ぼっち・ざ・ろっく! フラッシュバッカー   作:空山 零句

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彼が求めたのは
あの娘が流したのは

君が嘆いたのは
他ならぬ 今日だ

誰かが隠したような
僕らがなくしたような
何事もない日々を取り戻せそうか


それでは、また明日


-ASIAN KUNG-FU GENERATION 『それでは、また明日』-















CHAPTER #57 「それでは、また明日」(後篇)

 

 

 ばたん、と。

 

 STARRYの扉が閉まる鈍い音が、店の奥でひどく遠く鳴った。

 

 たったそれだけの音だったのに、何かが完全に断ち切られたみたいに聞こえた。さっきまでこの場に渦巻いていた怒号も、罵声も、歪んだ笑い声も、その一枚の扉の向こうへ追い出されたはずなのに、空気の中にはまだ、あの女の吐いた言葉だけが黒い煙みたいに残る。

 

「……………ッ、くっ、そ……」

 

 肺の奥が熱い。なのに指先は妙に冷えていて、固く握り締めた拳だけが馬鹿みたいに震えていた。

 ──────歯を食い縛りすぎたせいか。奥歯と前歯が強く軋み、唸りを漏らす。口の中には、鉄みたいな味も広がっている。舌の先で触れなくても分かる程に。多分、口の何処かも切れたのだろう。

 唇の端から垂れた血が顎の方へつうっと伝っていく感触だけが、妙に生々しい。

 

 だけど、そんなことどうでもよかった。本当にどうでもよかった。

 

 今はそれよりもずっと、この胸中の溶岩の様な赤黒い憎悪だけがどうしようもできなかった。(しばら)くまともに呼吸ができなかった。代わりに肩でだけ息をしていて、その度に呼吸の仕方すら意識から飛ぶ。

 それこそ、身体だけが勝手に「もうやめろ」とでも言いたげに、あちこちで悲鳴をあげる程度には。

 

「………………〜〜っっ、ぐ、っ、うっ………」

 

 閉まる扉の音を合図にしたみたいに、ひとりの膝から力が抜ける。

 

「ひとりちゃん!!」

 

 郁代がいのいちばんに駆け寄って、その身体を抱きとめた。

 リョウも無言のまましゃがみ込んで、ただ静かにひとりの髪を撫でている。

 

「……っ、ごめん、なさい。ごめ………なさ………私、の、せいで……………」

 

 その声を聞いた瞬間、胃の奥を錆びた針で掻き回されたみたいな感覚が走った。

 違う。

 ひとりのせいじゃない。そんなの、違うに決まってる。なのに、あの子はこういう時ほど真っ先に自分を責める。

 

「そんなことない!!」

 

 虹夏が俺の横を飛び出していく。

 次の瞬間には、もうひとりを強く抱きしめていた。

 

「………それだけは、絶対に違う、ぼっちちゃんは悪くない……!!」

 

「ぼっちちゃんは絶対に間違ってない!! ……あたしたちの為に、怒ってくれて……無理させて、ごめんね、ごめん……!!」

 

 虹夏はそう叫びながら、必死に彼女を抱き締め続ける。

 そうだ。ひとりは、何も悪くないんだ。謝る必要なんか、あるはずないんだ。

 ─────ひとりは、いつもそうだ。あの子は、いつだって自分より他人を慮る。こんな時でさえも。

 傷つけられた側のくせに、壊された側のくせに、まるで自分が全部の引き金だったみたいな顔をする。

 そのたびに思う。考えずにはいられない。

 世界って、時々ほんとうに救いようがないくらい不公平で。

 

 ────────どうして。

 どうして、優しい人間ばかりが、そんな目に遭うんだ。

 

 どうして、そういう人間に限ってこの世界は傷つけてくるんだ。

 どうして、そういう人ばかり、報われないんだ。

 どうして、“他人” の痛みを想像もせずに、そんなことが出来るんだ。無関心で居られるんだ。

 

 細い肩が、虹夏の腕の中でびくりと震える。

 堪えていたものが、決壊したようにそのまま、子どもみたいにぼろぼろ泣き崩れていく。

 

「っ、う、うぅ…………っ、う、ぁ、っ、うぁああああ……!! ごっ、ごめんなさい……ッッ!!」

 

 その泣き声が、頭の内側にまで響く。

 つい数分前まで、この場所にはライブ終わりの熱があったはずだった。アンプの残響と、ドラムの振動と、客の笑い声と、そういうものが確かにここにあった。なのに今は、泣き声だけだ。

 泣き声と、言い切れなかった言葉の残骸だけが、妙にだだっ広くなった店内に散らばっている。

 

「…………………………………くっそ、クソがァ………………」

 

 気づけば、そんな声が喉の底から漏れていた。

 自分でも驚くくらい低く、掠れて、もう怒鳴る力すら失った声だった。

 

 床に倒れ伏したまま、拳を握る。

 握り過ぎて、骨が皮膚を内側から突き破りそうな気さえする。

 それでも緩められない。緩めたら、さっきようやく押し込めた衝動まで一緒に外へ出ていってしまいそうだった。

 

 殺したい、と思った。

 

 生まれて初めて、本気で。

 頭に血が上ったとか、カッとなったとか、そういう軽い言葉じゃない。ただ純粋に、許せなかった。許せないという感情が、そのまま刃物の形を取って胸の奥に居座っているみたいに。

 

 どうしてあんなことができる。

 どうして、あんな理不尽な事が出来る。

 

 自分が正しければ何をしても許されるとでも思ってるのか。

 その為なら、平気で目の前の人間の痛みも、人はあそこまで無視できるものなのか。

 

 ひとりの隠していたものを暴いて、結束バンドの皆の想いを踏みにじって、この場所まで侮辱して。

 それでもなお、自分だけは正しいみたいな顔をしていたあの女のことを、どうしても人間として見られなかった。だけど、俺は、とそこで気づく。目を見開いたまま硬直する。

 

(………もし)

 

(もう少し、店長や虹夏たちが止めてくれるのが、遅れてたら?)

 

 ────あのまま、もう一歩だけ手が届いていたら。

 脳裏にそんな最悪の想像がよぎって、自分で自分の背筋が冷たくなる。

 

 もし、本当に殴っていたら。

 もし、本当に取り返しのつかないところまで行っていたら。

 

 ひとりを守るつもりで、自分がひとりの居場所ごと壊していたかもしれない。STARRYも、虹夏も、店長……星歌さんも、全部まとめて。

 そう思った瞬間、自分に対して怒りとは別の鈍い吐き気が込み上げてくる。

 

「………………!!」

 

 俺の身体の上から離れかけ、歯軋りを重ねていた星歌さんが、俺の顔を見た瞬間に顔色を変える。

 

「おっ、おいっ、おまえ、血が出てんじゃねえか春樹!! ガーゼ頼む!」

 

「は、はいっ……」

 

 店長にそう言われたPAさんが慌てて救急箱を取りに走っていく。

 ひとりの泣き声は、まだ止まらない。

 その中で星歌さんが俺の肩を支えて身体を起こす。口元をガーゼで押さえられて、そこでようやく、自分がどれだけ強く歯を食い縛っていたのかを知る。押さえられた綿の触れた部分が血で真っ赤に染まっていく。

 

「─────……………」

 

 痛みは遅れてやってくる。

 怒りの火が少しだけ引いたところに、じわじわと現実の輪郭が戻ってくるみたいに。その滲む血糊の輪郭を見た途端、口の奥が鋭く疼く。

 

「ッッ………ぐ」

 

「お、おい。大丈夫か、春樹」

 

 疼痛が俺を刺す中、店長は屈み込みながら気遣ってきた。今はもう、目を見れない。冷たい黒い床を見つめながら、俺は呟く。

 

「………大丈夫、です」

 

「…………」

 

 一瞬だけ、横目で彼女を見つめ返す。

 星歌さんもまた、苦虫を噛み潰したような苦しげな表情のまま俯く。

 

「……………殴ったり、押さえつけて悪かった。流血沙汰になれば最悪この店が潰れかねない。…………ごめん」

 

 そう言って、星歌さんは一度だけ目を伏せた。

 それから、思いのほか静かな手つきで俺の頭を撫でる。

 

「………だけど、事情と状況の説明、してもらえるよな。マネージャー」

 

「……………………」

 

 髪を撫でられるのを感じつつ、返事をする前に、ひとりの方を見る。

 虹夏と郁代に支えられながら泣いている。リョウもすぐ傍にいる。誰も彼女を責めてなんかいないのに、それでもひとりは自分のせいだと泣き続けていた。

 

 その顔を見た瞬間、胸の奥で何かがまた鈍く軋む。鋭い口腔の疼痛とは違う、鈍い痛み。

 

 俺が怒鳴ったことも、掴みかかったことも、全部ひっくるめて、この子に「また壊れるかもしれない」って思わせたのかもしれない。だとしたら、それは俺のせいだ。

 あの女の言葉だけじゃなく、俺の怒りまで一緒にひとりを追い詰めてしまったのだとしたら、それはもう、守ったなんて言えない。

 

 喉が焼けつくみたいに熱いのに、声だけが妙に平たくなった。

 

「………………………ホントに、すみません。感情的になりました」

 

 自分で言ったその言葉が、妙に薄っぺらく聞こえてしまう。それ自体が、自分でも堪らなく不快になる。

 

 感情的になった。

 たしかにそうだ。事実としてそれは、間違ってはいない。けれど、そんな一言で片づけていいほど軽いものでもなかった。

 あれはもっと醜くて、もっと身勝手で、もっと一歩間違えれば取り返しのつかないところまで転がっていく衝動だった。

 

 言い終えたあと、ひとりの方をもう一度見つめる。

 

 虹夏と郁代に支えられながら椅子に座ったひとりは、何度も鼻をすすり、赤くなった目元を震わせていた。

 リョウも席につき、虚無みたいな顔の奥で、まだ怒りを消しきれないまま黙っている。

 

「…………はるき、くん、大丈夫、です、か」

 

 そんな時まで、先に出てきたのがそれだった。思わず、息が詰まって頭の中が一瞬、真っ白になる。

 

 なんで。

 なんで君が、今この状況で、俺の心配なんかするんだ。

 泣かせたのは俺じゃないか。

 怖がらせたのも、追い詰めたのも、結局は俺の未熟さだっていうのに。

 

 今、いちばん傷ついてるのはどう考えてもひとりの方だ。

 

 なのにこの子は、泣き腫らした顔のまま、真っ先にこっちの無事を気にする。そういうところが、本当に、どうしようもなくこの子らしくて。だからこそ余計に胸の奥が痛む。

 

「……………大丈夫。ごめん、怒鳴ったりして。こわかったよな」

 

 そう返した自分の声は、ひどく平坦だった。

 冷静を装っているというより、まだ感情の置き場所が見つからないまま、空っぽになった器から言葉だけ落ちていくみたいな声音。

 だけど、ひとりはすぐに首を横に振る。

 涙でぐしゃぐしゃになった顔なのに、その目だけはどこか必死で、まっすぐだった。

 

「……いえ、気にしないでください。は、春樹くんが私の、私たちのために、怒ってくれていたのなんて、この場の誰もが分かってくれてるって、思いますから………」

 

「……………」

 

 その言葉に、返事が出来なかった。

 嬉しいとか、救われるとか、そういう感情が無かったわけじゃない。むしろ、あった。あったからこそ余計に、何も言えなくなる。

 だって俺は、結局その「怒り方」を間違えたのだ。守ろうとして、壊しかけた。大切な人のために怒ったつもりで、その大切な人をもっと怖がらせたかもしれない。そんなものを、どう言えばいい。

 唇の内側に滲んだ血の味が、また少し濃くなる。グイ、と手の甲で唇を拭う。

 

「……………。生まれて初めて、本気で殺意が湧いた」

 

 気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。

 自分でも、酷いと思う。だけど事実だった。

 

 店の中が、一瞬だけ静まる。

 たぶん、言ってしまってから自分でも少し遅れて気付く。ああ、俺はいま、心のいちばん汚いところを、そのままここに置いたんだなと。

 

 でも、嘘はつけなかった。

 

 無表情のまま、テーブルの木目を見つめる。

 視線を落としていると、かえって、さっきまでの光景ばかりが頭の中に浮かんだ。ひとりの引きつった顔。あの女の嘲るみたいな声。結束バンドを、STARRYを、全部まとめて踏みにじるようなあの言い方。

 ひとりをあんなふうに震えさせて、人の居場所を好き勝手に踏み躙って、ひとの大事なものを知りもしないくせに「現実」だの「優しさ」だの口にして。

 

「…………許せなかった。結束バンドの皆の思いを好き放題踏みにじって、ひとりの隠したかったことを無神経に暴いて、傷つけて……挙句の果てにこんなバンドにいたら才能が腐るだの、好き放題言われてさ」

 

 言いながら、自分の中にまだ残っている熱が分かる。

 火は消えていない。消えていないどころか、灰の下でまだずっと燻ってる。少しでも風が吹けばまた燃え上がる。

 その焔の色はどうしようもなく赤黒くて、水をぶっかけようが風で煽ろうが消えることのない、そういうものに思えた。

 

「…………」

 

 ひとりは何も言わない。

 代わりに、虹夏が静かに口を開いた。

 

「………うん……あのひと、あたしたちのこと、完全に馬鹿にしてたもんね。特に、ぼっちちゃんのこと………」

 

 その言葉に、胸の奥がわずかに揺れる。

 ああ、やっぱり虹夏も同じだったのかと思う。あの女の悪意を、侮蔑を、ちゃんと同じ熱量で受け取っていたんだと。

 

「どうだろうね」

 

 けれど、そこで返ってきたのはリョウの声だった。

 長く揺蕩う青の前髪で表情がいつも以上に見にくい。

 でも、その声は普段よりもずっと低く、眼差しは酷く乾いていた。

 

「え…………」

 

 ひとりが顔を上げる。

 俺も、ゆっくりと視線を向ける。

 

 リョウは頬杖をついたまま、感情をあまり表に出さないいつもの顔で続けた。

 

「………確かに、ハッキリ言ってあの女は非常識かつ無神経極まりないと思う。でも案外、バカにしてたのかと言われるとそうでもないかもしれない」

 

「─────………ぼっちにとっては悪い話ではないでしょ、実際。プロとしてやっていくのであれば、さっきのあの女の話は」

 

「!!」

 

 ひとりが、はっきりと動揺した顔で目を強く見開く。

 涙の乾ききっていない目のまま、慌てて首を振った。

 

「そ、そんな事ないです……!! わっ私は、皆さんといっしょがいいんです!!」

 

 ばん、と机を叩いて立ち上がる。

 その音が、さっきまでの泣き声とは別の意味で胸に刺さった。ひとりがこうして感情を剥き出しにするのは、やっぱり珍しい。珍しいからこそ、本気なのが分かってしまう。

 

「………ちょっとリョウ!! なんで今そんなことを言い出すのさ!?」

 

 虹夏が眉を寄せてリョウを強く睨む。その声色にははっきりと怒りが滲む。

 隣に座る郁代もまた、不安そうに二人を見つめる。

 

「今のままじゃそう言われても仕方ないんじゃないかって言ってる」

 

「………ッ!!」

 

 リョウは真っ直ぐ虹夏を見返す。

 虹夏が言葉に詰まる。彼女もまた、強く目を剥いて何も言えなくなる。やがて、静かに俯いた。

 リョウの声は冷たいというより、妙に冷静だった。だからこそ余計に、刺さる。その結果、店の空気が、また少しずつ重く沈み直していく。

 

「………………」

 

「………ごめん。別に空気を悪くしたい訳じゃない。ただつまり、あの女の言ってたことは全否定出来ないんじゃないのってこと。ぼっちを否定したい訳じゃない。…………それは、誤解しないで」

 

 僅かに沈黙が場を支配する中、目を逸らして、リョウはそう言った。

 その声音の奥に、ほんの少しだけ悲しさみたいなものが混じっているのが分かる。分かるからこそ、それは誰にも簡単には否定出来ない。

 リョウも傷ついていた。傷ついた上で、それでも自分なりに現実を見ようとしているのだけは、俺にもよく分かったからだ。

 

 ひとりは深く俯いて、それから、ゆっくりと答える。

 

「……正直なところは、皆さんと、一緒がいいって、思ってます。………でも」

 

「………リョウ先輩の言うことも、一理あると、思ってます。私も、あの人の言うことは、全否定出来ない自分がいるんです」

 

「ぼっちちゃん……」

 

 それを聞いた虹夏の声が揺れる。

 

「…………なんで、そう思うんだ?」

 

 気づけば、俺はそう訊いていた。

 自分でも分かるくらい、その声は空っぽで、でも悲しかった。

 ひとりはその問いから逃げない。俯いたまま、目蓋をぎゅっと強く閉じ、彼女は続ける。

 

「………私は、皆にずっと隠してたからです。今回のことは、私がこの事を黙ってたから起きたことです。隠してちゃ、いけないことを。『ギターヒーロー』としての、私自身のことを」

 

「………そんなこと」

 

 違う、そう言いかける。

 でも、その瞬間、虹夏が俺の前にそっと掌を向けた。

 

「………春樹くん。ダメ。今は聞こう」

 

「…………」

 

 虚ろな視線のまま、虹夏を見つめ返す。彼女の瞳は哀愁と痛みに満ちていて、何も言えなくなる。俺は静かに身を引いて、頷いた。

 

「……虹夏先輩、あの……ギターヒーローっていうのは……」

 

 郁代が、確認するように訊く。

 虹夏は一度だけ息を吐く。そうして、意を決したようにスマホを取り出す。

 

「………これ」

 

 画面を操作して、ひとりの最新の弾き語り動画を開いて見せた。

 

「………!! すごい、これ、ひとりちゃんじゃないですか……! ……しかも、登録者数八万人………見てください、リョウ先輩も!」

 

 郁代の目が大きく見開かれる。

 驚きと、純粋な感嘆がそのまま浮かんでいる顔だった。

 

「……上手いことはなんとなく元々分かってたけど、こういうことだったんだ。……納得」

 

 リョウは画面を覗き込みながら静かに言う。

 反応は薄い。でも、その一言がやけに重かった。

 

「…………これが、ぼっちちゃんの本来の姿。『ギターヒーロー』としてのぼっちちゃん、でしょ?」

 

 虹夏が、切なげにひとりを見つめ返す。

 ひとりは小さく頷いた。

 

「……はい」

 

「本当は、もっと早く話すべきでした。でも、言えなかったんです。……………言うのが、怖くて」

 

「………虹夏は、もう知ってたんだ、このこと」

 

「………うん。色々あって、さ」

 

 リョウの言葉を聞いて、虹夏は少しだけ目を伏せる。

 

「でも、ぼっちちゃんはそのことを隠したがってた。だから、ぼっちちゃんが自分で話せるようになる心の準備が出来るまでは……敢えてみんなには黙ってたの。この場で知っていたのは───」

 

 そうして、彼女は瞳を揺らしながら俺の方へも視線を向ける。

 

「春樹くんと、あたしだけ」

 

 それを聞いて、リョウと郁代はそれぞれ俺と虹夏を見つめた。

 郁代は驚きはすれど、動揺する様子は全く見せなかった。リョウもそれは変わらず、むしろ納得した様子で小さく何度か頷いた。そこには、軽蔑も拒絶も、欠片も無い。

 

「そ、そういうこと、だったんですね……」

 

「なるほど。話が飲み込めてきた。……だから、春樹はあれだけ激怒したってこと」

 

 この場において、ひとりがあんなに怯えていたものは、やっぱりこの程度では揺らがないんだと、頭では分かっていた。

 でもその一方で、それをもっと早く、もっとちゃんと、ひとりに伝え切れなかった自分にもまた、腹立たしかった。俺はリョウに問い掛けられた言葉に対して頷き、小さく俯く。

 

「………そうだ。それを、あの女が一方的に暴いて踏み均すようなことをしたのが、許せなかった」

 

 言ってから、自分でもまた苦くなる。

 許せなかった。その事実は本当だ。けれど、それを理由にどこまでやっていいのかなんて、別の話だ。

 

「………いつから気付いてたの? この事実に、二人は」

 

「……あたしは台風ライブの時から。春樹くんは、出会ったばかりの時から、気付いてたの」

 

 それを聞いて郁代は目を丸くする。

 

「出会った、時から、ですか?」

 

「………………それももう、意味なんかないけどな」

 

 郁代に対し、半分ヤケクソ気味に吐き捨てるみたいに言って、机を眺める。そう。もう、意味なんかない。そう思わないと、やってられなかった。気づいていたのに、守り方を間違えたんだから。

 それを聞いた郁代も虹夏も、そんな俺をもの悲しげに見つめ、同じように目を落とす。

 

「………なるほど、そういうこと」とリョウは目を伏せた。

 

「………私も、納得しました。だから、春樹くんは、ひとりちゃんを守る為に……あんなにも怒って……当たり前ですよね。私でも、怒らないで済む自信は……正直あまり無いです」

 

 そう言って俺に共感してくれる郁代の言葉が終わるより先に、リョウは続ける。だとしても、と彼女は呟く。

 

「………だからといって、感情的になりすぎ」

 

「春樹も分かってたと思うけど、あの女に手を出してたら一歩間違えたら傷害沙汰でこっちが不利になってたかもしれない」

 

「………………それは………ッ……でも!! 大事な人が、大切なものを踏みにじられてて、どうして黙ってられるんだよ!?」

 

 思わず声が荒くなる。

 分かってる。分かってるのに、抑えきれない。理屈で整理出来たところで、あの瞬間の怒りまで帳消しにはならない。

 

「だから気持ちは分かるって言ってる。私だってその気持ちがわからないほど無神経じゃない。問題は手段ってことを言ってる」

 

「………ッ!!」

 

 俺は目を見開きながら、言葉を詰まらせる。

 リョウの声にも、押し殺した確かな怒りを感じた。

 

「このライブハウスをどれだけ虹夏や店長が大切に思ってるのかなんて、ぼっちをそれだけ大事に思う春樹なら想像がつかないはずないでしょ」

 

「それを、よりにもよって……仮にもうちのマネージャーである春樹が壊す気?」

 

「ッッ!! お前に何が分かんだよっっ!?」

 

「感情的になっても、何もいいことなんか無いって言ってる!!」

 

「やめてくださいっ二人とも!!」

 

 郁代が泣きそうな声で叫ぶ。

 その瞬間。

 

 

 

「やめて、二人とも」

 

 

 

 虹夏の声が、ぴしゃりと空気を断ち切った。虹夏は、未だかつて無いほど怒りの籠った温度の感じない言葉で制止を言い放つ。

 

「ッ!!」

 

 思わず、俺もリョウも同時にそっちを見る。

 

「………ぼっちちゃんを見て」

 

 その言葉にひとりの方へ視線を戻す。

 

「………っ、っ、ぅ、ごめん、なさい、ごめんなさい、ごめんなさい、二人とも、みなさ…………」

 

 ひとりがまた泣いていた。

 肩を震わせながら、何度も、何度も謝っている。俺は背筋が凍るのを感じながら、慌てて叫ぶ。

 

「っ、ひとり、違う、お前は何も悪くなんか………!!」

 

「…………春樹くん」

 

 その瞬間。

 虚ろな目のまま俯く虹夏。ぞっとするほどの冷たさが、彼女の声色には宿っていた。同時に、悔しさと怒りを押し殺した声音もそこには混ざっている。

 

「お願いだから、これ以上、おねがいだからぼっちちゃんを苦しめないで」

 

「……………っっ!!」

 

 その一言で、俺は喉の奥まで上がっていた言葉が全部止まった。

 目を見開いたまま、しばらく何も言えなかった。

 握り締めていた拳から、どうしようもなく力が抜けていく。それから、ひどく罰の悪い気持ちのまま、目を伏せる。

 ─────この、クソ野郎。

 俺は、何をやってんだ。

 またやった。守るつもりで、またひとりを泣かせた。

 どうしようもなく虚しさに満ちながら、リョウへ目を向け、呟く。

 

「……………ごめん、ひとり。リョウも。悪かった。……頭に、血が昇った」

 

「…………」

 

 リョウは、静かに目を逸らす。無表情ながらも眉は微かに苦々しく歪んでいた。

 

「────別に。分かってる。私だって、正直良い気分なんか一ミリもしてない。むしろ不快極まりない」

 

「春樹の気持ちなんて痛い程分かってる。……ただ、手段を間違えるべきじゃないってこと、言いたかった。私こそ、ごめん。春樹、ぼっち」

 

 その謝罪は、いつもの彼女にしてはずいぶん不器用で、だからこそ本物だった。

 

「…………大丈夫だよ、ぼっちちゃん、泣かないで。自分を責めなくていいから」

 

 場を締めた虹夏が優しい声で言って、ひとりを抱き寄せる。

 ひとりはその肩にしがみついて、またぼろぼろと涙を流した。

 

「………っ、うっ、ごめんなさい、ごめんなさい、虹夏ちゃ…………っぅぅぅぅっ………」

 

「………大丈夫、大丈夫だからね………」

 

 その光景を見ながら、胸の奥がずっと鈍く痛んでいる。

 泣いているひとりを見て、助けたいと思う。だけど、そんな資格なんか今の俺には無かった。

 さっきまでの自分の言動がその涙に重なって見えて、簡単に手を伸ばせない。そんな情けなさまで込みで、ただ黙るしかなかった。

 

「…………なぁ、ぼっちちゃん。さっきの話。どうして怖いって思うんだ?」

 

 その場では敢えて黙っていたのか。一つ、小さな息をついた彼女は顔を上げる。節目にして場を変えるように星歌さんがひとりへ問い掛けた。そうして、PAさんにも目を向ける。

 

「大したことじゃないか、演奏動画一本でここまで登録者を伸ばした人間なんて私の知り合いでもそうはいない。だろ」

 

「……はい。私もこれはほんとに凄いと思います。後藤さんは、このこと、十分に誇っていいことだと思いますよ」

 

 PAさんが切なげに微笑む。

 その二人の声に、ひとりは涙を拭いながら口を開いた。

 

「………わっ私が、怖かったのは………」

 

 震える声。

 でも、逃げない声だった。

 

「…………ギターヒーローの事を公にするなら、確かに……ネットのファンは来てくれるのかもしれません。でも、その人達を今の私なんかじゃ喜ばせられない。それにきっと……仮に来てくれた人がいたとしても、お客さんは結束バンドの音楽を見てくれるわけじゃ、無い気がして」

 

「そうなったら、結束バンドは、上手くいかなくなっちゃうんじゃ、ってことなんです。………私のせいで、皆の音楽を、台無しにしてしまうんじゃ無いかって思って、怖くて……!」

 

「私、みんなのことが大好きで、一緒にいられることがすごく幸せで……でも、もし、これを話してしまったら、皆に迷惑かけちゃうんじゃないかって思った、んです……!!」

 

「そうなったら、皆とバンドする事が、もしかしたら出来なくなるんじゃないかって!!」

 

 ひとりは震える手で涙を拭う。

 その一言一言が、痛いくらい胸に入ってくる。

 あのひとりが、ここまで必死に誰かに思いを伝えようとするのが、どうしようもないほどの努力に感じられて、ただただ心臓が締め付けられる。

 そう。

 この子は、自分が責められることそのものよりも、「皆がバラバラになること」の方を怖がっていた。

 自分が傷つくより先に、自分のせいで誰かの居場所が壊れることを恐れていた。

 そんなふうにしか物事を考えられない子だから、あんなに黙っていたんだ。言いたくなかった。言えなかったんだ。

 

「……っ、ほ、本当は、言わなきゃって、思ってたんです………私が、ちゃんとこんな性格直せたら……いつか、みんなに自信もって、話そうって……! でも、みんなのことを思えば思うほど………怖くて、言えなかったんです……!!」

 

「…………皆と、一緒にいられなくなるんじゃないかって………結束バンドの皆が、バラバラになっちゃうんじゃないかって…………ほんとうに、本当に怖かったんです…………!!」

 

「ごめん、なさ、………ごめん、なさい…ぃ………!!」

 

「……………………ッッッ!!」

 

 虹夏がたまらずひとりをもう一度強く抱きしめる。

 

「ッッ………………っぅ、ぁ……うぅぁあああ……ご、めんなさ、ごめんなさいぃ…………!!」

 

「もう大丈夫………わかってる、わかってるよ、ぼっちちゃん…………大丈夫だから………!!」

 

 ひとりの泣き声が、今度は少しずつ違う響きに変わっていく。

 恐怖だけじゃなく、受け止めてもらえたことへの安堵が混ざった泣き方だった。

 

「………………」

 

 そんなひとりを見ながら、俺は自分の中で、言葉にならないものが溜まるのを感じた。

 守りたかった。

 守りたかったはずなのに、俺はこの子にこんな顔をさせるところまで行ってしまった。それでもなお、今ここで彼女が救われていくのを見て、少しだけ、ほんの少しだけだけど、息が出来る気がした。

 

「……………ぼっちの気持ちは、よく伝わったよ。…………だから、謝らなくていい」

 

 リョウが瞳を伏せたまま言う。

 彼女は目尻を真っ赤に、頬から大量の水滴を零しながら涙声で問う。

 

「……本当、ですか……? 私のこと……嫌いになりませんか……?」

 

「嘘ついて、みんなに、隠してて………ホントのことを、話せていなかったのに……皆、バラバラになったりしないんですか………?」

 

 その問いが、あまりにも切実で、胸が詰まる。

 ひとりにとって、いちばん怖かったのはそこだったのだと改めて思い知らされる。

 

「そんなわけないじゃない!! …………そんなの、絶対有り得ないわ、ひとりちゃん」

 

 郁代が立ち上がり、そっとひとりの方へ歩いていく。

 そして虹夏と一緒にその身体を抱きしめた。

 

「……っ……喜多ちゃ……ん……!!」

 

「言ったでしょ。ひとりちゃん。私は、ずっとひとりちゃんを支えれるような人間になるって。それを知ったって、何も変わらない。………むしろ、ずっと尊敬してるのよ……」

 

 優しく、囁くような声だった。

 その声に触れた途端、ひとりの目からまた涙が溢れる。

 

「…………っ、うぅ………喜多ちゃ………ありがとう、ござい、ます…………!」

 

「…………最初にギターを弾いてた時から思ってたんだよな。なんか妙に上手いなぁとは、さ。だけど、その言葉でむしろストンと納得したよ。そういう事だったんだな」

 

「………っ、……はっ、はい、すみませんでした。店長さん。その、かっ、隠してて……」

 

 星歌さんが、暖かく目を細めながら言う。

 泣きじゃくるのを抑え込むように鼻を何度も啜りながら、それでも必死に応えようと言葉を詰まらせるひとりに対して、彼女は切なげに瞳を伏せる。

 

「………隠し事のない人間なんか居ないでしょ。別に、そんな謝ることなんかじゃないさ。ぼっちちゃんだって、自分でさっきも言ってたじゃん。………怖かったんだろ。それで、バンドがバラバラになるんじゃないかってさ」

 

「……はい、そうです……私のせいで、みんながバラバラになってしまうんじゃないかって……それが本当に怖くて……」

 

「─────……………」

 

「……………私も、不安な気持ちは分かるから仲間入れて」

 

 その時。ひとりのその言葉を経て僅かな間の中で、リョウが、ぽつりと言う。よく見ると、身体が僅かに震えていた。

 そうか、と俺も気付く。リョウも、強がってたのか。

 

「もぉぉー!! 素直じゃないなぁリョウはホントこういう時までさぁ!!」

 

 虹夏が泣き笑いみたいな声で言って、そのままリョウまで抱き寄せる。

 四人が抱きしめ合う、その中心でひとりは目を強く閉じ、肩を震わせていた。

 

「…………………青春ですね、店長」

 

 俺の近くに座るPAさんが穏やかに呟く。

 

「……ああ、ほんとにね」

 

 星歌さんはそう言って、僅かに表情を歪めたあと静かに両腕の中に顔を埋めた。PAさんが何も言わず、そっとハンカチを手元に差し出す。

 少しして、ひとりはようやく落ち着いたみたいに皆からそっと離れた。

 その顔にはまだ涙の跡が残っていたけれど、さっきまでの絶望だけの表情ではもうなくなっていた。

 

「……みなさん、ありがとうございます……ほんとうに……」

 

 その感謝の言葉を聞きながら、隣に座っていた俺は、恐る恐る彼女へようやく手を伸ばす。皆が元の席に戻ったあと、そっとひとりの髪を撫でた。ぴく、と微かに震えながらも、彼女は泣きすぎて真っ赤な目じりごとこちらへ向く。

 

「……っ、春樹くん……」

 

「……………な。言ったろ? 皆、そんな変なことなんて言わないって。バラバラになんかなる訳ないよ」

 

 ひとりは、俺の手に少し頭を預けるように傾き、静かに頷く。

 

「………はい。信じてよかったです……本当に、ありがとうございます……」

 

「………俺も、ごめんな。本当に、本当に、ごめん」

 

「だ、大丈夫です、謝らないでください……」

 

「………!」

 

 その瞬間だった。

 撫でていた手が、不意に止まる。

 

 

 

『っていうか “ガチ” じゃないですよね』

 

『こんなところでウダウダやってると、あなたの才能、腐っちゃいますよ』

 

 

 

 脳裏をよぎるのは、あの女の残響。

 嫌でも残る。

 それは、胸のどこかに、錆びた釘みたいに刺さったまま抜けない。

 

「……? 春樹くん……?」

 

「………………ひとりは、あのライターが言ってたこと、どう思ってる? 皆なら、ギターヒーローのことは絶対に否定しない。ちゃんと受けとめてくれた。なら今度は、ひとりはどう思う? あの女の言葉を」

 

「………それ、は………」

 

 ひとりが戸惑う。

 でも、やっぱり逃げない。少しだけ間を置いて、強い決意を宿した顔で答える。

 

「……あっあの人の言葉は、確かに正しいかもしれません。正論、なのかもしれないです」

 

「でっでも、それでも……私は間違ってるって、思います。………わっ、私はもう自分だけがプロになりたくて、チヤホヤされたくて、ここにいる訳じゃないんです」

 

「…………大切なものを見つけました。────それは、ここにいる皆、で。それは馴れ合いなんかじゃない。私にとって今この瞬間は、皆の存在は、………大切な、私の全てなんです」

 

「────ひとり………」

 

 その言葉を真正面から受けて、目を伏せる。

 それは、出会った頃、俺が告白した時の彼女とはまるで別人の様な表情だった。

 ああ、この子はちゃんと自分の言葉でここまで来たんだなと思う。

 誰かに言わされた答えじゃない。自分の意思で、掴み、カタチにしたもの。

 いっぱい泣いて、悩んで、言葉にしようと考えて。

 恐怖や自己否定を抱えたまま、それでもなお後藤ひとりが選び取った答えだ。

 

「………」

 

 俺は髪から手を離して、立ち上がる。

 それを見た以上、俺自身も、このままでいていいはずがなかった。だからこそ、深呼吸をして、静かに席を立つ。

 そして、結束バンドの皆と星歌さん、PAさん、一人ひとりへ真っ直ぐに頭を下げた。

 

「…………皆も、本当にご迷惑おかけしてすみませんでした。俺のせいで、店長やPAさんにも、こんな形で……一歩間違えたら、リョウの言う通り俺はSTARRYを台無しにしてたかもしれない」

 

「………本当に、すみませんでした」

 

 それを聞いて、星歌さんは腕組みをし、俺を鋭い眼差しで睨む。

 その眼光は、確かな非難と批判を物語る。

 

「……悪いが、そこは本当に気をつけて欲しい。リョウの言う通りだ。あわやうちは営業停止にすらなりかねなかった。今後は絶対にああいうのは控えて欲しいところだな」

 

「……お姉ちゃん」

 

 それを見た虹夏が、隣で言い過ぎだよ、と言わんばかりに小さく呟く。だけど、星歌さんは全く怯まない。堂々と呟く。

 

「お前だってわかってるだろ、虹夏。私がどんな思いでここをやってるのかくらいは」

 

「…………」

 

 虹夏がそれを聞いて、小さく俯く。

 その沈黙の重さで、言われていることの正しさが余計に刺さる。だけど、星歌さんはその後小さくまた息をついて、僅かに厳しい顔を緩める。

 

「………まあでも、正直に言うが感心もしてる。店どうこうを置いとくにしても、実の所、個人的には共感もしてる。むしろよく言ったと思ってるよ、春樹」

 

「え………」

 

 あまりの罰の悪さと自分への嫌悪で俯くことしか出来なかった俺は、思わず目を見開いて顔を上げる。

 

「お前はぼっちちゃんを守りたくて怒れたんだ。この場にいる誰よりも真剣にぼっちちゃんを庇った。それは、素直にお前がどれだけ真剣にこの子を想ってるかの現れだろ」

 

 それを言われて、俺は言葉を荒らげた。

 でも、でも俺は、間違えた。方法を間違えて、手段を間違えて、そのせいで、俺は、俺のせいで────皆を。

 

「…………でも、手段を間違えてたら、そのせいで人様に迷惑をかけてたら、そんなの、何の意味も……!!」

 

 だけど、星歌さんはぴしゃりとそれを遮って呟く。

 

「お前も、お前らも全員まだ子どもだ。子どものくせにそんなことにまで配慮も簡単に出来るなんて奴、まず居ない。居なくて当然なんだ」

 

「……子どものうちに、そんなことが出来るなんてやつが居たら、……苦労なんてしない」

 

 その言葉の最後だけ、星歌さんの表情がほんの少しだけ曇る。

 何か遠い過去を一瞬見たみたいに。けれど彼女はすぐに顔を上げた。

 

「誰かの為に本気で生の感情を剥き出しにし、誰かの為に動ける。それはお前の良さなんだ、春樹」

 

「間違っても、意味が無いなんて────お前がそんなこと言うな」

 

 

 

 

「ぼっちちゃんの為に怒ったその想いを、願いを、守ろうとしたその気持ちを、よりにもよってお前が無碍(むげ)になんてするな」

 

「他でもない、お前自身がそんな事をしたらダメだ」

 

 

 

 

「………ッッ!!」

 

 言葉が、まともに刺さりすぎた。

 こんなふうに、自分の怒りを、想いを、頭ごなしに否定しないで受け止められたことなんて、たぶん今まで一度もなかった。

 

 ずっと、自分の中では「やらかしたこと」しか見えていなかった。

 そう思うことでしか、この場の全部に責任を取れない気がしていたからだ。

 

「っ……………ぐ……………っ」

 

 でも、その根っこにあったものまで、自分で切り捨てようとしていたんだと、そこでようやく思い知らされる。星歌さんが、気付かせてくれた。

 それに気づいて、その刹那、堪らなく目の奥が熱くなる。

 まずい、と思った時にはもう遅い。視界が滲む。頬から、彼らがその身を冷たさとともに主張してくる。ぽろぽろと溢れて、零れ落ちていく。

 

「春樹」

 

「ッッ!!」

 

「わかってますよっ………!! 男が人前で泣くもんじゃないって言うんでしょ………!!」

 

 悔しくて、みっともなくて、でも止まらない。

 泣くこと自体が情けないんじゃない。こんな時にまで、そんな言葉を先回りして構えてしまう自分が、情けなかった。

 

「………春樹くん………」

 

 虹夏の切なげな声が聞こえる。

 

「………………いいや」

 

 その時。

 星歌さんは、静かに首を振って、囁く。

 

 

 

 

「人を想って流す涙は別。なにがあっても泣かないなんて奴、私は信用なんかしないさ」

 

 

 

 

「……………………………ッ…………!!」

 

 

 

 

 その言葉で、もう駄目だった。

 静かに椅子へ座り込み、顔を両腕の中へ埋める。

 

「……………ぐ、っう……………ッ、うううっ゛………ぁっ………」

 

 もう、無理だった。

 

 情けなくても、惨めでも、止まらなかった。

 

 悔しかった。

 守れなかったことも。

 怒りに呑まれた自分も。

 ひとりをあんなふうに泣かせたことも。

 

 全部が悔しくて、どうしようもなくて。

 

「すみ………ません………ッッ」

 

「っ、ぁ゛………うっ、……すみません、でした………ッッ」

 

 堪えようとしても、涙が止まらない。

 悔しい。情けない。守りたかった。壊したくなかった。許せなかった。全部がごちゃ混ぜのまま喉元に詰まって、嗚咽になって零れていく。

 

「…………!!」

 

 その時、そっと震える手に触れるものがあった。

 

「……」

 

 顔を微かにあげる。多分、相当みっともない顔になってた。でも、それでも見つめ返す。

 ────ひとりだった。

 彼女は、今にもまた泣きそうな、優しい顔で、包むような優しさと愛おしさを示すように、俺の手をそっと握っていた。

 その温度だけで、また泣きそうになる。

 この場にいる誰も、その涙を笑わなかった。否定しなかった。

 

 

 それが、どうしようもなく、救いだった。

 

 

 

 

 

 

 

 数分後。

 どうにか落ち着いて、トイレで顔を洗ってから戻ると、店内の空気はさっきより少しだけ静かになっていた。皆は、相変わらず何も言わずに静かに待っていてくれた。

 

「………落ち着いたか?」

 

「すみません。大丈夫です」

 

 星歌さんにそう返して、ひとりの隣へ座る。

 ひとりは心配そうに見上げてきたけれど、俺が微笑み返すと、少しだけ安心したように目を細めた。

 

「………話を戻そう。ぼっちの気持ちは私たちもよく分かった。でも、マネージャー。こうなった以上、どうするかは決めるべきだと思う」

 

 リョウがそう言って、俺を真っ直ぐ見る。

 

「春樹は、実際どう思ってるの」

 

「……ひとりとそんなに大きくは変わらない。俺もだ。あいつの言葉は、納得できない。死ぬほどムカついた」

 

「─────あの女の言葉が、許せない。……全部は確かに間違ってはいないかもしれない。それだけに、余計に腹が立つ。納得は、死んでも出来ない。ひとりのそれがまちがってるとか、そんなの俺が言わせない」

 

「……はい。私も、あの人の言葉は受け入れられません。私達は、確かに………まだまだなんだと思います」

 

 ひとりも、俺の言葉に同意するようにはっきりと頷く。

 

「でも、それでも………このまま結束バンドの皆があんな風に言われるだけで終わるなんて、ぜ、絶対嫌です……!」

 

「……………」

 

 皆が黙ってひとりを見つめる。

 その言葉の強さを、それぞれ全員が、ちゃんと受け取っていた。

 

「……なら」

 

 リョウが口を開く。

 

「具体的にどうするかは、とりあえず明日以降、決めよう。とにかく、全員冷静になるべきだと思う」

 

「少なくともハッキリしたのは、このままじゃ終われないってこと。納得なんかできないのは多分、この場にいる全員誰もが同じ事だろうし」

 

「………まあ、そうだな」

 

 そう返すと、虹夏も郁代も、ひとりも静かに頷いた。

 

「…………………とりあえず、今日はもう全員上がっていいから。あんな奴の言葉は真に受けるなよ。片付けはやっとくし」

 

「山田の言う通り……帰って頭冷やして、また冷静になってから今後の方針を全員で決めな」

 

 そこで星歌さんが、PAさんと一緒に立ち上がる。

 

「─────ありがと。お姉ちゃん」

 

 虹夏がその脇に立って、小さく笑う。

 

「………っあ、あんなキモい奴おいてたら店が腐るから追い出しただけで別にお前らの為とかじゃない……」

 

 星歌さんが腕を組んだまま目を逸らす。

 PAさんがにやにやしている。

 

「今時こんなコテコテの台詞使うんですねぇ……重要文化財ですね」

 

「うっ、うっさいぞお前! それ以上喋ったらクビな!」

 

「ふふっ」

 

 PAさんはくすくす微笑み、星歌さんは頬を赤くしてそっぽを向いた。ずっと笑えなかった俺は、それを見てやっと頬が緩むのを感じる。

 

「もう、リョウといい、うちの姉といい、どいつもこいつも素直じゃないんだからなあ……」

 

 それを見た虹夏も苦笑して、ひとりと俺に向かって微笑みかけた。

 

「ほら、行こ。お姉ちゃんなりの優しさだからさ♪」

 

「……あっは、はい……」

 

 ひとりが狼狽えながらもギターケースとトートバッグを背負う。

 

「………行こうか。ひとり」

 

「あっ………はい」

 

 少し切なげに笑って、ひとりの手を握る。

 ひとりもその手を握り返し、もう一度目元を拭って、切なげな笑顔で小さく頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

「じゃーねぼっちちゃん。春樹くん、気をつけてね!」

 

 花壇に座り込んだまま、虹夏が手を振る。

 その明るさは、明るく振る舞おうとしているのはすぐに分かってしまって、見てて少し切なかった。

 

「あっはい……ありがとうございました。虹夏ちゃん」

 

 ひとりが丁寧に会釈する。

 

「………それじゃあ、また明日。虹夏」

 

 俺も手を振る。

 浮かない顔のまま、それでも口元だけは微笑むようにして。

 

「………うん。あっ……………あのさ、春樹、くん」

 

「……え」

 

 虹夏が少しだけもの悲しげな顔になる。

 

「……約束して? 何度も言うようで申し訳ないんだけど……気持ちは痛いほどわかるけどさ───今後はああいうのはもう、控えてね」

 

「これだけは本当にお願い。お姉ちゃんのお店、絶対に台無しに……したくないからさ」

 

 俺は言葉に詰まるのを感じながら、静かに頭を下げる。

 

「…………悪かった。それはもう、ほんとうに……ごめん。悪かった。気をつけるから」

 

「んーん。頭、上げて。春樹くん」

 

「…………」

 

 そっと顔を上げる。虹夏はゆっくり首を振って、やっぱりどこか物哀しげに微笑む。

 

「……それだけは控えてくれればいいんだよ。あたしだって、ものすっごく腹は立ったんだし。むしろ……皆のために、ぼっちちゃんの為に怒ってくれて………あたしからも言わせて。ほんとに、ありがとうね」

 

「……いや。そんな、礼を言われることなんかないよ」

 

 俯きながらそう返す。

 でも、その言葉に少しだけ救われている自分もいた。

 

「ふふっ。………ぼっちちゃんも」

 

 虹夏が今度はひとりを見る。

 

「……春樹くんのこと、お願いね」

 

「………!」

 

 ひとりが小さく目を見開いて、それから、俺の手を握る力をほんの少しだけ強めた。

 

「………はい」

 

 ひとりのその返答に満足したのか。虹夏はまた小さく笑う。

 

「ばいばい。二人とも」

 

「………はい」

 

 ひとりが小さく手を振り返す。

 

「……行きましょうか」

 

 やがて囁くみたいにそう言って、彼女は俺を見上げる。その声は、まだ泣いたあとのかすれを残していた。でも、その中にちゃんと前を向こうとする意志も確かに感じる。

 

「……………あぁ」

 

 そう返しながら、俺は夜の道へ足を向けていく。

 それでも、胸の奥にはまだ、あの女の残した言葉が鈍い棘みたいに刺さったままだった。

 それを抱えたまま。

 

 それでも明日へ行くしかないのだと、冷えた夜気が静かに告げていた。

 

 

 

 

 

 

 ──────その背中を、あたしはしばらく見送っていた。

 

「…………!」

 

 春樹くんとぼっちちゃんの背中が、少しずつ夜の道へ溶けていく。

 繋がれたままの手だけが、街灯の下でかろうじて見えた。

 その背中を見送って、一息ついたところで、STARRYの扉がまた開く音がした。

 振り向くと、階段を上ってきた郁代ちゃんとリョウの姿が見える。

 

「………あっ、あのさ……さっきの事、皆大丈夫?」

 

 あたしは慌てて問い掛ける。 聞いておきたかった。

 聞いたところで、たぶん「大丈夫」なんて簡単に言えるわけないのも分かってたけど、それでも聞かずにいられなかった。

 郁代ちゃんは少し俯いたまま、やがて笑顔で顔を上げる。

 

「……まっ、まぁ、その話はいいじゃないですか! ……次のライブの日程、また明日決めましょーね!」

 

「…………うん」

 

 その笑顔が、あまりにも無理してるのが分かってしまって、胸がきゅっと痛む。リョウもポケットに手を突っ込んだまま、言葉少なに頷くだけだ。

 

「……郁代ちゃん……」

 

 思わず、小さく名前が漏れる。

 でも郁代ちゃんは、そんなあたしの目を見て、逆に「大丈夫です」って言うみたいにもう一度切なげに微笑む。

 

「………うん。そうだね」

 

 そんな顔をされちゃ、もう何も言いようがなかった。

 だから、あたしも少しだけ口元を引き上げる。

 本当は、全然うまく笑えてない気がした。それでも、そうするしかなかった。だから、両手を小さく持ち上げて振る。

 

 

 

「……じゃあ。それでは、また明日……ってことで」

 

 

 

 ちょっとだけ、おどけるみたいに。

 冗談めかしてでも言わないと、たぶんこの言葉は口にできなかったから。

 

 ほんとは全然、いつも通りなんかじゃない。

 誰も、たぶん今日のことをこのまま忘れられない。この先、どんなことがあったとしても、きっとあたし達には常に彼女の言葉が付き(まと)い続けるのだろう。

 確かな日常は、確実に今日、その身を変えてしまった。きっともう、それは元には戻らない。戻せない。

 だけど。だからこそだった。

 だからこそそれでも、今ここで「また明日」って言わなかったら、本当にこの夜のどこかで全部が止まってしまいそうな気がした。

 

 リョウと喜多ちゃんは、そんなあたしを見て、ほんの少しだけ笑った。

 それから、それぞれ別の方向へ歩き出していく。

 

 あたしは花壇に座り込んだまま、その背中を見送った。

 

 リョウ。

 郁代ちゃん。

 ぼっちちゃん。

 春樹くん。

 

 さっきまで同じ場所にいたはずなのに、今はもう、みんながばらばらの背中になって夜へ散っていく。

 それがどうしようもなく寂しくて、でも、今はまだ追いかけない方がいいことも分かっていて、あたしはただ黙って見ていた。

 

 やがて、最後の背中まで街の灯りに紛れて見えなくなる。

 

「…………」

 

 静かに俯く。

 それから、ゆっくり顔を上げた。

 

 見上げた空には、夜の星座が滲むみたいに浮かぶ。

 何かの決意を胸の奥で固めるみたいに、あたしはその光を真っ直ぐ見つめた。

 

 やがてあたしはそれから、ゆっくり顔を上げた。

 見上げた先、夜空には星があった。

 変わらないみたいな顔をして、遠すぎる場所で光っている。

 

 その光を、まっすぐ見つめる。打ち鳴らすような鼓動と、手汗が滲む掌を、強くつよく握り締めたまま。ただひとつ、この夜空にあたしは叫んでやるのだ。

 どんなに世界が残酷だろうと。

 どんなにこの世界の真実が無慈悲だろうと。

 どんなに、あの人の言う通りな現実が、あたし達の目の前に立ち塞がっていようと。

 

 そんなこと、知ったこっちゃない。来るなら来い。

 あたし達は、あたしは、負けない。

 

 このまま、あたし達はこんな所で終われない。

 あたし達は、こんな形でなんか終わってなんてやらない。

 

 胸の奥ではまだ、さっきの残響は消えない。

 悔しさも、痛みも、不安も、全部そのままだ。

 

 

 でも、それでも、だ。

 

 

 あたしは、この世界に喧嘩を売るように。

 

 強く、強く拳と瞳に力を込め、ただひたすらにそうして夜の星座と、光り耀く一番星を眺め続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 









 虹夏が『それではまた明日』っていう辺りで、もし良かったらASIAN KUNG-FU GENERATIONの『それでは、また明日』、アニメ風に聞いてみてください。


 更新は今週の金、土日のいずれかを予定しています。
 次回、#06『それでは、未だ見ぬ明日に -From Guitar Hero-』最終回です。


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