どうして どうしてできるだけ
やさしくしなかったのだろう
二度と会えなくなるなら
人は忘れられぬ景色を
いくどかさまよううちに
後悔しなくなれるの
どうして どうしてできるだけ
やさしくしなかったのだろう
二度と会えなくなるなら
どうして どうして僕たちは 出逢ってしまったのだろう
こわれるほど抱きしめた
- 松任谷由実 『リフレインが叫んでる』-
N00010213
※
家に着く頃には、指先の感覚がほとんどなくなっていた。
玄関の鍵を回すカチャリという音が、いつもより大きく胸に響く。
「た、ただいま……」
そのあと私はジミヘンとふたりからの熱い歓迎を受け、こないだと同じように着替えてご飯を食べる。お父さんは先に疲れて寝ちゃっていたみたいで、お母さんは洗い物をしていた。
「毎日夜遅くまで大変ね、ひとりちゃん。夜道気をつけるのよ?」
「うん、ありがとう、お母さん」
「お風呂、この後入っちゃってね。ひとりちゃんで最後だから」
「うん……分かった」
用意してくれていた餃子の定食を頬張りながら、私はそんな返事を返す。
部屋に戻り、電気をつける。いつもの見慣れた六畳間がそこにあった。
布団。蛍光灯の置いてある座卓。壁際のレス・ポールとスタンドミラー、押し入れの中のノートパソコン。
全部、いつもと同じ位置にあるはずなのに、どこか心許なく見える。
ジャージを脱ぎ、パジャマに着替えてスマホを取り出して、画面を点ける。
時間は、二十三時過ぎ。
通知の一覧の中で、一番上の「春樹くん」の名前だけが、まだ増えていない。
「…………」
さっき別れてから、まだそんなに時間は経っていない。
頭では分かっているのに、心だけが勝手に先走っていく。
(……今日は連絡、来ないのかな)
不意に、そんな不安が立ちのぼる。
そう思った途端、喉の奥がぎゅっと締め付けられた。
スマホを伏せて、ちゃぶ台の上に置く。
置いたはずなのに、指がそこから離れようとしない。
お母さんの敷いといてくれた布団に潜り込めば、きっといつもみたいに落ち着くのに。今日はどうしてか、そこへ逃げ込む勇気さえ出てこない。全く気が休まる気がしない。
電気ストーブのタイマーのカチカチという音。
外を走る車の音。
下から微かに聞こえるテレビの笑い声みたいなもの。
全部が、妙に、耳に絡みついてくる。
「─────────────…………」
ほんの数分が、ひどく長く感じられた頃。
ぽん、と、軽い通知音が鳴った。
「っ……!」
反射的にスマホを掴んで、画面を点ける。
指先が少し震えて、ロック解除に一回失敗した。
トーク画面の一番下に、青い吹き出しがひとつ。
『おつかれ。ひとり! 今日も電話する? 疲れてたら無理しなくていいよ』
「……っ」
胸の奥で、張り詰めていた何かがふっと緩んだ。
さっきまで真っ暗に感じていた部屋の空気が、少しだけ明るくなる。
私は慌てて入力欄を開き、勢いよくフリック入力をしていく。
『だ、だいじょうぶです。今日も、お話、したいです……!』
一度打ってから、「です」が多すぎる気がして消して、また打ち直して─────結局、最初に打ったのとほとんど変わらない文章を送信した。
既読が付くまでの数秒間、心臓の音が耳のすぐそばで鳴っているみたいだった。
『じゃあ、かけるね』
そのメッセージとほぼ同時に、LOINEの着信画面に切り替わる。少しだけ心がふわつきながら受話ボタンを押す。耳に当てた瞬間、スピーカーから聞き慣れた声が流れ込んできた。
「もしもし、ひとり?」
「っ、は、はい……。も、もしもし……春樹くん……」
その瞬間部屋の空気が、さっきまでと違う温度を帯びた気がした。
狭い六畳間なのに、彼の声があるだけで、どこか別の場所に繋がっているみたいに。
「今日もお疲れ。ドリンク、ありがとな。めっちゃ助かった」
「い、いえっ……! そ、その、全然、まだまだで……。きょ、今日も何度も、あわあわしちゃって……」
「でもちゃんと、出せてたじゃん? お客さんも喜んでた」
「うぅ……。そ、その……春樹くんが、そばでフォローしてくれてたおかげ、です……」
「あはは、お互い様だな」
自分の声がだらしなく上擦っているのが分かる。
でも、電話越しなら、顔が見えないぶんだけ、少しだけ素直に喋れる気がした。
不思議な話だと思う。
今までLOINE通話なんてした事あるの、ついこないだまでお母さんとかくらいだった。結束バンドの皆とは、メッセージのやりとりはすれど、電話自体はまだした事ない。
正直、話したいな、とは思う。
でも話題が思いつかないし、多分皆に気を遣わせてしまう気がするから、そこの勇気を振り絞れずにいた。
なのに、春樹くんとはこの前話し始めてから自然と日課みたいな感じでお話ができる。だから、不可思議に感じずにはいられない。
たぶん、彼が自然な形で会話をリードしてくれるからなんだと思う。
話した話題は、仕事の話から今日来てたバンドの話まで広がった。それは、ちゃんとキャッチボールになっていて、私自身は絶対に真似出来ないものだって分かるものだった。
虹夏ちゃんのテンションの高さ。リョウさんのマイペースさ。喜多ちゃんの頑張り。バンドの皆についての他愛もない話で、少しずつ心がほぐれていくのがわかった。
「……あっ、その」
一段落したところで、私は思い切って話題を変えようと思い至る。
それは、春樹くんがお手洗いで席を外しているときに、虹夏ちゃん達が話していた時のこと。
「きょ、今日そういえば、その……店長さんや虹夏ちゃんも言ってました、けど……。ほんと、春樹くん、すごかったです」
「え?」
「ド、ドリンクも、その……最初はやっぱり、慣れないと大変ですけど……。昨日始めたばかりなのに、あっという間に、私よりずっと上手くなっちゃって……。お客さんと話すのも、すごく自然ですし」
「ああ〜……店長が虹夏から話聞いた云々って、それね」
昼間、カウンターの横で見ていた光景が脳裏に蘇る。
滑らかにお釣りを渡して、冗談をひとつ挟んで、笑いを取って。
私が一つ覚えるのに何日もかかったことを、彼は一晩で追い越していった。
「……そんなことないよ」
電話の向こうで、少し苦笑している気配が伝わってくる。
でもその声は、どこかほんの少しだけ、さっきよりトーンが低い気がした。
「い、いえっ……。ホントに、すごいって思ったんです……。私、なんだか嬉しくて……」
そう。嬉しくて仕方がない。正直、喜多ちゃんの時みたいにコンプレックスを刺激されてる自分もいるけど。でも、本心でほんとうにカッコイイと思う。憧れてると思う。彼の、あの堂々とした姿に。
だからそのほんの少しの違和感は多分気のせいだと思って、私は言葉を続ける。紛れもない本心を、伝えたくて。
「虹夏ちゃんも、褒めてましたよね。『春樹くん、ステージに立つの似合いそう』って」
「……ああ。なんか、前に立ったらファン出来そうだよね、とか言ってくれてたな。虹夏も」
「あっそ、そうです。私も、正直そう思います」
「ひとり……」
「私、その……見てて、思ったんです。春樹くんが、もしステージの真ん中に立ってたら、きっと、すごくカッコいいだろうなって……。そっそれこそ、ヒーロー、みたいだなって……」
「………」
一瞬、沈黙が落ちた。
通話が切れたのかと不安になって画面を確認するけれど、時間のカウントはちゃんと進んでいる。
「……ヒーロー、ね。そういえば、なんか店長とか、あのおじさん達からも「前に出る気はないの」とか言われたっけな」
「は、はい……っ、そうですよね。私も聞いてました。私はアレはお世辞じゃないと思うんです。実際、私も、そう思うので」
自分の言葉が、どこかくすぐったくて、恥ずかしい。
でも、春樹くんが私のことを何度も「ヒーローみたいだ」って言ってくれたから。どうしても、返したかった。
だから何度でも伝えたい。あなたは凄いんだ、って。私なんかよりも、ずっとずっと。その想いが先行して、口元から飛び出ていく。
「……ありがと」
そう言った声は、どこか嬉しそうな声色に聞こえる。
「そ、それで、その……思ったんです」
「うん」
「春樹くんが、もし……その、動画、とか、してくれたら……って」
そこで私は率直な、嘘偽りのない本当を示す。
それが、さっきから生じている───ううん。この前からちょくちょく生じていた「違和感」を吹き飛ばしてくれる気がするから。だから、はっきりと伝える。
「春樹くん、ずっと、おうちで今まで、色んな楽器、やってたんですよね」
「……うん。まあね。……たぶん、小さい頃から、ずっと」
「っ……! そっ、それなら、その、ギターとかも、絶対すごく上手だと思うんです。私、全然ちゃんとは聞いたことないんですけど……。それでも、その……」
「あっ、その、何を勝手に、知りもしないくせにって感じで……い、イキってすっ、すみません」
「……ううん、それは別に、全然いい、けど」
頭の中で、いつもみたいにオーチューブの画面が浮かぶ。
コメント欄。再生数の数字。高評価の数。
そこに、もし春樹くんの名前が並んでいたら。私はずっとずっと見ていたいと、心から願うから。
「だから、その……。いつか、その……春樹くんの演奏も、オーチューブで……聴いてみたい、です……私」
自分で言いながら、頬がじんじんと熱くなっていく。
枕に顔を押し付けたくなる衝動をこらえて、スマホだけをぎゅっと握りしめた。
あなたが好きで。
大好きで、心から尊敬してるから。
私なんかの音楽を好きだと言ってくれた、この世界で私なんかの価値を見出してくれた春樹くん自身を、もっと聴いてみたいだなんて、思ったから。
だから、言ってしまった。
その思いの丈を、全て吐き出す形で。
「きっと、たくさんの人に届くと思います。……春樹くんは、私にとって本当に、尊敬してる人、ですから……」
言い切った瞬間、鼓膜の奥で自分の心臓の音が鳴った。
言い切れた、本音。ずっと伝えたかった、尊敬の想い。
だけど。その瞬間。
何かの
─────既視感。
あ、れ?
ちょっと、待って。
待って。これ、何か、似てる。
それはいつと。
それは。
きっと、あの時と。二日前の、喜多ちゃんの時と。
いやそれどころか、さっきの「なんでも出来るんですね」を伝えた時と、同じ違和感。
「………………………………」
沈黙。
それは、ほんの数秒。
でもその数秒はまるで、無限に伸びていくゴムのよう。私の身体はそれと対になるみたいに硬直した。
「…………ひとり」
「………………は、はい」
黒い波が、背中から叩きつけられる。
あれ。私─────待って。
身体が、震え始める。待って。まさか。
今更になって、気付く。
返ってきた彼の声は、さっきより少しだけ掠れている。
笑っているようにも聞こえるし、どこか、遠くから響いているようにも聞こえる、声色。
「ありがとな。……そう言ってもらえるのは、すごく、嬉しい」
「……は、はい」
「ただ、なんていうか……。今日、ちょっとだけ疲れてる、みたいでさ」
「え……」
その刹那。
嫌な予感は確信となる形で、胸の中で何かがぽきっと音を立てて折れた。私が感じていた違和感が、背中だけを見せていたそれが、くるりと、ぎょろりと、こちらを向く。
同時に、恐怖で全身に鳥肌が立つ。
それはまるで、
「…………えっ、あ、あの、……は、はるき、くん?」
「………ひとりが悪いわけじゃないから。ほんとに」
「あっ、あの、私……。まっ、待って、ください、その、もしかして、その……」
さっきの自分の言葉が、脳内でリフレインする。私、さっき、なんて言った?
『たくさんの人に届くと思います』。
『オーチューブで聴いてみたいです』。
喜多ちゃんのあの目を見開ききった苦しげな顔を、その瞬間、思い出す。
ドスッ、と鋭い何かが、私の心臓を貫く。それはさながらこの身を芯から貫く様な、長い長いナイフ。
強い痛みが、胸の奥から滲む。待って。これ、そんな。
冷や汗が止まらない。拳を、ギュッと握り込む。手の先の神経が震えて白くなる。ふと、考える。
まさか、これ、私。春樹くんにとって、一番触れてほしくないところに、また、無自覚に触ってしまったんじゃ。
それは例えば───あの時の、喜多ちゃんの時みたいに。
「ひとりは悪くないからね」
「ッ!!」
そう思ったのも刹那、食い気味に、その可能性を否定する声が返ってきた。まるで私の動揺を見抜いてたみたいに。
けれど、その優しさが、逆に胸に針の雨みたいに降り注いで背中を刺していく。
「俺が、勝手にぐちゃぐちゃしてるだけ。ひとりに、こんなんで接したくないからさ」
「…………っ」
「ごめんね? ……今日、ここまででもいい?」
柔らかいのに、どこか決意じみた響き。
いつもの『まだ話そう』じゃなくて『ここで終わらせる』側の選択。
「えっ……。あっ、え、と……。まっ、待ってくださいっ!」
「あっあの、私……っ、その、まだ、謝りたいことが………!!」
何を?
そう思った瞬間、目を有り得ないほど剥く。その疑問が、脳内に響く。見開ききった眼球が急速に乾燥していく。今の、彼への本当の想いのこと? それとも、さっきの?
謝罪の言葉が、喉の奥で渋滞する。何を謝ればいいのか、自分でも分からなくなっている。そう。まだ、言えてない。
____『あっあの、春樹くんって……ほんと、何でもできちゃいますよね』
あの言葉。彼の様子は微かに何かが違っていた。だから思った。私、もしかして変なことを言ったんじゃって。
だからこそ、言いたかった。さっき言わなきゃいけなかったのに。
無理矢理にでも、歩道信号に遮られても、それでも。
それを、まだ謝れてないのに。また私、自分の想いばかりを先行させて、自分の気持ちばっかり伝えて。
──────私は、春樹くんの気持ちを、考えたことなんてあったのかな?
「……謝りたいこと? ………大丈夫、俺は、何も気にしてないよ?」
「だから、ね。明日、話そ」
「えっ………あっ、あの」
それは、ちゃんとした約束の言葉のはずなのに。
今はどうしてか、物凄く遠いところに投げられたロープみたいに感じる。いやだ。こわい。待って。待ってください、春樹くん。
「……おやすみ、ひとり」
「あっ……。ぅ……………………待っ、……はるき、く……」
言葉が、詰まる。声が震えて、まるで出てこない。なんて言えばいいか分からない。
声色も、言葉の雰囲気と、いつもと同じ優しさのはずなのに─────どうして、こんなにも、春樹くんが遠いの。
言えない。まって、とまともに言うことも出来ないまま。
そのまま通話は切れた。
おやすみなさいも、大好きですも、まだ言えてないのに。
「………………………………」
通話終了の音が耳に残っている間に、部屋の静けさが一気に押し寄せてくる。スマホの画面には、「通話終了」とだけ表示されていた。
トーク画面を開いてみても、最後のメッセージは「じゃあ、かけるね」のまま。
そこに並ぶ吹き出しが、急に他人事みたいに見える。呆然と、ただそれを数十秒ほど見つめた。
「………………」
手の中のスマホが、急に重くなった気がした。
ジャージの袖で目元をこすっても、熱っぽさだけが残る。
(……また、だ。また私)
(───────間違えた、の?)
頭の中で、喜多ちゃんの顔が浮かぶ。
星の下で、泣きながら微笑む表情。
彼女の「ごめんなさい」と、震えながら笑う顔。
(また私、大事な人の、一番触れられたくないところを、無自覚に踏んだの?)
「…………ッ、ぁ………」
声が、震えて、喉が痛くなってきて、ギュッと両手でスマホを胸元で握り締める。背中を徐々に折り曲げていって、呼吸が荒くなる。
いやだ。
「…………っ、ご、め………さ………」
「ごめんなさい………」
そうして小さく呟いた謝罪の言葉は、部屋の中でくるんと一回転して、どこにも届かずに落ちていく。
私はもう一度スマホを見つめ直す。
入力欄をタップすると、カーソルがちかちかと点滅した。
嫌だ。
『あの、春樹くん、私、さっき、なにか嫌なこと、言いましたか』
打ち込んで、送信ボタンのすぐ手前まで親指を滑らせる。
でも、そのまま、動けなくなる。
イヤだ。
(こんなの、重い。多分、また、無神経なこと言ってる気がする)
全部選択して削除した。
何もなかったみたいに、入力欄は空白に戻る。
いやだ。嫌だ。イヤだ。
ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさい。
『ごめんなさい』
今度は、もっと短い言葉。
それなら、まだ、軽いかもしれない。
そう思って打ってみて───指が止まる。声が出なくて、体の震えが止まらなくて、痛くて、恐くて。
無理。やっぱり、送信できない。
(ごめんなさいって送ったら、きっと、また春樹くんは「ひとりは悪くない」って言ってくれる。さっきだって、気にしてないよ、って言ってた。でも、でも、本当に?)
(だって、こんな、いままでこんな、変な空気になったりしなかった。お休みも、大好きも、まだ言えてないのに。……余計に、苦しくさせちゃうかもしれない。だいたい、なんで私、真っ先に謝るべき所を後送りにして、会話の流れのまま変なこと言ってるの)
(言わなきゃ、いけなかったのに)
(あんな本心を言うよりも先に、ちゃんと、言わなきゃいけないこと、あったのに)
呼吸が荒くて、枕へ押し付けた額がどうしようもなく熱い。
指先が、スマホの画面の上で震える。
送信ボタンを押す勇気も、何も送らないでいる勇気も、どっちも足りない。
やだ。ごめんなさい、いやだ、いやだ。
嫌だ、また、また喜多ちゃんを傷つけた時みたいに、私、わたし──────。
怖かった。
恐くなった。
恐怖に全身をのたうち回られて、思考が回らない。まともに考えられない。痛くて、苦しくて。不安で。
だから私は、堪らなくスマホをそっとちゃぶ台の上に伏せた。液晶の光が消えると同時に、部屋の中の明るさが一段落ちる。汗が止まらない。さっきから額に冷たい汗ばかりが滲む。
「……練習、しなきゃ……」
自分に言い聞かせるみたいに呟いて、壁際に立てかけてあるレス・ポールに手を伸ばす。
ピックケースを開けて、いつものピックをつまむ。昨日から持ってたハードピックを仕舞う。いつも通りみたいな、そんなふうに。
弦に触れた指先が、かすかに震えていた。
一音、鳴らす。
ぽろん、と、頼りない音。
いつもなら、その一音から、少しずつ指が勝手にコードを探してくれるのに。
(……ダメだ)
Cを押さえようとして、左手の人差し指がフレットの上で空を切った。だめだ。
Gに行こうとして、薬指が弦から滑り落ちる。駄目、だ。
思い通りの音が、まるで出せない。
何も、できない。三年間の技術のぎの字も、まるで全てが抜け落ちたみたいに。
「っ……ぁ………!!」
喉の奥が熱くなる。
目の奥に、じわっと水がたまる感覚。
私は、慌ててギターをスタンドに戻した。
弦がかすかに揺れて、未練がましい残響だけが部屋に漂う。
逃げるように、ちゃぶ台の上に置いたスマホを手に取る。
それは、間違いなく逃避だった。現実逃避。私の得意なヤツ。
考えることもできない。怖くて、メッセージを送り直すこともできない。何を言えばいいかも分からない。LOINEをスワイプして強制終了させて、見なかったことにした。
画面を点けて、アプリの一覧から、指は自然と、あるアイコンを選んでいた。
オーチューブ。
ホーム画面が開かれる。
おすすめ動画。トレンド。最近見た動画。
その中に、見慣れたサムネイルの小さな四角形が一つ、静かに並んでいた。
─────更新が止まっている、あの「彼」のチャンネル。
白い壁。安っぽい椅子。
少し暗い部屋の中で、ひとり分のライトだけが当たっている。
画面の中央には、ギターと、その人の指だけ。私と、コンセプトが少し似てる動画の雰囲気。
私はそのサムネイルを、そっとタップした。
再生ボタンを押すと、多分そんなに高い機材を使ってないのであろう、独特の少しこもった音質のギター音が流れ出す。
それは、私の好きなアーティスト『Quartet Bind』の『リライト』って曲。
当時は何度も何度も繰り返し見ていた。お手本にしてた。当時の私よりも、ずっとずっと上手だったから。
でも、最近は最初の頃よりも動画投稿を頻繁にするようになって、お父さんから押し入れ部屋を作ってもらって以降、ほとんど聞けなくなっていた曲。
画面の端に、手元が映る。
コードチェンジのときに、ほんのわずかに左手がもたつく癖。
一音目を鳴らす前に、ちゃんと弦に指をそっと触れて確かめる仕草。
多分、男の子。いや間違いなく、男の子。ゴツゴツとした手の感じ。
私が見ていた時は、声出しをしてる動画が無かったから確信は得られなかったけど、映る手の感じだけ見る限り、男の子だった。
目を閉じて、その音を聴き続ける。
恐怖から来る、不安から来る痛みのリズムが、胸の奥から引いていくのが分かる。ヘッドホンで聴くその音階のひとつひとつが、私の感じる怖さを取り除いてくれるみたいに。
(……やっぱり、好き)
素直にそう思った。
完璧じゃない。プロみたいに滑らかでもない。
でも、ひとつひとつの音が、必死に前に進もうとしているのが、分かる。昔からそう。
きくりお姉さんの音を聞いて、あの人がどんなに凄い人なのか、一発で分かった時みたいに。
──────私にとって、音はその人そのものを示しているように思う。
その人の痛み、悲しみ、苦しみ、あるいは幸せや
この人からは、『もがこうとする意志』みたいなものを私は当時から感じ取っていたように思う。
確か、私と同世代。概要欄に家事とか勉強、部活との両立って凄く大変、みたいなことを書いてた。だから、すごいな、って思ってた。
私は勉強なんか中一の頃からダメダメだったし、家事もお母さんに甘えきり、部活なんかそもそも入らず即帰宅。何にもなかった。
そんな私にとって──────この人は、当時、雲の上みたいな、そんな男の子だった。だから、尚更尊敬の念と共にずっと動画を観まくっていたんだっけ。
そのときだった。
不意に、画面の隅に見覚えのある色がちらりと映った。
「……あれ」
シークバーを少し戻して、一時停止する。
指で画面を拡大する。
ギターのボディと膝の間。
そこに、キーホルダー代わりにぶら下がっている、水色のティアドロップ。
擦り減った角。
端っこにかすれて残る黒い「H」。
「…………──────────────え?」
ドクン、と大きく、全身に嫌な鼓動が響く。
見開ききった目が、全ての情報の認知を拒む。
リフレイン。
追想。
それは、そう。
────さっき、コンビニのレジトレーで見た、水色と、おなじ。
白い蛍光灯の下で見た色と、スマホの画面越しの色が、ぴたりと重なる。
うそ、だ。
嘘だ。うそ、いや、そんな。まさか。
(そんな、まさか……)
世界がぐらりと揺れた気がした。
でも、視界から目を逸らせない。それを、気のせいだって思いたくて、嘘だって思いたくて。喉奥から、苦しさが込み上げてくる。私は必死にそれを堪えて、スマホの画面を走らせる。
別の動画を開く。
更に後の、動画を見つける。その辺りから、私の知らないサムネが、一つ二つ見つかった。
それを開く。広告も入ってないその動画から、まだ声変わりの途中みたいな、少し幼い声が私の耳に届く。
また、全身が極限まで
その響き方に、聞き覚えがあった。それは、動画のコメント欄や普段の視聴者の人へ向けた動画かなにかの要素と、初めての弾き語りを合わせた動画みたいだった。
当時の視聴者は、五人にも満たなかったことが履歴から分かる。それでも、彼はその人達へ届けようとするみたいに話している。嘘だ。
その喋り方。言葉の選び方。笑うタイミング。
カメラの向こうの誰かに向けて、照れながら話しかける癖。
いやだ。
いやだ、いやだ。いやだ、認めたくない。信じたくない。知りたくない。全身に鳥肌が立ち、荒くなる呼吸と、震える眼球。神経と脳に伝わる情報の全てがこの先の事実を知ることを全力で拒否している。
だけど。
だけど、スクロールの指はどうしようもなく止められない。そして、わたしは─────理解してしまった。確信してしまう。
そう。
それは数年前、ギターで分からないことが多すぎて、心がへし折れそうだった当時の私を救ってくれた、支えてくれた名前も知らなかった頃の「彼」の声で。
今、STARRYで隣に立ってくれている「春樹くん」の声と、間違えようもなく、同じ声だった。
動画を一つ戻す。一つ。一つ。一つ。次々と戻る。胸の奥がざわざわと泡立っていく。収まるどころか、益々確信とともにそれは大きくなる。
部屋の壁紙。使い込まれた椅子。後ろに映り込む、本棚の端から映り込む彼の仕草。多分、ミリ単位で残っていたピースの数々。それら全部が明確に、ちょっとずつ、既視感のピースにはまっていく。
最後の一本を開いたとき、もう目を逸らすことはできなかった。
カメラに向かって、「いつも見てくれてありがとう」と笑う顔は、口元しか映っていない。
それでも、分かってしまう。
あの肩の落とし方。
笑うとき、少しだけ首を傾ける癖。
私に告白してきてくれた彼の仕草。喋り方。声色。そこから滲む人柄の良さ。
そう。それら全部が。
さっき、夜道で並んで歩いたときと、同じだった。
「………………」
声が出なかった。────────うそだ。
喉の奥がきゅうっと縮んで、もはや呼吸の仕方さえ分からなくなる。
それはさながら心臓が、止まったみたいな、そんな感覚だった。
(うそ……)
(そんな、わけ……)
否定しようとしても、画面の中の証拠は残酷なほど揃っている。
水色のピック。鍵束。
オーチューブの中で、何度も何度も私を救ってくれた「彼」の手元にあったものが、今日、コンビニのレジトレーに転がっていたのを見てしまったのだから。
確信を得る。
あのとき、ついさっき、もうひとりの私が背中から言った言葉。
『 “今度” って、ちゃんと来るのかな』。
ドッペルゲンガーは分かっていたんだ。
多分、そのもうひとりの私がそれを分かっていたということはつまり。
───────私も、心のどこかで。
似ていると、気づいていた節があるということ。
目を、背けていて、気付かないふりをしていた、ということ。
「ぁ゛…………ぁああ、ぁっ、ああ………!!」
(私……)
胃のあたりを誰かにぐっと掴まれたみたいに、痛みが走る。頭を抱えて、過呼吸になる。嗚咽が止まらない。
ヘッドホンを外して、堪らず枕元から畳へ投げつける。
枕元へ額をまた押し付けて、声にならない悲鳴をあげる。小さく、小さく。でも、心の中は、未だかつて無いほどの絶叫が響く。
いやだ。
いやだ、うそだ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だいやだ、嫌だ、嫌だ。
嘘だ、そんな、うそ、うそ、うそ。うそだ、うそだ───!!
(私、あの頃からずっと、この人の動画に、高評価だけ押して……。コメントのひとつも、残せなくて……)
いわゆる、サイレントマジョリティー。
頑張ってください、の一言すら書けなかった弱虫。臆病者。
だけど、私はずっと本心では書きたいと思ってた。でも、こんな私なんかにそんなものもらっても嬉しくないんじゃないかって、勝手に思い込んでいた。だから、それを書く勇気を持つことすらできなかったんだ。
でも。だけど、それでも。
(更新が止まったあとも、何度もチャンネルを見に来て……。ずっと、ずっと何度も見に来てた。本当は。誰もいないコメント欄を見て、勝手に胸が痛くなって……)
痛みが走る。
さっきまで私を捉えていた恐怖が、私を、本格的に後ろから首を絞め始める。
(その裏で、私は……ギターヒーローとして、再生数を伸ばして……)
呼吸が出来ない。悶絶の声と、絶望と、苦しみと、戦慄。
全てが爆ぜて、私を内側から、壊していく。
「はぁっ、はぁっ、ぁ、ぁ、……………ああ」
「ぁぁ゛っ、ああああッ、ああっ、あああッッッッ、ああああ……!!」
涙が溢れて、悲痛な声だけがどんどんと漏れていく。
スマホの画面の下に、自分のギターヒーローのアカウントのおすすめ動画が並んでいる。私は、わたし、は。
同じオーチューブの海の中で、一方だけが上に流されていくみたいに。
何を、言っていた? 彼の動画を見てから、それから動画を自分であげるようになって、そしたら。
今まで、私は、私は──────。
『現実が辛くても大丈夫。ネットには私に反応してくれる人がたくさんいるもん』
『あっ。登録者数、三万人超えてる。………うん、そうだよ、私の居場所はネットだけ』
『もう、学校行きたくないな……』
(……私の居場所は、ギターだけ、ネットだけ、って……)
(それなのに私は、現実逃避の手段にして、本気で夢を目指してる人達を、私なんかが、登録者数がたまたま増えてくその裏で、そのネットの中で)
(─────誰かの居場所を、踏み潰して、奪ってたんじゃ……!!)
全部が、私の思っていた、全部が、それらの言葉が、私の全てを
考えたこともなかった。
いっつも自分のことばかりで。私は、わたし、は。
ずっと、ずっと、私以外の誰かを─────
踏み
脳の奥のどこかが、ざり、と音を立てた気がした。
砂利を踏みしめるみたいな、現実感のない音。
(だって、もし……)
(もし、春樹くんが、この「彼」だとしたら)
彼は、動画投稿をしなくなっていた。
それが、ちょうど一年と少し前。私が、中二の時。
私はその同時期辺りから、お父さんにあの専用の押し入れ部屋を作ってもらってから投稿を始めて、あっという間に彼の登録者数を追い越していた。
さっき見えた画面に映り込んでいた「彼」の最終的な登録者数は、五百十人。私よりももっと長く活動していたはず。
最初の方の動画は、三年前。ちょうど私がギターを握り始めた頃辺りからだから、ずっと私より苦労もしていたはずだった。
なのに。
なのに私は、初めて、一年も経たない間に今では登録者数は八万を越えようとしていた。
────さっき、電話の向こうで黙り込んだ瞬間。
「たくさんの人に届くと思います」などと言ったときの、自分の声。
それが、どれだけ無神経な言葉だったか、想像してしまう。
届かなかった側に、向かって。
数字に折られてしまったかもしれなくて、それが原因で投稿をやめたかもしれない人に向かって。
よりにもよって、たまたま伸びただけの、私が。
私みたいな「
なんで、あんなことを言えたんだろう。
(私……)
「……っ!!」
視界がぼやけた。
スマホの画面の光が、水の膜の向こう側に遠ざかっていく。
慌てて目元を拭っても、次から次へと水が溢れて追いつかない。
私はスマホを握りしめたまま、勢いで立ち上がった。
足元が少しふらつく。布団に潜り込む。
布団の中は暗くて、狭くて、少しだけ自分の体温で暖かい。そのはず。でも寒い。冷たい。怖い。恐い。胸の内側の冷たさは、なにひとつ消えない。
スマホの画面をもう一度点けて、メッセージアプリを開く。
春樹くんとのトーク画面。
最後の吹き出しには、「また明日、ちゃんと話そう」とだけ残っている。
『さっきの、こと……』
打ちかけて、消す。
こんなことを今言ったら、きっと彼を追い詰めるだけだと分かっている。
『ごめんなさい』
また謝罪の言葉を打って、また消す。
送れば送るほど、自分の「業」を押し付けるみたいで怖い。
『嫌いにならないでください』
指が、勝手にその言葉を並べていた。
それを見た瞬間、背筋がぞっとして、一文字残らず消去した。
「……やだ……」
いやだ。
この期に及んで、私は────思っちゃってるんだ。
最低。最低、こんな私。最低なのに。
布団の中で、小さく声が漏れる。
自分で聞いても頼りない、情けない声。
いやだ。きらわれたくない。
いやだ、おねがいだから、きらいにならないで。
生まれて初めて、春樹くんに、この世界でたった一人の大好きな人に、こんなにも私を好きになってもらえて、私なんかの全部を好きになってもらえたのに。
春樹くんに────嫌われたくない。
「やだよ……。春樹くんに、嫌われたくない……」
初めて、その言葉を、ちゃんと形にした。
「嫌われるのが怖い」じゃない。
「あの人に嫌われるのが怖い」。
そうなったら、そんなことになってしまったら、と私は思う。
私はきっと、生きていけない。
本当に、冗談抜きで。
それは、抽象的な恐怖じゃない。
今ここで、スマホの相手の名前と直結した具体的な恐怖だった。
「会いたい……」
会いたい。逢いたい。今すぐにでも。
やだ。独りは嫌だ。
会いに行きたい。こえが、ききたい。
布団の中で、ぎゅっとスマホを胸に押し当てる。
画面の向こうにいるはずの人は、今、何を思っているんだろう。
あのオーチューバーだった頃の自分と、今の自分を、どんな気持ちで繋げているんだろう。きっと、もしかして、私を憎んでたんじゃ。
私なんかよりも、遥かに努力してた人が、あっという間に始めたての人間がたまたま自分よりも大きく伸びていくのを。
彼は─────春樹くんは、どんな気持ちで、見ていたんだろう。
私みたいな、最低な人間の音楽に「救われた」といってくれた彼は────どんな気持ちで、私の動画を、見ていたんだろう──────。
「会いたい、よ……。春樹くん……」
「はるき、く、うっ、ううぅっ゛あ、ああぁっ………!!」
堰が切れたみたいに、また、涙があふれてきた。
声を殺して泣こうとしても、喉の奥からしゃくり上げる音が漏れてしまう。
好きって言ってほしい。またあの声で、好きって。だいすきって。
また、あの声で、「ひとりを好きになってよかった」って言ってほしい。それなのに、その「好き」を踏みにじって、傷つけてしまったかもしれない。
「ごめんなさい……。ごめんなさい……ごめんなさい、ごめ、なさ、あぁぁぁ、ああぁぁッッッ゛っ、ああ………!!」
誰に向かっているのか分からない謝罪が、布団の中に溶けていく。
画面はいつの間にかスリープに落ちて、真っ暗になっている。でも、それでも私はスマホを離せなかった。
目を閉じても、さっきの水色のピックがまぶたの裏に、トラウマのように焼き付いているのだ。
オーチューブの画面の中のそれと、コンビニのレジトレーの上で転がったそれが、何度も何度も重なっては、私の胸を刺してくる。
世界は、何も変わっていない。変わりはしない。
変わったのは、私の見え方。暗く、淀んだ、灰色の世界。
六畳間の天井も、押し入れの木の匂いも、電気ストーブの音も。
変わったのは、私の中だけ。
私が救われたと思っていた場所で、誰かを傷つけていたかもしれないという事実だけが、今夜、はっきりと形を持って、私の中にただひたすらに居座った。
それをどうしていいのか分からないまま。布団の端を何度も何度も強く握り締めて、歯を噛み締めて。
また私はただ、子どもみたいに声を殺して泣き続けることしかできなかった。