軋んだその心、それアンダースタンド
歪んだ日の君を捨てないでよ
嘆き合って迎える朝焼けで消えゆくその想いを
ふとしたことで知る無力さでほつれるその想いを
濁った目の先の明かり消えぬ街角
宿ったその心、絶やさないでよ
響かない君の先の見えぬ明日も願うよ
きっといつか…
軋んだその心、それアンダースタンド
歪んだ日の君を捨てないでよ
光らない心、それでも待つ明日の
掴んだその手だけ離さないでよ
響かない時を駆け抜けてく間も願うよ
きっといつか…
不安で泣いた君も、それアンダースタンド
刺さったそのトゲが抜けなくても
塞いで泣いた日々も、それアンダースタンド
歪んだ日の君を捨てないでよ
-ASIAN KUNG-FU GENERATION『アンダースタンド』-
111-6296-1
※
年が明けた。あれから三ヶ月が経った、二月三日。
十一月に未確認ライオットへの出場を決めてから、俺達の毎日は、明らかに以前より速くなっていた。学校が終わればSTARRYへ向かい、バイトをして、練習をして、路上ライブをして、帰ればまた動画やSNSの数字を見て、次に繋げる方法を考える。
その繰り返し。
何かが動いている感覚は、間違いなくあった。
リョウが書いた『グルーミーグッドバイ』のミュージックビデオは、少しずつ再生数を伸ばしている。
路上ライブの効果もあって、STARRYへ足を運ぶ客の中には、結束バンドを目当てにしてくれる人も明らかに増え始めていた。ひとり達は着実に実り始めている努力と活動の成果に湧き上がったりもしていたのを俺は見ていた。
悪くない。そう思うべきだった。
少なくとも外から見れば、それは確かに順調と言っていいはずだった。
でも、数字を見るたび、胸の奥が軋む。現実は、甘くなんかなかった。
STARRYはお世辞にも新宿FOLTや他の有名なライブハウスに比べれば影響力はどうしても高いとは言えない。しかもその中でまだ駆け出しにも等しい結成一年以内のバンド。
いくらネットで活動をしても、その上がり幅はたかが知れていた。
俺は下北沢駅からの道程の中で、投稿者専用のアプリを開く。
今日は俺が委員会に出なければならなかったこともあって、バイトにはどうしても間に合いそうになかった。
今日のバイトのシフトは、途中まで虹夏たち結束バンドが担当して、道中からランドリーボーイが代わってくれるらしい。時間は駅に着いた時点で既に十九時を回っている。多分、今頃着いたところで虹夏たちは練習に励んでいる頃合のはずだ。
だからこそ、と俺は思う。
この話は、ひとり達の前では出来ない。店長────星歌さんが作業をしている時間帯。今、このタイミングしかないと思った。オーチューブのアナリティクスを見つめ、その度に何かが軋む音が、商店街の喧騒に紛れて俺を刺してくる。
再生数。
登録者数。
SNSの反応。
ライブ動員。
ウェブ投票へ向けた見込み数。
画面の中で並ぶそれらは、いつだって冷たい。
人の想いも、努力も、悔しさすらも、全部一度取り払って、最後にはただの数字としてこちらを見つめ返してくる。
数字は嘘をつかない。そんな言葉がある。
多分、それは正しい。
けれど、正しいものが、いつも人に優しいとは限らない。
「…………」
そうして、STARRYのカウンター前。
営業前の静かなフロアには、まだ客の声も、ドラムの音も、アンプのノイズもない。
冷蔵庫の低い唸りと、星歌さんがノートPCのキーボードを叩く乾いた音だけが、やけに大きく聞こえていた。
俺はその横顔をしばらく見ていた。
伊地知星歌。
STARRYの店長。虹夏の姉。元バンドマン。
最初に会った時は、正直、死ぬほど怖かった。いや言動が鋭いのはそうなんだけど、ひとりの彼氏だとかなんとかで肩が外れるかと思うほど揺さぶられたし、なんなら本気で命の危機すら覚えた。多分、本人なりに何か焦ってたんだと思う。多分。
けれど今は、少し違う。
「────…………」
この人は、ただ口が悪いだけの人じゃない。
見ていないようで、見ている。
聞いていないようで、聞いてくれている。こちらが隠そうとしたものを、妙なタイミングで拾ってくる。
正直なことを思うなら─────そういうところが、少し苦手だった。
それに。この人は、三ヶ月前にも俺のことを言い当てた。
“もう前に出る気はないです” とでも言いたげな顔をしてる、と。
そう言われた時の、胸の奥を指で抉られたような感覚を、まだ覚えている。嫌でも、思い出してしまうからだ。
「……店長」
「ん?」
星歌さんは、りんご味のパックジュースのストローを咥えたまま、こちらへ目だけを向ける。
「少し、相談があります」
「相談?」
怪訝そうな声。
当然だと思う。でも、言わなければならない。そう思った。
「…………結束バンドに」
「コーチとかを、雇えたりとかしませんか」
「は?」
ストローを啜りながら、彼女の動きが僅かに止まった。顔を静かに向けてくる。
「今、なんて?」
「コーチです。外部のトレーナーでもいい。ボーカル、ギター、ベース、ドラム。それぞれ専門的に見てくれる人をつけることって、出来ませんか」
「…………」
星歌さんの目が、露骨に細くなる。べこ、と紙パックが潰れる音がカウンターに響く。
「急にどうしたお前?」
「急じゃないです」
思ったよりも、声が硬くなった。自分でも分かる。
言葉の端が、少し尖っているのが。手汗が滲む中、拳を握り締める。
でも、止まらなかった。止められるはずもない。俺は続けた。
「前から考えてました。……店長の誕生会をやった十二月の時に、SIDEROSの大槻ヨヨコが、明確に未確認ライオットへの出場意思をひとり達に示したんです」
「ああ、虹夏から聞いてる」
「未確認ライオット出場を決めたあれから三ヶ月。最近は路上ライブでファンも増えてます。STARRYの観客動員数も増えてる。『グルーミーグッドバイ』のPVも、それなりに伸びてる」
「なら順調じゃねぇか」
「でも、足りないんです」
「……は?」
星歌さんは、それを聞いてこちらに鋭い先端を向けるように目を向ける。言ったあと、自分でも少し息を飲む。
早すぎる。もっと落ち着いて話すべきだった。
だけど、落ち着くという行為そのものが、今の俺には妙に難しい。
三ヶ月前からずっとオーチューブやトゥイッターで投稿されてる彼女達の姿を思い出す。それが、余計に焦りを加速させる。
「SIDEROSやケモノリアは、ハッキリ言って相当格上です」
「そんなこと、店長だって分かってますよね?」
「…………」
「今のままの結束バンドで、彼女達に勝ち目があるって本気で思いますか?」
その言葉を口にした瞬間、少しだけ胸が痛んだ。
結束バンドを信じていないみたいだったから。──────ひとり達の努力を否定しているみたいだったからだ。
「それが……マネージャーのセリフか?」
「マネージャーだから言ってるんですよ」
星歌さんが低く言う。俺は肩と鎖骨が微かに勝手に動くのを感じた。小さく、歯軋りを重ねて、反射的に返す。
違う。違うのに。
俺だって、ひとりたちを誰よりも信じている。だからこそ、怖かった。俺は知っているからだ。数値は、簡単に人の心なんて殺せる。嘘はつかない。どこまでいっても、残酷なまでに現実を示す。
「客観的に、数値と多角的な視点から見た上での分析の話をしてるんです。こういう時の数字は嘘をつかない。店長だって、そこは分かりますよね」
「…………」
「事実として、現実の話として、今の結束バンドのPV数は、彼女らの影響力の足元にも及んでないんです。……私情の話はしてません。話をすり替えないでください」
言い終えたあと、カウンターの空気が、僅かに冷えた気がした。彼女の前髪の下が暗く濁ったように見えた。
俺はそこで、しまった、と思った。
だけど、もう引けなかった。
星歌さんはしばらく黙っていた。一度、俺から目を逸らすように顔をカウンター正面奥へ向け直す。やがて、静かにこちらを向く。沈黙の中で、パックジュースがもう一度、べこ、とまた音を立てた。
「……お前」
「何をそんな焦ってんだ?」
ストローから口を離し、星歌さんがそう言ってこちらを視線で穿つ。
「ッ! この現状を見て、むしろ何で呑気でいられると思うんです!?」
「あと二ヶ月を切ってるんですよ。四月になればウェブ投票が本格的に始まる。その前に、出来ることは全部やらないと間に合わない!!」
声が、荒くなった。苛立ちなのか、衝動的な焦燥感によるものなのか、もう今の俺には区別がまるで出来ない。
「全部ね」
「そうです。全部です」
拳が震えているのが分かった。
焦っている。そんなことくらい、自分でも分かっていた。でも、焦るに決まっている。
────ひとりが言ったんだ。
人前で、目を合わせることも、上手く言葉をハッキリと伝えるのも苦手な、あの子が。普段なら床に溶けたり霧散したり、陰キャの湿った悲鳴を上げながら逃げそうなあの子が。怖がりで、そのくせ承認欲求が強くて褒めてほしがりの不器用なあの子が。
結束バンドでグランプリを獲りましょう、と。
自分のギターヒーローとしての貯金を、その欲求を抑えてまでみんなにそれを差し出す覚悟を見せた。
あの後藤ひとりが、それをみんなに伝えたということ。
自分の足でSTARRYの階段を降りてきて。震えながら、それでも扉を開いて─────自分の意思で、そう言ったということ。それが、どんなに大きなことなのか、この人にだって分かってるはずだ。
だったら。
俺は。
「…………勝たせて、やりたいんです」
声が漏れた。
「春樹?」
星歌さんが僅かに眉を動かす。
「勝たせてやりたいんです。ひとり達を」
喉の奥が熱い。
「あいつ、自分の意思で……ハッキリと言ってきたんです!! 結束バンドでグランプリを獲ろうって、あの子が自分から前に出たんです!!」
ひとりの顔が浮かぶ。
怖がりで。
自己肯定感が低くて。
でも、誰よりも音に対して真剣で。誰よりも結束バンドを大切にしていて。
自分の大切な場所を守るために、あの日、初めて真正面から未来を掴もうとした彼女の顔。
「ひとりが、自分の意思で」
「だから俺は……それを、叶えてやりたいんです」
気づけば、声までもが痙攣していた。星歌さんは、しばらく俺を見ていた。
責めるでもなく。
馬鹿にするでもなく。ただ静かに、見つめる。その沈黙が、逆に苦しかった。
「……さっきの質問、答えてください」
俺は続けた。
「店長なら分かるでしょう? 本気でプロを目指すということが、どういうことなのかってことくらい」
「──────…………」
星歌さんは、長く息を吐く。
「……あぁ、分かる」
「だったら!」
「分かってる」
ぴしゃりと遮られた。
星歌さんはジュースをそっと置く。やがて、こちらを真っ直ぐ見た。
その眼光は、さっきまでよりもずっと鋭い。
「お前の気持ちは分かる。だからこそだ」
「そこまで言うなら私もハッキリ言ってやる」
「…………」
「今のままのお前らじゃ、良くてセミファイナルのライブ審査までが精々だろうな。最悪の場合、ウェブ投票すら怪しい」
「っ……!!」
分かっていた。分かっていたはずなのに。
実際に言葉にされると、胸の奥を殴られたような感覚が、迸る。
胸を貫かれるような、感覚が、走る。思わず俺は腹に力を入れ、俯く。
「お前らにとっては、今の時点で既に充分な挑戦だ。十二分に頑張ってることは私もよく分かってる。それは認める」
「……」
星歌さんの声は、低く、冷静だった。
「だけど、ここから先は違う。お前は知ってるよな。ここからはプロの世界だ。アマチュアの延長線上なんかじゃない」
「分かってます」
言葉が先に出た。
「そんなの、俺が一番よく分かってる。だから」
「だからこそ、尚更駄目だ」
「……っ!?」
思わず目を見開く。再び遮られたその拒絶に、俺は顔を思わず上げる。
「なんでですか!?」
「────理由は三つだ」
星歌さんは腕を組んだままこちらを今度は身体ごと向く。足を組み、鋭利な目元を俺に向けたまま、右手で三本指を立てる。やがて彼女は、淡々と続ける。
「一つ目は、シンプルに時間がない」
「今のアイツらのスケジュールは既にギチギチなのは、お前も分かってるだろ。普段の学校終わりにウチに来て、バイトをしてノルマ費諸々を稼いで、更に余った時間で練習をしてる」
「…………」
「アイツらは、あれから練習量を倍近く増やしてる。ましてや、こないだの期末テストなんて、ぼっちちゃんの勉強に付き合ってお前も喜多も成績落ちたよな?」
「それは……」
「お前らが今必死にやってることくらい、この私が知らない訳ないだろ」
言い返せなかった。
知っている。
そりゃそうだ。この人は俺が、俺達がやってることを、思う以上に誰よりも、知っている。
ひとりがどれだけ指を動かしているか。
郁代がどれだけ歌とギターに向き合っているか。
虹夏がどれだけ皆の予定と空気を見ながら自分の練習まで詰め込んでいるか。
リョウがどれだけ曲のことを考えているか。
そして俺がどれだけそれを見て動いているのかを。
彼女の発した言動は、それを証明している。
「だけどな、それだけやってもまだ足りない。これはそれだけ過酷な戦いなんだ。プロになろうとする道は」
「…………ッ」
「ましてや、ぼっちちゃんはこれに加えて自分の練習もこなしてる。物理的に、どこにその時間を作るんだ?」
喉が詰まった。何も言えなくなる。
「二つ目」
星歌さんは続ける。
「そもそもの話だが、仮にトレーナーを雇えたとして、その費用はどうするのか考えたのか?」
「それは……俺が、何とかして!」
「バカか」
その一言は、容赦がなかった。俺の言葉を両断する様に、表情ひとつ変えず彼女は言い放つ。
「お前は自分の立場も分かっていないのか、春樹」
「……っ!!」
「お前はあくまでもただの学生で、まだ立場はマネージャーとはいえウチのいちバイトでしかない」
春樹、と俺を呼ぶその呼び方が、妙に刺さる。
この人はいつから、俺のことを苗字ではなく名前で呼ぶようになったんだろう。
最初は、吉沢だったはず。
どこか距離を置くような、警戒するような呼び方だった。
なのに今は。いつからか、叱る時に、名前を呼ぶようになった。
────春樹。はるき。
やめろ。うるさい。
残像が、脳裏を駆け巡る。同じふうに、名前を呼んでくれたあの人の声と、星歌さんのそれが重なる。もう、薄らとしか思い出せない背中が。
手を伸ばして伸ばして、行かないで、と縋る声が追い討ちをかける。─────それが、余計に逃げ場をなくしていく。やめろ。辞めてくれ。黙れ。
「そんな一介の学生が。どうやってボーカル、ギター、ベース、ドラム……それぞれその道のプロに講師を頼めるだけの何十万もの大金を工面出来るってんだ?」
「…………」
「まさか親御さんに頼むつもりか?」
「それは……!!」
「笑わせるんじゃない」
拳を握る。歯軋りが強まっていく。脳内を踊るフラッシュバックと、彼女の言葉は身体を内側から壊すようだった。何も言えない。
爪が掌にめり込む。皮膚の色が白く変色するほどに、強く握り込む。でも、その痛みすら今はどこか遠かった。
「三つ目だ」
星歌さんは、俺の反応を待たずに続ける。
「これは私の立場上の話になるけど、前にも言ったが、私はもうこれ以上お前らに贔屓をするのは無理だ」
「贔屓って……別に、今回はそういう話をしてるんじゃ!!」
「贔屓だ」
即答だった。もはや俺の言葉など聞くに絶えないと言わんばかりの、慈悲など無い即答。腕を組み、瞳を伏せて彼女は言葉を言い放つ。
「他の奴らだって、金があるならそんなの雇いたいに決まってるだろ。皆必死にノルマを稼いで、その上でやっとの思いでやれることをやってるんだ」
「何度も言わせんな。バンドなんてもんは、金がなきゃやってられる訳ない」
「…………」
「今のご時世、音楽そのもので食っていける奴が一体どれだけいると思ってる? ストリーミング配信で一発当てるつもりか? 冗談はやめな」
「売れてる人間ですら、実際その収入のみで生きていけるヤツなんかどれだけいると思ってる。基本グッズ売って生計立てていく奴がほとんどなんだぞ」
ライブハウスの現実。
音楽の現実。
─────そん、なの、知ってる。アンタに言われなくったって。
腹の奥に、マグマが溜まる。高熱の淀みが、思考にまで影響を及ぼして、ぐらりと地面まで揺らぐ。
俺は、それを知っていたはずだった。分かっている。
親父を見てきたから。
カルテットバインドを見てきたから。
病気で指が動かなくなっていく親父と、その背中に絡みつく業界の現実を、子どもの頃から見てきたから。
それなのに。
今、星歌さんから同じ現実を突きつけられて、俺は言い返せない。
知っていたはずなのに、何も分かっていなかったような気がして。
余計に、虫唾が走る。吐き気が止まらない。
「……ライブハウスはビジネスだ」
星歌さんは冷たい瞳のまま言う。
「こちらとしてはな、お前らみたいな素人集団に貴重な枠を提供するだけでも、いくらバイト代から最低限の出演料を差し引いたとしても、利益率的にはかなりの損を被ってるのが実情だ。正直、これ以上の優遇は無理だ」
「…………っ」
「私だってこんなこと言いたくねぇよ。金が湯水みたいに有り余ってんならね。でも、そんな訳ないことくらい、お前にも想像はつくだろ」
言葉が刺さる。
冷たい。
けれど、冷たいだけではない。それは、どう足掻いても事実だった。
この人はきっと、こういうことを何度も見てきた。夢だけではどうにもならない現実を。才能だけでも、努力だけでも、気持ちだけでも届かない世界を。
だからこそ、その言葉は重かった。
「……お前の父親の話は私も聞かせてもらった」
不意に出た言葉に、肩が揺れる。
「お前がどんな思いで今までやってきたのかも、少しはな」
「…………」
「だけどな、春樹」
星歌さんは、再びPCへ視線を落とす。
その横顔は、苦い。
「父親の後ろ姿をずっと見てきたお前なら知ってるだろ。ウチのハコも基本的にノルマ制で運営してる。それはお前らの為を思ってこそのシステムだ」
「それは……」
「そうだ」
星歌さんは瞳を伏せる。
「バンドマンなんてもんは売れない。売れても、下手をすればすぐに自分の上位互換に潰されるような世界だ」
息が止まる。上位互換。
その言葉は、嫌いだった。多分、この世で最も俺が憎むもの。胸の奥で、また、黒いものがざわつく。理解したくない、受け入れたくもない、自尊心を粉々に砕くクソみたいな概念。それに、俺は何度も殺されている。
ギターヒーロー。
ひとり。
親父。──────あの日。ギターをへし折ろうとして、それが出来なくて。押し入れへ無理矢理押し込んで、全てを投げ捨てた中三の日。ギターヒーローを憎み、トイレで何度も吐いて喉奥が胃液で焼け
「これ自体は私の個人的意見もある」
星歌さんは続ける。
「でも、これは私だってお前らの苦しさを知ってるからこそだ。お前らみたいなバンドに、少しでも多くのチャンスを与えてやりたいからこそ、私はこういう形式を敢えて取ってる」
「あの時のぼっちちゃんの頼みは、彼女が貯金を全てその為に使ってくれなんて言ってきたから考えるしか無かった。あの子の気概を最大限譲歩したから、私は受け入れたんだよ」
ひとり。
あの子も、必死だった。
自分の貯金を差し出してでも、ライブに出たいと言った。それがどれだけ怖いことだったのか、今なら少しは分かる。
「分かるか? 春樹」
「これが現実だ。お前達はまだ子どもだし、頑張ってるヤツらに水を差すようなことをしたくない。泥は責任を負ってる大人の私が被ればいい話」
「だから今まで黙っていた。だけどそれを隠すなっていうなら綺麗事は抜きで言う」
「バンドを舐めんな、春樹」
「…………」
彼女の声が、低くなる。うるせぇ。黙れよ─────
舐めて、ねぇ。舐めてなんか、いない。俺は、むしろ、わかっている。
分かってんだよ。そんなこと、そんな、ことくらい。
「他のバンドはきちんとノルマを達成し、このハコを支えてくれた。その努力を、ここを背負う私が、個人的贔屓でお前らの為だけに予算を使って踏みにじる訳にはいかない」
星歌さんは一度だけ目を伏せた。それが、と彼女は小さく漏らす。
「……いくら、妹の為になるとしても、だ」
「………!!」
その言葉で、何も言えなくなった。
虹夏。
星歌さんにとって、何より大切な妹。
だけどその夢のためでさえ、この人は越えてはいけない線を越えない。絶対に、そこだけは守る。この人は大人だ。俺なんかとは違う。俺みたいな、理想しか語んねえクソ野郎とは。
俺は。
俺は、何をしようとしていたんだ。
「……分かったか?」
星歌さんは、静かに言う。
「これはもうビジネス的な話になるし、子どものお前らにはこんなこと、敢えて言っては来なかった。だけどな、何度も言うが、私はお前らに、そしてぼっちちゃんにチャンスを与えられる限界まで来てる」
「…………」
「このハコの経営はお世辞にも余裕はない。お前たちが成長するのに必要なサポートを全て用意できる訳でもない」
その言葉は、ひどく現実的だった。
夢の話をしていたはずなのに、気づけば、目の前には数字と金と時間と責任だけが並ぶ。どこまでも、それは崩せない壁そのもの。
それが嫌だった。嫌なのに、全部正しかった。
「だからこそ、改めて聞くぞ」
星歌さんが俺を見る。
「お前らの覚悟と決意は本物か? 本当にプロになりたいのか?」
「そんなの……ッッ!!」
当たり前だ、と言いかけて、口が止まる。
本当に? と。誰かが後ろから囁く。
誰の覚悟だ。
ひとりの覚悟か。
結束バンドの覚悟か。
それとも、俺の焦りか。───分からなくなる。輪郭を見失い、自分で言語化できない甘えを、彼女は見逃さなかった。
「お前、何か勘違いしてないか?」
「…………え?」
「まさかとは思うけど、お前 “が” 結束バンドを勝たせるつもりで焦ってるんじゃないよな?」
心臓が、ドクン、と嫌な音を立てた。
目を剥いたまま、冷や汗が頬を伝う。吐き気が、胃液を
「……それは」
「違うと言えるか?」
「…………───────────」
答えられなかった。
星歌さんは、腕を組んだまま、俺をまっすぐ見据える。
「あいつらのためって顔してるけどさ」
「お前が本当に怖いのは、あいつらが負けることか?」
「…………」
「それとも」
言葉が、ゆっくり落ちる。ちが、う。
「自分が何も出来ないことか?」
視界が、揺れた。周囲の視野が、著しく閉じていく。視界の端々が白くチラつく。ちがう、ちがう、ちがうちがう違うちがう。
「…………───────ぁ、あ…………」
違う。
そう言いたかった。
違う。
そう言わなきゃいけなかった。
声が、震える。喉奥が、引き締められて、首を絞められたような、そんな感覚がほとばしる。
俺は、裏方で、支えると誓った。守ると決めた、このバンドを。支えなきゃ、守らなきゃ、俺が、勝たせなきゃ、そうでなきゃ、そうでなきゃそうでなければ、俺は。
俺は虹夏のために。
俺はリョウのために。
俺は郁代のために。
俺はひとりのために。
結束バンドのために。
あの子達の夢のために。
そうだ。
そうに決まっている。
俺は、俺は、おれは、ぼくは、前に出れなくても。
あいつらなら、きっと。
なんの、ために?
だれの、ために?
だけど、その言葉の続きは、喉の奥で引っかかったまま出てこなかった。
漂白されていく思考。真っ白のなか、フラッシュバックする感情と、残った記憶の残滓が、ぼくを、うちがわからこわしていく。
守らなきゃ。まもらなきゃ。
助けなきゃ。たすけなきゃ。
支えなきゃ。ささえなきゃ。
そうでなきゃ、俺には、俺なんかには、ぼくなんかには、なんの、価値も。
何も出来ない。お前には、なんのかちもない。
その言葉だけが、胸の奥に残って。
「……そんなこと、分かってますよ」
「わかって、ま、す」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「俺だって……俺だって、そんなことくらい!!」
拳を握る。
「でも、才能が無い俺なんかに出来ることは、あくまでも客観的なことを指摘してやることだけで……ッッ!!」
言葉が止まらない。叫ぶ。
「せっかく、アイツらは……路上ライブでも着実にファンを増やしてきて、沢山の人を魅せられるようになってきたのに……!!」
あの日の光景が蘇る。
下北沢の街角。
足を止める人たち。
ひとりのギター。
虹夏のドラム。
リョウのベース。
郁代の声。
それは確かに、前へ進んでいた。
なのに。
俺だけが、あの音の中に立てない。俺は、何も。何にも。何一つ、なのに、俺は、何一つ、何も。
「ひとりは変わろうとしてる。虹夏も、リョウも、喜多も、みんな必死に進もうとしてる。なのに俺は、外から偉そうに分析して、ノート書いて、数字見て、課題を並べてるだけでッッ!!」
「俺はッッッ!!」
「何にも、なにもッ、何も出来ちゃいないんですよッッ!!」
声が弾けた。激昂は低い天井に跳ね返って、やけに惨めに耳へ戻ってくる。
言った瞬間、STARRYの空気が止まった。
自分の声だけが、残響のように残る。星歌さんを、見つめ直す。彼女は無表情のまま、何も、何一つ語らない。それが、余計に苦しい。
何も出来ない。
それは、ずっと俺の中にあった言葉だった。
───────母さん。
かあ、さん。
あの日、母さんが出ていった日も。置いていかれてしまった、あの日のことも。
親父の指が、少しずつ思うように動かなくなっていった時も。
中学で、俺自身のことを、例え話とはいえ父親の七光りだと笑われた時も。
BINDという名前で動画を上げても、誰にも届かなかった時も。
ギターヒーローの再生数が、俺の知らない高さまで飛んでいった時も。
いつだって、俺はただ見ていた。
何が出来た。
何を成し遂げた。軋んだ心、その想い。誰にも言えることなく、腐り果てた言葉。いつからか思い描いていた残像は歪に歪み、それを消し去ることすら俺には出来なかった。
手を伸ばすことも出来ずに。何かを変える力もなく。
ただ、見ていた。
だからもう、見ているだけは嫌だった。何も出来ないのは、もう嫌だった。内側から壊れていこうが、俺が俺でなくなろうが、そんなものは、クソ喰らえだった。
ひとり達まで、見ているだけで終わりたくなかった。それだけは、嫌だった。
「…………」
星歌さんは、黙っていた。
怒鳴られたのに、怒鳴り返してはこない。
睨むでもない。
ただ、俺を見ている。
それが、余計に苦しかった。
「……それだよ」
やがて、星歌さんが静かに言った。
「お前が見てるのは、結束バンドの課題だけじゃない」
「…………」
「何も出来なかった自分だろ」
「……………………………────────っ、ぁ」
息が止まった。
その瞬間、胸の奥で何かが切れた。
「…………ぁ、あんたに………ッッ」
「あんたに何が分かるんだよッッ!!」
気づけば叫んでいた。
自分でも驚くほど、声が荒かった。
手も、喉も、肩も、全部が震えている。
「最初の時から、分かったようなこと言いやがって……! 俺がどんな思いで努力してきたのかも知らないだろ!!」
止まらない。
「親父の音を毎日聞かされて、それでも追いつきたくて、何時間も何時間も弾いて……! 指が痛くなっても、声が枯れても、動画を上げて……それでも誰にも見られなくて……!」
言いたくなかった。
こんなことを、言いたくなかった。
みっともない。
情けない。
子どもみたいだ。
でも、止まらない。
「ギターヒーローみたいには、なれなかったんだよ……!!」
その名前を口にした瞬間、世界が一瞬だけ静かになった気がした。
しまった、と思った。
ひとりの顔が浮かぶ。
あの子の、嬉しそうにギターを抱える顔。
満面の笑顔を俺に向けてくれる顔。
俺を救ってくれた音。
そして、俺がかつて、どうしようもなく憎んだ光。
何も言えなくなる。
星歌さんは、しばらく俺を見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……知らねぇよ」
「全部はな」
「…………」
「お前が何時間練習したかなんて、他人は知らない」
「どんな思いで弾いてたかも知らない。動画の向こうで、お前がどんな顔してたかも知らない」
「多分興味も持たれない。それは事実で、真理だ」
胸に、刺さる。
「客は、鳴った音しか知らない」
「…………っ」
「それが悔しいのは分かる」
星歌さんは、俺から目を逸らさない。
「でも、それを全部 “分かってくれなかった奴らが悪い” にしたら、音楽じゃなくなる」
「創作はエゴだよ。所詮生きてく上ならやる必要なんかない事だしね」
星歌さんは言った。
「悔しくて鳴らしたっていい。見返したくて鳴らしたっていい。綺麗な理由だけで音楽なんか続かない」
「…………」
「でもな」
「否定された痛みだけで鳴らすなら、それは創作じゃなくて復讐だ」
その一言で、胸が抉られた。
「他人の耳まで、お前の傷の証人にしようとするな。お前の痛みを、あいつらの夢に混ぜるな」
「……っ!!」
「お前が結束バンドを大事にしてるのは分かる。それは嘘じゃないんだろうさ。ぼっちちゃんを本気で守りたいのも分かる」
「だからこそ、間違えるな」
星歌さんは、カウンターに肘を置いた。
「お前があいつらを勝たせるんじゃない」
「…………」
「あいつらが勝つんだ」
言葉が、遅れて心に届く。
「お前は支える側だろ。だったら、支える相手の足まで奪ってどうする」
「…………俺は」
「分かってるよ」
星歌さんは、少しだけ表情を緩めた。
「何も出来ないのが嫌なんだろ」
それは、さっきまでの鋭さとは違う声だった。
「私にも、少しは分かる」
ほんの一瞬だけ、星歌さんの目が遠くなった。
「向き合えばよかったと思った時には、もう遅いこともある。言えばよかった言葉も、聞けばよかった話も、あとからじゃどうにもならないことがある」
「…………」
「だから言ってる」
星歌さんは、再び俺を見る。
言葉が、鋭い。
でも、ぽいずんの言葉とは違った。
あの女の言葉は、踏みつけるための刃だった。
才能があるかないかを切り分けて、残酷に線を引くための言葉だった。
けれど星歌さんの言葉は違う。
痛い。
めちゃくちゃ痛い。でも、逃がさないための痛みだった。春樹、とまた彼女は名前を呼ぶ。
「お前が本当に怖いのは、私に見抜かれることじゃない」
「私にはわかる」
少しだけ、間が空く。
「親父と向き合うことだろ」
「ッッ─────────」
息が詰まった。
吉沢正樹。親父の、名前。
その名前を思い出すだけで、胸の奥が重くなる。
憧れだった。俺にとって、原点にして頂点の、最初のヒーローだった。幼い頃、煌めいていた、俺にとっての、全ての始まり。そして、どうしようもなく遠い背中。
同時に、俺にとって一番見たくない現実でもあった。
「なん、で」
それを、と言おうとして言えなくなる。星歌さんはそれをわかった上でなお続ける。その声色は、再び落ちる。真摯に訴える様に。
「分かる。私にはそれがな」
そう呟く彼女の声色は、再び静かに落ちていく。真摯に訴える様に。
「──────向き合えるうちに向き合え」
「こっちの都合なんか、時間は待ってくれないんだ」
「………喪ってからじゃ、何もかも遅いんだぞ」
「…………」
その言葉の瞬間、星歌さんの表情に影が落ちる。
それは、言うなれば何か、遠いものを見るような目。その意味を、俺は知らない。
だけど、そこにある感情だけは、俺にも分かった。それは『後悔』だ。
向き合おうとした時には、もう遅いことがある。
言いたかったことが、永遠に言えなくなることがある。
その意味を。
その重さを、この人は知っているのだろう。それだけは分かった。
星歌さんは、俺を見つめ返す。
そうして、真っ直ぐに呟く。
「お前が本当に結束バンドの可能性を信じてるなら、自分の一番痛いところくらい使え。そこから逃げるな」
「…………」
「頼れ。話せ。頭下げてこい」
「お前の親父だろ」
「家族から逃げてんじゃねぇよ、春樹」
その一言で、何かが完全に刺さった。心臓が止まったような錯覚を覚える。
怒りでもない。
悔しさでもない。
ただ、痛かった。
どうしようもなく、痛かった。その通りだった。
何も、言い返せるはずも、なかった。
見開ききった視界を、少しずつ落として、言おうとした怒りすら、感情ですらポロポロと壊れた部品のように堕ちていく。
「…………俺は」
声が掠れる。
「俺は……」
何を言えばいいのか分からなかった。何も、言えないまま俯く。
分かっているつもりだった。
自分のことも。
親父のことも。
音楽を諦めた理由も。
結束バンドを支えたい理由も。
でも、何も分かっていなかったのかもしれない。自分の事を、分かろうとしていた。
だけど結局それは、何ひとつとして理解できていなかったんだと、気付いた。
言うなればそれはただ、自分で思い込んだ偽物のメッキを無理矢理張り付けていただけ。星歌さんは、そんな俺をしばらく見ていた。
「…………春樹。もう、自分で自分を誤魔化すのはやめろ」
「───────………」
「裏方ヒーローだとか。自分にはそれが分相応とか、ふざけた貼り付けたような笑顔で周りに接するのはやめろ」
「自己
「自分にすら嘘をついて、自分すら殺して、仮面を被ってるような人間に、誰かを支えたい、助けたいだとかほざく奴に、誰かを守ることなんかできやしない」
「春樹」
名前を呼ばれる。また、かあさんのように、なまえを、よばれる。
彼女は、問いかける。
重なる。また、声が。もう、
「お前は、本当は何が欲しかったんだ」
「…………」
「登録者か。再生数か。親父みたいになることか。ギターヒーローに勝つことか」
一つずつ、胸の奥に落ちる。星歌さんの声が、少しだけ低くなった。
「それとも」
「たった一人でも、世界で誰か一人に “お前の音が好きだ” って言ってほしかったのか」
「──────」
何も言えなかった。
怒りが消えたわけじゃない。
悔しさも、惨めさも、まだ残っている。
でも、その言葉だけが、胸の奥の一番柔らかい場所に触れてしまった。
俺は、ぼくは、何が欲しかった。
ぼくは、ヒーローになりたかった。
それは本当だ。
とうさんみたいになりたかった。
それは本当だ。
ギターヒーローみたいになりたかった。
それも、嘘じゃない。
認められたかった。ひつようとしてほしかった。
見てほしかった。みてほしかった。
誰かに、俺の音を聴いてほしかった。だれかに、ここにいていい、っていわれたかった。
でも。
そのどれもが正解のようで、少しずつ違う気がした。
違うのに、何が違うのかもう、何も分からない。分からないことが、たまらなく怖かった。
「………分からなくてもいい。自分に嘘をついて、それをずっと当たり前にしてた人間がそう簡単にその答えを出せたら苦労なんかしない」
「だから考えろ。その答えを死ぬ気で捻り出せ」
「それは、お前にしか分からないんだ。だから言え。言えないなら考えな」
「それすら出来なくて、どうやってアイツらを支えるってんだ」
「──────お前のことを土足で踏んでる自覚はある。キレていい。キレる資格はある。でもな、私もお前の気持ちが分かる。だから言うんだ」
「大人だから。言える時に言うんだよ」
「だからいいよ。怒れよ。受け止めてやるから。それが私の、このSTARRYで輝こうとする奴らの為にできることなんだから」
「───────…………」
何かを、言おうとする。多分、俺の顔は
分かっている。分かっているんだ。これ以上、怒れるはずもない。感情的になんか、なれない。
「……ひとつ聞く。質問を変える」
彼女は、少しだけ声を戻す。
「お前は、このままの練習方法で良いのか? 限界まで考えたか? 持てるものは全て使ったのか?」
「…………」
「自分らだけじゃない。他のものも。本当に、全て」
「……全て?」
意味深な問いに、俺は、ゆっくりと顔を上げる。
星歌さんは、わざとらしくは言わなかった。
ただ、俺に気づけと言わんばかりにこちらを見ている。
「この店の常連さんたちは、お前らのことを応援してくれている。その期待を背負って、お前らはどこまでやれるのか。もう一度よく考えてみろ」
常連。
応援してくれる人。
繋がり。
脳が、その言葉を拾う。
「自分達には何が足りないのか。それを補うために何ができるのか。そして、お前らがまだ知らない可能性の全てを」
星歌さんは、そこで僅かに目を細めた。
「本当に、全て活用できているのかも。たとえば、誰かの繋がりとかも含めてさ」
「──────ッ」
その瞬間、頭の中で一人の顔が浮かんだ。
親父。
吉沢正樹。
カルテットバインドのボーカルギター。
俺が憧れて、憎んで、逃げ続けた人。
そして、今の結束バンドに足りないものを埋められる可能性を持つ人。
「……心当たりがあるんだろ」
星歌さんが薄く笑う。
やっと気づいたか、と言われている気がした。
「それなら良い。もう一度よく考えな。お前たちが本当にプロを目指したいのなら。そして、自分達の可能性を信じているならさ」
「だから言ってるんだよ、私は。ちゃんと“話せ”ってのは、そういう意味でも」
「…………」
言葉が出ない。
でも、さっきまでとは違った。
胸は痛い。喉も痛い。
自分が情けないことに変わりはない。
けれど、何も出来ないという言葉だけが、少しだけ形を変えていた。
何も出来ないんじゃない。
逃げていたから、使っていなかったものがある。
逃げていたから、向き合っていなかった人がいる。
俺は、そこに向き合わなければならない。
「……店長」
「なんだ」
「俺、行ってきます」
「どこへ」
分かっているくせに、星歌さんはそう聞いた。
「親父と、話してきます」
言葉にした瞬間、心臓が強く鳴った。
怖い。
死ぬほど怖い。
でも、言えた。
星歌さんは、ほんの少しだけ口元を緩める。
「言えるんじゃん。行きな」
「……はい」
俺は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早い。結果出してからにしな」
「……ほんと、厳しいですね」
「当たり前だろ。私は店長だぞ」
「さ。とっとと行きな。ぼっちちゃん達には黙っといてやる」
俺はそう言われて、通学バックを片手で握る。何を言うべきか分からない。どうすればいいかも定まらない。そんな状態のまま、それでも俺は階段を登り、玄関の扉のハンドルを掴む。そして、後ろを振り向く。
「店長」
「ん?」
「───────……ありがとう」
「…………ん。行っといで」
「…………行ってきます」
顔を伏せる星歌さんは再びストローを咥える。その口元が弛んでいたのを、俺は見逃さなかった。
あのひとは、母さんに似ている。
優しくて、でも厳しかった、その姿に。ほんのすこしだけ。
俺は苦笑して、そのまま静かに扉を開いた。
※
帰路に着いていた。下北沢駅へ向かう。
街路を歩む足取りは、軽くない。むしろ、さっきより重かった。
だけど、それでも。
その重さは、逃げるための重さじゃなかった。
俺は、親父と話さなければならない。
あの音と。
あの背中と。
俺がずっと見ないふりをしていた、自分の一番深いところと。
舌が、乾く。覚悟なんか決まらない。俺は弱い。
所詮、臆病者の偽り者。
恐怖心なんか、消えようもなかった。不安で、内側から粉々に砕ける恐怖に屈しそうになる。
それはきっと、俺にとっては銃口を口腔へ入れて引き金を引く行為と何も変わらない。撃鉄は常に脳内に、自らを内側からミンチのように壊すのと何ひとつ変わりはしないのだろう。
ギターを仕舞ったまま、逃げた日のこと。
俺が、軋んだあの日のこと。
俺が、歪んだあの日のこと。
だけどそれを理解すらできないまま、自分を理解することすらしないまま、自己
自分を偽り続けた者に、望む未来なんか訪れない。
明日なんか来ない。
その代償は、いつの日か必ず払わなければならない日が来る。
きっとそれは、今これからの俺に対してなのだろう。
俺は、俺自身の手によって裁かれる。溜めに溜めた
何よりも。
未確認ライオットで、結成一年未満のひとり達がグランプリを獲るという
自分の身に余る明日を、奇蹟を願うのであれば、それは相応の代償が払われなければならない。
だからこそ、それでも、だ。
だからこそ、俺はもう一度、向き合わなければならない。
あの苦悶を、あの痛みを、塞いで泣いた日々を、自らを殺したあの日すらも───
その“理解”の糧に。
前へ。俺は、俺自身を打倒する。
それでも、前へ─────明日の、未来の、為に。
※
春樹が事務室を飛び出していったあと、STARRYにはしばらく沈黙が残った。
低い天井。
まだ誰も立っていないステージ。
照明の落ちたフロア。さっきまでそこにあった怒鳴り声も、震えた息も、全部が静かに壁に吸い込まれていく。私は、潰れかけたパックジュースを指でつまみ上げた。
「…………ったく」
小さく呟く。
疲れた。心から、そう思う。
その時、カウンターの奥から、にゅ、とPAが顔を出す。
「……お話、終わりました? 店長」
「聞いてたろ、お前」
「掃除してただけです」
「嘘つけ」
私は思わずため息をつく。ったく、りんごジュースの予備どこだ。
この女は萌え袖で口元を隠しながら、くすくすと笑う。なにかおかしいんだか。その笑い方が、少しだけ腹立たしい。ふぅ、と一つ、鼻腔から息を漏らす。
「……少し、言い過ぎたんじゃないですか?」
「言い過ぎくらいでいいんだよ」
PAは春樹が出ていった扉の方を見る。私も横目でそれを眺めて続ける。
「間に合ううちに言われる方が、まだマシだ」
私の言葉を聞いたPAがそれを聞いて少しだけ表情を変えた。
僅かな間の中に、追憶がその身を晒す。星歌、虹夏をお願いね、と笑う声が、脳裏に響く。PAは静かに扉を見つめたまま、それ以上は何も言わない。
代わりに、小さく囁く。
「……春樹くん、少し見ていて危うい子ですね」
「…………そうだな」
素直に同意しかなかった。
危うい、なんてもんじゃない。アレは、時限爆弾か着火線が剥き出しになったままのダイナマイトを内側に抱えてるようなもんだな、とすら私は思う。
「あいつは真面目過ぎる。……いや、それがいけないんじゃないな」
言いながら、自分でも言葉を選ぶ。
「むしろ長所なんだろうけど、そのせいで自分で全部抱え込もうとする傾向があるんだよ。今回の件だってそうだ」
「後藤さんのことも、本当に一途に好きですもんね」
「まあな」
「────………ああいう子ってさ」
「はい?」
「真面目で、優しくて、頭も回る。だから厄介なんだよ。ああいう奴は、自分の痛みを全部“誰かのため”って言葉に包んで、平気で持ち運ぶ」
「そうやって包んで包んで、包み抜いた先には何も無い」
「…………」
目を丸くしたあと、私の言葉を聞いたPAは、こっちに向き直る。やがて、思うところがあるみたいに俯く。
「そういう奴らを、今まで何人か見てきた。だけど、何もしてやれなかった」
「もう、うんざりなんだよ。そういうのは」
「だから泥くらいなら被る。嫌われるなら嫌われればいい。ここをきっかけに、それでもそいつらが星みてーに輝けるなら、安いもんだろ」
「─────………そうですね」
PAは静かに瞳を伏せたまま、同意を示す。
これ以上ライブもなく、客も誰一人居ないガラガラのSTARRYの中で、冷蔵庫の音と暖房の空調音、スタジオの方から聞こえてくるアイツらの演奏音だけが空間に響く。
軽く息を吐く。
見てて、既視感しかなかった。世の中ってものは、ああいう人間を食い物にするのが大好物だと知っていた。それ故に、尚更最初の時から、ずっと見ていて気に障るところがあった。だから、放っておけなかった。
「店長、彼のこと気にかけてますよね」
「………別に。そんなことないけど?」
「今の話聞いてそれを誤魔化すのは無理がありますよ」
「うるさいなお前」
「そういえば、他の子達は基本苗字呼びなのに、彼のことはいつから名前で呼んでるんですか?」
「なっ……!?」
分かりやすく動揺が無意識に声に出た。耳まで熱くなる。コイツ、こういう時に爆弾を落とすの本当に。
「こ、これは別に深い意味はねぇよ。吉沢とか呼びづらい上に、ただ、なんか危なっかしい奴だからな。監視してるだけだ」
「へぇ〜?」
「なんだその顔は」
「配慮してあげてるんですか? 彼の苗字のことで」
「そっ、そんなんじゃねぇよ!」
この女は、それを聞いて楽しそうに笑う。
「ふふっ。優しいんですね」
「お前、さっきからニヤニヤしやがって……何面白がってんだほんと」
思わず顔を逸らす。
それから、ほんの少しだけ沈黙した。本音が、勝手に零れた。
「……似てんだよ」
「誰にですか?」
「さっき言った奴ら。音楽やってて、潰れた奴らに」
ぽつり落ちた声は、さっきまでよりもずっと低いことに自分でも気付く。でも、何も嘘じゃなかった。別にこいつにそれを言ったところで、何も問題なんか無かったから。
流石に、虹夏には聞かれたくなかったけど。
「飛ぼうとして、飛べなくて、それでも自分が落ちたことを認められなくて、ずっと地面で羽ばたこうとしてる奴。そういう奴を、私は何人も見てきた」
「…………」
「あいつはまだ、間に合う」
自分に言い聞かせるように。
あるいは、誰かに届かなかった言葉か何かか。その答えは自分にすら分からない。
だけど少なくとも、PAはそれ以上、何も言わなかった。
「……まあ、私にできるのはここまでだ」
机に置いてあったスマホにふと目を向け、手に取る。
メールボックスを開く。
そこには、数日前から書きかけたまままだ送れずにいた短い文面が残っていた。
宛先の名前を見て、一度だけ目を細める。
「……さて」
親指が、送信ボタンの上で止まった。
私も、人の事は偉そうに言えたもんじゃない。
人の本質を知るなら、理解をするというのならば。それを覗くというのなら、それは自分だって同じことだ。自分自身から、それを差し出さなきゃフェアじゃない。
だからこそ、私はとうとうそのメールを送る決意を固めた。
「こっちも、そろそろ動くかな」
送信。
画面の中で、その二文字だけが妙に軽く見えた。
PAは猫かなにかみたいに後ろから顔を寄せてくる。近ぇよ。
「今度は誰に余計なお節介ですか?」
「余計じゃねぇよ」
「そういうところですよ」
「お前マジでそれ以上喋ったらクビな」
「きゃー♡ こわいです♡」
「コイツ……」
猫撫で声にイラッとするけど、私はそれをスルーする。勝手に頬がにやけていることに気付いて、無理やりそれを元に戻す。そうして、静かにスマホを伏せる。
そのまま頬杖をついて、春樹が出ていった扉をもう一度だけ見た。
なぁ、母さん。
これでいいよな。私、間違ってないよな。ちゃんと、大人になれてるよな。
やがて宙を微かに仰ぐ。当然、天井は何も言わない。だからこそ、私は一言だけ呟く。
私にできるのは、ここまでだ。あとは、アイツ次第だ。
「───────………」
「…………頑張れよ」
それが誰に向けた言葉だったのか。
春樹にか。
虹夏達にか。
それとも、たった今メールを送ったアイツにか。
それはもう、自身にも、分かりそうもなかった。