小数点配分を復活させました。
今回の#36.5はハーメルン版限定の書き下ろし幕間としてお楽しみ下さい。
時系列はちょうどCHAPTER #36「ヒーローになりたかった私へ」の同時進行、直樹さん(ぼっちパパ)視点の話です。
*
襖一枚を挟んで、向こう側からかすかな声がした。
『──────大好きです………………』
聞き取れたのは、たぶんその一言だけだ。
それは、囁くみたいに小さいのに、不思議とよく通る声だった。耳の奥に、すっと刺さってくる。
僕は、ふたりの部屋に静かに入ろうとしたその瞬間、その小声が聞こえてきて、思わず振り返って足を止めた。
腕の中で、ふたりがすうすう寝息を立てている。抱き抱えている体温と重さが、じんわりと肩と腰にのしかかっているのに、その一瞬だけ、重さの感覚が遠のいた。
……今の、ひとりの声だよな。
隣を見ると、お風呂上がりの美智代さんも後ろから着いてきていて、同じように襖の前で立ち止まっている。
ふたりがそのまま風呂で寝落ちしてしまっていた所を呼ばれて、僕はその手伝いをしていた。気持ちよさそうに疲れて眠るふたりを抱えて僕らは二階に上がり、そして今の形に至る。
ふと、美智代さんと目が合う。瞳を見開ききって、驚きの表情を浮かべている。
何も言っていないのに、「聞こえた?」と聞かれたような気がして、僕は小さく頷く。
襖の向こうから、少し遅れて、切れるような通話の電子音がした。
「……………うん。俺もだよ」
青年の声が、ごく小さく漏れて、すぐに途切れた。言葉の中身までははっきりとは聞き取れない。ただ、聞き取れたその響きだけは妙に真っ直ぐで、僕の耳に残る。
……なるほど、そういう、ことか。
ふたりを抱えたまま、僕は息を吐く。
胸のどこかが、少しむず痒いような、でも悪くない熱さでじんわりと温まる。
美智代さんが、もう一度僕を見る。目尻をきゅっと下げて、それはまるでいたずらを思いついた子どもみたいな顔をしていた。
「……………」
どうする? と視線で聞かれた気がして、僕は首を横に振る。
ここで襖を開けるのは、さすがに野暮が過ぎる。
美智代さんは苦笑いを浮かべながら、頷く。そしてひとつ、小さな息をつく。そのまま一歩前に出て、わざとらしくないくらいの声量で襖越しに呼びかけた。
「ひとりちゃーん? お風呂空いたわよ、入っちゃってねー?」
向こう側で、びくっと何かが跳ねるような布団の羽音が響く。
少しして、慌てたような返事が返ってくる。
『あ、はーい!! 今行くね!』
その声は、さっきより少しだけ上ずっていて、僕は思わず苦笑した。
バレてなかったかな、なんて、きっとそんなふうに心の中で慌ててるんだろうな、ひとり。襖の向こうで、ばたばたと支度をする衣擦れの音がする。
僕はそっと踵を返して、すぐ向かいのふたりの部屋の扉を静かに開いた。
*
寝室にふたりを寝かしつけて、布団をかける。
小さかった手足と背丈が少しずつ伸びてきているのを感じるたびに、時間の早さが怖くなる。あと何年かすれば、とふと思う。
そしたらこの子もさっきのひとりみたいに、僕の知らない男の子に「大好き」なんて言うんだろうか。
─────その時、僕はちゃんと笑って「よかったね」って言えるかな。
そんなことを考えながら部屋を出る。
階段を下りていくと、踊り場のところで、美智代さんがそわそわと行ったり来たりしていた。
「…………………いやー……そっかぁ」
思わず、頭をかきながら言葉が漏れる。ふと道理で、っていう言葉が喉まで出かかる。
「……………きゃ〜〜〜〜〜〜♡♡」
だけどその時、隣で美智代さんが興奮した様子で突然両手を胸の前で絡め、ささやかな声で騒ぐ。
「えっ、レンタル彼氏とかじゃないわよね!? ひとりちゃんにも、春が来たってことよね!?」
目をハートにしながら、勝手にひとりの恋路を暴走させていく。それを見た僕は、思わず小さく苦笑して肩をすくめる。
「……………多分、レンタルとかの感じでは、よっぽどないだろうね。……でもそっか……道理で……」
さっき襖越しに聞いた一言と、ここ最近のひとりの変化が、線で繋がっていく感覚があった。
特に、今日の様子はあまりにも分かりやすかった。ふたりからも指摘されていたにやけっぷりの話。しきりにスマホを気にして落ち着かない様子を見せていた姿。
そして、誤魔化すのが下手な返し。
ひとりは嘘をつくのが苦手な子だから、すぐ仕草とか、顔に出てしまう。あの子は多分、それをまだ知らない。
二日前くらいからだろうか。
ギターを抱えて家を出ていく顔つき、帰ってきた時の表情、食事中にスマホを見てふっと笑う横顔。それらが、今までと明らかに違っていた。
全部、ああいう甘い声で電話を切るのに繋がっていたんだと思うと、胸の奥がじんとする。
「きゃーーー!! あのひとりちゃんが………っ、うそーーー!!♡」
美智代さんは大興奮で、首を左右に振りまくる。可愛い。この人は、昔からこういう天真爛漫なところは変わらない。だけど階段で「あっ」とふらつく彼女を支えるように、咄嗟に僕は慌ててその腕を掴む。
「ちょっ、危ないって」
「お母さん……じゃなくて美智代さん、落ち着いて。……ひとりのデリケートな部分だからね、踏み込み過ぎちゃダメだよ」
この人は、夢中になると昔からあまり周りが見えなくなるところがあるから、放っておけない。そのまま、僕は彼女を落ち着かせようと小声で呟く。自分で言った「デリケートな部分」という言葉に、少しだけ照れくささを覚える。
「……あっあら、ごっごめんなさい! つい……」
美智代さんは、てへ、と舌を出す。
やれやれ。困った人だ。
でも、ふと思う。
あの子の父親になってから約十六年経つ。だけど、未だかつて一度も色恋沙汰の話を、ひとりからは聞いた事が無かった。普通、小学生や中学生とかならクラスに一人や二人くらいはそういう相手が居たって全然おかしい事じゃないはず。
だけど、あの子はそれどころか、友達の一人の話も今までしてこなかったんだ。そりゃ今回の事なんて驚くに決まってる。
今年の夏、ウチに遊びに来てくれた伊地知さん、喜多さん、だったかな。
あの子達の話も、それこそ最初はレンタル友達とかなのかなと一瞬勘繰ってしまったくらいだったのだから。
でも、彼女達の話を聞いて、ちゃんとひとりにも友達が出来て、バンドをできる────同じ目標に向かって頑張れる仲間に出会えたんだってことを、知った。
文化祭の日にも、人前で顔を見て喋ることすらも出来なかったあの子がギターを握ってその子達と演奏をする姿には思わず感極まってしまったりもしたっけ。
そんな中で、コレだ。
展開が早い。
まさか、友達作りすら悩んでた我が子が、急に恋路に出くわしていたなんて思わなかった。
最近の若い子って、凄いんだな。
だからこそ、心から考える。
きっとさっきの「大好きです」なんて、ひとりの人生の中でも片手で数えられるくらいの勇気の瞬間なんだろうな、って。
「でも、でもでも、ほらっ、ひとりちゃんのお風呂に行く前の真っ赤っかな顔、あなたも見たでしょ? ふふっ、あんな可愛い顔見ちゃったから、嬉しくなっちゃって……ひとりちゃんのことなんだもの!! きっとこの感じ、初恋よね?!」
くるっと僕の方を振り向いて、必死に言い募る。
その勢いに押されつつも、僕は少しだけ目線を落として考えた。
「……そうだね。あの感じは、たぶんだけど、そうなのかも。……まあ、美智代さんの気持ちは分かるよ」
「ひとりも、やっと出会えたんだね。そういう人に」
瞳を隠す前髪を、指で軽くかき上げる。
家族共有アカウントで投稿されていた、ひとりの手元だけの弾き語り動画の数々。あの子が、積み重ねてきた努力。そのあと、ひとりが結束バンドとして立っていたステージ。
その隣に、ひとりだけの『特別な存在』がいるのだとしたら。
僕の知らないところで、ちゃんと世界は広がっていってるんだな、と思う。
あの子が、三年間ずっと努力し続ける姿を見てきた。もしも、それに気が付いて、あの子自身を見てくれる存在が現れたとしたら、それはどんなにか。
どんなにか、父親として嬉しくて、どうしようもなく胸が締め付けられる事なんだろう。
そんなふうに、何となく考えてしまう。そこで、あぁ、僕も何だかんだ『父親』になれてるんだな、だなんて内心苦笑する。
その時、浴室の方からドライヤーの低い音がしばらく続いていたのが、スイッチの切れる音ともに止んだ。
「………どうしたものかしら、やっぱりお赤飯!?♡」
美智代さんが、また小声で騒ぎ始める。
僕はまた苦笑いを浮かべながら、階段の手すりにもたれて言った。
「知らないフリを今はしといてあげよう、ね?」
「え〜〜〜〜……」
あまりにも露骨な様子で不満そうに頬を膨らませる顔が、どこかふたりにそっくりで、僕はまた少しだけ笑ってしまう。でも最終的には「ふふっ、まぁ、そうね。……いずれひとりちゃんから話してくれるわよね」と彼女は微笑む。
「うん。きっと、ひとりの方から話してくれるさ。……話してくれた時に、めいいっぱいお祝いしてやろうよ。お赤飯でもケーキでも、なんでも」
「……ふふっ、そうね! その時は、たっくさんお祝いしましょ!」
とろけそうな顔で頷く美智代さん。
この満面の笑みは、歳を重ねても変わることの無い姿だ。
数十年前。まだ、僕がバンドをやっていた時。
お酒がなかなか進まなかった中、身内のノリで対バン相手に一気飲みを強要され、少し参っていたことがあった。
そんな時、唐突にこの人が乱入してきたんだっけ。確か、大ジョッキのビールを一気飲みしては「もう一杯っ、持ってきなさ〜いッ!!」と、今みたいな笑顔で豪快に叫んだんだ。当時は “下北沢の
そんな、あまりにも男勝りで。
その割にとんでもなくギャップのあった可愛い笑顔に────僕は見事にやられてしまったのだ。今でも、その事はよく覚えている。
あの時、感じた全身を迸る電気のような感覚を、僕は忘れたことなんて無い。だからこそ、もしかしたら、とふと思う。
すると、洗面所の扉が開く音がした。
湯気と一緒に、ひとりが顔を見せる。僕らは、階段脇で「何でもないよ」という顔をして立つ。
「わっ! おっ、お父さんも、お母さんも……こんな時間まで何してるの?」
ひとりがびくりと肩を跳ねさせる。さっきの電話の余韻がまだ残っているのか、それとものぼせ気味だからなのか、耳までうっすら赤い。
「ううん。二人で少し話してただけよ〜」
美智代さんが、いつも通りの調子で笑う。この人、仮面被るのは上手いよなぁ。すると、彼女はにっこりと微笑んだまま僕の方へ向く。
「……ね。そろそろ寝ましょうか、お父さん」
「……そうだね。おやすみ、ひとり」
僕も、それに合わせるように微笑み返す。
美智代さんと歩幅を合わせて、そのまま寝室に向かう。通り際に、そっとひとりの頭を撫でる。髪が少ししっとりしていて、シャンプーの匂いがした。
「う、うん……? ……おっおやすみ」
ぎこちない返事。視線が、僕と美智代さんのあいだを行ったり来たりする。
何も聞かなかったようにして、僕らは階段を上がっていくひとりの背中を見つめる。やがて、階段を昇り終えたひとりが押し入れの襖を閉める音が響く。
「………」
胸の中で、さっきの美智代さんの言葉を、今度は僕なりに噛みしめていく。
僕と美智代さんは、そうして何気なく横目で互いを重ね合う。密かに微笑んで、そのまま寝室の扉を閉め、二人でダブルベッドの寝床に入る。
「……楽しみね。お父さん。ひとりが、彼氏くんの話をしてくれるの」
「──────そうだね。お母さん」
僕らは、互いを「父」と「母」として、この瞬間、名前を呼び合う。お互いに見つめ合ったまま、何気なく美智代さんの方から指を絡めてくる。僕は、自然とそれに応えるようにその手をそっと繋ぐ。
「……おやすみ。直樹さん」
「おやすみ、美智代さん」
そして、今度は敢えて名前で呼び合った。
付き合いたての頃からの、名前の呼び方。恋人繋ぎをしているこの瞬間だけは、あの頃に戻れる気がする。彼女は安心した様に目蓋を閉じ、僕に抱きついてきた。
やがて、早くもすぅ、すぅと寝息を立て始めていく美智代さんの顔を眺める。彼女の、長い睫毛を見つめながら、僕は思う。
父親としての心配も、寂しさも、正直まったく無いわけじゃない。
だけどそれ以上に。
ずっと僕や美智代さん、ふたり以外の人とはほとんど喋らず、どこか寂しそうな背中をいつも見せていた、あのひとりが。
─────自分から「大好きです」と言える相手に出会えたことが、ただただ嬉しかった。
僕はリモコンで電気を消しながら、静かに目を閉じる。ふと天井を、ぼんやりと見上げる。そうして、過去の感覚を追憶するのだ。
美智代さんを好きになった時の、あの全身に電気が走る感覚。初めてギターを弾いて、コレに全てを懸けてみたいと思った高揚感。それを、僕は今でもずっと覚えている。
僕が、美智代さんを運命の人だと感じて、心から好きになれた感覚を彼女も味わえていてくれたら。
もしかしたら、と僕は改めて思い直す。
もし───僕が感じていたようなそんな感覚を、ひとりがあの電話の相手に対して感じることが出来ていたなら、と。
それが運命ならば。
どうかそれが、消えることの無いものであって欲しいと、心から願うのだ。
そうであってくれたなら、こんなにも父親として嬉しい事なんてないって、そう思う。
あの子にとってのこれからに、どうか、どうかどうか。
あの子にとっての、未来に、祝福が来てくれたら、と心から願う。
いつか、君に。
いつか君に、春が来ますように。
この夜のことを笑い話にできる日が来るといい。その時は、胸を張って伝えようと思う。
「よかったね、ひとり」って。