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下北沢。STARRYの扉を、勢いで開けすぎた。
階段を駆けあがった足が空を踏んで、世界が一回転。金属の悲鳴みたいな音が周囲に散って、私も一緒に散った。
「ふげぇッッ!! っっ、っ、ごめんなさい、ごめんなさいぃぃぃ!! 遅れましたぁぁあああ!!」
カウンターの奥から店長さんのがなり声が飛ぶ。「おーーーーい、ぼっちちゃん、機材ぶっ壊したら弁償だぞコラァ! ったく……!!」
明るい声が重なる。「ぼっちちゃん、ちょっと、だいじょーぶ!?」
低く淡々とした声もした。「……凄い音したけど、傷一つないの凄いね」
慌てた調子の声が近づく。「ひとりちゃん!? 大丈夫!? どうしたの、こんなに遅れたりそんなに慌てるのも珍しくない?」
「ひぃっ!! ご、ごめんなさいっ!! あの、その、えっと、実は電車でねねね、寝過ごしちゃって……ッ!」
ウトウトしたのは事実だし、全部嘘でもない。ほんとの理由は “浮かれすぎて足が地面から離れてた” ──────なんて、言えるわけがない。惨めに喚きつつ、私は転げ落ちた機材を必死で戻す。
そうして深呼吸で顔を平らにした。虹夏ちゃんと喜多ちゃんは屈み込んで心配そうにこちらを見つめてくる。
「ぼっちちゃんが?? 珍しいね、文化祭の疲れ、まだ抜けてないのー?」
「あっえっ、ああぁあの、それは……」
リョウ先輩は椅子に座ったまま、手をフリフリと小さくこちらへ振って呟く。
「お疲れ、ぼっち。私も寝過ごしたことあるし、気にしなくていいよ」
「さっき転んだのもだけど……ほんとに平気?」
そう言ってリョウ先輩は相変わらず無表情なままだけど、私を気遣ってくれた。心配してもらえるのは嬉しいけど、本当のことを言えるはずもなく、慌てて首を振る。
「あっいえいえいえ!! 大丈夫ですッ! た、ただの寝坊ですし、こっこのとおり傷一つないですっ……!」
「そっか。なら良いよ。……遅れるって連絡あったし、気にしてない。ね、虹夏」
そういってリョウ先輩は虹夏ちゃんへ視線を送る。彼女はゆっくりと首を縦に振り、そして喜多ちゃんへにやにやと笑いかけた。
「そうそう、どこかの誰かさんみたいに逃げ出したわけじゃないしー♫」
「もぅ! それは忘れてくださいぃ……!」
からかいと心配が混ざった空気に、肩の緊張が一枚はがれて、思わず私は笑いが零れた。
「……くすっ」
「? なになに?」と虹夏ちゃんに覗かれて、私はぶんぶんまたも首を振る。「い、いや、なんでもないですっ!」
「ふふっ。もうすぐ開店だし、準備しよっか。今日はぼっちちゃん、ドリンク担当ね」
「いいね。調子出てきたみたい。じゃ、準備しよう」
「そうですね先輩♡ さっ、行きましょ! ひとりちゃん!」
「あっ、は、はい!!」
虹夏ちゃんは私の手を取る。いつも通りクールなリョウ先輩。笑いかけてくれる喜多ちゃんの咲く声。
氷の音。炭酸の爆ぜる細かい連打。グラスの縁の薄い鳴り。
それはきっと、いつも通りの、私の居場所。
手はまだ震えるのに、心はさっきより落ち着いている。あぁ。やっぱり、ここはいいな。前までは、バイトに行くことすらしたくなかったのに。
いつからか、今日もバイトか、なんて当たり前にこの居場所を受け入れれるようになっていた。その変化に、自分でも驚く。
その時……抱きしめられた距離の記憶が、指先をまた震わせる。困る。けど、うれしい。やっぱり困る。
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「お疲れぇー! そろそろ良い時間だし、終わろっか。ぼっちちゃんも今日は早めに帰らせたいし!」
「あっ……おっ……お疲れ様でしたぁ……」
虹夏ちゃんのその掛け声と共に緊張の糸が一気に弛緩し、私はピックの消耗具合を一目見て、片付けに入り始めた。
スタジオルームの機材ケースの留め金がカチリと鳴るたび、胸の鼓動も一拍ずつ落ち着いていくみたいだ。バイトが終わったあと、店長さんはいつも私たちに大体二時間ほどの練習時間をくれるのが、およそ恒例になっている。丁度十五回ほどの合わせが終わったところで、時間を迎えた。
思えば、文化祭が終わってから一週間。今となってはあの舞台における演奏もおよそ夢だったような気さえしてくる。
「……………」
その時、ふと横目の視線に気づく。「!!」
無表情の横顔。私は思わず小さく身じろぎした。
「? リョウ先輩? どうしたんですか?」と喜多ちゃんはその視線の送り主に問う。
「……ううん、別に」
彼女はそのままベースを肩から下ろし、ケースへ特に表情も変えないまま静かに仕舞っていく。
「みんなー、忘れものしないでよー! 行くよー!」
「あっ、は、はっはい!」
「い、伊地知先輩、もしかして私の名前呼びました?!」
「違うよッ!?」
視線の意味は掴めない。けれど胸の奥がざわつく。
やいのやいのと戯れる喜多ちゃんとリュックを背負った虹夏ちゃん。先に出ようとする二人を待たせたくない。私は慌てて楽器を仕舞って、そのままトートバッグを肩に掛け、走り出す。
※
その後、私達はSTARRYを出て五分ほど歩いたあと、下北沢駅に通じる十字路で立ち止まった。そこで虹夏ちゃんは緑のコートをたなびかせて微笑む。
「んじゃー今日は解散かな! ぼっちちゃんは特にちゃんと休みなよ? また明日ね!」
「あっえっ、あっ、はい!」
「私、楽器屋寄るから先に帰るねひとりちゃん! 伊地知先輩も、リョウ先輩もっ、お疲れさまでした!」
「うん、お疲れぇー! リョウもぼっちちゃんも、またね!」
「はい……気をつけて!」
「ん。おつかれ、二人共」
「あっ喜多ちゃんも、また……!」
そうして虹夏ちゃんと喜多ちゃんはそれぞれ別方向に別れ、双方共に手を振りながらやがて姿が見えなくなった。その中で、リョウ先輩と私は取り残される。
外はすっかり夜の
そのタイミングで、静かな横目がもう一度、こちらに滑ってきた。
「……ねぇ、ぼっちさ」
「は、はいっ……?」
そうして、リョウ先輩は私の方へ静かに身体も向ける。
「なんか、隠してることあるよね。私たちに」
「え゛っ……ななななななななっ、なんでです、か!?」
思わず、声が裏返る。こんな反応したら我ながら誤魔化しようもない。昔から嘘をつくのは苦手だ。
練習終わりの時から、薄々嫌な予感はしてた。でも、まさかこんなにも早く見抜かれるなんて。いくらなんでも早すぎる。
どどどどどどうしよう。なんて言って誤魔化せば良いんだろう。何も思いつかない。
「な、なんで……です、か?」
我ながら情けないほど震える声で、リョウ先輩へ静かに訊く。すると、リョウ先輩は少しの間私を見つめ、やがてくるりと駅とは少し離れた方角へ歩き始めた。
「……。すこし、歩こっか」
「あっ、えっ、あっはい……」