ぼっち・ざ・ろっく! フラッシュバッカー   作:空山 零句

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作詞:石川智晶 作曲:梶浦由記



君の姿は 僕に似ている
静かに泣いているように胸に響く

何も知らない方が幸せというけど
僕はきっと 満足しないはずだから

虚ろに横たわる 夜でも
僕が選んだ今を生きたい それだけ

君の速さは 僕に似ている
歯止めのきかなくなる 空が怖くなって

僕はいつまで がんばればいいの?
二人なら終わらせることができる


どうしても 楽じゃない道を 選んでる
砂にまみれた靴を 払うこともなく

こんな風にしか生きれない
笑って頷いてくれるだろう 君なら

君に僕から約束しよう
いつか僕に向かって 走ってくるときは

君の視線を外さずにいよう
きっと誰より上手に受け止めるよ


君の姿は 僕に似ている
同じ世界を見てる君がいることで

最後に心 無くすこともなく



僕を好きでいられる

僕は 君に


生かされてる





-See-Saw『君は僕に似ている』-

125-0498-0








CHAPTER #62 A「君は僕に似ている」

 

 

 

 STARRYを出た時には、空はもう夕暮れに沈み始めていた。

 

 冬の陽は落ちるのが早い。

 まだ夜と呼ぶには少し早い時間帯だというのに、下北沢の街は既に一日の終わりを迎える準備を始めていた。

 駅へ向かう道の途中。古着屋の店先には暖色の灯りが点き、居酒屋の前には酒と油の匂いが漂っている。すれ違う人間たちは、それぞれ何処かへ帰っていく。吐き出された白い息が、街灯の明かりに触れては消えていく。

 

 俺も、その中を歩いていた。

 

 帰るために。

 自分の家へ。

 毎日帰っているはずの、あの家へ。

 

「…………」

 

 握り締めた通学鞄の持ち手が、掌に食い込んでいた。

 足取りは重い。

 いや。重いというか、もう何処か自分の足ではないような気すらした。

 一歩。

 また一歩。

 革靴の底がアスファルトを踏むたび、鈍い音が身体の中へ返ってくる。

 星歌さんの言葉が、まだ耳の奥に残っていた。

 

『向き合えるうちに向き合え』

 

『こっちの都合なんか、時間は待ってくれないんだ』

 

 分かっている。

 そんなことは、とっくの昔から分かっていたはずだった。

 言いたいことを言えないまま、誰かがいなくなることがある。

 手を伸ばしたところで、もう何処にも届かないことがある。

 後になってから、もっと何か出来たんじゃないかと考えても、時間は決して戻ってはくれない。

 そんなことは。─────母さんの後ろ姿を、幼い頃から何度も思い返していた俺が、誰よりも知っているはずだった。

 

『………喪ってからじゃ、何もかも遅いんだぞ』

 

「…………っ」

 

 星歌さんの言葉が刺さって、喉が詰まる。やがて歯を食い縛る。

 冷たい風が前髪を揺らし、額へ触れた。冬の空気が肺へ入り込む。冷たさが胸の奥に刺さり、内側に溜まった熱を少しずつ削っていく。

 それでも、鼓動だけは妙に速かった。

 怖い。

 心の底から、そう思う。

 何を話せばいい。

 どこから話せばいい。

 今更、どんな顔をして親父の前に立てばいい。

 親父にしか頼めない。

 それは分かっている。

 

 Quartet Bind。

 

 かつて、あの人が率いていたバンド。

 俺が幼い頃から、嫌というほどその背中を見続けてきた四人。

 音楽の世界で、確かな結果を残した人たち。

 今のひとり達に足りないものを、埋められるかもしれない人たち。それでも。

 

 俺はずっと、その可能性から目を逸らしていた。

 

 頼りたくなかった。いや。頼ってはいけないと思っていたのだ。

 親父の力を借りることは、俺自身が負けたことを認めるような気がしたから。

 結局、俺は一人では何も出来ない。

 親父の力がなければ、誰かを守ることすら出来ない。

 いつまで経っても、天才の息子。

 父親の七光り。

 

 そんな声が、また後ろから聞こえてくるような気がした。

 

「…………最悪だな」

 

 違う。負けることなんてどうでもいい。

 勝ち負けとか、そんなことは、どうでもよかった。

 この期に及んでまだそんなことを思う自分に、思わず自嘲する。

 

 何が裏方ヒーローだ。

 

 結局。

 俺は、自分の傷を見たくなかっただけじゃないか。

 ひとり達のため。

 結束バンドのため。

 守るため。

 支えるため。

 そう言いながら、自分にとって一番痛い場所だけは徹底的に避けていた。

 星歌さんに言われた通りだった。

 自分自身から逃げ続けている人間が。

 自分に嘘をつき続けている人間が。

 

 どうして一体、誰を守れるっていうのか。

 

「…………」

 

 駅のホーム。電車の窓。席に座り、思わず天井を仰ぐ。小気味よく、京王井の頭線の普通電車のリズムが響く。その度に、ゆらゆらとつり革が揺れ動いて、まるでそれは宙ぶらりんなままの俺みたいだな、なんて思う。

 それはまるで、いつまで経っても、どこか中途半端で、前に進めずにいる自分自身のようで。

 自分が本当に、堪らなく嫌になる。

 耳に馴染む走行音を聞きながら、下北沢の街を離れ、吉祥寺方面へ向かう列車の窓を眺める。窓の向こうでは、街の灯りが一定の間隔で流れていく。駅へ停まるたびに扉が開き、冷たい空気と一緒に、見知らぬ誰かが乗り降りする。

 どこか俺だけが、その流れから少し取り残されているような気がした。

 やがて、三鷹台駅で電車を降りる。

 駅前の小さな商店を抜け、神田川沿いの道へ出る。夜の水面は暗く、街灯の光だけがふわふわと揺蕩(たゆた)う。川沿いを少し歩き、緩い坂道を上っていく。

 当たり前の話だけど、下北沢の喧騒は、もう何処にも聞こえない。

 閑静な住宅街の中に、見慣れた二階建ての家が見えてくる。

 いつもの道。

 革靴の音が、妙に遠い。

 何度も通ったはずの帰路が、今日は妙に遠く感じられた。毎日帰っているはずの家なのに、どうしようもなく。

 やがて、俺は辿り着いた自宅の玄関扉を開ける。

 

「ただいま」

 

 今日は言葉は返ってこない。

 ここは、静かな家だ。昔から、この家は静かだった。

 

 ─────母さんがいなくなってからは、尚更。

 

 廊下を歩み、フローリングの軋む音が微かに響く。

 ふと、僅かに暖房の稼働音が聞こえた。俺は二階の方を見上げる。冷えた床へ靴下越しに足を乗せたまま鞄を抱え直す。そのまま、制服のまま階段へ向かう。

 一段。

 また一段。

 踏み板が、静かに鼓膜を揺らす。

 階段を昇りながら、壁に掛かった家族写真が視界の端に入った。

 幼い頃の無邪気な俺。

 黒い髪を揺らし、満面に微笑む母さん。

 今も昔も相変わらずサングラスを付けて、不器用に笑う親父。

 

「………………」

 

 三人とも、笑っている。

 

 その写真を長く見つめることは出来なかった。たちまち目を逸らし、そのまま階段を昇った。

 親父の部屋は、俺の部屋の隣だった。

 昔は、俺もよくそこへ入り浸っていた。

 音楽教室に通わせてもらっていて、そこから帰って来る日々。

 そうしてこの階段を何度も駆け上がった。

 ギターを抱えたまま、どうやったら上手く弾けるのかと俺は何度も彼へ聞きにいったのだ。その度に、母さんからは「お父さんは忙しいんだから邪魔しちゃダメよ」と諌められるも「良いじゃんかよー」と何度もワガママを言ったのを、思い出す。

 

 コードを覚えた。

 ストロークを教えてもらった。

 指が痛いと泣き言を言いながら、それでも何度も弾いた。

 

 親父が褒めてくれることが、堪らなく嬉しかった。

 

 父さんみたいになりたい。

 何度も、何度だって言った。

 何度も、何度も観客席から見上げた。その光を。

 そうだ。俺にとって、親父は、かつて何度も観客席から見上げた “憧れ” 。

 

 

 光。俺自身の未来を、照らしてくれた──── “一番星” そのものだったのだ。

 

 

 だけど、いつからだったか。

 俺は、その扉を、もう自分からは開けなくなった。

 ギターを押し入れへ仕舞った。

 

 音楽の話をしなくなった。

 練習を見てもらうこともなくなった。

 親父に教えを乞うこともなくなった。

 

 代わりに。

 

 飯は食ったかと聞くようになった。

 掃除をするようになった。

 溜まった洗濯物に文句を言うようになった。

 カップ麺ばかり食べようとする親父を叱るようになった。

 

 音楽を追いかける息子ではない。

 

 生活を回す家族として。

 父親を支える側として。────それだけが、唯一こんな自分に出来ることだと、思うようになった。

 

「…………」

 

 扉の前で、足を止める。

 前は、たまたま開いていたから彼の部屋を見つめることができた。だけど、今度は扉は閉じられていた。故に。

 この扉は、最早自分で開かなければならない。きっと、同じ光景が広がっている。三ヶ月前、ひとりとSTARRYで俺の過去について話したあの時と同じように。

 手を伸ばす。ドアノブへ触れる。

 冷たい。

 ひやりとした金属の感触が、掌から腕へ伝わってくる。

 心臓が、やけにうるさい。

 

 やめるなら、今だ。

 

 後ろで声が、また囁く。

 夕飯を作るんだ。

 いつも通りに。

 何も言わずに。

 今日も親父は、何かを書いているだろう。

 俺も何も聞かずに飯を作り、適当な冗談を言い、また明日を迎える。

 そうすればいい。そうすれば。

 何も変わらない。何も変えなくて済む。

 その時、脳裏に再び残響が届く。星歌さんの、声が。

 

『春樹』

 

『もう、自分で自分を誤魔化すのはやめろ』

 

『お前の、この世でたった一人の父親で』

 

『家族だろ』

 

『いつまでも家族から逃げてんじゃねぇよ、春樹』

 

「────────……………」

 

「…………ッ」

 

 俺は歯軋りを解く。やがて、ゆっくりと息を吐く。

 ドアノブを回した。

 ガチャリ、と。小さな音すらも、やけに大きく響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 扉の向こうには、相変わらず異様な光景が広がっていた。

 

 それは、床一面を埋め尽くすように散らばった無数の五線譜。

 一枚一枚に、細かな音符と走り書きが刻まれている。

 途中まで書かれたコード進行。赤いペンで修正の入った歌詞。

 何度も消し、何度も書き直した跡。机の端へ積み上げられた大量の音楽雑誌。付箋に塗れている。

 飲みかけの、夕焼けを吸う様に淡く輝くペットボトル。その隣には、冷め切ったコーヒー。壁には、現役時代から使っているギターやベース。そして、大量の賞状。今も丁寧に並べられている。

 そして。

 その中心に、窓際のデスクに、────いつも通り親父がいた。

 

「…………」

 

 椅子に座り。机へ向かい。

 ただ、ひたすらにペンを走らせている。窓から射し込む斜陽が、部屋全体を赤く染めていた。斜めに落ちた光が、床へ散らばった楽譜の白を焼く。

 音符の黒。

 夕陽の赤。

 長く伸びた影。

 

 それはまるで、何かの残骸のようだ、なんて思った。

 

 羽根を失った鳥が、それでも飛ぼうとして地面へ撒き散らした羽毛のようにすら、俺には見えた。

 紙の擦れる音。ペン先が五線譜を走る音。時計の秒針。暖房の低い稼働音。それ以外には、何も聞こえない。

 その背中は、昔と変わらない。

 いや。

 昔よりも、少し小さくなったような気がする。

 少し痩せた。

 肩も、以前ほど広くは見えない。

 ネープレスのマッシュの後ろ姿。短く整えた襟足とハードパーマが特徴の黒髪。そこには、僅かに白髪も混ざり始めていた。黄昏の光が反射して、その後ろ姿の輪郭が微かに白く揺れ動く。

 

 それでも。俺には、その背中が未だに、ずっとずっと巨大に見えた。

 

 幼い頃からずっと見上げてきた背中。

 追いつきたくて。

 同じ場所へ立ちたくて。

 何度も、何度も手を伸ばした。

 

 届かなかった背中。

 

 それはまるで、巨大な壁画の一部のよう。

 過去に置き去りにされた、何かの遺跡のようにも見える。

 あるいは─────修羅のようにも思えた。

 生命の限り闘って、闘って闘い続け、その身体ごと朽ちた者のように。

 音楽に救われて。

 音楽に喰われて。

 それでも、音楽を書くことをやめられない男。

 指が思うように動かなくなっても。

 ステージへ立てなくなっても。

 もはやかつてのようにギターを鳴らせなくなっても。

 

 彼はまだ、音楽を作り続けている。

 

 どうして。なんで、と俺は思う。

 どうして、そこまで─────そんなに苦しいなら。

 そんなに自分を削るくらいなら。

 

 もう、やめればいいのに。

 

「…………」

 

 でも。

 俺は、知っている。

 そんな簡単にやめられるなら。

 

 俺だって、とっくの昔に忘れられていたはずだと。

 今なら、分かる。親父の苦しみの、十分の一でも分かる気がする。

 だって、そうなれていたならば、と思うのだ。

 そうなれていたならば、音楽なんて。ギターなんて。

 ────ギターヒーローなんて。

 結束バンドなんて。

 全部、もっと簡単に、どうでもよくなれていたはずなのだ。

 

 親父の生活感に満ちたベッドの脇。

 

 そこには、古びたフォトスタンドが置かれている。

 家族三人で撮った、最後の写真。

 まだ母さんがいた頃の写真。

 親父。

 母さん。

 幼い俺。

 色褪せた写真の中で、俺達は笑っていた。

 

「…………」

 

 ─────それを見て、思う。

 彼が。

 その命を燃やしてまで、本当の自分を見失いそうになる中で。

 ここまで努力し続ける理由が、ここまでして闘い続ける理由が、今の俺なら、分かる気がした。そう。

 

 親父は、喪いたくないのかもしれない、だなんて。

 ただ、もう何も、ただ喪いたくなかっただけなのかもしれない、だなんて。

 

 そんなことを、考えずにはいられない。

 胸の奥が、鈍く痛む。俺は視線を伏せ、部屋の中へ足を踏み入れた。

 床へ散らばる楽譜を、出来る限り踏まないように歩く。

 一歩。

 また一歩。

 紙と紙の僅かな隙間へ、足を置く。

 ─────踏んでしまえればいい。無造作に散らかした親父が悪い。そう思うのに、紙と紙の僅かな隙間へ足を置いて歩く。

 

 どれだけ嫌いでも。

 どれだけ憎らしくても。

 どれだけ遠くても。

 

 この人が書いたものを、踏みつけることだけは出来なかった。

 

 指が思うように動かなくなって、かつての仲間とも同じ場所へ立てなくなって。

 それでもなお、床を埋め尽くすほどの五線譜へ向かい続ける。そんなものは努力と呼ぶには、もはや形が歪すぎる気もした。

 なのに。俺は、どこまでいっても、どうしても、その楽譜を踏めなかった。

 この人を憎み切れない自分が、酷く鬱陶しかった。

 それが余計に、腹立たしかった。ただただ、辛かった。

 

 

 

 

「────親父」

 

 

 

 

 声を掛ける。

 ペン先が止まった。

 音が消える。

 

 まるで、部屋の中だけ時間が止まったように。

 

「…………」

 

 親父は、すぐには振り向かなかった。

 書きかけた五線譜へ視線を落としたまま、僅かに何かを考えるように沈黙する。

 やがて、ゆっくりと椅子ごと身体をこちらへ向けた。

 黒縁の眼鏡。

 整えられた顎髭。

 何処か疲れたような、それでも柔らかな瞳。

 

「…………帰ったのか。春樹」

 

「────………あぁ」

 

 何を言えばいいのか分からなくなる。

 それでも。

 

「たった今」

 

 俺は一度だけ、息を吸う。そうして、呟く。

 

 

 

 

「────ただいま」

 

 

 

 

 その言葉に、親父はほんの僅かに目を細めた。

 

 

 

 

「────おかえり」

 

 

 

 

「…………」

 

 たった、それだけ。それだけのこと。

 胸の奥に何かが触れたような気がした。俺はそれを誤魔化すように、視線を床へ落とす。

 

「……相変わらず、すげぇ散らかり具合だな」

 

「そうか?」

 

「そうだよ。何処に足置けばいいのか分かんねぇもん」

 

 足元に転がっていた楽譜を一枚拾い上げる。びっしりと書き込まれた音符。修正。追記。何度も消した跡。

 

「まだ匿名で作曲提供やってんのか?」

 

「……まあな」

 

 親父は、少しだけ申し訳なさそうに笑った。

 

「クレジットされない形で編曲や楽曲提供を、ってところか。数少ない、今の俺の収入源だ。やれるものは、そりゃやるだろうさ」

 

「…………」

 

 分かっている。

 かつて、一世を風靡したバンドのボーカルギター。

 作詞家。作曲家。ギタリスト。

 吉沢正樹。

 でも今はもう、かつてのようにステージへ立つことはない。

 それでも、音楽はこの人を離さなかったのだろう。

 古い同業者たちに請われ。時には名前を出すことすらなく。

 

 今もこうして、誰かのために曲を書き続けている。

 

「今度は、誰の曲なんだ?」

 

「お前がまだ五歳くらいの頃かな。よく飲んでいた作曲家連中に頼まれてな」

 

「へぇ。あのおっさん達、まだ元気なんだ」

 

「ああ」

 

 親父は僅かに笑う。

 

「皆、もう四十代後半か五十代だけどな。俺とは違って、今も現役の奴らだよ。お前に頼みたい、つって言ってくる」

 

「……なんで、名前出さないんだよ。出せばいいだろ。悪いことじゃないのに」

 

「────俺が、嫌なんだ。気持ち的な問題さ。……まるで、俺のおかげで彼らが輝いてるみたいに思えてさ」

 

 俺は親父のそれを聞いて、何も言えなくなる。

 事実、彼のそれで飯を食わせてもらってる身だった。何かを偉そうに言う資格が、俺にあるはずもなかった。それに、何よりも。

 

「…………そっか」

 

 それを否定なんてできるほど、俺は出来た人間でもない。

 俺とは違って────その言葉を、親父は何気なく口にした。

 でも。

 僅かに俯いた横顔へ、薄い影が落ちた。

 それは、後悔なのか。寂しさなのか。羨ましさなのか。

 

 俺には、分からなかった。

 

 分からないくせに、それでも何故か、胸の奥が詰まった。拾い上げた楽譜を、そっと机の端へ置く。

 

「……飯、食ったか?」

 

「いや。まだだ」

 

「また?」

 

「今日も遅くなりそうだったし、適当にカップ麺でも食べようと思ってた」

 

「…………」

 

「お前が帰ってくるなら、何か作ろうと思っていたけどな」

 

「いつも言ってんだろ」

 

 俺は思わず、眉間へ皺を寄せた。

 

「思春期だからって、俺にそんな気を遣わなくていいって」

 

「そうか?」

 

「そうだよ。アンタ、自分で作ると栄養バランス終わってんだから。今日は俺が作る」

 

「……すまないな」

 

「どうせ飯当番、俺だし」

 

 親父が、少しだけ安堵したような顔をする。

 

「何か、リクエストあるか?」

 

「そうだな……」

 

 顎へ指を当て、暫く考える。

 

「親子丼、とかどうだ。卵まだあったよな」

 

「ん」

 

「あとは、じゃがいもで何か適当に一品頼む。お前の作るつまみも、飯も美味いからな」

 

「親父、そんな酒飲まねぇくせにつまみ扱いすんのやめろ」

 

「白飯に合うなら、大体つまみにもなるだろう」

 

「暴論じゃねーか」

 

「ハッ」

 

 そうして俺と親父は静かに、少しだけ、笑えた。

 本当に。ほんの少しだけ。

 

「とりあえず、風呂入ってこいよ」

 

 俺は床一面の楽譜を見下ろす。

 

「ずっとここにいると、気が滅入るぞ」

 

 親父は、暫く俺を見ていた。

 

「……ああ。分かった」

 

 ゆっくり立ち上がる。彼は椅子の背もたれへ掛けていたカーディガンを羽織る。ドアノブへ手を掛ける。でも、そうして部屋から出る寸前。

 

「春樹」

 

「何?」

 

「お前の方こそ、あまり無理はするなよ」

 

「…………」

 

 思わず、顔を上げる。

 親父は、扉の前で足を止めていた。

 少しだけ振り返り、こちらを見ている。

 なんで、という顔を、多分俺はしていたのかもしれない。それを見抜くように、ひとつ彼は小さく息をつく。

 

「最近、夜更けまでギターやベースを弾いているだろう」

 

「……聞こえてたのか」

 

「隣の部屋だからな」

 

「そりゃそうか」

 

「随分長いこと、触っていなかったのに」

 

「…………」

 

「何かを書き殴っている音も聞こえる」

 

 四冊のノートが脳裏に浮かぶ。

 ひとり。郁代。虹夏。リョウ。

 ───彼女達のために。

 少しでも。

 何か出来ることを増やすために、無茶無謀を通り越す勢いで作ったヤツ。

 今でも、別にそれが間違っているとは思わない。でも。

 

『お前が結束バンドを勝たせるんじゃない』

 

『あいつらが勝つんだ』

 

 星歌さんの言葉は、またそんな俺の胸に刺さる。その時、親父は少しだけ苦く笑った。

 

「……昔の俺みたいになったら困る」

 

「だから、無理はするなよ」

 

「…………」

 

 思わず見つめる。

 床を埋め尽くす楽譜。

 机の上の飲みかけの水。

 冷めたコーヒー。

 細かな書き込み。

 生活を侵食するほどの音楽。

 

 ────あんたが言うなよ。

 

 心から、そう思う。

 

「……こんな缶詰めみてぇなことしてるアンタが、それ言えたことかよ」

 

「はは」

 

 親父は、自嘲するように笑った。

 

「そうかもしれないな」

 

 柔らかい。

 でも、それは何処か寂しい笑顔だった。

 

「じゃあ、風呂に行ってくるよ」

 

「あぁ」

 

 親父が、扉を開く。これでいいのか、と思う。

 その背中を、見つめる。────違う。呼び止めなければならない。

 今。ここで。

 

 何のために帰ってきた。

 

 星歌さんに、何を言ってもらった。みっともなく、生まれて初めて大人に反抗したあの時。それを何一つ否定することなく、俺に厳しく言ってくれた言葉を思い出せ。

 自分で決めたんだろ。────もう、逃げないと。

 覚悟を決めろ。それを、今ここで示せ。

 

「────親父」

 

 声が出た。親父の足が止まる。

 扉へ手を掛けたまま、ゆっくりとこちらを振り返る。

 

「…………どうした、春樹」

 

「あのさ」

 

 舌が乾く。水分が消えて、カラカラに体が萎れる錯覚を覚える。さながら喉の奥へ、鉛の塊でも詰まっているよう。それでも。

 俺はまた、ひとつ息を漏らす。やがて、伝える。

 

「……後で、話したいことがある」

 

 その瞬間。

 親父は、ほんの僅かに目を見開く。

 

「………話したいこと?」

 

「あぁ」

 

「…………」

 

「頼みがあるんだ」

 

 一度、視線を落とす。

 でも。

 逃げずに、もう一度親父を見る。

 

「大事な、頼みが」

 

 親父は、暫く俺を見ていた。何かを察したのかもしれない。

 あるいは、何も分からなかったのかもしれない。それでも。

 やがて静かに頷いた。

 

「────そうか」

 

「…………」

 

「分かった」

 

 親父は、少しだけ柔らかく微笑む。

 

「また後でな」

 

「あぁ」

 

 扉が閉まる。

 パタン、と。小さな音が、そうしてまた響いた。

 

「…………」

 

 俺は、その場に暫く立ち尽くしていた。

 もう一度。

 親父の机を見る。

 床へ散らばった楽譜。

 書き殴られた音符。

 赤く染まった紙。

 長く伸びた影。

 

「……親父」

 

 誰もいない部屋で、呟く。

 

「まだ、こんなに」

 

 胸が締め付けられる。

 

「死ぬほど努力してんだな。アンタは」

 

 その言葉は、最早誰にも届かなかった。

 

 

 

 

 

 

 包丁が、まな板へ触れる。

 とん。とん。とん、と。それは、一定のリズム。

 鶏肉を切る。筋を切り、塩を馴染ませる。

 玉ねぎを薄く刻む。じゃがいもの皮を剥く。

 ほったらかしにしていたじゃがいもは古く、『芽』が生えていた。俺はそれを、ゆっくりと、だけど確実に切り落とす。

 鍋に湯を沸かす。手を動かしている間だけは、少しだけ何も考えずにいられた。

 

 料理は、昔から好きだった。

 

 材料を切る。火を通す。味を調える。

 順番を間違えなければ、大抵は形になる。

 音楽より、ずっと分かりやすい。シンプルだ。

 それでいて、時間を掛けて丁寧にやればやる分だけ、応えてもらえるような気がした。誰かの為にやれば、その分だけその価値は膨れる。

 何をすればいいのかが、見える。何が足りないのかも、分かる。

 塩味が足りなければ、少し足せばいい。火を入れすぎたら、次は気をつければいい。

 

 誰かに才能を見抜かれることもない。

 数字に並べられることもない。

 上位互換に殺されることもない。

 

 少なくとも、何時間掛けたところで誰にも届かない、なんてことはない。

 食卓へ並べれば、目の前にいる人間が食べる。美味いと言うか、不味いと言うか。そのどちらかだ。そうだ。

 ただ──────食べる人間が、美味いと言ってくれればいい。それだけでいい。

 

「…………」

 

 鍋の中で、出汁が静かに煮立つ。

 湯気が、目の前へ立ち上る。白く曖昧なそれは、視界を少しだけ覆って、すぐに消える。

 親子丼。

 よりにもよって。

 今日、これを作るのか。

 

 少しだけ笑いそうになる。とんだ皮肉もいい所だ、と思う。

 でも、親父のリクエストである以上、これ以外を作る選択肢は無かった。

 

「……ベタすぎるだろ」

 

 誰に言うでもなく、呟く。

 じゃがいもは、バター煮にする。頼まれたのは一品だけだったけど、少し余る。

 塩を振って、ふかし芋も作る。

 一品だけでいい。それだけでいいはずなのに、頼まれた一品だけでは足りない気がして、余ったじゃがいもまで蒸している。分かっている。

 

 でも、つい作る。昔からそうだった。

 我ながら、本当に面倒くさい。

 

 頼まれた以上のことを、していたように思う。

 誰かが困る前に、先回りしていたように感じる。

 足りないものがあるなら、自分が埋める。結束バンドのマネージャーになってからも、それは何一つ変わりはしなかった。

 それが悪いことだとは、今でも思わない。

 

「…………──────」

 

 火を弱める。虚ろな視界の中で、ふと、正面を眺める。視界の上下左右が黒く狭窄(きょうさく)する中、考える。

 鍋の蓋を閉じる。胃の奥が、少しだけ痛む。

 何もない、ということ。虚無。虚しさ。

 それは怖い。心から、怖いことだと、そう思う。

 誰かのために動く自分を全部剥がしたあと。

 

 そうした時、一体、俺には何が残るんだろうと。

 

 誰かのために、ではなく。

 人のために、ではなく。

 

 ─────自分のために、と言われても。

 

 俺には、どうすればいいかなんて、まるでわかりはしなかった。俺の人生は、ずっとずっとそうだったからだ。

 

 ギターを弾く才能もない。

 歌う才能もない。

 特別な何かもない。

 結束バンドのメンバーでもない。

 ステージへ立つわけでもない。

 

 郁代の姿を思い出す。ひとりへ思いを告げた、彼女のことを。

 俺は、確かにあの日あの時思った。郁代は、仮面を被っていた。クラスの皆が喜んでくれるような、友達から必要とされるような仮面を。

 俺には分かった。アレが、彼女なりに行き着いた『人から必要とされる』為に必要な、生きていくための(すべ)だったのだと。どうして、そう思ったのかなんて、考えるまでもない。

 

 俺も、同じ人間だからだ。

 

 郁代の姿は、言うなれば────今この世界の社会が求めているものそのものに等しい。

 常に周りに気を遣う。笑顔を振りまく。愛嬌が良い。

 理想そのものだ。

 皆、そういう存在が居れば楽だ。人間関係の潤滑油のようなものだ。

 だけど。その裏にあるものに気づける人間が、一体この世界にどれだけ居るのだろう。その裏にある苦しみに目を向けてくれる人が、どれだけ居るんだろうか。

 

 世界にとっては、周りにとっては、その裏にあるものなんてどうでもいいものだ。表さえちゃんと仕事をしていれば、誰も文句は言わないなら。

 

 気付いたとしても、都合が良いから、楽だから。

 そう言って簡単に人をキャラ付けする。格付けする。そういうものだった。

 

 気に食わなかった。

 だから俺はクラスのヒエラルキーは嫌いだった。馴染まなかった。馴染むフリだけは上手くなる一方だった。

 それに従う方が、波風が立たないから、やむなくそうしていたのだ。

 無駄に人を傷つける必要もなかったから。いつからか、ずっと。

 だからこそ郁代が、どんな思いでそれを抱えているのか、俺には分かったのだ。

 

 俺もそうだったからこそ。故に今、こうして思ってしまう。

 

 本当の俺は、一体なんなんだろうか、って。

 本当の俺は、一体何が欲しかったんだろう、って。

 

 星歌さんの問いに、まっすぐ応えられない自分が居るのだ。

 

 もしも、と考える。

 もし、ひとり達が成長して─────自分達だけで歩けるようになった時。

 俺は。

 その隣に、まだいていいんだろうか。俺は、必要とされるのだろうか、なんて。

 

「…………最悪だな。俺」

 

 また、口癖のように呟く。

 リョウみたいだな、と少しだけ思う。

 味噌汁の火を止める。その時、脱衣所の扉が開く。背後から足音が聞こえて小さく振り向く。

 

「良い匂いだな」

 

「親父」

 

「手伝うか?」

 

「風呂上がりの人間がキッチンでウロチョロすると邪魔だから座ってろ」

 

「酷いな」

 

「自炊能力終わってる人間が言えることじゃねぇだろ」

 

「それは否定できない」

 

 親父が、苦笑しながら食卓へ座る。

 俺も薄く笑って、両手に乗せた料理を運ぶ。使い古した大きめの陶器皿。そこにたんまりと載せたじゃがいものバター煮と、蒸かし芋。

 そして、大振りの男用みたいなデカい丼ぶりへ注ぐ白飯。専用の鍋を使って仕上げていた親子丼の具を載せ、静かに置く。

 汁椀(しるわん)へ、余った具材と鰹節を煮込んだ味噌汁を注ぐ。そして、オマケの沢庵(たくあん)

 湯気が、俺たち二人の間へ立ち上る。

 

「……おお」

 

 親父が、少しだけ目を見開く。

 

「一品頼んだだけなんだが。随分贅沢だな」

 

「気のせいだろ。余ったからな」

 

「……春樹らしいな」

 

「何だよ、それ」

 

「いや。褒めてる」

 

「褒めてんのかよ」

 

 少しだけ居心地が悪くなる。肩を竦めて呟く。

 

「……とりあえず、食おうぜ。冷める」

 

「ああ」

 

 二人で手を合わせる。

 

「いただきます」

 

「いただきます」

 

 互いに箸を取る。

 暫くの間、食器の触れる音だけが響いた。親父が、親子丼を一口食べる。

 ゆっくりと咀嚼する。味噌汁を啜る。俺はそれをジッと眺める。昔からの変わらない仕草。

 

「…………」

 

「どう?」

 

「ああ」

 

 親父は、柔らかく笑う。

 

「────美味いぞ、春樹」

 

「そうかい。……そりゃ良かった」

 

「本当に、料理が上手くなったな」

 

「親父の自炊が壊滅的だったからな」

 

「はは……」

 

「最初の頃、味噌汁に出汁入れてなかっただろ。味の素でもいいのに」

 

「味噌を入れれば味噌汁になると思っていた」

 

「怖ぇよ」

 

「当時は必死だったんだよ」

 

 そう言って。

 親父は、少しだけ視線を伏せた。

 

「…………」

 

 それを聞いて俺も、箸を止める。

 母さんがいなくなったあとのこと。

 親父も。

 俺も。

 

 何が正解なのかなんて、分からなかった。分かるわけなかった。分かれば苦労なんかしなかったと思う。

 

 洗濯機の回し方。料理。掃除。

 ゴミの日。学校の書類。仕事。

 音楽。家事。

 

 二人で、少しずつ覚えた。

 

 失敗もした。

 何度も喧嘩した。生活だけで精一杯の日もあった。

 それでも。

 今まで、どうにか。

 そうやって二人でやってきた。それが、この十年だった。

 

「……そうだな」

 

「大変だったもんな」

 

 そう俺は、小さく呟く。

 

「ああ」

 

 親父は、静かに頷いた。

 

 それから。

 少しだけ間を置く。

 

「…………それで」

 

 親父が、俺を見る。

 

「さっきの話というのは?」

 

「…………」

 

 来た。

 沢庵を一口齧っていたのを、口に含め、味わってから呑み込む。

 そうして、箸を置く。箸置きへ触れる音が、妙に大きく響いた。

 親父も、箸を止める。俺の言葉を待つ。

 急かさない。何も言わない。

 ただ、待っている。─────思えば、多分こういう所が似たのかもしれない、だなんて思う。親父はずっと、昔からこういう人間だった。口うるさい要素は無くて、むしろもっと喋れよとすら思った事もある。

 だけど。

 ある意味、俺にとってそれは今思えば救いだったと思う。

 

 俺は、正面を向く。親父は、ただ静かに俺を見据える。

 

「…………親父」

 

「ああ」

 

「本当は」

 

 一度、息を吸う。胸が痛い。

 怖い。

 今すぐ逃げたい。

 それでも。それでも、だ。

 

「すっげぇ悩んだんだけど」

 

「うん」

 

「頼みがある」

 

 

 

「親父にしか、頼めない」

 

 親父の表情が、少しだけ変わった。

 

「…………力を、貸して欲しいんだ」

 

「俺の?」

 

「あぁ」

 

「俺が今、マネージャーをやってるバンドに」

 

「…………」

 

「結束バンドっていうんだ」

 

 それを発して、喉から水分がなくなって、僅かに言葉が掠む。コップへ注いでいた麦茶を手に取って、喉へ流し込む。喉奥と、掌に冷ややかな感触が走って、それが俺の意識をハッキリとさせる。親父は静かに聞いていた。ただゆっくりと頷く。

 

「────今、下北沢のSTARRYってライブハウスで活動してる。四人組の女子高生バンド」

 

「四人組」

 

「あぁ」

 

 一度、視線を逸らす。

 

「俺の友達と」

 

「…………」

 

「あと、その」

 

 何故か。

 このタイミングで急に恥ずかしくなる。

 

「……彼女が、いる」

 

 親父は、珍しく目を見開いた。

 

「彼女?」

 

「何だよ」

 

「いや」

 

 数秒。親父は僅かに目を見開いた。少し、驚いたように。

 そうして。「そうか」とだけ呟く。

 何かを呑み込むように沈黙したあと。

 親父は、僅かに笑っていた。

 

「……うん」

 

「お前にも、彼女が出来たんだな」

 

「その言い方、何か腹立つな」

 

「悪い悪い」

 

「……まあ、大方予想はしてたけどな」

 

「な、なんでだよ」

 

「忘れたか? お前休日にやたらおめかししてたじゃないか。なんで俺の方が覚えてる」

 

「………………」

 

 そういえばそうだった。思わず眉を(ひそ)める。耳が熱い。

 親父は、本当に少しだけ嬉しそうだった。

 

「……話してなくて、ごめん」

 

「いや、謝る必要はない」

 

 静かに首を振る。

 

「バイトを始めたことも、バンドのマネージャーをやっていることも聞いていたけどな」

 

「…………」

 

「どんな形であれ」

 

 親父は、少しだけ瞳を細める。

 顔を伏せて、感慨深そうに。

 

「お前がまだ、バンドに関わろうとしていたことも。俺は、驚いたし」

 

 そこで。またほんの微かに、彼は小さく笑う。

 

「嬉しいものだなって」

 

「…………」

 

「やっぱり、親子なんだなって思ってな」

 

 その言葉が。

 

 胸の奥へ、落ちた。

 

 親子。

 

 温かいはずの言葉。

 

 嬉しいはずの言葉。

 

 でも。

 俺にとって、それは。

 

「…………本当は」

 

 声が漏れた。

 

「ん?」

 

 

 

「本当は、嫌だった」

 

 

 

 それを聞いた親父が、また目を見開く。「……春樹」と小さく俺の名を呟く。

 俺は、両膝に乗せていた両拳を強く握り込む。その拳が、強く震えているのが自分でも分かる。

 

「アンタに頼るの」

 

「頼っちゃいけないって思ってた」

 

 俺は、そこへ、視線を落とした。

 食卓。湯気。

 味噌汁。親子丼。

 沢庵。────じゃがいも。

 全部、見慣れたものなのに。それら全てが、やっぱり妙に遠く見える。

 

「頼る資格もないし」

 

「頼っていいはずもないって、思ってた」

 

「…………」

 

 それを聞いて親父は何も言わない。ただ粛々と、厳かに俺の言葉を聴く。

 そこで言葉が詰まる。

 口にするのが、怖い。

 

 今まで、一度も正面から言えなかった。

 

「俺は」

 

 それでも、俺は意を決して、顔を上げる。ずっと言えなかった言葉を、伝える。

 

 

 

 

 

「親父」

 

「俺、アンタがずっと羨ましかった」

 

 

 

 

 

 それを聞いた親父の表情が、止まる。

 見開かれた瞳の奥は揺れていて、俺はそこから目を逸らせない。声が震える。

 

「…………」

 

「アンタみたいに、なりたかった」

 

「昔、初めてアンタのライブを見た時から」

 

 記憶が蘇る。

 

 暗いライブハウス。眩しい照明。

 ステージを轟かせる音圧と、耳に残る程の観客の声。

 ギター。マイク。四つの色と光と共に輝くスポットライト。

 ステージの中央に立つ親父。ギターボーカルをやり続ける、親父の姿。

 俺にとって。

 世界で一番、格好良かった人。

 

 俺にとっての、世界でたった一つの────最初に憧れた光。

 

 何度救われたか。何度その輝きに生かされたか。喉が熱い。そこで唇を一度、噛み締める。俺は、続ける。

 

「ずっと」

 

「ずっと、アンタみたいになりたかった」

 

「…………」

 

「俺にとって、アンタは」

 

「一番星みたいなものだった」

 

 言った瞬間。

 目の奥が痛んだ。

 

「どれだけ遠くても、追いつきたかった」

 

「アンタと同じ場所に、立ちたかった」

 

「アンタが見ていた景色を、俺も見たかった」

 

「だから、ずっと弾いた」

 

 指先が、僅かに震える。

 

「ギターも」

 

「歌も」

 

「曲も」

 

「動画も」

 

「自分なりに、出来ることはやった」

 

「でも」

 

 息が詰まる。

 親父は、何も言わない。

 ただ。

 聞いている。

 

「…………──────なれなかった」

 

 ようやく。

 言葉が落ちる。

 

「俺には、アンタみたいな才能なんか無かった」

 

「…………春樹」

 

「自分で、自分の才能に見切りをつけた」

 

「音楽を憎んだ」

 

「アンタも」

 

 言葉が、止まりそうになる。喉が震えて、言葉の端も震えていた。

 

「…………俺を救ってくれたはずの、別の誰かの音も」

 

「全てを、世界を、憎んだ」

 

「…………」

 

「自分を憎んだ」

 

「死ぬほど」

 

 言ってしまった。

 でも、言うしかなかったもの。

 今まで、隠していたもの。ひとりには、ようやく、少しずつ話せたもの。書き換えていくと決めた、自分自身の裏切り。逃げないと、向き合うと決めたこと。

 でも、それでも、その中でもどうしても、親父にだけは、言えなかった。

 

 言ってはいけないと思っていた。

 

「だから、俺は逃げた」

 

「俺には、それが分相応なんだって」

 

「前に出る側じゃない」

 

「支える側でいい」

 

「裏方でいい」

 

「そう思おうとした。本気で」

 

「…………」

 

「でも」

 

 星歌さんの顔が浮かぶ。

 

『裏方ヒーローだとか』

 

『自分にはそれが分相応とか』

 

『貼り付けたようなふざけた笑顔で、周りに接するのはやめろ』

 

「そう、ある人に、言われた」

 

 親父が、僅かに目を細める。

 

「逃げるなって」

 

「自分の心に嘘をついて、自分を殺してる人間に」

 

「誰かを本当の意味で守ることも」

 

「支えることも、出来やしないって」

 

「…………」

 

「だからこそ、一番向き合わなきゃいけない存在に、ちゃんと向き合えって」

 

「言ってもらえた」

 

 静寂。

 湯気が、ゆっくりと薄くなっていく。

 時計の秒針は、進む。

 カチ。カチ。カチ、と、胸に響く。

 親父は、暫く何も言わなかった。

 

 堪らなく、それが怖かった。

 

 でも。やがて。

 親父は、ほんの少しだけ口元を緩めた。「────そうか」と。

 

「…………」

 

「春樹」

 

 名前を呼ばれる。

 その声が。

 何故か、少しだけ懐かしかった。

 

「お前」

 

「良い人に」

 

「─────良い人達に、会えたんだな」

 

 そう言って、親父は、静かに笑った。

 

「…………ッ」

 

 胸の奥が、軋む。

 

「うん」

 

 ようやく、それだけ返す。

 

「…………ごめん」

 

「何がだ……?」

 

「ずっと。ちゃんと、話そうとしてなくて」

 

「ごめん」

 

 親父はそれを聞いて少しだけ困ったように笑う。

 

「何を謝ることがある」

 

「でも」

 

 俺は声をあげようとする。そこで親父は小さく、そしてゆっくりと首を振る。

 

「お前なんか、俺からすれば相当手がかからない息子だよ」

 

「…………」

 

「むしろ」

 

 親父は、やがて少しだけ苦笑する。

 

「手がかからなさすぎて、心配になるくらいに」

 

「…………親父」

 

「俺がお前くらいの時なんか、もっと変につんのめっていた」

 

「今もだろ」

 

「それは否定できないな」

 

 ほんの少しだけ。

 笑いが漏れる。

 でも。

 またすぐに、親父の表情はどこか切なげに、柔らかくなる。

 

「春樹」

 

「何?」

 

「それを言うのは」

 

 一度。

 言葉を選ぶように、間を置く。

 

「辛かったろ」

 

「…………───────────」

 

 目を見開く。

 親父は、俺を見ていた。

 音楽家としてではなく。

 

 マネージャーとしてでもなく。

 

 何かが出来る人間としてでもなく。

 ただ。

 ただただ、たった一人の息子を見る目で。

 

「偉いぞ」

 

「頑張ったな─────春樹」

 

 そう、親父は、静かに言った。

 

「─────────ッ」

 

 駄目だった。

 視界が、滲む。堪らなく目尻が熱くなって、慌てて俯く。長い前髪が目元を隠す中、俺は唇を噛む。何とか堪えようとする。

 でも。

 どうにもならなかった。

 ぽたり、と。ぽたり、ぽたりと。

 涙が、膝へ落ちた。

 もう一滴。また、一滴。

 

「…………っぐ、…………っ、ぅ…………」

 

 情けない。

 高校生にもなって。

 父親の前で─────泣くなんて。

 もう、泣きたくなんか、なかったのに。

 泣かないって、決めたのに。

 

 でもそれでも、止められなかった。

 あぁ、そうか、と俺は思う。

 俺が、……………ぼくが、本当に欲しかったものは。

 

 

 これだけだったんだ、と、おもう。

 

 なにも、いらなかった。

 なによりも、たったひとつ、たったひとこと。

 

 

 

 

 

 俺は、それだけが、ずっと欲しかったんだ、って。

 

 

 

 

 

 親父は、何も言わなかった。無理に顔を覗こうともしない。泣き止ませようともしない。励まそうともしない。

 ただ。そこにいる。穏やかに顔を伏せていた。

 そうして静かに、ただ待っている。

 それを見て、どこまでも、と思う。

 

 本当にこのおっさんは、どこまでいっても。

 どこまでも、なんでこんなに、かっこいいんだ、って。

 

 強く、つよく俺はそう思わずにはいられない。俺は、ずっとあんたの真似事をしていたんだな、って。ひとりへ接していた時のことを思い出しながら考える。

 湯気は少しずつ消えていく。温かかった味噌汁の表面に、薄い膜が張り始める。

 親子丼の卵も、少しずつ冷めていく。

 時計の秒針だけが、変わらず進む。

 

 その間。

 俺は、声を出さずに静かに泣いた。ただ、ただただ泣き続けた。

 

「…………ごめん」

 

 暫くして。ようやく、言葉を絞り出す。

 

「……せっかく作ったのに、冷めるな」

 

「温め直せばいい」

 

「…………」

 

「冷めたら、また温めればいいさ」

 

「それに、冷めても美味いもんは美味い」

 

「…………そっか」

 

「ああ」

 

 それは、料理の話だった。

 でも。

 何故か、それだけではないような気がした。

 俺は袖で目元を拭う。

 顔を上げる。

 

 親父は。

 やっぱり、そこにいた。

 

「……それで」

 

 親父は、ゆっくりと言う。

 

「その子達のこと。その人のことが。……その場所が」

 

「お前、好きなんだろう?」

 

「…………」

 

 ひとりの顔が浮かぶ。

 

 虹夏。リョウ。郁代。

 星歌さん。PAさん。

 STARRY。

 あの場所で、過ごした時間。毎日。面倒で。うるさくて。眩しくて。

 それでも。ずっと守りたいと思った場所と日常と、明日。

 

「…………うん」

 

「好きだよ」

 

「大切なんだ」

 

 親父は、静かに頷く。

 

「お前は、そこを守りたくて……必死に何かを掴もうとしている」

 

「…………」

 

「だけど」

 

 親父は、俺の顔を見る。ただ厳かに、ただ静かに見つめてくる。

 

「どうすれば、それが出来るのか分からない」

 

「俺には、そう見える」

 

「…………なんで」

 

 思わず、声が漏れる。

 

「なんで、それが分かるんだよ」

 

 親父は。少しだけ、口元を弛める。眉を八の字にして、切なげに。

 

「俺と一緒だからだよ」

 

「…………え?」

 

「春樹」

 

 優しい声。また親父は、静かに微笑む。

 

「何年、お前の父親をやってると思ってるんだ?」

 

「…………」

 

「いくら俺自身が、駄目な父親でも」

 

「それくらいは分かる」

 

 

 

「お前の姿は、俺に似ている」

 

「お前はかつての俺に恐ろしく似ているんだ」

 

 

 

「お前のその速さも。無茶をし過ぎるところも、誰かを背負おうとするところも含めて」

 

「やっぱり親子なんだな、って考えずにいられない」

 

「頑張って、頑張りすぎて、全てを背負い込もうとするところまで、全部」

 

 一度、俺の目を見つめて、彼は静かに呟く。

 

「…………」

 

「なにより、その瞳もな」

 

「…………親、父」

 

 何も言えなかった。

 似ている。

 

 親父に。俺が。

 

 ずっと。

 憧れていた人。

 なりたかった人。

 なれなかったと思っていた人。俺とは違うと思っていた人。

 でも、そう思っていたのは俺だけで。同じ世界を、同じ苦しみを見ていたのだろうか。

 この人も────やっぱり、何かを守ろうとして、無理をして。自分を削って。

 

 それでも止まれなかったのだろうか。

 

 音楽に。

 家族に。

 自分自身に。

 何かを間違えて。

 それでも─────何処かへ手を伸ばし続けたのだろうか。

 

「…………」

 

 親父は、静かに息を吐いた。

 

「それで具体的には……俺に、何をしてほしい?」

 

「…………」

 

「何が必要なのか」

 

「ちゃんと、話してみろ」

 

 俺は、親父を見つめ返す。微かに視線を逸らして、唇をまた噛んで俯く。

 

「……無理を言うことになるぞ」

 

「そんなもん、聞いてから決める」

 

「多分、親父だけじゃない。他の三人にも、迷惑を掛ける」

 

「それも、聞いてからだ」

 

「…………」

 

 親父は、少しだけ笑う。

 

「どこの世界に、息子に頼られて」

 

「話を聞く前から、首を横に振る父親がいる」

 

「……金の無心なら、話は別だけどな。場合による」

 

「……しねぇよ」

 

「なら、問題ないだろ。尚更」

 

 思わず俺はそれを聞いて、少しだけ笑う。

 親父も、俺と同じ顔をして笑った。

 

「だから」

 

 親父は、そうしてまた静かに続ける。

 

「教えてくれ」

 

「お前が、どうしたいのか」

 

「そして」

 

 そこで小さく言葉を区切る。ひと呼吸おいて少しだけ、瞳を細める。

 

「その子達が、何者なのか」

 

「何故、そこまでお前が入れ込んでいるのか」

 

「その人達のために」

 

「お前が、何をしたいのか」

 

「…………」

 

 脳裏に。

 一人ずつ、顔が浮き上がる。

 ゆっくりと目蓋を閉じていく。その裏に浮かぶ姿。

 いつも明るく。

 誰かの背中を押し続ける虹夏。

 マイペースで。

 言葉数は少ないくせに、誰よりも本質を見抜くリョウ。

 眩しい笑顔の裏で。

 誰かを支えるために、自分自身と向き合おうとする郁代。

 口は悪い。

 でも、誰よりもSTARRYと虹夏達を守ろうとしている星歌さん。

 そして、一番、守りたいと思う人。

 

 こちらを、振り向く少女。

 

 桜のように揺れるピンク色の髪。青い瞳。不器用な笑顔。

 人と話すことも。

 人前に立つことも。

 自分を信じることすら苦手で。

 それでも。

 ギターを持った時だけは─────誰よりも眩しく。

 

 誰かの夜を切り裂くように、世界を照らすように音を鳴らす少女。

 

 ──────後藤ひとり。

 

「…………」

 

 胸の奥が、少しだけ温かくなる。

 

 痛みは、消えない。消えることは無い。それは、生涯背負うべきものだからだ。

 苦しさも。悔しさも。嫉妬も。情けなさも。

 全部。まだ、ここ胸にある。だけど、それでいいとひとりは教えてくれた。

 だってあの子は、そんな俺自身を大好きだと、愛してると言ってくれた。

 同じ世界を見てくれる君がいる。俺はもう、独りじゃない。皆がいる。

 ─────ひとりが、いる。

 確信を持てるのだ。

 きっと今の俺なら、心を無くすことなく、歩いていられるって。

 

 だから、守ると決めた。彼女を、みんなを、この命に代えても。

 

 だからこそ今は。

 話せる気がした。少しずつなら。

 

 この人へ。

 

「…………長い、話になる」

 

 俺は、静かに言う。目蓋を微かに開いて、顔を上げながら。

 

「それでも」

 

 一度、息を吸う。

 

「聞いてくれるか?」

 

 親父は。

 何も迷うことなんてないみたいに、静かに頷いた。

 

「ああ」

 

「全部聞く」

 

「…………」

 

「ゆっくりでいい」

 

 静かに。でも、確かな声で。

 

「俺は、ここにいる」

 

「ちゃんと、聞くから」

 

「…………っ」

 

 またそう言われて、少しだけ、目の奥が熱くなる。

 でも、もう今度は、泣かなかった。

 俺は。

 親父の目を見て、はっきりと告げる。一度、僅かに、口元を緩めて。

 

「────俺の」

 

「大事な友達たちと」

 

「…………守ってやりたい」

 

「たった一人の彼女の話を」

 

 それを聞いて親父は、柔らかく笑う。そうして、続けた。俺の視線を外すことなく、約束を交わすように。きっと、誰より上手に受け止めようとしてくれる。

 そう、確かに思えるほど────不器用で、優しい笑顔のまま。

 

 

 

「………あぁ。聞かせてくれ」

 

「お前の、大事な物語を」

 

 

 

「…………うん」

 

 

 

 冷めかけた食卓の上。

 後ろの窓から射し込む黄昏と共に揺れる湯気だけが、もう一度、静かに立ち上ったような気がした。

 

 

 

 

 

 










祝福と書いて、人はそれを時に『呪い』と読みます。

呪いと書いて、人はそれを時に『祈り』と読みます。


正樹と春樹は、よく似ています。
ひとりと春樹は、よく似ています。


誰かを愛する時の姿勢が似てるって、いいよね。




 ココ最近仕事が忙し過ぎて全然更新が進まず申し訳ないです。
すみません、前前々回辺りに短くする的なこと言ってましたが無理でした。内容が内容的に切れるところがあるはずも無く。

 というかなんならこの回は本来単体だけにするつもり&別タイトルでした、が。

 書いてくうちにこの回がこのぼっち・ざ・ろっく!フラッシュバッカーにおいて余りにもデカすぎる回だと改めて気づき、今回のタイトルに変え、敢えてA/B形式の別タイトルを久々に復活させました。

 次回Bのタイトルが本来の予定のタイトルです。
 いよいよコミケも近付き、絵も進めつつなので更新は一週間以上空くかもしれませんが、お楽しみ頂けたら嬉しいです。また感想や高評価頂けると泣いて喜ぶのでお願いします。それでは!


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