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そうして俺は、核心を突くように、静かに彼女のもうひとつの名前を呼ぶ。彼女は耳を疑うかの様に、強く瞳を見開ききって反応を返す。
「………え?」
「……………」
俺は、その瞳を真っ直ぐに捉える。
オーチューブの登録者数、約八万人。約一年弱以上活動していて、ずっとその間、一切顔出しをすることもなくひたすら演奏動画だけを投稿していたオーチューバー。知る人ぞ知る、ギターの腕だけでのし上がった人間。
俺は─────幼い頃から焦がれた『光』に届きたくて、暗闇の中から手を伸ばし続けて、もがいていた時期があった。
だけどそれはどう足掻いても、足掻いても、届かない。
苦しかった。辛かった。
そんな時に、彼女の動画だけはずっと見続けていたのだ。通知もオンにしていて、全ての動画をチェックしていた。何度も、何度もその動画を俺は見続けていた。彼女の活動初期の頃から、ずっと。
同世代なのにこんなに努力してる奴がいる。
負けたくない。俺も、追いつきたい。ずっと、ずっとそう思って、見続けていたんだから。
一年近く、ほぼ毎日だ。
それだけ彼女の「音」を聴いていれば、分からないはずがない。
だからこそ、あの台風ライブの日の、あの演奏を聞いた時。
かちり、とパズルのピースがちょうど合わさるように俺の中でその正体が嵌った。それは「彼女」以外有り得ないと。
「………………………吉沢、く、ん………」
彼女は涙を一筋、ぽたりと流していた。それは多分、今度は怖いからじゃないんだと思う。あぁ、なんて。
なんて、綺麗な涙なんだろう。そんなことを思いながら、その姿に少し見蕩れる。
頬から顎先まで伝うそれを拭う事すらせず、後藤さんは俺に聞いてくる。大きく見開かれた瞳を閉じる事すらせずに。
「うそ、じゃ、ないですよね」
「嘘じゃない」
「……わっ私が動画を、やってたことも、全部、知ってるん、ですか……?」
「……知ってるっていうか、確信したって言うか。STARRYのライブハウスで初めて君の演奏を見た時から、かな」
「そ、そんな……」
その時、彼女は自分の頬に気付く。
狼狽えつつも、後藤さんはそのままそれを慌てて拭う。やがて、驚いた様に声色を震わせる。
「は、始めて聞いたその時点で、ですか……?」
本音を伝えよう。もう、隠す必要性も無い。
それに対して、俺は静かに頷く。
「………うん」
当たり前の話だ。
繊細で、キレのあるストローク。だけど、緻密なビブラートやリフから紡がれたあの音は、その存在を誇張するように力強さを表現もしていた。まるで、私はここにいる。私の音を聞け。そう叫んでいる様にすら、聞こえたのだから。
そんな音を、そんな簡単に忘れられる訳が無い。でも、この場合は少しそれっぽい理由を伝えた方がいい気がして、付け加える。
「……俺は元々割とアニメとかドラマも見るし、色んな曲とか聴くのもあって。君は、ギターで流行りの曲をカバーする動画、出してたろ?」
「何度か、それを聴いてたんだ。だから耳が覚えていたというか」
彼女はそれを聞いて、呆気に取られたように口を半開きにする。
「あっ……よっ、吉沢くんは凄く耳がいいんですね」
耳が良い、か。それは、割とよく言われたっけ、他の人間にも。
でも、こんなの正直大したことなんてない。だっていくら耳が良くったって
俺はそれを、反吐が出るほどよく知っている。
だから本当は、こんなの大したことない、と言いたかった。
でも流石に、褒めてくれた人にそれを口に出すのは
「……ありがとう。まぁ……昔から、ちょっと色々とね。音を聴く機会が、訳あって割かしあったからさ」
すると彼女は再び小さく俯き、何やら胸元の両手をギュッとスカートの元まで移し、生地を掴んだ。
「あっ、そう、なんですね」
後藤さんの、何度もこちらをちらちらと見つめるその挙動不審な様子は、著しい動揺を感じさせるには十分だ。
どうにか誤魔化す言い訳か何かを考えようとしているような、そんな風にも感じ取れる仕草。
「……もしかして、って思ってたけど。やっぱり、そうなんだね。当たり?」
その姿は、俺が言い当てた予想がおよそ事実であることを分かりやすく物語っているようにも見えた。
「……………」
随分と躊躇い、認めようかどうか悩むかのように唇をきゅっと結んだ後藤さんは、とうとうこちらへ向き直る。やがて、観念したように静かに頷いた。
「…………は、はい、そ、そうです……」
答え合わせは、驚く程に呆気なく彼女の肯定によって終わりを告げる。俺は静かに「…………そっか」とだけ呟く。
だが、この事実は別に不名誉な事でもなんでもないはずだ。むしろとんでもなく凄いこと。
なのに、それなのにそれを「他人」に敢えて伝えていない。
という事は、何か理由があるのは明白なんだろう。
いつかの俺みたいに、隠しておきたい事情があるのかもしれない。そう思いながら、フォローを付け加える。
「…………君が、ギターヒーローであることは、誰にもまだ話してない」
「多分、この事実を隠してるのはわざとだろうし、流石にそんなのを言いふらすほどデリカシーには欠けてないから」
「えっ、あっ、えっ、はい」
彼女はそれを聞き、何やら再び挙動不審に目を見開いて動揺する。
「………それに、誤解しないで欲しいのは、……それを知ったからと言って、君に代わりに何かを要求するとか、そんなこともする気もサラサラない。当たり前だし、まあ、有り得ないけど……そんなこと。ただ、俺は………」
そう。誤解されたくない。
俺はただ、伝えたいだけ。カラカラに乾く喉と
「…………………ッ、ぁ」
後藤さんと、一瞬だけ目が合う。
目を逸らされてしまうけど、その割に幾度となく視線を上げ直そうとしている様子が見えた。
その姿は、困惑しつつも、真剣に俺の言葉を受け止めてくれようとしている気がする。その事実に背中を押されるように、とうとう訴えた。
「何度でも言う。俺は、俺はただ────」
「……君に救われたんだ。君の演奏に、君の音に」
「……君に、魅入られた。君のギターを弾くあの姿に、一目惚れしたんだ。それを、ちゃんと、どうしても言葉にして伝えたかった」
「……!」
彼女は目を大きく見開いて、こちらを見つめ返してくる。その瞬間──────それを綺麗だと、静かに、何度でも思う。
「君の演奏が、君自身が、俺は好きなんだ」
「だから、付き合ってほしい。これが本音。本心。紛れもない、隠しようもない。これが、俺のすべてだ」
「これでももう、付き合えないなら………諦めるから」
「────…………吉沢、くん」
「………君の答えを、もう一度だけ、聴かせて。お願い」
言った。言い切った。
雑巾のように言葉の源泉を絞りきって、多分もうこれ以上の勇気はひと雫も出ない気がする。思わず、瞼をきゅっと閉じてから、もう一度、彼女を見る。
「わた、しは……」
後藤さんはまっすぐこちらを見つめ、小さく頷いた。
長いピンクの前髪のせいで、目元はほとんど見えない。それでも、不思議とまた、視線が重なったような気がする。彼女はか細い声で続ける。
「……わっ私はまだ……吉沢くんのこと、全然知らないです。で、でも……」
「……うん」
「……………初めて、誰かにここまで必要とされた気がします。はっはじめてなんです。そんなこと、言ってもらえたの」
だから、と声を上擦らせて、そうして彼女は必死に言葉を紡ぐ。
「私、正直言うと、結束バンドの皆だけいればって思ってました。こんな私を好きになる人なんているわけないって、ずっと……」
「……でも、私も、ほっ本音を、言ってもいいですか……?」
「……!」
その言葉を聞いた瞬間、ふたたび心がふわりと浮上する。その一言を、ずっと待っていた。何度も頷く。
彼女はまた少し俯き、袖の下で手をぎゅっと握りしめる。やがて、思いきったように顔を上げた。
「うっ、生まれて、はじめてなんです……」
「だから、どうしたらいいかわからなくて、こんな気持ちも初めてで……でも、それでも、これだけは吉沢くんに伝えたくて!」
その声は、今までで一番の声量。
俺は思わず、少し驚いて目を剥く。それは、ひどくひたむきで、まっすぐな、そんな言葉だ。
「うん」
頷く。ふと、思う。この子は、なんて、不器用で。
「わ、私は……よ、吉沢くんのことを……もっと、もっと」
「知りたい……です……っ!」
「…………!!」
───────なんて、愛おしい子なんだろう。嘘、だろ。マジか。
そう、強く思う。
その瞬間。
体育倉庫の古い窓が、カタリと鳴り響く。風が吹き抜けて、思わず目を瞑ってしまう。前髪が、風に弄ばれる。
ゆっくりと目蓋を開けると、彼女の長い前髪も同じように風に揺れていた。後藤さんも、目を閉じている。同じタイミングで、そっと瞼を開く。
「……」
目が合ったその瞬間。
すべてがスローモーションのようになって、時間は永遠に伸びていく。
碧色の空さながらに澄み渡るその瞳孔に、吸い寄せられそうになる。
「あっ、あっ、ああああぁぁ……あばばばばっばばばば」
……だけど次の瞬間、頬が真っ赤になったと思ったら、顔が一気に崩れ、彼女はそのまま前髪で顔を覆ってしまった。
「………」
なんというか、色々台無しになってしまった気がする。
思わず小さく笑ってしまう。
そうか、なるほど。
この子は、普通の顔を長く保つのが苦手なんだな。せっかく可愛いのにもったいない。だけど、最早そんな彼女に慣れつつある自分がいる事に驚いた。
「………そっか」
「全然、友達からでもいいんだ。だから、これから俺と仲良くしてくれないかな。君のペースに合わせるから。この先も、ずっと」
それを聞いた彼女は、ビクッと肩を震わせた。両手で前髪を覆ったまま、小さく問いかけてくる。「えっ……」
「……ゆ、ゆっくりでも、いいんですか? 私、コミュ障で、人前でしゃべるのもほんとにだめで……」
また不安そうな声。それでも、俺はゆっくり頷く。彼女は、また質問をする。
「こんなミジンコ陰キャみたいな私なんかと、本当に……?」
独特な自虐。
だけどそれは、彼女の余りにも低過ぎる自己肯定感故のものだろう。俺は思う。君が何度でも自分を否定しても、俺は何度でも君を肯定するんだ、と。
「当たり前だよ。ていうか、ミジンコなんかじゃないよ。そもそも、そうじゃなきゃ、何のために付き合いたいなんて言うと思う?」
付き合いたい、恋人になりたいってことは、そういう自信のなさも全部含めて好きになるということだ。でなければ、付き合う資格なんてどこにもない。
「で、でも……」と、彼女は小さく俯いた。
ああ、やっぱり、と俺は思う。この子は、俺なんかより、ずっと光り輝ける人間なのに。
それを、本人は知らない。きっと自分では理解をしていないのだと確信する。そんなに怖がらなくていいんだ。
そう言いたい。でも、それが届かないことも、もう知っている。
一瞬、沈黙が降りる。
体育倉庫の窓が、またカタリと響く。外から届く風の音。彼女は、居心地悪そうに身じろぎをした。
どんな言葉をかけてやればいい?
まるでギターをフルピッキングするみたいに、思考を速弾きで巡らせる────でも、ダメだ。
どれだけ考えても、やっぱり「大丈夫だよ」くらいしか思いつかない。
それ以外のどんな言葉も、薄っぺらくなってしまう気がして、怖い。だからもう、ハッキリと、俺はそっと伝える。
「大丈夫だよ」
そうしてやっぱり、どれだけ言葉を絞り出しても、結局ここにたどり着く。
彼女には、俺の “本気” なんてきっと全部は伝わらない。いや、それどころか今の俺の『告白』が、どれだけ君に伝わっているかも分かったもんじゃない。
それでも。
伝えずにはいられない。伝えなきゃいけない。
これだけは、わかって欲しい。
俺にとって、君の存在がどれだけ俺の運命を変えてくれたのか。それだけはどうか、伝えたい。その片鱗だけでも、どうか君には伝えたいんだ。
だってもう俺の人生は、あの日より前の──────後藤ひとりという存在に惹き寄せられる前の人生には、もう戻れないのだから。
だからその覚悟を示す。
俺はそれ以外の方法なんか知らない。知らないし、それしか出来ないのだから。
「─────俺は、そんな後藤さんのことも含めて、全部好きになる」
「受け止めるから」
俺のその言葉を聞いた瞬間、後藤さんの肩の震えは少しだけ止まった気がした。
「……ほ、本当、ですか? 本当に、いいんですか?」
安心させてあげたい。その不安を、少しでも和らげたい。だから、俺は何度でも頷く。
「うん、約束する」
「…………っ」
彼女は、唇を静かに結ぶ。すると、少しの間無言になったかと思うと、やがて震えながら華奢な腕と手を伸ばしてきた。「……………」
その細く小さな指が、俺の右腕へ届く。顔が酷く赤い。そっと俺の腕の袖口を掴む。俺の心臓も、きゅっと掴まれたような気になる。
「…………後藤、さん?」
「………ほんとうに、いいんですか?」
「………っ、うん。もちろん」
「こっこんな、私でも、望んでいいんでしょうか?」
「……いいんだよ」
そうして彼女は、とうとう俯いたまま呟く。
「あっ……うっ……よっ、吉沢、くん。私……わたし……」
「……こ、これから……いっぱい知りたい……です!!」
頬を真っ赤に染めた後藤さんは、振り絞るかのような頼りない声で続ける。
袖から彼女の震えが伝わる。心にそれが届く。言うまでもない。きっとこれは、紛れもない本心なのだと感じる。
「わっ私は、吉沢くんの言葉を信じたい、です」
「もっと、吉沢くんを、知りたい……です……」
「だから、吉沢くんのことをもっと……教えて、欲しいです!」
「!!」
彼女はそうして再び、声の声量を上げながらそう訴えた。不器用な子だけど、その仕草がひどく愛おしい。
嘘、だ。本当に?
俺は彼女から、そんな言葉が返ってくるだなんて一ミリも思わなかった。
胸が、一気に、歓喜に揺れる。
恋って、不思議だ。
ついさっき─────正直なことを言えば、俺は地の底まで気持ちが落ち込んだ。彼女に振られたと思い込み、目の前が白く弾けた後にあっという間に世界が黒く歪んだ気がした。
だけど、今は違う。
彼女の何気ない一言で、一気に俺にとっての音も、視界も、心までもが─────また大きく、強烈な光の中へと包まれていく。その
ああ、
俺にとって、君は救いなんだ。
君に出会えて、良かった、と。
俺は、そう強く思える。確信した。君のおかげで、俺は光を見失わなくて済んでるんだ、と。
あいっかわらず重いなぁ。ほんと。自分でも、呆れる。
だけど、それでも。
気持ちを伝え慣れていないことが分かるその姿が、堪らない。ヤバい。目元が熱い。
これ、部活の試合で勝った時なんかよりも。
初めて
ずっと、ずっとずっと、嬉しい。たぶん生きてきて、一番今が嬉しいのかもしれない。死ぬほど、嬉しくて仕方がない。
だけどこんなの後藤さんにバレたくない。この子の前で、情けない姿なんか絶対に見せられない。見せちゃダメなんだ。
そう思って俺は必死に、彼女に握られていない方の腕で目元を強く擦った。
「………うん」
何となく頬が緩むのを感じつつ、そのままその言葉に頷いた。
やがて、彼女の言葉の続きを待つ。前髪を揺らしつつ、後藤さんは再び顔を上げる。
「っ……よ、吉沢くんっ」
真っ赤に染まった頬。
そして、勇気を振り絞るかのように見開かれた彼女の瞳。
そんな表情のまま、後藤さんはこちらを少しずつ見上げてきた。
「やっ、約束します!! 私、こ、こんなダメな人間だけど……それでもいっいつかきっと、絶対に……!」
「私、吉沢くんにとって……大切な存在になれるように、ががががっ、頑張りましゅから……!!」
「……後藤、さん……」
彼女は、そのまま握った袖の力を強めてくる。
ふと、気づく。今まで、合いそうで合ってなかった目線。合いそうになると逸らされていたもの。
だけどその瞬間。俺達は、今までまともに合わせられなかった目線が合っていた。それに気付いて、どうしようもなく胸が爆ぜる。
「………だから、よろしく、おねがいっ……します」
「いっ今は、これくらいしか言えませんけど……こ、これが、今の私の答え、です。いいいいイキってすみませんん………」
「………」
「───────……………っ」
それを聞いた時。
空っぽの心が満たされたような、そんな気がした。高揚感を抑えきれず、歓喜を押し殺す。イキってなんかいない。そんなことない。
そんな訳ない。救われる。
生きててよかった、と思えた。
────ダメだ。もう、無理だ。なんて嬉しい本音なんだろうと、また、泣きそうになる。耐えきれない。
もう、無理だった。
「ッ……!!」
次の瞬間。
もう、気付いた時には遅かった。
俺は、無意識に彼女を、めいいっぱいに抱き寄せてしまっていた。
「えっ?」
「…………え……?」
後藤さんは、二度ほど不思議そうな声をあげて、動かなくなった。