ぼっち・ざ・ろっく! フラッシュバッカー   作:空山 零句

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“Birds of a Feather Flock Together.”



訳:『同じ羽の “鳥” は共に群れる』。
 カラスやツバメが共に群れる事が無いのと同様に人もまた、同じ性質や羽を持つ者が集う事が多いことを指す。同じ傷を持つ羽根が、同じ場所へ集まってしまう事の意味も当てはまる。
 転じて、日本においては『類は友を呼ぶ』と訳されることが多い。




- 出典:シェイクスピア 「ヘンリー六世」より -









CHAPTER #62 B「あのバンド」 - Birds of a Feather Flock Together - (後篇)

 

 

 

 

 ひとり達がそれぞれの楽器ケースを手に取り、ステージへ上がった頃。

 

 俺は、フロアの真ん中でQuartet Bindの四人と横並びになって、その光景を見つめていた。

 

 アンプの奥で眠りかけている電気の低い唸り。床板が踏まれるたびに鳴る小さな軋み。金属同士が触れ合う、ちっ、という短い音。そして、誰かが息を吸う気配。

 音になる前のものが、ステージに立つひとり達の準備の音と共に、今か今かとその出番を待ち侘びている。

 虹夏がドラムスローンへ腰を下ろす。

 ペダルの感触を確かめるように、右足を小さく動かす。

 ハイハットが、ち、と薄く鳴った。

 リョウはベースを肩に掛け、いつも通りの無表情でアンプの前に立つ。軽く弦を弾いた瞬間、低い音がフロアの床を這う。

 郁代はギターを抱えながら、マイクスタンドの高さを真剣な顔で少しだけ直す。緊張しているのは分かる。けれど、スポットライトのないこの場所でも、彼女の周りだけは少し明るく見えた。────そして、ひとりは。

 

 いつもの黒いギターを抱えたまま、少し俯き気味にシールドを差し込んでいた。

 その指先が、僅かに震えているのが見える。

 だけど俺には分かる。きっとアレは、逃げるための震えじゃない。

 

 これから鳴らす音を、自分の中で確かめているような。言うなればアレは、怖さごとステージに立つための、静かな震えそのものだ。

 

「………………」

 

 俺は、何も言えないまま、静かに拳を握る。その中で思う。

 いつものSTARRY。

 いつものステージ。

 いつもの四人。

 何度も見てきたはずの光景なのに。

 

 どうして、どうして今だけは、こんなにもその光景が遠く見えるのだろう、と。

 

 たった数段分の高さしかないステージ。手を伸ばせば届きそうな距離。

 でも、その場所は俺には届かない場所といえた。

 今となっては、俺はもうギターを持っていない。ピックも持つことも辞めた。マイクの前にも立つことすらしなくなった。

 

 ただ、フロアに立っているだけ。それだけの存在に過ぎない。

 

 そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ痛む。

 

 誇らしさ。申し訳なさ。怖さ。それから、どうしようもなく膨らんでしまう期待。

 

 全部が同じ場所で絡まり合って、まるで弦を張りすぎたギターのように、今にもぱん、と切れてしまいそうだった。

 

 隣には、四人の大人が居る。ふと、横目で彼らへ視線を移す。

 俺が子どもの頃、テレビや雑誌やポスター越しに見ていた人達。幼い俺が、届くはずもないのに手を伸ばしていた背中。何度もレーベル事務所へ向かう彼らにくっついて行って、実際に仕事の見学をした。何度だって、その度に彼らの姿に憧れた。

 なにせ、父の隣で音を鳴らし、かつて一つの時代を作っていたバンドだ。

 Quartet Bind。

 その四人が今、もう一度俺の隣にいるということ。それは正直に言えば、今でも現実感の無い光景だった。加えて彼らのその視線の先には、結束バンドもいる。

 小さく、俺はなんとも言えない気持ちになって狭い天井を仰ぐ。

 こんなことになるだなんて、どうやったら想像がつく。いや。誰も想像なんかつくはずもない。

 

 言ってしまえば、全ては偶然であり。

 だけど、これは全て、今思えば必然だったのかもしれない。

 

 そんな事を考えて、俺はどうしたって、胸の奥が変なふうに軋む。

 

「……皆」

 

 そこでひとつ、小さな深呼吸をする。やがて俺は小さく口を開く。

 四人の視線が、僅かにこちらへ向いた。

 

「久しぶりに集まってくれて、ありがとな」

 

「潔さん、カナケンさん、貴洋さん。……親父」

 

 昨日までの俺なら、こんなふうに真正面から礼を言えただろうか。

 分からない。少なくとも、親父を含めて「皆」なんて呼び方をすることは、きっと出来なかったと思う。

 すると、隣に立っていた建介さんが少しだけ目を丸くしたあと、いつもの柔らかい笑みを浮かべる。

 

「いや……嬉しかったよ。僕はね」

 

「え……?」

 

 思わず聞き返す。

 穏やかに微笑む建介さんは、俺を見て、それからもう一度ステージの四人へ視線を戻す。すると、彼はゆっくりと語る。

 

「僕はね、春樹」

 

「正直、怖かったんだ」

 

「え……」

 

 そして、ぽん、と。

 建介さんの手が、軽く俺の肩に触れる。

 

「君も、覚えてるだろ? 僕達Quartet Bindは、これまで色んなことがあったし」

 

「………───」

 

 その瞬間、古い記憶が、ふと脳裏を過ぎった。

 閉じたドアの向こう。低く荒げられた声。

 普段は穏やかなはずの大人達が、音楽のことで言い争っていた夜。

 幼い俺は、眠ることができなくて、廊下に立っていた。─────何も出来なかった。声もかけられなかった。

 当時の俺は、ドアの隙間から漏れる光を、泣きながら見つめることしか出来なかった。

 あの頃の俺には、大人たちの言葉の意味なんて、ほとんど分からなかった。それでも、分かってしまったことだけはある。

 

 父のいたバンドが、何か大きく壊れようとしていること。

 

 そして、その中心には父の病気が関係していたこと。それだけは、当時の俺でも分かっていたと思う。建介さんの言葉に俺は、俯きながら頷く。

 

「……うん」

 

「覚えてる」

 

 そうして建介さんが、隣の親父へ向けて軽く笑う。

 

「……マッチが僕らにもう一度呼びかけて、こうしてこの場に呼んでくれた時、本当に驚いたんだ。マッチは割と意固地な人間だからさ。な? マッチ」

 

「……そうだな」

 

 親父は彼の言葉に、少しバツが悪そうに眉尻を下げた。けれど、その口元には微かな笑みがある。

 

「……悪いな。まさか、こうして来てくれるとは思わなかった。三人揃ってさ」

 

「いや、むしろ僕は感謝してるんだ」

 

「またQuartet Bindとして、僕ら四人で集まれたしね」

 

 僅かに苦々しくそう呟く親父に、建介さんは、首を振って真っ直ぐそう言った。その顔はどこか満足気にすら見えるのは、きっと俺の気のせいじゃない。

 その言葉に、潔さんが目を細める。貴洋さんも、腕を組んだまま少しだけ息を吐いた。

 

「何年振り? オレ達、ちゃんとこうして揃うのもさ」

 

「……十年、は経ってるよね」

 

 貴洋さんの言葉に、潔さんが少し懐かしそうに笑う。次の瞬間、潔さんからわしゃわしゃと頭を撫でられた。

 

「春樹も大きくなっちゃってなぁ。あんなちっちゃくて可愛かったのにさ」

 

「っ、や、やめろよ潔さん……」

 

 もう俺も高校生だぞ、と言い返したいのに、昔からこの人にそうされるとどうにも強く出られない。気恥ずかしい気持ちを堪えつつ、俺は腕を組む。潔さんは、昔と変わらない笑顔で笑っていた。

 

「ははっ。相変わらずカワイイ奴だな」

 

「ったく……」

 

 照れ隠しで目を逸らす。

 そんなやり取りに、隣の建介さんや貴洋さんは穏やかに笑う。

 けれど。建介さんの表情が、やがて静かなものに変わった時。

 

「……マッチ」

 

 ふと建介さんが、親父を見つめる。

 

「指は、演奏の時は……やっぱり動かない? まだ」

 

 その問いで、空気が少しだけ変わった。

 柔らかかった時間の中に、細い針のようなものが一本落ちた気がした。俺は、目を見開いたまま、無意識に息を止める。

 親父はステージのひとり達を見たまま、しばらく黙っていた。眼鏡のレンズが照明を反射して、その表情はよく見えない。

 

「……あぁ」

 

 やがて、親父は静かに答えた。

 

「随分長いこと、医者には通ってるけどな。……もう、ダメらしい。演奏で弾くのは無理だな。やっぱり」

 

「…………そっか」

 

 建介さんの声は、短かった。

 でも、その短さの中に十年分のものが沈んでいる気がした。潔さんも、貴洋さんも何も言わなかった。言わないのではなく、言えなかったのかもしれない。

 きっとこの人達も、何度も考えたのだろう。

 

 あの時、何か違う言葉をかけられていたら。

 あの時、もっと別の選択が出来ていたら。

 あの時、解散せずに済む道があったのなら。

 

 でも、過去は戻らない。消えることもない。

 

 親父の指も。

 Quartet Bindだった時間も。何もかも、元通りにはならない。

 俺にとってのBINDの────オーチューブ時代の記憶が消えないように。ひとりを、ギターヒーローを憎んだ記憶がいつまでも俺の中に(のこ)っているのと同じように。

 その痛みは、彼らにとっての()そのものなのだろう。

 

 ─────それでも。

 ステージの上では、四人の少女達が音を鳴らす準備をしている。

 

 まるで、もう飛べなくなった鳥達の前に、これから空を知ろうとする鳥達が立っているかのように。

 

「……でもさ」

 

 その中で沈黙を破ったのは、貴洋さんだった。腕を組んだまま、彼は少しだけ苦笑する。

 

 

「オレ、思うわ」

 

「オレ達さ、解散してから、ほとんど互いにソロで活動するようになって、会うことすらままならなくなったろ? カナケンは修理や営業の仕事に戻ってたし、潔はフェスやイソスタで活動するシェフしてたし」

 

「そうだね……そういう貴洋だって、色々と海外飛び回って活躍してただろ?」

 

 建介さんが笑う。

 

「凄いよな。天才ベーシストとか言われて、ソロでアメリカとかでも活動してるんだろ?」

 

 彼に同意するように潔さんも、貴洋さんをからかうように続ける。彼はその言葉に照れくさそうに肩を竦めた。

 

「まあ……今はオーチューバーがメインだけどな。結婚もしたし、あんま海外には行けないからさ」

 

 そのやり取りを、親父が静かに聞いている。その口元には微かな笑みが見える。やがて親父は小さく呟く。

 

「……皆、それぞれ自分の人生過ごしてきて、もう交わることはないと思ってたよ。俺も」

 

 そう言葉を発した彼の横顔は、俺には穏やかに見える。

 けれど、その奥にある後悔を、俺はもう知っていた。

 交わらず、もう、戻ることの無い道。昔のようには鳴らない、形の変わってしまったもの。だというのに。

 そう思っていた人達が今、こうして同じ場所に立っているのだ。そのきっかけが俺だったという事実が、どうしようもなく重かった。

 

「……」

 

「……カナケンさん。貴洋さん。潔さん」

 

「……あの、さ」

 

「なんで、集まってくれたんだ?」

 

 俺は、ゆっくりと問い掛ける。すると、三人がこちらを見つめ返す。

 

「声掛けたのは親父だけど……色々、気まずかったろ。やっぱり」

 

 自分で言って、情けない問いだと思った。

 それでも聞かずにはいられなかった。

 だって、俺は知っている。この四人が、綺麗なまま終わったわけじゃないことを。

 父の病気をきっかけに、衝突して、すれ違って、傷つけ合って、それぞれの人生へ散っていったことを。

 そんな人達に、俺は頼んだのだ。

 

 結束バンドを助けてほしい、と。

 

「そりゃ……もちろん、最初は少し躊躇もしたさ」

 

 建介さんは苦笑しつつ、正直にそう言った。そして、隣の二人へ視線を流す。

 

「でもね」

 

「……だって、気になるじゃん?」

 

 建介さんの視線に頷きつつ、潔さんが明るい声で続けた。

 

「そうね。……よりにもよって、あの意固地で、音楽に関してはことさら拘りの強いマッチがさ」

 

 そして、少しだけ親父の方を見て笑う。

 

「『昔の、俺らみたいな子たちの為に力を貸してくれないか』なんて言い出したらさ。なぁ?」

 

 今度は潔さんが貴洋さんへ目線を向ける。彼もまた短く頷いた。

 

「……な」

 

 それから最後に親父を横目に見て、苦笑する。

 

「それに、やっぱ────このまま会えないなんて、な」

 

 

 

「寂しいしな」

 

 

 

「…………」

 

 貴洋さんのその言葉に、親父が堪らず何かを思うように目蓋を伏せた。

 その横顔を見て、俺は初めて、少しだけ分かった気がした。

 この人達が、抱えていた本心の片鱗を。────納得なんか、していなかった。出来ることなら、多分、本当はずっとあの頃に戻りたかったのかもしれない、と。

 この人達はただ、終わったと思っていた時間を、それぞれ抱えていただけなのかもしれない、と。

 

 音楽を。仲間を。

 失ったものを。戻らないものを。

 

 きっと、完全には捨てられなかったのかもしれない。

 

「……そうだな」

 

 俺がそこまで考えた時、親父が、静かに呟く。その声は、今にも消えそうなくらい小さかった。けれど、親父には確かに建介さん達の言葉は届いたのだろう。

 

「僕もさ」

 

 建介さんが、もう一度ステージを見ては、そのまま続ける。

 

「──────この子たちが、どんな音楽を奏でるのか知りたかったんだ。そっくりだよね。昔の僕らにさ。……さっきマッチが言った通りだよ」

 

 その視線の先で、結束バンドの四人が準備を進めている。

 名前まで似ているバンド。

 

 Quartet Bind。

 結束バンド。

 

 偶然なのか。

 皮肉なのか。

 それとも、こうなるための運命だったのか。そんなことを考えていると、潔さんが急に俺の方へ顔を寄せてきた。

 

「あと、あのいたずら好きなやんちゃボーイの春樹がでっかくなった姿とか、その春樹が惚れ込んだとかいう “ひとりちゃん” を見てみたかったしな?」

 

「間違いない」

 

 貴洋さんまでニヤニヤしながら頷く。

 

「うっさいよ、おっさんども……」

 

 反射で顔が熱くなる。……最悪だ。

 この人達、昔からこういうところだけ全然変わってない。なんなんだよもう。

 けれど、そのどうしようもない懐かしさが、少しだけ胸に染みる。なんならそれが、嬉しいとすら思ってしまうのは、どうにも複雑でならない。

 

 このおっさん達は、ずっと、昔からこういう人達だった。

 

 その時、ステージの方で、虹夏が軽くスティックを鳴らした。

 

「……!」

 

 俺は、そちらを見る。

 

「ひとり達、準備できたみたいだ」

 

「おっ。じゃあ、見せてもらおうかな」

 

 俺の言葉に対し、建介さんは優しく目を細める。

 

「お手並み拝見、ってやつだな」

 

 貴洋さんが低く笑う。

 

「そうだね。……さ、実際はどんな音かな」

 

 潔さんも、楽しそうに言った。

 親父は眼鏡の奥の瞳を、ステージのひとりへ合わせている。

 その目を見て、俺は僅かに息を呑む。

 昔、ステージに立つ前の親父と同じ目だった。

 音が鳴る前から、その先にあるものを見ようとする目。

 弦の震えも、呼吸も、指先の迷いも、全部拾おうとする目。

 

 そして、その視線の先で。

 後藤ひとりもまた、同じような目をしていた。

 

 怖がりで。

 臆病で。

 今にも逃げ出しそうなくせに。

 

 ギターを抱えた瞬間だけ、世界の奥を見ようとするような目。

 

 ああ。やっぱり、似ている。

 

 そう思ってしまったことを、俺は誰にも言わなかった。

 言えなかった。言えるはずもなかった。

 ひとりが一歩、マイクの前へ出る。小さく息を吸う音が、スピーカーを通して微かに広がった。その時だった。

 

「ひとりちゃん」

 

「……っ、あっ、はい」

 

 親父が、彼女の名前を呼ぶ。俺は反射的に親父へ目線を向ける。親父はそのまま、ひとりのことを真っ直ぐに見つめている。でも、よく見ると違う。親父はひとりだけじゃない。ステージに立つ四人全員を見つめているのに気付いた。

 

「俺はね、コイツの言葉を信じてる」

 

「………!?」

 

 そう言って、親父は俺へ目線を向ける。

 思わず、その言葉に強くつよく目を見開く。

 

「俺譲りの耳も、音楽への想いも。俺なんかより、ずっと鋭い洞察力も含めた────息子の全てを、俺は信じてる」

 

「…………親父」

 

 その言葉に、どうしようもなく俺は胸が締め付けられた。

 堪らない気持ちになった。

 堪らないから、ゆっくりと目を逸らして俯く。なんとなく、頬を掻きながら視線を落とす。そのとき目じりに熱いものが急に込み上げた気がして、思わず人差し指と中指で目元を無理矢理擦った。

 親父は、ゆっくりと続ける。ひとりの目を見つめたまま。

 

「…………春樹がそこまで、本気で全てを懸けてでも推す君達の姿を」

 

「─────俺たちにも見せてくれ」

 

「君達が、どんなバンドなのかを」

 

 ひとりへ、目線を向ける。

 彼女とも目が合う。

 その眼差しの奥の瞳は、揺れているのが分かった。だというのに。

 それなのに、彼女は小さく笑ってみせたのだ。俺はまた目を剥きながら、その彼女の姿にただただ吸い寄せられてしまう。

 

「─────………はい」

 

「結束バンドで──────── “あのバンド” を、演奏します」

 

 ひとりは、小さく頷く。やがて郁代に、リョウに、虹夏にそれぞれ目線を送ってから、ハッキリと宣言をしながら。

 

 

 

「けっ、結束バンドの、結束力────観てください!!」

 

 

 

 

 その声は、震えていた。でも、逃げる声じゃない。

 その震えごと前へ出す声だった。この残酷な世界に、彼女なりに抗おうとする意思そのものだった。そして次の瞬間、虹夏のスティックがカウントを刻む。

 

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 四つ。

 

 やがて──────結束バンドの『あのバンド』が、鳴り始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 虹夏が叩く最初のハイハットとライドシンバルの刻み。

 

 それが鳴り響いた瞬間、俺の中で雨が降った。

 

 今ここに、雨なんか降っていない。STARRYの空気は乾いている。外の冬の夜も、きっとただ冷たいだけだ。それなのに、耳の奥で、あの日の雨が鳴った。あの日、あの時。あの瞬間が、俺の脳裏に再びその身をもたげた。

 台風の夕刻。客の少ないフロア。崩れかけた演奏。

 観客席から小さく見えた、まだ名前も何も知らなかった頃の虹夏の姿。

 それから。

 近くに居た観客の女の「やっぱ全然パッとしないわ」「早く来るんじゃなかったね」などと言い放つ無神経な呟き。それを聞いて堪らず苛立ち、「そういうことはロインにでも書けよ」と言いそうになって、呑み込んだこと。

 だけど、その言葉に一部分同意してしまう自分も居た。

 どうしても、Quartet Bindの彼らを知っていたからこそ、遠く及ばないと思った自分も居たのだ。

 

 色んな意味で聞くに耐えなくて、俺は踵を返した。

 だけどその刹那。

 

 壊れそうなバンドの真ん中で、突然前へ出た、一本のギター。

 

 たちまち俺は足を止め、勢い良く振り返ったのだ。それ以前とはまるで別人の様に、アンプから放たれる重低音。躊躇いが消えたわけじゃないのは音で分かった。

 でもそれでも。

 その低音に重なるようにして、強烈な高音すらも、言葉にならない足掻きさながらに俺の耳には確かに届いた。荒々しいカッティング。歯を噛み締め、背を丸めて、今にも泣きそうな顔のまま六弦を掻きむしって加速していく姿。

 

 目立ちたかったわけじゃないのだろう。自分を見てほしかったわけでもないのだろう。

 ただ、音を止めないために。誰かの背中を支えるために。

 

 後藤ひとりは、あの時、確かにギターを鳴らした。

 

 俺は、あの日のひとりを覚えている。忘れようはずもない。

 あの瞬間にしか見えなかった彼女がいた。

 

 後に気付いたギターヒーロー。その名に相応しいほどの技術と、孤独と、切実さ。

 そして、溢れ出す “痛み” への抗い。

 そこにどうしようもなく重なった、親父の姿。

 

 あの時、俺は確かに思ったのだ。

 

 ああ。

 この子は、似ている、って。

 

 俺がずっと焦がれて。

 憎んで。

 届かなくて。

 それでも忘れられなかった、あの “一番星” に。

 

 それが一目惚れによる恋だったのか、救いだったのか、憧れだったのか。当時の俺には、きっと分かっていなかった。

 ただ、その音に救われた。それだけは、今でもはっきり覚えている。

 

 けれど、今鳴っている『あのバンド』は、あの日の音とは違っていた。

 

 あの日は、ひとりのギターが崩れかけたバンドを引き戻した。一本の強い糸が、ほどけかけた四人を無理やり繋ぎ止めるかのような音。

 今は違う。

 ひとりは、確かに中心にいた。

 けれど、彼女だけが前に出ているわけではなかった。

 

 虹夏のドラムが、あの時よりも遥かに安定して曲の足場を作っていた。

 リョウのベースが、その下から無言で支えていた。

 郁代の声が、ひとりの孤独を外へ運んでいた。

 そしてひとりのギターが、その全部を切り裂くのではなく、結び直していた。

 

 あの日に生まれたものが、今は形になりかけている。

 そう思った。

 

 完全ではない。まだ粗い。微かなズレもあった。危うさもあった。

 ──────それでも。

 

 この四人でなければ鳴らない音だった。

 

 隣を見る。Quartet Bindの四人も、すぐには言葉を発しなかった。

 潔さんは、虹夏の方を見ていた。

 貴洋さんは、リョウを見ながら、何か考え込むように顎へ手を添えている。

 建介さんは、腕を組んだまま静かに目を伏せている。

 そして親父は、ひとりを見ていた。

 

 ただ、後藤ひとりだけを。

 

 その横顔に、俺は少しだけ胸を締め付けられた。

 

 嬉しいはずだった。

 俺が見せたかったものを、親父が見てくれている。

 俺が信じた音を、正しく受け取ろうとしてくれている。

 なのに、少し痛い。

 

 あの目で見てもらいたかったのは、ずっと俺だったからだ。

 そんな感情が、胸の奥で小さく顔を出して、俺はすぐにそれを飲み込んだ。

 

(───────…………)

 

 目を閉じる。彼女達の奏でる音に、鼓動が響く。

 ─────今は、違う。

 これは俺のための時間じゃない。この道を選んだのは、俺だ。俺自身だ。

 ひとり達が「あのバンド」で自分達の音を選ぶのなら、それを支える選択をしたのも、俺の意思だ。

 

 これは、結束バンドのための時間なんだ。

 

 演奏は終盤。ひとりと郁代、リョウが虹夏の方へ背を丸め、虹夏もペダルとタムで音を仕上げながら僅かに屈んでいく。いつもの通りの、結束バンドのフィニッシュ。

 やがて最後の音が、STARRYの天井に当たって、壁へ染み込んで、床へ落ちていく。

 アンプの微かなノイズ。

 ひとりの荒い息。虹夏がスティックを握り直す小さな音。

 郁代の喉が震える気配。リョウのベースが、まだ低い余韻を抱えている。

 

 その全部が、演奏の続きみたいに聞こえた。そして郁代を始めとして全員が前を向き、頭を下げた。

 

「ありがとうございました!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから少しして、俺達はまたテーブルを挟んで向かい合った。

 

 結束バンドの四人は、演奏を終えたばかりの熱をまだ身体に残したまま、それぞれ席に座っている。

 虹夏と郁代は、期待と不安が混ざったような、二人揃って似た表情を浮かべる。リョウはいつも通り無表情に見えるけれど、指先が僅かに膝の上で動く。

 ひとりは、親父達の正面に座ってしまったせいで、また顔を伏せて固まっていた。分かる。あれは緊張している。たぶん、ものすごく緊張している。

 なんなら人間の形を保っているだけ、さっきより偉いまである。

 俺はテーブルの端に両手をつき、一度深く息を吸う。

 

「────みんな、お疲れ」

 

 まず、四人へ声をかける。

 ひとりが僅かに肩を揺らす。虹夏が俺を見る。

 郁代が小さく頷く。リョウはいつも通り、少しだけ口元を緩めた。

 

「……おっさん方も、聴いてくれてありがとな」

 

「おっさん方って言うな」

 

 苦笑した貴洋さんが即座に突っ込む。

 潔さんはけらけら笑った。建介さんも苦笑している。

 親父だけは、どこか面白そうに俺を見ていた。

 少しだけ空気が緩む。それを確認してから、俺は改めて問いかけた。

 

「……どうだった?」

 

 俺の言葉を聞いた建介さんが、ゆっくりと口を開く。

 

「────素晴らしかったよ、皆」

 

 その言葉で、結束バンドの四人の表情が一気に動く。

 虹夏と郁代が顔を見合わせる。

 ぱぁ、と明るくなった郁代が、嬉しそうに小さく手を上げた。虹夏もそれに応えるように、ぱちん、と軽くハイタッチする。

 リョウは心なしか得意げだった。ひとりも、ほんの少しだけ顔を上げた。

 

「ギターやベースはもちろん、ドラム、歌声、リズム。個人的には、女子高生バンドにしては完成度は高い方だと思った」

 

「……女子高生バンドにしては、か」

 

 俺は、その言葉を拾った。

 褒め言葉だ。────間違いなく。

 でも、そこに含まれる現実も分かる。

 この人達は、優しいだけで来てくれたわけじゃない。本当に音を聴きに来てくれた。

 だからこそ、甘い言葉だけでは済ませない。

 

「潔さん、貴洋さん、親父は? どう思った?」

 

「……いや、ほんとお世辞抜きで割と大したもんだよ」

 

 貴洋さんが少し身を乗り出す。その視線は、ひとりに向いていた。

 

「高校生だろ、君たち。すごかったけどな。でも、ギターの子」

 

「ひゃ、ひゃいっ!?」

 

 ひとりの肩が跳ねる。

 

 貴洋さんは、その反応に少しだけ笑いながらも、目は真剣なままだった。

 

「ひとつ思ったけど……君、実力抑えてる?」

 

「えっ……!?」

 

 その瞬間。場の空気が、僅かに張り詰めた。

 虹夏達が、一瞬だけひとりを見る。無論、ギターヒーローのことを知っているからだろう。ひとりは俯いたまま何度もおろおろとしている。やがて、覚悟を決めたように掌を膝の上で握りしめ、目蓋を閉じてそっと口を開く。

 

「あっ、えっと、その……」

 

「わっ私は、元々ひとりでずっと三年間、ギターやってて……合わせる技術が全然できていないので、多分、まだ下手くそのミジンコ以下なんだと思います……」

 

「いや、そんなことはない」

 

 親父が、静かに言った。断言した。

 その言葉に、ひとりの視線が、びくりと上がる。目を見開いたまま、親父を見つめ返す。その顔色には困惑と驚愕が貼り付いている。親父はひとりと目を合わせつつ、続けた。

 

「ところどころ、君一人の伴奏になるところがあったけど、その部分は明確にレベルが違っていた。……その技術が完成したら、間違いなく君は化けるよ」

 

「…………」

 

 ひとりは、言葉を失っていた。褒められ慣れていないとか、そういう話だけではないのだと思う。親父の言葉には、妙な重さがあった。

 俺には、それが分かった。アレは、同じ場所を知っている人間の言葉。ひとりはそれを、きっと本能で感じ取っている。

 

「……あっ、う……ありがとう、ございます」

 

 それでも、彼女は吃りながらもなんとかそう返す。だけどひとりは「で、でも」と俯かせていた面を上げる。

 

「私は、みんなと一緒にやりたいんです。皆で……未確認ライオットで、グランプリを、狙いたいんです」

 

 両手を胸元へ添え、そう親父へ訴えた。親父は眉ひとつ動かさず、その言葉を受け止める。微かに、沈黙が走る。

 

「……」

 

 俺は、敢えて何も言わなかった。

 言わなくていいと思った。─────ひとりが、自分で言ったからだ。

 あのライター女に対しても。親父に対しても。

 私は、一人で行きたいんじゃない。この四人で行きたい。

 彼女はそれを、何度もここに至るまで言ってきたのを知っていたから。

 

「……そっか」

 

 ひとりの言葉を聴いて、黙っていた建介さんが、優しく頷く。そうして、会話の波を続ける。

 

「……もちろん、際立っていたのがひとりちゃんだからっていうのはある。でも、他の子達も決してレベルが低いわけじゃない。むしろ、高い方だと思うよ」

 

 彼のその言葉を聞いて、俺はそこで疑問が湧く。

 

「カナケンさん」

 

「ん?」

 

 俺は、ゆっくりと彼を見る。

 

「プロを知ってるカナケンさん達に聞きたい」

 

 喉の奥が少しだけ乾く。舌もカラカラになるのを感じながら、それでも意を決して問う。

 

「さっき聴いてもらったこの子達……結束バンドは、今のままで未確認ライオットのグランプリを狙えると、本気で思う?」

 

「……………」

 

 建介さんは、すぐには答えなかった。無論のこと、他の三人も。やがて建介さんは右手を顎へ添え、なにやら考え込む。その沈黙で、結束バンドの四人の表情が少し強張るのが見える。

 それでも俺は、問いを取り下げなかった。

 ここで甘いことを言っても意味がない。虹夏達には何度も伝えてきた。彼女達も、きっと分かってくれていると信じている。

 ──────俺はこの子達に夢を見せたいわけじゃない。夢を掴みに行くための、現実が欲しいのだ。その為に、俺はここに居る。

 

「……ハッキリ言った方がいいよね」

 

 ひとつ、小さな息をついて建介さんが、静かにそう呟く。

 

「…………正直に言うよ」

 

「今の段階では、難しい。僕はそう思う」

 

 虹夏が、僅かに俯く。

 郁代の指先が、膝の上で強く握られる。眉を悲しげに(ひそ)めて目蓋を閉じている。

 リョウは表情を変えなかったけれど、目だけが少し細くなった。

 ひとりもまた、視線を落とす。

 潔さんも、貴洋さんも渋々、だけど誤魔化さずに頷く。

 

「……そりゃそうだよな」

 

 俺は苦く笑う。

 分かっていた。

 分かっていたはずなのに、いざ言葉にされると胸が痛む。でも、建介さんはそこで終わらなかった。

 

「どの子達にも、間違いなく課題はある。でもね」

 

「!」

 

 その声に、俺は顔を上げる。

 建介さんは、結束バンドの四人を真っ直ぐに見つめていた。

 

「今のこの子らには、間違いなく伸びしろがある」

 

 その言葉が落ちた瞬間、空気が少し変わった気がした。

 

「……伸びしろ、ですか?」

 

 郁代が問い掛ける。それに対しては、ハッキリと健介さんは頷いた。

 

「さっきの演奏で僕に伝わったのはね。この子達がどんなバンドなのかということなんだ」

 

「ど、どんなバンドか、ですか?」

 

 ひとりもまた、不安そうに聞き返す。

 建介さんは再び頷きながら「そう」と返す。そして、彼はひとりを見る。

 

「僕が感じたのはね……後藤さん。このバンドは、皆……君を中心として動いているバンドなんじゃないかということ」

 

「…………っ」

 

 ひとりの目が、大きく見開かれる。

 

「そして、逆に君がこのバンドを支えながら動いてもいるんじゃないか。そう思ったんだよ」

 

 その言葉に、虹夏達も息を呑んだ。

 郁代が、おそるおそる口を開く。

 

「ど、どうして……そう思うんですか?」

 

 俺も驚いていた。まるで、三ヶ月前に起きたことまで見抜かれたかのような感覚がしたからだ。建介さんは、柔らかく微笑む。

 

「同じだからだよ」

 

「同じ……?」

 

「君達はそっくりなんだ。昔の僕達にね」

 

 その言葉で、親父が少しだけ目蓋を伏せた。腕を組んだまま、微かに親父は微笑んでいる。

 

「当然、僕らにだって……君達のようにアマチュアだった時期があった。そんな時───」

 

「……ボーカルギターであるマッチを中心に、オレらは演奏し合おうって話、したんだよな。潔」

 

 健介さんの言葉を補足するように、貴洋さんが、懐かしそうに呟く。

 

「……うん」

 

 潔さんが頷いた。

 

「そう。それをきっかけに、バラバラだった音楽への姿勢が……明確に一つになっていったんだ。そこからはもう、ひたすら毎日練習したもんさ」

 

 そして、彼は虹夏を見る。

 

「おれも、ドラムとして、皆のメトロノームになる為に必死だったからね」

 

「…………!」

 

 潔さんと目が合った虹夏の表情が、はっきりと強張った。見開いた瞳には、驚きと困惑が見てとれた。

 あたしと同じだ。

 きっと、そう思ったのだろう。それは言葉にはしなくても、分かった。

 

「僕らの経験を踏まえて言うなら、君たちなら大丈夫。信じていい。君らはきっと、素晴らしいバンドになれるはずだ」

 

 建介さんの声は、優しい。────でも、ただ優しいだけではない。

 

「大切なのは、方向だよ。君たちはちゃんと、その方向性は見えてる」

 

「あとは、各々の技術的課題を僕達がカバーする。……その為の練習に君たちがついてくる気概があるかどうか、ってところかな」

 

「……つまり」

 

 そのタイミングで俺は、静かに問い返す。

 

「『今の段階』では難しいってだけで、可能性が全く無いわけではない。そう判断していい? カナケンさん」

 

「うん」

 

 建介さんは、迷わず頷く。

 

「そういうことだ。そりゃ、プロにはまだ遠く及ばないけどね。だけど……何を表現したいかが既に明確な君達には、今はまだ未熟でも、それでも光るものがあった。そう感じたのは、嘘偽りのない本音だよ」

 

「……すげーな。やっぱ昔からカナケンはこういうのの言語化上手いね」

 

 潔さんが健介さんに対し、感心したように言う。

 

「ほんとな」

 

 貴洋さんも頷く。

 建介さんは、少し照れたように笑った。

 

「あはは、ありがとう」

 

 俺は、結束バンドの四人を見る。

 

「……だ、そうだ」

 

 声が少しだけ震えた。でも、隠さなかった。

 

「ひとり、虹夏、リョウ、郁代。……皆、まだグランプリを獲れる可能性がある。客観的に、プロから見てもだ」

 

 四人の目が、こちらを見る。俺は続けようとして、ふと現実的なことに思い至った。そういえば、この事を聞かないと。

 

「あ。あのさ、ひとつ確認なんだけど、費用面は……」

 

「あはは、僕は一切要らないよ」

 

 俺の言葉を予想していたかのように、建介さんが、あっさりと遮る。俺は堪らず困惑して「えっ、いや、でも」と返す。

 

「そ、そんな! さすがに申し訳なさ過ぎます!」

 

 それに同意するように、虹夏も慌てて身を乗り出す。

 

「オレも要らんよ。別にお金には困ってないしな。ちょうど、ここ最近暇だったし」

 

 貴洋さんが軽く肩をすくめる。潔さんもまた、それに便乗する様に苦笑する。

 

「同じく。ただ、おれはオーチューブやフェスに出向かなきゃいけない時があるから、やるタイミングは要相談って感じかな」

 

「……皆」

 

 俺は思わず、言葉が詰まる。それを聞いていた親父が、隣で小さく笑う。

 

「………どっちかっていうと個人的な興味、ってやつだろ。皆」

 

 そう呟いた親父に対し、残る三人は、気持ちよく頷いてみせた。

 

 

「……ほんとに、いいのか? 何も返せねえかもしれないんだぞ」

 

「はは」

 

 俺の質問に対し、親父が笑う。

 

「そんなに気に病むなら、今度俺らにまた飯でも作ってくれ、春樹。俺も、費用面は一切要らない。個人的に弟子を取るようなものだと思ってるしな」

 

「そういうことだね。そこも全員同意見かな?」

 

 潔さんの言葉に、貴洋さんと建介さんも頷く。

 

「なにより、面白そーだしな。おっさんには楽しい趣味みたいなもんになりそうだし」

 

「はは、違いない」

 

「…………」

 

 俺は、もはやしばらく何も言えなかった。

 胸の奥が熱くなる。

 情けないくらいに。

 俺はこの人達へ、ずっと複雑な感情を抱いていた。

 父の仲間。父と一緒に輝いていた人達。そして、父の夢が壊れていく時、その場所にいた人達。

 なのに今、その人達が、俺が大切にしているバンドのために笑ってくれている。

 

「皆さん……いい人すぎだよぅ……」

 

 虹夏が、申し訳なさそうに、でも感動したように呟く。

 

「ありがとうございます……!」

 

 郁代の声は、少し涙ぐんでいた。

 

「……ほんとにいいんですか?」

 

 リョウが、静かに聞く。

 

「もちろん」

 

 貴洋さんが即答した。

 リョウは少しだけ目を見開き、それから珍しく、深く頭を下げた。

 

「……ありがとう、ございます」

 

「………」

 

 それを見て俺は、一度息を整える。

 意を決して、もう一度四人を見る。

 

「────こう言ってくれてることだし、費用面も心配はしなくていい」

 

「だから、ひとり達に聞くのはもう、あとは覚悟だけだ」

 

 場の空気が、また少し引き締まる。

 

「この人達はプロだ。教えを乞うなら、相応の覚悟は必要になる。……それに応える意思はあるか?」

 

 俺は、一人一人を見据えて問いかけた。最初に笑ったのは、虹夏だった。

 

「……こんなに良い人達にめぐり逢えるなんてこと、まず無いんだもん。NOなんて選択肢、今さらある?」

 

 その声は、少し震えていた。けれど、それ以上に高揚しているのが声色で分かった。

 

「……同意。まずこんなチャンス、ないと思う」

 

 表情は変わらない。だけど、いつになくやる気を出しているように見えるリョウが、そう言って小さく頷く。

 

「私もそう思います! ぜひ、ぜひお願いしたいです!」

 

 郁代が意気揚々と胸の前で両手を握り、それからひとりを見る。

 

「……ひとりちゃんは?」

 

「────………」

 

 ひとりは、顔を伏せていた。

 その肩は、もう震えていなかった。やがて彼女は、ゆっくりと顔を上げる。

 虹夏を見る。リョウを見る。郁代を見る。

 そして、俺達を見る。

 

 

 

「……あっ、はい……!!」

 

「お願いします……!」

 

 

 

 小さな声だった。

 でも、はっきりしていた。

 

「……よく言ってくれた」

 

 俺は、思わずそう呟いた。頬が弛んで、堪らず抱き締めたくなるのを堪えた。そのまま、それから親父を見る。

 

「……親父。皆は本気だ。Quartet Bindのリーダーであるあんたの意見も聞きたい。……教えてくれ」

 

 親父は、やっぱり腕を組んだまま、しばらくひとり達を見ていた。そして、ゆっくりと視線を上げる。眼鏡へ右手を添え、しっかりと掛け直す。

 

「────分かった。俺からも言わせてもらう」

 

 机の前で立つ俺の隣に座るひとりが、机の下で両手を握るのが見える。

 親父は続ける。

 

「……さっき建介も言っていたが、君たちはよく俺達に似ている。名前も、演奏のスタイルも、その在り様も」

 

「だから、よくイメージできる。君達がこれから先、向かうことになるものに対しての立場も」

 

「だからこそ、ここでの選択は大きな岐路になる。君が、君たちがこれから進む道を、大きく左右することになると思う」

 

 その声は、穏やかだった。けれど、重い。誰も、口を挟まなかった。

 虹夏が、僅かに俯いた。その不安を見逃さなかったのは、潔さんだった。

 

「……伊地知さん」

 

「っ……はい」

 

 虹夏が潔さんの方へ顔を向け直す。

 

「もし君が本当に、心からこのバンドで夢を叶えたいと願っているなら、何があっても諦めずに努力を続けられる?」

 

「…………」

 

 虹夏は、すぐには答えなかった。眉は八の字になっていて、酷く不安げに、そして唇はキツく結んでいる。やがて彼女は、正直に口を開く。

 

「……ホントのこと、いうと、あたしは、自信があるとは断言できないです」

 

「ここまで有り難い言葉を貰えてて……こんなこと、言っちゃダメかもしれないけど……お姉ちゃんにQuartet Bindの皆さんの演奏を見せてもらって、その存在を知った時から、あたしも、その音をたくさん聴いてきたんです」

 

 虹夏もまた、膝の上で手を握る。その肩が微かに震えている。

 

「……レベルが違うって、あたし自身も思うので……」

 

「虹夏先輩……」

 

 隣に座る郁代が心配そうに見る。その言葉に、親父は優しく頷いた。

 

「正直でいい。不安なのは当たり前だ」

 

「怖いのは当然のこと。だからそれでいい。だけどね」

 

 そこまで聞いた虹夏が、親父を見つめ直す。

 

「君も分かっているとは思うけど、君達は独りじゃない。……バンドは独りじゃ成り立たない。だから、お互いを信頼し合う必要がある」

 

 独りじゃない。

 それは、俺の心を高揚させる。それは、俺も身をもってよく知っていること。そもそも、独りでやるならバンドである必要性は無い。誰か一人が突っ走っても、独自の色を出せばいいわけでもない。バラバラであってもいい。それでも、お互いの色を認め合い、それを調和させること。

 それこそが、バンドの本質だ。

 やがて親父の視線が、四人を順に見渡す。

 

「それはきっと、もう君たちは出来ているはずだ」

 

「だからこそ、次に高めるのはその技術だ」

 

「……私達は、それに値しますか?」

 

「プロの、皆さんに教えてもらうのには」

 

 そこまで聞いたリョウが、親父へ静かに問う。

 

「ああ」

 

「間違いなく。君達の熱意は本物だし、俺達も君らに期待している」

 

 親父は、迷わず答えた。そして、少しだけ笑う。

 

「君達の結束力を、これからももっと魅せてほしい。……その価値がある」

 

「………ッッ」

 

 俺は、その言葉に胸の奥が強く鳴るのを感じた。ひとりのさっきの言葉を踏まえた上で、親父はそう言ってくれているのだろうと分かった。

 

「だからこそ、ここで約束する。俺達は全力であなた達をサポートする。お前らも、異議はないな?」

 

「もちろん!」

 

 親父は静かに腰を上げ、横に居る潔さん達へ目線を向ける。潔さんが両膝を叩くようにして意気込む。

 

「言われなくても、オレもこの子達に仕込みたいしな」

 

 貴洋さんが歯を見せて笑う。

 

「覚悟はいいね? 君達」

 

 建介さんは静かに問いかけた。

 ひとりは、目蓋を伏せていた。

 机の下で握りしめた両手に、強い決意と願いを込めるようにして俯いている。そして、彼女はゆっくりとその瞳を開く。

 

 

「……はい……!!」

 

 

 いの一番に。

 誰よりも早く、ひとりが答えた。

 

「…………!」

 

 虹夏達が、驚いたようにひとりを見る。俺も、少しだけ目を見開いた。

 その瞬間、どうしようもなく嬉しくなる。

 ああ。

 まただ。

 

 この子は、いつもそうだ。

 

 怖いはずなのに。震えているはずなのに。それでも、大切な時には一番最初に前へ出る。この子は、そういう子だ。

 

「……はいっ!」

 

 やがて、虹夏が続いた。

 

「……お願いしたいです」

 

 リョウが、少しだけ武者震いするように微笑む。

 

「是非……お願いしますっ!」

 

 郁代が、意気揚々と頭を下げる。

 

「………よし」

 

 その四人の様子を確認して、親父が改めて頷いた。

 

「……覚悟は決まったみたいだな」

 

 その声に、空気がもう一段階、引き締まる。自転車のギアを一段重くするかのように、ここから先、空気の速度も変わっていく。

 

「では、未確認ライオット。ライブ審査、及びファイナルライブ……フェス最終審査まで、あと残り五ヶ月と少し」

 

「容赦なくしごくぞ。着いてこれるね」

 

 親父は、静かに宣言した。

 

 

「はい……!!」

 

 

 四人の声が、重なった。

 その響きを聞きながら、俺は、ようやく少しだけ息を吐く。

 

「……皆、今まで以上にハードになる。提案しといてなんだけど、ほんとに大丈夫か?」

 

「上手くなるためには努力が必要。勿論、無理は厳禁だけどね!」

 

 俺の問いに、虹夏は明るく笑う。

 

「でも、あたし達皆でプロを目指すなら、またとないチャンスだもん。……今やらなきゃ、きっと後悔する。ね、皆」

 

「……同感」

 

 リョウが頷く。

 

「あっ……はい!」

 

 ひとりも、どこか嬉しそうに笑った。

 

「みんなで、ずっとこれからもライブをしたいですしね!」

 

 郁代が、三人へ向けて眩しい笑顔を向ける。

 その光景を見て、俺は思わず胸の奥を押さえたくなった。

 

(ああ、そうだ)

 

(俺が見たかったのは─────)

 

 そんなことを、強く思う。

 誰か一人だけが光るんじゃない。誰か一人だけが背負うんじゃない。

 この四人で、行くこと。

 このバラバラの四人で、歩き出していくこと。

 

 俺は、この姿が見たかったんだと、気付く。

 

「……覚悟、決めた? ひとり」

 

 やがて俺は、ひとりへ問いかけた。

 彼女は一瞬だけびくりと肩を揺らしたあと、上目遣いで俺を見つめる。

 それから、こくりと小さく、しかし確かに頷く。

 

「……っ、はい! ……が、頑張りますっ!」

 

 これまでのひとりからは、それは少し考えられないくらい明確な声だった。

 虹夏が、そんな彼女を見て微笑む。リョウも静かに頷く。郁代は嬉しそうに目を細めた。

 椅子から立ち上がった親父も、少しだけ表情を和らげる。

 

「……じゃあ、早速だけど明日から練習を始めよう」

 

 親父は、順に四人を見る。

 

「レクチャーの役割は、同じ楽器を扱う人間が原則担う」

 

「建介には喜多郁代ちゃんを」

 

「貴洋には山田リョウさん」

 

「潔には伊地知虹夏ちゃんを」

 

 そして。

 最後に、ひとりを見る。

 

「────そして、後藤ひとりちゃん」

 

 その瞬間、親父の声の質が少し変わった。

 柔らかいのに、逃げ場がない。優しいのに、まっすぐ深く刺さる。

 

 

 

 

「君は、俺だ」

 

 

 

 

 その瞬間、俺は、息を止めた。ひとりと親父は、互いに向かい合う。

 親父は、ひとりを見据えている。ひとりもまた、親父を見つめ返す。

 それは、文字通りの、師と弟子の関係が成り立った宣言でありながら。

 聞きようによっては、君は僕に似ている、と。

 互いに似た者同士であることを宣誓したような言葉そのものだった。

 

 

 

 

「っ……!!」

 

 

 

 

 刹那、ひとりの瞳が、大きく揺れた。

 その場にいる全員が、息を呑む。俺も、何も言えなかった。

 嬉しい、と思った。

 やっぱり親父は分かってくれた。ひとりのことを。俺が何度も言葉にしようとして、それでも説明しきれなかったものを。

 

(……………)

 

 同時に、胸の奥が小さく痛む。あの言葉が、少しだけ羨ましいと思ったのだ。

 

 俺は、親父に似たかった。親父みたいになりたかった。親父の隣で、同じ音を鳴らしたかった。親父と、同じように。でも、親父が今、自分と同じだと言ったのは、俺ではない。

 

 

 その相手は、後藤ひとりだった。俺が憧れて、俺が憎んで、俺を救ってくれた存在。

 

 

 そんな感情を抱いた自分が、どうしようもなく嫌になる。

 けれど、目を逸らさなかった。それでいいと思ったのだ。その感情も含めて、それでも、と俺は思う。

 

 だって、それでも。

 それでも俺は、この瞬間を見たかったのだ。

 それだって、嘘じゃない。この気持ちは、間違いなく本物だ。誰がなんと言おうと、もう、自分の心を偽って出てきたものじゃない。

 

 俺は、親父に、ひとりを見てほしかった。

 

 俺が救われた光を。

 俺が信じたギタリストを。

 俺がこの世で最も好きになった女の子を。

 結束バンドの中心にいる──────俺の大切な人を。

 

「はい……っ!」

 

 ひとりが、震えながらも返事をした。

 

「あっ、えっと、その……あの、なんて、お呼びしたら……」

 

「ふふ。名前でいいよ。息子と紛らわしいからね」

 

「……よ、よろしく、お願いします。正樹さん」

 

 その瞳には、もう迷いはほとんどなかった。

 親父は満足そうに笑う。

 

「よろしくな。……お義父さんって呼んでもいいぞ?」

 

「あっ、え゛っ……ッッ!?」

 

 ひとりの顔が、一瞬でタコみたいに耳まで赤くなった。

 あわあわと手を小刻みに動かし、三秒で描いたみたいな顔へ崩壊していく。

 

「親父ィィイィッ!! 人の彼女にセクハラしてんじゃねぇ!!」

 

 思わず叫んだ。顔が熱い。最悪だ。

 この親父、さっきまで真面目だったくせに。

 

「あっはははっ! ジョークだジョーク!」

 

「ま、正樹さん……」

 

 ひとりはぷしゅーーっ、と顔から煙を出して顔面崩壊しつつ、林檎のように赤くなっている。そんなひとりの様子に親父はカラカラと大笑いしながら、俺の頭をわしゃわしゃとかき回してくる。

 

「お前もひとりちゃんも可愛いやつだなぁ」

 

「ったく……、やめろこの、ぁあっ、もう」

 

 だけど、抵抗はしなかった。─────久しぶりに見たからだ。こんなふうに笑う親父を。

 そのせいで、怒りきれなくなった。

 ずりぃよなぁ、と思う。だからこそ、俺は、そこで息を吐く。

 

「……頼むぜ? 親父」

 

 その言葉を聞いて、親父は笑みを収めた。先程とは一転して、真剣な表情で微笑む。

 

「あぁ、分かった」

 

 そして、ひとりを見る。

 

「任せろよ。責任を持って、お前の彼女を、世界一のギタリストに育ててやる」

 

「……………っ」

 

 胸の奥が、強く締め付けられた。親父は微かに得意げな様子で、ニンマリと口元に笑みを浮かべる。

 

「こう見えても、……一応メジャーで前線張ってたからな?」

 

「…………」

 

 知ってるよ。

 俺がそんなこと、世界で一番。

 

 あんたのことを、俺はずっと、ずっと追いかけてきたんだから。

 

 幼い頃、ステージの上で光っていた父の背中。

 テレビの向こうで、ギターを掻き鳴らしていた姿。

 届きたくて。

 届かなくて。

 それでも、どうしようもなく焦がれていた一番星。

 その人が今、俺の隣で。

 俺の彼女を、世界一のギタリストに育てると言っている。

 嬉しくないわけがない。痛くないわけがない。

 その両方が、同じ場所で鳴っていた。

 

 ふと、ひとりと目が合う。ぱちり、と。

 顔面崩壊して震えていた彼女が、少しだけ人間に戻って、俺を見ていた。顔を赤くしたまま、互いに見つめ合う。何ともいえない気恥ずかしさが、俺達の間の空気に混じる。

 

「……ひ、ひとり」

 

「あっ、ひゃ、ひゃい。春樹くん」

 

 縮こまる彼女が、更にびくりとする。そんな可愛らしい姿のひとりに癒される。気恥ずかしさを振り払うように、俺は意を決して彼女へ真っ直ぐに微笑み返す。

 曇りのない信頼。

 祈り。そして、何よりも願いを込めて。

 

「……一緒に、未確認ライオット。グランプリ目指すぞ!」

 

「…………っ!!」

 

 それを聞いて大きく目を見開いたひとりの表情が、ぱっと華やぐ。

 頬を赤らめながら、それでも彼女は強く頷く。

 

「あっ、……は、はいッッ!!」

 

「っ、あははっ!」

 

 その返事を聞いて、俺はようやく心の底から笑えた気がした。

 

 結束バンドは、ここからもっときつくなる。

 きっと何度も躓く。

 泣く日もある。

 嫌になる日もある。

 もう無理だと、思う夜もあるかもしれない。

 

 それでも。

 この子達は、行くと決めた。そして俺も、行くと決めた。

 

 今なら思える。不安で泣いた日も。歪んだ日の痛みも、苦しさも────きっと、無意味ではなかったかもしれない、と。

 ステージへは立てない。ギターも弾かない。

 それでも構わない。

 それでも、この子達と一緒に、未だ見ぬ明日へ行こう。

 

 

 

 そのために、俺はここにいるのだから。

 

 

 

 後日、Quartet Bindの面々は星歌さんやPAさんとも挨拶をした。

 ちなみに、長年のファンだった星歌さんは、四人を目の前にして感涙に震え、最終的には全員からサインを貰っていたのだが。

 

 それはまた、別のお話だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 スマホの着信音が響き、あたしは自室で目を覚ます。

 

「んぁっ……やば……」

 

 机の上で寝こけていたんだと思う。頬がじんじんする。口元を拭って、あたしはそのまま顔を上げる。あれ、これ今何時。

 書きかけの記事。冷めたコーヒー。散らかった資料、ギタマガと過去のロッキン等の雑誌が机上には山のように重なっている。

 そしてパソコンの画面に映る、起動したままのタイピングソフト。そのすべてから一瞬だけ目を離して、あたしはスマートフォンの画面を覗き込む。

 

「……えっ? 誰のこの番号……」

 

 その番号を見て、思わず頬が引き攣る。なにこれ。怖。着拒しようかな。詐欺電話だったらめんどくさいし……。

 そう思った矢先、ついこないだ、記事関連でやり取りしていた相手の新しい電話番号を登録していなかったせいで、えらい目に遭ったことを思い出す。

 

「…………」

 

 うう。めんどくさいけど、でも仕事の電話とかかもしんないし。

 やむを得ない。あたしはおそるおそる指を震わせつつ、えいやっ、と受話ボタンを押す。

 

「……もしもし?」

 

「もしもし」

 

 低い女性の声が、スマートフォン越しに響く。

 

「……っ!」

 

 頬が僅かに強張るのを感じる。なんか聞き覚えある声。誰これ?

 

「……えっと、どちら様でしょうか?」

 

 警戒しながら問い返す。

 すると、電話の向こうで、その女は静かに呟いた。

 

『─────………久しぶりだな、ぽいずん♡やみ自称十四歳』

 

「──────え?」

 

 

 

 

 

 

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