新章
#06を開幕します。
CHAPTER #55 「夏の日、残像」(前篇)
ぼっち・ざ・ろっく!
フラッシュバッカー
#06『それでは、
※
十一月十一日の金曜日。
春樹くんとのデートを終えてから、ちょうど二週間。
二週間ぶりの週末ライブを一時間後に控えたSTARRYには、まだ何も始まっていないはずなのに、どこか胸の奥をざわつかせる匂いが満ちていた。
私達はいつも通りの学校を終え、放課後にいつも通りにSTARRYへ集っている。
「……」
掃除を終えたばかりの床には、蛍光灯の白い光が薄く伸びていた。
カウンターの向こうから微かに耳に届く、冷蔵庫の低い唸り。機材の奥でまだ眠っているアンプ。そこにあるもの全部が、今は静かで、けれど今か今かと起き上がるその時を待っているように私には見えた。
それらに加えて、思わずひやっとした冷たさに一瞬身震いする。
冬の少し手前の空気は、どうしてこうも、油断したところから入り込んでくるんだろう。私はいつものピンクジャージの両袖を指先まで伸ばす。
首元。
手首。
指先。
そういう、服の隙間からしか触れられない場所だけを選んで、冷たさはするすると忍び込む。まるで、まだ大丈夫だと思っていた心の柔らかいところだけを、先に見つけてしまうみたいに。
でも、最近の私はどうもこの時間が嫌いじゃないらしい。
ライブ前のSTARRYには、まだ誰の歓声もない。
ドラムの音も、ベースの低音も、ギターのノイズも、まだ鳴っていない。
なのに、それら全部が、見えないだけで確かにここにいて、幕が上がるのを待っているように感じる。音になる前の予感。
それは言うなれば、さながら生まれたての卵みたいに、少し触れただけでぱり、と殻が割れて、一斉に何かがその身を現しそうなもの。
始まる前の静けさの裏にあるのは、ただの静寂じゃなくて。
ここから、今日だからこそ出せる新しい音を孕んでいるような、そんな気がしてならない。
「はい皆ぁ〜!! 注目ー!!」
そんな時。
ぱん、と手を叩く音と一緒に、虹夏ちゃんの声が弾む。俯いてぼーっと音のことについて考えていた私は、思わず反射的に彼女の方へ顔を上げた。
すると、そこにはなぜか、身体に黒い布を被った虹夏ちゃんが立っている。
「?!」
怪しい。
いや、STARRYに怪しい人がいるのは今に始まったことじゃない。だけど、今この瞬間の虹夏ちゃんは、ライブハウスの店員というよりは、まるで文化祭の出し物で無駄にノリノリな手品師みたいだ。陽キャの香りがプンプン漂う。
何が始まるんだろう。こわい。でも虹夏ちゃんだから、多分いいもの。
たぶん。おそらく。分かんないけど。
思わず目をぱちぱちと瞬きしつつ、問い掛ける。
「あっ……あの、どうしたんですか、虹夏ちゃん。なんか変な格好してますけど……」
「ふふ〜ん、本日もライブの日な訳です、が!!」
そして虹夏ちゃんは両手を腰に添えてむふー、と息をつく。やがて、次の瞬間。
ばさぁっ、と。
黒い布が大袈裟なくらいに勢いよく翻って、その下から現れたものに、私は思わず目を見開く。
「おおおおおー!!」
気づけば、それを見た私とリョウさんと春樹くんの声が、綺麗に重なっていた。
そこにあったのは、新しいパーカー。
「だいぶ寒くなってきたし、バンドパーカーを冬用に新調してみたんだ〜!! 皆、着てみて!!」
黒を基調にした厚手の生地。胸元には『結束バンド』の文字。
でも、ただ同じじゃない。フードの形、袖のライン、細かいワンポイント。よーく見ればそれは一着ごとに少しずつ違っていて、どれも “おそろい” なのに、ちゃんと “その人の服” ────個性そのものになっている。
「すごいです先輩っっ!! これ、全員分用意してくれたんですか??」
「えへへへ〜。二週間前から気合い入れて夜なべして作ったんだあ〜!」
華やぐ喜多ちゃんを見た虹夏ちゃんが、嬉しそうに胸を張る。
とてもご機嫌そうな彼女のその笑顔を見ていると、なんだか胸の中がじんわりあたたかくなった。虹夏ちゃんの嬉しそうな顔は、周りの空気も明るくするんだ。
私は何となく頬を緩めつつ、改めてそのパーカーをじっと眺める。そして、私の前に置かれたそれを、両手でそっと持ち上げて広げた。
それは、ただの冬服じゃない。たぶん、虹夏ちゃんの手そのもの。
言葉にする代わりに、布を切って、縫って、形にして、「一緒に行こうね」って渡してくれる手みたいなんて、思ったりする。
……やわらかい。
指先が、厚めの生地に少しだけ沈む。
起毛した内側。新品の布の匂い。洗剤の、淡い匂い。まだ外気に晒されていない、部屋の中だけで完成した服の匂いなんだろう。
私はしばらく無言のまま、パーカーをまじまじと眺めた。それは、初めて夏の頃に虹夏ちゃんに作って貰ったTシャツとはまた別の満足感。それ故に思わず、見入ってしまう。
これ、本当に、私のなんだ。
結束バンドの。
私の、パーカー。
言葉にした途端に薄まってしまいそうな、じん、とした何かが胸に灯る。
着る前から既にもう、ほんの少しだけあたたかい。そのままゆっくりと袖を通し、首元のところからぷはっ、と顔を出す。
肩まで引き上げて、最後に、フードをそっと被る。
その瞬間、世界が少しだけ狭くなっていく。
視界の端が暗くなって、耳に入る音が少し遠くなる。頭から首筋まで、布がふわっと包み込んできた。
(ああ、これ……やっぱり落ち着くなぁ)
半袖と違って、パーカーは全部を包み込んでくれる。好き。
肩も、首も、手首も、頭まで。
視線も。会話も。人との距離も。本当は全部これで隠せたらいいのに、とすら思う。
布はやさしい。布は裏切らない。布は多分、世界でいちばん信用できる。冬服大好き……。そのまま私はフードを深く被ったまま、満足して身体を丸める。
するとその時、すぐ横から、リョウさんの声が落ちてきた。
「あっ。ぼっちがカタツムリみたいに」
「塩かけたら動くかな」
そんなこと言ってはそそくさと本当にキッチンの方から塩を持ち出す先輩。
えっ待ってくださいリョウさん、私はナメクジじゃないですよ。せいぜいツチノコです。ビクッとして思わず見つめ返す。
「ひとりちゃん死んじゃいますよ!!」
喜多ちゃんが慌てて止めに入る。でもどこか苦笑したような声色。
そのやり取りが、フード越しの世界では少し遠く聞こえる。布にくるまれているだけで、現実とのあいだに薄い膜が一枚入っていた。それだけで、私は少しだけ呼吸しやすくなる。不思議な感じ。
「冗談。……でも、これあったかいね、虹夏。よく出来てる」
リョウさんも自分のパーカーを羽織って、フードを深く被る姿が見上げた私の視界にも映り込む。虹夏ちゃんの方に向けて口元だけニヤッと笑う、そのいつも通りで気だるげな顔が、今日は少しだけ機嫌良さそうに見えた。リョウ先輩の隣で喜多ちゃんも、くるっとその場で回りながらはしゃぐ。
「ほんとですね! すごく可愛いし、デザインも皆に合わせて違うなんてすごいです! 虹夏先輩、デザイナーになれちゃいますよっ!!」
「えへへ〜もう、リョウも喜多ちゃんも褒めすぎっ!! でもありがとう〜っ!」
満更でもなさそうに、それを聞いた虹夏ちゃんはすっごく嬉しそうに自分の後頭部を撫でつつ、頭の上のドリトスをクルクル回していた。どうやってそれを回してるのかはもう気にしないでおこう……。
一方の喜多ちゃん。彼女がパーカーを羽織った姿はいつも通り明るい。なんならいつも以上にどこか身軽そうで、ひらひらしている。
こういう時の喜多ちゃんは、ほんとうに光そのものみたいだなと思う。彼女の楽しげな姿は、その場の温度がひとつ上がる感じすらする。
「うーわ……すっげぇな、俺の分まで用意してくれたのかよ虹夏」
春樹くんも、パーカーを羽織りながら感心したように声を漏らす。
彼の分は特にかなり大きめで、ただでさえ背が高いのに、その上からでもちゃんと “ゆるい” 感じで着られるサイズ感になっていた。フードですら、気持ち少し大きめ。いかにも彼に似合いそうな形だな、と私も思う。
「えへへぇ、まあね♫ 春樹くんのはサイズデカイから大変だったけどね」
「そりゃ悪ぃな、ありがとう、虹夏」
「ふふんっ、全然いーよ! 大事にしてね!」
「当たり前だろ!」
春樹くんが笑う。
虹夏ちゃんも、つられるみたいに歯を見せて笑顔を返す。
「……」
その光景を見ていると、思わず少し不思議な気持ちになった。
─────春樹くんが、もう “外から来た人” じゃないから、かな。
恋人とか、マネージャーとか。
そういう肩書きの前に、もう普通にこの輪の中に馴染んでいるような。言うなれば、仲間。戦友、どれとも言えるのかな。
最近はもう、最初からそこにいたみたいな感じで笑っている気がするから、余計に私まで口元が勝手に緩くなってしまう。
嬉しい、と思う。
でも同時に、くすぐったい。
自分の大事な場所に、自分の大事な人が自然に立っている、っていうのは、こんなふうに、そわそわして、でも嫌じゃないものなんだな、なんて。
これ自体は、もうこれまでにも何度か味わったもののはずなのに、何度この光景を観ても慣れない。
その時、ふと視界の端で、喜多ちゃんが映り込む。
彼女もまた、ほんの少しだけ口元を緩めているのが見える。リョウさんの隣で、少し遠巻きに虹夏ちゃんを見つめて、ほっとしたみたいに。すると、小さく呟くのが聞き取れた。
「────………よかった。虹夏先輩、少し元気になったみたいで」
「? なんか言った? 郁代」
喜多ちゃんがそんなことを囁くと、隣のリョウ先輩が気になった様子で目を向ける。「あっ、すみません、独り言ですっ」とクスクス困った様に喜多ちゃんは微笑む。「……そう」とだけリョウさんは呟く。
「……?」
ふと私は首を傾げる。あれっ、と。
喜多ちゃんって、そういえばいつから虹夏ちゃんのこと名前で呼ぶようになったんだろう。
そんなことを思いながら横目で彼女を見つめていると、虹夏ちゃんはユラユラと楽しげに身体を揺らめかせ、再び春樹くんへ微笑む。
「ふふ〜ん、さてさてっ、これからもガンガンライブ頑張ろうねっ♪ 春樹くんにもマネージャーとして本格的に頑張ってもらわなきゃなんだし!!」
「この前の文化祭ライブ以降からお客さんも明確に少しずつ増えてきて、ライブするのも楽しくなってきましたもんね!!」
喜多ちゃんもそれに同意するように、うんうんと虹夏ちゃんへ相槌を返す。虹夏ちゃんもまた、腕組みをしつつどこか得意げに頷き返す。
「でしょ〜! 最近はノルマ分のチケット捌ける日も増えてきたもんねぇ……」
「はいっ! この調子で、皆さんでどんどんお客さん増やしてきましょ!!」
おーーっ、と喜多ちゃんが手を挙げる。
その勢いに押されるみたいにして、私もフードの中で小さく拳を作った。
「そ、そうですね……!!」
頑張らないと。そう。
ちゃんと、もっと。文化祭以降から色々あったとはいえ、まだ結束バンド自体に特別なにか大きな変化が生じた訳じゃないんだ。春樹くんが参加したとしても、これから何か別の目標を見つけなきゃいけないのは変わらない。
自分のためにも。結束バンドのためにも。
この場所を、もっと遠くまで連れていくためにも。そろそろ私達は、何か具体的な目標を作らないといけない。すると、虹夏ちゃんは私の方へ「おお〜っ」と嬉しそうに口を窄めては、春樹くんにも顔を向け直した。
「なんかぼっちちゃんもやる気になってるじゃーん! 頑張らないとだねぇ、ねっ、春樹くん!」
「おうよ! 任せとけよ」
「ふふっ、頼もしいへんじっ! 期待してるぞまねーじゃー!」
「あははっ!」
虹夏ちゃんがハイタッチをしたそうに彼に手を伸ばす。すると、春樹くんもそれに応えながら楽しげに笑った。───その時。
「ふっ……」
どこか意味深な微笑みが隣から右耳に届く。「?」
嫌な予感が薄らとしつつも、私はそちらへ目を向ける。すると、壁にもたれたリョウさんが、なにやら妙に得意げな顔で腕を組んでいた。
「生ぬるいこわっぱ共め……そんな悠長なこと言ってたらバンド戦国時代は生き抜けんぞ」
「!?」
戦国時代……?
き、急にスケールがでかい。
虹夏ちゃんがスン……とそれを聞いて真顔になる。春樹くんも不思議そうに眉をひそめる。私もまた、思わずフードの奥で首を傾げた。
「えっ、せ、戦国……時代?」
「ふふふふ…………」
その不審な笑みを見た時、確信を得る。あれ。これ、既視感。嫌な予感。リョウさんの目が、なんかもう、¥マークみたいに見える。まずい。
これ気のせいじゃない。あれは完全に例のお金の目だ。
「結束バンドのSNSでぼっちのMy New Gravureすればすぐに上まで………」
「ヒィィィッ!! アッ………アッ…………」
ぞわっ、と背筋に悪寒が走った。思わず悲鳴をあげる。
何っ、何の話ですか、リョウさん!?
いや、分かる。これ、まさか。文化祭の時のデジャヴ。分かるけど分かりたくない。
“グラビア” って言った。今、絶対にそう言ったよこの人!!
顔面の筋肉が勝手に崩れる。もう無理だ。パーカーで守られるのは外側だけで、精神まで自動防御してくれるわけじゃないらしい。
「プライドってものがないのか!!」
すかさず虹夏ちゃんのツッコミが飛ぶ。
でもリョウさんは止まらない。むしろ加速している。スパァンと頭をハリセンで叩かれてもなお、¥マークを瞳に浮かべたまま私ににじり寄る。このひとは、そういう人だ。ゼーニゼニゼニゼニ、とブツブツ呟く。あひぃっ。こわい。
「バカかリョウてめぇ……んなの彼氏の俺がさせるとでも??」
するとそこへ春樹くんまで入ってきた。どこか不敵な笑みを浮かべてリョウさんと張り合う。「え゛ッッ、アッ」
思わず私は変な声が喉から飛び出る。いやちょっ、待って。待ってください。
なんでそこに “彼氏の俺” っていう枕詞つきで乗っかるんですか。
嬉しいは嬉しいんですけど、今は普通に最悪の方向に話が進んでる気がします。止めて。誰か。あっいや誰も止められない。アッ、終わった。
「ちっ、使えぬ彼氏だな」
「は????」
「………ぼっちの水着写真も特別に売るけど?」
「あ? いくらだ」
「e?」
………………ん? 私は思わず素っ頓狂な声をあげる。
世界が一瞬、止まった。
というか、今、いくらって言った?
値段聞いた? 春樹くん?
買う側に回っちゃうんですか? ハルキクン?
「一枚五千円」
「いやだから高くね?」
「今ならぼっちが居眠りしてたチェキも併せて+千円でもいいよ」
「今すぐ買う、全部寄越せ」
「いや買うなぁ!!」
ばしぃっ、と乾いた音が響いた。
虹夏ちゃんのツッコミが、春樹くんの後頭部とリョウ先輩に揃って綺麗に炸裂する。ちょっとした芸だった。
「グファァッ!!」
揃って春樹くんとリョウさんは呻く。
記憶に存在しないはずの水着写真と、いつの間にか撮られていたらしい寝顔のチェキ。そんな恐怖ワードに脳を完全に焼かれ、私はフードの奥でさらに顔面を崩壊させた。
水着写真なんて、い、い、いつ。寝顔?
え、寝顔?
いつ寝てたところを?
どこで? 私の知らない私が勝手に商品になろうとしている気が!!
「あっちなみに水着写真は合成ね」
「山田ァァァアア!!」
次の瞬間、リョウさんが脱兎のごとく逃げ出し、虹夏ちゃんと春樹くんが全力でそれを追いかけた。
とうとう、私は床に崩れ落ちた。
ぺたん、と。
這いつくばる。
視界が低い。床が冷たい。世界が遠い。
完全にツチノコ。今日の古典の授業で嫌に耳に残った古語が私の脳裏を通り過ぎていく。嗚呼。我が心、遥か遠くへと飛び急ぎて候ふ。
「きゃーー!! ひとりちゃんしっかりぃー!!」
喜多ちゃんが慌てて揺さぶってくる声がする。
遠くではリョウさんが虹夏ちゃんにコブラツイストを決められて悲鳴を上げていた。白目でそれを見つめ返す。やはり地獄。暴力……やはり暴力は全てを解決するのか……。
STARRY、今日も平和だなぁ。ロックしてるなぁ。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ギブギブギブギブ」
「ったく、リョウの奴は懲りねぇんだからよ……」
やがて騒ぎがひと段落し、呆れた形でそこから離れた春樹くんは床に散らばった写真を拾い集めていた。合成の水着写真はその場で破り捨てられている。
でも、その流れの中で、一枚だけ。
寝顔の写真らしきものを、春樹くんがものすごく自然にポケットへしまった気がした。すっ、と。
………………。
……今、入れた?
いや、気のせいかな。
気のせいじゃない気がする。
でも今それを確認しに行く勇気はない。見たら恥ずかしさで死ぬ気がする。物理ではなく社会的にも。頬が熱くなって目をそらす。
ちら、とその様子が目に入った喜多ちゃんが、ほんの一瞬だけ苦笑した気がする。けど、その意味を考える余裕は、今の私にはなかった。
「大丈夫? ぼっちちゃん? 山田のバカはシバいて写真も破り捨てといたからね」
「………大丈夫か? ひとり」
二人の顔が近づいてくる。虹夏ちゃんと何事も無かったかのように春樹くんも一緒になって屈んできた。ちなみにリョウ先輩は床でピクピクと痙攣したまま倒れ伏せていた。こわい。
私はようやく人間の形に戻りながら、フードを頭から外した。ピクピク震えながらゾンビのごとく顔を上げる。
「アッ、マ、マァ、ハイ……」
「大丈夫じゃなさそうだな」
「まあ、ぼっちちゃんは割といつもこんなんだよ」
揃って苦笑いを浮かべる二人。どうしよう、何も間違ってないから何も言えない。空気は相変わらず少しだけ冷たくて、でもその冷たさが、火照った顔には妙にありがたかった。
冬の手前の空気って、こういう時だけいやらしく容赦がない。身体を冷やしてくれるくせに、意識は簡単に正気に戻してしまう。
「な、なんとか……大丈夫です。ありがとうございます、その、少し考え事してて」
「? どうしたんだ?」
「あっいえ……その……」
春樹くんから問い掛けられるも、言葉が、うまく出てこない。
もちろん、水着写真とか寝顔チェキとか、そういう問題は置いときましょう。どミジンコ陰キャのそんなものに需要は多分ないと思いますので。
だから、本質はきっと、そこじゃなくて。ふと、考えてしまう。
それはつまり、リョウさんの言ったこと全部が全部、ただのくだらない冗談かっていうと────そう、言い切れない気がしたから、だ。
確かに、虹夏ちゃんたちの言う通り、結束バンドのお客さんは少しずつ増えてきている。文化祭ライブのあとから、明確に空気が変わった。
前よりライブが楽しくて、前より次の景色を想像できるようになってきた。
でも、それは、あくまでも最初の結成した頃に比べて、の話だ。
虹夏ちゃんの夢は、ここをもっと有名にすること。店長さんの為にも。その為に、私は何が出来るんだろう。
支えてくれてる春樹くんや、みんなの為に、虹夏ちゃんの為に、私ができること。その答えが、まだよく分からない。具体的に、何をするべきなのか。
もっと上に行きたい。
みんなで、もっと遠くへ行きたい。
そのために必要なことが、もしあるのだとしたらそれは、と思う。
「……リョウさんの言うことも、一理あるのかもしれないと少し考えてて」
「えっ何、水着の話ならガン無視でいいと思うけどな」
眉をひそめた春樹くんが即答する。虹夏ちゃんも横でうんうんと激しく頷く。
「あっ、ち、違くて……」
私は慌てて首を振った。
違う。
そうじゃない。
そうじゃない、けど。
「その……」
喉の奥で、言葉がひっかかる。
上手く言葉に出来ない。
パーカーの内側はあんなにあったかかったのに、今は逆に少しだけ暑い。
包まれて安心していたはずなのに、その布の下で、心臓だけが落ち着きなく脈打つ。その温もりが、言葉の残滓を形にしてくれた。
…… “ギターヒーロー” 。
私がずっと隠していた、もう一人の自分。オーチューブの、アカウント名。
私であって、私じゃないみたいな名前。
でも、間違いなく私の居場所だったもの。
結束バンドを人気にするために。みんなともっと先へ行くために。
もしそれを──────公にするべきなのだとしたら。
もし、それが必要なことなんだとしたら。────私は、そこまで差し出せるんだろうか。
ギターヒーローを。
後藤ひとりとは少し違う、あの場所の私を。誰にも見つからないように、でも誰かには見つけてほしいと願いながら続けていた、もう一つの私を。
そこまで考えて、胸の奥が少しだけざわつく。
不安。
怖さ。
何よりも、かつて春樹くんを大きく傷つけてしまった、私自身の業。
それを思い出して、背筋とお腹の奥がギュッと痛む。
このことを考え始めると、まだ心のどこかに、静かな波紋が広がる。
小さくて、でもそれは未だに消えない波。それが、私の中にまだ言葉にならない何かがあるってことだけを、はっきり教えてきてならない。
複雑で、ぐちゃぐちゃで。それは、自分でもうまく名前をつけられない。でも、ひとつだけ分かる。
(───────そう、いえば)
その波紋に触れた瞬間、私は一週間前のことを思い出す。
新しいギターで、久しぶりに動画を撮ろうと思った日。
相談しようとして。春樹くんにメッセージを送って、彼が家に来てくれたあの日。
そして、思っていたよりも少しだけ大きく。
何かが動き始めてしまったような気がした、あの午後のことを。