ぼっち・ざ・ろっく! フラッシュバッカー   作:空山 零句

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CHAPTER #26 「そこは、私の場所」

 

 

 STARRYのドアを開くと、まず匂いが変わった。

 

 それは学校の廊下とも、コンビニとも違う。

 埃っぽいのに甘いというか、湿ったスピーカーと床にこぼれた何かと、ほんのちょっとだけタバコと楽器ケースの布の匂いが全部まざったような、そんな濃い空気だ。

 

 鼻の奥にぴりっと来る。思わず高くない天井を見上げて、ふと気付く。たぶん、照明の熱がこもってるんだろう。

 薄暗いステージの上、スタンドマイクが数本そのままになってて、ケーブルが床に這っていた。がむしゃらに練習したのであろうバンドのその痕跡だけが、まだそこには確かに残っていた。

 

 隣に並んで階段を下りるひとりはその空気を吸った瞬間、ちょっとだけ背筋が伸びる。慣れてる匂いなんだろうなって、見てて分かった。

 

 俺は、まだそこに混ざってない匂いなんだと思うと、胸の奥が少しだけ熱くなる。

 

「……み、皆さん、いますか……?」

 

 ひとりが、おずおずと声をかける。

 ギターケースを抱えたまま首を伸ばして、ステージと客席の境目を彼女はきょろきょろ見渡す。まだ開場前なんだろうか。でも、もうすぐ時刻は十九時。

 本来なら、そこそこお客さんが来ていてもおかしくない頃合いのはず。箱ってこんな静かだっけ、って思うくらい、やけに静かだった。そういえば、と周りを見渡して思う。

 

「……ここ来るの、八月のライブの時以来だな……」

 

 俺も小声で呟く。自分の声が変に響くのが分かって、無性に緊張してそれは落ちた。

 

 よく見ると、ステージ前の床、白いガムテがバツ印みたいに貼ってある。「ここに立て」って目印だろうか。

 そこには今は誰もいない。客席用の黒い丸イス。あとは、休憩用のテーブルか何か。ぽつぽつ置かれた人が座っていないイスは、逆に目立つ。

 およそそれは、なんというか、空席っていうよりは置きっぱなしって感じのそれが正しい。

 奥の方にはスタジオの入り口らしき扉があって、「使用中」の看板が掛かっていた。

 

(あっ、居るんだ。他のバンド)

 

 よく聞くと、微かにボーカルとベースの声が漏れていた。どうやら、スタジオを使用しているバンドは居るみたいだ。

 

「……なんか、妙に静かだな? いつもこんな感じなの? ひとり」

 

「あっいえ……だいたい、水曜日はいつもはもっとお客さんもいます。そろそろ店長さんと交代して、虹夏ちゃんたちも練習してる頃だと思うんですけど……」

 

 ひとりが首を傾げる。ギターケースの肩紐をぎゅっと握り直して、舞台袖の方まで視線を送る。

 

「……あれ、来てない……?」

 

 確かに、その肝心の結束バンドが影も形も見えない。

 数時間前にインパクトが強すぎる対面をした経緯上、すぐに全員の顔が浮かぶ。虹夏。リョウ。喜多さん。……あの三人、彼女達の姿は全く無かった。

 

「あっ。後藤さんじゃないですか〜」

 

「?」

 

 間延びした声が、控えめにフロアに落ちる。

 そっちを俺達が振り返ると、ステージ横のPA卓のあたりでモップを持ってる人がこっちを見てた。

 

(──────な……)

 

 ……ちょっと待て。何だこの人。

 

 びっくりするレベルで綺麗な人が、そこには居た。

 ワンピース? ドレス? とにかく大人っぽいゆるい服を着ている黒髪ロングの女性。それだけならただ可愛い、で済む。だけど、困ったことに、それは肩までもまるごと出ている格好。

 長い黒髪はまるで絹糸か何かみたいで、背中どころか腰のあたりまでさらっとそれは落ちている。藍色のインナーカラーが光を吸って、青紫のライトの残りを柔らかく反射している。

 表情はふにゃっとしてて眠そうで、それでいてどこか退屈そうだ。

 

「あれぇ〜……結束バンドの皆さんはどうしましたか〜?」

 

 ぶかぶかで、指先どころか手の甲までずるっと呑みこんでいる萌え袖。そんな長い袖をそのまま口元に当てながら、彼女は喋りかけてきた。

 白い指先には細いリングと艶やかで、だけど主張し過ぎない自然な肌色のネイルが覗く。耳元には小さなピアスも揺れている。待て待て待て待て。

 色々主張強すぎだろこの人!!

 その時、チラ、と目が合う。少しだけこちらを見つめてきたあと「?」と首を傾げられ、クスッと微笑まれた。

 

「……!?」

 

 思わず、咄嗟に逸らす。その目は、何故か分からないけどちゃんとこっちを測ってる感じがした。

 彼女がこちらへ近づいてくるのが視界の端に入る。何やらその瞬間、ふわっと香りが流れてきた。

 

「………」

 

 なんというかそれは、甘いっていうより、夜の匂い。

 ちょっとスパイシーで、ちょっとウッディで、教室では絶対嗅いだことない匂い。意識したくないのに、勝手に鼻腔が反応する。

 な、なんだ、この人。なんなんだ。この、あまりにも大人っぽい女の人は。

 

「ひゃっ!? あっぴ、ぴぴ、PAさん……」

 

 隣でひとりが盛大に裏返った声を出して、肩を跳ねさせる。

 “PAさん” ? 名前は……分からない。名札とかも見受けられない。“PAさん”って、名前というよりどう考えても役職名でしかない。わざわざそう呼ばれる距離感は、どこかバンドの現場っぽさを感じる。何か理由があるのかな。

 ひとりはそのまま、声と身体を何故か震わせたまま続ける。

 

「……あっ、あの、虹夏ちゃんたちって、まだSTARRYに来てないんですか?」

 

「虹夏さんたちですか? あ〜……いえ、今日は一日見てませんね……」

 

 PAさん(と呼ぶしかないらしい人)は、モップの柄に顎を乗せたまま呟く。袖の中に半分隠れた口元を押さえて、やっぱりどこか眠そうに目を細める。

 

「店長もいきなり『今日だけは休ませてほしい』って言われたらしくて、半怒状態なんですよね……。まあ、今日はお客さん全然いないですし、ライブもやってない日なので運営上の問題は無いですけど〜」

 

 のんびりした口調なのに、言ってる内容はまあまあ爆弾じゃねえか。

 

「えっ……」

 

 ひとりは目を丸くして、あからさまに不安を顔に浮かべた。

 

「あっ、み、皆がいきなり休むなんて考えられないし、何かあったのかもしれないです……」

 

 その「何かあった」が、どの “何か” なのか。

 もう俺にはだいたい察しがつく。多分俺を警戒してたことの話か、あるいは────ついさっき虹夏たちと話したときの、あの空気。その中で、特に印象的だったのは特に喜多さん。あの子の顔に関することなのか。

 そのどちらかしか想像がつかない。

 胸のあたりが、きゅっと嫌なふうに締まる。

 

「あっあの、春樹くん、そういえばさっき虹夏ちゃん達と会ったって言ってませんでしたか……?」

 

「え? あー、うん。さっき色々あって虹夏達とは会ったよ」

 

 ひとりが不安そうに俺を見つめてくる。

 俺は頷く。ひとりは少しだけ安心と、逆に強まった心配をごっちゃにしたような顔をした。

 

「やっやっぱりそうなんですね……じゃあここで待ってたら戻ってくるのかな……」

 

「うん、かもな。多分、俺が入るって話をするなら五人で改めて集まる方がいいだろうし」

 

 そこまで言ったところで、PAさんがちょっとだけ目を開く。

 

「? 入る? 何のお話ですか〜?」

 

「あっえっあっ、あっあぁぁぁぁ後で説明します!!」

 

 ひとりが一瞬で顔面を爆破させた。いや、ほんとに。なんか、あれ? ひとり、やたらこの人の前で動揺してるな、さっきから。

 目はぐるぐる、頬は真っ赤、口はパクパク。

 可愛い。いや違う、そうじゃなくて。とりあえず君は酸素を吸え。

 

「ひとり、顔顔顔……」

 

「あっひゃ、あっ、ふぁい……」

 

 俺は小声でつつく。また顔面崩壊してる。怖いんだよなこの顔。

 たぶん今のこの子は、知らん人から見たら貧血の人だろうな。

 

(……っていうか)

 

 俺はふと、何となく横目でPAさんをもう一度見た。

 

 黒い布からぽっかり切り取られたみたいに白い肩。その少し上の華奢(きゃしゃ)な首と鎖骨のラインを、細く黒いチョーカーと金の円飾りがそっと揺れ動く。

 その感じが、なんか、見ちゃいけないものを正面から見せられてるみたいで、目のやり場に困る。

 黒なのに、光が当たると紫や深い藍色が薄くにじむ。肌は白いのに、目のフチはアイラインで少しだけ強調されてて、まぶたが(つや)っぽく見える。

 

「………」

 

 ダメだ、これ。まずい。意識したくないのに、勝手に視界がこの人の情報で埋まる。なんだよコレ。

 この人の姿を見て、確信する。

 それは所謂(いわゆる)「大人」ってカテゴリにいる生き物。クラスの女子とは、さながらぜんぜん別の存在。

 なんか、“夜の世界の人” ってこういうのを言うんだな、みたいな。

 そんなアホみたいなことが頭をよぎる。こわい。いや、こわいっていうか、これは反則だ。

 

(すんげー……美人だな、この人……)

 

「……………」

 

(……いや、いやっ、まあ、ひとりのが……可愛いけど……)

 

 そこまで思って、自分でちょっと赤くなる。な、何言ってんだ俺は。

 そんなの当たり前だ。ひとりの方が可愛いに決まってる。

 だから、一瞬でもこの人の(あで)やかさに魅了されかけた自分が悔しい。頭を軽く振る。

 そして俺は、そっとひとりの前側に立つ。体を半歩だけ隠していたのをさらけ出したタイミングで、PAさんが首を傾けてきた。

 

「……あれ? あのぅ、先程から気になっていましたが、後藤さん。その後ろにいる男性の方は……?」

 

 あ、詰んだ。寄りにもよってひとりにそれを振るのか。

 この人のさっきの俺への目線、やっぱり気のせいなんかじゃない。口調はのほほんとしてるのに、どこか鋭さも感じていたんだ。きっちり俺の事を観察してたんだな。

 その時、案の定ひとりの肩がビクッと跳ねて、顔がバグる。言わんこっちゃない。

 

「あっ……! あぁぁぁえと、こ、こ、こよひとは、えと、その、わわわわ私の友人でして………!」

 

「えっ、友人なの?」

 

 最早言語が成立しちゃいない。

 思わず俺はちょっとショックを受けた声を素で出してしまった。

 いや友人って。いやまあ間違ってはないのか? でももうそれじゃ済まない立場にも、なっただろ今日は。えっ、そうですよね? そうだよねひとりさん!?

 

「あっ!? あっえっと、いやその、違くて、ぁああぁあえと……!!」

 

「………」

 

 ひとりの口が完全にショートして、助けを求める目で泳ぐ。

 ダメだこりゃ。なんとも言えない気持ちになりながら、遠い目で俺はそんな彼女を見つめ返す。

 こういうときのこの子は、なんというか、分かりやすくほんとすぐ溺れる。

 

「…………あー……」

 

 PAさんは、瞬き一つ分だけ間を置いて、口を僅かに開く。

 それはもう完全に「あーこれ多分そういうやつだな」って全部察したような、そんな顔だ。そして、すすす、と俺の正面まで距離を詰めてくる。

 

「ッ!?」

 

 ちっ、近い。甘い匂いがふわっとして、それだけで一瞬頭の中がふつうに真っ白になっていく。それは、毛先が肩にかすかに触れるほどの距離。

 

「あのぅ。まさかと思いますけど……」

 

 一拍。

 

「もしかしてぇ……後藤さんの、彼氏さんか何かですか?」

 

「………ッ!!」

 

 とろん、と細い目つき。まるで猫みたいな柔らかなその視線に半端でなく心臓が跳ね響く。ついでにその言葉が落ちた瞬間、ひとりが爆散した。

 

「あ゛っえっ、っぁひゃあああああ!?!?!? 違うんです違います違います私みたいな陰キャにかかかかかかか彼氏なんかいるはずありませんよ本当に誤解ですぅううう!!」

 

 手がぶんぶん振られてる。

 顔はもう赤通り越して真っ白。目はフラッシュ焚かれたウサギみたいだし、声は裏返りすぎてもはや別の周波数に行ってる。ひとりのパニックって物理現象なんだなって、ホントに改めて思う。

 

「……そこまで否定されると流石に傷つくぞひとり……」

 

 俺はもはや苦笑するしかない。

 

「ひぇえぇああっ!? ごめんなさいぃいいぃいい!?」

 

 ひとりはそのまま土下座しそうな勢いで頭を下げる。いや、そこまで謝られると逆に困るんだけどな……。

 PAさんの方へ目線を戻すと、彼女はそのままじいっと俺たちを見つめる。目尻を少しだけ上げて、口元を袖で隠したまま。うわぁ。すげぇ生暖かい視線を感じる。

 すると彼女は、ドレスかワンピース(?)っぽい服の萌え袖から指先だけをちょこんと覗かせる。やがて、のほほんとした笑顔に、にやぁ、と静かな笑みを浮かべた。

 

「な〜るほどぉ………先程から聞こえてはいましたが、名前呼びまで。あら〜これはぁ〜〜〜……」

 

「ちちちち違いまぁあぁああああ………!!」

 

「………あー……えっと」

 

 ダメだこれ。もう無理だ。横目で彼女を見つめて、なんて返すべきか悩む。

 ひとりの脳内がショートしっぱなしで、もはや何言ってるのか俺も分からなくなってきたので、仕方ない。

 こうなったら、もうひとりへ助け舟を出そう。俺は息を吸って、覚悟を決める。

 

「あ、えっと、そですね。一応彼氏です」

 

 はっきり言った。俺の声が妙にSTARRYのフロアでよく響いた。

 

「あっびゃあああああああああああ???!!?!」

 

 隣でひとりが、今度こそ物理的に崩壊した。俺の声よりも更に、フロアへその悲鳴は響き渡る。

 カラカラカラッて、精神のネジが床に転がる音が聞こえた気がした。あれ、おかしいな。幻聴かな。俺疲れてんのかな。

 PAさんは目を細めて、またにやぁっ、と笑う。夜を思わせる匂いのまま、それはそれは楽しそうに。

 

「へぇ〜……ふふっ。やっぱりそうでしたか〜。おめでとうございます〜〜〜」

 

 祝福、だった。

 きっとそれは悪意なんか全然無いのだろう。それは何となくわかる。ただ、ちょっと面白がってるのも察しがつく。

 まあそりゃオモシロイだろうな、他人の色恋なんて。虹夏も似たようなこと言ってたけど、俺も逆の立場ならちょっと思うもん。

 

「ふ〜ん……」

 

「……!?」

 

 すると急にPAさんは俺の周りをゆっくり回るように近づいてきた。その時、ひとりの何とも言えない声も隣から耳に入る。「……え」

 

「えっちょ、な……何をして……」

 

「ふむふむ………ほぉ……」

 

(な、な、なっ………何してんだよ、このひと……!?)

 

 だから、さっきからこのひと、何か距離が近い。

 袖口、髪、アクセ、全部が揺れるたびにまた少しずつ匂いが変わる。上から覗かれたり、下から覗かれたり、横から覗かれたり。

 そのままゆらゆらと、まるでクラゲが揺蕩(たゆた)うみたいにPAさんは揺れ動く。その動きは、妙に艶やかで困る。頬が、勝手に熱くなる。

 

「……ふ〜〜ん……へぇ……」

 

「っ…………な、なな、何ですか!?」

 

 正直に言うと、ドキッとせずにはいられない。声が、変な風に上擦る。

 こんな至近距離で女の人に見られることなんて、これまでなかった。

 しかも、柔らかい曲線の身体つきが服の上からでも分かるし、耳元のピアスの光が喉のラインに落ちているのが視界の端に入ってくる。

 

「……ふふっ、なかなか良い男の人じゃないですかあ〜〜……」

 

「可愛いですね」

 

「ッッッ………!? な、な………っ!?」

 

 そういって、PAさんは俺に妖しく微笑んできた。待て。

 男の、「人」と言ったか。男の「子」じゃなくて? 

 いや待て、その言葉、聞きようによっては勘違いしてしまうからホントやめてほしい。

 不覚にも、心臓が脈打っている。な、なん、だ、この表情。一体何を考えて企んでいるのか、まるで読めない。

 声が低めで、じわっと、溶けたバターみたいにとろりと耳に残る。

 初めて異性から可愛いなどと言われて、半端でなく動揺しているのが自分でも分かる。なんだよこの人、なんなんだ。教室の女子とはあまりにも違いすぎる。

 大人の女の人って、みんな、こんなんなのか。やばい。頭おかしくなりそう。

 その時。

 同じタイミングで右側から────ちいさなこえがした。

 

「…………ッ、ぁ…………」

 

「っ!」

 

 その瞬間。きゅっ、と右袖が引かれた。ひとりの、こえ。

 

「〜〜〜〜〜………っ、は、春樹くんっ………!」

 

「……っ、ぴ、ぴ、PAさんっ…………!!」

 

 ひとりの俺と彼女の名前をか細く呼ぶ声が、小さく響く。ピタッ、とPAさんと俺は動きを止め、ひとりへ視線を向ける。

 

「………え」

 

 ひとりを見つめ返した時、俺は思わず目を見開いた。

 彼女はぷるぷる震えながら、顔真っ赤のまま、下を向いたまま、俺の袖をぎゅうっと掴んでいた。

 それは、ほとんど涙目みたいな顔だ。

 

「──────────」

 

 えっ、待って、なに、その顔。

 

 それはまるで、と気付く。

 俺はハッとする。胸が一気に鳴った。

 

(……えっ? ……………まさ、か)

 

(今のひとりの、その顔………)

 

 多分、これは自意識過剰とかじゃない。そのひとりの瞳は、ひどく切なげで、何かを、やめて欲しげな顔に見えた。

 だけどそこに見えたのは「やめてください」とか「離れてください」とか、そういうちゃんとした言葉じゃ、多分無い。きっと、もっと幼いやつ。もっと本能的なやつだった。

 それは、言うなれば。

 多分、“そこは私の場所” って。そう言おうとしてるのだと、直感的に分かった。一瞬にして、理解した。

 

(──────嘘、だろ)

 

(………ひとり、嫉妬して、くれてるのか?)

 

「…………ッッ」

 

 俺は、不覚にも。それを、信じられないくらい可愛いと思ってしまった。

 同時に、頭が切り替わる。

 視界が、ひどくクリアになった。

 後頭部を思いきり金槌(かなつち)で殴りつけられたような、白い衝撃が目の前に響く。腹の底から自分へ怒りが湧き上がる。

 

 なに、ドキドキしてんだよ、俺。バカか。

 

 なに浮かれてんだ、クソ野郎。俺は、決めたばかりじゃないか。

 俺はいま、“ひとりの彼氏”って口で言ったばかりなのに。だったらその重さをちゃんと背負え。そして、小さく唇を噛む。

 

「! あ……」

 

 PAさんも、そこで「あ、やりすぎたかな」って顔をして少し後ろに下がった。頬の汗をぬぐって、申し訳なさそうに微笑む。

 

「……ふふっ、ごめんなさい。後藤さん。久しぶりにこんな可愛い男の子見つけたので、ついイタズラしてみたくなっちゃって。悪気は無いんです」

 

「………ッ」

 

 “可愛い男の子”だって? また可愛いとか言いやがる。何言ってんだこのひと。もうやめろよ。やめてくれ。

 面と向かって言われて、ちょっと心臓が止まりそうになった。いや、これは動揺するだろ。畜生。

 

「私こそ、ごめんなさい」

 

「春樹さん、でしたかね。あなたも」

 

 そしてそのまま、PAさんは俺とひとりへぺこっと頭を下げる。やがて俺へも直接顔を向け、穏やかに、少しだけ困ったような顔をして謝ってきた。

 その態度はとても誠実で、イヤらしさや悪意はまるでそこには感じない。本当に、ただ興味本位だっただけ、みたいな。そんな感じはした。

 

「あ、い、いえ……俺は別に……」

 

 両手をぶんぶん振りながら答える。

 悔しい。悔しいけど、内心ではまだ鼓動がバカみたいに速い。ひとりという大好きな子の目の前で、この人に一瞬でも見蕩(みと)れてしまった自分を、後ろから助走をつけて殴り倒したくなった。

 

「………っ、ひ、ひとり?」

 

 ふと、慌てて横を見る。するとひとりは余計に赤くなって、でも袖を離して、また俯いて、小さく小さく縮こまっていた。すると、慌てて彼女は何度も頭を下げる。

 

「……っ! ご、ごめんなさい………」

 

 震える声で、ひとりは俺にそうして謝ってきた。な、なんで。

 どうして謝るの、って言いそうになって、飲み込む。

 

(……………バカか、俺。そうじゃない)

 

 そうだ。

 この子はこういうとき、まず「自分が変なことをして迷惑をかけた」っていうことにして、自分を一番後ろに押しやる。

 嫉妬って言葉を自分に貼れないんだ。

 胸が苦しいとか、なんか嫌とか、そういう形のないもやもやのまま抱えちゃって、そして謝る。

 俺がずっと話してきた後藤ひとりという子は、きっとそういう女の子なのに。

 何やってんだよ、俺。クソ。そんなこと、これだけ話してたら分かりきってたことのはずなのに。情けないにも程がある。これで彼氏なんて、笑わせるな。

 

 それをハッキリと認識したその瞬間、俺は本気で思った。

 

 絶対、泣かせたくない。この子を、泣かせるなんて、有り得ない。そんなの、ダメだ。そう思って一瞬強く目を瞑り、腹に力を入れていた、その時。

 

「……ふふっ、何だか初々しい感じがしますね。二人とも」

 

 PAさんの、くすくす微笑む声が耳元へ届いた。

 

「えっ………あっ、そっそれってどういう……」

 

 ひとりは何やら困惑した様子でそう呟いては、彼女を見つめ返す。

 彼女は萌え袖で相変わらず口元を隠したまま。でも、どこかいたずらっぽい目のまま、PAさんはそうして俺たちを順番に見つめてくる。

 

「言葉通りですよ、後藤さん」

 

「……春樹さんも。後藤さんがいるなら、私にドギマギしちゃダメですよ?」

 

「ね?」

 

 そういって、PAさんは小さくウインクする。

 

「……ッ!」

 

 それが、ありえないほど大人の女性としては綺麗で、あざとくて。だけど、全く下品じゃない。

 だから、不意に俺はまたその姿に目を奪われずにはいられない。また悔しさが無意識に喉奥に軋む。

 

「へっ……えっ?」

 

 ひとりはきょとんとする。

 俺とPAさんを交互に見て、さらに真っ赤になる。

 

「ッ……べ、別にしてないっす……」

 

 俺は、PAさんの姿に揺れた自分が悔しくて、俯かせていた顔を勢いよく上げる。

 

「─────っ、いや、俺はそもそも、ひとりが好きなんでッッ!!」

 

 勢いで、俺はひとりの肩をがしっと掴んでいた。胸の奥が勝手に口を動かす。

 その宣言は、まるでドラムの音のようにしっかりとした輪郭を保つ。言ってから、遅れて顔が熱くなってくる。だけど、知るか。ここで引くつもりはなんかない。これ以上の本心なんか無い。

 

「へぅっ!? あっ、ぁ、ああぁぁぁあ、あああ………!?」

 

 あっ。しまった。

 その瞬間、ひとりが肩を跳ねさせて、全身を真っ赤にして、顔面が一瞬で粒子になりかける。あっまずい。

 ヤバいこれ本当に崩れるやつだって思ったその瞬間には、もう身体がサラサラと床に散り始めていた。

 

「あ、後藤さんが粒子化し始めてる……」

 

「うわぁぁぁあああぁぁっ!! ひとりぃぃぃぃいい!?」

 

 PAさんが汗を垂らしながら妙に落ち着いた声で言うのを横目に、俺は慌ててちりとりを手に取る。

 まるで普段から見慣れているかのようなリアクションぶり。そもそも何で人間が粒子化してんだ。

 っていうかなんでライブハウスにちりとりが常備されてるんだよ。いや、常備されてるのおかしくない? これって日常茶飯事?

 

 

 

 

 

 

「……………」

 

 閑話休題(かんわきゅうだい)

 かき集めては復活し、復活してはまた赤面して崩壊しそうになり、を何度か繰り返して、ようやくひとりの呼吸がゆっくりになっていった。

 

「……っはっ……すみません……」

 

 やっとのことでまともな人間の形に戻ったひとりが、ちいさく謝る。

 その頬はまだ真っ赤で、髪はばさばさに乱れている。

 目尻には涙の名残がきらきらしていて、正直言ってそれは可愛すぎてこちらが死ぬ。だけど文字通り霧散するのは流石に聞いてない。

 この子、やっぱり地球外生命体なのかもしれない。我ながらホント、色々な意味で凄い子を好きになったよな、とこれまた遠い目になった。

 

 そのときだった。

 

 ガチャ、と入口のドアが開く音が響く。

 階段の方から靴音が複数、こっちに近づいてくる。それと同時に、ひとりの肩がぴくっと跳ねる。

 

「!」

 

 そっちを振り向くと、見覚えのある三人がこちらに立っていた。それは虹夏、リョウ、喜多さんの姿だった。

 

 

 

 

 

 

 

 






PAさん、えっちでいいよね。好き。
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