作詞:樋口愛 作曲:草野華余子
編曲:三井律郎
あのバンドの歌がわたしには
甲高く響く笑い声に聞こえる
あのバンドの歌がわたしには
つんざく踏切の音みたい
背中を押すなよ
もうそこに列車が来る
目を閉じる 暗闇に差す後光
耳塞ぐ 確かに刻む鼓動
胸の奥 身を揺らす心臓
ほかに何も聴きたくない
わたしが放つ音以外
不協和音に居場所を探したり
悲しい歌に救われていたんだけど
あのバンドの歌が誰かにはギプスで
わたし (だけが) 間違いばかりみたい
目を閉じる 暗闇に差す後光
耳塞ぐ 確かに刻む鼓動
胸の奥 身を揺らす心臓
ほかに何も聴きたくない
わたしが放つ音以外
いらない
背中を押すなよ
容易く心触るな
出発のベルが鳴る
乗客は私一人だけ
手を叩く わたしだけの音
足鳴らす 足跡残すまで
目を開ける 孤独の称号
受け止める 孤高の衝動
今 胸の奥 確かめる心音
ほかに何も聴きたくない
わたしが放つ音以外
-結束バンド『あのバンド』-
760-8387-0
※
人間、そんなすぐに変われはしない。
そんなことを、俺は思う。
少なくともそれは、十六年間生きてきた俺にとっての答えに等しかった。
翌日。閉店後のSTARRYには、まだ客の熱が薄く残っていた。
そこは、いつも通り、さっきまで人の声があった場所だ。
グラスの縁が触れ合う音、低い天井に
扉が開いて、閉じて、外気が入り込むたびに揺れていたこの場所の空気が、営業が終わった途端に少しだけ輪郭を変えていた。
静かになる、というよりは────およそ、音が沈む、といった方がいいかもしれない。
やがて、片付けきれなかった椅子の脚が床に擦れる微かな音。
アンプの奥に残った熱が、ステージの暗がりの中でまだ眠りきれずにいるような、そんな気配。
俺はその空気の真ん中で、ステージ前に置かれた机に両手をつき、バイトが落ち着いて集まった四人の顔を見回していた。
ひとり。虹夏。リョウ。郁代。
いつもの四人だった。
けれど、今の俺から見るその四人は、昨日までとほんの少しだけ違って見えた。いや、違っているのは、きっと俺の方なんだろう。
昨日、俺は親父に頼った。
ずっと避けていた。
ずっと言えなかった。
ずっと、喉の奥で骨みたいに引っかかっていた言葉を、ようやく口にした。
羨ましかった。
あんたみたいになりたかった。
どうして俺じゃ駄目だったんだ。
助けてほしい。
親父にしか、頼めない。
言ってしまえば、たったそれだけの言葉だったのかもしれない。
でも、俺にとっては十年以上かけても飲み込めなかった鉛みたいなそれを、昨日ようやく吐き出した。吐き出したあとに、胸の奥が軽くなったかといえば、そんな単純な話でもない。
むしろ、痛みはまだそこにあった。
無くなったわけじゃない。消えたわけでもない。
ただ、独りで握り潰していたそれを、ようやく誰かの手のひらの上に置けただけだ。
それでも、昨日よりは息ができる。
だからこそ、今日、こうして俺はこの場にいる。
※
「……あっ……あの、どうしたんですか? 春樹くん。あっ改まって全員でミーティングなんて」
そうしてひとりが、おずおずと俯きながら俺を見上げる。
長い前髪の奥で、彼女の瞳がほんの少しだけ揺れていた。いつも通り不安そうで、でもいつも通り、ちゃんと俺の声を待ってくれている。その視線を受け止めて、俺は小さく息を吐く。
「……まあ、ちょっとお前らに大事な話があってな」
できるだけ柔らかく笑ったつもりだった。片手を腰に添え、何から話したものか悩む。俺の声がいつもより少し硬いのは、たぶん四人にも伝わっていたと思う。机を囲んだ空気が、ゆっくりと引き締まっていく。
奥の事務室では、星歌さんがまだ事務作業をしているはずだった。彼女には、後々事情を話すとする。あの人には、今この状況に混じってもらうより、後で個人的に話した方がいい気がした。たぶん、大方察しはついているだろうし。
そして、PAさんは今日は休み。だから今、このフロアにいるのは俺たちだけだ。
……いや。
正確には、もうすぐ違う。スマホの重みが、ポケットの中でやけにはっきりと存在を主張している。
俺は、ひとつ、小さく息を漏らす。
そうして、ゆっくりと彼女達を見つめながら呟いた。
「……みんな、こないだの路上ライブお疲れ」
「それぞれの課題、良い感じに改善してきてる?」
まずはそこから入る。
いきなり本題を叩きつけるには、あまりにも重すぎる話だからだ。
「うん! 完璧では無いけど、だいぶ春樹くんのノート効いてるよ!」
「悪くないかも。虹夏に同じく、私も参考になってる。ほんと、春樹もあんな具体的な指摘……よく出てくるね」
虹夏はブイブイ、と得意げに指をチョキにする。
一方のリョウは気怠そうにしつつもどこか緩んだようにも見える無表情でそれぞれこちらを見つめ返す。俺は思わず、そんな二人へ苦笑する。
「まあ、ほら。一応それぞれの楽器の知識は、俺もある程度有るからさ。多角的な視点ってやつだよ。ていうか、そこに関しては、特に郁代はだいぶ苦戦してたけど、大丈夫か?」
俺の隣にひとりが座り、その更に隣へ座る郁代は横髪を耳へ掛けながら、少し照れたように笑う。
「えっ、あっ……そうね。良い感じだと思うわ! 春樹くんとごととりちゃんのおかげで……」
「そっか、そりゃよかっ………」
そこで、俺の言葉が止まった。
「………」
「…………ごととりちゃん?」
誰?
まさか。
まさか、とは思うけど、ニュアンス的に。
「……まさか、ひとりのこと?」
俺が白目になりながらそう問い掛ける。するとそれを聞いたひとりも、郁代の隣でまた何とも言えない顔で白目になり、小さく頷く。
「あっはい、………多分」
「多分なんだ……」
絶句しながら見つめ返す。
いやどういうことやねん。名前の呼び方からして無理矢理『後藤さん』と呼ぼうとして『ひとりちゃん』が混じってるみたいなニュアンスはなんスかね。
ひとりはあたふたし、しどろもどろになりつつ事情を俺の方へ話そうとする。
「じっ実は、ついこないだ、喜多ちゃんがもっと私の内面を知りたい、歌詞への理解を深めたいからって家へ遊びに来てくれたことがあって」
「そっ、そのときからあんな感じなんです。なんでなのかは、わっ、分からないんですけど」
「内面を知りたいって理由で家に行くのもだいぶ強いな……? まぁ、あながち歌詞の理解を深めるためってんならノートにも似たような事は書いたけどさ……」
「あははっ、まぁ……私も春樹くんに言われた言葉で結構悩んでたところあったから、それも相まってなの」
郁代がそれを聞いて苦笑いを浮かべる。
心
「ねっ、ごひとりちゃん!」
「………………アッ、ハイ……」
郁代は満面の笑みをひとりに向ける。それだけ見れば一見いつも通り、親友の様な距離感。はず、が。
またなんか名前が変形している。なんか微妙に『ひとりちゃん』に戻りかけているような。にしては、その笑顔がどこかなんとも言えない距離の遠さを感じさせるのは何故なのか。
そうしてひとりは郁代から微笑みかけられると、更に身体をビクンと痙攣させて「アッ……アッ……」と呻きつつ、顔面崩壊しながら天井を仰ぐ。こわい。
「……」
ほんとマジで大丈夫かこのバンド。
毎回思ってるけど、結束とは。
「とっ、とうとう私と喜多ちゃんを繋ぎ止めるものがヒト科だけに…………」
やがてそう呟くひとりの顔が、ぐにゃりと崩れた。目のパーツがぽろりと落ちる。うそやん。
「……」
「……………………ソッカァ……」
俺は一度、天井を見た。
ライブハウスの天井はやっぱ低い。低いくせに、今だけは妙に遠く見えた。
帰りたい。
もう、突っ込んだら負けだ。俺の中にいる冷静な俺が、白旗を振っていた。
「あっごめんなさい、話脱線しちゃって……」
ひとりが慌てて目のパーツを拾い上げる。拾い上げて、何事もなかったかのように元の位置へ戻す。何事もあったよ。めちゃくちゃあったよ。というかなんで当たり前のようにパーツくっつけてんだよ怖いよ。
「あっ、そ、それで話っていうのは……?」
「…………うん、まあ話ってのは……」
俺は苦笑しながら、もう一度息を整えた。
空気を戻す。
笑えるやり取りは大事だ。いつもの彼女たちらしさに少しだけ救われたのも本当だった。
でも、ここから先は、冗談だけで済ませていい話じゃない。だからこそ、俺は真剣に返す。
「…………ひとりたちに、一応確認で聞きたい」
「今のお前らは、多分現時点でも相当ハードなスケジュールをこなしてる」
それを聞いた四人の顔つきが静かに変わる。
「……こないだみたいな期末試験のこともそうだし、路上ライブも含めたら単純に練習量は三ヶ月前のほぼ倍。正直、相当キツいと思うんだ」
「まあ……実際めっちゃハードではあるよね」
虹夏が腕を組み、苦笑を浮かべる。その苦笑いには、少しだけ疲れの色も混じっていた。
彼女はいつも明るい。けれど、明るいから疲れないわけじゃない。
当たり前の話。この子達は別に、まだそれに慣れているプロのミュージシャンって訳じゃない。普通の女子高生なんだから。
リョウがそのうえで、話を促すようにこちらを見つめ返す。
「……うん、それで?」
俺は机から手を離し、問い掛けてきたリョウも含め、一人一人の目を見る。
「………まあ、その上で話を続けるとな。……相当、負荷をかけてることは、無論俺もよく分かってる。そのうえで聞きたいんだ」
「………」
皆、そこで微かに口元をキツく結んでいた。
ひとりは緊張している。
虹夏は身構えている。
郁代も不安と期待の合間で揺れている。
リョウはやっぱりいつもの無表情のまま、けれどいつもより少しだけ目の奥が真剣だった。
その四人を前にして、喉の奥が少しだけ乾く。生唾を呑み込む。
───────俺は、また先回りしていないか、と。
俺はまた「この子たちのため」と言いながら、自分の不安を押し付けようとしていないか。俺は、また神様の真似事をしようとしていないか。
昨日、星歌さんの言葉が何度も頭の中で鳴っていた。
『お前があいつらを勝たせるんじゃない』
『あいつらが勝つんだ』
やがて目蓋を少し伏せて、そうして再び面を上げる。
そうだ。
だから、だからこそ俺は問い掛ける。決めるのは、俺じゃない。
ひとり達だ。
ひとり達であるべきなんだ。もしも、と俺は問い掛ける。
「もしも、だ。………今よりも、仮にもっと上手くなれるとしたら、ひとり達は、コーチングを希望するか? このキッつい中でも」
「………!」
その瞬間、四人が静かに、だけど同時に顔を見合わせた。そして小さな沈黙が落ちる。
「─────…………」
それは不安の沈黙というより、言うなれば音が鳴る前の空白に似ていた。
まるで誰かが最初の一音を鳴らすのを待つ、あの独特の間のように。
「………もし、仮にそれを望むなら?」
やがて、最初に口を開いたのは、さっきと同じようにリョウだった。
相変わらずの頬杖をついたままの姿勢。なのに、その瞳だけは真っ直ぐ俺を見ている。
逃げられない目だった。それは、もう半年近く一緒に居て理解したリョウの癖。こいつはこういう時、ちゃんと核心だけを拾ってくるものだ。
俺は、静かに頷いて、ポケットからスマホを取り出す。
「──────実は、それを頼める『人達』を見つけたんだ」
言葉にした瞬間、無意識にそれを硬く握り込む。その端末が、再び掌の中で重くなった気がしてならない。
俺がリョウへそう言葉を返すと、途端に虹夏が机へ身を乗り出す。
「え!? ど、どういうこと!?」
「あ、あたしも正直、頼める人を探そうか悩んでたくらいだったのに、それってつまり……先にもう春樹くんが見つけてくれたってこと……!?」
それは彼女らしい反応だ。
無理もない。これもまた、一緒に居て知った虹夏の癖。驚きよりも先に、状況を掴もうとする子だ。
「まあ、そういうこと」
もう一度頷き返して、だけど俺はすぐにゆっくりと首を振った。
「……もちろん無理強いはしない。やるのはひとり達だ」
「どうするかも含めて、四人で決めて欲しい。でも、俺としては────出来るなら、やってみてほしい。そう思ってる」
喉の奥に熱が灯る。ひとり達へパスをする。でも、そこにはちゃんと俺の本音も混ぜる。そこまで言ったところで、俺は再び思う。
昨日、親父と向き合ったばかりの俺が、こんなことを言っているという事実。それそのものに、自分でも少しだけ眩暈がしそうだった。
でも、それは嘘じゃない。
紛れもない本心そのもの。だからこそ、と俺は考えるのだ。
息を整える。微かに酸素を鼻腔から取り込んで、そしてひとつ、吐息をつく。
「保証する」
「……!」
意を決して放ったその言葉に、四人が俺を見る。
「その人達に応えられるくらい練習に励めるなら、ひとり達は七月までに、必ず今よりも圧倒的にレベルが上がる」
「そう断言出来る─────誰よりもその実力を保証できる講師たちを、俺は連れてきたんだ」
自分の言葉が、少し震えているのが分かった。
情けない。
でも、仕方がない。
俺は今、自分の一番痛い場所を、この子たちの未来のために差し出そうとしている。星歌さんの言う通りに。
「たっ、
「え、まさかあたし達全員分!? そ、そんなお金、あたし達用意できないよ!? 大丈夫!?」
ひとりが目を白黒させ、虹夏が顔色を変える。
虹夏の反応は本当に彼女らしかった。夢を見る時ですら、ちゃんと現実の財布を見る。だからこそ、彼女はこのバンドの背骨でいられるんだろうな、と、思う。
「大丈夫。そこは、心配しないで欲しい」
「……で、でも……ほんとに大丈夫? 春樹くん」
重ねてそう聞いてくる郁代も、ひとりや虹夏同様に俺を見る目に心配を浮かべていた。
リョウは何も言わない。ただ、じっといつもの無表情のまま俺を見つめるだけだ。
大丈夫。
そう言い切るには、まだ少し怖かった。それは本当のことだ。
でも、怖いままでも進めることを、俺は昨日知った。
いや。違う─────本当はずっとわかっていたんだ。俺はずっと、目を背けていただけだったんだから。
でも、いつまでもそうしてるわけにはいかない。
そのために、前に出るためには、差し出すべきものがあるんだと─────それを、背中で示してくれた子がいる。
今俺の目の前にいる、この子。
ひとりと、目が合う。
「……………」
「……………!」
彼女とは、出会った頃と違って、もう今では当たり前のように目を見て話せるようになった。
ひとりはどこか不安そうに、切なげにこちらを見つめ返してくる。
それを愛おしいと思う反面、俺は別のものを彼女から見出す。
三ヶ月前のあの日、フライヤーを片手に未確認ライオットへ参加を宣言したひとりの姿。その前日に、俺へ決意と迷いのない瞳を向けてきた彼女の表情。
俺は、それをずっと明瞭に覚えていた。
忘れられる訳がない。その姿を、守りたいと思ったから俺は今ここにいるようなものだ。
────────怖かったはずだ。
怖くないはずがない。本来であれば、こういう状況を一番怖がるのは性格上、ひとりのはずだ。例えば、虹夏達が先にあの場で参加を表明してたら、それをかつてのひとりだったら拒んだって何らおかしくなんかなかったはずだ。
だけど。
それどころか、実際にはひとりは自分の意思で参加を望んだ。
出会ったばかりの時とは、いつかのリョウが言っていた通り、間違いなく彼女は変化していた。
この子は、明確に成長している。自分で自分の何かを、壊そうとしている。
それを、俺はずっと見てきた。
付き合ったあの日から、郁代と言葉を交わした時から、二人で過去を含む本当の事を話したあの時から。
彼女が教えてくれたんだ。
怖くたって、進んでいいんだ。前を向いていいんだ、って。
彼女はきっと、自分なんかと言うかもしれない。だけどずっとこの子はそうだった。言葉や普段の姿だけじゃあまりにも頼りないかもしれない。それでも。
それでも────俺にとっては、後藤ひとりはヒーローだ。
だからこそ、俺は。
かつての俺には言えなかったはずの言葉を、真っ直ぐにひとりへ返す。
「……大丈夫」
「俺を、信じて。ひとり、みんな」
「………はっ、春樹くん……」
ひとりが目を見開く。虹夏達も押し黙る。
その反応を見た瞬間、胸の奥が少しだけ痛む。
俺は、どれだけこの子に信じてもらってきたんだろう。
その信頼に、どれだけ救われてきたんだろう。
人間、そんなすぐに変われはしない。
そんなことを、俺は思う。
少なくともそれは、十六年間生きてきた俺にとっての答えに等しかった。
でも、それなのに。
それでも今こうして、ようやく俺の方から「信じて」と言えるようになったのだとしたら。
それは、随分、遠回りをしたものだと。─────そんなことを俺は思う。
「その人達はな。……何の因果か、運命か。全員……ひとり達それぞれに対応する楽器を持った人達で────」
そこで言葉を切る。
胸の奥で残響のように残るのは、幼い日に眺めた “一番星” の姿だ。
テレビ越しに見たステージ。あるいは、観客席から眺めた、ライブハウスのステージ。
家の中で聞こえたギターの音。煌びやかな輝きと共にその姿が
ドア越しに聞いた、大人たちの言い争う声。そして昨日、俺の目の前で静かに笑った親父の顔。
俺は、一呼吸置いてから呟く。
ある意味、と。
「……………俺達に相当縁があるバンドだ」
「…………!? そ、それって、まさか!!」
郁代が、その瞬間、何かに気付いたように目を丸くする。
そうだ。彼女は賢い。だからもうきっと、俺が何を言おうとしてるか気付いたのだろう。俺も、もうこの時点でこの子達なら気付くだろうとは思っていた。
何せ、この場所で、俺は実際に彼女達が居る目の前で何度もその名前を発しているのだから。
だけど、それでも俺は、今は敢えてその名前をまだ口にしなかった。
これは俺が紹介するだけの話じゃない。
「──────決めてくれ。ひとり、虹夏、郁代、リョウ」
「………やるか、やらないか。ここで、俺に示してくれ」
沈黙が落ちた。
四人がまた、お互いを見る。その一瞬が、俺にはやけに長く感じた。
───────心臓の音はうるさい。
自分で提案しておいて、本当のことをいうと、俺は怖かった。断られることが怖いんじゃない。
彼女たちが無理をすることが恐い。
俺の言葉で、彼女たちが自分の限界を見誤ることが怖かった。俺にできるのは所詮ここまでだから。
でも、それでも。
ここで引き下がることは、もっと違う気がした。
最初に顔を上げたのは、ひとりだった。
「…………はい。大丈夫です」
声は、小さかった。
でも、震えていなかった。
「……! ひとり」
俺は、思わず彼女の名前を呼んでいた。
いの一番に、ひとりは真っ直ぐ俺を見ていた。
前髪の奥の瞳に、もう逃げるための暗がりはない。もちろん、怖さが消えたわけじゃないんだろう。この子の怖がりな部分は、簡単には無くならない。
でも、それでも。
その怖さごと、前に出ようとしている。また、あの時と同じように。
──────あぁ、と俺は納得した。
やっぱり君は、本当に強くなったんだな。
そんなことを、ふと思う。
そうして俺が微かに頬を弛めると、続いて虹夏が意気揚々と笑う。
「……うん! お金のことだけ心配だし、それ次第ではあるけど……あたしとしては方向性は大賛成! あたしがお願いしたかった練習相手の人も忙しいみたいだし、講師を他に頼むのも難しいしね!」
不安を飲み込んだ上で、それでも笑ってみせるかのように。
ああ、この子も本当に強い子だと思う。強いから折れないんじゃない。折れそうになっても、誰かの前では灯りを消さないようにする子だ。
「………異議なし。どちらにせよ、未確認ライオットで結果を出す為に練習するのは当然だし。……スケジュールは、調整し直せばいいよ」
リョウも、俺と同じように口元だけを緩める。淡々としているくせに、その言葉には火があった。あの日、不安を漏らしていた時とは、もう今の彼女は違っている。
「…………私も!! この中じゃ、一番まだまだかもしれないですけど、もっと、私も上手くなりたいんです! 皆さんと、一緒に!」
郁代が、同意を示すように歯を見せて笑った。
その明るさは、やっぱり眩しい。
けれど今のそれは、ただ場を照らすだけの光じゃない。自分で進もうとする人間の光。郁代の言葉を聞いて、虹夏ははにかむ。そして、俺の方へ向く。
「ふふっ! そうこなくっちゃ!! ってことで、あたし達はだいじょーぶだよ! 春樹くん!!」
「………みんな……」
胸の奥が熱くなる。
俺が用意したのは、ただの道だ。
歩くかどうかを決めたのは、この子たちだった。
みんな、変わろうとしている。あの日あの時、ライター女に言われたことを胸に、自分達なりにもがいているんだ。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
「──────………分かった。本気なんだな」
改めて、一人一人の目を見る。
四人全員が、自分のペースで頷く。
なら、もう迷わない。
俺はポケットからスマホを取り出し、通話アプリを開いた。
画面に表示された名前を見た瞬間、指先がほんの少しだけ止まる。
昨日までなら、その二文字を見るだけで胸の奥に棘が刺さった。
でも今は違う。
刺さる痛みはまだある。
それでも俺は、皆となら─────その痛みの向こうへ手を伸ばせる。
通話ボタンを押す。
コール音は、ほとんど鳴らない。ワンコールで、まるで俺の答えを待っていたかのように通話が始まる。
「覚悟は決まった。皆、入ってきてくれ」
それだけ告げて、通話を切る。
「……え?」
俺を見つめていたひとりの声が、やけに小さく響く。
次の瞬間。STARRYの入口の扉が、ゆっくりと開いた。
※
ぎぃ、と低い音が、閉店後のライブハウスに染み込んでいく。
その音はまるで、ずっと閉じていた古い譜面が、今になって再び開かれる音のように。
階段の上から、タン、タンとゆっくりと足音が降りてくる。
一つ。
二つ。
三つ。
そして、四つ。
俺は無意識に息を止めていた。
「────やぁ。結束バンドの皆さん。初めまして」
最初に現れたのは、黒いジャケットを羽織った中年の男。
歳を重ねているはずなのに、背筋は不自然なくらい真っ直ぐだった。
黒と白で纏められた服装は派手ではない。けれど、ステージの明かりが落ちたSTARRYの中でも、そこだけ空気が一段深く沈むような存在感が確かに在る。
黒髪で強めのパーマ。丸みのあるラウンドフレームの眼鏡。
穏やかそうな目元。けれど、その奥にあるものを知っている俺には、その人がただ柔らかいだけの人間じゃないことが痛いほど分かる。
親父、───────吉沢 正樹。
「『Quartet Bind』────ボーカルギターを担当し、このバンドのリーダーも務めていた………吉沢 正樹だ」
「…………………………え?」
その名が落ちた瞬間。四人全員が、小さく驚きの声を漏らす。
STARRYの空気が、明らかに変わった。
「………えっ、うそ、ホンモノ?」
最初に反応したのはリョウだった。
頬杖をついていた手が、するりと落ちる。いつも半分寝ているみたいな目が、これ以上ないくらい見開かれていた。
「………え、ぇぇえええぇぇえ!?」
虹夏が立ち上がる。椅子が床を鳴らす。
その顔は、完全に理解が追いついていなかった。
「えっ、えっ、ええっ!? は、は、春樹くん、これ、どういう!?」
郁代が慌てて俺へ目を向ける。
ひとりは、口を開けたまま完全に停止していた。
たぶん、脳内で何かが爆発している。未確認ライオットどころじゃない。未確認ビッグバンくらいは起きてる。
「落ち着けよ、みんな。……おっさん方、挨拶頼むよ。この子達、ビビっちまってるからさ」
俺は苦笑しながら、親父たちへ視線を向ける。
こうして並んでいる姿を見るのは、いつ以来だろう。
記憶の中では、彼らの姿はいつももっと大きかった。子どもの頃の俺にとっては、Quartet Bindはテレビの中の光で、ポスターの中の星で、ずっと親父に手を引かれて見上げた大きな四つの背中でしかなかった。言うなれば、親父の背中を中心とした、向こう側にある遠い世界そのものだったのだ。
なのに今、その四人がSTARRYの床を踏んでいる。
俺が、呼んだ。俺が頼んで、親父が集めてくれた。
その事実が、今さら胸の奥でじわりと滲む。
「……はっは、まぁ無理もないよな。驚くのも。………こうして、俺達全員が揃うのも、ひさしぶりだからな。なぁ?」
親父が目を細め、背後の三人へ声を掛ける。
その横から、一人の男が階段を降りた。
爽やかな表情。立ち上げられた前髪。横を短く整えた清潔感のある髪型。歳は重ねているはずなのに、笑うとどこか少年みたいな軽さがある。
「………あぁ。皆さん、初めまして。おれはQuartet Bindのドラムを務めていた────藤沢
それに続いて、茶髪気味の柔らかい雰囲気を持つ男も軽く会釈する。
清潔感のあるナチュラルミディアムショート。優しげで、でも目元は細かなものを見逃さない人間のそれだ。
「僕は金沢 建介……Quartet Bindで、同じくギターをやってました。吉沢とは、まあ割と長いかな?」
ねっ、と建介さんは、横目で親父と視線を交わす。親父も静かに頷き返す。
その一瞬だけで、十年やそこらではほどけない何かが見えた気がした。
最後に、長身の男がゆっくりと口を開く。
真ん中分け気味の黒髪。整えられたベリーショート。落ち着いた雰囲気で四人の中で一番背丈がある。一見すると寡黙そうなその眼差しは、どこか鋭い。低い声で、自己紹介を示す。
「やあ、結束バンドさん」
「………初めましてだね。オレは中田
四人が並んだ。
それだけで、STARRYの景色が違って見えた。
同じ床。同じステージ。同じ机。
なのに、そこに流れる空気だけが、ひとつ古いレコードの溝をなぞるみたいに、過去の方へ引き寄せられていく。
───────Quartet Bind。
かつて、親父がいた場所。
俺が焦がれ、届かず、憎んで、それでも忘れられなかった名前。
それが今、結束バンドの前に立っている。
「今日は、吉沢………いや、マッチからの久方ぶりの連絡でここに集まったんだ。……結束バンド。君達への指導役を引き受けて欲しいってね」
親父をマッチ、と昔から何度も聞いていた愛称で呼ぶ建介さんの言葉に、虹夏たちは息を呑む。
「えっ、えっ、ぁ、は、春樹くん……!? こ、これ、どういうこと!?」
「今、建介さんの言った通りだよ」
俺は、静かに虹夏たちへ向き直る。
「俺が親父に頼んだんだ。それで親父が…………Quartet Bindのメンバーを集めてくれた」
言葉にすると、また胸が少し痛む。でも、もうその痛みを隠さずに立つと決めた。
両手が手汗で滲む。そのうえで、それを強く握り込む。掌が白く、血管が小さく浮き出るほどに、強く。
「俺たち、結束バンドの指導の為に」
Quartet Bindの四人の目が俺に集まる。
その視線は痛いくらい真っ直ぐで、俺は少しだけ笑った。
「………皆、ごめん。忙しいのにさ」
隣に立つ彼らへ目を返すと、親父が穏やかに首を振った。
建介さんも静かに微笑んで首を振る。「いいってことよ」と瞳を伏せた貴洋さんは、やがて結束バンドを興味深そうに眺めていく。そんな中で、潔さんは階段を降りきり、こちらへ歩いてきて笑いかけてきた。
「春樹、久しぶりに会ったかと思えば……お前さんもなかなか隅に置けないじゃん。こんな美女四人に囲まれてマネージャーしてるなんてさ」
「は、はぁ!?」
いきなり何を言い出すんだこの人は。思わず声が裏返る。
「な、何言ってんだ潔さん! べ、別にそんなんじゃねーっての!」
顔が熱い。最悪だ。なんでこの人は昔から、こういう場の空気を無駄に柔らかくするのが上手いんだ。ふと横を見ると、虹夏まで顔を真っ赤にして俯いていた。
「あっ、えへへ………び、美女なんてそんな、照れますよぅ。そ、そんなんじゃ……ほ、ほら、山田も皆さんに挨拶しないと!!」
ぺし、と虹夏がリョウの腕を叩く。
リョウはまだ固まっていた。
あのリョウが口をあんぐりと開けたまま硬直している。いつもなら人の財布を狙う時ですら無表情で動けるリョウが、完全にフリーズしているのだ。なんともシュール極まりなかった。
「あ、えっ、えっと、ず、ずっとファンでした。そ、その、握手お願いします………」
声が震えていた。
「め、珍しい……山田が死ぬほど狼狽えてる……」
その様子を見て呆然としたように虹夏が目を丸くする。
俺も同感だった。今この瞬間、たぶん雪が降るより珍しいものを見ている。
リョウは親父、貴洋さん、建介さん、潔さんの順に恐る恐る握手を交わしていく。その間に頬がじわじわ赤くなっていくのが分かった。無表情のまま限界化するな。器用かコイツは。
「あっ、りょ、リョウ先輩ずるいですっ!! わ、私も挨拶させてください!!」
郁代が羨ましそうに駆け寄る。
「ははっ、大丈夫。ゆっくりどうぞ。僕らで良ければ順に握手するよ」
建介さんが爽やかに笑う。
その笑顔を前に、郁代の目が一瞬で輝いた。
「嬉しいな、解散してもなお、今でもこんな風にファンでいてくれる人がいるのは。………君は、何の担当?」
差し出された建介さんの手を、郁代が両手で握り返す。
「あっ、わっ、私はまだまだ新米なんですけど、一応結束バンドでボーカルギターをやってます! 初めまして、喜多郁代ですっ、お願いします!!」
「へぇ、ボーカルギターか。カナケンと同じじゃん」
貴洋さんがからかうように建介さんを肘で小突く。
「あはは、そうだね」
建介さんは苦笑しながら、郁代へ目を戻した。
「……よろしくね、喜多さん」
「はっ、はい!! よろしくお願いしますっ……♪」
郁代の声は、いつものように明るかった。
けれど、その明るさの奥に、緊張と興奮が混ざっているのが分かる。
続いて、どさくさに紛れてサインまで貰い終えたリョウが、まだ顔を赤くしたまま頭を下げた。
「えっ、えっと……ベースやってます。山田リョウ、です。よろしくお願いします」
「……リョウ、お前緊張しすぎだろ」
思わず苦笑が漏れる。
リョウはこっちを見ない。たぶん今の自分を見られたくないのだろう。目だけ逸らしている。耳まで赤い。まあ、気持ちは分かる。でもクッソ面白い。後でいじろ。
そして最後に、虹夏が少し硬い笑顔で一歩前に出た。
「あ、あの……ドラムの伊地知虹夏です。Quartet Bindの曲、全部知ってます!! お姉ちゃんも、皆さんのファンで……!!」
※
「………………………………」
終わった。
そんなことを、私は思った。
いや、正確に言うと、別にまだ何も終わっていない。
むしろ何も始まってすらいない。状況としては、春樹くんがとんでもない人達をSTARRYへ呼んでいて、リョウさんと喜多ちゃんと虹夏ちゃんがそれぞれどうにか挨拶をしていて、私はといえば、ステージ前の机の椅子に座ったまま、完全に人類としての機能を停止しているだけだった。
完全に置いてきぼりにされたまま、石像と化していた。つまりはテンパりすぎていて、思考停止しているということなんでしょう。
でも、私の中では終わっていた。
人生が。
社会生活が。
礼儀作法が。
私の中に存在していた、ありとあらゆる “挨拶の可能性” が。
(ぇぇえええええどどどどどどどうしよう、春樹くんのお父様なだけじゃなくて、あっあのカルテットバインドの皆さんとご対面!? 無理無理無理無理どうしようなんて挨拶すれば!? 本日はお日柄もよく……? 違うっっっああああああああぁぁぁ)
頭の中で、使い道の分からない敬語が永遠にシャッフル再生され続けていた。
平素より大変お世話になっております。
今後ともご指導ご
拝啓、時下ますますご
──────バカバカバカバカ。違う。絶対に違う。
これはライブハウスで初対面の人に言うやつじゃない。というか今、私は何の手紙を書こうとしているんだろう。頭の中の陰キャ事務局が完全に暴走していた。
私は膝の上で両手を握り締める。
指先が冷たい。さっきまでSTARRYの空気は暖かかったはずなのに、今だけは身体の表面から熱が逃げていくみたいだった。
いや、だって。だって、そこにいるのだ。
Quartet Bind。
昔、お父さんが聞いていたことのある曲で知ったバンド。
リョウさんがたまに名前を出していたバンド。
店長さんがファンだという、バンド。
そして何より、春樹くんのお父さんがいた、バンド。
彼にとっての誇りと、傷や痛み、全ての始まりの──────あのバンド。
あのバンドの歌は、私にとって、言うなればつんざく踏切の音みたいだった。だけど、心に確かに残っては、その道筋を示す強烈な音の道のようなもの。
私にとっての、ギターを弾く上で何度もお手本になった、
その人達が、今、この瞬間、確かに目の前にいるのだ。
普通にいる。
ライブハウスの床を踏んでいる。
私達がいつも練習している場所に、当たり前みたいに立っている。
ご冗談を。いっそ夢だと言われた方が私にとっては至極受け入れられる。春樹くんと出会ってばかりの時からこんなことばっかりな気がする。
世界観がバグっている。
たとえるなら、教科書に載っている歴史上の人物が突然教室へ入ってきて「今日から臨時講師をします」と言い出したくらいの事態。
いや、違う。
音楽界隈的にはそれ以上かもしれない。もし仮に壁に貼ってある偉人の肖像画が動き出して、こちらへ握手を求めてきたら、多分人間はこうなる。
少なくとも私はなる。なっている。
リョウさんは珍しく限界を迎えていた。
喜多ちゃんは目をきらきらさせながら握手をしていた。
虹夏ちゃんは緊張しつつも、自分の言葉でちゃんと挨拶をしていた。
皆、すごい。
すごすぎる。
なぜ人類はあんなふうに知らない人へ自己紹介できるのだろう。義務教育にそんな授業あった? 私は欠席していたんですか? いやそんなはずない。日本陰キャ協会では未履修です。
で、結果。私だけが、いつもの如く、そうして取り残されていた。
椅子に座ったまま、机の下で膝を寄せて、小さく小さくなって、気配を消そうとする。
このまま机と一体化したい。ダメでしょうか。あっダメ? そうですか……。
それならライブハウスの家具として第二の人生を歩めないだろうか。机なら自己紹介しなくていい。椅子なら握手しなくていい。アンプなら、せいぜい音を出すだけで済む。
でもそんな私の永遠の自己問答と逃避は、すぐ隣から落ちてきた声で止まった。
「ひとり、落ち着け」
「っ!」
ぽん、と。
背中に手のひらがやさしく触れた。
顔をあげると、そこには穏やかに微笑む春樹くんがいて、それは彼の手だった。
「は、春樹、くん」
それだけで、身体の強張りがほんの少しだけほどける。
不思議だった。状況は何一つ変わっていない。
目の前には相変わらず伝説のバンドの皆さんがいるし、そのうちの一人は春樹くんのお父様。私は今すぐどこかの通気口に入り込んでダクト飯をキメたいくらいには限界だった。それなのに春樹くんの声がすると、呼吸の仕方を少し思い出せた。
「大丈夫。カルテットバインドの皆、………良い人だから」
彼はそう言って、優しく笑った。
大丈夫。
その言葉を、私は何度も聞いてきた気がする。
最初はきっと、信じられなかった。私なんかに大丈夫なことなんて、そう多くはないと思っていたから。人前に出ることも、誰かと話すことも、自分の気持ちを伝えることも、全部、私には難しすぎると思っていたから。
けれど、この人はいつも言う。
大丈夫だよ、と。
君ならできるよ、と。
俺は信じてる、と。
そして、そのたびに私は、本当にほんの少しだけ、顔を上げられるようになってきた。その積み重ねが、今の私そのものだ。
「………ほら、な? 挨拶してやって。この人たちにさ」
春樹くんが背中をぽんぽんとそっと押す。
強くはない。それは全くもって無理やり立たせる力じゃない。ただ、いつも私が立ち上がるために必要なぶんだけ、そっと支えてくれる手だ。
それを聞いて、微かに俯く。目蓋をギュッと閉じて、私は深呼吸をした。
吸って。吐いて。
だめだ。全然足りない。
もう一回。
吸って。吐いて。
胸の奥がまだうるさい。心臓がアンプに直結されたみたいに鳴っている。
鼓動だけで、まるでハウリングしそうだった。
それでも、私は椅子から立ち上がった。
膝が笑っている。─────笑うな。今笑うところじゃない。笑うなら顔にして。顔は今もう崩れているけど。
ぷるぷる震えながら、私はゆっくりと歩き出す。
ほんの数歩の距離が、体育館のステージ袖からマイクの前まで歩くくらい長く感じられた。床の一枚一枚がやけに意識に引っかかる。STARRYの床ってこんなに広かっただろうか。いや広くはない。むしろ狭い。なのに遠い。
目の前に、Quartet BINDの皆さんがいる。
藤沢潔さん。
中田貴洋さん。
金沢建介さん。
そして、吉沢正樹さん。
春樹くんのお父さま。
私は喉の奥を鳴らし、なんとか口を開いた。
「…………っ、あっ、えっと………ご、ごごご後藤ひとり、です。ぎ、ぎ、ギター、やって、います。ぼっちです、よろしく、お願いしますぅ………」
消え入りそうな声だった。
自分でも分かる。たぶん語尾は床に吸い込まれていった。これじゃ自己紹介というより、もはや地面への供物だ。
けれど、目の前の皆さんは笑わなかった。
いや、正確には、微笑んでいた。
でもそれは、決して馬鹿にする笑いじゃないと分かった。
困ったような笑いでもない。なんというか、面白がっているけれど、優しい。小動物を見守るような、でもちゃんと一人の人間として見てくれているような、不思議な表情だった。
「ふふっ、君が例の! なかなか個性的でロックな格好じゃん。そのピンクジャージ、良い感じだよ」
潔さんが、歯を見せて笑う。
「えっ……あっ……れ、例の?」
彼の言葉を聞いて私はたちまちビクッと
例のって何ですか。
まさか、私は春樹くんの部屋で採取された未確認生物みたいな扱いをされているのだろうか。例のツチノコ。例のピンク。例の奇行種。どうしよう、何も間違ってない。終わった。彼らの中で私が歪んだへんなものとして認識され始めている。
「なかなか独特だね」
貴洋さんが静かに言う。
「面白い子だね、よろしくね!」
「え……」
建介さんが柔らかく笑う。おっ、面白い?
私は、びくりと身体を震わせた。うっ、嘘。この人達、ほ、褒めてくれた!?
(ほっ、褒めてくれたァ………!! こ、この人達、ほんとに良い人ぉ……!!)
心の中で、何かが溶ける。
さっきまで身体中に張りついていた緊張の膜が、少しだけ剥がれた気がした。
「あ、ありがとうございます……」
それでも声はまだ小さい。耳が熱い。
でも、さっきよりは少しだけ、前に出た。その時だった。
「───────────…………君が、後藤ひとり?」
それまで静かにこちらを見ていた正樹さんが、口を開いた。
私はまた、身体を固めた。
「えっ…………」
視線が合う。
眼鏡の奥にある、驚いたようにこちらへ見開かれた瞳は、春樹くんに少し似ていた。
いや、逆なのかもしれない。
春樹くんの瞳が、この人に似ているのかもしれない。穏やかで、深くて、けれど何かを見逃さないような目。
ステージに立つ前、客席の暗がりを見つめる時のような目だった。
「あっ、は、はい………そ、そうです」
私は何とか頷く。
「…………そうか。君が息子の……ね」
正樹さんは顎に手を添え、じっと私を見つめる。
その視線に、心臓が跳ねた。
息子の。
息子の、何ですか。
彼女ですか。そうです。そうなんです。いや私なんかが彼女で本当にいいのかは未だに自信ありませんが、戸籍上ではなく、関係性的にはたぶん彼女で、有難いことに半年程お付き合いさせていただいております。いやほんと、あの、誠に申し訳ありません、こんな私が。あっいや戸籍上の彼女って何? 恋人関係は住民票に記載されない。落ち着け私。
「なに、この子が『例の春樹の彼女』さん?」
正樹さんの言葉に反応を示した、建介さんが少し楽しげに言う。
「なんていうか、ロックな子を好きになったね」
潔さんが、春樹くんへニヤニヤと笑う。
「だぁああ!!! なんの話ししてんだよ!! 今はそれはいいだろおっさん共!!」
春樹くんの声が跳ねた。
振り向くと、彼の顔は見事に赤くなっていた。
その瞬間、私の頭の中も沸騰した。
「ぁ、ぁ………その、は、は、はぃぃぃ………わ、私みたいなミジンコにはその、あまりにも、分不相応すぎるくらい、その、良い人でぇ………」
何を言っているんだ私は。もうだめだ。
でもミジンコには日本語は難しすぎる。さすが世界で二番目に難しい言語(日本陰キャ協会調べ)。
このまま蒸発する。後藤ひとり、春樹くんのお父様とその仲間達の前で日本語能力を喪失し、湯気となってSTARRYの天井へ消える。
そう思った時。
正樹さんが、静かに微笑んだ。そして、なんと。彼は、私へゆっくりと手を差し出した。
「…………!」
「……え?」
私は素っ頓狂な声を小さく漏らす。そのまま、長い前髪の隙間から彼をそっと見つめ返す。
「─────いつも、息子をありがとう、後藤さん」
それは、思ってもみなかった言葉だった。
いつも、息子をありがとう。
その響きが、静かに胸の奥に落ちる。
春樹くんを。
私が。
私なんかが、何かできているのだろうか。
いつも助けられているのは、私の方なのに。背中を押してもらっているのも、名前を呼んでもらっているのも、大丈夫だと信じてもらっているのも、いつだって私の方なのに。
それなのに、この人は私にありがとうと言ってくれたのか。
「…………沢山話を聞かせてもらってる」
「……とても良い子だって。せっかくだし、ひとりちゃん、って呼んでいいかな? 愛称を込めてね」
「は!? お、親父!?」
春樹くんがまた声を上げる。
正樹さんはどこか楽しそうだった。
それは、言うなれば父親の顔だった。さっきまでの
「は、へ、ぁ、あっ、あっひぇええぇっっっっっっ……!? は、はははぃ………だ、大丈夫で、す」
いや、実際は大丈夫じゃない。
全然大丈夫じゃない。
でも、大丈夫ですと言うしかない。
現に頭では(は、は、春樹くんのお父様に、自然にな、名前呼び!? に、虹夏ちゃんや春樹くんみたいに距離詰めるの爆速ッッッ!!)と叫んでいた。
顔が熱い。
耳の先まで熱い。
たぶん今の私は、茹で上がったタコより赤い。多分、タコに失礼なくらい赤い。それでも、私は震える手を伸ばす。
正樹さんの手が、私の手を包む。
「──────────…………!!」
その瞬間。
私の中で、何かが鳴った。
それは、音ではなかった。けれど、音に近かった。
私は、上手くは言えないんだけど音で何となくその人が何を言おうとしてるのか分かる感覚が昔からあった。
それは、春樹くんが、かつて『BIND』として鳴らしていたギターを聴いた時も。
きくりお姉さんの奏でるベースを聴いた時も。
虹夏ちゃんのバスドラムが響かせる重低音を感じた時も。
リョウさんのスラップが、胸の奥を揺らした時も。
喜多ちゃんの澄んだ高音と、雷鳴のようなディストーションを聴いた時も。
──────全てにおいて、私にとっては同じことだった。
私には、それを言葉にして胸中の引き出しに仕舞えるような感覚があったのだ。
正樹さんの手は、硬かった。
──────弦に触れた瞬間、まだ鳴らしていないのに、そこに張られたものの強さが指先へ伝わることがある。
ピックを持つ前から、ネックを握っただけで、そのギターがどんな時間を過ごしてきたのか、ほんの少しだけ分かる時がある。それに、似ていた。
指先。
手のひら。
親指の付け根。
皮膚の奥。
そこには、長い時間が積もっている。
尋常でないほどのギターを弾いてきた人の手。
何度も痛めて、何度もその潰れた豆が硬くなったものなのだろう。
ただ練習しただけじゃない。
何度も何度も、同じ場所を擦り減らして、痛みが痛みでなくなるくらいまで弦に触れてきた人の手。音を出すために、言葉にならないものを弦へ押しつけてきた人の手。
私の手と同じだ、と思った。
いや、同じなんて言ったら失礼かもしれない。
この人はプロだった人で、私はまだ高校生で、結束バンドのリードギターで、でもまだ合わせることも下手で、ミジンコ以下のぼっちで。
それでも。
この手は、知っている気がした。
孤独な部屋で、ひとりきりで何度も鳴らした音。
誰にも届かないかもしれないのに、それでも弾き続けた夜。
上手くなりたいと願うたびに、自分がまだ足りないことを思い知らされる痛み。
それでも、弾くことをやめられなかった時間。
それらが、皮膚の奥に沈んでいたから。
けれど、その手にはもう一つ、違和感があった。
ほんの一瞬。
握り返された指先に、どこか不自然な空白があった。
力がないわけじゃない。
弱いわけでもない。
でも、何かが引っかかっている。動こうとして、動ききれない。まるで、音になる直前で止まってしまったフレーズみたいに、私にはそれが違和感として残る。
だから私は、数秒程硬直して、無意識に目を見開く。
「……………………」
視線を上げる。
正樹さんも、私を見ていた。
「………!」
その瞳が、ほんの少しだけ揺れる。そして次の瞬間、正樹さんは悲しそうに笑った。
「────────────────」
そんな笑みを見た時、私は堪らなく胸の奥がきゅっと締め付けられた。見開ききった目蓋と目じりが無意識に痙攣するのを感じる。
三か月前、春樹くんから聞いてしまった彼の過去。フォーカル・ジストニアによって、思う様に動かなくなってしまったこの人の手のこと。
この人は、大切な何かを沢山失った人なのだと理解した。
喪失をした人間なのだと納得した。
あぁ。こういうことだったんだ、と。
知識ではなく、指先に伝わる感触から、私は初めて理解した。
でも分かる。
仮に過去の話を知らなかったとしても、私にはこれだけは分かった。
このひとは、ギターに傷つけられ、苦しめられ。
それでもなお、このひとの手は、ギターを愛しているのだと。
そこまで考えて、そこまで理解して、そのタイミングで彼は呟いた。
「………………そうか」
「春樹の買いかぶりではなさそうだね。やっぱり君は」
「え……?」
私が聞き返すと、正樹さんはそっと手を離す。けれど目だけは逸らさなかった。
「どうやら、俺と君は似てるみたいだ。君のその手は、間違いなく相当な努力をしてきた人間のそれだ。…………俺には、君がよく分かるよ」
言葉が、胸の奥へ入ってくる。
努力してきた人間の手。
そんなふうに言われたのは、初めてだったかもしれない。
お父さんは褒めてくれた。お母さんも、ふたりも、私のギターを応援してくれた。
結束バンドのみんなも、春樹くんも、私を信じてくれた。
でも、この人の言葉は、それとは少し違う。
技術がすごいとか、才能があるとか、そういう言葉ではなく。
私がそこに辿り着くまでの時間を、その手で見つけてくれた。
誰にも見えない部屋。
誰にも聞こえない夜。
動画の向こう側へ届くかどうかも分からないまま、ただ弾き続けてきた時間。
それを、一瞬にして見つけてもらえたような、そんな気がした。
「あとは───────」
正樹さんは私から視線を外し、虹夏ちゃん、リョウさん、喜多ちゃんへ目を向ける。
「………君達全員の演奏を見れば、きっと、全てがわかる」
私達 “全員” の。その言葉に、心臓が強く跳ねた。
「その熱意も。夢も。希望も。想いも」
正樹さんの声は、静かだった。
でも、その静けさの奥に、確かな熱があった。
この人の声は、春樹くんの声に少し似ていると、そう思った。
それに、優しいだけじゃない。
相手の奥にあるものまで見ようとする、その “姿” も含めて、この人は、間違いなく彼のお父さんなんだ、って、確信を得た。
その時。
私の中にあったはずの恐怖は、気付けばいつの間にか胸の奥へ退いていた。
さっきまでの動揺も、焦りも、もう何も感じなかった。どうしてかは分からないけど、それだけは確かだった。
もちろん、緊張はしてない訳じゃない。
手はまだ少し震えている。でも。
それでも、私はもう逃げたいとは思わなかった。
この人に見てほしい、と。────そう思っていた。
ギターヒーローとしての私だけじゃなく。
後藤ひとりとしての私だけでもなく。
なによりも──────結束バンドの私達を。
彼は続ける。
「ひとりちゃん。…………俺達はね、春樹から君たちのことを沢山聞かせてもらった。君達がどういう子達で、どんな思いを抱えてバンドをやっている子達なのかを」
「………音楽も全て聞かせてもらった。……そして、俺達は皆、その話も、音源も聞かせてもらった上で……全員、それぞれ興味が湧いたんだ」
「………え?」
正樹さんの後ろで、建介さん、貴洋さん、潔さんが静かに頷く。
心が、また跳ねる。
春樹くんが、話してくれていたんだ。
私達のことを。
結束バンドのことを。
どんなふうに話してくれたんだろう。
うまくできない私のことも、すぐ顔が崩れる私のことも、ライブで失敗した私のことも、ギターだけはやめられなかった私のことも。
彼は、どんな言葉で伝えてくれたんだろう。
「君たちが、実際にどんな演奏をするのか。どういう音楽を奏でて、何を伝えたいのか。それに対して、ね」
正樹さんが一歩、私へ近づく。
威圧感はない。むしろ彼は視線を合わせるように、両手を両膝へ添える。
背の小さい私へ少しだけ身を屈めてくれた。
その仕草が、また春樹くんに似ていた。
「だからひとりちゃん。俺達に」
正樹さんは優しく微笑む。
「─────────君の、君達の全てを、俺達に見せてくれないか?」
「Quartet Bindに、奇しくも似た名前を持つ──── “結束バンド” の」
「─────────君達の演奏を」
息が止まる。心臓が、強く高鳴った。
結束バンド。
その名前が、いつもより重く響いた。
リョウさんがつけてくれた名前。
虹夏ちゃんが最初は変えようとしていた名前。
ライブの物販で、本当に結束バンドを売ってしまうような、少し変で、でも私達らしい名前。
でも、私にとって、初めてできた居場所の名前。私にとって、何よりも守りたい、みんなの場所。その言葉が落ちた瞬間、胸の奥で何かが灯ったのを理解した。
私は目を見開ききったまま、小さく首元だけ振り返る。
虹夏ちゃんがいた。
不安そうで、でも期待を隠しきれない顔をしている。
リョウさんがいた。
いつもの無表情に戻ろうとしているけれど、まだ少し頬が赤い。
喜多ちゃんがいた。
私を見て、きらきらした目で頷いてくれる。
そして、春樹くんがいた。
「─────…………」
彼は、私を見ていた。
最初から信じてくれていたみたいに。
きっと私が何かを言うのを、ただ待ってくれているみたいに。
その視線を見たら、身体の奥から熱が上がってきた。
怖い。
怖いのは、まだある。
でも、それ以上に、見てほしかった。
私一人じゃないことを。このバンドにあるのは、私のギターだけじゃないことを。
私が、この人達と一緒にいるから鳴らせる音があることを。
あの女の人に言われたことが、胸の奥で小さく疼く。
“ちゃんとしたバンドに入った方がいい”。
あの時の私は、何も言えなかった。
何も返せなかった。結束バンドを、私の大切な場所を、あんなふうに言われて─────それでも、私はその場で何もできなかった。
でも、今は、と私は思う。前を向く。
今は、違う。
正樹さんを。
Quartet Bindの皆さんを。
そして、隣にいるみんなを。
声は、まだ少し震えていた。
それでも、逃げるための震えじゃなかった。
「………………っっっ」
私は、息を吸う。
「────はい!!」
言葉が出た。
自分でも驚くくらいに、それはまっすぐに。
そう答えた瞬間、止まっていた時間が、ようやく動き始めたような気さえした。正樹さんは、私の返事を聞いて穏やかに微笑んだ。
「……よし。じゃあ、演奏の準備をしよっか!」
それを合図に、虹夏ちゃんがぱん、と両手を一度だけ打ち合わせる。
その明るい音に、張り詰めていた空気がほんの少しだけほどける。
私は小さく息を吐く。どうやら、今の返事だけで全身の酸素をほとんど使い切ってしまったらしい。膝はまだ微かに震えていたけれど、それでもさっきまでみたいに、この場から消えてしまいたいとは思わなかった。
「……それで、何の曲やる?」
ステージへ向かいかけた虹夏ちゃんが、私達を振り返る。
「せっかく皆さんに初めて聴いてもらうんだし、あたし達がどんなバンドなのか、一番伝わる曲がいいよね」
「そうですね……」
喜多ちゃんが口元へ指を添え、少しだけ考え込む。
私達が、どんなバンドなのか。
そう言われると、すぐに答えるのは難しかった。何せ、それはこの半年以上の間、ずっと考え続けてきて、未だに明確なものが出てないからだ。何なら、あの最初のオーディションライブの時ですら、それは不明瞭なものだったと思う。
明るいバンド。
格好いいバンド。
楽しいバンド。
上手いバンド。
私達は、まだそのどれにも完全にはなれていない気がする。
失敗して。
すれ違って。
時々、同じ方向を向いているつもりで、全く違うものを見ていたりして。
それでも、最後にはいつも、どうにか同じ場所へ帰ってくる。
私にとって結束バンドは、そんなバンドだった。
「私は……『ギターと孤独と蒼い惑星』が良いんじゃないかと思います」
ふと喜多ちゃんが、少し遠慮がちに手を挙げた。
「私達が最初に作った曲ですし。ひとりちゃんの歌詞も、リョウ先輩の曲も、結束バンドがどういうバンドなのか一番分かりやすい気がして」
「うん。確かにそれはアリだね」
虹夏ちゃんが頷く。
最初の曲。
私の中にしかなかったものを、初めて誰かへ渡した曲。
自分の孤独を、下手くそな言葉のまま外へ差し出した曲。確かに、結束バンドの始まりを見せるなら、きっと正しい。
「……私は、『グルーミーグッドバイ』でも良いと思う」
次に、リョウさんが静かに言った。
「今の私達が何を作れるのかを見てもらうなら、そっちの方がいい。少なくとも、昔よりは四人の音が分かる曲になってる」
「なるほど……最近のあたし達を見せるなら、確かにそっちかぁ」
虹夏ちゃんが腕を組む。喜多ちゃんの提案も。リョウさんの提案も。
私は、どちらも、間違っていないと思った。
始まりの私達を見せるのか。今の私達を見せるのか。
迷うように、三人の視線が宙を行き来する。
───────けれど。私の中には、二人が曲名を口にした時から、ずっと別の一曲が浮かんでいた。
「…………」
私は、ステージの下に立つ春樹くんを見る。
彼も、虹夏ちゃん達の話を聞きながら、静かにこちらを見守っていた。
その姿を見た瞬間。─────雨の音がした気がした。
強い雨が、STARRYの外を叩いていた、あの時。
客席はほとんど空っぽで。
皆の音は少しずつ崩れていって。
虹夏ちゃんの背中が、いつもより小さく見えて。
私は、ただ夢中でギターを弾いた。
自分が目立ちたかったわけじゃない。
上手いところを見せたかったわけでもない。
ただ。どうしようもなく、このバンドの音を、終わらせたくなかった。
皆を、もう一度同じ場所へ引き戻したかった。
あの時の私は、初めて自分のギターを、自分以外の誰かのために前へ出したと思う。
その客席に、たまたま春樹くんがいた。私がまだ、その人の人生を何も知らなかった頃。彼が、私の音の中に何を見つけたのかも知らなかった頃。
それでもきっと、全てはあの瞬間から始まっていた。
だから、だからこそ、と私は思う。
「あっ……あの」
そうして気がつくと、そんな声が出ていた。三人が同時に私を見る。
「どうしたの? ぼっちちゃん」
虹夏ちゃんに促され、ぎゅっとジャージの裾を握った。
普段なら、きっと私は誰かの意見に合わせていたと思う。
どちらでも大丈夫です。
皆さんが良いと思う方で。
私なんかが決めることじゃないって、そう言って、俯いていたはずだ。
でも。
今日、この人達へ見せる曲だけは、自分で選びたかった。私はゆっくりと、言葉を続ける。
「……『あのバンド』は」
声は、やっぱり少し震えた。
それでも、私は三人から目を逸らさなかった。
「『あのバンド』は……どう、でしょうか」
「…………!」
その時、三人の目が、同時に見開かれる。
一瞬、誰も言葉を発さなかった。
ただ、曲名だけが、閉店後のSTARRYに静かに残る。
その沈黙の中で、喜多ちゃんが何かに気づいたように、僅かに息を呑む。リョウさんも目を細め、私の顔をじっと見る。
そして虹夏ちゃんは────少しの間だけ、私を見つめたあと。
「……そっか」
とても小さな声で、静かに微笑む。
その表情は、驚いているようにも、どこか懐かしいものを思い出しているようにも見えた。
きっと虹夏ちゃんも、同じ夜を思い出している。
雨の音。
空席の目立つフロア。
崩れかけた私達の演奏。────それを、全身全霊で拒んだあの時のことを。
そして、あの時初めて鳴った、本当の結束バンドの音を。
やがて虹夏ちゃんは、ゆっくりと笑う。
「うん。それにしよう」
鶴の一声だった。
でも、誰も異論は唱えなかった。
「……はい。私も、それが良いと思います」
喜多ちゃんが、胸の前で両手を握りながら頷く。
「異議なし」
リョウさんも、短くそう告げた。
その口元には、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいるのがハッキリと見えた。
理由を、全部説明する必要はなかったのかもしれない。少なくとも確かなのは、三人とも分かってくれたということだ。
私がどうして、今この場で。
どうして、正樹さん達の前で。
この曲を─────選んだのかを。
「じゃあ決まり!」
虹夏ちゃんが明るく声を上げる。
「結束バンド、『あのバンド』。準備しよっか!」
その言葉を聞いて私はもう一度、ステージの下へ目を向けた。
きっと、虹夏ちゃんの言葉を聞いたのだろう。どこか小さく動揺したような様子で、春樹くんが、目を見開いていた。
「…………─────────」
彼は、私と目が合うと、僅かに唇を動かす。どこか、泣きそうな、そんな顔で。
やがて春樹くんはそのまま、静かに正樹さんの横顔を見る。正樹さんはどこか不思議そうに彼を見つめ返し、私の方へ視線を向け直す。
春樹くんもまた、もう一度、私を見上げる。その瞳の奥を、私は全て理解することはできない。
でも、そこにあったのは、懐かしさ。痛み。驚きのような。
そして、それらを全部包むような、温かな何か。
かつて、私達が出会った頃のときと、同じような─────そんな色が見えた気がした。
そんな表情のまま、春樹くんは、ほんの少しだけ泣きそうな顔で笑う。
「……そっか。………わざわざ
彼のその一言だけが、私へ届く。
「…………はい」
私は、小さく頷いた。
この曲で、私達が何者なのかを見てもらう。
私のギターだけじゃない。
誰か一人の力だけでもない。
あの雨の夜から、何度も失敗して。
何度も躓きながら、それでもここまで一緒に来た。
今の結束バンドを。
「……決まりだね。それじゃ、ステージ行こ!」
「あっはい!」
「了解です、虹夏先輩っ!」
「ん」
そして虹夏ちゃんの声を合図に、私も、喜多ちゃんも、リョウさんも返事を返す。
そうして、それぞれ自分の楽器へ向かう。さっきまで机を囲んでいた四人が、いつものようにステージへ散っていく。
※
虹夏ちゃんは、少し早足でステージの奥へ回ると、ドラムスローンを引き寄せて腰を下ろした。スネアの位置を確かめ、ハイハットのペダルを何度か踏み込む。
ちっ、ちっ、と金属同士が触れ合う小さな音が、静かなSTARRYへ落ちていく。タンタタン、タタタン、とライドシンバル、クラッシュシンバルの調子を確かめる様に、小さくスティックでそれらを叩く。
リョウさんは足元に置かれていたベースケースから、使い慣れた楽器を持ち上げる。
肩へストラップを掛け、シールドを差し込んだ瞬間、アンプの奥から低いノイズが漏れた。四弦を指先でひとつだけ鳴らすと、空気の底が、ぶぅん、と僅かに揺れる。
喜多ちゃんも自分のギターを抱え、マイクスタンドの前へ立つ。
いつもの明るい表情の奥に、隠しきれない緊張が浮かんでいる。それでも、私と目が合うと、彼女は何も言わずに強く頷いてくれた。
私も、自分のギターへ手を伸ばす。
黒いボディを持ち上げると、馴染んだ重みが肩へ沈んだ。
それは、もう何度も背負ってきたはずの重さだった。
あの日、あの時。お父さんにギターを貸してほしいとねだったあの時から、ずっと。
あの狭い私だけの押し入れの中で。
秀華祭のステージで。
STARRYで。
嬉しかった時も、怖かった時も、逃げ出したくなった時も。
いつだって、この重さだけは私を裏切らなかった。そのままストラップへ腕を通し、左手でネックを握る。人差し指と中指に、硬い弦が触れて、それを思わず優しく撫でた。
「…………」
その瞬間、さっき触れた正樹さんの手の感触が、指先へ蘇ってくる。
硬く積み重なった皮膚。
弦に触れ続けてきた時間。
ギターを愛して、それゆえに傷ついて、それでもまだ愛することをやめられない人の手。
その手と比べれば、私の指なんて、まだ何も知らないのかもしれない。
それでも、正樹さんは言ってくれた。
こんな私の手を、努力をしてきた人間の手だ、って。
自分と私が似ている、って。
胸の奥が、熱湯を注ぎ込まれたように、また強く熱を帯びていく。
私はしゃがみ込み、シールドをギターのジャックへ差し込む。
かちり、と。
小さな音が耳に届く。それを辿るように視線を落とすと、黒いケーブルはステージの床を這い、エフェクターへ、アンプへと繋がっている。
当然、虹夏ちゃんのドラムにケーブルはない。
リョウさんのベースも、喜多ちゃんのギターも、それぞれ違う場所へ線を伸ばしている。
楽器も違う。音も違う。得意なことも、苦手なことも違う。
私達は、何もかも同じなわけじゃない。
結成した時から、ずっとそう。いつもバラバラだった。
それでも、四人の音は最後には同じ場所へ集まる。
それが、私達─────結束バンドの在り様そのもの。
別々に鳴らしたはずの音が、重なって、ひとつの曲になる。私達には、それが出来る。それを私は、もう知っていた。
「ひとりちゃん、ボリューム大丈夫?」
「あっ、は、はい……!」
喜多ちゃんに声を掛けられ、私は慌ててアンプへ目を向ける。
ボリュームノブへ指を添え、軽く弦を鳴らした。
じゃらん、と。クリーンな音が、まだ照明の落ちたステージを横切る。
その一音だけで、身体の内側に残っていた余計な震えが少しずつ整っていく。
さっきまでの私は、正樹さん達の前でまともに挨拶すらできなかった。
でも、ギターを持てばもう違う。
言葉にできないものを、もう私は音にできる。
うまく話せない私にも、この六本の弦だけは、ずっと言葉を貸してくれた。私は音を確かめながら、ステージの下へ視線を向けた。
その目線の先には、Quartet Bindの皆さんが並んでいた。
潔さんは楽しそうに腕を組み、こちらを眺めている。
貴洋さんは静かに目を細め、私達それぞれの立ち位置や楽器を観察しているようだった。
建介さんは柔らかな微笑みを浮かべながら、喜多ちゃんのマイクやギターへ視線を送っている。
そして、その中央には、正樹さんが立っていた。
そのすぐ隣には、春樹くんもいる。私達をここへ繋げてくれた人。
自分にとって一番苦しくて、一番触れたくなかったはずの場所へ、もう一度自分から手を伸ばして。
その痛みまで抱えて、私達の前へ道を作ってくれた人。
ステージの下に立つ春樹くんの姿を見た途端、胸の奥が僅かに締めつけられた。
彼は、何も弾いていない。
ギターも抱えていない。
マイクの前にも立っていない。
それでも。
今、この場所で私達が音を鳴らせるのは、春樹くんがいたからだった。
私達とQuartet Bindを結んだのは、間違いなく彼だった。
彼が居なきゃ、──────今の私達も、私も、ここには居なかったんだから。
※
「……ひとり達、準備できたみたいだ」
そうしてちょうど私たちの準備が終わる頃、春樹くんが、私達の姿を確認してそう呟くのが聞こえた。建介さんが、ステージを見上げながら穏やかに笑うのが見える。
「おっ。じゃあ、見せてもらおうかな」
「お手並み拝見、ってやつか?」
それを聞いた貴洋さんも低い声で苦笑するのが見える。こちらを、興味津々な様子で見守っているみたいだ。
「そうだね。……さ、実際はどんな音かな」
潔さんも、どこか待ちきれないように笑っていた。
そして────正樹さんの眼鏡の奥にある瞳が、静かに私達へ焦点を合わせる。あの人と、もう一度そうして目が合う。
「…………」
その目を見た瞬間、私は息を呑む。
さっきまでの、春樹くんのお父さんとしての優しい眼差しとは違う。
音が鳴る前から、その奥にあるものを見逃すまいとする目。
弦の僅かな震えも、指先の迷いも、私達の間を通り過ぎる呼吸さえも、全て捉えようとする目。
ステージの上へ立った時の。
ギターを抱えた時の─────私と、同じ目だった。
「ひとりちゃん」
「……っ、あっ、はい」
名前を呼ばれ、私は反射的に背筋を伸ばして返事をする。そして、真っ直ぐに見つめ返す。正樹さんは、私だけではなく、ステージに立つ四人全員を見つめていた。
「俺はね、コイツの言葉を信じてる」
そう言って、正樹さんは隣に立つ春樹くんを見た。
「俺譲りの耳も、音楽への想いも。俺なんかより、ずっと鋭い洞察力も含めた────息子の全てを、俺は信じてる」
「…………親父」
春樹くんが、それを聞いて僅かに、また目を見開いていた。正樹さんから目を逸らした彼は、少し照れたように頬を掻いている。その姿を見て、胸がぎゅっとなった。
正樹さんは、ゆっくりと続ける。私の目を、ハッキリと見つめたまま。
「…………春樹がそこまで、本気で全てを懸けてでも推す君達の姿を」
「─────俺たちにも見せてくれ」
正樹さんの言葉が、暗いフロアからステージの上へ届く。
「君達が、どんなバンドなのかを」
「──────…………」
それを聞いて私は、両目を強く剥いたまま、思わず左手のネックを強く、つよく握り締めた。
春樹くんと、目が合う。彼の眼差しの奥、その瞳は小さく揺れている。私は春樹くんのその瞳を見て、唇を強く結ぶ。
春樹くんは、私達をここへ繋げるために、自分の全てを懸けてくれた。
春樹くんは、私を、私達をずっと信じてくれた。
でも、それだけじゃない。
春樹くんのお父さんもまた、春樹くんが見て、聞いて、考えて、選んだものを信じてくれているんだ、と気付く。
だったら。
だったら、私はやらないと。
私の中で、言葉が形になる。
難しい言葉じゃなくていい。上手く喋れなくてもいい。いつもみたいに噛んでもいい。声が震えたっていい。
それでいいと、教えてくれた人がいる。
だから、これだけは伝えたい。
私が見てほしいもの。
私のギターだけじゃない。ギターヒーローとしての私でもない。
虹夏ちゃんのドラム。
リョウさんのベース。
喜多ちゃんの歌とギター。
私が、この三人と一緒にいるからこそ、鳴らせる音。私一人では、絶対に生み出せなかったもの。その全てを。
私は隣を見る。
喜多ちゃんが、微かに紅い頬のまま、真っ直ぐ頷く。
リョウさんも、僅かに口元を緩める。
振り返れば、虹夏ちゃんがスティックを握り、いつもの明るい笑顔を向けてくれていた。
大丈夫だよ、と言わんばかりに。
その表情には、もう迷いは無かった。
───────そうだ。
彼は、春樹くんは、何度も言ってくれた。
私は、もう独りぼっちなんかじゃない、って。
その事実が、足元から私の身体を支えてくれる。
私はマイクの前へ、一歩だけ近づく。
スピーカーが、私の息を拾う。小さな呼吸音が、STARRYの中へ響いていく。
怖い。
でも、もう俯かなかった。
ステージの下にいる正樹さん達を。
そして春樹くんを。
私は、前髪の奥からもういちど、強く、つよく真っ直ぐに見つめ返す。
「結束バンドで──────── “あのバンド” を、演奏します」
「けっ、結束バンドの、結束力────観てください!!」
やっとこさ更新できたけど、全話の中でぶっちぎりの長さになってしまった。気合い入りすぎた………。
しかも切れるところないし、読みにくかったら申し訳ねえ………。
ある種、この回を描く為だけにずっと自分はこの「ぼっち・ざ・ろっく! フラッシュバッカー」で吉沢 春樹という男の子を描いてきたかもしれません。
いよいよずっと描きたかった、いわゆるこの世界線におけるアジカンの方々、いかがでしょうか。あと、ひとりの最後のセリフは原作からの大幅な改変の上で敢えてあそこに置いてます。
補足をすると、Quartet Bindのメンバーはまあメタ的な意味でも、アジカンのメンバーをまんま想像していただけたら嬉しいです。後藤正文と後藤ひとりが一緒に手を取りあってる作品って案外見たことない気がするんですが、いかがでしたでしょうか。
お楽しみ頂けてたら嬉しいです。
あと読んでくださってる方いたらどんな感想でもいいので置いていってもらえると………。最近マジで読んでもらえてる気がしない!!()
今回がぶっちぎりに長かったので、次はもう少し更新早まると思いますが、またお待ち頂けると励みになります。そらやまれいくでした。
ではまた。