ぼっち・ざ・ろっく! フラッシュバッカー   作:空山 零句

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CHAPTER #33 「星空と、はじめて繋いだ手」

 

 

 アスファルトを踏む靴の音が、二人分、リズムを刻む。

 さっきまでいたライブハウスのざわめきはもう遠くて、代わりに聞こえるのは、車のタイヤが路面を擦る音と、信号の電子音だけ。

 ふと、ひとりが顔を上げた。

 

「きっ今日も、よく星が見えますね……」

 

 俺もつられて空を見る。

 街灯やビルの光に負けながらも、その隙間を縫うみたいにして、小さな星がいくつか瞬いていた。今日だけで、幾度もこの空の点を眺めた気がする。その中で、一際輝く『一番星』を俺はまた見つける。

 アレはきっと、ステージのライトとも、ギターのシールドランプとも違う光。遠くて、届かないけど、そのくせ昔から俺たちに勝手に名前を付けられてきた存在だ。

 

「……あぁ、そうだな。珍しいよな、下北沢でここまで見れるなら、他はもっと綺麗なのかもな」

 

 言いながら横を見ると、ひとりはほんの少し肩の力を抜いて、穏やかな顔で空を見ている。さっきまでの緊張と不安から、少しだけ解放された顔だ。今日は本当に色々あったし、ひとりも疲れているかもしれない。

 視線がふっとこっちと交差した瞬間、ひとりは慌てて俯いた。

 

「? どうしたの?」

 

「えっあ、いえ、その……ただ、少し、緊張してる、っていうか……」

 

 足元で、彼女の革靴のつま先がちょこんとアスファルトを蹴る。その仕草が妙に可愛くて、つい口が勝手に動く。

 

「……手でも繋ぐか?」

 

 半分冗談で、半分本気で。自分で言っておいて、心臓の鼓動が一拍強くなる。頬が堪らなく熱くなる。だけど、繋ぎたいのはどうしようもなく本音だ。

 

「え!? あ、え、えぇぇ!? アッえっ、あっえっと……!」

 

 ひとりはいつものごとく顔を真っ赤にして、全力であたふたし始めた。気のせいか、彼女の肩と髪の輪郭がスライム状にまた溶け始めている。うーんいつもの。参ったな、また形を整え直してあげなきゃか。

 でも、分かってたからこそ言った言葉ではあれど、やっぱり反応が想像の三倍は可愛いから困る。

 

「……嫌? ほら、一応……ちゃんと、お互いに恋人同士になれたんだし、さ」

 

 そう付け足す俺の声も、ほんの少しだけ上擦ってる気がする。

 それを聞いたひとりは音速の如く首を左右に振りまくる。速すぎて残像が見えるんだが。

 

「い、いいいいえ!! 嫌なんて、そっそそ、そんな事は決して……! ただ、その、ここ、外で……!!」

 

 言い訳を探すように真っ赤な頬のまま視線を泳がせるひとりの手は、袖の先でぎゅっと握られていた。とうとう身体の形があまりの恥ずかしさからなのか、崩れ始めている。

 

「はい身体溶かさない。今なんてほら、周りに誰もいねーし、居ても誰も気にしないよ」

 

 そう言って、俺はそっと手を差し出す。

「こっちだよ」って差し伸べられたライトのスイッチみたいに、掌をひらく。

 

「だから、……ね? ほら」

 

「………っ」

 

 元に戻ったひとりは、長い前髪の向こうで大きく瞬きをして、立ち止まる。俺も合わせて歩みを止めてゆっくりと待つ。彼女はあまりの恥ずかしさからか、まるでリンゴみたいにとんでもなく赤い顔のままギュッと瞼を閉じる。やがて、ふるふる震えながらも、そっと華奢な細い指を俺の手へ重ねてきた。

 指先が触れた瞬間、ひやっとした。

 冷たい、というより、それはなんというか、緊張と夜風で体温を奪われた小さな手。

 

「…………へへっ、やっと手、繋げた」

 

 いかんともしがたいほどに、嬉しい。

 勝手に頬が弛む。口が勝手にはにかんで、俺はそう呟く。するとひとりは恥ずかしさに耐えられないのか「……っ、ぅ、〜〜〜っ……」と震えている。可愛い。でも、手の冷たさも相まって少し心配になる。

 

「…………………寒い?」

 

「えっ、いっいえ!? その、だ、大丈夫です! こ、これくらい平気、です!!」

 

「あの、その、はじめて、なので………こんな、こと」

 

「………っ」

 

 はじめて。ひとりの、初めての手を繋いだ相手なのか。俺が。

 ヤバい。考えるほど胸が踊る。身体中が嬉しさで熱くなる。ひとりはそのまま震えながらおずおずと俯く。

 

「むしろ暑いくらいで……それよりも汗ばんでて、ききき気持ち悪いですよね、無価値な手でゴメンなさい……」

 

「いっ、いや!? 全くそんなことは無いよ!」

 

 相変わらず見てるこっちも切なくなる程の自己肯定感の低さ。

 余りにもか細くて、折れそうな、そんな姿。

 だけどちゃんと俺の手を握り返してくる力がある。冷たさごと包み込んで温めてあげたくて、指を絡めてぎゅっと握る。

 

「ひゃぅ!?」

 

 指が絡んだその瞬間、肩をビクッとはね上げてひとりは素っ頓狂な可愛い声をあげる。ますます頬が赤くなるのが見えて、見てるこっちもたまらなくなる。なんていうか。冷たいけど、すごく柔らかくて、ちゃんと女の子の手。意識すると、ヤバかった。

 異性と手を繋ぐのって、こんなに、こんなに嬉しいものなんだろうか。

 なんとなく、自分でもやってて凄く恥ずかしくなってきた。

 

「……なんか、やっと彼氏彼女っぽくなったんじゃね?」

 

 だけど、ひとりにはそれをあまり見せないように少しだけ照れ隠し気味に言うと、隣でひとりが耳までも一気に赤くなった。

 ただでさえ赤い顔が完全にもう一度、茹でダコみたいになってしまう。

 

「え……へ、へ、へひゃ、ひゃぁぁぁぁぁぁっ?!!」

 

「や、やめてくださいそういうこと言うのをぉぉ……!! 恥ずかしいですッ、私の中の承認欲求モンスターが抑えられなくなりますからぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

「うわっまた人の形を失いかけている……ロックすぎる………!!」

 

 まーた身体の形が崩れている。今にも溶けて道路に染み込んでいきそうなその反応に、思わず笑いそうになる。うーん、こりゃ笑ったら地面に染み込んじゃうだろうな。

 こんな所でボジラなんて生まれても困るのでぐっと堪える。

 するとひとりは少し申し訳なさそうな顔をしては慌てて人の形を取り戻す。そのまま、上目遣いで俺の方を向く。やっぱ可愛い。

 

「ハッ、ご、ごめんなさい……!」

 

「………〜〜っ、その、本当に嫌じゃないですか? 私なんかと手を繋ぐの」

 

 それを聞いて、少し困ったような気持ちに俺はなる。弛んだ頬のまま、これ以上ない本音を呟く。

 

「……一目惚れした女と手を繋げて、気分が嫌になる野郎がどこの世界にいるんだよ」

 

 それは本当のことで、だからこそ口に出した瞬間、自分でも顔が熱くなる。仕方ない。自分の命より好きな女の子と手を繋げるんだから、これくらい言わせて欲しいもんだ。

 だけど恥ずかしいのは事実なので、星明かりの下で、頼むから夜風に紛れてくれ、とも心の中で思わず願う。

 

「……っ、はぃぃぃぃ…………」

 

 ひとりの左手が、俺の掌の中で小さく震える。その震えは、心臓の鼓動と同じリズムで、さながら早鐘のよう。俺の中にも伝わってくる。余りにも可愛くて、見てるこっちがどうにかなりそうだった。

 

 

 

 

 

 

 少し歩いて、さっきまでいた河川敷の橋へ通じる小路に通りかかった。なんとなく、そちらに目をやる。暗がりの中で、あのときのひとりの泣き顔と、喜多さんの真剣な声が頭の中でフラッシュバックした。

 そこで、隣で同じ歩幅のひとりの方へ向いて問い掛ける。

 

「……喜多さんとのこと、落ち着いたんだな?」

 

 出来るだけさりげなく、そう訊いた。

 気にしてないふりをしながらも、さっきの会話の断片が耳の奥に残っている。

 

「はっはい。たくさん話しました。お互いの気持ちをちゃんと言えたから……もうきっと……大丈夫だと思います」

 

 ひとりの表情はどこか晴れやかだった。

 胸に引っかかっていた棘を一本抜き終わったみたいな顔のようで、見てるこちらも心から安心する。

 

「……そっか。良かった」

 

 本気でそう思う。安心して、なんとなく瞼を閉じる。

 

「………あのさ、ひとり」

 

 俺は、夜空を仰いで問い掛ける。

 

「気を悪くしないで、今から言うこと聞いてくれるか?」

 

 これは、ちゃんと言わなきゃ誠実じゃない気がする。いくらひとりが心配だったからとはいえ、多分、あの会話は聞くべきじゃなかったように思う自分も居る。

 ひとりは不思議そうに首を傾げ、俺を見上げながらギターケースを背負い直す。

 

「? あっはい、なっ何ですか……?」

 

「…………ごめん」

 

 真っ直ぐに、隠しようもないほど正直に、俺はひとりへ謝る。

 

「あんま、デリカシーないかもだけど、聞いちゃったんだ。君と、喜多さんとの会話」

 

「……さっきの、河川敷前の遊歩道での会話をさ。心配で。様子を見守ってるからとは、確かに言ったけどもね」

 

「会話は、本当は聞かないようにしたかったけど……でも、ごめん。正直、気になったのは本当で」

 

 ひとりは少し驚きつつも、穏やかな表情で頷いた。口元はどこか柔らかく、微笑んですらいた。

 

「……そう、なんですか」

 

「……怒らないのか? なんなら、リョウも虹夏も、……隣の雑木林みたいなとこあったろ? あそこで俺ら三人で話、聞いてたんだぞ? 何かあったらまずいなっておもって、心配だったからさ」

 

「え、リョウ先輩や虹夏ちゃんもですか!?」

 

「うん、そうだよ。アイツらも、心配してたからさ」

 

「………」

 

 流石に一瞬戸惑ったかのように彼女は目を開く。だけどすぐにまた柔らかな顔に戻り、恥ずかしそうに微笑む。すこし、困ったようなそんな笑み。思わず見蕩れてしまう。

 

「……そっそれなら、聞かれちゃいましたか。喜多ちゃんから、言われたことも」

 

「うん、そう……だな」

 

 小さく頷く。

 

「……そ、そっそうなんですね……」

 

 彼女は顔を赤らめつつ、ただ俯く。なんとも言えない気恥ずかしさと、ほんの少しだけその先の言葉に悩む。会話が数秒ほど止まる。

 僅かな間は、普通なら気まずく感じそうなものだったのに、不思議とそうは思わなかった。ひとりは俺の様子を伺うようにチラチラとこちらを見つめているのが分かる。

 

「……………」

 

「……………」

 

 そこで俺も、見つめ返す。お互いに目が合って、少しだけ目を逸らす。頬が熱いのは変わらない。気まずいどころか、ただただ恥ずかしい。

 一言だけ、俺は呟く。

 

「ごめんな。その、心配だったとはいえ、会話聞いちゃってさ」

 

「いっいえ、分かってます。春樹くんが、私のことを想ってそこに居てくれたこと、ちゃんと分かってますから。それに、それは虹夏ちゃん達も、きっとそうなんだろうなって思ってますし」

 

「そっ、その……それに、言ってくれたじゃないですか。何かあったら、その」

 

 そこでまた赤い顔のまま、ひとりはそっとまた視線を上目で向けてくる。

 

「まっ守るから、って。うっ、嬉しかった、です」

 

「あっ……その、凄く正直……心強かったんです」

 

「………」

 

「そっ……か。よかった」

 

 俺はそれを聞いて、たまらなく嬉しくなる。謝ろうと思ったのに、どうしてか俺の方が励まされた様な、そんな妙な感じだった。良かった。俺達はそこで信号を渡る。

 渡り終えたタイミングで、俺は言おうと思っていたことを、伝える。

 

「……なぁ、ひとり」

 

「? あっはい……?」

 

 静かにひとりは俺をまた見上げ、耳を傾けるように目を見開く。

 ひとりが誰かとちゃんとぶつかって、それでも「また明日」を約束出来てることが、俺にはたまらなく嬉しかった。

 でも同時に、と思う。

 心のどこかで、小さな不安も顔を出していた。

 

「………もしも、さ」

 

「もし、俺がこないだ君に告白してなかったら、喜多さんとのこと、考えた?」

 

「えっ……!?」

 

 自分の口から出た質問が、思ったよりも生々しくて、一瞬だけ後悔する。半端でなく女々しい気がして自分でも嫌になる。でも、もう聞いてしまった以上は反応を待つしかない。

 ひとりは目を見開いて、すぐにどこか複雑そうな顔で視線を下ろす。

 

「……それは……正直、よくわからないんです」

 

 ひとりは俯いて、真剣に考えてから答えた。

 

「わっ私、今までずっと、ギターばっかりだったので……恋愛とか、そういうの、全然分からないんです。だから、上手く言葉にできないというか」

 

 その言葉は、ずっと彼女とこの三日間の間言葉を重ねてきた俺には、ちゃんと腑に落ちる。紛れもなく気遣いでもなんでもない、本心だとすぐに分かった。

 この子の人生のど真ん中には、いつもギターが座っている。その隣に、人の顔が入り込むスペースなんて、きっとほとんど無かったはずだ。

 だけど、夕方のとき。天気雨が周囲に満ちていて、小さな虹が黄昏時の空にその姿を見せていた時のことを思い出す。

 

「でも、さ。その割に、今日とか事故りかけた時……ひとりの方から、好きって、言ってくれたよな」

 

「っ……!!」

 

「あれは、どうして?」

 

 ひとりはまたもビクッと肩を揺らして顔を赤く染める。聞きながら、あの瞬間のことを思い出す。

 車のライト。タイヤの擦れる音。咄嗟に伸ばした自分の手。腕の中で震えていたひとりの、泣きそうな声。忘れようはずもない。

 

「……それは、その……こわかった、んです。春樹くんに、何かあったら……って、考えたら、こわくて、こわくて……たまらなくなって」

 

 夜の空気に紛れて、その震えた声が耳に届く。

 

「まだ、上手く言えないんです。私にも、よく分からなくて……あの時の、こと。気付いたら、口から、零れたんです」

 

「失いたくない、春樹くんともっと、もっと話したいって、もっと、私の演奏を……春樹くんに、聴いて欲しいって、思ったから……」

 

 ひとつひとつ言葉を探していく様子が、伝わってくる。

 それはきっと、ギターを弾くときに音を選ぶ彼女の指と、同じくらい不器用で、同じくらい真っ直ぐだ。その言葉を選ぶ仕草すら、愛おしいと思う。俺はそのまま、小さく「……うん」と頷く。

 

「……す、すみません。上手く言葉にできなくて。でも春樹くんのそばにいると、心がドキドキして、安心できて」

 

「その、暖かくなれるんです……」

 

「あっ……こんな感覚、初めてで……これが恋なのかなんて、まだ分かりませんけど、でも、それでも、私は……」

 

 そこまで言って、ひとりは言葉を飲み込む。

 言葉の続きは、繋いだままの手の震えが全部教えてくれている気がする。今の紡がれた言葉だけでも十分だった。

 

「……謝らないで。いま、やっぱ確信したから。……ひとりは、俺なんかの事、本心から好きになってくれたんだなって」

 

 自分の声が、思っていたよりも掠れている。だけど、同時に安心もしている。

 

「…………っ、はい!」

 

 ひとりはぱっと顔を上げて、真っ直ぐ俺を見る。最初は、当たり前のように全く目が合わなかったのに。

 いつからか、ひとりは俺の目をたまに見てくれるようになった。そうして、彼女は少し目を泳がせながらも、再び頬を真っ赤にして俺に囁く。

 

「……すっ好き、です。春樹くんのこと。大好きです」

 

 ふへ、といつもの情けない笑い方をしながら、それでもこれまでで、きっといちばん柔らかい笑顔でそう言う。

 

「………………っ!!」

 

 その言葉が、我慢を許してくれなかった。

 堪え切れず、俺はひとりを抱きしめた。

 

「きゃっ……!?」

 

 細い身体が腕の中に飛び込んできて、制服の下、Tシャツ越しに感じる鼓動がドクドクと速い。それはきっと、俺の心臓と同じテンポだろう。

 

「ッ……は、はるきく、ん、いい匂い、します」

 

「……………そういう、ひとりも」

 

 肩越しに香るシャンプーの匂いは、どこか泡みたいで、優しい。

 メリットっぽい匂い。昔、親に洗ってもらってた頃の風呂場を思い出す。追憶の中に眠る香りが、少しだけ心を濡らす。

 

「……………っ、へへ、うへ、………はっはるきくんの、におい………陽だまり、みたいな、やさしい、匂い……うへへ」

 

 そんなことを言われて、笑いそうになりながら、でもそれ以上に胸がいっぱいになる。不器用で怪しげな笑い方をするひとりが、あんまりにも可愛すぎる。

 心臓からぞわぞわと、愛おしさと嬉しさが溢れて全身へ染み渡っていく。君にこの想いが、この熱が、全部伝わってくれればどんなに良いだろう。そうであってくれたならば、どんなにか、と俺は思う。

 どんなにか、俺が君のことを本気で好きなのかも、君に救われているのかも、伝わるだろうに、と。

 

「……ひとり」

 

「大好き」

 

 だからせめて、精一杯に、俺は耳元で、そっと囁いた。

 それを言葉にした瞬間、もう引き返せない地点を、ひとつ踏み越えた気がした。

 

「………!! はい……」

 

「………っ、私、も、大好きです」

 

 肩から顔を離して、静かに見つめ合う。

 ひとりは、泣き出しそうな声を漏らしながら、ぐっと堪えて満面の笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

 そのあと、俺たちは駅前のコンビニに寄った。

 白い蛍光灯の光が、さっきまでの路地裏の暗さと違ってやけに現実味を帯びている。

 

「……お腹、空いただろ? こっから電車で二時間かけて帰るんだし、何か買ってやるから食べろよ」

 

「えっ、いや、でも……いいんですか? そんな……」

 

 ひとりはどこか遠慮がちにそう俺の方へ顔を向けて呟く。

 

「いいよ別に、お腹すいただろ。色々あったしさ」

 

「あっはい……うっ嬉しいですけど……あっでもその、あの」

 

「………っは、春樹くん、手、手…………」

 

「え? あっ」

 

 そう言われて、俺は無意識にひとりの手を繋いだままコンビニの敷居を跨ごうとしていたことに気づく。ひとりは顔を真っ赤っかにしたまま俯いて凄まじく狼狽している。

 

「ごめん……さすがに人前は恥ずかしいよな」

 

 俺は自分でもそれに苦笑してしまう。名残惜しいけど、流石に場所は選ばないと。ひとりがまた崩れちまうし、周りの人にも見せつけてるみたいで迷惑になってしまうのもまずい。

 そう思って、コンビニ前の入口でそっと指を離そうとした。

 

「………あっ」

 

 ひとりは離れた手を名残惜しそうに見つめていたかと思うと、俺が手を下ろした瞬間、ほんの僅かに眉を寄せる。

 その表情が胸の奥に引っかかり、ドアが開く電子音と同時に、ひとりの手がまた俺の手を掴んできた。

 

「え……?」

 

「えっ…………あっあっ……!? っ、ご、ごめんなさい」

 

 自分でも無意識だったらしく、ひとりは慌ててパッと手を離す。少しだけ目を見開いて、俺は嬉しくて頬がまた弛んでしまう。

 

「……」

 

「……ホントに俺の事好きでいてくれてんだな」

 

 彼女は小さくなるかのように肩を萎ませて、俯く。もう顔が赤くなりすぎて、元の色が分からなくなりそうだった。

 何だこの生き物は。可愛すぎる。

 

「えっ、あぅ、ううっ……ご、ごめんなさい」

 

「もー……すぐ謝る。謝らなくていーよ。嬉しいし」

 

「あっ……うっ、あっありがとう、ございます」

 

「んーん」

 

 そう言って笑うと、ひとりの肩の力が少し抜けた。

 店内に入ると、レジ横のフライヤーから揚げ物の匂いが漂ってくる。

 ひとりの好物って、そういえばまだ聞いてなかった気がする。なんだっけ。「……何食べる? そういやひとりの好みってまだ聞いたこと無かったよな……」

 

 そう呟きながら、キョロキョロと周りを見渡す。

 

 おにぎりコーナーに好きなのあったりするのかな、ひとり。そうして後ろをちゃんと彼女が着いてきてるか確かめるように、ふと背後を振り向いた。

 すると、ひとりが何やらジーッ、とレジ前のフライヤーコーナーをガン見しているのが見える。

 

「……」

 

 隣に立つ。ひとりは夢中でそのショーケースを見つめていて、こちらに気付かない。そこには新発売の唐揚げ棒が記載されていて、目立つように値札と一緒にケースの外側からその身を主張している。

 

「……もしかして、揚げ物とか結構好きなの?」

 

「えっ!?」

 

「あっあっ、いっいえ、そんな……ただ、美味しそうだったので、ちょっと気になっただけで……」

 

 彼女はビクッと肩を震わせ、慌てて顔を再び真っ赤にしながら俺の方を向いて誤魔化そうとしている。視線が唐揚げ棒に釘付けのままなの、バレバレだ。その仕草からもしかして、と何となく察して呟く。

 

「……ねぇ。もしかして、俺からどう思われるかとか気にしてる?」

 

「ッ………!!」

 

 図星だったらしく、肩がもう一度びくっと揺れ動く。

 

「……あっ、はい。わっ私、こういう人間なので……よ、幼稚、ですよね。すすすすすすみません、その………きっと、嫌われちゃうんじゃないかなって……」

 

「……」

 

 ほんと、どんだけ自分に自信ないんだ、この子は。

 

「あっその、私………おっオムライスとか、唐揚げとかの揚げ物が、すごい好きですし、子どもっぽいかな、って」

 

 しぼんだ声で白状する姿が、妙に胸に刺さる。

 んな事言い出したら、俺だってどんだけ「子どもっぽい」ことで悩んできたか分からない。

 なんというか、この子に告白をする前の俺って多分こんな感じだったんだろうな、と客観的に思う。

 その気持ちが凄くわかる気がして、だから安心させないと、と考える。

 

「……全然? むしろいっぱい食べてくれるとこ見る方が俺も嬉しいし可愛いし、安心する」

 

「!!」

 

 顔をぱっと上げたひとりの目の中に歓喜の色が見える。

 あまりにも分かりやすくて、やっぱり苦笑してしまう。

 

「ほっ本当、ですか……!?」

 

「当たり前だろ。そゆとこも含めて好きなんだよ」

 

「ほら、選んで?」

 

 さらっと言いながら、内心では「言ったな俺」と頭を抱えてはいる。正直キザすぎないか。

 恥ずかし過ぎる。そりゃそうだろう。恥ずかしいわこんなん。

 でも、言ってあげたかった。どんなにくすぐったくてもこの子に安心して欲しいから。ひとりもひとりでそれをまともにくらってなのか、今にも昇天しそうな顔をしていた。やっぱり可愛い。

 

「…………そっそんなこと、初めて、言ってもらえ……ました………へ、変じゃ……ないんだ」

 

 胸の前で、そっと手を握りしめている。

 それを見て俺は、ずき、と小さく胸中が疼く。

 今までずっと、誰にも言われなかったであろうその一言が、この子の中でどれだけ重い意味を持ってるか。それがなんとなく分かってしまって、何故か一瞬、俺の方が泣きそうになった。

 そのままひとりは今にも泣きそうな顔で唐揚げ棒とチキンを選ぶ。そのあと、ブルブル震えながらも彼女は視線を向けてくる。

 

「じゃ、じゃあ……その、良かったら、一緒に、食べませんか?」

 

「え……」

 

 おそるおそる差し出されたその提案が嬉しくて、思わず今度は小さく笑ってしまう。まさか、ひとりの方からそう言ってもらえるとは思わなくて、たまらなくまた嬉しくなる。そんなの、断れるわけなかった。

 

「……うん、そうしよっか」

 

「でっでも、ほ、ホントに良いんですか? わ、私自分のお金、ありますし……自分で……」

 

 ひとりは遠慮気味にもう一度聞いてくるけど、俺は彼女をまた安心させたくて微笑み返す。別に、これくらい奢る分には全然問題なんかない。月に何度かやってた単発バイトで貯めてたお金もあるし。

 

「いいって。俺が奢りたいだけだし」

 

「だから、一緒に食べよ。俺も味違いの同じやつにしよっと。……すみません、塩レモン唐揚げ棒一つと………」

 

 そうして俺は店員さんへ注文を伝える。後ろで「……うへ、へへ、楽しみです。ありがとうございます……春樹くん」と呟く声が聞こえる。

 

「気にしないで」

 

 そう一瞬後ろを向いて呟き返して、お互いにはにかむ。なんかイチャついてるように見えたらごめん、店員さん。そう思って精一杯、いつも以上に男性の店員さんへお礼を伝えてお金を払った。

 

 

 

 

 

 

 

 京王井の頭線・下北沢駅前のベンチは、思ったより空いていた。夕方とかだといつも誰かが座ってるベンチなのに、今日は珍しくスカスカだ。終電にはまだ早い時間帯で、乗り換え客が足早に通り過ぎていくのが視線に入る。

 

「…………はい。ほら、レモンの唐揚げ棒とななチキ。先にどっち食べる?」

 

「あっありがとうございます……じゃあ、唐揚げ棒の方を」

 

 ひとりは袋を受け取り、そっと唐揚げ棒を取り出す。揚げ物の匂いに、表情がふわっと緩むのが見てとれる。

 

「………たっ食べても、いいですか?」

 

 目が、完全に子どものそれだ。

 さっきまで顔真っ赤にしてた同じ人間とは思えない。

 

「もちろん」

 

 俺は微笑みながら頷き返す。君の為に買ったんだから、遠慮なく食べて。

 

「………!! …………いっいただきます………」

 

 はむ、と一口齧った瞬間、彼女の目がきゅるん、と更に丸くなる。

 

「んッ……んんぅ、おいひ…………!!」

 

「────────…………………」

 

 いや、なんだその顔。

 もう、幸せなのが顔に全部出てる。それ見てるだけで、こっちまで飯三杯いけそうだ。たまらない。

 

「………美味しい?」

 

「あ、あの……はい、とってもおいひぃ………れふ」

 

 もぐもぐしながら必死に答えようとするけど、口いっぱいでまともに喋れてない。そんなとこも含めて、ずるいくらい愛おしい。

 

「ふふっ、あはは。まじ可愛い。じゃあ俺も食べよっと……! いただきます」

 

 俺も自分のを一口かじる。俺も自分の唐揚げ棒にかぶりつく。

 サクッとした衣にレモンの酸味が効いていて、確かに美味い。

 外はカリッとしてて、中は肉汁がじゅわっと出てくる。実に身体には悪そうだけど、部活終わりとか小腹が空いた時は妙に食べたくなる中毒さ。たまにだからこそ余計美味いジャンキーさだ。

 ふと、ひとりの持つ唐揚げ棒に目がいった。

 

「……!」

 

「……あっ、その、たべ、ますか?」

 

 ひとりが気付いて、棒を少しだけ俺の方に差し出す。

 

「……あーん」

 

「!?!?!????」

 

 冗談半分で口を開けると、ひとりの顔が「陰キャにとっての致死量」を超えたみたいな赤さになった。実は本音を言うと、内心、俺の方も心臓の鼓動がやばいことになっている。

 これ断られたらどうしようとか、そういう計算はもはや一切ない。ただ、今この瞬間の彼女の反応が見たかった。

 ひとりは脳内会議でも始まったのか、顔を真っ赤にして震えたまま一瞬フリーズする。頑張って溶けそうになるのを堪えているようにも見えて面白い。

 

「……っ、っ、…………ど、どうぞ……」

 

 すると、震える唐揚げ棒が俺の口元に近付いてくる。おっマジか。

 

「あむっ」

 

 一口ついばむと、さっきより少しだけ美味しく感じた。なんだこれ。やば。誰かと一緒に食べるって、本当に味変わるんだな。そんな、しょうもないベタなことを考えてしまう。

 

「ひひっ、うめぇ」

 

 正直に、ガキみたいに笑って伝える。

 すると一方のひとりはぐはぁぁあっっっ、とかなんか変なリアクションをしている。たぶん心の中で絶命してるのが、見なくても分かった。じゃあ、お返しをしてやる番だ。

 

「ほれ。お返し。あーん」

 

「えっあっえっあっそんな、春樹くんの唐揚げ棒、私なんか……!!」

 

「え〜……お返しなのに。食べてくんないのか?」

 

 少しだけ意地悪く笑ってみせると、ひとりは「〜〜〜〜〜!!」と変な声を漏らしながら目をめちゃくちゃ見開き、やがてそれをギュッとつぶった。

 

「……………………………」

 

 そうして、そっととろけたような瞳を僅かに見開く。ゆっくりと、近づいてくる。

 

「……あ、あ~……んっ」

 

 ほんの少し舌を覗かせて、恐る恐る口を開く。

 なんッッッッッッッッッッッッ…………だそれ。

 可愛すぎて犯罪。こっちにとっても致死量の可愛さ。しかも、ただでさえ赤い頬に妙な色気すらっていうか、いっそエロさすら感じさせる、とろけきった表情。甘く、泣きそうな切なげな目元。

 どうしよう。俺が死ぬかもしれない。

 あぁ落ち着け。よかった、可愛さで死ぬほど人間がヤワな生き物じゃなくて。じゃなかったら危ないところだった。多分三回くらい死んでる。

 唐揚げ棒越しに伝わる唇の柔らかさに気をつけながら、そっと口元に運ぶ。

 さく、と音がする。

 ゆっくりと唐揚げ棒をかじらせてやると、彼女は目を輝かせながら咀嚼(そしゃく)し、うっとりした表情で飲み込む。

 

「んっ……んぅ、んんぅ、ふへへ」

 

「……おいひぃ……です……」

 

「………………………」

 

 それはなんというか、幸せが具現化してそのままそこに降り立ったみたいだった。

 あぁ、もうダメだ俺。天使かコイツ。

 無理だこれ。我が生涯に一片の悔い無し。可愛い。可愛すぎて一生見たい。無理。死ぬ。可愛い。もう、あの。

 

(─────俺の彼女可愛すぎん?)

 

 心の中でそう呟きながら、気付いたら彼女の頭に手が伸びていた。

 

「っ……! あっ……」

 

 ふにゃ、とした柔らかい髪の感触。

 ひとりは嬉しそうに目を細めて、小さく笑う。そしてそのまま俺の手の感触に甘える様に口元がだらしなく弛む。

 ほとんど無意識に撫でていた。恍惚とした顔で味わうその横顔を見てたら、自然と手が伸びて、頭を撫でていたようだった。

 

「っ……あっ……えへへ……」

 

「春樹くん……だいすき……」

 

「〜〜〜〜〜〜〜〜っ!?」

 

 ボソっと落ちた「だいすき」が、真冬の空気よりも鋭く胸に刺さる。

 俺もたまらなく全身が熱くなる。唐揚げの油と、夜風と、彼女のシャンプーの匂いが混ざり合った匂いがする。

 あまりにもストレートな「だいすき」に、今度はこっちがやられる番だった。

 

「…………君と付き合えて良かった、ひとり」

 

 気付けば、本音がそのまま口からこぼれていた。気付いたら、口が勝手に動いていた。

 俺なんかがこんなこと言っていいのか、とか。

 父親が誰だとか。

 そんなこと全部どうでもよくなるくらい、今この瞬間の彼女の笑顔が眩しかった。

 

「わっ私も……私こそ、春樹くんと出会えて、付き合えて、本当に、本当に嬉しいです……」

 

「幸せ過ぎて……夢だったら、どうしようって、怖くなっちゃいます」

 

 ひとりは、泣きそうなままの笑顔でそう囁く。

 見てるこっちまでなんか目じりが熱くなる。そんなの、俺のセリフなんだ。ひとり。

 

「………ちゃんと、現実だよ。君が、俺と向き合おうとしてくれた、現実だよ。夢じゃない」

 

 言いながら、それは自分にも言い聞かせていた。

 これは、画面越しの「ギターヒーロー」を眺めていた頃の俺じゃ届かなかった場所な気がする。

 隣で、ひとりがぽろぽろと涙を零し始める。

 

「……っ、ありがとう、ありがとう、ございます……。大好き………だいすきです。春樹くん」

 

「もーーーまた泣いてる……」

 

 笑いながらも、胸の奥はひたすらに温かい。

 ふと、考える。

 

 きっと、幸せというものがあるとして。

 

 その定義は、俺にはまだ分からない。

 だけど確かなのは─────今この瞬間は、間違いなく、生きてきた中で一番幸せなんだと。

 

 俺は、ただただそう思いながら、ひとりの涙を拭ってもう一度食べさせ合いっこをしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 唐揚げ棒とななチキを平らげて、ほんの少し雑談してから、改札口まで歩く。電光掲示板には、ひとりの乗る京王井の頭線の渋谷行きの時刻が光っていた。

 ホームからは、電車のブレーキ音がうっすらと聞こえてくる。

 

「……じゃあ、また明日な。だいぶ遅くなっちまったよな、大丈夫? やっぱ着いていこうか?」

 

 時間だけ見れば、渋谷位までならギリギリまで付き添うことは出来る。

 でもそうしたら、今度は俺の帰りが怪しくなるかもしれないけど。

 

「あ、いえいえ!! 大丈夫です!! 独りで帰れます。いつも独りでしたから慣れてますし」

 

 そう言いながらも、ひとりの声の端っこには、ちゃんと寂しさが滲んでる。

 

「…………それに、私も。春樹くんのことが心配ですから……」

 

 ギターケースの持ち手をぎゅっと握る指先が、ほんの少し震えているのが分かった。声色が切なくて、聴いてるだけでこっちも身が引き締まる。

 

「……わかった。着いたら、連絡しろよ? 気をつけてな?」

 

「あっはいっ! もちろんです!」

 

 そのとき、構内放送が流れた。

 

『次の電車は……二番線から参ります、二十一時二十五分発 京王井の頭線 渋谷行です─────』

 

「あっ……………」

 

 ひとりの表情が、分かりやすく名残惜しさと不安で揺れる。多分だけど、俺もきっと、似たような顔をしていた。思わず拳を握る。

 これで、今日が終わってしまう。ひとりとの、時間が終わる。

 物凄くたくさん、色々なことがあった。

 ひとりとのLOINEで松ノ木児童遊園に行ったら結束バンドに出会った事から始まった、ここまでのこと。

 

 ひとりを抱き締めて、何度も触れた体温。

 手のひらの温もり。可愛らしくて愛くるしい声音。

 

 胸の奥に残る感覚を、どこか懐かしいと感じる。かつて小さい頃に親父のラジオで聴いてから、ずっと耳に残っている音みたいに。

 ひとりの声色は、まるでセレナーデの音色みたいなあのリズムによく似ているのだ。

 それは、さながらずっと聴いていたいと思える程に、愛おしい拍子そのもの。このまま、ただただ一緒に居られたらどんなに良いんだろうと、考える。

 このまま、ずっとひとりとの全ての音を分かち合えたらいいのに。そんなことを思うのは、贅沢なんだろうか。

 

「……………またな、ひとり」

 

 俺は、その欲求を押さえ込むように唇を結ぶ。出来るだけ、いつもの調子を装って手を振る。

 

「─────はい……また、あした」

 

 俺の言葉にきっと、帰る意思を固めたんだろう。少しだけやるせなさそうな、切なげな顔を俺に向けてきては、彼女は俯いてそう言った。

 その声は震えていて、駅のコンコースから響く誘導用電子チャイムと僅かに重なる。

 ひとりはくるっ、と小さく俺へ背を向ける。そのまま顔を少しだけど俯かせたまま立ち止まった。

 

「………っ」

 

「……………だいすき、です。春樹くん」

 

「ッ!」

 

 背を向けて歩き出した瞬間にこちらに届いたその声は、ギリギリ聞こえるかどうかの音量だった。ひとりの意思から至った俺へのその言葉に、思わず目を剥く。どうしようもなく胸が締め付けられるのを感じて、俺も視線を気持ち伏せる。

 このままここに居たら、ひとりから離れられなくなる。それはダメだ。

 ひとりを、ちゃんと帰してあげないと。わかっている。だから、俺は、抱き締めたくなるのを死ぬほど堪えて、彼女に敢えてこちらも背を向けた。

 そうして、小さく返す。改札口を通り抜けていく大人達に聞こえないほどの声で。

 

「…………」

 

「……………俺もだよ」

 

 振り返らずに、そう届ける。

 その一言が届いたのか、背後でひとりの足音が一瞬止まって、また小さく動き出した気配がした。震えた声が、耳に入っていく。

 

「……………っ」

 

 止まらないように改札を抜けて駆ける小さな背中が、ギターケースと一緒にゆらゆら揺れている。

 ひとりは、改札口を通り抜けたタイミングで、もう一度立ち止まる。そして、勇気を振り絞ったみたいに俺の方へ振り返く。視線が重なる。潤んだように見える瞳。切なげな、泣きそうな顔。

 それでも、ギターケースの取っ手を握ったまま、彼女は小さく手を振った。

 

「!」

 

 バイバイ。

 言葉にしなくても、それはちゃんと分かる動きだった。そこから、少しずつ変わっていく表情はどうしようもなく無邪気で、隠しきれていない笑顔だ。

 俺も、精一杯の笑顔を返して、呟く。そして、手を振り返す。

 

「……………バイバイ」

 

 ホームに電車が滑り込んでくる音がする。間もなく、心のままに君と居られる時間が終わりを告げる。警笛が鳴り響く。

 どこかからの、柔い風が彼女へ吹き抜けている。ひとりの長いピンクの髪がふわりと揺れた。

 切なげな笑みを浮かべたひとりは、意を決したように走り出す。その姿が、少しずつ遠ざかる。

 人混みに紛れて彼女が遠ざかっていくたびに、そのシルエットも小さくなっていく。ひとりが見えなくなるまで、俺は改札の前から動けなかった。

 またすぐに会える。

 そのはずだ。なのに─────それなのに。

 どうして、こんなにも俺は『寂しい』と感じるのだろう。

 彼女と離れてしまうことそのものが、まるで自分の中の大切なものが零れ落ちていくように思えるのは、何故なのだろう。

 

「………」

 

 右手には、まだ、さっきまで握っていた小さな手の温もりが残っている。思わず、手のひらを眺める。

 

 ───────三日以内に証明しろ。

 

 星歌さんの言葉と、ひとりの「大好きです」が、頭の中で何度も反芻される。

 本当はこんな夜を、守れない自分のままでいたらどうしよう、っていう怖さだけが、胸のどこかで小さく鳴き続けている。

 だけどそれ以上に。

 ────この手で、ちゃんとひとりを守れるようになりたいのも本心だった。あいつの「夢みたいです」を、夢のまま終わらせないで、現実として続けられる自分になりたい。

 虹夏達に約束した。ひとりが、俺を選んでくれた。こんな俺を。

 だからこそ、俺はそれに応えなければならないって、何度も思った。

 

 あいつに、誇れる自分でありたい。

 

 ただひたすらに、そんなことを思う。そうして広げていたその掌を強く握る。

 夜風が、頬を撫でる。

 遠くで電車の音がまたひとつ響いて、俺はようやく踵を返す。

 まだ少しだけ人の残る大通りへ向かって、俺はひとりで歩き出していく。

 ポケットの中のスマホが、さっきのひとりの笑顔と一緒に、心のどこかをじんわり照らしていた。

 

 

 

 

 

 

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