「出逢わなければよかったね」と
冗談でもどうして言えただろう
君のその優しさに気付きもしないで 何を見てたのだろう
日が暮れるのも忘れて確かめあうように
あんなにも愛したこと誇りに思った
ためらいもなく好きだなんて 言えてしまう君に嫉妬していた
君を好きだと思う気持ちに 理由など何も要らなかった
ふたりなら永遠さえ 叶うものだと信じていたね
抱き締めたそのぬくもり 今もこの手に残ってる
思い出には 出来なかった
-Every Little Thing 『キヲク』-
※
長い坂道を登りきった瞬間、肺の奥に溜まっていた空気が、一気に抜けていく。
アスファルトが途中からざらついたコンクリートに変わって、最後だけ妙に急になるこの坂。足元からじわじわ登ってきた疲れもまた、ふくらはぎで重くなって、膝の裏で固まっていくのが分かる。
それでも私は、彼に手を引かれる中、黙々と春樹くんの背中を追い続けた。
「………ここだ。まだ、あったんだな。ここ」
坂の頂上。下北沢駅周辺から、随分と歩いた気がする。
ぽつんと開けた小さな公園を見上げながら、春樹くんがぽつりと呟く。
「っ、はぁ、っぁ、はぁ………」
「ごめんな。随分歩かせちまったよな」
「あっ、いっ、いえ……はぁっ、はあ……ふう」
そうして春樹くんは、私に気を遣ってくれた。眉を八の字にしてそっと顔を覗き込んでくる。私はというと、完全に息が上がっていて、その言葉に返事をするのも精一杯だった。何度かの深呼吸をして、空を見上げる。そうして、静かに息を整えていく。
だけど心臓はまださっきの「ソラニン」の話でバクバク言ってるし、そこに全力坂コースが重なって、胸の中は未だに渋滞中だ。
目元を手の甲でこすって、さっきまで泣いていた痕跡をごまかす。
少し赤く腫れてる気がして、余計に恥ずかしい。
「……大丈夫? ひとり」
「あっはい、だ、大丈夫、です。すみません」
彼はもう一度、心配そうに僅かな前のめりの姿勢で私の方を見つめてきた。息がうまく整わなくて、言葉の途中でやたら切れる。
「息整ったら……見てみて?」
「えっ……あっ、はい」
答えながら、私は目の前の公園を見回して、思わず息を飲む。
「─────こ、ここって……」
そこは、どこにでもあるようで、どこにもないみたいな公園といえた。
広さは、小学校の校庭の半分もないくらい。
砂場も滑り台もなくて、あるのは古びたシーソーと、ペンキの剥げかけたブランコがひとつ。遊具が少ないせいか、随分と広々とした公園に見える。
その一番奥に、二、三メートルほど小高くなった里山みたいな盛り上がり。
周囲には公園全体を取り囲む銀色の金網フェンス。
フェンスはところどころ白く曇っていて、経年劣化で波打っている。触ったら、冷たくてざらっとした感触が返ってきそうだ。
黄色と黒の立入禁止テープみたいなものはどこにも張られていないけど、「ここは昔からこうやって時々誰かに使われてきました」とでも言いたげな、くたびれ方をしている。
春樹くんが、里山の上へ早歩きで先に向かう。
「……変わらないな、ここも。よかった」
まるで、何かを確かめるみたいに、それから周囲をキョロキョロ見渡しては、そんな言葉を発した。そこから、後ろを振り向いて私の方へ手招きをしてきた。
「こっち、きてみて。ひとり」
おいで、っていう仕草が、いつもみたいに自然で、だから余計に胸がきゅっと鳴る。
「あっ、はい」
彼の言葉に頷いて、私も土の階段を登っていく。
踏みしめるたびに、靴の裏で乾いた土がさくっと鳴って、少しだけ砂がはねる。
木と周囲の雑草、何かの花の根っこがところどころ浮き出ていて、足元を取られないように慎重に歩いていく。盛り上がりの先には、ベンチが一脚だけぽつんと置かれていて、彼はその隣で先にその景色を眺めている。
そうして、里山のてっぺんまで私は歩き切った、その時。ふっと風が強くなって、後ろ髪が一気に揺れた。「ッ……!」
思わず呻く。そして、ゆっくりと視界を開いていく。──────そのままベンチの横に立って、フェンスの向こうと、その先の景色を見下ろした。
「……………うわぁ……!」
思わず声が出た。
眼下には、黄昏の下北沢が広がっていた。それは、凄まじいまでの絶景。
さっきまで私たちが歩いていた街並みが、少しだけミニチュアみたいに遠くなっている。水平線には夕暮れ時の輪郭までもが、ハッキリと伺える。
電車の線路、雑居ビル、飲み屋の赤提灯。遠くのほうには、小さく高架道路のライトまで見えた。
空は、ちょうど昼と夜が入れ替わる時間帯で、オレンジと群青がゆっくり混ざり合っている。
ビルの隙間から覗く西の空は、まだ鮮やかな橙色の絵の具を溶かしたみたいで、その上を薄い雲が、綿を少しだけ引き伸ばしたような形で流れていく。
街灯が一つ、二つと灯っていくたびに、さっきまで「夕方」だった景色が、じわじわ「夜」に上書きされていくかのように。
それでもまだ、どちらでもない時間帯の匂い。
昼間の熱を少しだけ残したコンクリートの匂いと、夜の冷たさが混ざり合った、なんとも言えない空気だ。
風が吹くたびに、フェンスがかすかに鳴った。
きぃ、とも、しゃり、ともつかない、そんな小さな金属音。
その音さえもどこか懐かしく感じてしまうくらい、この景色は「記憶っぽい形」をしていた。
(………初めて、こうやって誰かと一緒にこんな景色を見た…………)
(でも……)
(良いなぁ──────ここ)
胸の奥で、そんな言葉がふっと浮かぶ。
今この瞬間を、誰かと「一緒に見てる」という事実が、自分でも驚くほど嬉しい。
小さい頃からずっと、きれいなものを見つけるたびに、「これを誰かに見せたい」と思って、その誰かが居なくて、それで胸の中にしまい込んできた。
今、その「誰か」を、やっと隣に連れてきている。そんなことを、ふと思う。
「………………」
横目で春樹くんを見ると、彼もまた、黙って街を眺めていた。
風に前髪を揺らしながら、どこか遠くの、誰もいないところを見ているような目で。
「あっ………あの、春樹、くん?」
名前を呼ぶと、ほんの少しだけ彼の肩が動いた。
「………」
こっちを向いた顔は、さっきまでと同じように穏やかな笑みを浮かべているのに、目元だけが少し寂しそうだった。
その視線が、もう一度フェンスの向こうへ戻る。
「家に、居たくなかったんだ。昔」
「………え……」
それは、風よりも小さな声。
それでもはっきりと、私の耳に届く。
言葉に合わせて、彼の視線が隣のベンチをなぞる。
私は俯きながらそのベンチへ同じ様に目を向けた。色あせた木製の座面には、雨に打たれて乾いた跡がうっすら残っていて、ところどころに細かいひびが入っていた。きっと何度も、誰かの体重を受け止めてきたんだろう。
この公園の中に眠る、追憶のように。
「そういう時……ここで、この里山の上、あのベンチに座って」
「─────こうして、夕陽を幾度も見たんだ」
それを聞いた瞬間、胸の奥で何かがきゅっと鳴った。
「………………春樹、く、ん……」
なんて返せばいいのか分からなくて、口の中で言葉が迷子になる。
慰めるのも違う気がするし、「大変でしたね」と他人事みたいに言うのもやっぱり嫌だった。
「っ………………そう、なんですね」
結局、そんな薄い言葉でしか埋められない自分が、少し悔しい。
でも、それでも彼と一緒に景色を見ようと思って、私はもう一度フェンスの向こうに目を向けた。
「…………………つらい時」
春樹くんの声が、風に混ざって流れてくる。
「苦しい時。悲しい時」
「いつも、ここの夕陽の景色が、フラッシュバックする」
その言葉で、さっきまでの「ソラニン」の話と、「じゃがいも」の話と、この光景が全部、一本の線で繋がる。
私も、胸の中で似たような場所をいくつか持っている気がした。
体育倉庫の裏。使われなくなった備品や椅子、机で溢れた誰も来ない階段の踊り場。
屋上への、鍵のかかった鉄扉の前。
ギターを抱えて逃げ込んだ、自分の部屋の押し入れの中。
苦しかった瞬間ほど、その時の景色だけはやけに鮮明に覚えている。
“場所” に紐付いた記憶はきっと、まるで鎖のように『心』にも絡みついて、決して離れはしないのだろう。
それは─────哀しい記憶も、幸せな記憶も、一括りにするのだ。
頬にあたる、心までも撫でていくような緩やかな風。
その風が呼び起こしていくもの。不完全な中で痛みを交えて、苦しさと共に愛おしさをも思い出させる、大切な想い。
それら全部が、どんなに悲しくて、身を切り裂くものだとしても。
もう、戻ることのない幸せな日々の欠片なんだとしても。
決して、切っても切れない心の繋がり。
きっと春樹くんにとっての「それ」が、この公園なんだと、私は思った。
私はゆっくりと、彼の方へ顔を向ける。
「……」
私の右髪にある髪飾りのキューブが、ちりっと鳴り響く。
黄昏のエンドロール、夜のオープニングが迫る景色。そのなかで私は、自分の表情がきっと泣き出しそうになっていることを自覚しながら、それでも彼の横顔を見つめた。
「……………だけど」
春樹くんは、ゆっくりと、少しだけ息を吸い込んでから続ける。
「悲しいことばかりじゃ、ないんだなって」
「最近は、思えてるんだ。俺」
前髪で隠れていて、表情の全部は見えない。でも彼のその声色だけは、さっきより少しだけ明るくなっていた。
「…………!」
私は反射的に、目を見開く。
「えっ……?」
そんな私に、春樹くんは、ゆっくりと視線を合わせてくれた。
「──────君の、おかげなんだよ。ひとり」
その一言で、さっきまで冷えていた足先まで一気に熱が駆け上がった。
「ッ……!!」
心臓が、どくん、と跳ねる。
耳の内側まで血が集まってくる感覚がして、世界の音が一瞬だけ遠のく。
街のざわめきも、遠くの車のクラクションも、この公園に吹く風の音ですらも。そうしてそれら全部、フィルターを通したみたいにぼやけていって、その代わりに春樹くんの声だけがくっきりと残る。
「…………………大好きだよ」
「君の、全てが」
それは、何度も繰り返し再生されるであろう台詞の、決定打みたいな響き。
今ここで聞いている私と、きっとどこか未来の私が、同時にこの言葉を聞いているような気持ちになる。
「君と、この景色を見たかったんだ」
それは、夕暮れと夜の境界線みたいな声。
静かで、やさしくて、でもどこか決意を含んだような。
「…………………これから、俺達には、たくさんの色んなことが起こると思う」
「変わってしまうものもあるだろうし、変わらないものもあるかもしれない。でも」
言葉のひとつひとつが、空気の中に丁寧に置かれていく。
願いが、未来への想いが、紡がれていく度に、弱さが露わになって水滴となっては止まらない。
私の目からは、もう制御不能なそれが、ぽろぽろこぼれ始めていた。
流したくて流しているわけじゃない。
ただ、溢れてしまう。
さっきソラニンのことで泣いた時と違って、この涙にはちゃんと「嬉しい」と「怖い」と「信じたい」が全部混ざっていた。
「────────────……………はる、き、く…………」
名前を呼ぶだけで精一杯だった。
声にならない声が喉の奥で詰まって、そのまま涙声に変わっていく。
「………その全てを含めて、俺はこれから先、どんな君も、大切にするって、誓う」
「この瞬間を、何度でも俺は思い出す。君にも、覚えていて欲しいんだ」
“何度でも思い出す”──その言葉に、胸がもう一段階きつく締め付けられる。
これはきっと、世界でただひとつだけの、私の忘れたくないもの。
今のこの瞬間が、まさにそれになってしまう予感がして、怖いくらいに胸が痛む。
「─────俺と一緒に、歩いて欲しいんだ」
「これからも、ずっと」
「君の音を、もっと俺の傍で、聞かせて? ひとりだけの、ろっく」
「ぼっち・ざ・ろっくを」
この世界でいちばん恥ずかしくて、いちばん欲しかった言葉を、彼は平然と口にする。
胸の奥で何かが壊れて、同時に、何かが生まれた気がした。
風が鳴らすフェンスの音も、遠くの駅のアナウンスすらも、全部BGMになっていく。
私は、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、彼に向き直った。
「─────っ、約束します!!」
声が震えて、うまく抑えが効かなくなる。精一杯に、訴える。
「っ、わ、私、………虹夏ちゃんに、約束しましたから………!」
「みんなの、願いの為に!! こんな私なんかと、一緒に歩いてくれた春樹くんの為にも!!」
「私は、ギタリストとして………結束バンドを、最高のバンドにするって……そうしたいって、思ってて!!」
自分でも、何をどこまで言っているのか途中でよく分からなくなりながら、ただ必死で前へ言葉を投げていく。涙がどこまでも世界をぼかして、春樹くんの顔を少し滲ませている。
「だから…………だからっ………!!」
喉の奥が熱くて、痛くて、それでも続けたかった。
逃げたくない。
伝えたい。
どんなことが、あったとしても。
あなたにだけは、これを言いたい。
「だから、私は、変わりたいんです!! 変わります。みんなのために、私は、私自身の、為に…………春樹くんの為に………!!」
「だからっ、これからも……………見ていて、くれますか?
「きっ………聴いて、くれますか?」
「こんな、私の、音を、ロックを…………!! ずっと……!!」
泣きじゃくりながら、それでもやっと掴んだ勇気で、私は言い切る。
この瞬間に結んだ言葉は、きっと、もう二度とほどけない。
ほどけるのことできない、記憶の鎖。
将来、何がどうなっても、きっと思い出す。
嫌でも思い出してしまう。
だからきっとこれは、いうなれば呪いみたいな願い。
でも、それでも、だ。
そう思ったところで、私はやっと息を吸うことを忘れていたことに気付いた。
そして──次の瞬間。
春樹くんの腕が、そっと私の背中にまわって。
視界いっぱいに、彼の顔が近づいてきた。
世界の音が、そこでふっと途切れる。空も、風も、私達を取り巻く全てがいったん「無音」になったあとで。
代わりに聞こえてきたのは、自分の心臓の音。
どくどく、とか、バクバク、とか。そういう擬音じゃ追いつかないくらいに、胸の奥が忙しく鳴り響く。気付いた時には、春樹くんの胸元に、ぎゅうっと抱き締められていたのだ。
「……大丈夫だよ。大丈夫。何回でも、君に伝える」
「忘れないで」
耳元で落ちてくる声は、さっきまでより少しだけかすれていて、それが余計に反則で。その中で、彼はハッキリと、また呟く。
「君はもう、独りぼっちなんかじゃないよ」
背中をゆっくり撫でられるたびに、張り詰めていた何かが緩んでいく。
なんで、なんでこのタイミングで、あなたはいつも。
いつもそうやって、私の欲しい言葉ばかりを、くれるんですか。
「〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ……… !!」
「あぁ、あっ、ううっ、………ぅああああっああああ………ああぁぁぁっ!!」
ダメだった。
もう、我慢なんか、効く訳もなかった。
声にならない声が喉の奥で爆発して、そのまま再び、大量の水滴になって零れていく。
気付けば私は、春樹くんの服の胸元を、子どもみたいにぎゅうっと掴んでいた。
目をぎゅっと瞑って、肩を震わせて、鼻も喉もぐちゃぐちゃにしながら、みっともないくらい泣きじゃくっていた。止めたいのに、止まらない。
頭の中に全ての「今まで」がまた、そうして一気になだれ込んでくる。
幼稚園の砂場。
「この指とまれ」に、最後まで間に合わなかったあの日。
輪の外に立ち尽くす、自分の小さな手。
誰も掴んでくれなかった指先。
中学の教室。
クラスメイトの笑い声のざわめきと、そこにうまく混ざれない私。
昼休みの、なんとなく居場所のない静けさ。
いつも、いつもひとりぼっちで。
卒業式のあの日。
忘れ物をして、教室に戻った時。
密かに、扉の向こうで聞こえた言葉。思わず、扉を開けようとして、開ける指を止めたあの時のこと。
『あれ? 後藤さんは? この後の皆でやる卒業式の打ち上げ呼ばないの?』
『知らない。いいんじゃない? だって後藤さん来ても、皆困っちゃうだろうし。あの子も多分、気まずくなるよ』
『……可哀想だけど、まあそうだよね。オレも正直あの子と何話したらいいか分かんないし。本人の為にも、呼ばない方がいいか……』
『うん、私も悪いなとは思うし、後藤さんが嫌いってわけじゃないけどね。……仕方ないよ。行こ』
そうして声すら、掛けて貰えなかった打ち上げのこと。
お母さん達に写真を撮ってもらって家に帰ってから、部屋に戻ったときのこと。
着替えることすら、できないまま、部屋で立ち尽くして。
そのまま、ただ呆然と卒業証書の筒を落として。
分かってる。誰も、悪くなんかない。
ただ、私が皆と上手くできなかっただけ。
ただ、それだけ。
私のせい。
全部、全部、ぜんぶ。
なのに、それなのに。
そのままただひたすら、涙が止まらなかった時のこと。
もう、このまま──────わたしはずっと、ずっと、ひとりぼっちなのかなって、思って。
こわくて、怖くて、涙が止まらなかったあの時のこと。
だからこそ、何度も。
家の押し入れの中で、小さなアンプに繋いだギターを抱えて、画面の向こうの「ギターヒーロー」にだけ救われていた夜があったんだ。
私は、ずっと、ずっと、誰かにそう言って欲しかった。
春樹くんだけが、それを、言ってくれた。
それら全部が、あの頃と同じ鮮やかさで、フラッシュバックみたいに一気に押し寄せてきた。
「っ、っ、ひぐっ……う゛う゛っ、あ゛あ゛あ゛ん……!」
自分の嗚咽が、信じられないくらい大きく聞こえる。
きっと春樹くんのシャツには、涙と鼻水と、色々と取り返しのつかないものが染み込んでいる。
それでも、彼は一度も腕を解かなかった。
「───────────っ」
震える背中ごと受け止めるみたいに、抱き締める力が少しだけ強くなる。
頭にぽすんと置かれた手が、ゆっくりと髪を撫でてくれる。
どれくらい泣いていたのか、途中からよく分からなくなった。
時間の感覚がふやけて、夕暮れと夜の境界線みたいに、現実と記憶の線もぼやけていく。
「………ひとり………」
名前を呼ばれた瞬間だけ、世界が少しはっきりした。
「────────……っ、ふ………っ…………ぁ……………?」
しゃくりあげながら、顔を上げる。
視界が涙で輪郭が崩れていて、灯りが全部、にじんだ光の粒になっていた。その中で、春樹くんの顔だけが、変にくっきり見えた。
「…………………」
目が合った、と思った次の瞬間。
彼の顔が、そっと近づいてきて。
あたたかいものが、そっと、私の唇に触れた。
肩がびくんと跳ねて、息が止まる。
「ん…………ふっ……!?」
(─────え……)
────今、わたし、キスされて、る?
頭が理解するよりも、身体のほうが先に固まった。
心臓はさっきまでよりさらに忙しくなって「無理無理無理死ぬ死ぬ死ぬ」と、何かが全力で警報を鳴らしている。だけど、それでも。
それでも、その全部をまとめて、「やさしい」が上書きしていく。
押し付けられるでも、奪われるでもなくて、ただそっと触れているだけの、やわらかい感触。
それなのに、胸の奥にじん、と甘い電気が走るみたいで、全身がふわふわした。
気付いたら、私は目を閉じていた。
さっきまで泣いていたせいで、頬は熱くて、目蓋も重くて、それでもその瞬間だけ、何も怖くなかった。
時間が、少しだけ伸びて、溶けていく。
そして、そっと唇が離れていった。
「っ、はぁ、っ、ぁ…………っ、あっ、…………え………?」
(……夢じゃ、ない……)
頭のどこかが、確認するみたいにつぶやく。茫然としたまま、涙が頬を伝うのを感じながら、ただ私は彼を見つめ返すことしかできない。
目を開けると、今にも泣きそうな顔の春樹くんが、ほんの少しだけ不安そうに笑っていた。
「………いや、だった?」
その問いかけが、本気で申し訳なさそうで、逆に胸が痛くなる。
「っ! あっち、ちがいまっ、す………!!」
思わず大きな声が出た。いつものように慌てて首を横に振る。
自分でもびっくりするくらいの勢いで否定してしまって、慌てて言葉を足す。
「っちが、う………んです。い、嫌なわけ、じゃ、全く、なくって!」
「ただっ………こ、こういうこと初めてだから、どうしたらいいかわかんなくて、頭真っ白でっ…!!」
早口すぎて、自分でも何を言っているのか途中から怪しくなる。慌てて言い訳を
目線を落としながら、そうして、続きの言葉をか細い声で絞り出す。
「わから、なくて…………ッ」
それが本音だった。
嬉しい。
恥ずかしい。
怖い。
でも、逃げたくない。
その全部がごちゃまぜになっていて、どの感情に名前をつければいいのか、私にはまだ分からない。
「…………なら、今度はひとりからして?」
「えっ………」
その一言で、頭の中の回線が、一瞬全部ショートする。
視界の端で、街の明かりと日の入りの全てが、光の粒子となって溶けだしていく。まるでそれは、夢の景色のように、ただひたすらに綺麗で。
耳の中で、心臓の音がさらにボリュームアップする。
どうしよう、って考える前に、「やだ」とか「無理」とか言う選択肢が、一個も浮かんでこなかった。
代わりに浮かんだのは、たったひとつだけ。
(……さっきみたいに、逃げたくない)
震える肩ごと、自分で自分の背中を押すみたいな気持ちで、私は顔を上げた。
「……………っ、はい ……」
耳まで熱くなっているのが、自分でも分かる。
目線をどう置いていいか分からなくて、一瞬だけ視線を逸らしてから、勇気を振り絞って春樹くんを見た。
彼はいつもの通り、急かすことも、茶化すこともしない。
ただ静かに、じっと私を待ってくれていた。
私は、そっと目を薄開きにしていく。近過ぎて、春樹くんの姿にピントが合わないから。ただそれでも。
夏の終わりのような夕方の匂いと、泡のようなやさしい彼の香りがごちゃ混ぜになっては私の胸の奥へと落ちてきて、止まってくれない。
さっきよりも、少しだけゆっくりと、手探りで距離を詰める。足先を僅かに伸ばして、彼の胸元へ両手を置く。鼻先に微かに、静かな彼の呼吸が触れて、胸がまた大きく跳ね跳ぶ。
そして、自分から。
私は、自分の意思で生まれて初めて、好きな人の口元へ、自分の唇を重ねた。
「んっ………………っ、ふっ、ぁ………」
今度は、流されてじゃない。
ちゃんと自分で選んで伸ばした、「この指」の先にあるぬくもり。
背中をなぞる互いの指先が、じわじわと指を置いている。抱き寄せられた部分からは、確かな熱がじんわりと私に全てにまで染み込む。
春樹くんもまた私を強く抱き寄せてきて、布越しにすら分かる腰の辺りに回った手の強さに、たまらなく膝から下が抜けそうになる。─────その時。
「んッッ……っ!? んんっ、ふぁ、ぁ………っ!」
思わず限界まで目を見開く。突然、未知の感触が私を襲う。
ギュッ、と縋るように彼の背中を掴む。春樹くんの、舌?
私の口腔にそっと差し込まれてきた吐息と、唾液の感触。私は思わず身を仰け反らせそうになる。それを堪えて痙攣しながら、変な声を漏らしてしまう。
「っんふ、っ………ん、ぁ……っ」
「ふ、ぁ、ぅあ…………」
蕩けていきそうな意識。頬も、耳も、全ても熱と混ざりあって、心地良くて、気持ち良い。全身が熱くて、もう恥ずかしいなんてものじゃない。
私は無意識にへんな声を発してしまう。抑えがまるで効かない。さっきまで泣いていたせいで、口の端に残る涙の跡が味覚として残る。
さっきよりも、そのキスは、ずっとずっと長く感じた。
時間が伸びる、というより、世界がこの瞬間の中にたたまれているみたいで、周りの音も光も全部、遠くのほうに置いてきてしまった気がした。
胸の奥がじんじんして、足の先まであたたかい。背骨の内側を、小さな電流と熱が落ちていくような感覚。身体中の意識ごと、彼に委ねるような、感触。
頭の中では、文字通り何も考えられない。
ただひとつ確かなのは、これが一生忘れられないものなのだということ。
一度覚えてしまった、知ってしまったこの感触と匂いとしあわせは、二度と忘れることの出来ないものなんだと、思わざるを得なかった。
どれくらいそうしていたのか分からない。
彼の方からゆっくりと離れると、夜の空気がひんやり唇に触れて、やけに現実味を帯びていく。
「……………………っ、ぷ、は…………!!」
「はぁ、ぁ、はぁ、ぁ…………」
「………」
小さく息を吸い込んで、私は目を開く。息が荒い私とは対照的に、静かな春樹くん。
限界まで近い、私たちの顔。互いの唇から、そっと唾液の糸が伝い合う。
それを拭うのすら、したくなくて。
そうして多分蕩けきってるであろうみっともない目線でぼーっと、彼を見つめ直す。
多分、今の私は誰にも見せたことなんかなくて、誰にも見せられないような顔をしている。唇を離してからも、なんだか上手く息の仕方が思い出せない。
彼もまた、私の唾液が付着してる唇を拭う事なんてしない。春樹くんも目を細めて、憂いと温かさの籠った瞳でこちらを見つめ返す。
「………………」
真正面から目が合う。
彼の顔は真っ赤で、きっと、私の顔もどうしようもなく赤くなっていた。事実、頬が熱くて仕方無かった。
さっきまであんなに泣いていたのに、今度は笑いそうになる。
でもどう笑えばいいか分からなくて、とりあえず口角だけ無理やり上に引っ張った。
「うへ、うへへ……」
自分でも何笑ってるんだろうと思うような声が出てしまう。
でも、それを聞いた春樹くんが、ふっと笑ってくれた。
「ふふっ。………」
目が細くなって、さっきまでよりもっとやわらかい表情になる。
「ひとり」
「……!」
名前を呼ばれて、反射的に背筋が伸びる。見つめ返す。
彼から私のことを呼んでもらえる度に、身体の奥で、青春コンプレックスに苦しんでいた傷が少しずつ癒えていくのが分かる。息を吸うことも、吐くことすらも、彼のペースに持っていかれる。
そうして、彼は私を見つめながら、囁く。
「………………愛してる」
その言葉は、「好き」のさらに奥にある、もうひとつ先の扉を、あっさり開けてしまった。
刹那、胸の奥が、きゅう、と心地よく痛む。
さっきのキスと、さっきの抱きしめられた感触と、その言葉が全部セットで、「これが今の私の幸福度の最高値です」って示してくる。世界中の景色と音が、今この瞬間に春樹くんだけに向く。
涙の残りが、勝手に一筋こぼれた。
「っ………わたし、もっ……ですっ……」
うまく言えなかったけど、それが今の私の限界の精一杯。
顔を真っ赤にしながら、私は彼の胸に飛び込んで、ぎゅっと抱きついた。
「だい……大好き、です。春樹くん」
「愛してます…………」
それは、甘い飴玉のように口の中で転がしてみても、まだ慣れない言葉だ。さっきまで泣いていたせいで、目も、喉元も、ジンジンして苦しい。でもそれでもこれをこの瞬間に言わなかったら、一生後悔する気がしたから、ちゃんと言った。
ありがとう、と呟いた春樹くんの腕が、もう一度私を包む。
夜風が二人の周りを通り抜けていく。
ふと見上げると、さっきまで夕焼けだった空に、一番星が光っているのが見える。あの日、喜多ちゃんと一緒に見上げた時と同じ恒星。それを見て、私は思う。
きっとこの瞬間を、私はただひとつだけの記憶として、ずっと胸の奥にしまって生きていくんだろう。
抱き締めたぬくもりは、ちゃんとこの手に残る。
それは、この先も、どうか永遠に消えないで欲しいと願うもの。
ずっと、ずっと、貴方と一緒に居られますように、と。
繋いだ手を解くタイミングが分からなくて、指先だけがいつまでも名残惜しそうに彼に縋りながら、そんなことを願い続けた。
※
「……あ。虹夏から連絡きてるぞ、ひとり」
どれくらい時間が経ったのか。
私達はようやく少し落ち着いて、二人でベンチに並んで座っていた時だった。春樹くんがスマホを取り出して、画面を覗き込みながら言う。
「え、え、なんでしょう?」
慌てて自分のスマホを取り出して、結束バンドのグループトークを開く。
『二人ともデートお疲れっ!! そろそろ写真は撮り終えて、デートも楽しめた頃合い? あたし達も今日練習終えるから、一緒に少し帰りながら皆で話そーよ! 下北沢駅前で集合ね!』
虹夏ちゃんからの、いつものテンションのLOINEが表示されていた。
「……うへへ、虹夏ちゃん達には、ちゃんと、報告しないとですね」
さっきまでとは違う意味で、顔が熱くなる。
でも、自然と笑いがこみ上げてきて、私はそっと春樹くんの手を握る。
「……そうだな。虹夏も、リョウも、喜多さんも────みんな、ひとりと、俺の為に……色々応援してくれてたもんな。報告しないとだな」
「あっはい」
彼の言葉に、胸の奥がまたじんわりする。
私たちのこの記憶は、きっと三人の願いにも繋がっている。そう
「帰ろうか。ひとり」
じゃがいもが入ったビニール袋を片手に、春樹くんは立ち上がる。
もう一方の手は、私の手をしっかり握ったまま離さない。
「あっ……………」
そのぬくもりを確かめるように、私は少しだけ指に力を込める。
目を見上げると、彼は安心させるみたいに微笑んでくれた。
「……………はいっ……!」
私は立ち上がって、うんと大きく頷く。
里山の上から見下ろす街の灯りは、さっきより少しだけ近く感じた。
フェンスに触れると、ひんやりした感触が手に残る。
この公園の、色あせたベンチも、ゆがんだ金網も、夕暮れと夜の境目の空も。
全部まとめて、今日の私の全てだ。
きっとこれから先、どれだけ色んなことがあっても、と思う。
どれだけ、辛いことがあったとしても、苦しいことが起こったとしても。
それでも。
ここで交わした言葉と、見下ろした景色と、繋いだ手の温度だけは、絶対に生涯忘れられない。
そう確信しながら、私は春樹くんと並んで坂を降り始めていく。
駅前には、三人が待っている。私の、居場所を作ってくれた大好きな人達が。
私たちのことを見守ってくれた、優しい「現在」の仲間たちが。
胸の奥に、今まさに刻まれたばかりの記憶を抱えて、楽しかった、幸せだった、と伝えよう。
そうして私と春樹くんは、私たちの大切な場所─────結束バンドの皆のところへ、もう一度戻っていった。
次回、#05『ソラニン』
最終回です。