ぼっち・ざ・ろっく! フラッシュバッカー   作:空山 零句

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CHAPTER #42 「Sign」

 

 

 それは、家に帰り着いた頃には、慣れてきていたはずの冷たさ。

 でもどうしてか、今日はやけに胸の奥が冷たく感じる。

 

「……ただいま」

 

 玄関の灯りはもう落ちていて、廊下の明かりだけがぽつんとついていた。すー、すー、と静かな寝息が聞こえてくる。

 静かにリビングを覗くと、テレビは消えていた。ローテーブルの上に空いた缶ビールと、読みかけのギターマガジンが裏返しで転がっている。多分、テレビは自動で消えたか何かだろうか。そして、その隣には束のように重なった歌詞が幾つも在る。

 床には寝落ちと共に落としたのであろうボールペンが転がっていた。

 

「……ったく」

 

 ソファには、ジャージ姿の親父がくたっと横になっていた。床へ垂れる右手。もう片方の手にはまだタバコの箱が握られたままだ。

 

「……またここで寝てんのかよ」

 

 小さく苦笑して、毛布を引っ張り出して、親父の体に掛ける。

 近づくと、微かにタバコと僅かな整髪料と、昔から慣れ親しんだ匂い。パーマ気味の髪型と細身な体型から鼻腔へ伝わるそれは、十六年何度も嗅いだ親父の匂いだった。

 ギターケースが壁際に立て掛けてある。それを収める黒いハードケースもその近くに落ちていて、ふと、それを視界の端で捉えた。

 

 その瞬間、残像の様に今日一日のいろんな音が、遅れて耳の奥で混ざり合う。

 

 ひとりの不器用な接客の声。

 虹夏のお客さんと話す時の笑い声。

 リョウに喜多さんが弄られて、それを恥ずかしがる声。

 店長と話した時の、「お前マジでなんでも出来そうだな」という冗談交じりの本気の声。

 ───────そしてあの、小さな一言。小銭を数えている時に聞いて、思わず目を見開いたまま硬直した言葉。

 

『春樹くんって……ほんと、何でもできちゃいますよね』

 

 階段を登ろうとした時、その語尾の残像が俺の脚を止めた。

 ふと思い出した瞬間、胸の奥が、きゅっと軋む。無意識に、歯軋りを重ねている。ギシィッ、と響く歯肉と奥歯の感触が走っていく。

 

 何でもなんて、出来る訳ねぇだろうが。

 何でもなんて出来たら、苦労しねぇんだよ。それなら。

 

 喉の奥まで出かかったそんな言葉。ただひたすらに湧き出た、毒と悪態。苛付き。それを久方ぶりに飲み込んだのは、いつからだったか。たぶん、少し前からだ。

 

 “ギターヒーロー” が画面の向こうで当たり前みたいにやってることすら、俺には出来なかったくせに。

 

 ため息をひとつ落とす。

 狭窄(きょうさく)する視界の中、ふらつく脚で自分の部屋に入る。そんな、吐き捨てるような物言いを人に、ましてや恋人になってくれたあの子に伝えられる筈もなかった。言える訳が無かった。

 虚ろな世界。

 全てが灰色に思えた景色。

 その瞬間、それがまた脳内にフラッシュバックする。瞬きは、俺からひとりとの幸せな日々を奪っていく。俺の醜さを暴くように。

 六畳ちょいの狭い空間。壁際に置いた机。古いノートパソコン。その横に、キーケースと長財布をいつも通り放る。

 金属音と一緒に、水色のピックが、じゃらりと鳴った。

 さっき、コンビニのレジトレーに転がり落ちたそれを、ひとりがじっと見ていた顔が浮かぶ。

 

「…………」

 

 その時、心臓が一回だけ、嫌なふうに跳ねた。

 こないだ親父の部屋から拾った、床に散らばって捨てられていた歌詞を丸めた紙もまた、視野に入っていく。そのピックと紙が思い出させる、苦い記憶。

 

 親父にもらった、初めてのピック。

 

 使い潰して、もう実際には弾けない。

 でも、なんとなく捨てられなくて。鍵と一緒にぶら下げているその小さな三角形は、俺にとってずっと「印」みたいなもんだった。

 

 ──────ちゃんとやれ。お前は出来る。

 

 小学生の時に聴いた親父の声が、ふと、耳の奥で蘇る。

 それに続いて今度は、仲が良いとか思い込んでたクラスメイトの奴らの笑い声が重なっていく。まだ声変わりもしてなかった時の自分の声と共に、息を吹き返す。

 

『なぁ。もし俺が天才の息子だったらさ、どう思う?』

 

『え? んーーーー、七光りってマジ羨ましいんじゃね』

 

『だって楽じゃん。将来勝ち確! みたいなもんだろ』

 

『アハハッ、間違いねー、一気にヌルゲーなりそー!』

 

『──────…………仮に、そいつが結果を出せなかったら?』

 

『でもさ、結果出せないならその程度ってことじゃん?』

 

 分厚い何かで、胸の内側をぐりぐり抉られてるみたいな感覚。あるいは、細かい針を幾度も幾度も背中から刺されていくような不快な感触。

 

 うるせぇんだよ。

 

 ぶん、と頭を振って、そのままベッドに倒れ込む。

 胸に穴が空いたような虚しさと共に、スマホをズボンのポケットから引きずり出して、画面を点ける。

 時刻は二十三時過ぎ。

 通知欄に、ひとりの名前は増えていない。

 

「…………」

 

 さっき別れてから、そんなに時間は経ってない。

 駅まで送って、改札口で手を振って。ピンクのジャージが下北沢駅の人混みに紛れて見えなくなって。

 そのあと、俺はその場でしばらく立ち尽くしていた。

 ひとりが振り向いた顔。

 交差点を渡って何かを言いかけていたあの子の顔。その後渡った横断歩道の信号の下で、何かに怯えるみたいに一瞬だけ表情を曇らせていたのを、俺は見てしまったからだ。

 何か、引っかかってる。

 こっちを振り返った時の、あの一瞬。

 あれは、どう見ても「言いかけたのに飲み込んだ人間の顔」だった。

 

(………やっぱ、かけるか)

 

 俺はLOINEを起動させて、ひとりのトーク画面を開く。

 最後のメッセージは、いつも通りの他愛もないやりとりで終わっていた。

 

『帰ったらまた連絡しますね』

 

 その文字列を見ただけで、勝手に口元が僅かに緩む。

 親父の寝息しか聞こえない家の中で、あの子の声だけが俺をクソみたいな現実から少しだけ浮き上がらせてくれる。

 

『おつかれ。ひとり! 今日も電話する? 疲れてたら無理しなくていいよ』

 

 送信ボタンを押す前に、一瞬だけ指が止まる。

 “疲れてたら無理しなくていい”って、どの口がほざいてんだ? むしろ毎日救われてんのは俺の方なのに。そんな自嘲を胸の内で転がしてから、何度も躊躇ってから、指先を押し込む。

 既読。

 数秒後、返信がすぐに返ってきた。

 

『だ、だいじょうぶです。今日も、お話、したいです……!』

 

「あー……」

 

 声に出して笑ってしまう。

 語尾の「です」が微妙に多いのも、変に丁寧なところも、相変わらずで。可愛くて仕方がない。

 

『じゃあ、かけるね』

 

 制服を脱いでハンガーに掛け、軽く整える。そのまま黒の緩めのジャージを羽織り、ベッドに腰掛けた。そして、ひとつ小さな息をつく。

 そのまま通話ボタンを押す。

 数コールのあと、耳元で、少し震えた声が弾けた。

 

「っ、は、はい……。も、もしもし……春樹くん……」

 

 それだけで、視界の色が一段明るくなる気がする。

 

「もしもし。今日もお疲れ、ひとり。ドリンク、ありがとな。めっちゃ助かった」

 

 仕事の話。今日来てたお客さんの話。

 虹夏がおすすめしたバンドのこと、リョウのマイペースさ、喜多さんがカウンター裏で空回りしてたこと。

 

 ひとりの声は、最初こそぎこちなかったけれど、いつの間にかいつも通りの調子に戻っていた。

 たぶん、彼女の中の「日常」のひとつとして、この電話が組み込まれ始めてるんだろう。そう思ったら、胸の奥がふわっと温かくなる。

 

 そう。ほんとは、それだけでよかった。

 

 今日も一日頑張ったね、お疲れ。

 また明日も一緒に頑張ろうね。

 

 ただ、それだけで締め括れるはずの時間だった。

 

「……あっ、その」

 

 ひとりの声色が、少しだけ変わったのが分かったのは、そんな何気ない会話が一段落したあとだった。

 

「きょ、今日は、その……店長さんや虹夏ちゃんも言ってました、けど……。ほんと、春樹くん、すごかったです」

 

「え?」

 

 不意打ちみたいな言葉。耳が一瞬だけ熱を持つ。

 

「ド、ドリンクも、その……最初はやっぱり、慣れないと大変ですけど……。昨日始めたばかりなのに、あっという間に、私よりずっと上手くなっちゃって……。お客さんと話すのも、すごく自然ですし」

 

「ああ〜……店長が虹夏から話聞いた云々って、それね」

 

 笑いながら返す。

 でも、その笑いは、自分で思ってるほど自然じゃなかった気がする。

 レジ打ちも、お釣りの受け渡しも、客の顔を見て一言だけ冗談を挟むタイミングも。

 全部、今日突然出来るようになったわけじゃない。

 

 言うなればそれは、親父の背中の、縮小コピーみたいなもの。劣化品。模造品でしかないもの。

 

 ステージの上で、何度も何度も、目の前の客に向かって話しかける親父が記憶の脳裏に蘇る。

 ライブが終わったあと、飲み屋で酔っ払った大人たちの話を聞きながら、笑って相槌を打っていた小さい頃の俺。あの背中に憧れて、後ろをただひたすら着いてくばかりだった子ども。

 数だけは無駄に積んだ。

 その場の空気を読むことだけは、変に上手くなった。

 でも、それは「何でも出来る」なんて綺麗な言葉じゃない。

 

「……そんなことないよ」

 

 思わず、少しだけ声が低くなっていた。あっ。やばい。そう自分で気づいて、慌ててトーンを戻す。

 

「でもちゃんと、出せてたじゃん? お客さんも喜んでたし」

 

 ひとりは、俺のそんな薄い取り繕いを、素直に信じてくれる。

 

「そ、その……春樹くんが、そばでフォローしてくれてたおかげ、です……」

 

「あはは、お互い様だな」

 

 ほんとは、俺なんかより、ひとりの方がよっぽどすごい。

 あの子は、自分の恐怖を抱えたまま、それでも目の前の人間に水やグラスを差し出している。

 

 俺は、ただ、器用に「何か」を誤魔化してるだけだ。

 

 それでも、ひとりにそう言ってもらえるのは、正直、嬉しい。

 胸の奥に、自分でも持て余すくらいの熱が溜まっていくのが分かった。

 

「虹夏ちゃんも、褒めてましたよね。『春樹くん、ステージに立つの似合いそう』って」

 

「……ああ。なんか、前に立ったらファン出来そうだよね、とか言ってくれてたな。虹夏も」

 

「………」

 

 その時に感じた、チクリとした違和感がまた顔を出す。

 

 前に立つこと。

 ステージの真ん中。

 スポットライトの中心。

 

 何度も夢見て、何度も諦めた位置。

 分かっている。虹夏に、店長に、多分、いや間違いなく、皆に悪意なんか無い。あるはずが無い。

 

「あっそ、そうです。私も、正直そう思います」

 

「───────……ひとり……」

 

 相変わらずの真っ直ぐな声。

 どこにも影がなくて、ただ俺のことを信じてくれている色だ。

 

「私、その……見てて、思ったんです。春樹くんが、もしステージの真ん中に立ってたら、きっと、すごくカッコいいだろうなって……。そっそれこそ、ヒーロー、みたいだなって……」

 

「………そ、っか」

 

 だから、だからこそ。

 より一層、心臓を鷲掴みにして潰されているような気になる。

 鼓膜の奥が、きゅっと痛くなっていく。

 

 ヒーロー。

 

 それは本来、俺が彼女のことを形容する言葉だった。ひとりに何度も、初めての告白の時に伝えた単語。初めてギターヒーローの動画を見た時に、頭に浮かんだ言葉でもある。

 

 画面の向こうで、ボロボロになりながらも弾き続けている名前も知らない誰か。

 

 分かっていたのは、たぶん、同世代の女の子だということ。

 俺が投げ出してしまったはずの場所で、まだ戦い続けていた誰か。

 始めて見た瞬間のいつかの感動。画面越しに憧れたヒーロー。

 消えない────消えない。消えなかった、残像。

 

 ヒーローは、俺の隣じゃなくて、ずっとあっち側にいる存在のはずだった。

 

 ……なのにひとりは、その言葉を、こっちに向かって投げてくれる。多分、紛れもない本心だ。

 そんな器用なお世辞を後藤ひとりは言えるような子じゃない。

 ずっとここ数日話して、それが俺には十分過ぎるくらい分かった。

 胸の奥で、何かがじわりと溶ける音がしている。

 嬉しい。正直、死ぬほど嬉しい。

 なのに。その裏側で、別のこえが、音を立てて軋む。

 

 お前に、そんな言葉を受け取る資格なんかどこにあるんだ、と。

 

「……ヒーロー、ね。そういえば、なんか店長とか、あのおじさん達からも『前に出る気はないの』とか言われたっけな」

 

 それは、限界ギリギリの冗談だった。背後から聞こえるこえを受けて、精一杯に誤魔化しながら呟く、そんな冗談。

 ひとりの熱を真正面から受け止めたら、自分のどこかが崩れそうで。そうしなきゃ、やってられない。

 

「は、はい……っ、そうですよね。私も聞いてました。私はアレはお世辞じゃないと思うんです。実際、私も、そう思うので」

 

 追い打ちみたいに、ひとりは言葉を重ねてくる。

 やめろ。

 やめて、くれ。

 そこに計算なんて欠片も無いのは分かってる。全部、本心なんだって。

 だからこそ、痛い。

 違うんだ。

 

 ……俺は、ヒーローなんかじゃない。

 

 地面に這いつくばったまま、誰かの動画にしがみついて、それでかろうじて息をしてただけの、ただの凡人だ。

 

「そ、それで、その……思ったんです」

 

「うん」

 

 嫌な予感が、背筋を伝って這い上がってくる。

 さっき、下北沢の交差点で感じた『何か』と同じ種類のやつだ。そして、彼女は俺がそんなことを考えているとは露知らず、そのまま続ける。

 

「春樹くんが、もし……その、動画、とか、してくれたら……って」

 

 そこで、一度、ひとりの言葉が途切れた。

 少しだけ、息を飲む音が聞こえる。

 

 胸の内側で、何かが「カチリ」と音を立てた。

 

 動画。

 オーチューブ。

 

 その単語だけで、脳の奥に沈めていた泥水が、勢いよくかき混ぜられる。土砂の様に、雪崩のように俺へ襲い掛かっていく。痛む。張り裂ける。目を剥いたまま、動けなくなる。

 

「そっ、それなら、その、ギターとかも、絶対すごく上手だと思うんです。私、全然ちゃんとは聞いたことないんですけど……。それでも、その……」

 

「あっ、その、何を勝手に、知りもしないくせにって感じで……い、イキってすっ、すみません」

 

「……ううん、それは別に、全然いい、けど」

 

 ひとりの声は、震えている。

 緊張からなのか、俺に何かを渡そうとしているからなのか。

 その震えが、妙にリアルだった。生々しかった。

 画面の向こうの視聴者じゃない。“俺” に向けて、投げられている本音。

 

「だから、その……。いつか、その……春樹くんの演奏とか、オーチューブで……聴いてみたい、です……私」

 

「──────────────……………………」

 

 その瞬間、呼吸が止まった。

 

 鼓動の音だけが、耳の奥でうるさいほど響く。

 頭の中に、あの頃の画面が一気にフラッシュバックする。

 白い壁。

 安っぽい椅子。

 膝の上のアコギ。

 再生数「二十七」。

 高評価「三」。

 コメント「零」。

 剥いたままの眼球から、何度も何度も何度も何度も何度も零れた熱。

 投稿ボタンを押すたびに、何かを切り売りしているみたいで。

 それでも「いつかどこかの誰かに届くかも」などと、安っぽく信じていられた頃の俺の姿。

 

 そして、対比的に目に入った『ギターヒーロー』の動画のコメント欄。圧倒的な再生数────「五十万」、高評価「一万」。

 

 その「どこかの誰か」が、今、電話の向こうでこうして話している。

 

 そんな、偶然みたいな奇跡、あるわけねぇだろうが、と。

 かつて後藤ひとりとギターヒーローが繋がった時、内心吐き捨てた。

 ふと、もうひとつの画面が浮かぶのだ。

 ─────毎日、俺は『後藤ひとり』という存在に救われている。だけど同時に、とまた考える。

 

 

 同時に、かつて俺は何よりも『ギターヒーロー』が憎かったんだ。

 

 

 ギターヒーローのチャンネル。

 ここ、僅か一年も無かったはずだ。たまたま見かけた俺と似たコンセプトの演奏動画。

 だけど。全く伸びやしなかった俺とは対比的に、いつの間にか一気に桁がひとつ、ふたつと違う数字になっていた登録者数。

「救われました」とか「いつも聴いてます」とか、「ありがとう」のコメント。俺が、ずっと求めていたもの。

 それが何十件も何百件も並んでいるのを、寝る前に眺めて。

 そうして、息ができなくなるほど─────

 

 

 それをこれ以上無いほど、憎んだ。

 

 

 憎んだ。

 憎んだ。憎んだ、憎い──────憎い、憎い。

 

 吐き気がした。

 むしろ、吐いた。何度も、何度も。

 俺が欲しかったものを、全部横から掻っ攫っていくことに対する、腹の底からの怒り。

 およそ、内蔵が灼けるほどの憎悪。考えるだけで軋むこめかみ。全てが、真っ赤に染まり、血走った視界。

 呼吸がまともに通らなくなるほど、胸を抑え込んで、鼻腔から血が止まらなかった瞬間。

 それを、今でも覚えている。多分、一生忘れられない。

 親父がいない時、トイレから出られず、何度も声にすらならない悲鳴を叫んだことを。

 

 

 人はそれを、『嫉妬』と呼ぶらしい。

 

 

 人を妬んだことの無い人間が羨ましい。

 そういう奴は出会った事がないだけだ。

 どんなに努力しても、血が滲むほどの努力を重ねてもなお、呆気なくそれを踏み潰していく存在に。

 さながらそれは太陽のよう。

 全てを焼き尽くし、後には何も残さない程の輝きを放つそんな存在に、出会ったことがないだけだ。

 嫉妬で焼け付く細胞。

 全身が羨望を超えた怨嗟(えんさ)と憤怒で血液が沸騰しそうだった。

 

 それは中学の時の俺の、多分この世で最も醜悪で、醜くて、情けない姿だ。

 

 勉強を、努力した。人一倍。

 どんな科目も。

 それこそ、人に教えられるくらい、困ってる人を助けられるくらい、だけど自分も常に上を目指す形で、努力を重ねた。文武両道でなければ、意味がないと思ったから。親父のようになれないと思ったからだ。

 

 運動を、努力した。人一倍。

 当時から得意だったサッカー。

 分からないことがあれば顧問に練習終わりに聞いて、最低でも一時間、長ければ二時間はその練習を一人残ってやったこともあったか。そんな事も努力出来ない奴が、親父のようになれないと思ったからだ。

 

 家事を、努力した。人一倍。

 親父が苦手だった家事全般。

 掃除だって、洗濯だって、飯だって。朝から親父の飯や自分の弁当を作り、帰ってきてからもできる限り自炊した。親父がほっといたらロクなもんを食べやしなかったから、スマホを片手に常に美味いもんを食わせる為に、脳の思考回路をぶん回した。

 

 全ては、親父を助けたかったからだ。

 

 そして何よりも、親父のように、なりたかったからだ。

 全ては、あの日。

 幼い頃、まだ五歳とか。その時に見た────『ヒーロー』の残像が、俺の脳裏に焼き付いて、離れなかったからだ。

 それはさながら、夜空の “一番星” の様に。

 何度も、何度も憧れて、幼い頃から必死こいて、その瞼の裏にまで焼き付く輝きへ手を伸ばした。惨めで、無力な、アンダーグラウンドの底から、何度でも。

 

 でもできなかった。

 

 伸びなかった。

 動画は、いくらやっても伸びなかった。

 何一つ、手を伸ばしても、手を伸ばしても、届きやしなかった。

 思った。何度も、何度も、何度も。

 

 ふざけるなよ。ふざけんな。ふざけてんじゃねぇ、と。

 

 なんで、“お前” なんだよ。なんで、俺じゃないんだ。お前なんかよりも前から。

 

 こんなに、俺だって、死ぬほど努力してるのに。どうして。

 なんで。どうして。

 

 これだけ、文武両道を極めて。家事だって、なんだってこなして。

 空いた時間で、やっとの思いで─────睡眠時間を削ってまでして捻出した動画の作成時間と練習時間。

 

 勉強も部活も家事もこなした上で、夜の二十二時から、メトロノームだけを友達にして指板をなぞる時間が俺の全てだったのに。

 

 小学生の頃から弾き続けたギブソン レス・ポール スペシャル。

 親父が使わなくなったそれを借りて、幾度も鳴らしたコード。練習時間なんてそれこそ間違いなく何百、いや、下手をすれば何千時間は軽く行っただろう。何せ年単位だ。

 その中で、何度もミスりながら収録を重ねて、一番自信を持って人に見せれると思った演奏。それを、必死こいて編集して───数えきれない数を投稿し続けた。

 

 でも、それでも──────全く伸びなかった。

 正直に言う。

 ギターヒーローの動画に、クオリティなんか負けちゃいなかったはずだった。負けるはずがなかった。向こうの動画は俺からすりゃ拙いなんてもんじゃない。なんなら最初の頃の動画は凡ミスすらそのまま全部乗ってた。

 

 Fのバレーで押さえ損ねて「ジャリッ」ていう開放弦が混ざる音。

 Bメロの十六分カッティングで、右手がもつれて一瞬だけ裏拍が死ぬ瞬間。

 そういうのを、安物のオーディオインターフェース経由でパソコンに突っ込んだろな、と想像なんか容易に出来た。

 酷いもんだった。

 こんな動画に、俺が負けてるはずがないだろ、って、何度も思った。

 だって、────俺は。

 

 波形見ながらコンプ掛けて、イコライザーでローカットして、「ノイズ消えてくれ……」って祈りながら何度もやり直しした。

 メトロノームをBPM一三〇から始めて、イントロのAm→F→C→Gの循環をひたすら八分で刻んで、慣れてきたら十六分に上げて。

 右手のオルタネイトが走らないように、ピックの先っちょだけで弦を撫でるみたいに弾いて、それでもクリックからちょっとでも走ったらテイクボタンを止めて「やり直し」。

 指板の五フレットでEm、七フレットでG、八フレットでC。

 同じフォームをスライドさせてパワーコード刻むだけなのにミュートが甘いとすぐモワっとしたローノイズが乗っていた。

 

 そのたびに左手の薬指の腹が真っ赤になって、出来かけのマメが潰れて。

 

 それでもそれをタオルで指を拭いて、もう一回録り直す。

 歯軋りを重ねながら、何度だって弾き続けたんだ。

 テイク名のファイルが「rewrite_36.wav」とか「rewrite_52.wav」とか、自分でも笑える数字になっていくのを見ながら。

 

 「ここまでやって、これかよ」ってモニターに向かって何回ため息をついて吐き捨てたかなんて、数えちゃいない。

 

 でも分かっていた。

 その理由。

 伸びない理由を。

 

 ─────至ってシンプル。

 悪いのは、俺だ。

 

 需要を掴む能力が無かったからかもしれない。どうすれば伸びるのか、どうすれば良いのかをがむしゃらに考えるだけで何一つ筋が通っていなかったからかもしれない。

 分からない。分からないし、もはや知ったことじゃない。

 

 ただひとつ確かなのは──── 俺に『才能』が無かったから、ということだ。

 これだけは、明確に言える。

 自分にとって、“良いもの” かどうかなんて、それに興味の無い “他人” には一ミクロもどうでもいい。

 

 “他人” にとっては、好きでもないものなんて簡単に踏みにじれる。

 実際に、評価の言葉は貰えない割に、誹謗中傷はいくらでもされたことがあった。それに対し、どれ程憎しみや殺意を抱いたかなんて知れない。

 

 でも今ならわかる。何かを()()ということは、そういうことなのだ。

 

 だって、そんなもの、所詮 “他人事” で。

 それを知らない他人にとっては、それを生み出すにあたってどれだけ努力したかとか、そんなもの関係ない。どうでもいい。──────興味なんか持たれない。

 

 当たり前のことなのだ。

 

 それを生み出すための痛みとか、苦しみとかなんて、赤の他人にとってはクソほどどうでも良い()()()でしかないんだと気付くのに、そう時間は掛からなかった。

 

 それは真理であり。

 明瞭で、それでいて、当時の俺を精神的に殺すのには十二分すぎる事実だった。受け入れられるはずもなかった。

 

 何度死にたいと思ったか。

 何度死んだ方がマシだと思ったか。

 

 これだけ努力しても、努力をすることが出来る本物の天才の前じゃ、本物の “才能” の前じゃ所詮無意味だった。

 

 それが、『現実』だった。

 

 圧倒的で、あまりにも、無慈悲で。

 そして、残酷な現実。世界はどこまでいっても、俺にとってはただただ残酷なだけだった。

 

 どこに行っても、何を目指しても、褒められることなんてない地獄そのものだ。どこ見て歩きゃ褒めて貰えんだよ。どうすりゃいいんだよ、こんなの。何度そう思ったかなんて数えちゃいない。

 俺は、その中で────ただひたすら足掻くことしか出来ない存在というだけの話。

 

(───────それでも)

 

 それでも、それ以上に、と思う。

 

 彼女の音に何度も助けられてきたのも本当だったんだ。それもまた、事実だった。

 悔しくて悔しくて、何度も技術を盗もうと見返す度に、拙い所と同じくらい、凄いところもあって。

 それを見る度に、悲しいくらい聞き惚れてしまっていた。その音に、救われてしまっている自分が、確かにそこにはいたんだ。

 

 だから──────赦せなかった。

 

 そんな、憎悪を重ねたことを。

 海溝の様な、深海の底のような暗がりから、彼女を憎んでしまったことを。

 彼女は、何も悪くないのに。

 勝手に嫉妬して、勝手に怒りを抱いて、逆恨みみたいに罵詈雑言を内心何度も吐き捨ててしまったことを。

 

 赦せるはずもなかった。

 

 何よりも、本当は──────

 

 そんな自分が、大嫌いだったんだ。

 

 人のせいにして、その怒りを努力に向けることを諦めたそんなクソ野郎が、死ぬほど嫌いだった。ただひたすらに、俺はそういう自分が惨めでしょうがなかった。

 

 そんな、過去の追想が、一瞬にして俺の脳裏を迸っていく。無限のようにすら感じた、ほんの僅かなその回想を抱いた俺に、ひとりのスマホ越しの愛おしい声が響く。

 

「きっと、たくさんの人に届くと思います……。春樹くんは、私にとって本当に、尊敬してる人、ですから……」

 

 大切な、大好きな彼女の言葉が、喉の奥に突き刺さる。

 

 たくさんの人に、届く。

 やめてくれ。やめろよ。頼むから。

 そのフレーズだけで、胃のあたりがきゅっと縮む。

 

 お願いだから、『君』がそんなことを言わないでくれよ。

 

 届かなかった側の人間にとって、それがどれだけキツい言葉か。

 頭では分かってる。痛いほど、分かってる。

 でも、口にしてるひとりは、それを全く知らない。知らないから、真っ直ぐ、言える。言えてしまえる。

 だけど言えるはずもない。

 後藤ひとりは、なにも悪くないんだ。何も、本当になにひとつ。

 この子は人を踏みにじって平気でいられるような子なんかじゃない。だから、ただ分かってないだけなんだ。その裏に潜む、()()()()()()()()の裏に死んでいった()()()()()()()()()()のことを。

 

 そして、ふと思う。気付いてしまったのだ。

 ひとりの、その言葉がきっかけで。

 

 ────ああ、やっぱり。

 俺は、まだあの頃のことを許せてないんだ、って。

 

 ギターヒーローのことも。

 数字に折られた自分のことも。そのうえで、ギターヒーローに救われて、同じくらいに憎悪したことも。

 中学の頃、面白がって「七光り」だのなんだの言ってきたクラスメイトのことも。

 何ひとつ、整理なんて出来ちゃいなかった。ただ、ただただ逃げ続けて、その価値観を何ひとつとして書き換えることも出来ちゃいなかったんだ、と。

 

「…………ひとり」

 

 気がつくと、俺は彼女の名前を呼んでいた。ごめんね。ごめんな。

 どうか、許して欲しい。

 ただひたすらに、そんなことを思う。うつむきながら、虚ろになっていくのが分かる自らの視界の中で。

 喉から絞り出たのは、自分でも驚くくらい、掠れた声だ。

 

「………………は、はい」

 

 電話越しの空気が、一気に緊張するのが分かる。

 やばい。このままだと、絶対に、余計なことを言う。君を傷つけてしまう。

 嫌だ。そんなの、嫌だ。

 だって、そうでなければ。

 

 こんな俺を選んでくれた、逃げた臆病者の俺を選んでくれた、君を喪ってしまう。

 ギターヒーローじゃない、紛れもないその裏にいた、俺が確かに本心から好きになったこの世界でたった一人の君自身を失くしてしまう。

 

 “そんな分かったようなこと、簡単に言うなよ” とか。

 “届かないことだってあるんだよ” とか。

 “お前に俺の何が分かるんだよ” とか。

 

 言いそうになってしまう、苦しくなって、吐き出してしまいそうになる苦しみがそこには在る。

 だけど、分かっているんだ。(わか)っているんだよ。

 

 本当は、全部、自分に向けるべき言葉なんだ。

 

 だからそれが口から出た瞬間、それは確実に彼女を刺す。

 絶対に彼女を傷つける。そんなの、それだけは絶対にダメなんだ。そんなの言えるわけない。言えなかった。

 

 俺は、君を守るって誓ったんだ。

 

 この先、君が俺を選んでくれるなら、君が俺なんかを必要としてくれるなら、どんなことがあったって傍に居るって伝えたんだから。

 だから俺は───────

 せめて、君にとって。『優しい味方』で、完璧な、君を守ってあげられる立派な『彼氏』にならなきゃいけないんだ。

 

 君を支えられる、そんな存在にならなきゃいけないんだ。

 

 約束したんだ。リョウや虹夏に。ひとりを守るって。

 奪ったんだ。喜多さんから、ひとりを。

 奪ったからには、守るって誓ったならば。

 

 その約束は、誓いは、果たされなければならないんだ。

 

 だから一息ついて、めいいっぱいに苦しみを堪えて呟く。

 

「ありがとな。……そう言ってもらえるのは、すごく、嬉しい」

 

 本心。

 ひとりの気持ちを真っ向から受け止める勇気も、今の俺にはない。

 でも、せめてその真剣さにだけは、嘘をつきたくなかった。

 

「……は、はい」

 

 ひとりの返事も、少し震えていた。

 俺は、深呼吸を何度も小さく、薄く挟んでから、言葉を選ぶ。

 

「ただ、なんていうか……。今日、ちょっとだけ疲れてる、みたいでさ」

 

 それは、半分は本当で、半分は逃げだった。

 心が疲れてる、なんて格好つけたもんじゃない。ただ、キャパオーバーを起こしかけているだけだ。

 

「え……」

 

 小さな、怯えたような声。

 ただそれだけでも、電話の向こうで、ひとりの表情が曇っていくのが目に浮かぶ。

 ごめん、ごめん、ごめんな。

 ああ、やっぱり、俺は下手くそだ。

 

「ひとりが悪いわけじゃないから。ほんとに」

 

 それだけは、何度でも言っておきたかった。言わなきゃいけない。どうか、どうか自分を責めないで。

 悪いのは、勝手に傷を掘り返して、勝手にぐちゃぐちゃになってる俺自身なんだ。本当なんだよ。

 

「俺が、勝手にぐちゃぐちゃしてるだけ。ひとりに、こんなんで接したくないからさ」

 

「…………っ」

 

 言ってて、目尻に悔しくて、熱と水滴が浮かぶ。

 それを零さないように必死に堪える。君の苦しみが、痛いほど伝わってくる気がして、耐えられなくなる。泣きたいのは、きっとあの子の方だ。

 言葉を選んでいるつもりでも、きっと伝わり方は最悪なんだろうな、と思う。

「疲れてるから今日はここまで」って、普通に考えたら別におかしな話じゃないのに。

 今のひとりには、それが「拒絶」にしか聞こえないんじゃないかって嫌な想像が頭をよぎっては止まらない。

 

 だけど、君を─────傷つけたくないんだ。

 

「ごめんね? ……今日、ここまででもいい?」

 

 そう言いながら、胸の内側で舌打ちをする。

 なんで、俺はいつも、大事なところでこうやって逃げるんだろう。

 

「えっ……。あっ、え、と……。す、すみません……! あの、私……っ、その、まだ、謝りたいことが………!!」

 

「謝りたい」という言葉に、心臓がさらに痛む。

 違う。違うよ、ひとり。

 謝るのは、俺の方なんだ。

 俺の、俺のせいなんだ。

 さっきのコンビニの時もそうだ。

 ひとりが「なんでも出来る」と言ってくれた時に、ちゃんと向き合って「そんなことないよ」って笑って流すんじゃなくて、「俺は昔こうだったんだ」って話すべきだったのかもしれない。

 

 それを全部後回しにして、ひとりの真っ直ぐな憧れだけを受け取って、黙ってしまったのは、俺だ。言うべきだった。言うべきことから逃げて、都合のいい部分だけ受け取ってへらへら笑っていたのは、俺の方なんだ。

 

「……謝りたいこと? ………大丈夫、俺は、何も気にしてないよ?」

 

 息を一度飲み込んでから、なるべく柔らかい声で言う。

 これ以上彼女に罪悪感を背負わせたくない。

 

「だから、ね。明日、話そ」

 

「えっ………あっ、あの」

 

 それは、ひとりとの “約束” のつもりだった。

 逃げたまま終わらせないための、自分への釘でもある。もう、逃げる訳にはいかないんだ。

 

 ちゃんと話す。

 俺の昔の話も。

 オーチューブのことも。

 親父のことも。

 ギターヒーローのことも。

 

 全部まとめて話せる自信なんか、当然ない。

 でも、今日みたいに中途半端に濁したままにしておいたら、絶対にどこかで取り返しがつかなくなる。いつの日か、その代償を払わなければならない時がくる。

 

「……おやすみ、ひとり」

 

 本当は、「大好きだよ」とか、「ひとりのこと、ヒーローだと思ってる」とか。

 言いたい言葉は山ほどあった。言わなきゃいけなかったんだ。

 言ってあげたかったんだ。伝えてあげたかったんだ。

 でも、それを今、このタイミングで重ねたら、自分の中で何かの整合性が取れなくなる気がして。言い訳だって分かっていた。でも、それでも言えなかった。

 結局、俺は一番簡単な言葉だけ残して、通話ボタンから指を離す。

 通話終了の表示が、無機質に光る。

 その画面をしばらく見つめてから、俺はゆっくりとスマホを伏せた。

 

「………………はぁ」

 

 小さく、吐息が漏れる。

 天井を見上げると、薄暗い木目の模様がぼんやりと浮かんでいた。

 

(最悪だ、俺)

 

 ひとりの「ごめんなさい」が、脳内で何度もリフレインする。

 あの子は絶対、今頃ひとりで自分を責めてる。

 絶対、泣いてる。

 喜多ちゃんの時と同じだ、って。

 また大事な人を傷つけたのかもしれない、って。

 

 違うよ。違うんだよ。泣かないで。お願いだから。

 全部、俺のせいなのに。

 

 枕元に手を伸ばして、机の上に放っていたキーケースを掴む。

 水色のピックを指先でつまんで、じっと見つめた。

 

「……印、かよ」

 

 親父に初めてコレをもらった時は、嬉しくて仕方がなかった。

 小学生の頃、初めてFコードが押さえられた日。褒めてくれた親父が、照れくさそうに笑いながら差し出してくれた、この小さな三角形。

 

『お前にやるよ。ちゃんと練習するならな』

 

 それは「期待」という名の印だった。

 そしてそれは「誓い」でもあった。

 中学に入って、バンドをやって、オーチューブを始めて。

 再生数が伸び悩んで、友達だと思ってたやつに「結局親の名前使えば?」みたいなことを笑いながら言われて。

 それでも意地になって、親父の名前を出さないまま続けて。

 

 気がついたら、ギターヒーローのチャンネルに、自分が見たこともない景色が広がっていた。

 

「救われました」

「この曲を聴いて頑張れました」

「あなたみたいになりたいです」

 

 そのコメント欄を見るたびに、このピックは、逆に「出来なかった証拠」みたいなものに変わっていった。ヒーローになりたいと願った「誓い」は、守れなくなった証そのものとなった。

 

 印は、傷と同じだ。

 

 消そうとしたって消えないし、無かったことには出来ない。

 だったら、いっそ。

 

「……印の意味、変えなきゃな」

 

 ぽつりと呟いて、自分で苦笑する。

 そんな簡単に出来るかよ、ってツッコミが、すぐ内側から飛んでくる。

 それでも、ひとりと出会ってからの俺は、前より少しだけマシになった気がする。

 あの子は、俺の傷なんて何も知らないくせに、やたらと真っ直ぐな目で「すごいです」とか「尊敬してます」とか言ってくる。

 でもその言葉は、俺にとって、新しい「印」だった。

 嬉しかった。同時に、痛くて苦しくて、仕方なかった。

 だからせめて、と思うんだ。

 だからせめて、いつか。この水色のピックと、ひとりにもらった言葉を、同じ場所に並べられるようになれたらいい。

 傷の跡じゃなくて、「ちゃんとそこを通ってきた証拠」だって、胸を張って言える日が来たらいい。そんな日が、もしも来るとしたならば。

 

 そんな、らしくもないことを考えて、俺は再びスマホを手に取った。

 

 ひとりとのトーク画面を開いて、「じゃあ、かけるね」の吹き出しを見つめる。

 

『さっきはごめん。ちゃんと話したいことあるから、明日時間もらっていい?』

 

 そう打ちかけて、指が止まった。

 これを今送ったら、ひとりは間違いなく、眠れない。

「ちゃんと話したいこと」なんて単語を投げられて、平常心でいられるタイプじゃない。頭の中に浮かんだひとりの顔に、俺の中の本能が「やめとけ」と言っている気がした。

 

『また明日、ちゃんと話そう』

 

 少しだけ言い回しを変えて、送信ボタンを押す。

 それでもきっと、あの子はぐるぐる考え続けるんだろう。

 

「……ごめんな、ひとり」

 

「────────ごめんね……………」

 

 届かないと分かっている謝罪を、天井に向かって(こぼ)す。それでも言わずにはいられなかった。

 心の奥に沈んでいた古い傷が、今夜、はっきりと疼く。

 それは、俺がずっと見ないふりをしてきた「印」でもある。

 このままじゃ、多分、ひとりを巻き込んだまま、俺はまた逃げる。

 それだけは、絶対に嫌だ。

 

 俺が、どれだけちっぽけで、情けなくて、ギターヒーローに救われて、同時に嫉妬してきたか。

 

 この水色のピックに、どんな意味を勝手に背負わせてきたか。

 全部話して、それでもひとりが「好きだ」と言ってくれるのかどうか。

 怖くてたまらないけど、それを聞かなきゃ、先に進めない。

 枕に頭を沈めて、目を閉じる。

 外の道路を走る車の音と、遠くから聞こえる電車のレールの軋む音が、薄く混ざり合っていた。

 

 どこかで、小さく音楽が鳴っている気がした。

 誰かの歌声が、「傷は跡を残したままでいい」と囁いた気がした。

 その肯定は、救いかもしれないと思った。

 たしかに心の傷は、何度でも足跡を遺すのだろう。でもそれでいいとおもった。君と出会えたことは、きっと奇跡だから。ギターヒーローが、君であってくれたことは、悲劇であると同時に、奇跡だって、思っていたいから。

 

 隣に、いて欲しいから。だからこそ。

 

 もう、逃げちゃいけない。これ以上、逃げる訳になんかいかない。嘘つきだった自分には、もう戻れない。

 ─────明日こそ、ちゃんと話す。ちゃんと、全部伝えるんだ。そのうえで、仮に……この関係が終わってしまったとしても。

 

 それすらやれないなら、俺はきっと君の隣になんて居ちゃいけないんだ。

 

 せめて願う。どうか、どうか、と。

 どうかその「跡」がいつか、誰かと共有できる「印」になれたら、と。

 俺は、水色のピックを握りしめたまま、ゆっくりとまぶたを閉じた。

 

 明日、ちゃんと話そう。

 逃げずに、彼女の星の線をなぞって、自分の言葉を辿って。

 

 結び直すための「Sign」を、今度こそ、自分の手で刻むために。

 

 

 

 

 

 

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