ぼっち・ざ・ろっく! フラッシュバッカー   作:空山 零句

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夕立ち 蝉の音 報われぬ幻想
僕だけ残して流れて流れた

仁王立ち デタラメ 強がりはいっそ


夏の日、残像


消さないで消えないで



-ASIAN KUNG-FU GENERATION「夏の日、残像」-








CHAPTER #55 「夏の日、残像」(後篇)

 

 

 後藤家の前に着いた時、あたしが最初に見えた姿。

 それは、見慣れたはずなのに、今この場所にはいるはずのない横顔だった。

 インターホンの前に立っていた春樹くんの姿を認めた瞬間、あたしの足はぴたりと止まる。

 

「えっ?」

 

 ほんの一歩。たった一歩のところで、身体ごと季節に引き留められたみたいだった。そして、はた、とあたしと彼は目が合う。

 

「ん?」

 

 十一月の空は高い。

 手を伸ばしたって届かないくらい、高くて、青い。

 夏みたいに濃くて近い青じゃない。もっと薄くて、もっと遠くて、何もかも見通してしまいそうな青だった。風は冷たいのに、どこか日向の匂いがする。乾いたアスファルトと、陽に温められた塀の匂い。秋の終わりの匂い。なのに、胸の奥のどこかにだけ、まだ終わってない季節が、小さな火みたいに残っている気がした。

 

「……え?」

 

 声がもう一度、勝手に漏れた。

 すると向こうも、同じような顔でこちらを見つめ返してくる。

 彼はゆるめの灰色のパーカーに、その身を主張し過ぎない落ち着いた茶色のジャケットを羽織っている。下は黒のスラックス。足首の下はグレーの靴下で、綺麗な革靴が見えた。

 なんというか。

 絵に書いたようなオシャレ男子が着てそうな秋コーデ。デートの時とはまた違ってるけど、落ち着いた雰囲気。

 

「えっ、虹夏? えっなんで?」

 

「え、え? なんでそういう春樹くんこそ、ぼっちちゃんちの前で……?」

 

 言葉は交わしてる。ちゃんと聞こえてる。

 でもその会話が、妙に現実味を持たない。耳の奥に薄い膜が一枚張ったみたいに、音だけが少し遠い。

 前のぼっちちゃんとしていたデートの時の事。

 あたしを見つめ返すもうひとりのあたしの涙目の瞳。

 

 それらが、デジャヴとなって一瞬あたしを襲う。

 

(─────あれ、おかしいな)

 

 だって、今日ここに来るのはあたしだけのはず。

 

 ぼっちちゃんが、新しいギターで宅録してみたいって。

 久しぶりに動画も撮ろうと思うから、ちょっと手伝ってほしいって。

 そうやって数日前に送られてきたメッセージは、いつもより少しだけ弾んでいて、でもどこか照れていて、なんだかあの子らしかった。

 だから今日のこの場所は、少なくともあたしの中では、あたしとぼっちちゃんだけの予定だったはず。

 

 そこに、どうして春樹くんがいるんだろう。

 

 問いの形をした小石が、胸の水面にぽつりと落ちる。小さい波紋。それなのに、その円だけが妙に広く広がっていく。

 春樹くんは少し困った様子で、自分の後頭部を撫でつつ苦笑いを浮かべている。

 

「あ〜……えっと、ひとりに相談したいことがあるって言われてさ。それならって、俺、昨日メッセージで……」

 

「へ?」

 

 そう言って事情を説明されて、ようやく見えてくる。

 

「…………」

 

 ああ、そっか。あの子、やったなコレ。

 目を細めつつ、納得する。「……あ〜〜〜……うん、察した」

 頭の中に、容易く想像できるぼっちちゃんの姿が浮かぶ。

 スマホの画面の前で、春樹くんが家に来る、っていう事実ひとつに真っ赤になって。わたわたして。舞い上がって。多分、あたしとの約束まで頭から飛ばしてしちゃったってところかな。

 まあ、いつもの。

 

 ……うん。

 すっごく、ぼっちちゃんだ。

 

 呆れるより先に、少しだけ笑いそうになってしまう。

 困る。困るんだけど。

 そういう抜け方まで含めて、あの子らしいなって思ってしまう自分にも、ちょっと困る。もう。

 

「……なるほど、俺が半ば急に家に行っていいかー? なんて軽く連絡したばっかりに、ひとりは断れなかったパターンかねぇ……」

 

 春樹くんが額を押さえて苦笑いを続ける。

 あたしもつられて、小さく肩をすくめた。多分、同じ顔をしている。

 

「あー……そっか、春樹くんもそういうことになってたんだ……ごめん、知らなかったや」

 

 知らなかった。本当に。

 でも、それで誰かを責める気にもなれなかった。

 だって悪いのは多分、ぼっちちゃんの彼への「好き」が大きすぎることだから。いや、まあでも、仕方ないのかな。あの子がどんなに彼のこと好きかなんてあたしもよく知ってる。

 好きな人が来る。それだけで予定も順番も頭から吹っ飛んじゃうくらい、まっすぐで、わかりやすくて、不器用で。……そんなの、ずるいくらい可愛いに決まってるもん。

 あぁ、ほんとに、とあたしは思う。

 ほんとに、どうしようもなくぼっちちゃん、そういうところが可愛いから困っちゃうんだよな。

 

「あっ、……あたし邪魔になっちゃ悪いし今日は帰ろうかな?」

 

 半分は、本気だった。

 でももう半分は、試すみたいな気持ち。

 ここで帰るのが、一番丸い気がしたからだ。

 それは、彼の友達としても、何よりも────結束バンドの “リーダー” の務めとしても。

 

 彼氏が初めて家に来る日に、友達が横で宅録に付き合ってる図って、どう考えても変だし、気まずいし、あとからぼっちちゃんが胞子化する未来まで容易に見えた。それに。

 

 ……それに、二人きりで過ごせる時間の邪魔なんて、したくなかった。

 

 そう思ったのに。

 

「いやいや待て待て! お前下北沢からこっち来てんだろ!? ここまでくるのにお金も時間も結構掛かってんだから、そんなすぐに帰るなって、もったいないだろ!」

 

 返ってきたのは、拍子抜けするくらいまっすぐな言葉だった。焦った様子で必死にあたしを引き留める。

 その瞬間、あたしは彼のその言葉に思わず目を見開く。

 秋の風が、すっと頬を撫でて通り過ぎる。

 それは、なんていうか。冷たいくせに、変にやさしい。まるで今あたしが胸の奥で作っていた “身を引くための言い訳” だけを、ひょいと攫っていくみたいに。

 

 ……こういうところなんだよなぁ、って思う。

 

 春樹くんって、変に気が回るくせに、こういう時だけ変に一直線で。

 誰かを遠慮させないで輪の中に引きずり込むのが、上手いんだか下手なんだか分からない。

 

「え〜……でも、二人の邪魔になっちゃうじゃん?」

 

「俺は気にしないって。ていうか、元々ひとりの家に来る予定だったのはむしろ虹夏の方なんだろ? それなら帰るべきなのは俺だって。虹夏が帰るなんてことないよ」

 

 その言い方には、打算なんてものがまるで無い。

 誰が得するとか、誰が一番いい位置にいるとか、そういう損得勘定じゃなくて、ただ本当にそう思ったから、そう言ってる声。

 心の底から、あたしを慮ってくれていると分かる色だった。

 

 あたしはそのまま一瞬だけ、言葉を失う。

 

 優しい。

 いや、優しいだけじゃない。

 こういう時に変な遠慮を持ち込まない強さが、この人にはある。

 

「……じゃあ、そう、だね」

 

 それが少しだけ悔しくて、少しだけ頼もしくて、そして───やっぱり、と考えてしまう。

 やっぱり、春樹くんにはあたし、敵わないや。そう思って、瞳を伏せる。少しだけ、胸の奥の柔らかい場所を痛ませる。

 そのまま、言葉を静かに返す。

 

「……お言葉に甘えて。ホントにあたしも居てもだいじょーぶ……?」

 

「おぅ、俺は全然いいよ。てか居ろよ。な?」

 

 ぶっきらぼうみたいな言い方なのに、その実、ちゃんと「帰らなくていい」って言ってくれてる。ニカッ、とまるで小学生の男の子が笑うみたいな、屈託のない太陽みたいな笑顔。

 なんていうか、ほんと眩しい。温かい。

 

 まるでそれは、立冬が近付く今この瞬間にも、春すらも連れてくるみたいな。そんななんの曇りもない善意そのもの。

 

 なんでぼっちちゃんが彼をあんなに好きになったか。

 あたしにも分かってしまう。きっと、こういうところなんだ。

 

 だからあたしは、少しだけ笑ってしまう。

 

「ごめんね、ありがとう春樹くん!」

 

「ふふっ。おう!」

 

 礼を言った、その直後だった。

 ふと、胸の中に小さな違和感が浮かぶ。言葉になるより先に、影だけが差すみたいに。

 ……待って。

 そもそも。

 そもそも、春樹くん、なんで今日ここに来ることになったんだっけ。

 

「……………っていうか、アレ?」

 

「ん? どうしたの」

 

 春樹くんがインターホンに手を伸ばしかける。

 その指先を視界の端で見ながら、あたしは首を傾げた。

 

「………そもそも、なんで春樹くん、ぼっちちゃん家に来ることに? このタイミングで。ぼっちちゃん、今から何するかとかって聞いてるの?」

 

「えっ、そういえばそれを言うなら虹夏こそ」

 

「へ?」

 

「え?」

 

 間の抜けた声が漏れる。

 自分でも分かるくらい、ぽかん、とした音だった。トレードマークのドリトスが揺れた気がした。多分、気のせいじゃない。

 

「…………」

 

「…………」

 

 途端に、この玄関前だけ空気が薄くなった気がした。

 空はさっきまでと何も変わってないのに、ここだけ時間がちょっとだけ引っかかる。呼吸はできる。できるはずなのに、妙に胸が詰まる。

 

「あ、あたしはぼっちちゃんが新しいギターで収ろ……」

 

 そこで、止まった。

 

 言葉が、じゃない。

 その先に続くはずだったもの全部が、一瞬で喉の奥に引っかかった。

 収録。

 動画。

 ギターヒーロー。

 重なる、記憶。

 

 あの日。居酒屋の前で、星空の下に交わしたあたしとぼっちちゃんだけの秘密。そして彼女の、決意の言葉。

 それらの光景が、追憶が、深い沼の底から、しゃぼん玉のようにその身をもたげていく。

 

 これを、この場で言っていいのか。

 ぼっちちゃんがあえて隠してるものを、今ここであたしが口にしてしまっていいのか。

 

「……えっと」

 

「え? 収録?」

 

 春樹くんが、ほんの少しだけ首を傾げる。

 その単語を聞いた瞬間、あたしは顔を上げる。ほんの少しだけ。ほんとにほんの少しだけなのに、それが分かってしまった。

 あれ。

 ──────まさか。そんな。

 その瞬間、頭の中で何かが音もなく繋がる。

 もしかして。

 いや、まさか。

 でも。

 でも、今の反応……。

 

「……………えっ、あのさ。もしかしてなんだけど、春樹くん。ぼっちちゃんが隠してること、知ってるの?」

 

 試すように、あたしは思わず問い掛けてしまう。

 問いかけるというより、もうもはやあまりにも露骨過ぎて探る、に近い。探りながら、もう半分くらいは答えを知ってしまっている自分がいる。

 

「えっ? そういう虹夏こそ、知ってんの?」

 

 返ってきた言葉で、確信はさらに深くなった。

 

「……え、た、試しに聞くけど、何の話してるか、分かったの? 今の『収録』って言葉だけで」

 

「……………動画の収録、だよな?」

 

「────────………………」

 

 ああ。

 やっぱり。

 胸の奥の何かが、かすかに沈む。呆然と、そのままあたしは目を見開いたまま固まった。

 小さな石がまたひとつ、静かな水底へ落ちていくみたいに。

 

「………ぼっちちゃんの隠してること、知ってるんだね? 春樹くん。言ってみて?」

 

「………ひとりが、『ギターヒーロー』だってこと、だよな? 普通に考えて」

 

「………うわぁ〜………まじかぁ」

 

 笑うしかなかった。

 驚いた。本当に。

 でも驚きながら、同時に少しだけ納得もしてしまった。

 だってこの人は、ぼっちちゃんのことをちゃんと見てる。

 見てるから、気づいてしまう。そりゃ、バレててもおかしくない。でも。

 

「まさか春樹くんにばれちゃってるなんて、ね。……なんていうか、びっくりだね」

 

「あぁ……まぁ、その。なんなら、いちばん最初の告白の時にはもう言ってたよ。その話は」

 

「……そ、っか。そう、なんだ」

 

 そうなんだ。

 そうか。

 そこまで、もう行ってるんだ。

 

 胸の奥のどこかが、薄く裂けるおとが、した。

 

 それは、たぶん、大きな傷じゃない。血が噴き出すような痛みでもない。ただ、紙で指を切った時みたいな、あとからじわじわ来る種類の痛み。

 でもそういうのに限って、妙に長く残るものだ。変な形で出来てしまったその “傷” は、跡となって目立つ。あたしは誤魔化すみたいに笑っちゃう。

 

「……にしても、ぼっちちゃん、隠し事下手すぎでしょ」

 

 そう言いながら、本当は思っていた。分かっていた。

 

 違う。

 本当は、ぼっちちゃんは隠し事が下手なんじゃない。

 多分、隠しておきたいことと、知ってほしいことの境目が、あの子の中ではまだぐちゃぐちゃなだけだ。

 自分のままでいたい。

 でも変わりたい。隠れていたい。

 でも見つけてほしい。

 

 自分でもきっと、あの子はそれを分かっている。矛盾まみれで、でもそれが苦しくて。あたしにはそれが分かる。

 

 そういう、どうしようもなく人間くさい揺れの中に、ぼっちちゃんはいるんだってことが。

 

「……虹夏は、いつから知ってるんだ?」

 

「………あたしは台風ライブの時だよ」

 

 あの日を思い出す。

 

 雨。

 轟音。

 心臓を叩くみたいなドラムの振動。

 その真ん中で、ぼっちちゃんのギターだけが、STARRYで、変なくらいまっすぐに伸びていたあの瞬間の事を。

 

「ギターの余りにキレのいいストロークとか、ぼっちちゃんの使ってるギターとか、音の出し方でね」

 

「そう、なのか………」

 

「薄々もしかしてとは思ってたんだよ。ただ確証はなかったから黙ってただけで」

 

 黙ってた。そう。あえて言わなかった。

 あの子があの子のタイミングで、自分の殻を割ろうとするまで、待ちたかったから。

 それは優しさだったのかもしれないし、あたしのわがままだったのかもしれない。その区別なんてつかない。

 でも確かに言えること。それは、あの秘密は、少なくともあの時点では、あたしとぼっちちゃんだけのものだったから。

 

「……そーゆう春樹くんは、いつから知ってたの?」

 

「……俺も、台風ライブの時だよ。音の出し方、何スケールを弾いてるのか、コードの鳴らし方の癖。そういうので分かった」

 

「ほへぇ……うそぉ……」

 

 素で変な声が出た。

 

 コードの鳴らし方。癖。スケール。あたしより、より深い。

 そういうところまで見えてしまうのか、この人は。ああでも、そうか、と納得する。春樹くんは元々、オーチューブだってやってたんだ。自然な話か。

 秋の風が、塀沿いに細く流れていく。どこか遠くで、木の葉の擦れるかすかな音がする。

 静かな午後。金沢の街は、下北に比べたらどうしようもなく静かすぎるくらいだった。だからこそ、今交わされている言葉が、変にくっきり胸へ残っていく。

 

「すごいね、春樹くん……コードの鳴らし方とかまでとか。STARRYでバイトしてくれてる時から思ってたけど、ほんっとにめちゃめちゃ耳良いんだね」

 

「まぁ……ほら、そこはお前も知ってるだろ。元々俺はギターの経験もあったから、それも相まってだよ。それに、良い音を聴く機会も多くて、耳が慣れちまってたってのもあるからさ」

 

「そっか、そういうものなのかな……」

 

「そうそう」

 

 小さく頷く彼を一目見て、そうしてあたしは塀にもたれたまま空を見た。

 高い。

 青い。

 遠い。

 そして、どこか置いていかれる感じがした。季節も、時間も、たぶん、ぼっちちゃんのことも。

 

「………リョウや喜多さんにも話してないのか? ひとりは。その、ギターヒーローのことさ」

 

 インターホンを押そうとするのを辞めて、彼はあたしと似たような姿勢のまま横目で問い掛けてくる。それを聞いて、思わずあたしは少しだけ視界を伏せた。

 

 台風ライブの夜。

 ぼっちちゃんがぽつりぽつりと零した言葉たち。

 もっと変わってから。

 今のままじゃまだ言えない。

 ちゃんと、自分で胸を張れるようになってからじゃないと、って。

 

「……あたし以外のメンバーには誰にも言ってないと思うよ。……あの性格を、直してから……話したかったんだってさ」

 

「………………ひとりらしいな」

 

「アイツ、本当にずっと自分を変えたがってる子だからなぁ」

 

 そこまで呟いた春樹くんも、少しだけ細めた目で、これまたあたしと同じように青空を見上げる。

 その横顔を見上げて、あたしは思う。

 この人、ほんとに、ぼっちちゃんのこと見てるんだ。

 上手く言えないところも。下手くそな隠し方も。

 変わりたいのに変われなくて、それでも足掻いてるところも。

 

 ちゃんと見て、ちゃんと分かろうとしてる。

 

「……春樹くん、知らないフリしてあげてたんだ? ぼっちちゃんのためにさ」

 

 少しだけ茶化すみたいに笑う。

 そうでもしないと、胸の奥が痛いって顔に出そうで。

 

「……そ、そりゃ、好きなやつが敢えて隠してることを周りにひけらかしたりなんかしねぇよ」

 

 ぽりぽりと後頭部を掻いて目を逸らす春樹くんに、あたしはふっと笑った。その頬は微かに赤い。ふふっ。照れてる。

 優しい。可愛い。素直な人だな、とか考える。

 それに、何よりもたぶん──────ずるい。

 そういうところを見せられたら、ぼっちちゃんがもっと深く信頼していくのも、分からなくない。

 

「ふふっ、そういうところが優しいね」

 

 ぽん、と肩を叩く。

 軽く。ほんとに軽く。

 でも、その手のひらの下であたしの胸は、少しだけ重い。

 もうひとりのあたしが、どこかからあたしを見ている気がして。それでも、あたしはその視線を誤魔化すように笑顔を作る。

 

「……やっぱ春樹くんにぼっちちゃん任して正解なわけだ」

 

「お、おぅよ、そりゃ、どうも………」

 

 相変わらず照れた様子で目を逸らすその横顔を見ながら、あたしは微笑む。

 笑う。笑えてしまう。でもその笑顔の奥で、どうしようもなく残ってしまった何かまで、なかったことにはできない。

 

「………でも、やっぱり、ちょっと悔しいかも」

 

「え?」

 

「……だって、ぼっちちゃんとあたしだけの秘密だと思ったからさ?」

 

 冗談みたいに言おうとした。

 軽く。明るく。

 けど、途中で声が少しだけ掠れてしまう。

 秋の風は、きっとどこまでも残酷だ。

 頬を撫でるたび、隠したはずの感情の輪郭だけを、やけにはっきり浮かび上がらせる。あの日、喜多ちゃんに手を繋いでもらって、沢山泣いて、そうしてもう一度隠したはずの痛みごと。

 

「…………それは、俺だってそーだよ……」

 

 少しだけ悔しそうな声。

 その返事が、妙に嬉しくて、妙に苦い。

 

「あはは、お互いにそだね」

 

 お互いに、だ。

 そう。

 お互い、ぼっちちゃんの「特別」が欲しかった。だって何よりもあの子は、ヒーローだから。救いをくれる、大切な子だから。

 

 欲しかったけど、それがもう一人分だけの小さな箱には収まりきらなくなっていることも、どこかで分かっていたんだと思う。

 

 分かってる。分かってるのに。

 ……分かってるから、なおさら痛い。

 でも、それでも敢えてそれを見ない。

 

 しばらく足元を見つめる。

 コンクリートの地面。薄い影。風に揺れる電線の音。

 何でもない午後。ほんとうに、何でもないはずの午後。

 

 なのに、この日だけは多分、ずっと残る。それはさながら、過ぎた夏の残像のように。でも多分、それは永遠にこの先も背負うべき強がりなんだと思う。

 

「……………ぼっちちゃんの『特別』は、春樹くんが今、全部持ってっちゃってる」

 

 言葉にした瞬間、自分で自分の胸を少しだけ切ったみたいな気がした。

 でも、言わないまま飲み込むよりは、たぶんずっとましだった。

 だって、それだけのものを持っているなら。

 ぼっちちゃんの「特別」をそんなにたくさん受け取っているなら。

 それを、あたしの代わりに、守って欲しいから。託していたいから。君を、信じていたいから。その人には、それ相応の重さを知っていてほしかったから、だ。

 

 

 

「……………だから、だからこそ、そんなぼっちちゃんからそこまで信頼されてるんだから、ちゃんと────守ってあげなきゃダメだよ?」

 

 

 

 目を上げる。

 春樹くんを見る。切実に、願うように、あたしは見つめ返す。

 逃げないで、ちゃんと。お願い。あたしには、もう、できないから。

 

「春樹くんにしか、それは出来ないんだから」

 

 彼は、目を見開く。お互いに、強く見つめ合う。

 

「─────────虹夏……」

 

「………ぼっちちゃんのこと、改めて……任せたよ? あたし達の、大切なギターヒーローなんだから、責任持って、春樹くんが守ってあげて」

 

 “大切なギターヒーロー”。

 

 その言葉を口にした瞬間、胸の痛みは少しだけ別の形に変わった。

 

 それはもう、恋だけじゃない。

 好きだけじゃない。

 あの子は、あたし達の光。あたしにとって、天国にいるお母さんへの道筋そのものだから。

 だから、ただ欲しいじゃ済まない。

 独り占めしたいだけじゃ足りない。

 そういう場所に、もう立ってしまっているんだから。

 

 春樹くん。君がいる場所は、そういう場所なの。

 

 だから、だからせめて、とあたしは願う。──────せめて、その覚悟を、これからも見せて欲しい、だなんて。

 

 彼は、一瞬瞳を伏せては、もう一度あたしを見つめ返す。強く、決意に満ちたような表情で、真っ直ぐに。

 

「………約束する。アイツは、俺が守る」

 

「ただ、お前にも頼みがあるんだ」

 

「えっ、どんなこと?」

 

 春樹くんの表情が変わる。

 秋の光の中で、その目だけが妙にはっきり陰る。

 

「………………もし俺に何かがあって、アイツが、また『独り』になろうとすることがあったら」

 

 その瞬間、世界の音が少し遠のく。

 お互いに、首を横にしたまま、強く見つめ合う。

 車の音も。

 風の音も。

 どこかの家の中で鳴った食器の音も。

 

 全部、薄いガラス越しの出来事みたいに薄れる。

 

 

 

「─────ひとりを頼む」

 

 

 

「……え?」

 

 

 

 

 単語だけは、耳に届いた。

 そう。聞こえたはずなのに、心がすぐには追いつかない。

 何を、言って。

 

 だって、その言い方じゃ。そんな言い方じゃ、まるで。

 

 いつか、本当にそういう日が来るみたいで。

 

「……虹夏に、……結束バンドの皆にひとりのことを頼みたいんだ。俺の願いなんだ」

 

「────────!!」

 

 胸の奥が、どくん、と大きく鳴る。

 

 何それ。

 どういう意味。

 そう聞き返したい。聞き返してしまいたい。

 でも、春樹くんの真剣で、切実で、願いに満ちたどこか哀しげな顔を見たら、その言葉は全部喉の奥でほどけて消えた。もう、何も言えるはずもなかった。

 言葉を失ったまま、ただ、唇の中の水分だけが喪われていく。

 冗談じゃない。

 気休めでもない。

 ただ本気で、それを怖がっている人の顔。

 

 

 

「俺は、アイツに自分の人生を生きれるようになって欲しい」

 

「!!」

 

 

 風が吹く。

 それは、乾いた匂いを運ぶ。金木犀(きんもくせい)はもう終わって、代わりに土と木と、少し冷えた陽だまりの匂い。それは、言うなれば季節が、終わっていく匂い。

 

「こないだのデートの時、確信したんだ。きっとアイツは、俺に依存しちまってる」

 

「…………」

 

「だけどそれじゃ、ダメなんだよ」

 

 その一言は、やけに静かだった。

 静かなのに、静かだからこそ、刃みたいに胸へ入ってくる。

 好きな人に依存される。

 それって普通なら少し甘くて、少し嬉しくて、もっと独占的な色のついた言葉であってもおかしくない。なのに春樹くんは、それを “危うさ” として見てる。

 それは、同世代の男の子のそれには、あまりにも似つかわしくない。

 でも、あたしには分かる。彼のその言葉は、きっと彼なりの『痛み』故によるものなんだってことが。

 

 嬉しい、の先。

 愛しい、の先。

 

 もっとずっと遠いところから、ぼっちちゃんの未来を見ている。

 

「だってそれは、アイツにしか出せない……ギターヒーローとしてのロックを、音を、下手すりゃ曇らせることになる」

 

 曇らせる。

 その言葉に、あたしは息を呑む。目蓋を見開いたまま、閉じることが出来ない。小さく痙攣し続けている。

 恋で曇る。依存で曇る。誰か一人に寄りかかりすぎることで、あの子の音から自由が失われるかもしれない。そういうふうに、考えているんだ。

 

「それは嫌だ。俺はひとりにしか出せないロックの『光』……輝きに惹かれたんだ」

 

 光。

 また、その言葉だ。あたしと、同じ。

 

 ああ。

 この人にとってぼっちちゃんは、ほんとうに、そうなんだ。あたしと、そこは変わらないんだ。

 好きな女の子。

 恋人。

 大切な人。

 それだけじゃなくて。暗い場所にいた自分へ差した、一筋の光みたいなもの。だから守りたいし、だからこそ自分だけのものにもしたくない。

 

 分かる。

 

 あたしには、その気持ちが、きっと誰よりも、分かる気がする。分かってしまう。……残酷なくらい、綺麗な愛。

 それは言うなれば、純粋で、愛おしくて、願いに満ちた─────恋とは違うものだ。

 

「なにより、ひとりの姿に、俺は何度も救われたんだ」

 

 そう言う声は、少しも飾っていなかった。

 多分、この人のいちばん深いところの本音だ。理屈じゃなくて、体の芯に刻まれてるみたいな、本物の言葉。

 

「…………きっと、その輝きは…… “ぼっち・ざ・ろっく” の輝きは……この先、いつの日か必ず、今よりもずっとずっと沢山の人を魅了する」

 

「…………」

 

「アイツはもっと、もっと沢山の人に、必ず愛される時がくる。必要とされる人間に絶対なれるんだ」

 

 秋の青空の下で、その未来の話をする声だけが、どうしようもなく眩しかった。

 眩しい。眩しいのに、胸が痛い。

 

 だってそれは、「自分のそばにいてほしい」よりもっと大きな願いだから。

 誰か一人の手の中に閉じ込めるんじゃなくて、もっと遠くへ、もっと沢山の人のところへ行く未来の話だから。だからさ、と彼は呟く。

 そうして、見上げていた蒼から、あたしへ目を向け直してくる。

 

「だからそれを、自ら放り投げようとかしてたら……何としても、止めて欲しい」

 

「もし。もしも俺が、もしそこに居られなくなる時が来たら、それが出来るのはもう───」

 

 そこで、一拍。

 

 沈黙。

 短いはずなのに、妙に長い。

 まるで、その一拍のあいだだけ時間が呼吸を止めたみたいに。

 

 

 

「虹夏たち、結束バンドだけだ」

 

 

 

「ッ………」

 

「………………それは……」

 

「そうかも、しれないけど……!」

 

 言葉を詰まらせながらも、そうしてあたしはほとんど反射で返す。

 でも、その先が続かない。被ってしまう。

 

『私はね、虹夏。お姉ちゃんと、ずっと仲良くいて欲しいの』

 

『どんな事があっても、何があっても、ふたりは “世界一仲のいい姉妹” でいて欲しいの─────お姉ちゃんにも伝えたけど、ね』

 

『それを、忘れないで。お母さんからの願いは、それだけ!』

 

 あたしにとっての、今でも消えない残像。優しく笑いかけてくれる、既に喪われた痛みと、その切ない微笑みが。

 やだ。やめて。

 違う。

 違う、あたしは、そんなことを、言って欲しかったんじゃないのに。

 ただ、そんな話を、そんな顔でしないでほしかった。

 なんで、そんなこと言うの。言えちゃうのさ。なんで、ダブるの。あの人と、彼が。

 いやだ。そんなの、いや。いなくならないで。

 ちゃんと隣にいてよ。

 ぼっちちゃんの「特別」を持っていけるなら、そのままずっと持っててよ。

 

 ……─────そんなこと、言えるわけないけど。

 

 喉の奥が熱い。

 それはきっと、思い出してしまったからだ。あの人と、彼の切なげに笑うその笑顔が、あまりにも似ていたから。目尻からもまた、熱が解けていきそうになって、あたしはたまらず目を逸らす。そして慌てて手の甲でそれを拭う。

 それは、それこそ違うと思った。

 ここでこれを見せたら、それはもう “任される側” の顔じゃなくなる気がしたから。

 

「………………………」

 

「………うん、そう、だね」

 

 ゆっくり息を吐く。

 風が、今度はさっきより少しだけやさしく頬をまた撫でていく。

 慰めみたいで、余計に切なくて。

 

「ぼっちちゃんの努力も、才能も、本物だもん。………でも、でもね。だからこそ……」

 

「──────だからこそ、春樹くんがぼっちちゃんのそばにいないと、駄目だよ」

 

 本音だった。

 

 ほんとうに本音だ。

 ぼっちちゃんは今、春樹くんがいるから前を向けている。前とは、明らかに変われた。

 前より、ずっとずっとあの子は笑える。前より人に触れられる。前より、ちゃんと “ここにいる” 。きっとそれができるようになったのは、少なからず春樹くんのおかげなんだから。

 だから、いなくならないでほしい。

 それは恋とかそういうのを越えた、ただ切実な願い。ぼっちちゃんの笑顔を、絶やさないで欲しいから。

 

「──────……怖いんだ」

 

 だけどそれを聞いた春樹くんは、そこでぽつりと零す。

 

「ひとりの傍に、もしも俺が居なくなったとして」

 

「その結果として、あいつ自身が自分の人生を生きれなくなってしまうことが、どうしようもなく、俺は怖い」

 

「だから俺だけじゃダメなんだ」

 

「虹夏たちが、どうしても必要なんだよ」

 

「…………っ」

 

「………………春樹、くん……」

 

 分かった。そうか。

 この人が怯えてるのは、自分の不幸でも、失うことそのものでもない。

 ぼっちちゃんがまた、世界の外へ落ちてしまうこと。また「独り」の方へ戻ってしまうことだ。

 

 それが一番、なによりも怖いんだ。

 

「……………ずっと、一緒にいるところを見てて、虹夏なら、アイツらなら、きっと、ひとりを支えてくれるって、そう思ったから」

 

 そうしてまた、切なげに笑う横顔に、胸がぎゅっと縮む。

 

 ほんとうに好きなんだな、と思った。

 

「………………………」

 

 こんなふうに、自分がいない未来までぼっちちゃんのことを考えてしまうくらい。ただ一緒にいたいじゃ終われないくらい。

 その優しさが、少しだけ残酷で。

 でも、だからこそ本物で。こんなの、敵うわけない。

 眩しくて、ずるくて、泣きたくなる。

 

 そうして気づいたら、手が動いていた。

 

 そっと、春樹くんの頭をあたしは撫でる。

 慰めるみたいに。かつて、子どもの頃のあたしがお母さんに、お姉ちゃんにしてもらったみたいに。さながら、約束するため────それをカタチにして、触れていくように。

 

「─────大丈夫、わかった」

 

 その言葉を口にした瞬間、胸の奥に残っていた痛みが、少しだけ別の名前を持った。

 

 失恋。

 多分それもある。

 でも、今この瞬間、それだけじゃない。

 これは、引き受ける痛みだ。

 託された人間が持つべき重さ。願いそのもの。

 約束。誓い。どれでもいい。この日この瞬間、それは確かな証となってあたしの道を定めていく。

 

「……あたしが、あたし達、皆で……ぼっちちゃんのことは必ず守る。あたし達、頑張るよ」

 

「絶対に、どんなことになったとしても」

 

 そのまま、再び春樹くんと目を合わせる。

 心の中で、言葉が対になる。

 

 奪わない。

 でも、見捨てない。

 

 引かない。

 でも、壊さない。

 

 手放す。

 でも、消させない。

 

 

 

「あたし達は、あたしだけは、ぼっちちゃんのこと、何があっても、見捨てたりしないから」

 

 

 

 それは多分、あたしが今まで言ってきたどんな言葉よりも本気だった。

 人生で、きっと、指針にもなりうるもの。

 恋に敗けた人間の強がりじゃない。

 リーダーとしての綺麗事でもない。

 ぼっちちゃんの友達として、そして、春樹くんの友人として。

 あの子の “生きる” を絶対に手放さないっていう、ほとんど祈りに近い誓いそのものだ。

 

 

 

「──────約束する」

 

 

 

 春樹くんの表情が、ほんの少しだけほどけた。安心しきったように、微笑む。

 

「…………ありがとう、虹夏」

 

「任せた。お前のことを、信じてる」

 

「!」

 

「─────────うんっ。任された」

 

「にひひ!」

 

 そうして、あたしは堂々と笑ってみせる。

 歯を見せて、いつもの伊地知虹夏みたいに。

 そうしないと、本当に泣きそうだったから。

 春樹くんも、つられるように笑う。

 

「あははっ」

 

 その笑顔が、夕立ちのあと一瞬だけ架かる虹みたいに見える。

 悲しみの訳は、さながら埋まらない隙間のよう。それはとめどない。その癖、その痛みはまるで掴めない。触れられない。

 でも、それは確かにあったと分かる種類の光そのもの。

 

 きっと、これは、この先の人生の新たなる残像になるんだろう。

 

 それでいい。消さない。消させない。

 終わってしまった季節の、最後に残ったまぶしさ。

 手に入らなかったもの。

 そして同時に、消えてほしくないものだから。

 

「………そろそろ、ぼっちちゃんのおうちにお邪魔しよっか。立ち話もなんだし」

 

「あぁ」

 

「なぁ、虹夏」

 

「ん?」

 

「……これから、改めてよろしくな」

 

 そして春樹くんは、少しだけ照れた顔で、でもちゃんとあたしを見て言う。

 

「リーダー」

 

「……!!」

 

 その呼び方に、胸の奥がちくりと痛んで、それから少しだけ熱くなる。

 

 ああ、そっか。

 あたしはもう、「好きな子を見てるだけの女の子」じゃない。

 

 この子たちをまとめる人で。

 守るって言った以上、その言葉に責任を持つと誓った “リーダー” なんだから。

 

「………………─────うんっ」

 

「……さっ……いこ?」

 

「────おぅ!」

 

 二人で玄関の前に改めて並ぶ。

 インターホンへ伸びる春樹くんの指先を見ながら、あたしはひとつだけ思う。

 夏はもう終わった。

 とっくに終わっている。

 蝉の音も、夕立ちの熱も、むせるような陽射しも、もうどこにもない。

 

 なのに。

 

 なのにどうしてか、胸の奥にだけ、まだあの日から喪われた熱が残っている。笑って、痛くて、眩しくて、どうしようもなく消えてくれないまま。

 

 ─────夏の日、残像。

 

 それを消さないで、なんて言う資格は、多分もうないのだろう。それでも、消えないでほしいと思ってしまう。

 秋の風が、冬に向けてそっとまた頬を撫で、最後にあたし達の間を過ぎていく。

 世界は、残酷かもしれない。

 どうしようもなく、それは冷たいのに。なのに、それでも─────どこか世界の美しさを伝えてくる。

 

 そんな、やさしい風だった。

 

 

 

 

 

 










(虹)夏の日、残像。






次回更新は未定です。
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