕にしがみつく私の手は、力任せにぎゅうぎゅう締めていたみたいで、気づいたときには震えるほど握りしめていた。
「…………嬉しかったのに………気づいた時には、もうひとりちゃんは、傍にいなくて」
視界の端で、川がひかる。街灯が川面にちぎれた星みたいに揺れてる。
「…………本当は、私が、傍に、いたかったのに」
息が浅い。肺の奥に空気がぜんぜん入ってこない。苦しい。怖い。
「いかないで、って、おもっちゃって」
やっと、分かってしまった。ううん、形にならなかっただけで、それはきっともう形を成していた。
あの黄昏の日、春樹くんとひとりが抱きしめあっていた時に気づいてしまって、そして次の瞬間には終わってしまっていたもの。
それは、恋だ。恋だったんだ、と。
ようやく口にしかけて、私ははっきりそれを理解した。
「────もぅ、もう、ひとりちゃんには、私なんて、要らないのかなって…………!!」
最後の一言はもう叫びだった。悲鳴に近かった。それは、逃げ道が全部ふさがった獣みたいだったと思う。
その瞬間、リョウ先輩の手が私の肩に置かれる。すごく、そっとだった。乱暴にじゃなくて、包むみたいに。
「……郁代」
「……ぇ………リョウ、せんぱ……」
顔をまたあげる。鼻が詰まって呼吸が苦しくて、涙と鼻水でぐしゃぐしゃで、本当にみっともない顔だって分かってるのに、それでも私はリョウ先輩を見た。見たかった。
リョウ先輩は、ちゃんと私を見てくれていた。そんな私に引く様子も全く見せたりなんかしない。目を逸らさず、まっすぐに。
「……………私は、ぼっちにもこれは言ったけど、恋愛経験はないから、郁代の想いが全部分かるわけじゃない。その痛みを、全部自分事みたいに分かってあげられないかもしれない」
ゆっくり、慎重に言葉を置いていく。そのたびに胸が静かに落ち着いていく気がした。
「でもさ、これだけは言える」
私は小さく鼻を啜る。続きを待つ。
「ぼっちはきっとさ、郁代のおかげで変わったと思うし、郁代にも救われてたんじゃないかな」
「………え?」
目が揺れた。こぼれかけた涙が、また落ちそうになった。
そんな、わけ。
「………ぼっちから見たら、あの歌にもあったように、何よりも郁代は星座そのものだったんだよ」
星座。目を見開く。強く、つよく、少しづつ。
「ぼっちはきっと、郁代に誰よりも憧れていて、一緒にいる時間を……大切に思ってたと思う」
「……!」
胸のどこかが、はっきり音を立てた。
チューニングが合う時みたいな、びん、っていう澄んだ音。
「それは、変わらないし変えられない事実だよ。そうでなきゃあんな歌詞を書いて、郁代に真っ先にそれを見せるなんて事をするはずない」
言葉の意味が、時間をかけて私の中に溶けていく。
あの日の、あの紙。あの震える指。あの「変じゃないですか……?」っていう声。私はそれを受け取った一番最初の人間だった。
「だからこれだけは言える。ぼっちなら、絶対に郁代のことを要らないなんて言うはずがないって」
嘘だ、そんな、そんなはず。
「…………ッッッ、〜〜〜〜っ、ぅ、うぅうう………!!」
だけど、それは、今私がいちばん言われたい言葉なんだって気付いて。
もう、それを聞いた瞬間に喉が潰れた。
両手で口を押さえないと叫んじゃいそうで、押さえたのに、それでも声が漏れて、溢れて、どうしようもなく涙が出てくる。
私は、捨てられてなんか、いないの?
私の全部が、まだそこにいてもいいのかな。
「……ごめん、上手く言えないし、こんな事言ったってしょうがないのかもしれないけど……郁代が、そんな風に思い詰めなくていい。もっと、自信持って良いんだよ」
リョウ先輩の手が、ぽん、ぽん、と私の頭を撫でる。
子ども扱いされてるのに、なんでこんな安心するんだろう。
お母さんにも、お父さんにも、こんなこと言えなかった。こんなに、安心できたこと、なかったかもしれない。
やっと、そこで私は気付く。
私が自分でひとりちゃんにあの日、話した言葉─────私がずっと憧れていた『第二の家族』の意味に、自分で。
伊地知先輩も、小さく息を吸ってから呟く。
「………あたしもね、そう思う。ぼっちちゃん、あたしにも言ってたよ? 私が文化祭ライブに、あの場所に立てたのは、結果的に喜多ちゃんのおかげなんです、って」
「だから私は結束バンドのみんなの為に、最高のギタリストになりたいんです、って」
胸の奥がぎゅっとなった。熱い。嬉しい。苦しい。また、息が詰まる。
「……郁代さ、あの歌の歌詞のフレーズ、忘れた訳じゃないでしょ」
リョウ先輩が静かに言う。
『つないだ線 解かないで 僕がどんなに眩しくても』
『つないだ線 解かないよ 君がどんなに』
そこで一拍だけ置いて、リョウ先輩は私をまっすぐ見つめて、少しだけ切なそうに目を細めた。
「─────────眩しくても」
「…………!!」
胸の奥がドクンって跳ねて、そこからまた、一気に涙が溢れた。まるで、世界中の『光』に当てられたような、そんな眩しさに覆われたような気がして。
もう、勝手に。勝手に、止めようもなく流れてくる。
あの歌詞、ちゃんと私のためだったんだ。独り占めなんてできないけど、でも、たしかに私にも向けられた、私だけのものでもあったんだ。そう思って、いいんだ。
「そんな歌詞を、真っ先に郁代に伝えたぼっちが、本当に郁代のことを要らないなんて思ってると、思う?」
リョウ先輩はそう囁くと、かがみこんで、今度はちゃんと両手で私の頭を撫でてくれた。やさしくて、壊れ物みたいに扱われることが、こんなに安心するなんて知らなかった。
「………っ、ぅぅ、ぁ、っ、うっ…………!!」
私は首を振った。何度も何度も振った。
違う違う違う、って。あの子はそんなこと言わない、って。ひとりちゃんがそんなこと私なんかに言ったりしない。ただ私が、私が勝手に許せないだけ。
分かってる。分かってるのに、怖かっただけなんだ。怖いから逃げただけなんだって。
「きっと、ぼっちは……どんなことがあっても、私達結束バンド皆にバラバラになって欲しくないと思う」
「私は編曲して……ぼっちの歌詞を見て、思った。きっとあの歌詞には、それが込められてる。ぼっちなりに、私達を大事に思ってくれてる」
「それに何よりも……郁代のことも。何があろうとも…………私達のことも、郁代のことも、関係を断ち切りたくないって」
「……きっとぼっちは思ってるんじゃないかな」
「………うん。あたしもそう感じたよ」
伊地知先輩も、涙でちょっと目のふちを赤くしながら頷いた。
「ぼっちちゃんが、喜多ちゃんの事も、あたし達の事も、何より……大事に想ってるからこそ、あの歌詞を描いてくれたんだ、って。言わなかったけどさ。ぼっちちゃん、そんなこと言ったら恥ずかしくて物理的に消し飛んじゃいそうだし」
「………そう。郁代に宛てた想いも在りながら……私達の曲でもあるんだよ、たぶんね。私は、そう感じてたし」
リョウ先輩は一度だけ川面を見て、細い息を吐いた。
風が草を撫でる音が一瞬だけ大きく聞こえた気がした。
それから私の方を見つめ直して、静かに、確認するみたいに尋ねてきた。
「………郁代は、ぼっちに傍に居て欲しくて、傍に居たくて……ずっと、これから先も、支えていきたかったんだよね?」
私はこく、と頷いた。喉がもうふさがってるみたいで、声は出なかった。
「………確かに、もうぼっちには大切な人ができて、たぶん……あの二人は両思いになるんだと思う」
吉沢くんのことだ。
ただ、胸がちくって刺さる。だけどそれは、刺さるだけじゃなかった。ちゃんと、あったかいものも一緒にそこに在ることに気づく。それが、具体的に何なのかは私には分からないけど、たしかにそれは感じる。
「………郁代が辛いのは、本当によく伝わってる。痛いくらいに」
そう言いながらも、リョウ先輩は私の頭を撫で続けてくれる。一定のリズムで、落ち着くまで見守るみたいに。
「でもさ……時間がかかってでもいいから」
ゆっくり、ゆっくりと言葉を置く。
「……それでも、私達は応援をしてあげようよ、ぼっちのこと」
その瞬間、私は、喉を小さく鳴らしながら、声を絞り出した。
「………っ、おうえん、して、あげたいです、ひとりちゃんのこと、大好きだから………!!」
それはもう、自分でもびっくりするくらい正直な声。
ずっと喉の奥で渋滞してた本音がやっと出口に辿り着いたような、そんな声。
「うん、それでいいんだよ」
「辛いと思う。苦しいと思う。でも」
リョウ先輩が静かに笑う。
あ、笑ってる。って思った。この人の笑顔、初めて、見た。ずっとずっと憧れていた、大好きな憧れの人の笑顔。この人が、こんな私なんかのために、そんな優しい言葉を伝えてくれる。それだけでまた泣きそうになる。
「ぼっちのためにも……私達はせめて、おめでとうって、ちゃんとお祝いしてあげよう。少なくとも、ぼっちが一番喜ぶと思うのは、そういう祝福だと思う」
「……多分あの子はずっと……中々そういう相手は出来なかったんだろうからさ。そんなぼっちに、やっとそういう人が出来たんだから」
「すぐには受け入れられなくてもいいから。だから……伝えてあげよう」
その言葉は、ずっと痛い。その祝福と祈りに満ちた言葉は、私の心にそっと雪みたいに降ってくる。
でも、痛いだけじゃない。きゅっと胸に、結び目が生まれたような気がする。まるで、苦しさと優しさが同時に結ばれていく感じだった。それが、星の線のようだとふと理解して、また、また泣き出してしまう。
「………っぅぅぅぁぁ、ぁぁあ…………せんぱいっっっ…!!」
両袖でぐいぐい涙を拭っても、次が止まらない。
もう制服も、顔も、全部全部ぐちゃぐちゃだ。目も真っ赤でブサイクだ。そんなのもうどうでもいいくらい、涙が出た。この人たちになら、『家族』みたいにこんな私に接してくれるこの人たちになら、見せていたい。
リョウ先輩は続ける。静かに、ここに関しては逃げ道をちゃんと残す言い方で。
「…………どうしても、踏ん切りがつかないなら、伝えてもいいと思う。ぼっちに、その想いは。………きっと、ぼっちなら聞いてくれると思うから」
言いながら、今度はリョウ先輩まで私を抱き締めてくれた。
両側から、ぎゅって。私は二人の制服を握りしめた。
「………こわいです………ッ! 嫌われたり、しない、か、こわいです……」
──────そうだ。怖い。私、怖いんだ。ひとりちゃんに嫌われてしまったら。もしも、距離を置かれたら。
言ってから、これが私のいちばんの怖さなんだって気づく。考えるだけで、自分が消えてしまいそうだった。やっと理解する。それは、どうしようもなく核心だった。
「もし、ひとりちゃんにこれで、距離を置かれちゃったら………!!」
それは、私がいちばん嫌な未来だった。たぶん、生きていけないくらい嫌なやつ。
結束バンドになんて、そうなったらきっと居られなくなってしまう。この人達とも、一緒に居られなくなってしまう。
リョウ先輩は一瞬だけ考えるように目線を落として、それからわざとあっさりした調子に戻した。
「大丈夫だよ。そんな風になるはずがないじゃん。ぼっちはあんな性格だしさ」
「うん、そーだよ」
伊地知先輩は少し泣きそうな顔のまま、それでも笑いかけてくれる。
「ぼっちちゃんなら……絶対、ちゃんと真摯に向き合ってくれるよ」
「…………っ!! …………っ、はい」
私は頷いた。ちゃんと頷いた。
震えながらだけど、ちゃんと。
「………ぅ、ううっ……、うあぁ、あぁぁあああぁん………!!」
とうとう、また子どもみたいに声をあげて泣いた。子どもの頃でも、こんなに泣けたことない。喉が潰れるくらいでかい声を出した。夜の六時すぎの空に、全部投げちゃうみたいに泣いた。
誰かに見られたら恥ずかしい?
そんなの、もうどうでもよかった。もう、何かもどうでもよかった。陽キャとか陰キャとか、そんなものどうでもいい、もう、どうにでもなればいい。
川の水面に街灯が揺れる。風が土手の草を優しく揺らす。世界はちゃんとそこにあって、私もぎりぎりそこにいて。
恋人なんて、いた事ない。恋愛経験なんて、友達との恋バナで盛り上がったことがあるくらいで、その実は全く無い。
でも、それでも私は─────ずっと分かっているようで全く分かっていなかった「愛」について、そこで気付いた気がした。
例えば。私があなたに会いたいと願っているように、あなたにも願ってほしいと思ったなら、それが「愛」だろうか。
あるいは私に会いたいなんて気持ちが湧かないほど、あなたに幸せでいて欲しいと願ったなら、それが「愛」だろうか。
それともあなたに会うためなら、あの出来事を────初めて、校門で声を掛けた───あの瞬間を、最初からもう一度繰り返してもかまわないと思えたら、それが「愛」なんだろうか。
その確たる答えは、私には結局分からない。それは明確な答えでも、正解でもないのかもしれない。でも、確かに思う事がある。
それでも私は、自分の思いを形にしていきたい。どんなに不器用でも、不細工でも。
それでも良いんだとこの人達が、教えてくれたから。
痛みも。嫉妬も、悲しみも。それら全部を超えて、夜空の星座へその思いを
それはこんな私の、ただ一つの、たった一つの願い。
─────ひとりちゃん。どうか、どうか。本当に幸せでいて。
─────その隣に、私はいられないけど。
─────でも、あなたが笑ってくれるなら、私、それでも生きていけるから。
─────本当だよ。うそなんかじゃない。つらいよ、すごく、すごく、悲しくてつらい。でも、でも私、ほんとうに、あなたが大好きだから。
─────何よりも「一番星」みたいな、あなたの笑顔が、大好きだから。
─────だから、お願い。あなたが、ただただ笑っていてくれますように。
─────どうか、ただあなたが幸せでいてくれますように。
「………すこし、落ち着くまで、三人でここに居ようか」
リョウ先輩がそう言って、草の上に腰を落とす。川の方を静かに見つめる横顔は、いつもよりもずっとやさしかった。
「…………………うん、そだね」
伊地知先輩が私の頭を撫で続ける。細い指先が、髪の根元をゆっくり梳く。そのリズムに、泣きじゃくる息が少しずつおさまっていくのが分かった。
川は流れていた。風も鳴いていた。でもさっきよりは、凄くそれを優しく感じる気がして、星もまた、少しずつ増えていってた。
それでも、明日は来る。
先輩達も、きっとそれをわかっている。だけど、それは敢えて言わないでいてくれてる。私も、自分でそれはすごく、凄く分かってるから。それでも、歩かなくちゃなんだよね。
うん。分かってる。分かってるの。
私もちゃんと、それは分かってる。でもそれでも、今だけは、もう少しだけ、あともう少しだけでいいから。今は、このまま泣いていたい。
私は伊地知先輩に体重を預けて、リョウ先輩の髪を撫でてくれる優しい手に甘えて、目を閉じた。
ひとつだけ、あの星座に願う。
それは、ひとりちゃんが私に最初に見せてくれた歌詞から、今度は私自身が伝え返したい願い。
ひとりちゃんと、みんなと集まって、星座になれたら。
ひとりちゃんと、みんなと出逢えてバンド仲間になれたことが。
この出会いと、「第二の家族」になれたということそのものが。
これをもしも、運命だって言うならば。
変われるかな。
夜の
だから、どうか。
つないだ線を、
お願いだから。
お願い、だから。
この世界でたった一つの、私だけの繋がりがどうか、解けませんように。
暗がりの野は一面、近くて濃い夜空の蒼に染め上げられていく。
間もなく、私にとっての世界の見え方はきっと形を変える。その中でそれでも、今の私はただひとつ、それだけを願って─────静かに空を仰いだ。