ぼっち・ざ・ろっく! フラッシュバッカー   作:空山 零句

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流れ流れ鳥は遠くの岩が
懐かしくなるのか

高く空を飛んだ

誰も知らない知らない
街を見下ろし鳥は何を思うか

淋しい僕と同じだろうか


離ればなれ鳥は 群れの仲間が
懐かしくなるのか

高い声で鳴いた

何も言わない
言わない街は静かに

それを聴いていたんだ

弱い僕と同じだろうか



痛みや傷や嘘に慣れた僕らの言葉は
疲れた川面 浮かび流れ 君が住む町で


消えた 消えた (カワハナガレル)
消えた (マダミエテナイ マダミエテナイ)
消えた 消えた (カワハナガレル)
消えた(マダミエナイ マダミエナイカラ)




- サカナクション『ミュージック』-








CHAPTER #60「ミュージック」- A Lonely Bird That Cries -

 

 

 多分、夢を見ていた。

 それは多分、どこかの国の、どこかの遠い世界の夢。

 

 夢際の中で、意識は朧気(おぼろげ)なまま微睡(まどろ)む。

 いつ眠ったのかは、もう覚えていない。

 ただ確かなのは、眠ろうとした記憶だけはあるということ。

 目蓋を閉じ、音にならなかったものたちに背中を向けて、無理やり意識を沈めようとしたことだけは覚えていた。でも、そこから先の記憶は、酷く曖昧だった。

 それが、過去を回想していたものなのか、ただの妄想に近い夢の光景なのかは、もはや区別はつかなかった。だから私は、記憶を辿るようにその感覚にひたすら身を任せた。

 

 気付けば私は、下北の街を歩んでいる。

 これは、いつ。

 あぁ、これは多分、八月の時。確か、夏休みの頃だと気付く。その時に着ていた服を私は着ていたし、顔に染みる()だるような暑さのせいで、この光景がその時のものだと直感した。

 

 そこでいつものように私は、下北のレコードショップ、古着屋を巡っていた。

 

 大通りは騒がしい。ライブハウスと商店街の喧騒は、下北沢駅西口から私の歩く小道にまで続いていた。

 おまけに、真夏の太陽が私の頬をじりじりと灼き、夢の中のはずなのに額の汗は止まらない。

 そういえば確か、この辺でふとカレーを食べようとした気がする。結局所持金が底をついていて、諦めたんだったか。

 

 そうしてその夢の中ですら疲れながらも、私は大通りをまた幾分か歩いた。

 

 ハードオプも巡り終えて、特に欲しいものも見つからない。

 虹夏の家に行こうにも、そもそも虹夏も店長との用事で家に居ない。

 別段、どこかに行きたかった訳でもない。

 普段の日課。家にいても音が降らない。その欠片すら耳に通らない。

 これは、いうなればそんな時の暇つぶしのようなものだった。

 

 ただ、何となく、すぐに家へ帰りたくなかった。

 

 音を作るために歩く、なんて言うと少し聞こえはいい。

 カッコイイ。

 だから、そういうことにしておく。─────でも実際には、分かっていた。

 

 何も思いつかない時にあの家でじっとしているのが、ただ面倒だっただけだ。

 そんな時。そうしてたまたま見掛けた、古い建物の裏手。

 メインストリートの外れの道。どこに通じてるかも知らない場所。

 

「─────……………」

 

 何を思うこともなく、そこを見掛けた私はふらりと、その通りから横道へ入り込んだ。

 そこは、どこから生えたのかも分からない木々が妙に生い茂る、廃工場のような場所を通る裏道。

 細かい幹と緑の隙間を縫う様に、数え切れないほどの古い配管が目立つ。

 工場跡、というほど大げさじゃない。けれど普通の住宅でもない。何かの設備だったのか、配管が壁を這っていて、外階段が斜めに伸びている。

 緑だけが勝手に育って、錆びた鉄とコンクリートの隙間を埋めていた。樹木の枝葉からは、細かく漏れるように日光が薄く射し込む。

 木漏れ日の細かい光の粒が拡散し、舗装もされていない小道のアスファルトへ影と共にその身を小さく主張している。そこは自分達の縄張りだと言わんばかりに、夏の(せみ)の声も、大通りよりもより大きく鼓膜へ届いた。

 

(………こんな場所、あったんだ)

 

 高度経済成長期、商店街が発展する前の名残か何かか。

 そんなことを思いながら、ゆっくりと歩を進める。宙を見上げ、周囲を見渡しながらその道をひたすらに歩いた。

 

 たぶん、誰かにとってはただの汚い場所なんだと思う。

 でも、私には少しだけ綺麗に見えた。終わったものが、終わったまま残っている。

 

 それだけで、ここは妙に正直な場所に見えた。

 

 表の下北沢は、人のためにある。

 古着屋。ライブハウス。カフェ。居酒屋。劇場。

 誰かが誰かに見つけてもらうために、灯りをつけている場所。

 でも、逆に誰も見つけないような “裏側” にも街はある。

 

 誰にも見られなくても、そこには確かに残っていた(すす)(さび)まみれの配管。

 かつて誰かが貼り残して、過ぎ去ったまま忘れ去られ、剥がれかけた壁。

 使われなくなった工場の設備を繋いだ、錆びた階段。

 どこかの生きている住宅の、室外機、蝉の声に紛れ込む低い唸り。

 樹木と雑草だけが妙に元気な、既に朽ち果てた建物と建物の隙間。

 

 建物は、人が居なくなれば、すぐに壊れていくのがよく分かった。

 

 それは、“表側” では誰もあまり気にかけないだけで、確かに在ったもの。存在していた、人の “記憶” そのもの。

 

 それは、いうなれば表に馴染めない人間が、ふと辿り着く、“影” のような場所。

 

 そういう場所は、嫌いじゃない。

 むしろ、落ち着く。

 

 廃墟を巡るのは好きだ。

 そこから、音が降ることがよくあったから。

 私と似たモノが、その繋がりを教えてくれる気がしたから。

 虹夏にはピンと来なかったらしいけど、私にとって廃墟はそういうものだった。

 使われなくなったものは、何も言わない。何かになれなかった場所も、何も言わない。ただ、そこにある。

 

 その感じが、少しだけ好きだった。

 

 ふと、また見慣れない細い路地が目に入る。

 違和感があった。

 

「………?」

 

 目線の先には、強い光だけが在った。住宅街と廃墟、廃工場が目立つ場所から通じる、通りへの出口かと思わしき小道。どうしてか分からないけど、何故か大通りの姿が、光が眩しすぎて全く見えなかった。

 私は、そこへ歩いていく。(こけ)と古びたレンガの壁へ手を添えつつ、光の中へ、入り込む。

 

「………………………」

 

 気づくと、私は知らない街にいた。

 

 見慣れない石畳の道。

 壁の剥がれた古く、どこか妙にアーティスティックな洋風の家屋。

 窓辺に置かれた、枯れかけの鉢植え。

 錆びた西洋風の鉄の柵。

 薄く濡れているようで、けれど雨の匂いはしない路地。

 

 そこは多分、日本ではない、たぶんどこか遠い国の、名前も知らない街だ。

 

 それなのに、私は不思議と迷わなかった。

 知っている道ではない。来たことがあるはずもない。

 でも、足は勝手に進んでいく。

 

 石畳を踏むたび、靴底から鈍い音が返ってくる。その音だけが、やけにはっきりしていた。

 

 コツ、コツ、と。

 

 誰もいない街に、私の足音だけが、その世界に浮いている。

 

「…………」

 

 角を曲がる。

 すると、そこは急に見覚えのある住宅街になっていた。

 低い塀。

 電柱。

 古い自販機。

 斜めに傾いたカーブミラー。

 どこかで見たような、でも正確にはどこでもない道。

 もう一度瞬きをすると、今度は下北沢の路地に似ていた。

 STARRYへ向かう道に似ている。

 でも、そこにSTARRYの看板はなかった。

 階段も、重い扉も、あの地下へ続く入り口もない。ただ、似ているだけ。

 

 まるで、そもそも存在もしていないかのように。

 

 知っている場所が、全部少しずつ違う顔をして、私を知らないふりをしている。

 そう思った。

 

 空は、薄い芒緑色(のぎみどり)をしていた。

 鋭く尖ったみずみずしい緑色の葉。

 あるいは、夏の田園(でんえん)を思わせる、薄い緑の様な青々しい稲や穂の色。

 晴れそうで、晴れない。

 雨が降りそうで、降らない。

 そんな薄い鱗雲(うろこぐも)が、空一面に張りついている。

 その隙間から、太陽の光だけが滲む。

 でも、その光は地面まで届かない。

 どこかで遮られて、途中で諦めたみたいに、街の上にぼんやりと漂って射し込むだけだ。

 

 嫌な空だ、と思った。

 綺麗なのに、嫌だった。

 

 雨なら、濡れればいい。

 晴れなら、眩しければいい。

 でも、この空はどちらでもなかった。どちらにもならなかった。

 泣きもしない。

 笑いもしない。

 ただ、ずっと中途半端なまま、そこにある。

 それはまるで、置いていかれた季節のように。

 過ぎ去った季節の、残りのように。

 

 何も言わないくせに、ずっとただこちらを見下ろしていた。

 

「…………最悪」

 

 呟いてみたけれど、その声は妙に軽かった。

 街には、やっぱり誰もいなかった。さっきまでとはまるで違う。

 そうして気付く。ここは、現実じゃないんだ、と。

 

「─────────────…………………」

 

 虹夏もいない。

 ぼっちもいない。

 郁代もいない。

 春樹もいない。

 

 あの少し重いノートもない。

 ドラムの音も、ギターの音も、歌声もない。

 

 店の明かりもある。

 道路もある。

 窓もある。

 扉もある。

 

 なのに、そこには誰の気配もなかった。

 人の記憶と作ったものだけが置いていかれて、滅びたような世界。

 

 誰も居ない。私だけの街。あるいは、私だけが居ない街。

 人っ子一人いない街。

 音のない街。

 私だけが、置き忘れられたみたいに歩いている街。

 その中で、ふと空を見上げる。

 

 鳥がいた。

 

 薄緑色の空を、鳥の群れが高く飛んでいた。

 

 遠い。

 高い。

 

 静かに、鳥は鳴いていた。

 薄緑の鱗の綿を、泳ぎながら、優雅に空を飛ぶ。

 

 手を伸ばす気にすらならないくらい高い場所を、音もなく、ただ流れていく。

 群れはひとつの形を保っているようで、よく見ると少しずつ乱れていた。

 一羽だけ、少し遅れている。

 

 それを見ているのが、少し嫌だった。

 

 鳥は、何を見ているんだろう。流れ流れ、遠くの岩や、山や空だろうか。

 誰もいない街。

 私しかいない街。

 その上を飛びながら、何を思うんだろう。

 

 何も思っていないのかもしれない。

 鳥だから。

 

 何も言わない。

 鳥だから。

 

 私だけがいない街と同じように、何も言わない。思わない。

 でも、もし何かを思うのだとしたら。それを言葉にするとしたら。

 

 私が代わりに、それをカタチにするのだとしたら。

 

「…………」

 

 

 

 

 (さみ)しい、と思った。

 

 

 

 

 そう思った自分に、少し驚く。

 

 私は、寂しいのか。

 いや、淋しいのか、と。

 

 口の中でその言葉を飴のように転がしてみる。

 まるで、初めて弾くフレーズみたいに、指に馴染まない。

 似合わない。

 私には、あまりにも似合わない言葉だった。

 

 だから、嫌だった。

 

 群れから離れて飛ぶ鳥は、また小さく鳴く。いや。

 もしかして、と瞳に彼を映しては思う。

 

 あれは─────泣いているのだろうか、と。

 

 私にとってあの空を飛ぶ鳥は、まるで音楽のように思えた。

 高い場所。手を伸ばしても、届かない世界。

 

 遠い昔、人は飛ぶことを選ばなかった。

 翼を持つことを、生きる上で拒んだ。

 空を飛ぶ必要がなかったから。

 変わりゆく地上の中で、進化して。適応して。

 そうすれば、空とは別の世界を生きていけると思ったからだろう。

 

 だけどそれは正しかったのだろうか。

 

 あの一羽だけ群れから離れた鳥にとって。

 群れから離れたことは、その選択は、正しかったのだろうか。

 鳥も、群れから外れなくて済む方が生きていきやすいはず。

 それなのに、あの鳥はその群れから離れた。

 たった一羽。

 たった一人で。

 孤独の中へ、身を落とした。

 

 ぼっちの後ろ姿と重なる。

 後ろ髪を揺らして、独りでギターを奏でながら背を丸める姿と。

 

 あの鳥は、きっと。

 高く、より高く。群れよりも遥か上を目指すのだろう。

 

 それはさながら、今の人の世の中で置き換えることもできた。

 上を目指すこと。

 売れること。

 金を得ること。

 有名になること。

 より大きな会場で、演奏ができるようになること。

 

 そういう場所に立って響かせる(かなで)は、より高い空から鳴くあの鳥のように、より多くの人へ、世界へいずれ届くのだろう。

 

 だけど。

 もしそれが、たった一羽で。たった独りで、出来たとして。

 

 果たしてその “鳥” にとって、それは救いなのだろうか。

 

 そう思ったところで、ふと足を止める。私は立ち入り禁止のフェンスの前で立ち止まる。

 冷たい金網に指をかける。かしゃ、と小さく鳴った。その音が、どこかで弦を弾いた時のノイズに似ている。

 

 また、空を見上げる。たった一羽だけで、彼はまだ高く空を飛ぶ。

 

「…………淋しい、か」

 

 声に出してみても、やっぱりしっくりこない。

 

 そういうのは、ぼっちの担当だと思っていた。

 孤独とか、寂しさとか、居場所とか。

 そういう言葉は、あの子のギターケースの中にぎゅうぎゅうに詰まっているものだと思っていた。編曲をしていて、いつも感じ取れるものだから。

 

 虹夏は、寂しくても笑う。

 郁代は、寂しさを明るさという名の光で隠す。

 春樹は、寂しさを誰かのための努力に変える。

 なら私は。

 

 ───────私は、何に変えていたんだろう。

 

 金の話。

 変な冗談。

 どうでもいいふり。

 無表情。

 ベースライン。

 

 たぶん、そういうもの。でも、所詮そういうものでしかない。

 そういうものに変えたつもりで、ただ、分かりにくくしていただけなのかもしれない。

 それに気付いて、しょうもないだらしない自分に嫌になった。

 まともな事を思い出せない自分に嫌気が差した。

 

 歩き続けると、川があった。

 

 下北沢にこんな川はない。

 少なくとも、私の知っている下北沢には。

 でも、夢だから、たぶん何でもある。

 川は静かだった。

 水面は濁っていて、空の緑を薄く溶かしたみたいに揺れている。

 流れているのに、止まっているようにも見えた。止まっているのに、確かに何かを運んでいるようにも見えた。

 あぁ、とそこで気付く。

 川は似ている。その流れが静かに上から下へ、落ちていくその有り様が、孤独に似ているんだ、と。

 ふと私は欄干(らんかん)に手を置いて、川を覗き込む。

 

 そこには、音があった。

 いや。

 

 音は、なかった。

 

 ただ、水面の中で、昔の私がベースを弾いていた。隣に、二人いる。

 

 ざ・はむきたす。

 夢を見る前も浮かんだその名前だけが、水面の上と私の脳裏に浮かんで、すぐに崩れた。

 あの二人は笑っていた。

 水の中の私は、少しだけ得意げな顔でベースを弾いている。

 たぶん、まだ何も壊れていなかった頃の私だ。

 

 楽しそうだった。

 多分、本当に楽しかったんだと思う。

 

 誰かのために整える前の音。

 どこかへ届かせる前の音。

 まだ、私たちだけのものだった音。

 水面の向こうで、私たちは笑っている。

 でも、音は聞こえない。

 弦を弾く指も見える。

 口が動いているのも見える。

 誰かが何かを言っているのも分かる。

 

 なのに、何も聞こえない。

 音だけが、耳に届かない。ミュージックだけが、耳に届いてくれない。

 

 それでも、何を言っているのかだけは分かった。

 

 もっと分かりやすく。

 それじゃ伝わらない。

 もう少し、ちゃんとした曲にしよう。

 

 聞こえないのに、何を言っているか分かる。

 

 嫌だった。

 それが、本当に。

 

 

 

 

 堪らなく、嫌だった。

 

 

 

 

 

 私は水面に手を伸ばしかけて、やめた。

 触ったら、きっと消える。

 そう思ったのか。

 それとも、消えるところを見たくなかったのか。

 

 もう、自分でも分からなかった。

 

「…………」

 

 水面の中の私は、まだ笑っている。

 

 あの二人も、まだ笑っている。

 

 でも次の瞬間、川面が小さく揺れた。

 笑っていた顔が、消えていく。表情から、消えていく。

 思い出す。記憶の残滓(ざんし)が、蓋を開けて顔を向ける。

 それは、あの時の光景。路上ライブをしている時。ふと、指が動かなくなって、宙を見つめたまま止まったあの瞬間のことだ。

 

 

 私は、何の為に “音楽” をやっているんだろう、と思ってしまったあの瞬間を。

 

 

 似ている。

 あの鳥と。

 私も同じだ。

 嫌になった。群れから、離れたのだ。

 

 弦を押さえていた指がぶれる。

 口元だけが、ひどくゆっくり動く。

 もっと。

 もっと。

 もっと。

 その言葉だけが、水の中から浮かんでくる。

 もっと分かりやすく。

 もっと聴きやすく。

 もっとウケるように。

 もっとちゃんとした曲に。

 

 それは、多分、間違っていない。間違ってはいなかったのだろう。

 

 誰かに届くためには、誰かの耳の形を想像する必要がある。

 外へ出るなら、外の風を読まなきゃいけない。

 群れで飛ぶなら、羽の角度を合わせなきゃいけない。

 

 鳥だって、好き勝手に飛んでいるわけじゃない。

 

 でも。

 

 合わせすぎた羽は、それはもう自分の羽と言えるんだろうか。

 ──────その鳥は、自分の力で飛べてると言えるのだろうか。

 

 

 

 

 群れから離れた鳥は、何を目印に戻ればいいんだろうか、と。

 

 

 

 

 もう一度、同じ事を空に問いかける。

 仮に。

 届くように努めたとして。

 その想いを、願いを、歌詞に込めて、表現したとして。

 痛みや傷や、嘘すらも、カタチにしたとして。

 

 いつの日か、それは簡単に消費され尽くして。

 誰の心にも残らないとしたら──────?

 

 そうなったら、一体この先の未来で。

 

 

 

 

 誰が私を覚えていてくれるのだろう。誰が理解してくれるというのだろう。

 

 

 

 

 こんな、無個性な私を。個性に溺れ沈む私を。

 水を求めて求めて、それでもカラカラな私自身を。

 

 

 川面の中の私は、もう笑ってはいなかった。いつからか、笑えなくなっていた。

 あの二人の顔も、少しずつ見えなくなる。咄嗟に水面へ手を伸ばす。間に合わない。水が滲む。空の芒緑色だけが、その全部を薄く塗りつぶしていく。

 

「……………っ」

 

「あ……──────────」

 

 目を見開いたまま、私は呆然とした。待って、と叫ぼうとして。

 声が出なかった。何も、言えなくなった。

 そんな資格が、私のどこにあるのか。

 もう、分からなかったから。

 痙攣する目蓋。震えが、指先、腕、身体から足先へと届く。

 いつから、だろう。いつから、だったのだろう。

 

 

 

 

 痛いものを、痛いと言わなくなったのは。言えなくなったのは。

 

 傷を、ただの模様みたいに扱えるようになったのは。

 嘘を、嘘のまま便利に使えるようになったのは。

 

 

 

 

 どうでもいいふりをしていれば、本当にどうでもよくなれると思っていた。

 ならなかった。

 ただ、どうでもいいふりが上手くなっただけだった。

 人間は、そんな事をしても、表面的な部分しか上手くなれないと知った。

 

「…………」

 

 手のひらが少し冷たかった。強く握り締めて、堪らず欄干に顔を埋める。欄干から手を離す。

 夢なのに。

 夢の中なのに、夢の中ですら、その冷たさだけははっきりしている。

 

 私に、その “痛み” を忘れさせてくれなかった。

 

 どこまで行っても、それから逃げ切れるはずもなかった。逃げても、いつかは向き合わなければならないと私の足を掴んで離さないものだった。

 

 白い壁だけじゃない。

 楽器だけじゃない。

 川も何も言わない。

 街も何も言わない。

 空も何も言わない。

 誰もいない。

 誰も、私の音を聴いていない。誰も、聴いてなどくれるはずもなかった。

 

 

 私は独りだ。

 

 

 きっと。

 この先も、ずっと、この私だけがいない街が全てなんだ。

 

 そう思った瞬間、遠くで何かが鳴った。

 

「………!!」

 

 最初は、風の音かと思った。次に、どこかの看板が揺れる音かと思った。

 でも違う。

 それは、もっと身体の奥に近い音だった。

 心臓の音より少し外側。

 でも、街の音よりずっと内側。

 

 ワン。

 

 声がした。

 遠い。

 でも、知っている声。

 

 ツー。

 

 私は顔を上げる。

 空の鳥たちが、少しだけ形を変える。

 薄い雲の向こうで、届かなかったはずの光が、一瞬だけ揺れた気がした。

 

 スリー。

 

 誰の声かは、分かっていた。──────分からないはずがなかった。

 

 フォー。

 

 大切な声。

 私を救ってくれた。私に、また音楽をやりたいと思わせてくれた、声。

 

「─────────………にじ」

 

「…………か」

 

 その瞬間、足元の街が少しだけ震えた。

 

 石畳も。

 住宅街も。

 下北沢に似た路地も。

 STARRYのない道も。

 全部が、遠くから鳴るカウントに合わせるように、少しだけ輪郭を取り戻していく。世界が、朧気な光に包まれていく。薄緑に、青空がゆっくりと雲の隙間から顔を出し始めていく。

 

 誰もいなかった街に、拍が生まれる。

 私の足元に、リズムが戻ってくる。

 

 遠くで、ドラムが鳴った気がした。

 

 それは夢の音なのか。

 記憶の音なのか。

 現実の音なのか。

 

 鳥の声が、響く。

 もう、分からない。

 目尻から溢れていた熱と共に、その声は光に溶けていく。

 でも、たぶん、どれでもいい。

 私は、その音に向かって一歩踏み出そうとした。ただひたすらに、その青空へ。

 

 

 

 光の中へ、手を伸ばす。

 

 

 

 

 

 

 その瞬間。

 目が覚めた。

 

「…………」

 

 薄暗い部屋。

 荒い息。私はしばらく、天井を見つめたまま動けない。

 横を見る。

 午前五時半を教える目覚まし時計。

 

 白い天井。

 床に落ちたノート。

 飲みかけの水。

 ベースケースの横に立てかけたままの予備のベース。

 全部、昨日のままだった。

 何も変わっていない。

 

 けれど、耳の奥にまだ、かすかにドラムスティックと共に響くカウントが残っていた。

 

 ワン、ツー。

 スリー、フォー。

 

 夢だった。

 それは、ただの夢だ。

 そう思おうとして、やめた。

 

 

 

 夢だろうと、何だろうと。─────あの声は、虹夏だった。

 

 

 

 私にとっての、救いの声だった。

 

 

 

「───────────…………………」

 

「…………最悪」

 

 そう呟く。

 でも、今度は少しだけ笑えた。掌に水滴が落ちる。

 知らぬ間に、出ていたもの。

 

 私は目を見開いたまま、それを見つめる。

 

 身体を起こす。

 ふらつく脚で、机に向かう。

 床に落ちたノートを拾う。

 開いたままのページには、昨夜書きかけて、途中でやめたコード進行が残っていた。

 まだ、曲にはなっていない。

 音にも、なりきれていない。

 

 でも。

 

 遠くで鳴ったあのカウントだけは、まだ消えていなかった。

 だから私は、シャーペンを握り直した。PCの電源を入れ直す。ヘッドホンを耳に装着する。手の甲で目尻を擦る。ひとつ、息をつく。

 黎明(れいめい)を告げるように、鳥たちが高い声で鳴く。

 

 まもなく、夜が明ける。

 月曜日の朝が、来ようとしていた。

 

 

 

 

 

 









Lonely

【形容詞】
(lone・li・er; ‐li・est)

1.孤独な。ひとりぼっちの。

2 .(孤独のために)寂しい。心細い。

用例
She felt lonely. 彼女は寂しかった.

3.〈場所が〉人里離れた.
[LONE から]





Bird

【名詞】

1 .鳥。

2.《英俗》 娘。少女。





Cries

【三人称単数現在】及び【複数形】(cry【動詞】)

1.涙を流す。泣き叫ぶ。






(出典:Weblio 英訳辞書 より)



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