「たとえ誰かに馬鹿にされたり、将来が真っ暗で見えなくなったり」
「行き着く先が世界の果ての果てだったとしても」
「芽衣子と俺は一緒なんだから」
-種田成男-
著:浅野いにお「ソラニン」より
◇
さっきまで、あたし達はただ、影みたいに二人の後ろを歩いていただけだった。
気付かれないように電柱やコンビニの看板を渡り歩いて、距離だけはなんとか保って。でも、あの「じゃがいも」と「ソラニン」の話が始まってからは、息を殺すのでさえも精一杯だった。
街灯の下、少し先を歩く二人の横顔と、夕暮れから夜に変わりかけている空の色。涙をポロポロ流すぼっちちゃんの声。
それを、あたし達は歩道の端っこから、ただ見つめることしか出来なかった。
やがて春樹くんの声が静かに落ち着いて、ぼっちちゃんの涙声も、少しずつ遠くなっていく。レジ袋のカサカサという音と、二人分の足音が、ゆっくり曲がっていく。
それが完全に聞こえなくなったタイミングで、ようやくあたしは肺に溜めてた空気を吐き出した。
「………今の、話、聞こえましたか?」
電柱の影にもたれ掛かってた喜多ちゃんが、ぽつりとそう呟く。
俯いたままの横顔は、さっきよりも少しだけ青白く見えた。
「…………うん」
あたしはその場にしゃがみ込んだまま、あの二人が居た辺りのアスファルトの小さな凹みをじっと横目で見つめる。
そこから目が離せない。
その位置にさっきまで、ぼっちちゃんの涙が落ちてたような。────そんなふうに思えて、尚更。
「………二人は、春樹が話してた『ソラニン』のこと知ってるの?」
リョウが、さっきまで胃と戦ってたとは思えない落ち着いた声で言った。あたしの横のカラーコーンに腰掛けて、足をぶらぶらさせながら俯いている。
「うん。あの映画、バンドがテーマの作品だもん。お姉ちゃんが好きな作品の一つだし、何よりも当時は、有名な女優さんも出てたことで人気だったし」
「お姉ちゃんと一回あたしも見たことあるから知ってたんだ。……喜多ちゃんも?」
「あっ、はい……私も……友達のお家で小学生の時見てたのを横で少し見てたのを覚えてます。たしか、青春映画だーって騒いでて」
言いながら、喜多ちゃんはスカートの裾を握りしめていた。その指先が、少しだけ震えているのがあたしの横目に映り込む。
「その時は、まだバンド自体にさほど興味があった訳でもなかったのであまり深くは見入ってはいなかったんですけど…………あの作品って、確か……」
「確か、何?」
「あっ、えっと……」
リョウに問われたその時、そこで喜多ちゃんの言葉は止まる。露骨に目を逸らしていた。
あたしは隣で壁にもたれている喜多ちゃんのその様子を見つめながら、もう一度視線を地面に落とす。
今、喜多ちゃんが言おうとしてることが何なのか。
多分、それはあたしにもだいたい分かってしまったからだ。
「? 私は……カルテットバインドのあの曲、一度聞いた時あまり刺さらなかったから……聞いたことあるぐらいだったけど、タイトルの意味はああいうことだったんだね」
その様子に一瞬だけ無表情のまま首を傾げるも、リョウは相変わらず淡々とそう返す。けど、目だけはちゃんとあたし達を見ていた。
あたしは、膝に左肘を乗せて、右の指先でアスファルトの小さな石をこつこつと弄ぶ。口の半分まで腕の中に顔を埋めながら。
さっきまでの、楽しくてしょうがなかったハンバーグ屋の空気が、冷たい空気と共に嘘みたいに霧散していく。
「……………」
「……伊地知先輩?」
喜多ちゃんの声がする。
顔を上げないまま、あたしは口を開いた。
「……喜多ちゃんは、最後まで見たなら、あの作品の結末も、知ってるよね?」
自分の声が、思ったよりも低くて驚く。
さっきまで「尾行ミッションだよー!」とか言ってはしゃいでたのと、同じ喉から出てるのが信じられないくらい。
リョウから問い掛けられた喜多ちゃんの肩と口元が「ッ」と、小さく揺れ動く。
「……はい。春樹くんが話してた、バンドマンの主人公の彼…………」
「どんな結末なの?」
リョウのその言葉に、喜多ちゃんは唇を噛んで俯く。
あれは、言いたくないことを言わなきゃいけない時の顔だ。あたし自身も、自分で何度か鏡で見たことあるやつの面立ち。気持ちが、痛いほど分かる気がする。
「………」
空気が、微かに冷たくなる。
夕方の風じゃない。それはもっと、言うなれば別の何か。
だから、あたしが代わりに呟く。その無音を、掻き消すように。
「死んじゃうんだよ」
「……………………」
前髪で隠れた自分の横顔が、どんな顔してるのか、正直見たくなかった。言った瞬間、三人の間の空気が、ほんの少しだけ揺れた気がする。
「……………え」
長い無言だった。
それを破るように、リョウがほんの少しだけ口を開く。
表情はあんまり変わってないのに、声だけがわずかに掠れていた。
「…………」
「バンドマンとして諦めかけた夢のそれを、改めて追う覚悟を決め、ヒロインとも揉めてたのを仲直りした矢先に」
「─────交通事故で、亡くなるの」
あたしは胸元の赤いリボンをぎゅっと握り締める。
指の節がきしむくらい。
その瞬間、頭の奥で、お母さんの笑い声と、あの時の葬式の匂いがほんの一瞬だけフラッシュバックする。
「……そう、なんだ」
リョウは視線を落として、短く呟いた。
「……………なるほどね。ゆるい幸せ。悪い芽。………そういう歌詞だったんだ」
「パッとそれだけ聞くと、失恋の歌詞にも見えたけど……そういうことか」
リョウは無表情のままだけど、納得したような様子で何度か小さく頷いた。それを見てあたしは思う。さっき春樹くんが言ってた言葉。
「たとえばゆるい幸せ」と「悪い芽」と「さよなら」。
それが一気に、さっきのあの二人の笑い声と繋がっていく。
どうしてなんだろう、と考えずにいられない。それが星の糸のように紡がれていく度に、胸の痛みが止まらなくなるのは、どうしてなんだろうと。
「春樹は、なんでわざわざこの話をしたんだろうね」
「────あたしも、そこは分からない」
正直にそう答えるしかなかった。
それは、分かることも、分かんないことも、実際両方あるからだ。
春樹くんが今、一体どこまで覚悟してるのかとか。
どこまで見えてて、どこから見えてないのかとか。
ぼっちちゃんに、何を残したくてあの話をしたのかとか。何のために、そんな事を伝えたのか、とか。
全部、全部、勝手に想像することは出来る。
でも、勝手に決めつけるのは、絶対に違う気がした。
だってそれは、あたし達からしか見えないもので、彼の見えている “何か” を見えなくしてしまう気がしたからだ。
彼には、彼の─────私たちでは想像をし得ないほどの痛みがあることを、もうあたし達は知っている。
三週間前の彼のSTARRYにおける過去の告白。ずっと、周りや凄いお父さんが居る環境の中、自分を比較し続けたのに、彼自身が何より努力しても全く報われなかった “痛み” 。そして、家族が大好きだった音楽のせいでバラバラになってしまった苦しみ。
そんなものを知ってしまったら、彼にしか見えないものがあるのだなんて、あたしにも容易に想像が着いてしまう。
だからこそ、リョウのその言葉には「分からない」としか答えれなかった。
「……何か、ひとりちゃんに伝えたいことがあったんでしょうか」
喜多ちゃんが、胸元で手を組みながら呟く。
その指先は、さっきよりもぎゅっと固く絡み合っている。
「……どう、なんだろうね」
あたし自身も分からないから、曖昧に返すことしか出来ない。
「…………」
「─────『ソラニン』かぁ」
ふと、静かにあたしはそう呟いて顔を上げる。
街灯のオレンジと、店の看板の白い光が混ざり合って、電線の影が細く夕暮れの空に伸びている。
「……泣いたなぁ。あの作品は。あたしもほら、お母さんが亡くなっちゃったからさ。お姉ちゃんと一緒にワンワン泣いた泣いた」
「…………え」
喜多ちゃんから、掻き消えそうな、呆然としたような声が耳に入る。彼女の方へ視線を向けると、瞳が大きく揺れていて、目蓋を強く見開いているのが分かった。
そっか。そういえば、ちゃんと喜多ちゃんには話したこと無かったっけ。リョウにも、遠回しにしか言ってないし。
「……」
「……あたしね。ぼっちちゃんやリョウには言ったんだけど、九歳の時、交通事故で母親を亡くしたの。玉突き事故で、どうにもならないやつで」
黄昏に染まりゆく雲の流れ。それらを見上げながら、あたしは空気を重くしないように、壊さないように意識して呟く。喜多ちゃんは身体を硬直させたまま、リョウは無言のまま俯いている。
「……だから、余計にね、つらかった。その映画の内容は、正直」
そうして、わざと明るく笑ってみせる。
たぶん、無理してるのは自分でも分かってる。
でも、ここで完全に沈んだ顔は、二人には見せたくなかった。
「……まさかその映画に関わることを春樹くんが話すとは、思わなかったけどね」
あの時はただ「こういうの、現実には起きてほしくないね」って、お姉ちゃんと言い合った覚えがある。まさか、似たような構図の真ん中に、自分達が立つことになるなんて思わないで。
「……その、ごめんなさい。辛いこと、思い出させてしまって」
喜多ちゃんはそう言って、今にも泣きそうな顔で目を伏せていた。あたしはそれを見て、慌てて「あ、謝らなくていいよ!? 喜多ちゃんは何も悪くないんだもの。それにもう、あたしにとっては、過去のこと、だから」と訴える。
過去のこと、と答えてからほんの少しだけ舌が絡む。でも、そう言うしか他に無い。
「で、でも」
それでも、喜多ちゃんは目尻と眉を下げたまま、申し訳なさそうな様子を見せる。
「大丈夫。……気にしないで? ね?」
「…………っ」
「……はい」
そこまで伝えて、喜多ちゃんは更に俯いて言葉を飲み込む仕草をした。
そうして、僅かに間が訪れる。ひとつ息をついて、あたしはもう一度夜の
「あの、私……思ったん、ですけど」
「? どうしたの、喜多ちゃん」
あたしは座ったまま、喜多ちゃんを見上げる。
お互いにその時、目が合う。
相変わらず、どこか哀しげで、切なげな彼女の顔。赤い髪が街灯に淡く輝き、喜多ちゃんを
あたしはその瞬間、さっきのハンバーグ屋の景色と、横断歩道で手を繋いで渡ってく二人の背中が、ぱっと頭に浮かぶ。
───「ゆるい幸せ」。
さっきまで、確かに、あの場所にあったもの。
それと、さっき聞いた「ソラニン」の中身。
大学から続いてく関係、喧嘩して仲直りして、そのあとに来る交通事故。
俗に言う、『悲劇』。
喜多ちゃんが言おうとしてる言葉。それが喉元まで上がってきてるのが、見るだけで分かってしまった気がした。
「…………」
でも彼女は、そこで急に俯いてしまう。
「─────………あっ、いえ、ごめんなさい。なんでも、ないです」
小さく首を振って、笑おうとして、でもそれはうまく笑えない顔。
その横顔を見て、あたしは心の中でだけ小さく頷く。
たぶん今、喜多ちゃんが言いかけたことと、あたしがさっきから頭の片隅でぐるぐるしてることは、きっと同じだ。
でも、それを口に出した瞬間、何かが決定になってしまう気がした。
そんなの、まだ絶対に嫌で。
それだけは、耐えられなくて。だから、あたしも追求はせずに「……そっか」とだけ一言漏らす。
「……理由」
「え?」
リョウの方から、声が降る。小さく目を向け直す。
「……さっきも言ったけど、春樹はそんな話をわざわざぼっちにしたんだろうね、ってこと。その理由は、結局何なんだろうね」
「たぶん、あの話においてはその理由こそ何より大切なことだよ、きっと」
「……」
そこで彼女はそう言ってもう一度話題を戻すように話を続ける。
それはさっきよりも、よりほんの少しだけ真剣な声だ。あたしは俯く。
「……彼のみぞ知るってとこ、じゃない?」
冗談半分みたいにそう返す。薄く微笑みを浮かべようとしつつ。
でも、無理だった。まるで笑えない。
胸の奥まで、全然笑えるはずもなかった。
そしてたぶん、あたしがそう思ってるのもバレてる。
リョウはあたしをじっと見つめたあと、カラーコーンからすっと立ち上がっていく。スカートの裾をぱんぱんと払う。それから、ふっと空を見上げた。
「春樹は無駄なことを言う人間じゃない。たぶん、何か意図がある。さっき話してた中に、それが含まれてるんじゃない」
「幸せだけじゃ、人は生きてけないってところ、ですか?」
喜多ちゃんが、おそるおそる問い返す。
「それもある。でも、多分もっと言いたかったのは、それだけじゃない。多分、それよりもっと前じゃないかな」
リョウは、ゆっくりとあたし達を見る。
「 “じゃがいもは、『ソラニン』が無ければ実には成れない” ってとこ」
淡々とした声なのに、その一言だけがやたら耳に残る。あたし達の空気へ投げ込まれた水面の石のように、それは静かに波紋を落とす。
まるでさっき夕暮れの中で聞いた春樹くんの声と、重なるみたいに。
「ちょうど、私達がこないだ話したことと、似てますよね」
喜多ちゃんが、リョウの方を横目で見ながら言う。
三人で話したあの日のことが浮かぶ。
それは多分、ぼっちちゃんも混じえてついこないだSTARRYで話した『挑戦』の必要性の話。リョウがあの子に伝えた─────配慮だけじゃ、たぶんぼっちちゃんの為にならないということ。だから自分のペースでいいから少しずつ挑戦をしてみるべき、って言ってた話か。
「………………」
リョウは少しだけ目を細めて、それから小さく頷いた。
「……大切なのは “毒素” そのもの」
「それはつまり、“痛み”。それが無ければ、人は前に進めないし、成長することもできない。たぶん、春樹はそれが言いたかったんだと思う」
「……春樹は、あの時私達の話を聞いてた訳でもないはずだから……だとするなら、元々似たようなことを、少なからずぼっちに思って接してたってことでしょ。大切なのは」
「……」
「……そう、だね」
そう言いながら、あたしは膝に力を入れる。喜多ちゃんは俯いて黙りこくったまま、小さく頷く。
力を入れた膝先からさっきまで冷えてた足先に、一気に血が戻ってくる感覚がする。爪先が吊りそうになって、慌てて右手をつき、全身を
「……その映画のキャラと、ぼっちちゃんたちは別の存在。たまたま」
「同じ結末になんて、なるわけない」
「なっていいはずが無いもんね」
自分に言い聞かせるみたいに、そうしてあたしはひとつひとつ区切って言葉を並べた。塀をなぞる指先に、力が入った。冷たく、ざらっとした質感が思い出させてくる、追憶。
それは、お母さんが抱き締めてくれた時の体温とは対照的な─────最後に握った、棺の中の冷たい掌のこと。
「こんなのドラマみたいだね」って、あの映画の
それは、あたしにとってはちゃんと現実になってしまった────過ぎ去ったはずの過去、 “痛み” そのもの。
そして今日この瞬間、世界のどこかで誰かが同じ痛みを抱えていて。そう思ったその時、それら全部が、また胸の奥でずきずきと疼いていく。
「っ、そ、そうですよ! 絶対にそんな悲しいことにはなりません!」
喜多ちゃんはぎゅっと両手を握りしめて、力いっぱい言ってくれる。
その声が嬉しくて、あたしは思わずじっと見つめ返す。
でも、どうしてか。
どうしてか、それが、少しだけ苦しい。そう感じるのは、どうしてだろう。
「当たり前。………フィクションと現実は別なんだから」
リョウがそれを聞いて、いつもの無表情で呟く。
その言葉はきっと、ぼっちちゃんと春樹くんに対してだけじゃない。
きっと三途の川の向こう側に居るお母さんにも。
あたし達みたいな、音楽やバンドにしがみついて生きてる人達全部に向けても、そうであってほしいって願いなんだと、あたしは強く思う。
世界は残酷で、無慈悲で、思い通りになんてなってくれない。
でも、だからこそそんな『悲しいこと』の中でも、人は歩いていかなきゃいけない。
そうでなければ報われない。ソラニンの中の、あの『結末』を迎えた二人も。
このリボンを託してくれた、大好きなあの人も。
だからこそ、そう思わずには、いられない。
「…………行こ。ぼっちたちを追わないと」
「あっちの角を右に曲がった。急がないと見失う」
リョウがそう言って、街路の方を向く。その背中を見て、あたしも自然と一歩踏み出して頷く。
「……うん」
頷いて、前を向く。表情はまだ完全には晴れてる気がしない。でも、無理やり口元だけはなんとか上に持ち上げる。
「そう、ですね」
俯いていた喜多ちゃんも、リョウのその言葉にトートバッグの持ち手をぎゅっと掴み直して答えた。
「……行こっか。みんなで、追いかけないとね」
空元気でもいいから、勢いをつけるみたいにそう言って、あたしは二人を引っ張るように駆け出す。
街灯の下、さっきまで二人分だけだった足音に、三つの足音が重なる。
どうか、とふとあたしは走ってあの二人を追いかけながら願う。
あの二人の未来が、悲劇で終わることのないものでありますように、と。
ただひとつ、そんな小さな願いを想いながら、あたしは顔を上げて走り続けた。