濡れたままの髪で僕は眠りたい
脱ぎ捨てられた服昨日のままだった
何も言わない
言わない部屋の壁にそれは寄りかかって
だらしない僕を見ているようだ
痛みや傷や嘘に慣れた僕の独り言
疲れた夜と並び吹く風 君の頬へ
- サカナクション『ミュージック』-
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今回の回は三部作です。
今回はリョウ視点の内面回、前中後篇予定です。
いつもと文章をだいぶ変えてるかもしれません。
これまた別の文章の感じとしてお楽しみいただけたら幸いです。
※
「……うん」
そう春樹へ返した自分の声は、たぶん、いつも通りだったと思う。
いつも通り、少しだけ気だるくて。
いつも通り、何も考えていないようで。
いつも通り、どこか他人事みたいに聞こえる声。
少なくとも、そう聞こえるように出した返事のつもりだった。
言葉にしたあと、ほんの少しだけ遅れて、自分の声が耳の奥に戻ってくる。
低い。自分の声なのに、少しだけ遠かった。
「……?」
ぼっちが、こちらを見ていた。
大きな目をさらに少しだけ開いて、どこか不安そうに。
その視線は、何かを見つけてしまった小動物のようだった。
「…………リョウ、聞いてるか?」
春樹の声が飛んでくる。
顔を上げると、春樹がこちらを見ていた。心配、というよりは、何かの違和感を拾った顔。────それを見た時。
あぁ。
やっぱり、面倒だ、と。そんなことを私は思う。
「……ん? あぁ、ごめん」
私は少しだけ遅れて答える。両手を頬に添えていたのを離す。
正直、返事をするのも面倒くさい。だけど返さないとより面倒なのは察しがついた。
「…………………………まあ、がんばるわ」
そんなふうに、いつもの調子で言ったつもりだった。でも、隣に座る郁代がほんの少しだけ眉を下げる。
「? せ、先輩、大丈夫ですか?」
郁代と一緒に、その隣に座るぼっちも、やっぱり何も言わないままこちらを見ている。
その目がまた面倒だった。それは、人の不安に怯えているくせに、人の不安には妙に敏感な目。
「大丈夫。なんでもない」
「そ、そうですか?」
郁代は不安が拭えないように私の顔を覗き込む。
「……うん」
私は頷き返す。
それでも、春樹はまだ黙っていた。
ぼっちも、郁代も、虹夏も、ほんの少しだけ空気の端を掴み損ねたような顔をしている。
そういう顔をされるのは、あまり好きじゃない。
だから、私は少しだけ目を細めて、ぼっちの方を向いた。
「……ぼっち」
「は、はい……?」
「作詞作曲者には印税が入るんだぜ」
「えっ」
私は無表情のまま、口元だけでにちゃぁ、とわざと笑う。
「タワマンに住めるくらいの凄いの作ろうぜぇ」
「あっはい……」
ぼっちは、明らかに反応に困った顔をして目を逸らす。こういう時のぼっちは面白い。何なら、少しだけ肩の力が抜けたようにも見えた。
「あははっ!! リョウらしい!!」
虹夏が思わず笑う。同時に頬を引き攣らせながら。
「うんうん、期待してるよ♪ まぁなんか例えが生々しいけど……」
「生々しい方が夢がある」
「ないよ!?」
私の言葉に、そうしていつものように虹夏は突っ込む。
それは、いつもの声。
それは、いつものやり取り。
それは、いつもの私。
そう見えたのなら、たぶん “成功” だった。
けれど、春樹だけは笑いながらも、ほんの少しだけこちらを見ていた。
あの男は、人の些細な沈黙を拾う。拾わなくていいものまで拾う。
マネージャーというより、およそもう半分くらい人間用のチューナーだ。弦がほんの少し緩んだだけで、すぐに気づく。
「…………」
私は何も言わず、ベースケースの方へ視線を逸らす。
大丈夫。
何も問題はない。
曲を作るだけ。
それだけのことだ。
虹夏が「最高の一曲」と言った。
ぼっちが「頑張ります」と言った。
春樹が「まだ戦える余地はある」と言った。
だから、私は曲を作る。
いつも通りに。─────そう、いつも通りでいい。
何も悩むことはない。何せ時間はまだある。一応デモ審査の締切は春までだ。こればっかりは、フィーリングが降ってこないことにはどうしようもない。
「じゃあ、とりあえず今日も合わせよっか!」
虹夏の声で、STARRYの空気がいつもの形に戻っていく。
さっきまで、未確認ライオットだとか、グランプリだとか、Zepp DiverCity Tokyoだとか。そういう普段の私たちには少し大きすぎる言葉が店内に転がっていた。でも、楽器を持てば話は別だ。
私達はいつもの通りに、STARRYの奥にあるスタジオに入る。
ドラムの前に虹夏が座る。
郁代がギターを構える。
ぼっちが、少し緊張した顔でレスポールを抱える。
春樹は少し離れた位置でタブレットを抱え、こちらを見ている。
私もベースを肩にかけた。ストラップが肩に乗る。指先が弦に触れていく。慣れた硬い弦。弾力が指先の感触に馴染む。それは、いつもと同じ感覚だ。
なのに。
「ワン、ツー、スリー、フォー!」
虹夏のカウントと同時に、音が走り出す。
ぼっちのギターが鳴る。
郁代のストロークが重なる。
虹夏のドラムが骨格を作る。
私が、その下を支える。さながら “影” のように。いつもの通りに。
低音は、いつもなら床に根を張る。
ドラムの下を通り、ギターの隙間を縫って、光る歌の背中を押す。
別に、誰かに褒められる音じゃなくてもいい。目立たなくてもいい。それでも、その音がなければ、曲は立っていられない。
それだけで十分。そういうものだ。─────そういうもののはずだった。
「…………」
なのに今日は、その低音が、自分の足元を支えてくれなかった。
音は出ている。ミスもしていない。
指も動く。リズムも外していない。
でも、音が少し硬い。
弦の張りが強いわけじゃない。
アンプの設定が違うわけでもない。
ただ、私の中で鳴っている何かが、いつもより少しだけ乾いていた。
嫌な音ではない。
でも、好きな音でもない。
それが一番、嫌だった。不快。鬱陶しい。
「…………」
視線の端で、ぼっちが一瞬こちらを見た気がした。その向こうで、春樹もほんの少しだけ眉を動かしたのが見えた。
─────気づかなくていいのに。
私は知らないふりをして、ベースラインをなぞり続ける。
いつだったか。
ぼっちが春樹に告白されたって、言ってたことがあった。あの時、私はぼっちのギターの音の浮き方からいつもとの違いを見抜いた。なのに、今度は私がそうなってどうする。
これじゃ、人のことはまるで言えない。
大丈夫。大丈夫だ。
まだ、音は出ている。
音が出ているうちは、きっと大丈夫。
そうして私は、無理やり弦を半ばいつも以上に強く弾いた。
※
練習が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
十一月十二日。土曜日の夜。
下北沢は、昼間より少しだけ音と景色の輪郭が薄い光で滲む。
店の明かり、人の声、遠くで鳴る自転車のベル。
全部がそれぞれ勝手な方向へ流れていくのに、なぜかひとつの街の音としてまとまって聞こえる。
それが少し羨ましいと思った。下北のこういう所は嫌いじゃない。
バラバラなのに、まとまっている。
結束バンドみたいだった。
いや、結束バンドはもっとバラバラかもしれない。特に私が。
「リョウ」
後ろから声をかけられる。
振り返ると、春樹がいた。横にはぼっちもいる。ぼっちは私と春樹の間で、どこか落ち着かなさそうに目線を泳がせていた。
「何?」
「いや」
春樹は一度言葉を切った。
それから、少しだけ迷ったように私を見る。
「今日、ちょっと音硬くなかったか?」
「…………」
やっぱり。──────面倒な男だ。
「気のせい」
「そうか?」
「そう」
私は、目を逸らしながらベースケースを背負い直す。
「今日はちょっと疲れただけ。未確認ライオットの説明、情報量多かったし」
「あっ、そ、そうですよね……! わ、私もタブレットの映像を見た瞬間、内臓が一度粉末になりましたし……!」
ぼっちが謎のフォローを入れる。
内臓は粉末にならない。でも、ぼっちならなりそう。
「ほら、ぼっちもこう言ってる」
「いや、フォローになってるのかこれ?」
「………ほんとに、大丈夫か?」
私の言葉に春樹は苦笑する。
それでも、春樹はまだ私を見ていた。
正確には、私の顔ではなく、その奥にある何かを見ようとしている。
(─────…………)
やめて欲しい。
音楽は別に見てもいい。
でも。私の中までは、あまり見ないでほしい。
「………………平気だよ」
私はそう言った。
「なんでもない」
私のその言葉に、春樹は黙ったまま少しだけ目を細めた。ぼっちも何か言いたそうにしていたけど、結局言わない。
「……そっか」
春樹が頷く。
「じゃあ、また月曜な。多分、次の練習までに一回、ちゃんと話したいことがある」
「……何それ。こわ」
「こわじゃねえよ。大したことじゃない。今後の課題整理みたいなもん」
「余計こわ」
「こいつ」
そうして春樹は頬を引き攣らせ、苦笑いをする。
春樹は弄りがいがある。そこは嫌いじゃない。
「じゃあね」
そう一言だけ返す。そのまま私は歩き出す。背中に二人の視線を少しだけ感じる。でも、敢えて振り返らなかった。面倒なやりとりになると思ったから。
街の音が、私の足元を流れていく。白のマフラーで口元を隠す。吐息が白く、黒い
「………………」
寒い。視界の端を、朧気な夜の商店街の黄色い光が流れる。
どこかのライブハウスから響く、陽気な洋楽が耳につく。
興味も無く流れていくその音は、空を遊ぶ鳥みたいに、どこにも留まらない。触ろうとすると、すぐに形を失う。
それはさながら、水面に浮かんだ言葉のように、夜の底へ運ばれていく。その流れの中で、私はふと思う。
音楽も、そういうものだったらいいのに、と。
掴めなくて。責任もなくて。
ただ流れていくだけのものだったら、どんなにか。
でも、そんなわけがない。
音楽は時々、人を救う。
だからこそ、時々、人を壊す。
それを私は、知っている。
※
その次の日の夜。十一月十三日の日曜日。
部屋は、珍しく散らかっていた。
いや。
珍しく、という言い方は少し違うかもしれない。
服も、空になったペットボトルも、読みかけの音楽雑誌も、普段からそこそこ床にある。強いてあげるなら、平日は仕事終わりの母が勝手に掃除してくれている時はあって、そのせいで綺麗に見える時はある。
それでも、いつもの私の部屋は、散らかっているようでいて、案外どこに何があるかは分かっていた。
ベースは机横。
ノートは机の棚。
ケーブルは収納スペースの中。
替え弦はこっちの棚の中。
借りたまま返していない虹夏の小銭と漫画は、たぶん机の奥。
私の部屋は、私のだらしなさに合わせて、ちゃんと秩序があった。
でも今日は、違う。
床に落ちて散らばった無数のルーズリーフ。
机の上で書いては消しを繰り返した開きっぱなしのノート。
机上で転がる無数の消しゴムのカス。
録音用の小さな機材。
途中まで書いたコード進行。
面倒くさくて脱ぎ捨てた服。
照明に反射する飲みかけの水。
ベースケースの横に立てかけたままの予備のベース。
それら全部が、ただ散らかっているだけに見えなかった。
それは、弾いたけど捨てた音。
それは、書いたけど消した進行。
全て、思いついたふりをして、思いつけなかった時間そのもの。
そういうもの全部が、部屋の隅で黙ってこちらを見ている気がした。
「…………」
ふと、天井を仰ぐ。
「最高の一曲、か」
そんな言葉を、独りごちる。
声に出すと、思っていたよりもそれは、思っていたよりもずっと薄っぺらい。そんなことを思う。
最高。
便利な言葉だ。
虹夏は悪気なく言った。
ぼっちは本気で頷いた。
郁代はきっと目を輝かせている。
春樹はもう、戦うために必要なものを整理し始めている。
だから私は、曲を作る。
音楽を作る。
いつもなら、それで終わりだった。それだけのこと。でも今日は、今日だけはそれで終わらない。終わってくれなかった。
良い曲を作れなければ、デモ審査に落ちるかもしれない。つまらない曲を書いたら、昨日のあのライターの言葉が正しかったみたいになるかもしれない。
ギターヒーローだけが本物で、結束バンドはおまけ。そう見られるかもしれない。
それは嫌だ。
絶対に嫌だ。
嫌悪。不快。
ひとつ、息をつく。
それを誤魔化す。
モニターに繋いだヘッドホンの音量を上げる。Yellow Magic Orchestraの『テクノポリス』をBGMに、音を探す。
テクノ歌謡は好きだ。
ぼっちにも教えたことあったっけ。確か、割と最初の方の自己紹介の時。虹夏からは何故か嘘つけ、と言われたけどテクノ歌謡といえばこれは欠かせない。
父が何故かよく車のBGMに流していて、否応なく耳残っていたのがきっかけだった。
(─────………違う)
シンセサイザーの音にヒントを得ようと思ったけど、全く降ってくる気配は無い。むしろ雑音のようにも感じて、一時停止を押す。
何を求めているのか。
何が欲しいのか。
それが、全く定まらなかった。こんな事は今まで殆ど無い。
最初の十秒で引っかかる曲。
分かりやすくて、覚えやすくて、票を取りやすい曲。
審査員に「お」と思わせる曲。
SNSで切り抜きやすい曲。
外に届きやすい曲。
「…………………………………」
そういうものが必要なのは、分かる。
上手く言葉にはしない。無理。そういうのはぼっちが専門だ。でも、感覚では分かる。音符と、耳殼に触れる聴覚では掴める。
でも違う。
分かるからだ。
分かるから、嫌だった。
行儀の良い音は、苦手だ。
それは言うなれば。
机の上に綺麗に揃えられた靴みたいな音。
誰にも怒られない代わりに、誰の足跡も残らない音。
尖ったところを削って、触っても怪我をしないようにした音。
そういうものを、大概の人間は好む。それは知っている。
そういう音は、よくできている。
よくできているから、余計に怖い。
既視感。デジャヴ。
ノートを書き綴る指が止まる。
「──────…………」
やがて私は、とうとうペンを投げ出す。
はぁ、と大きく息をつく。
椅子に座ったまま、私は背もたれに身体を預けた。
ぎし、と椅子が強く鳴る。
天井を見る。────いや、見ようとして、やめる。
右腕を目の上に乗せる。視界が狭まり、暗くなった。
何も見えない方がいい。見えない方が、まだ幾分か楽だった。でもそうはならなくて、隙間から光が漏れる。
その光が、正しさを主張してくる。それが不快に感じて、目を閉じる。
かつて、そういう音を聴いたことがある。
いや。
作ろうとしたことがあった。
胸中に落ちた黒い何か。たった一滴の黒い水が、波紋を描いて全体へ満ちていく。追憶を撫でる水滴が、私の記憶の蓋へひたりひたりと落ちる。
ざ・はむきたす。
その名前を、頭の中でそう呼んだ瞬間、腕の下で目蓋が少しだけ熱を持つ。
懐かしい、とは少し違う。
忘れたつもりだった。
いや、忘れてはいない。
忘れたように扱える程度には、慣れていただけ。
あの頃も、私たちはバンドだった。
悪くなかった。
むしろ、楽しかったと思う。少なくとも、最初は。
音を出すだけでよかった。
好きなフレーズを持ち寄って、それが噛み合ったら笑った。
誰かが変なリズムを持ってきて、誰かがそれに乗って、誰かが「それはない」と言って、それでも結局試してみる。
そういう時間は、悪くなかった。でも、少しずつ言葉が増えた。
もっと分かりやすく。
もっと聴きやすく。
もっとウケるように。
もっとちゃんとした曲に。
いつからか、あの二人はそれが口癖になっていた。
いつからか、あの二人が演奏をしてる時、勝手に指が動かなくなる時があった。俯いたまま、私は音を合わせることがたまに出来なくなった。
あの二人の目指したあのバンド────その方向性は本来、多分間違っていない。独りよがりの音を投げつけるのは違う。伝える様に努めるのは当たり前のことだと、誰かが言った。ミュージックマガジンのどこかの有名なアーティストの言葉だ。
誰かに届くためには、誰かの耳の形を想像する必要がある。外へ出るなら、外の風に合わせて羽の角度を変えなきゃいけない。それは当然のことだと。
鳥だって、風を読まずに飛ぶわけじゃない。
だけど。だとするなら、と私は思う。
─────群れから離れすぎた鳥は、何を目印に戻ればいいのだろう。
どこへ還るべきなのだろう、と。
「…………」
机の横顔のベースへ手を伸ばす。
ベースストラップを左肩に掛ける。重い。
重みが右太腿に触れて、その感覚すら頼りない。
弾く。
短いフレーズ。
悪くない。
もう一度弾く。
少し変える。
録音する。
聴く。
消す。
弾く。
録音する。
聴く。
消す。
聴く。
消す。聴く、消す。聴く、消す。聴く、消す、消す、消す。聴く、消す。聴く、消す、聴く聴く聴く。
聴く───────消す。
「……………………………………………」
音は出る。何度でも。
とうとう、堪らなくなって、歯を軋ませたまま背を丸めた。
だというのに。
分からなかった。
それが “音楽” になる瞬間だけ、とうとう今日の私には、どうしても分からなかった。
壁は何も言わない。
当然だ。壁だから。
ならば私のコレクションの楽器達が代わりに何かを言うかといえば、当然そんな事は無かった。物など言わない。発するはずもない。
それはただ、そこに在るだけのこと。
でも思うのは、今日のそれら全ては少しだけ嫌な感じがするということ。
私のだらしなさを、何も言わずにずっと見ているみたいだった。
脱ぎ捨てた服。
床に落ちたノート。
消した録音。
飲みかけの水。
どれも何も言わない。何も言ってはくれない。
何も言わないまま、何も変わらないまま、そこにある。
街も、きっとそうなんだろう。
誰かが歌っても、泣いても、嘘をついても、傷ついても、街は何も言わない。ただ音だけを、静かに受け取って、また世界のどこかへ流していく。
痛みや傷や嘘に慣れると、言葉は少しずつ軽くなる。
たぶん、私もそうだ。
どうでもいいふりをするのは得意だ。それは楽だから。
金の話をすれば、みんな笑う。
変なことを言えば、虹夏が怒る。
ぼっちは引く。郁代は苦笑する。春樹はツッコむ。
その方が楽。何も深く考えなくて済む。
それが、何よりも落ち着いた。
私がこのバンドをどれくらい大事にしてるかなんて、言わなくていい。
言う必要がない。言わなくても伝わる。
たぶん。きっと。多分。そのはず。
でも、もし伝わっていなかったら、と音が囁く。デゥン、と右手からそれが問う。床に沈む低音ごと、私も沈む。
もし、曲が書けなかったら、と。
もし、未確認ライオットで何も残せなかったら、と。
皆は、どうするんだろう。
ぼっちは、また自分を責めるかもしれない。
虹夏は、笑って「次があるよ」と言うかもしれない。
郁代は、明るく振る舞おうとするかもしれない。
春樹は、もっと何かを背負おうとするかもしれない。
ではその先は? と更にフレットとフィンガーボードを撫でながら私は私に問う。弦の感触ごと感じる硬さが、その答えを求める。
それは、いったいいつまで続くのか。
そのうち、誰かが疲れるかもしれない。
楽しいだけじゃ、続かないことがある。
そうなった先に待つものは、救いじゃない。
それを私は、一度知っている。壊れる時は、いつだって一瞬だ。
積み上げてきたものも。重ねてきた音すらも、無かったことになる。それはおよそ、理想とかいうものが現実という名の化け物に一息の間に潰されるのに似ている。
「…………最悪」
声に出すと、少しだけ笑えた。
私はベースを肩にかけたまま、また宙を仰いでいた。
やがて腕を目の上から外し、天井を見た。
光が虹彩に染みて、微かに頬をしかめる。
白い天井。何の変哲もない、夜の天井。
そこには星もない。
スポットライトもない。
ただ、部屋の蛍光灯の無機質な跡だけが、目の奥にぼんやり残る。
だらしない部屋。
弱い私。
見えない明日。
まだ音にならない曲。
それでも、音楽は待っている。
待っている、という言い方が少し腹立たしい。こっちの事情も知らずに、いつもの顔でそこにいる。ベースは黙っている。
でも、弾けば鳴る。
そういうところが、ずるい。
「……寝よ」
そう言って、私はベースを置いた。でも、寝られるわけがなかった。
思考が絡まった糸のようで、眠気を阻害する。
目を閉じると、虹夏の声が鼓膜に届く。
最高の一曲。
ぼっちの声がする。
頑張ります。
春樹の声がする。
まだ戦える余地はある。
郁代の声がする。
大丈夫ですか、と。
それから、あの日の声がする。
もっと分かりやすく。
もっとウケるように。
もっとちゃんとした曲に。
私は寝返りを打つ。─────大丈夫な訳ない。
バサッ、と床に落ちたノートが、紙の端を少しだけ揺らす。
それを拾う気にすらならず、私は無理矢理目蓋を閉じる。窓の外では、夜がただ流れている。
ただ、音にならなかったものだけが、部屋の隅に残っていた。