作詞:後藤正文 作曲:後藤正文
細胞膜に包(くる)まって3分間で40倍
窪んだカギ穴で絡まって
解き放つ瞬間僕を刺す
最終的に砕け散って3年前そう限界なんだ
腐ったトゲヌキで抜きとって
解き放つ瞬間僕を刺す
それ超伝導
摂氏零度
浮かんで走ったあの日の影
旋風(つむじかぜ)吹け
醜い過去から消し去って
強く願うそれ
あの日の未来がフラッシュバック
旋風吹け
醜い僕だけ消し去って
強く願うそれ
あの日の未来がフラッシュバック
旋風吹け
醜い過去から消し去って
強く願うそれ
あの日の未来がフラッシュバック
- ASIAN KUNG-FU GENERATION 『フラッシュバック』-
111-6291-1
※
蛇口を捻ると、細い水が流れていく。洗面台の白い陶器に当たって跳ねる音が、やけに大きく響く。ふと顔を上げる。
鏡の中に、やっぱり変わらず姿形だけは同じ女がいた。でも、その姿はさっきとは違う。
左右均等に縛っていたはずのサイドアップツインテールの姿は、かつての「私」の姿であって、今のあたしのそれじゃなかった。今のあたしは、似たような髪型をしていながら、そこには丁寧さの欠けらも無い、粗雑な不均等のそれだった。
加えて、年齢不相応ないつもの地雷系コス。
薄く浮いた目の下の影。作った口角。作った声。そして、作った名前。
ぽいずん♡やみ。
鏡の奥から、その姿はこちらを見据えている。
「───………」
冷たい。けれど、芯まで冷えるほどではない。皮膚の表面だけを撫でて、すぐにぬるくなる程度の冷やかさ。
鏡の中の女は目つきが悪い。この世の全てを疎ましく思うかの様な、虚しさと欠乏感に満ちた眼差しがそこには在る。
「…………なによ」
あたしは堪らず、鏡の中の女に毒づく。こっち見てんじゃないわよ、と。
当然、鏡が何かを言うはずなんかない。
それを誰に言ったのか、なぜ言ったのか。それは、もはや自分でも分からない。
水を止め、ひたひたと裸足のままフローリングを歩む。
自分でも何をしているんだろうと思いながら、洗面所の扉を少し乱暴に閉めた。リビングに戻る。スマホは机の上で、通話中のまま、こちらを待っていた。
あの女も、まだ待っている。
電話の向こうで。多分、ライブハウスSTARRYのどこかで。彼女は言った。
いい大人。
大人。
大人なら、話せ。
大人なら、答えろ。
大人なら、謝れ、って。
そんな言葉ばかりが、さっきからずっと耳の裏にへばりついているのだ。それが、堪らなく不快で仕方なかった。あたしはまた小さく息を吐いて、ミュートを解除する。
「……戻ったわよ」
『あぁ。じゃ、こっちの質問に答えてもらう』
「どうぞ」
伊地知星歌のくぐもったスピーカー越しの声が狭いマイルームに反響する。
あたしはなるべく平坦に返事をした。これ以上、声を荒げれば、それだけでもう負けた気がするからだ。けれど。
その次に落ちてきた彼女の言葉は、そんなあたしの薄い意地を、簡単に叩き割った。
『単刀直入に聞く』
『お前、あの日のこと、ほんの少しでもアイツらや私に対して悪いとか思ってるか?』
「…………」
来るとは思っていた。
思っていたのに、喉の奥が詰まった。
直球。それは、何の飾りもない、逃げ道もない問い。
悪いと思っているか。
悪い。悪くない。その二択なら、前者だとは思っている。
実際に、言いすぎた。
でも間違ってはいない。
だけど傷つけた。
でも必要なことだった。
だけど大人げなかった。
でも、あの子のためだった。
いくつもの言葉と言い訳が、喉の奥で絡まる。鍵穴に無理やり押し込まれた鍵みたいに、どれも形が合わない。自分の中で相反する感情がうねりあって、ひたすらに辻褄が合わない。
そもそもそんな二択でコレを分けられるなら、こんなに言葉が詰まらないはず。
あたしは、返す言葉を結局捻り出せないまま、俯いてつぶやく。
「…………おも、ってるわよ」
『……』
「……何か言ってよ」
『……あんまりそうは見えないけどな』
その一言に、こめかみが小さく跳ねた。
「……悪かったわよ。あたしも……言い過ぎた、とは……思ってるわ」
『じゃあ聞くが、何を言い過ぎたと思ってんだお前?』
「…………」
『私から見たら、あの醜態はハッキリ言って、自分を全部正しいと思ってないとできる言動じゃないと思うんだけど』
────コイツ。
嫌な女。
本当に、嫌な女。
そこを聞くな、と思った。
それを答えさせるな、と思った。
悪かった。
言いすぎた。
ごめんなさい。
何も、それを言えない訳じゃない。そこまで大人げないつもりはない。
そういう言葉 “だけ” なら、別に吐ける。口の形だけなら作れる。
それこそ “大人” だから。社会人だから。ライターだから。相手が怒っているなら、謝罪のひとつも必要だと分かるから。
でも、何を言いすぎたのか。何が悪かったのか。そこを言葉にしろと言われると、途端に、胸の奥で何かが固くなるものだ。
認めるということは、つまるところ、折れるということ。自分の中で、どうにか正しさとして保っていたものに、ひびを入れるということに等しい。────それが、怖い。
あたしは目蓋をまた強く閉じて、こめかみを抑え込む。
『さっき話した、お前に殴りかかろうとしてたあのガキ』
そのタイミングで彼女の声は、また一音低くなる。
『……お前が「ギターヒーロー」って呼んでた子の隣にいた奴の話に戻るけど』
『ほんの一ミリでも気を遣う気持ちがあったら、アイツに対しても何であんな無神経なことが言えたんだよ』
「…………」
『私もライブハウス始めてからは、そもそも男と縁もねーし、偉そうなこと言えた義理でも無いだろうけどさ。お前……その歳でアレはねーだろ、普通に』
普通。
その言葉は嫌い。反吐が出る。
普通なら分かる。普通なら察する。
普通ならやらない。普通なら言わない。
誰が決めたのか知らない、“普通” とかいう概念があたしはどうしようもなく嫌い。
普通なんて、いつだって後から言える。全部終わったあとに、壊れたものを見下ろしながら、したり顔で言えるからだ。
普通なら、こうするべきだった。
普通なら、あそこで止めるべきだった。
普通なら、夢なんか見ない方がよかった。
そういう言葉を────私はいくつも知っている。
『黙ってねーで、なんとか言ったらどう?』
「…………あたし、だって……」
『なんだよ。言い分あるなら言えよ。聴いてやるから』
聴いてやる。
その言葉に、胸の奥が、ひどく嫌な鳴り方をした。
聴く。
聴いてもらう。
聴いてくれる。
そんな言葉もまた、昔は信じていた気がする。
自分たちの音を、誰かが聴いてくれる。
自分たちの曲を、誰かが見つけてくれる。
ブログに書けば、動画を載せれば、ライブへ呼べば、少しずつ誰かに届いていく。
そう信じていた。
信じていたから、壊れた。
さっきから、何度も何度も、この女の言葉はいちいちあたしの懐を抉ってくる。否が応でも思い出させようとしてくるのは何なの。
「…………私はただ」
声が、自分でも驚くほど小さく、そして疼く。言葉を吐いた瞬間、喉の奥が熱くなる。
「……ギターヒーローさんは、もっと相応しい所に行くべきだって思っただけ」
「才能ある人間が、それを腐らせること程残酷なことなんてない……!!」
『…………』
「……世の中には、それすら、許されない人間だって……」
そう言いかけて、指先が止まった。
許されない人間。
才能があるかどうかを問われる場所に立つことすら、許されなかった人間。
夢を見たこと自体を、あとから笑われる人間。
届かないと分かっても、それでも手を伸ばしてしまった人間。
その横顔が、ほんの一瞬、部屋の白い壁に映った気がした。笑わなくなった横顔。壊れた眼差し。
私はスマホを握る指に、もう一度、力を込めた。
『……まあ、一理あるかもしれない』
星歌の声は、さっきより少しだけ静かだった。
『でも、それは所詮、お前の勝手な御託だよな?』
「……っ、それは……!」
『その子達がどんな才能を持ち合わせていようが、どんな技術を持っていようが……それをただの他人のお前が、相手の気持ちも聞かずにどうこう言う権利がどこにあるのさ?』
「…………っ」
『あのガキも言ったよな、お前に。アイツらが今、どんな思いでバンドやってるかも知らねー奴が、偉そうに自論振りかざしていいのか? いい訳ねぇだろうが』
分かっている。
分かっているわよ、そんなこと。アンタなんかに言われなくったって。
赤の他人。
でも他人だからこそ、言えることがある。他人だからこそ、見えることがある。
内側にいる人間には、どうしても見えないものがある。アンタこそどうなのよ、と言い返してやろうと思って、口を噤む。
バンドなんて特にそうだ。
仲が良い。楽しい。今が大事。
そうやって、みんなで同じ方向を向いているつもりになっているうちに、いつの間にか足元が腐っている。
そうなった時には、もう遅い。その腐り果てた地面は崩れ、そこから堕ちるのは簡単なこと。
だから、だからこそ、とあたしは思う。
「じゃあ言わせてもらうけど、アンタのライブハウスからプロは出したの? 実績あんの!?」
『出してねぇよ。だから何だ』
即答。
「────っ!!」
その声に、また腹が立つ。
何をそんなに平然としていられんの。なぜ、結果が出ていないことを、そんなふうに言えるのか。歯軋りをしながら、あたしは拳を握り込む。
「……そんな実績も無いくせに、よく理想論が言えるわね! そういう綺麗事が言えるんなら、実績のひとつくらい見せてから言って欲しいんだけど!?」
『話をすげ替えてんじゃねえよ!! 今それとコレに、それこそなんの関係があるんだよ!』
「…………」
『…………』
電話口の女の激昂が落ちたあと、その跡に続くように沈黙があたし達を覆う。
電話の向こうと、こちらの部屋。
二つの場所の間に、細くて長い線だけが繋がっている。その線の上を、怒りと苛立ちと、言えなかったものばかりが行き来している。あたしは続ける。
「……少なくとも、あたしから見れば学生バンドの延長線にしか見えなかった」
『お前、まだ……!』
「だけど!!」
その瞬間、自分でも驚くくらい強く、声が出た。女の言葉が止まる。
「……悪かったわよ」
言いながら、視線を机に落とす。
「そりゃ、確かに赤の他人の私がああいう風に言うのは……冷静になって考えてみれば、流石に
不躾。無神経。大人げない。
そのくらいの言葉なら、認められる。
でも。それでも。
「……でも、これだけは言える」
『……何を?』
「────これだけは、これだけは、譲らないわ!!」
「あの子は……ギターヒーローさんは、他の本来ちゃんと輝くべき場所に行くべきだってことは!!」
そう叫んだところで、胸の奥で何かがまた熱を持つ。いや────それは熱じゃない。
“毒” だ。長い時間をかけて血の中へ溶け、もうどこからが私で、どこまでが毒なのかも分からなくなったもの。内側から私を蝕み、身体中へ牙を立てていく。
それは決して、生きる上で意味をもたらすものなんかじゃない。血潮の流れる河と、神経の隅の隅にまで回る毒が、猛烈な苦しみとなって私の奥から滲んでいるのだ。
『……懲りねぇ奴だな』
伊地知星歌は、そう低く言い捨てる。
でも、引けない。
「アンタには分かんないわ」
「分かるわけないじゃない!!」
『…………』
そう言った瞬間、部屋の温度が一段、下がった気がした。
分かるわけがない。
見ていない人間に。
知らない人間に。
壊れるところを、最後まで見ていない人間に。何が分かるっていうの。
消えない痛みも、廻る毒を棄てることすら出来ない苦しみも、知らないくせに。
『……それが』
『本人の意思に反してもか?』
彼女がそう呟いた瞬間、目を見開く。
「………っ」
スマホを握る手に、力が入る。
本人の意思。
────夢を追いたい。
やりたい。続けたい。
諦めたくない。まだ行ける。
次こそ届く。もう少しだけ。
知っている。そんな言葉を、私はよくは知っている。
でも、本人の意思なんて、そんなもの────いくらでも人を壊す。
その現実は、理想を簡単に殺せる。壊れるまで、自分で止まれない人間だっているのだ。
壊れたあとで、ようやく、自分が飛べない鳥だったと気づく人間だっている。
「確かに、あの人のことは考慮できてなかったわ」
認めたくない言葉を、どうにか喉から押し出す。
「でも……私にだって、譲れないものはある!! ここで折れれば、私自身の考えを折ることになるんだから」
それは、考えだけじゃない。
あの日々を。
あの子の叫びを。
壊れた部屋を。
割れた音を。
私がまだ捨てられずにいるものを。
全部、間違いだったと認めることになる。
「……たとえ本人がそう思ってたとしても、その先の未来が潰えることより、悲しいことなんて無い!!」
声が震えた。
怒りなのか、恐怖なのか、自分でも分からなかった。
「アンタになんて言われようと、それだけは、絶対に譲らないわ」
「…………」
『……お前、筋金入りだな。……めんどくせえ』
『…………はあ……』
そうして、深いため息が、電話越しに聞こえた。その息の中には、苛立ちだけじゃないものが混じっていた気がした。
疲れ。呆れ。困惑。そしてほんの少しだけ、理解に似たような、何か。
『お前の、バンドや音楽に対しての熱意は本物なんだろうね』
「…………」
『実際、真剣にプロを目指してるかどうかって観点だけでいえば、まあ、かつてのアイツらは……学生バンドの延長線にしか見えなかったんだろうな。だから、余計に腹が立った。こんなとこか』
「……大体そんなところよ」
『だからといって、あのクソみたいな引き抜きやっていい理由にはならねぇだろ。あわやお前のせいでアイツらは解散危機だぞ』
「……っ」
解散危機。
その言葉が、胸の中で嫌な形に沈む。
バンドが壊れる。終わる。もう同じ音を鳴らせない。一緒に居られない。
─────そんな言葉、そんな現実、聞き慣れているはずなのに。
「……そんな程度で、潰れるバンドなら、それまでよ」
だというのに、私の吐いた声は、自分でも嫌になるほど苦い。
それを聞いてから数秒、彼女は押し黙る。やがて一言。
『……よかったよ。電話口で。直接対面してたらぶん殴ってる』
「……」
『……』
この女の怒りは、当然だった。
分かっている。
分かっているのに、口から出た言葉を、もう戻せない。
あたしは椅子の背もたれに身体を預けた。ぎし、と鳴り響くビジネスチェアの感覚が妙に遠い。天井の白い光が、目に痛い。
「…………楽しいでしょうね、それ自体は」
『あ?』
「学生バンドを、悪いだなんて言わないわ。そんなことは言ってない。楽しむことだって、そりゃ大切に決まってるもの」
言葉を選んでいるつもりなのに、選ぶほど、声が硬くなっていく。
「でも……あなたにだって、それだけじゃプロになれない現実もあるってこと、分かってるんじゃないの?」
『…………』
「レーベルからスカウトが来る程の実力を持っていた、あなたになら!」
電話の向こうで、彼女が息を呑んだのが聞こえた。
刺さった。そう思った瞬間、ほんの少しだけ胸がすく。
そして、すぐに嫌になった。
私は今、何をしているんだろう。
人を刺して、何を守ろうとしているんだろう。何を守りたいんだろう。
分からない。そんな事すら、自分でも分からない。でも、止まれない。私は、ただただ叫ぶ。声が大きくなる。
「だからこそ、私は私の方法論を述べただけよ。私にとっては、それが最良の選択だと思ったから!!」
「今のギターヒーローさんにとっては、そうじゃなかったかもしれない。……というか、現に傷つけたんでしょうね。それはよく分かってるわよ。でも」
でも。
でも、と。
その言葉ばかりが、いつも残る。
「……アレは、最終的にはあの子の為になると思ったのよ」
ギターヒーローさん。
後藤ひとり。
あの音。
あの指。
あの、空気を裂くようなギター。
「私から言わせてもらえば、あなたたちには『プロ意識』というモノが欠けてるもの!」
『…………』
言っているうちに、指先が冷えていく。電話向こうの相手からも、殺気が沈黙だけで伝わる。
「そんなお遊び気分にしか傍からは見えないようなバンドをする子達の元で、本当の輝きが喪われれば、それはもう二度と還らない」
「飛べなくなった鳥は、二度と飛べたりなんかしないわ!!」
『それはてめぇの理屈だろうが!! いい加減にしろよ!? 黙って聞いてりゃ!!』
「事実を言ってんのよ!!」
『事実なら何でも許されるとでも思ってんのか!? 正論なら何言ってもいいのかッ!?』
『いい歳こいて、それが子どもに対してやる事かって言ってんだよッッ!!』
『お前の理屈押し付けんなよ!!』
「…………っ!!」
「アンタに、アンタに何が分かんのよッッッ!?」
立ち上がっていた。
いつの間にか、椅子が後ろへずれている。「だったら!!」と、あたしは顔を上げて言い放つ。
「だったらアンタだって同じことよッッ!! 本気でやってるっていうなら、じゃあなんで実績出せないの!? 下北沢で実際に結果を出せてるライブハウスがどれだけいると思ってんの!? 結局この世界はそういうものよ!」
言葉が止まらない。止め方が分からない。
「むしろ可哀想だと思わないの!?」
『あぁッ!? 可哀想だと!? 何が!?』
「本人や周りは楽しいのかもしれない!! 周りもその時は楽しいかもしれないわ!!」
楽しい。
その言葉が、また過去を開く。錠前をひとつずつ破壊して、無理矢理私をその向こうに引きずり込もうとする。
狭いスタジオ。安いマイク。誰かの笑い声。
増えていくブログのアクセス数、ライブ告知に付いた初めてのコメント。
コンビニで買った安いおにぎりを、みんなで分けた夜。
楽しかった。
本当に、楽しかった。そのどれもが、忘れられるはずのないもの。
だから、壊れた時、その全部が刃物になったのだ。
「でもッッ!!」
視界が、滲む。目尻に熱が滲む。吐きそう。
そうしてまた、フラッシュバックする痛み。
部屋の白い壁が、別の部屋に変わる。家具が倒れている。譜面が破れている。エフェクターが床を滑って、壁にぶつかる。ギターケースが蹴られる。
弦が切れる。何かが割れる。誰かが泣いている。
それが私だったのか、彼だったのか、もう分からない。
ボロボロの部屋の真ん中で、表情の見えない彼が、低く呟いた言葉が、私を何度も呪うのだ。
「いつか、いつの日か必ず子どもは現実を知ることになる!!」
叫んでいるのは、あたしなのか。
私なのか。
それとも、あの日の彼なのか。
「夢が醒める日は来るわッッ!! 必ず!!」
「叶わない夢を追いかけて、追いかけて、追いかけ続けて────そしてその先で、後悔して死ぬくらいならッッ!!」
「残酷な現実をちゃんと教えてあげることこそ、それこそ大人の役目でしょ!? それこそがッッ!! 大人なんじゃないのッッ!?」
胸を押さえる。
心臓が、うるさい。
スマホを握る手が震えている。
『…………お前』
女の声が、遠く聞こえた。
あれだけ怒鳴っていたのに、彼女の声は少しだけ掠れていた。
動揺。困惑。
あるいは、電話越しにこちらの傷口を見てしまった人間の声。
「…………」
息が荒い。
部屋が静かだ。
ノートパソコンのファンの音。
冷えた缶コーヒーと、開きっぱなしのメール。窓に映る、サイドアップツインテールの女。
その女は、泣きそうな顔をしていた。
「……やりたきゃ、やればいいわ」
声は、さっきまでと違っていた。吐き捨てるように、私は呟く。自暴自棄になっていると、自分でも思う。だけど、そんな事すらどうでも良くなるくらい、今の私には余裕なんてなかった。
「訴えるなら、勝手にしなさいよ。私は……」
そこで、言葉が途切れた。
私は。
私は、何だ。
悪くない?
間違っていない?
救おうとしただけ?
現実を教えただけ?
どれも、口にできない。その時。
『……おい。佐藤愛子』
あの女は、私の名前を呟く。
「だから、本名で呼ぶなって……!!」
叫び返した声は、弱かった。
『────お前、今週空いてる時あるか』
「は?」
思考が追いつかない。何を言ってるか分からなくて、聞き返す。
『いいから答えろ。空いてる時はいつだっつってんだよ』
「……時間帯は? あたし、今週は取材なんだけど」
『なら来れるよな』
「人の話聞いてんの!? 取材って言ってんじゃない! そもそもなんの話よ!?」
『さっきも言っただろうが、いちいち吠えんな』
星歌が低く息を吐く。
『いいから、最初に言った通り、結束バンドの路上ライブを見に来い』
「…………は?」
『もう一度言ってやる。結束バンドの路上ライブを、お前のその目で見ろ』
「な、何を言って……!」
『そのうえで、同じことを言うならぶん殴ってやる。……そのあと、もう一度お前の話を聞かせろ。聴いてやるよ』
聴いてやる。
また、その言葉。だけど今度は、さっきほど嫌な響きではなかった。
いや、嫌ではある。
普通に腹は立つ。正直、何様だとも思う。
なんで、なんでそんなに『聴く』ことにこだわるの。とっとと出るとこ出ればいい。手段なんて選ばずに潰せばいいじゃない。私の事なんて。なのに、なんで。疑問符だけが、頭に満ちて、他でもない私自身がおかしくなりそうだった。
でも、伊地知星歌は言葉だけで終わらせる気がないのだと。
それだけは、私にもよく分かった。
見ろ。
聴け。
その上で話せ。
音楽の話を、音を抜きにして終わらせるな。そう言われている気がした。
「……ギターヒーローさんからも、結束バンドのあの子達からも、もう二度と来るな、顔を見せるなって言われてるような人間が?」
確認する様に、あたしの言葉が、少しだけ落ちる。
「あたしだって、……自分が正しいとは思ってても、あの子達にとっては顔も見たくない存在だろうなって事くらい分かるわよ」
『だったら顔を見せなきゃいい。いいから見に来いつってんだよ』
「……なんで、そこまで……!」
『多分、お前の考えは変わる。その確信があるからだよ』
「……随分、はっきり言うのね」
『分かったな?』
「………」
問答無用だった。
あたしは髪をかきあげ、乱暴に頭を掻いた。
「……分かったわよ……行くわよ!! 行けばいいんでしょ!?」
『……悪いとは思ってんだよな? 一応確認でもう一度聞くけど。前回のこと』
「…………」
確認の様に、伊地知星歌は問い掛けてくる。
またそれに戻るのか、と正直感じた。だけど今度は、さっきほど言葉が絡まない。あたしは目を逸らし、一息ついて間を置く。そうして「……冷静じゃなかった、とは思ってる。悪いとは、思ってるわ」と返す。
『──────なら他にも言うことあんだろ、お前。私にも、アイツらにもさ。その言葉、ちゃんと言えよ』
「…………」
長い沈黙が落ちた。
謝罪。
たったそれだけのことが、こんなにも重い。
別に、謝ったことがないわけじゃない。
仕事でミスをした時、取材先に迷惑をかけた時、バイト先で品出しを間違えた時。
すみません。申し訳ありません。以後気をつけます。
いくらでも言ってきた。でも、今言おうとしている言葉は、それとは違った。
あの夜に向けて、言う言葉。
あの女の子たちに向けて、言う言葉。
あの男の子に向けて、言う言葉。
そして、私自身の正しさに向けて、少しだけ刃を入れる言葉。
─────息を吸う。
「……ごめん、なさい」
声は、小さかった。
「本当に、酷い事をしたとは……思ってるわ。自分の中での正しさに酔って、周りの子達の思いを踏みにじって、ギターヒーローさんにも」
言いながら、胸の奥にまだ硬いものが残っているのが分かった。
全部が溶けたわけじゃない。全部が間違っていたと認めたわけじゃない。
それでも、踏みにじった。それは、事実だったから。
「……あの」
『なに』
「……頭に血が、昇ったわ。あの時も、さっきも。ごめん」
『……最初からそれをまず言えよ』
「…………」
それができたら、こんな名前で生きていない。そう言いかけてやめた。
彼に掴まれた右肩をさすりながら、あたしは呟く。
「……あの時は、ギターヒーローさんと話したかっただけなのに、いきなりあの子に、しかも男の子に怒鳴られて……怖かったの」
怖かった。
口にしてから、自分で少し驚く。
そうだ。怖かったのだと思う。
怒鳴られたことが。
手が伸びてきたことが。
男の子の怒りが、自分に向けられたことが。
そして、それよりも────あの怒りが少しだけ、見覚えのあるものだったことが。初めてではなかったことが。
「……でも、そうね。少し考えれば、余りにも大人げなかった上に──あの子も、結束バンドの子達が怒るのも、当然だわ」
『……当たり前だろ』
女の声は、まだ硬かった。
けれど、さっきよりは少しだけ低く、落ち着いていた。
『そりゃ、あのガキもやり方は問題あったが、アイツ含め、アイツらにだって、それぞれ抱えてる思いや熱がある。……お前も、バンド批評記事サイトなんてやってんなら、なんか事情があんだろ。それなら、分かるだろ。それくらいさ』
「…………」
事情なら、ある。
ありすぎるくらい、ある。
でも、それを言えば、何かが変わるのだろうか。あの子たちを傷つけた事実が、薄くなるのだろうか。それは多分、違う。だから、今は言わない。言えない。
だからあたしは、もう一度僅かな間を置いて、言葉を返す。
「……本当にごめんなさい」と。
もう一度、言った。
「あの子達にも、……あなた方全員に謝るわ。ごめんなさい。さっきも、言い過ぎた、とは思う」
『……言えんじゃねえかよ』
伊地知星歌が、少しだけ息を吐く。
『なら、直接アイツらに、言うべき時に言えよ。大人なら、それくらい出来るだろ。……さっきのは敢えて聞かなかったことにしてやる。私も私で……頭に血が昇ったし』
その言葉を正直、意外に感じた。あたしは黙りこくったまま、何度か瞬きをする。
この女も、自分が言いすぎた自覚くらいはあるらしい。それが分かっても、別にこちらも腹立たしさが消えるわけではなかったけれど。でも少なくとも、電話越しの刃は、少しだけ角度を変えた。
『アイツらは今、ウチでもライブを更に増やして必死こいてやってるし、数日後にまた下北沢で演奏もする』
彼女の声が、少しだけ変わったのが分かった。
それは、怒りではなく。誇りでもない。
その中間にある────面倒で、不器用で、それでも手放せないものを見ている声。あたしには、そう感じられた。
『見てやってくれ。────そのうえで、もう一度アイツらを判断しろよ』
「…………」
見てやってくれ、というその言葉が少しだけ耳に残る。
判断しろ。評価しろ。批評しろ。
そう言われた方が、まだ本音としては楽だった。何せ、あたしはその方が得意だったから。
けれど彼女は、見てやってくれ、と言った。
まるで、あの子たちが本当に誰かに見られることを待っているみたいに。望んでいるように聞こえるのは、どうしてだろう。
あたしはそこまで考えて「……分かったわ」と返す。
「その時が来たら……ちゃんと謝るわよ。必ず」
そう言い切ってから、少しだけ胸が痛む。
謝る。あの子たちに、ギターヒーローさんに、そしてあの男の子にも。
考えただけで、胃のあたりが重くなる。どんな責苦を受けるだろう。でも、それは当然の話。当たり前のこと。もう言ってしまった以上、これで顔を見せるしか無くなったのだ。
もうこれ以上、話すこともないはず。
あたしは、右肘を左手で支え、スマホを持ち直しながら受話口へ呟く。
「────もう、切るわよ。それじゃあ、また連絡するわね」
『あぁ、またな』
通話は、そのまま呆気なく切れた。さっきまでの怒号も、溜め息も、まるでなかった事のように、あっさりと。そうして耳元から、彼女の声が消える。部屋に、静けさが雪のように積もった。
無機質なノートパソコンのファンの音。白い照明。開きっぱなしのメール。カレンダー。
私は、しばらくスマホを握ったまま動けなかった。
省電力設定でスリープしたモニターは黒く、そこにはもう画面を何も映していない。それなのに、さっきまでの声の残像が、まだそこに残っている気がした。
大人なら。正論なら。
飛べない鳥は。夢が醒める日は。
「…………──────────」
あたしは、横を向く。そのまま壁に掛かっているカレンダーを見つめた。
数日後の日付、下北沢。結束バンド。路上ライブ。
そこに、あたしは行く。行かなければならない。
ギターヒーローさんをもう一度見るために。
あの子たちに謝るために。なによりも、自分の正しさを確かめるために。
そして、多分あの日からずっと抜けないまま腐っている棘に─────もう一度触れるために。
やがて椅子にもたれたまま、ふと私は目を閉じて宙を仰ぐ。
目蓋の裏に、片瀬の空が無限に広がっている。
青が澄んでいる中を、遠く遠く、トビが旋回している。
高く、高く。まるで何にも縛られていないみたいに。
どこまでも、青い空を求めて。
生きていく道筋を探すように、あの鳥たちは飛び続けている。
私はいつも、それを地上から見上げることしか出来ない。堕ちた鳥もどきに出来ることなんて、所詮、ただひたすらに空を見上げることだけだ。
手を伸ばしても、届かない景色。
それを、何度夢見たかなんて、もう考えたくもなかった。
(………もしも)
もしも、あの子達の演奏を見たとして。
それが何かの兆しになるとするならば、私は、と思う。
だけど、そこまで考えたところで、私は首を何度も横に振る。嫌だ。
もう、期待なんてしない。信じたりなんてしない。それこそが、“大人” になるということだ。
もう、疲れた。
あたしはチェアからギシッと立ち上がる。そのまま部屋の隅のベッドへ飛び込み、毛布を顔まで被った。
何も、考えたくない。
もういっそ、このまま鳥になってしまえたらいいのに。そうなれたら、どんなにか。
どんなにか、幸せなんだろう。
ただひとつ─────そんな、とうに捨てたはずの願いだけを抱きながら、そうして私は夜の闇に沈んでいった。
矛盾の極み。
期待しないとか言っておきながら、鳥になれたらいいのにとか言ってる彼女は一体なんなんでしょうね。本当に諦めた人間というものは、そもそもそこに目も向けないものです。
この二人の考える『大人』はそれぞれ鏡となるように、どちらも有り得た未来として描きました。
感想やご評価、励みになっております。本当にいつもありがとうございます。
更新が遅くなってしまい、申し訳ないです。
次回、いよいよ#07『君の街まで、月並みに輝け』(前篇)─────最終回です。
お待ちくださいませ。