更新が遅くなりました。やっと更新できる見込みが出来たので引き続き更新していきます。よろしければ感想や評価が励みです。お待ちしております。
今回はぽいずん♡やみのエピソードです。正直あまり見てて気分の良いエピソードでは無いかもしれませんが、ご了承ください。
◆
─ Side Aiko ─
狭く、暗い。
なのに、白い。
そんな天井からぶら下がった安物の照明は、夜の底に沈んだ八畳のワンルームから陰影だけを雑に奪う。
机の上には、飲みかけの缶コーヒー。少し前までは温かったはずのそれは、今ではすっかり熱を失くして、開けっぱなしのタブの海に紛れていた。
ノートパソコンの画面だけが、妙に明るい。
メールフォルダ。未整理の取材メモ。記事の下書き。録音データ。音楽情報サイトの管理画面。書きかけのタイピングソフト。
そして、何よりもそのどれにも属さないまま、ずっと閉じられずに残っている一通のメール。
差出人は、ライブハウス《STARRY》。
件名は簡素で、本文は簡素で、だからこそ余計に、刃物みたいに冷たかった。
「…………」
あたしは、画面の前で頬杖をついたまま、何度目かも分からないため息を吐く。
面倒くさい。
ほんと、面倒くさい。
あの時のことを、まだ引きずっているらしい。
あの下北沢の、狭くて低くて近いライブハウス。埃と汗と古い機材の匂いが、安っぽい照明の熱と混じって澱んでいた、あの箱。
結束バンド。
ギターヒーローさんこと、ダイブ少女。
そして、あの男の子。
あたしに向かって、怒り狂い、今にも殴りかかりそうな顔で吠えていた、あの子。
「…………暴力沙汰に出ようとするマネージャーがいるバンド、ね」
呟いてみても、声は思ったよりも小さかった。
誰も聞いていない部屋なのに、その言葉だけが机の上で冷えていく。
間違ったことを言ったつもりはない。少なくとも、今でもあたしはそう思っている。
ギターヒーローさんの音は、本物だった。あんなところで、あんな未熟なバンドの端っこに置いておくには、あまりに鋭く、あまりに強くて。
そして何よりも──────あまりに惜しい音だった。
才能は、正しく使われるべきだ。
それは綺麗事じゃない。
むしろ綺麗事の反対側にある、いちばん冷たくて、いちばん正しい “現実” そのものだ。
そう。夢を見ているだけでは、夢は叶わない。
仲が良いだけでは、音楽は売れない。
楽しいだけでは、誰かの未来には届かない。
そんなことは、少しこの世界を見れば嫌でも分かる。
分かってしまうものだ。
だから、あたしは言った。
あの子は、もっと相応しい場所に行くべきだと。
────なのに。
※
「……何なのよ、ほんと」
目を覚ましてから机に置いていたスマホが震えていて、それであたしは目を覚ました。
画面に表示された番号に、見覚えはない。
でも、知らない番号からの着信なんて、この仕事をしていれば珍しくもない。取材先。編集。ブッカー。ライブハウス。たまに、何を勘違いしたのか延々と自分のバンドの武勇伝を語ってくる知らないおじさん。
無視してもよかった。
だけど、画面の光が、妙に目障りだった。
寝惚け眼に覚醒を促すように、掌で両眼をぐりぐり擦る。鳴り止まない着信音にあたしは小さく舌打ちして、無理矢理スマホを耳に当てた。
「……もしもし?」
『もしもし』
それは、低い女の声だった。
聞き覚えのある声。それが、誰のものなのかを認識した次の瞬間、部屋の空気が一段、冷えた気がした。
「……っ」
知らない声、のはずだった。
でも、どこかで聞いた声。
低くて、乾いていて、乱暴で、けれど妙に芯のある声。
そうだ。あの狭いライブハウスの奥から、睨むように響いていた声。
「……えっと、どちら様でしょうか?」
喉の奥が、少しだけひっかかった。人違いの可能性に懸けて、そう問い掛ける。嫌な予感が止まらない。
俯いていた視線をノートPCのモニター、メールボックスへほんの一瞬向けながら、それをひしひしと感じる。『────久しぶりだな、ぽいずん♡やみ自称十四歳』と、スマホのスピーカー越しの声が小さく響く。
「──────え?」
『ライブハウス……STARRYの店長の伊地知 星歌だ』
それを言われた瞬間、あたしは思わず変な声が出た。
いつもそう。
こういう時、嫌な予感ってものは大概当たるのだ。
血の気が引く、という表現は、たぶんこういう時に使うんだと思う。
電話向こうの相手を認識した瞬間、耳元のスマホが、急に重くなる。画面の白が、机の上でいやに眩しく滲み、思わず叫ぶ。
「ッ……!! な……なんで、あんたがこの番号知ってんのよ!?」
『いや、ネット掲示板に晒されてたっつったじゃん、前に。なぁ自称十四歳。────いや、佐藤愛子、か?』
「マジで人の個人情報漏洩しまくってる!!」
叫ぶしかなかった。
叫ばないと、その名前が部屋の奥まで入り込んできそうだったからだ。
佐藤愛子。
その名前は、もはや今となってはパソコンのログイン名や、確定申告の書類や、アルバイト先の給与明細にしか使わない名前だ。実家にも殆ど帰ってないから、名前を呼ばれる機会すらない。
音楽情報サイトに載せる名前じゃない。ライブハウスで名乗る名前でもない。
ましてや、あの夜の続きを話すために呼ばれる名前でもない。
税金と給料と身分証だけが、佐藤愛子という女を必要としていた。
「……っていうかやめなさいよ、わざとらしく本名で呼ぶの!! しかも年齢に関してはそれは深掘りするなぁ!!」
『おうおう、相変わらずやかましいやつだな』
電話越しの女は、心底面倒くさそうに鼻で笑う。
『お前、私が送り付けたメールは読んだよな?』
「読んだわよ!!」
あたしは勢いのまま、ノートパソコンの画面へ視線をまた戻した。
メールフォルダには、まだその文面が開かれている。
結束バンドの演奏を見に来い。
前回の件について話がある。
無視するなら、こちらも相応の対応を取る。
簡素。
簡潔。
そして、最悪。これに尽きる。
「何なのよコレ、半ば脅迫みたいな内容よね。……なんで結束バンドの演奏を聴きに来いなんて」
『まあ、あの内容だけ見たらそりゃ脅迫にも見えるか。……ま、私からしたら、それだけで済ませてやるっつってんだから、むしろ感謝して欲しいくらいだけどな』
「……っ、ふ、ふん。あたしを脅したって何も出ないわよ」
言いながら、腕を組み直し、あたしはスマホも握り直した。目線を背け、片目でスマホの画面を見つめながら。
「わ─────………っ、あたしが言ったことは、事実よ」
私と言いかけて、あたしになった。
自分でも分かった。
けれど訂正はしなかった。
これは、キャラで言っているわけじゃない。ぽいずん♡やみの営業トークでもない。
あの時、あたしが見たもの。聴いたもの。判断したもの。
その結論だけは、まだ手放せないからだ。
「暴力沙汰に出ようとするマネージャーがいるようなバンドなんて……!」
『…………』
思わずあの時のことを思い出して毒づいたその時、電話の向こうで、星歌が黙った。
沈黙は、短かった。
けれどその数秒の中に、あの夜の空気が少しだけ戻ってきたのを感じる。それは酷く鋭利で、人を刺すにはおよそ丁度いい温度。
ひどく狭い楽屋前のスタジオ。
怒鳴り声。
泣きそうな女の子の顔。あの男の子の目。
こちらへ向かって肩を鷲掴みしてきて、その力の入り具合に鳥肌と痛みが走った時のこと。
『……まあ、私もあん時は冷静じゃなかったし、罵詈雑言言ったから、人のこと言えたもんじゃねーけどな』
彼女の声は、さっきより低い。
『でも、あのバンド内で唯一の男子であるあの子はな、悪いけど普段はそんな奴じゃねぇんだわ』
「え……?」
『まだ分かんない? お前があの時、どんだけの人間の逆鱗を踏み抜いたか、一から全部説明してやってもいいぞ?』
「…………」
分かるわけがない。
この女に対してそう言おうとして、やめた。
分からなかったのは事実だ。
でも─────分かろうとしなかったのも多分また、事実だった。
それは、あたしにも分かった。
正直に言う。というか、これは認める。
あの時のあたしは、ギターヒーローさんだけを見ていたと思う。
あの子のギターだけを見ていた。
あの音だけを、掬い上げようとしていたからだ。
その隣にいた人たちの顔なんて、見ていなかった。実際、正直どうでもよかったからだ。
『お前さ。彼氏とかいたことねーだろ』
「は!?」
急なその一言で、思考が跳ねた。急に、何言ってんのこいつ。
「な……っ、うっ、うるさいわね!! 急に何!? あ、あたしだって彼氏ぐらい……」
言葉が、途中で細くなった。
いたこと、あるわよ、と。そう言おうとしたはずなのにその声は妙に乾いている。まるで、自分の声じゃないみたいに。スマホを握る指先がほんの少しだけ冷えて、思わず喉を鳴らす。
画面の光。散らかった机。缶コーヒーの縁に残った茶色い跡。
そこから最初に戻ってきたのは、もはや顔でも声でもない。
幻覚。脳裏に走る残像。
壊れた部屋。
床に転がったケーブル。踏み潰されたチューナー。荒い呼吸。
それらが一瞬にして脳を駆ける。吐き気がする。あたしは咄嗟に口をキツく結びながら、なんとか言葉を紡ぐ。奥歯が軋む音を、頭蓋の内側で聴きながら。
「……い、居たこと、あるわよ…………!」
『へえ? 過去形か? 今はいねぇんだろ』
「う、うっさいわね!! い、いないわよここ数年!! それが今、何の関係があんのよ!」
慌てて、声を荒げた。
ぽいずん♡やみに戻る。毒を吐く口へ戻るように。
そうしないと、さっき一瞬だけ開きかけたものが、そのまま部屋中に溢れ出してしまいそうで。そんな事など露知らず、電話先の女は低い口調のまま、煽る様に続ける。
『いやぁ? それだから、その歳になってもこの予想ひとつも出来ねーんだなって』
「っ、な、なぁぁっ……!? 何よそれぇぇ!?」
『あのお前に吼えてたガキと、そのギターヒーローが付き合ってる恋人同士なんじゃないかとか、想像のひとつもしなかったのかって聞いてんだよ』
「……ッ!?」
次の瞬間、大きく音を立てて椅子の脚が床を擦っていた。
ドクン、と心臓が跳ねる。思わず立ち上がりかけて、机の角に膝をぶつける。
痛い。でも、それより先に胸の内側の方が変な不協和音を奏でている。
恋人。
そのたった二文字が、あの夜の記憶の配線を、一瞬で繋ぎ替えた。
ギターヒーローさんの隣にいたあの男の子が、あたしを睨んでいた目。
怒りで震えていた声と、暴力に見えたもの。過剰反応に見えたもの。
その全部が、別の意味を持ち始める。
いや─────考えてみれば、自然な話だ。その方が、彼の怒りには正当性も出る。というか。
そんな事にすら、あたしは思考がいかなかった。
どれだけ、ギターヒーローさんのことにばかり目がいって、周囲を無視していたか。その時の自分の思考がありありとその身を主張してくる。電話口からはそれを抉るように、スピーカーが小さく軋む。
『だったら合点もいかないか? なんであんなにお前に対してアイツがキレてたか。少しは自分の言動を省みたらどうだ?』
「ッッ……だ、だったら何よ!!」
声が勝手に尖った。
「そんなのっ、知るわけないじゃないっ! 初対面なんだから!」
『初対面? へぇ。じゃあ聞くが、初対面だったら何でもしていいのかよ? こういう場合、相手の言葉を先ず聞くのが最低限のマナーで、常識だろ。Webライターってのはそのくらいの常識というか、良識のひとつもねぇのか? ……とんだお笑い草だな』
「ッ……!!」
歯を噛み締める。
言い返したい。いくらでも言い返したい。
こっちだって仕事だった。あの場で全部を知れるわけがない。演奏を聴いて、才能を見て、判断しただけだ。
なのに。
「何も知らないくせに、分かったような口を聞いてくれるじゃない……っ!」
それは、この女へ向けたはずの言葉だ。
でも言い終えた瞬間、私の胸の奥で何かがまた嫌な音を立てる。違う、と。
『ハッ、皮肉なもんだな。あのガキも似たようなこと言ってたよ。お前ら案外似たもの同士かもな』
「はぁ!?」
「……あ、あんた、なんなのよ!! わざわざ電話までしに来といて、人に喧嘩売りにきてんの!?」
『お前がやったことを返しただけだけど?』
「ッ、あんたねぇ……!!」
『まだ分かんねぇのか? そんなんだから人の心をズカズカ踏み抜いてんだつってんだよ。────プライド高いのは結構だけど、それも大概にしとけよ』
「…………切るわよ。時間の無駄だわ」
そう吐き捨てて、スマホを耳から離しかける。けれど、指は通話終了の赤いボタンへ届かない。
届かせる前に、伊地知星歌の声が落ちてきた。
『切ってくれても構わねぇけど、メールにも書いた通り、何もしないってんなら、こっちも店としてやることはやらせてもらう』
「ッ、はぁ!?」
『勘違いすんなよ。こっちはまだ、正式に動いてねぇだけだ。その歳なら、その意味くらい分かるよな?』
その声は、さっきまでの煽りとは違っていた。低く、冷たく、硬い。
ああ、これは本気だ。コイツ、ただの喧嘩腰じゃない。
ライブハウスの店長として、あの場所にいた子たちを預かる大人として、こちらへ刃を向けているのだ。
『逃げるなら逃げろ。その代わり、こっちも容赦しねぇ。……でも、その前に話を聞いてやるって言ってんだよ。キレられるどころか、むしろ感謝して欲しい位なんだけどな』
「……………………」
苛立ちで、喉の奥が熱い。
でも、同時に、頭のどこかが冷えていく。逆ギレ、とまでは言わない。でも、あたしも明らかにムキになっている。自分で言うのもアレなくらいには、沸点を刺激されて、まともに理性も動いてない。ましてや、さっきまで寝てたこともあって余計に。
まあ、向こうからすればそんなの知ったことでは無い話だろうけど。
そう。
明確に、これは脅しだ。心の底からそう思う。
しかも、もはやただの脅しじゃない。
あの時、あたしがやったことを思えば、彼女だけじゃない。結束バンドのメンバーも含め、こちらに対して正式に抗議を入れてきてもおかしくはない。だからこそ彼女の言動も自然なこと。あたしはそれを、分かっている。
──────分かっているから、腹が立つ。
「…………何が目的?」
少しだけあたしは息を吐いて、声を落とす。メールを睨みつけながら渋々、耳へスマホを押し当てる。
「あたしとは一切関わりたくないんじゃないの、おたくとしても」
『……お前の話を聞かせてもらいたいんだよ。だから、私の質問に答えろ』
「は?」
『なに? もう一度言うか?』
「いいわよ別に! ……どういう意味って聞いてるの」
『言葉通りだよ。私の質問に対して、正直に答えろ。……私らもいい大人だからさ』
いい大人。
その言葉が、妙に耳の奥に残る。
ザワつく。
大人。目を見開いたまま、その言葉に怖気が走る。
現実を知っている側。夢の終わり方を知ってしまった側。
『腹を割って話せ、つってんの。それが出来ないなら、私も店として取る手段を取る。どうする?』
「……何のために?」
『分かんないやつだな。……チャンスくれてやるつってんの』
その時、気付く。この女の声は相変わらず乱暴で、粗雑だ。だと言うのにそれは、ほんの少しだけ、さっきとは違う重さがあった。
『私もこの三ヶ月と少し、何もしなかった訳じゃない。私なりにも頭冷やして、あのガキ共をずっと見てて、……つい先日、私自身もあの子と話して、色々思うとこがあったんだよ』
「あの子……?」
誰のことか、聞かなくても何となく分かった。
あの彼のことだろう。
ギターヒーローさんの隣にいた、怒りで今にも壊れそうだった少年。
『だから、話を聞く気になった。……それを無駄にするなら、お前は救いようのないやつだと判断して、こっちもそれ相応の対応をする。どうする?』
「…………」
彼女はあたしの反応をスルーして、そのままそう問い掛けてきた。
ふと、机の上の缶コーヒーを見た。
飲み口に残った跡が、乾いている。
乾く。冷える。固まる。氷点下、摂氏零度の冷ややかな現実は、超伝導のようにあたしを凝り固めようとする。そして抵抗できなくなったあたしを、私達を屈服させようと覆い被さってくるのだ。そういうものばかりが、いつも後に残ってはあたしを呑み込む。
フラッシュバックする痛みを無理矢理捻り潰すように、膝の上で拳を握る。
「……分かったわよ」
あたしは椅子に座り直す。目蓋を閉じて、小さく息をつく。
「そうね。私も、感情的になったわ。……アンタの言う通り、腹を割って話しましょう」
『勘違いすんなよ。こっちはまだ怒ってる。立場を忘れるな。……まずは、こちらの質問にお前が答える番だ』
「ッ……分かったわよ! ………はぁ。その前に、トイレ行かせて」
言い返した声は大きかった。
けれど、喉の奥に残ったものは、さっきよりも少しだけ苦かった。『好きにしろよ。逃げ出したら分かってるよな』と彼女は釘を刺す。
分かってるわよ、と叫び、勢い良く親指で通話をミュートにして、スマホを机へ投げ捨てた。
「……」
立ち上がると、足元が少しふらついた。洗面所へ向かう途中、暗い窓に、自分の姿が映る。その奥で、こちらを見返している女。
整った均等なサイドアップツインテールの女。
虚ろな瞳。何も眼孔に景色を映していない、未来を喪った女子高生の姿だ。
首を振る。目蓋を閉じ、
再び視界に映りこんだのは、今のあたしだった。
佐藤愛子。
あたしは私から逃げるように、そこから目を逸らし洗面所の灯りを点けた。
更新は明日以降、同じ時間を予定しています。お待ちください。
#07『君の街まで、月並みに輝け』前篇はいよいよあと二話で終わる予定です。