ぼっち・ざ・ろっく! フラッシュバッカー   作:空山 零句

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CHAPTER #64 「飛べない鳥」

 

 ◆

 

─ Side Aiko ─

 

 三月の空は、まだ冬のふりをしていた。

 

 春というには冷たくて、冬というには少しだけ白々しい。

 そんな中途半端な季節の空気が、ホームの隙間から吹き込んでくるたび、スカートの裾が小さく揺れた。

 あたしはそのまま、京王井の頭線、吉祥寺行きの電車に乗り込む。車内で吊り革に片手を預けながら、流れていく車窓をぼんやりと眺めていた。

 ガラスに映り込む私は、今日もそれなりに奇妙な格好をしている。

 サイドアップツインテール。

 少し派手なメイク。

 年齢に似合わない服。淡い色のフーディ、ハートのファスナーが特徴的なお気に入り。袖口に残るボアだけが、かろうじて冬の名残みたいに肩へ掛かっている。

 

「…………」

 

 下北沢へ向かっていた。

 結束バンドの路上ライブを見るために。ギターヒーローさんの音を、もう一度聴くために。そして、出来ることなら、あの子達へ謝るために。

 自分でそう整理してみても、胸の奥は少しも軽くならない。

 謝る。見る。聴く。判断する。

 言葉にすれば、たったそれだけのこと。

 なのに、どうしてこんなにも胃のあたりが重いんだろう。

 タタン、タタン、と子気味よく電車が揺れる。そんなあたしのことなんて気にも留めないかのように。

 立ったままスマホを片手に握り締める。

 吊り革がぎし、と小さく鳴り響く。

 ふと周りを見渡すと、車内には、休日の午後らしい人の気配が薄く満ちていた。

 買い物袋を膝に置く女の人。イヤホンをつけた大学生。足元にギターケースを置いた男の子。スマホの画面を無言でスクロールする会社員らしき人。

 それぞれがそれぞれの目的地へ向かっている。

 誰かと会うために。

 どこかへ帰るために。

 今日を少しでも進めるために。

 

 なのに───私だけが、過去へ向かっている気がした。

 

 その時だった。

 

「ふぇ……っ、ふぇぇ……!」

 

 向かいの座席から、小さな泣き声が上がった。まだ一歳にも満たないくらいの赤ちゃんだった。

 若い夫婦の膝の上で、真っ赤な顔をして、ぎゅっと小さな手を握りしめている。

 

「あっ、だ、大丈夫、大丈夫よ……よしよし、泣かないで……」

 

 母親らしき女の人が慌てた声であやそうとする。

 でも、その声が焦るほど、赤ちゃんの泣き声は強くなっていった。

 

「ご、ごめんなさい……すみません……」

 

 周囲へ向けて、彼女が何度も頭を下げる。

 隣の夫も、どうにか荷物を持ち直しながら、困ったように赤ちゃんの顔を覗き込んでいた。

 

「大丈夫ですよ」

 

「赤ちゃんだもんねぇ」

 

 近くにいた年配の女性が、やわらかくそう言った。

 他の乗客も、露骨に嫌な顔をしている人はいない。むしろ、どうしたものかと、少しだけ様子を見ているような空気だった。

 それでも母親の顔は、見るからに青ざめていく。

 分かる気がした。────悪いことなんてしていないのに。

 泣いているのは赤ちゃんで、どうしようもないことなのに。それでも、自分がこの場所の空気を乱しているみたいに感じてしまうその気持ちは、痛いほど分かる気がした。

 だから、なのかもしれない。

 

「……あの」

 

 気づけば、私は吊り革から手を離して、その親子の前で少し腰を落として屈んでいた。

 若い母親が、びくりと顔を上げる。

 

「す、すみません……!」

 

「いえ。大丈夫です」

 

 自分でも驚くくらい、声は静かだった。

 私は一言、呟く。

 

「あやすの、少しだけ手伝ってもいいですか?」

 

「え……?」

 

 母親が戸惑った顔をする。

 当然だ。こんな格好の女が、急に目の前で屈んできたら、そりゃ警戒する。

 だからあたしは、赤ちゃんに触れない距離で、バッグにつけていた小さな星形のキーホルダーを指先で摘まんだ。

 揺らす。

 ちり、と小さな金具の音がした。

 

「ほら」

 

 赤ちゃんの泣き声が、ほんの少しだけ途切れる。

 あたしはもう一度、キーホルダーをゆっくり揺らした。

 右へ。左へ。

 電車の揺れよりも、少しだけ遅いリズムで。

 

「……きらきら」

 

 小さく呟く。

 星形の金具が、車内の照明を受けて、ほんのわずかに光った。

 赤ちゃんの丸い目が、それを追う。

 

「きらきら、ですよ」

 

 何をしているんだろう、と思った。

 こんな格好で。こんな声で。こんな場所で。

 でも、不思議と嫌ではなかった。

 あたしはキーホルダーを片手で隠す。

 赤ちゃんの目が、きょろ、と動く。

 もう一度、ぱっと見せる。

 

「……ばぁ」

 

 ぽかん、としていた赤ちゃんの顔が、次の瞬間、ふにゃりと崩れた。

 

「きゃ……っ、えへ、うへへ」

 

「……!」

 

 笑った。

 泣き声の残りが、まだ喉の奥に引っかかっているような笑い方だった。

 でも、確かに笑った。

 

「あ……」

 

 母親が、ほっとしたように息を吐く。

 隣の夫も、胸を撫で下ろしたように笑った。

 

「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます」

 

「いえ」

 

 あたしは首を横に振る。

 

「子どもって、可愛いですよね」

 

 言ってから、少しだけ自分の声に驚いた。

 そんな言葉が、自分の口から出ると思わなかった。

 赤ちゃんはまだ、こちらを見ている。それは、何も知らない目だった。

 過去も、才能も、現実も、夢の終わりも、何ひとつ知らない目。

 ただ、今この瞬間に光るものを見つけて、笑っているだけだ。

 

「……未来そのものみたいで」

 

 気づけば、そんな言葉が漏れていた。

 

 夫婦は、ほんの少しだけ目を丸くした。

 それから母親が、赤ちゃんの背をそっと撫でながら、やわらかく微笑んだ。

 

「……そうですね」

 

 父親の方も、小さく笑う。

 

「ほんとに。そう思います」

 

 その二人の顔は、疲れていて、慣れていなくて、それでも幸せそうだった。

 胸の奥が、ちくりと痛む。

 痛い。

 けれど、嫌な痛みではなかった。

 

 母親が、もう一度深く頭を下げた。

 

「お姉さんにも、どうか……いいことがありますように」

 

「…………」

 

 そんな言葉を返されるとは思っていなかった。

 

 あたしは一瞬、返す言葉を失う。

 やがて、どうにか口角を上げた。

 

「ありがとうございます」

 

 笑えただろうか。

 ちゃんと、人間みたいに。

 次の駅に近づくアナウンスが流れる。

 下北沢。

 あたしは軽く会釈をして、ドアの方へ向かった。

 背中の奥で、赤ちゃんの小さな笑い声がまだ聞こえる。

 その声は、柔らかかった。

 あまりに柔らかくて、触れたら壊してしまいそうだった。

 

 やがてドアが開く。乗降促進音が鳴り響いて、冷たい空気が車内へ流れ込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 下北沢駅のホームへ降りると、電車の熱がすぐに背中から剥がれていった。

 

 人の流れに乗って、エスカレーターを昇る。

 改札へ続く通路は、休日らしいざわめきに満ちていた。笑い声。キャリーケースの車輪の音。どこかの店の宣伝。イヤホンから漏れる音楽。靴音。

 その全部が混ざって、街へ向かう前の音になっている。

 改札の手前で、ふと顔を上げた。

 

「……!」

 

 駅の外、建物の隙間から見えた空を、一羽の鳥が横切っていく。

 それは、トビではない。

 たぶん、名前も知らないただの鳥。

 それでも、翼は空を切っていた。

 当たり前みたいに。何も考えていないみたいに。

 

「…………」

 

 あたしはそれを見上げる。

 空を飛ぶということは、あの子たちにとって、本当にただの移動なのだろうか。

 それとも、飛べないものが勝手に美しく見ているだけなのだろうか。

 そんなことを考えかけた時だった。

 

「やべー、今日スタジオ何時からだっけ!?」

 

「十七時! ていうかお前、ノルマ分ちゃんと捌けたの?」

 

「二枚だけ! でも今日彼女来るから実質勝ち!」

 

「惚気んな! 殺すぞ!」

 

「いやいや、彼女がライブ来るとか最強モチベだろ!」

 

「もーーあんた達、アホなこと言ってないで早く行くわよ! 練習時間なくなったらどーすんのよ!!」

 

 騒がしい声が、すぐ横を通り過ぎた。改札口を通り抜けた、その瞬間に。

 

 それは、高校生くらいの男女五人組だった。

 女の子が一人。男子が四人。男子たち四人は楽器ケースを背負っている。

 その子達は笑いながら改札へICカードをかざす。彼らは、これから電車に乗るらしかった。

 どこかのスタジオへ行くのだろうか。

 どこかのライブハウスへ行くのだろうか。

 もしかしたら、誰かに見つけてもらえると信じているのだろうか。

 

 女の子が振り返って、男子の一人へ笑いかける。

 

「ほら、早く! 置いてくわよ!」

 

「待てって!」

 

 その笑い声が、改札の向こうへ流れていく。

 あたしは、反対側へ歩いていた。

 彼らは、電車に乗っていく。

 あたしは、駅から降りていく。

 

 たったそれだけの違いが、やけに大きな分岐みたいに思えた。

 

「…………」

 

 振り返ってその子達の背中を見つめる。一瞬、喉の奥が詰まる。

 何かが込み上げそうになって、あたしは慌てて視線を落として前を向く。

 スマホを取り出す。マップを開く。

 目的地までの青い線が、画面の中で無機質に伸びている。

 便利な時代だ。

 地図があれば、道に迷わない。

 

 でも、どこへ向かえばよかったのかまでは、誰も教えてくれない。

 

 

 

 

 

 

 

 下北沢の街は、相変わらず雑多だった。

 細い道。古着屋の看板。カフェの匂い。どこからか聞こえるギターの音。すれ違う人たちはみんな、何かを探しているみたいに、あたしには思えた。

 服を。音を。居場所を。

 あるいは、まだ名前のない自分を。

 あたしはスマホのマップを見ながら歩いていた。

 目的地の駅前広場までは、そう遠くない。その途中で、スマホが震えた。画面に表示された名前を見て、眉間に皺が寄る。取材先の編集担当だった。

 

「……もしもし。お疲れ様です、ぽいずんです」

 

『あ、ぽいずんさん! お疲れ様です! すみません、今ちょっと大丈夫ですか?』

 

「はい。……少し歩いてますけど」

 

『例のバンドの取材、もう終わりました? 先方から素材確認の件で連絡が来てまして』

 

「あぁ、それなら昨日の夜にラフは送ってます。写真の使用許可だけ、まだ返事待ちですね。本文は今日中に軽く直せます」

 

 口は勝手に仕事の言葉を吐いていた。

 

 取材。素材。ラフ。確認。納期。

 そういう言葉は楽だ。

 意味が決まっていて、しかも正解がある。

 相手が何を求めているかも、だいたい分かる。なんなら、夢よりずっと扱いやすい。

 

『助かります! あと、見出しの方向性なんですけど、もう少しキャッチーにできます? 今のままだと硬いというか』

 

「分かりました。じゃあ、冒頭を少し柔らかくして、バンド名が先に立つようにします」

 

『お願いします! それで、ぽいずんさん、今日もどこか取材ですか?』

 

「……ええ。まあ、そんなところです。ちょうど今、取材しようとしてたところで」

 

 取材。

 そう呼べば、少しは楽になる気がした。そう。

 これは謝罪に向かう道ではない。過去に触れに行く道でもない。

 ただの仕事で、ただの現場確認。ただのライブ観察だ。

 そういうことにすれば、まだ私は歩ける。

 

『あ、そうなんですね! その取材、今どんな感じなんです〜?』

 

「あ、えっと───………」

 

 その時だった。音が、聞こえた。

 最初は、街の雑音の一部だと思った。どこかの店から流れているBGM。誰かが路上で鳴らしている、ありふれたギター。

 でも、違った。

 低く、粘るようなベース。

 簡易的なセッティングのはずなのに、不思議と輪郭のあるリズム。

 そして、その隙間を縫うように入ってくるギターの音。

 

「──────」

 

 思わず、足が止まる。

 スマホを耳に当てたまま、あたしはその場に立ち尽くした。

 音が、こちらへ届く。

 四ヶ月前に聴いたものとは、違っていた。

 いや、同じなのかもしれない。あの時にも確かにあった何かが、今はもっとはっきりした輪郭を持って鳴っている。

 荒削り。未完成。────けれど確かなことは、もうそれが散らばっていないということ。

 それぞれの音が、それぞれの場所に立っている。

 その中心で、あのギターが鳴っていた。

 

 ギターヒーローさん。

 

 でも、その音はもう、独りだけで空を裂いているようには聴こえなかった。

 誰かの歌を押し上げ、誰かのリズムに背中を預け、誰かの低音と並びながら、それでも確かに、そこにいる。

 あの子は、独りで鳴っていない。

 

「…………」

 

 駅前広場の方へ私は立ち尽くしたまま視線を向ける。人だかりの向こうに、四人の女の子が見えた。

 赤みがかった髪のボーカルが、マイクを握っている。その顔には緊張が残っている。けれど、瞳だけはまっすぐ前を見ていた。

 ドラムの子が、キャリーバッグをバスドラム代わりにしている。表情は明るい。けれど、そのスティックの動きには、どこか祈るような丁寧さがあった。

 ベースの子は、いつものように無表情に近い。けれど、音は不思議なくらい歌っているのが分かる。

 そして。

 ピンク色の髪の少女────ギターヒーローさんがギターを構えていた。

 遠くて、声は聞こえない。誰が何を言っているのかも分からない。けれど、演奏前にその子が一度、ボーカルの子へ駆け寄って、何かを伝えていたのは見えた。

 多分、短い言葉だったのだと思う。

 それだけで、ボーカルの子の表情が変わった。

 張り詰めていた肩から、少しだけ力が抜ける。それから彼女は、ギターヒーローさんへ嬉しそうに笑った。

 何を言ったのかはまるで分からない。当然、距離も離れているから聞き取れない。

 でも、ボーカルの子にギターヒーローさんの言葉の何かが届いたのだと、それだけは分かった。

 

「……っ」

 

 胸の奥が、奇妙に痛む。

 あの子は、あんな風に話せるのか。ギターだけじゃなく、誰かへ言葉を渡せるのか。

 その瞬間に思い出すのは右頬の衝撃。久しぶりに誰かに食らった平手の感触。あの時、あたしが彼女から見ていなかったものが、そこにある気がした。

 

『? あれ? 声が遠い?』

 

 スマホから、編集担当の声が響く。

 

『ぽいずんさん、バンドの取材終わりました〜? あの〜!』

 

「────………ごめんなさい」

 

 目を離せなかった。

 

「少し、後でかけ直しますね」

 

『え? あ、はい?』

 

 視線を外すことなく、その景色にあたしは目を剥く。そのまま、右手の親指で通話終了のボタンを押す。スマホの画面が暗くなる。

 その瞬間、街の音が大きくなった。

 いや、違う。

 結束バンドの音だけが、やけに近くなった。

 あたしは、人混みの後ろで立ち尽くしたまま、ただそれを聴いていた。

 何も言えなかった。ただ、耳だけが、勝手に先へ行ってしまう。

 

 最初に耳へ届いたのは、ドラムの響き。

 とはいえ、やっぱりアレはきちんとしたドラムセットではない。

 次に目に入ったのは、駅前広場の片隅に置かれた簡易的な機材。バスドラの姿が無い。

 多分キャリーケースを代用している。簡易キックペダルを使っているのか。低域が薄いぶん、ハイハットとスネアが相対的に前に出ていた。

 どこか不恰好で、ライブハウスのステージに比べれば明らかに制限だらけの音だ。

 

 それでも、鳴っていた。

 

 小さな音。

 けれど、前へ進む音。

 刻まれるリズムは、四ヶ月前よりずっと落ち着いている。派手でもないし、強引でもない。けれど、ちゃんと前を見ている。周りを見ている。支えている。

 それだけは、十分にあたしにも伝わる。

 奥に見えたのは、あの金髪の子だ。バンドのリーダー。あの時、あたしの言葉に青ざめて、それでも必死に何かを飲み込んでいた子。

 ──────今は、笑っていた。

 遠目でも分かる。

 あの笑顔は、ただ明るいだけじゃない。

 怖さを知っている人間の笑顔に見えた。壊れかけたものを一度見た上で、それでも「始めるよ」と言う人間の笑顔だ。

 

「…………」

 

 次に、ベース。

 低い音が、思っていたよりもずっとよく通る。駅前の雑音に紛れやすいはずなのに、沈まない。むしろ、歌の足元を静かに支えている。

 あの青い髪の子。

 無表情で、どこか掴みどころがなくて、初めて見た時は何を考えているのか分からなかった。

 でも、今は違う。音を聴けば分かる。

 あの子は、ちゃんと考えている。

 

 どこで引くか。

 どこで前に出るか。

 どこを空けて、どこを埋めるか。

 

 音の隙間に、他人を通す余裕があるのが分かる。

 それはきっと、技術だけでは作れない。バンドの中で、誰をどう見ているかが出る音だった。さながら、バンドの中の柱。ギターヒーローさん達を支える基盤そのものと言ってもいい。

 

「……」

 

 ギター。

 あの音だ。間違いないはずだ。あの日、STARRYで聴いた、あのギター。同じもの。

 でも違う。鋭い。強い。輪郭が深い。音が目に見えるものとしてそこに在るのならば、それはきっと縁をそっとなぞるような、繊細な響き。

 あたしには、あの日のギターヒーローさんの音は、まるで一人で暗闇を切り裂く刃物みたいに見えた。下手をすれば、誰かを、ともすれば自分すら傷つけてしまうような、繊細で、とても綺麗な刃そのもの。あの人の演奏は、オーチューブでの投稿の時から、あたしにとってそういうものだった。

 

 凄まじかった。美しかった。孤独で、危うくて、だからこそ目を奪われた。

 

 でも、今分かることは、その刃を誰かを裂くために鳴らしている訳じゃないということだ。

 ボーカルの息継ぎに合わせて、少しだけ身を引く。ドラムが前へ出るところで、余白を作る。ベースが歌う瞬間に、重なりすぎない場所へ退く。

 なのに、消えない。中間をキープし、主張もし過ぎないし、存在を消し過ぎることも無い。むしろ、その場にいる全員を照らすみたいに、併さった音の感情が広場へ浮かび上がっていく。

 あの子は、抑え込まれているわけじゃない。

 腐っているわけでもない。

 未熟なバンドに、才能を埋められているわけでもない。

 ちゃんと、そこにいる。

 その事実が、あたしの胸の奥へ、ゆっくり沈んでいく。

 認めたくない。─────あの日、あたしが彼女に言った言葉を、それは取り消す事に繋がるから。でも、耳は嘘をつけない。覚えてしまう。長年の感覚を、こんなにも恨んだ瞬間もないだろう。

 

 あの子の音は、今、“結束バンドの中” で鳴っている。

 

 独りで突出しているのではなく。誰かの横で、誰かの後ろで、誰かの前で。

 それでも確かに、ギターヒーローさんの音として鳴っている。

 

「…………なんで」

 

 言葉が漏れた。

 なんで、そんな音が鳴るの、と。

 才能は、もっと高いところへ行くためのものじゃないの。

 誰にも邪魔されない場所で、もっと正しく磨かれるべきものじゃないの。

 なのに。

 この子の音は、誰かと鳴るほど、形を持っていく。

 

 その事実が、ひどく眩しくて。そして何よりも─────どうしようもなく、羨ましいと思ってしまう。

 

 そうして彼女達の演奏に呼応する様に、共鳴する様に、ボーカルの子が唄う。

 赤い髪。

 華やかな顔立ち。いかにも人前に立つことが似合いそうな、明るい子。前々から思っていたけど、あの子が真ん中にいるのは良い判断だとは思う。以前見た時はボーカルはともかくギターの演奏はまるで見れたものじゃないと、強く思った。

 もちろん、ギターヒーローさんの演奏に比べたら、見る影も無い。

 けれど───明確に、掻き鳴らし(ストローク)とカッティングの使い分けの技術が向上している。この三、四ヶ月の間に相当な練習を積んだことだけは想像できる。右手のピッキングには無駄な力が抜け、音のメリハリが伴うコードの消音(ミュート)の使い分けも以前より遥かにうまくなっている。

 

 ボーカルも、当然完璧じゃない。

 

 喉の奥に緊張が残っている。

 マイクを持つ指先が、ほんの少し硬い。

 笑顔も、全部が自然というわけではない。それでも、逃げていない。

 ただ意気揚々と、前を見ている。

 あの子は、さっき演奏前にギターヒーローさんから何かを受け取った。

 言葉なのか、合図なのか、ただの視線なのか。遠くにいるあたしには分からない。

 でも、確かに何かを受け取った。それから迷いが消えたような表情へ変わった。震えが消えたわけじゃない。怖さがなくなったわけでもないんだと思う。

 それを、ギターが支えている。

 ドラムが支えている。

 ベースが支えている。

 

 ああ。

 これは、バンドだ。

 

 その言葉が、胸の奥で落ちた。

 四ヶ月前、あたしはあの子達を、学生バンドの延長線だと思った。楽しいだけの、未熟な、まだ何者にもなっていない子ども達だと思った。そのお遊びバンドに埋もれるギターヒーローさんを救いたくて、あたしはあの子達から彼女を引き抜こうとした。

 それは、間違いではなかったと、今でも信じている。

 今も、まだ未熟だ。荒いところはいくらでもある。プロの現場なら、指摘するところはいくつもあるだろう。

 でも、未熟なまま、鳴っている。

 未完成なまま、誰かへ届こうとしている。─────その姿が、どうしてか、痛い。また、私の脳裏に痛みをもたらす。

 

「…………」

 

 曲が進む。

 

 街のざわめきが、少しずつ変わっていくのが目に見えて分かった。

 最初は通り過ぎようとしていた人が、足を止める。スマホを見ていた男の子が、顔を上げる。買い物袋を持った女の人が、少し離れたところで振り返る。

 そしてツインテールに黒い服を纏った女の子、紺色のジャケットを羽織った男の子の二人があたしの前を通りかかる。きっと、カップルか何かなのだろう。

 

 男の子が結束バンドの方を見つめながら「あーこの曲好きだわ」と呟く。彼女も彼へ笑いかけながら、「ね〜声いいね〜」と同意を示してはしゃいだ。

 

 人が、人を呼ぶ。

 ほんの小さな輪が、広場の隅に生まれていく。

 それは、まだ大きな歓声ではない。

 熱狂と呼ぶには小さい。奇跡なんて言葉を使うには、あまりにも日常的だ。

 けれど────誰かが足を止めた。気になって、目線を向けた。耳を傾けた。

 その事実は、何よりも確かだった。

 あたしは、唇を噛む。胸もとへ添えるスマホを、強く握り締めながら。

 見たくない。

 でも、見てしまう。

 聴きたくない。

 でも、耳が離れない。

 

 曲の最後、ボーカルの声が少しだけ伸びた。そこに、ギターが寄り添うように重なった。

 押し上げるでもなく。奪うでもない。

 ただ、隣に立つように。ボーカルの彼女を支えるように、音の支柱は広場へ伸びていく。

 

 最後に、ドラムの彼女のラッシュ(連打)─────それを合図(キュー)とする形で、ギターヒーローさん、ベース、ボーカルの三人がドラマーへ前傾姿勢となっていく。

 

 そのまま最後の音が、下北沢の空気へ溶ける。

 

 ほんの一拍だけ、静けさがあった。

 それから、大きな拍手が起きた。

 最初は、まばらに。けれどすぐに、広場のあちこちから音が重なっていく。

 ボーカルの彼女は吹っ切れた様子で満目の笑みを群衆へ向ける。

 

「ありがとうございました! 続いて、もう一曲やるので是非聴いていって下さいっ!」

 

 それに続くように、ベース、ギターヒーローさん。そして即席のドラムスローンからも立ち上がったドラマーの彼女も、ボーカルの子へ倣うように、揃って頭を下げた。

 

「すげ……」

 

「今の曲、めっちゃ良くない?」

 

「結束バンドって言ってた?」

 

「聞いたことないバンドだったけどよかったな〜」

 

「え、下北沢のライブハウスの子たち?」

 

「これから上がってくるっしょ」

 

 そんな声が、ところどころから聞こえてくる。

 あたしは、動けなかった。目を見開ききったまま、身体だけが石になってしまったみたいに。

 拍手の音が、やけに遠く聞こえる。すぐ目の前で鳴っているはずなのに、水の底から聴いているみたいだった。

 あの子達は、笑っている。

 ボーカルの子は、ほっとしたように息を吐いていた。

 金髪のドラマーが嬉しそうに何かを言う。青い髪の子は、相変わらず表情が薄いくせに、ほんの少しだけ口元が緩んでいる。

 そして、ギターヒーローさんは。

 俯きながらも、どこか安心したように、ギターを抱えていた。

 

 その姿を見て、あたしは思う。

 

 確信を得た。伊地知星歌───あの女が言っていた通りだったのだと。

 あの子は、独りじゃなかった。

 最初から。多分、あたしが見ようとしなかっただけだったんだ、と。

 その瞬間、「げっ」とどこか引いたような声があたしの後ろから聞こえた。

 

「────来てたんだな、ホントに」

 

「……っ!?」

 

 あたしは思わず肩が跳ねる。

 振り向かなくても分かった。この声。

 やがて隣にコツ、とブーツの音が響く。

 ────伊地知星歌。

 黒いファーが首元に着いたコートを纏い、ポケットに手を突っ込んだ女。やがて彼女はあたしの隣に立つ。

 ……噂をすれば、何とやら。でもタイミングってもんがあるでしょうに。気まず。

 あたしは溜め息をつきながら、小さく呟く。

 

「……来いって言ったのは、そっちでしょ」

 

「あたしは、暇があればなるべく色んなライブ観るようにしてんの」

 

「……ふーん。でも、まさかほんとに来るとはな。ぶりっこメルヘン年齢鯖読みライター……」

 

「出会い頭にそんなすらすら暴言出る!?」

 

「いや全部事実だし……」

 

 くっ、まさにぐうの音も出ないとはこの事かしら。ぐう。

 あたしは、ムキになって何かを言い返そうとする。でも言葉の続きが出てこなくて、結局呑み込んだ。

 

『言っとくが拒否権は無い』

 

 あの電話の声が、頭の中で蘇る。思い出しただけで腹が立つ。

 星歌は鼻で笑った。

 

「にしても、流石にそんな格好で来るとは思わなかったけどな」

 

「は?」

 

「目立たないように来いって言ったはずなんだけど」

 

「目立ってないでしょ、別に」

 

「いや、目立つだろ。何だその服」

 

「うっ、うるさいわね! あたしの勝負服にケチつけないでくれる!?」

 

「勝負しに来たのかよ。ていうかその歳でそんな地雷系の服ってクソ痛くねーか?」

 

「はぁ!? あたしの勝手でしょうが!! お、お気に入りなのよ!」

 

「あっそ……」

 

 ハァ、と彼女は溜め息をつきながら腕を組む。何よその顔。ムカつく。でも、何かを言い返そうとして、やっぱりあたしは言葉に詰まる。

 確かに、そうだ。

 何と勝負しに来たのか、自分でも分からない。

 結束バンドと? ギターヒーローさんと?

 あるいは、伊地知星歌(この女)か。

 それとも、自分の正しさか。

 

「……別に。人前に出る時は、これが楽なのよ」

 

「ふぅん」

 

 この女はそれ以上、格好については何も言わなかった。何よもう……。

 その代わり、視線だけを広場へ戻す。あたし達は隣合ったまま、同じ方向を見つめる。

 

「もうあれから四ヶ月とか位か? 電話でも言ったけど、お前が余計な事言ったせいであいつ等相当大変だったんだからな」

 

「ッ……それに関しては謝ったでしょ」

 

「 “私には” だけどな」

 

「……」

 

 顔すら向けず、この女はそんな事を呟く。

 ライブハウスの暗がりではなく、昼の下北沢の光の中にいる伊地知星歌は、少しだけ印象が違って見えた。相変わらず目つきは悪いし、口調も悪い。

 でも、その視線はずっと、広場の中の結束バンドへ向いている。

 怒っているようで、心配しているようで。

 面倒くさそうで、そのくせ、結束バンドを見守る姿はどこか誇らしそうで。

 

 ─────やっぱり、嫌な女だと思った。

 

 何回言うのよ、それ。

 まあ、言われるのも当然だとは思う。でもわざわざそんな追求しなくても良いじゃない。あたしは、それに対しては何も言い返せない。そのまま腕を組みながらそっぽを向く事くらいしか出来ることはなかった。

 

「そもそも、べ……別に嘘は言ってないでしょ! 何度でも言うけど……あたしは本気でギターヒーローさんが才能を無駄にして結束バンドで燻ってるのもったいないって思ったのよ」

 

「…………で? そこまで言うなら実際どうだったんだよ。見たんだろ」

 

「…………」

 

 あたしがそう呟いたのに対し、この女は代わりに感想を聞いてくる。

 どうだった。

 そんな一言で済ませられるものな訳ないでしょうに。ホント、性格悪いヤツ。でも、何も答えないわけにもいかない。だからあたしは、舌の上で転がしていた言葉を、ぽつりと一言落とす。

 

「……上手くなってたわ」

 

「四ヶ月前とは、全然違う」

 

「へぇ」

 

「なによ」

 

「いや? ずいぶん素直じゃん」

 

「は? うっさいわよ。ほっときなさい」

 

 あたしは唇を尖らせる。でも、否定はできなかった。

 実際、そうなのだ。あたしの耳には、そう聴こえた。

 

「まだ荒いわよ。もちろん。ボーカルの子は緊張が残ってるし、リズムも完璧じゃない。機材だって簡易的だから、音作りにも限界がある。ベースも、もっと締められる。ドラムも、ちゃんとした環境ならもっと─────」

 

「出たよ」

 

「な、なによ」

 

「仕事の顔」

 

 そう言われて、あたしは口を噤む。確かに、言葉を並べると楽だった。

 荒い。

 未熟。

 改善点。

 技術。

 環境。

 そういう言葉に分解すれば、今聴いたものを少しだけ遠ざけられるからだ。でも星歌(この女)は、そう私を逃がしてくれなかった。

 

「それで?」

 

「……」

 

「それだけか?」

 

 あたしは、もう一度、広場の中の結束バンドを見る。

 彼女たちは再び演奏準備をし始めていた。金髪の子が通行人へ頭を下げ、ボーカルの子がマイクを外し、青い髪の子は、ベースのチューニングを確認している。ギターヒーローさんは、少し離れたところで何かを考えるように弦を軽く弾いていた。その音が、小さくこちらまで届く。

 

「……バンドだったわ」

 

「ちゃんと、バンドだった」

 

 女は何も言わない。

 ただ、視線だけが少しだけ柔らかくなった気がする。横目で見つめながら、そんなことを思う。

 

「……そうか」

 

 その一言は、ひどく静かだった。

 

「でも」

 

 あたしは続ける。

 続けなければならなかった。

 ここで黙れば、何かを認めすぎてしまう気がした。

 

「別にそれで、あたしの考えが全部変わったわけじゃないわ」

 

 星歌の目が、こちらへ向く。

 

「……だろうな。お前の頑固さと厄介さは筋金入りだしな」

 

「…………ギターヒーローさんの音は、やっぱり別格よ」

 

 この女の言葉にいちいち腹を立ててたらキリがないから頑固だの厄介だののワードはスルーする。言いながら、喉の奥が少し乾く。

 

「あの子は、もっと上へ行ける。もっと広い場所で鳴らせる。もっと多くの人に聴かれるべき音を持ってる」

 

「…………」

 

「それは今日聴いて、むしろ余計に思ったわ」

 

 嘘じゃない。事実。思った本音。

 結束バンドの中で掻き鳴らした彼女の音は、確かに美しかった。でも、美しかったからこそ、怖くなった。

 このままでは足りない。このままでは、いつか届かなくなる。

 いつか壁にぶつかる。いつか誰かが、足を引っ張る。

 

 このままいけば、あの子たちはいつの日か必ず()()()日が来るように思えてならない。

 

 そんな考えが、どうしても消えないのだ。

 

「……お前、ほんっと懲りねぇな」

 

「────……」

 

 星歌の声に、苛立ちが戻る。それだけは、すぐに分かった。

 でもあたしは、広場から、彼女達からはどうしてか目を離せない。この女がイラついてるのを理解した上で、なお続ける。

 

「……分かってるわよ。自分でも、しつこいと思う」

 

「分かってて言ってんのか」

 

「そうよ」

 

「タチ悪ぃな」

 

「……でも、才能って、そういうものじゃない」

 

「……何の話?」

 

「才能の話よ。誰にでも与えられるものじゃないってこと」

 

「……………」

 

 星歌は黙る。

 

「努力すれば届くとか、好きなら続けられるとか、仲間がいれば大丈夫とか。そういう言葉は、綺麗よね。優しいし、確かに、全部は間違ってもいないのかもしれない」

 

 でも、と続ける。

 

「その全部を持っていても、届かない人間はいるわ」

 

 赤ちゃんの笑い声が、ふと脳裏を過ぎった。

 未来そのものみたいだった、あの小さな目。何も知らないまま、ただ光るものを追って笑っていた命。無垢な()()そのもの。

 どうしても、考えずにはいられない。

 あの子は、これから何になるのだろう、と。

 何になれるのだろう。

 何になれないのだろう。

 

「……私は、そういう人間を見てきた」

 

「お前自身の話か?」

 

「さあね」

 

「ごまかすなよ」

 

「ごまかしてないわ。全部を他人に話す義理もないってだけ」

 

 そう言うと、星歌は面倒くさそうに眉を寄せた。

 

「……昨日の電話から思ってたけど、お前ほんとめんどくせぇな」

 

「お互い様でしょ」

 

「一緒にすんな」

 

「そっちこそ」

 

 お互いに横目で睨み合う。気のせいかもしれないけど、少しだけ、空気が緩んだ気がした。

 でも、すぐにまた胸の奥は重くなる。広場の向こうで、ギターヒーローさんがボーカルの子に向かって何かを言っていた。

 やっぱり、何を話してるかはこの距離じゃ聞き取れない。

 けれど、ボーカルの子は笑った。その笑顔と、ギターヒーローさんの表情を見てあたしは思う。

 

 あの子は、あんな風に誰かを支えることもできるんだ、と。

 

「……あの子、なんだか、雰囲気変わったのね」

 

「あ?」

 

「ギターヒーローさん」

 

 星歌は、少しだけ目を細めた。

 

「……そうだな」

 

「前から、ああだったの?」

 

「いや」

 

「────少なくとも、私が最初に会った頃は、あそこまでじゃなかった」

 

「……」

 

「でも、あの子は変わったよ。あいつらも、変わってる」

 

「変わる、ね」

 

 あたしは、笑った。

 自分でも分かるくらい、苦い笑みだった。

 

「その言葉、嫌いだわ」

 

「……嫌いな言葉多いな、お前」

 

「……簡単に言う人が多すぎるもの。変われるとか、やり直せるとか、また飛べるとか」

 

 星歌は黙っている。

 そう。綺麗事なんて所詮、大人はいくらでも言える。夢見がちな理想論なんて、掃いて捨てるほど言える。でも現実はそんなにヤワじゃない。

 だから許せない。

 そんな言葉を、平気で、無責任に言える人間が。

 

「本当にそうなら、苦労しないわよ」

 

 そう口走った言葉が、少しだけ低くなっていることに自分でも気付く。

 

「………っ、壊れたものは、壊れたままよ。折れたものは、折れたまま。失った時間なんて戻らない。届かなかったものは、届かなかったままだわ」

 

「………」

 

 それは、誰に向けた言葉だったのか。

 もう、自分で分からない。

 この女にか。

 結束バンドへか。

 それとも─────と、考える。

 

「……ねぇ」

 

 そこまで思ったところで、あたしは宙を仰いで「伊地知さん」と彼女を呼ぶ。

「なんだよ」と彼女はぶっきらぼうに目線だけを向けてくる。

 

「……江ノ島って、行ったことある?」

 

 あたしの唐突な問いに、星歌は怪訝そうな顔をする。

 

「は?」

 

「江ノ島よ。あるの?」

 

「……最近はあんま行ってねーよ。まぁ少し前に、妹と行ったきりか。なんだ急に」

 

 そう呟く彼女に対し、あたしはそのまま広場の上の空を見た。

 下北沢の空は、建物に区切られている。電線と看板とビルの隙間に、細く切り取られた青。

 片瀬の空とは違う。

 あそこは、もっと広い。

 空が高くて、海があって、風がある。何もかもが遠く見えるくせに、どうしようもなく近い。

 

「私、あの辺りの出身なの」

 

「……へぇ」

 

「海岸沿いにいるとね、トビが飛んでるのよ。すごく高いところを、ずっと」

 

 目を閉じなくても、それは思い出せる景色だ。

 青い空。白い雲。

 潮の匂い。海風にさらわれそうになる髪。そして、空の上を大きく旋回する鳥。

 

「子どもの頃から、よく見上げてた。それに、立ち食いしてたものを何回も取られたりね」

 

「ハッ。間抜けだな」

 

「うっさいわよ」

 

 少し小馬鹿にされてるのを感じながら、あたしは毒づき返す。

 そのまま、微かにあたし達は無言になる。やがて、自分の声が、少しだけ遠くなる。

 

「─────…………羨ましかったの。彼らが。何にも縛られずに、好きなところへ行けるみたいで。風に乗って、海の上も、街の上も、簡単に越えていくみたいで」

 

「…………」

 

「でも、実際は違うのよね」

 

 彼女は何も言わない。あたしは続ける。

 

「トビは、自由だから飛んでるわけじゃない。獲物を探すために飛んでる。生きるために、ずっと空にいるってだけよ」

 

「空を飛べるってことは、自由ってことじゃない。飛べる身体に生まれたってだけ」

 

「それが幸せなんて限らないわ」

 

「才能だってそうよ」

 

「飛べる翼を持って生まれた人間は、飛べる。飛び方を覚えれば、もっと高くまで行ける。でも、そうじゃない人間は─────」

 

 そこで、言葉が無意識に途切れる。

 高く、高く。どこまでも自由に見える場所で。あの鳥たちは、生きるために目を凝らす。

 才能も、同じこと。

 持っているから幸せとは限らない。持っていないから諦められるとも限らない。

 欲しい人間に与えられるわけではない。要らない人間に与えられないわけでもない。

 

 ──────才能は、求める者にのみ与えられるとは限らない。

 

 ただ、あるところにはある。ないところには、ない。

 所詮、それだけのこと。そこでまた、喉の奥が軋むように痛む。

 あの日の部屋。

 飛び広がった弦。荒い呼吸。粉々の破片。

 あの声がまた、何度でも耳の奥で残響する。

 

「……そうじゃない人間は、どれだけ空を見上げても、地面にいるしかない」

 

 ふと、あたしは彼女を視線だけで見つめ返す。こちらを見ていた。その目は、さっきまでのように怒ってはいなかった。でも、優しくもなかった。

 ただ、見ている。

 それは、私を逃がさない目のように、思えた。

 

「……それを、およそギターヒーローにでも重ねてんのか」

 

「違うわ」

 

「………違う。あたしはただ、あの子の才能が惜しいだけ」

 

 反射的に否定した。違う、それは、違う。そのつもり。

 でも、その声は少しだけ弱かった。そう言われても、仕方ないかもしれないからだ。

 

「……本当にそれだけか?」

 

「それだけよ」

 

 彼女は、あたしの話をそこまで聞いて一言呟く。

 

「………ひとつ聞いてい?」

 

「何よ」

 

「お前さ」

 

「………なんでそんなにやたらと “才能” に固執すんの? 一体、(なに)にそんな執着してんだ?」

 

「さっきからずっと、引っかかる物言いがやたらと多いんだよ」

 

 あたしは俯いたまま、横目を向ける。彼女はあの子達を見つめたまま、目線を動かすことなくそう問い掛けてきた。

 

「………」

 

 そう言われて、あたしはどう返せばいいか分からなくなった。

 もう一度顔を上げる。視線を、結束バンドの方へ戻す。

 路地を歩む群衆の足音、音響式信号機の「ピヨ、ピヨ」という音。車道を駆ける自動車のエンジンとモーター音。それら全てが、やっぱりどうしようもなく遠いのは、どうしてだろう。

 

「─────…………」

 

 あたし達は、そのまま無言になる。沈黙が、逆に痛い。

 目蓋を伏せる。

 金髪の子がカウントを取る。ボーカルの子が息を吸う。

 ベースの子が指を置く。ギターヒーローさんが、ギターを構える。

 四人が、それぞれの場所に立つ。その姿が、光景が、目に焼き付いて離れない。

 

 世界のざわめきが、私達二人の間で止まったように思えた。

 

 胸の奥に何かが沈む。

 沈んで、堕ちて、跡形もなく崩れていく。

 それと同時に、『ピー、ヒョロロ』と。─────鳴き声が、私の鼓膜へ響いた気がした。

 あるいは。

 それは、また別の音だったかもしれない。ギターヒーローさんのダウンピッキングの響きが、私の脳裏にアフターグロウの様に重なる。

 あの子たちは、まだ飛ぼうとしている。

 怖さも知らずに。

 いや、違う。もしかしたら多分、怖さを知り始めた上で。もしそうだとするなら。それでも、とあたしは思う。

「……簡単な話よ」とあたしは、呟いた。

 それを聞いて、相変わらずポケットへ手を入れたままの彼女がこちらを見る。

 空は、下北沢の建物に細く切られている。その狭い青の向こうを、小さな鳥が横切った。

 

「さっきも言ったわよね。トビは、自由だから飛んでる訳じゃないって」

 

「……何が言いたい?」

 

 そう問う彼女の言葉に、私はまた言葉を詰まらせる。

 視界に映り込む、両翼を広げる遠くの姿に、目を細める。

 詰め込んだ荷物の隙間、クシャクシャになった “写真” と “夢”。何度問い掛けても、それはあの日の正解を答えてはくれない。

 こころの片隅で現実を受け止め、やがていつの日か砕けた幻想と未来。

 私は、()()は結局、どこまで行っても “有限” の存在にしかなり得なかった。

 

 私達は、あの日、“()()” を望み、あの鳥のように、どこまでも未来を求めた。

 

 私達は、一緒に居れる時はただひたすらに無敵だった。無垢だった。自由だった。

 

 世の中を少しでも変えられて。

 夢は、信じて努力すれば、必ずその手に掴める。

 いつの日か、“何者” でもない私達でも、いつの日か、誰かにとっての特別になれると本気で信じていた。

 

 でも、それは違った。どうして勘違いなんてしてしまったのだろうと、今でもずっと思うのだ。

 

 だって、世界はどこまでも無慈悲で、理不尽で。

 そして、余りにも残酷で。

 

 だからこそ、私は思う。

 

 

 

 

「────飛べない鳥もいるのよ」

 

 

 

 

「この世界には、いつだって」

 

 

 

 

 

 そう。私達には結局、この空を無限に飛ぶことなんて──────できるはずもなかった。

 

 それをもっと早く気付けていたら、こんなことにはならなかったのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぼっち・ざ・ろっく!

フラッシュバッカー

 

 

 

#07『君の街まで、月並みに輝け』(前篇)

 

 

《了》

 

 

 

 

 

 

 











The Next.


「ねぇ、佐藤さんさ……その、もしかして、バンド好きなの?」


「誰も見てないけど、いつか誰かが見てくれるかもしれないな」


「俺と、付き合ってくれ! 愛子!!」


「私は、あんた達の音をもっと知ってほしいの」


「俺の才能なんて平凡だよ。……所詮、凡才なんだって」


「でもこのライブ、今日ちょっと良くなかった?」


『……あの時はあたしは、何も出来なくて』


「才能無いから、本気じゃないからって、いっつも逃げてばっかじゃない」


『ただそんなことない、ずっと一緒だったのに、って泣き喚くことしかできなくて……ただ、立ち竦む事しかできなかった』


「べ、別にあんた達のためだけじゃないし! 私が書きたいから書くだけなんだから!」


奏音(かなと)は、好きな音楽で誰かに批判されるのが怖いのよ! 褒められたって貶されたって、評価されて初めて価値が出るんじゃない!! わたし、私はっ、誰よりもあんた達の音楽が、奏音の音楽が、大好きなのにッッ!!」


「飛べねぇ鳥も居るんだよ」


「お前の代わりなんかいくらでもいるんだよ。いい加減それくらい分かれよ、そんなんだからお前は何も出来ねぇままなんだよ!!」


「何もしてこなかったお前なんかに、俺の苦しみの何が分かるってんだよッッ!!」


「信じさせてよ!! 私に見せてよ! あんた達が、本当の “ヒーロー” になるところを!!」


「私、いいバンドを──あんた達を、もっと知ってもらうためにブログ書く。絶対よ!! 約束なんだからっ!」


「当然でしょっ! ふふっ。私の文章、高いんだからね!」


「君を見ていると、……才能というものは、求める人間にのみ与えられるものではないことが、本当によく分かる」


「なぁ。お前は一体、何の為にライターになったんだ?」


「じゃあ俺らが売れたら、愛子先生に公式ライターやってもらうか!」


「それなら多分、私にとっての人生って─────きっと………」


「これから先の人生に、不安があるかどうかだって? そんなもん────無くなる日なんか一生来ねぇよ」

「だから、だからこそやるんだよ。前を向くんだ、精一杯」


「本当に、哀れだと思うよ」


「だけど俺、ただひとつ、思うことがあるんだ」


「あたしは────私は、本当は……」


「みんながいて、大好きな愛子がいて。きっとホントはそれだけでいいんだ。これからは俺達で、絶対に明日を一緒に見つけようぜ」


「十年後も、ジジィババァになっても、ずっと───こうやって一緒にいられるようにさ」


「俺たち全員で、いつの日か、武道館に立つ!!」


「そんでそんで、いつか証明してやるんだよ! 今は何者にもなれなくったって、いつの日か世界を変えられる、そんな存在になれるって!!」


「世界中まで、無限の彼方まで、俺達全員は飛べる! なってやるんだよ!! 沢山の人が幸せな気持ちになれる音楽が弾けるヒーローにな!!」












「だから、約束だ。俺達は、どんなことがあったって─────ずっと一緒だ」











次回

#00『無限グライダー』







愛子「見てください。私との、約束よ?」












〜あとがき〜

 ここまで見て頂き、ありがとうございました。
 ぼっち・ざ・ろっく!フラッシュバッカーもいよいよ折り返しを超え、この物語において最も重要で、最も私自身が描きたかったエピソードへ至れました。
 ……え? 何? この#07『君の街まで、月並みに輝け』、前篇だけで17万6千字超えてるって? ま? 正気か?
 これ後篇どうなるんだ?(白目)
 完全にこのペースだと#07『君の街まで、月並みに輝け』だけで30万文字超える気がして怖くなってきました。正気か?(二度目)



【今後の更新予定について】

 次回は、いよいよこのFBルート版 ぽいずん♡やみこと、佐藤愛子が主人公となるぼっち・ざ・ろっく!フラッシュバッカーの前日譚の物語となります。
 まだ原作においてもメインキャラとしての過去の深堀もまだ無く、現時点ではハーメルン上でも誰もメインヒロインとして描いていないと思わしき佐藤愛子(まあアニメでもまだ未登場ですし当然と言えば当然ですが)。

 多分次回以降、佐藤愛子に関してはこの「ぼっち・ざ・ろっく!フラッシュバッカー」が歴代のぼざろジャンルの作品の中でも有り得んくらいもう一人の主人公的な描き方をしていくことになるかもしれません。

 きっとぽいずん♡やみのこと好きなファン居ますよね? え? まだアニメで見てないから知らん? それなら原作を読もう、可愛いぞ(暴論)。

 多分ぽいずん♡やみに至ってしまう前の佐藤愛子を、めちゃくちゃ可愛く書きたいな、と思ってますのでどうか次回もお読み頂けると嬉しいです。

 くそ長感想となりましたが、ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
 次回の#00『無限グライダー』は脚本から大幅なリメイクをする予定であり、イベント参加に向けてのイラストや書籍準備も行いますので相変わらず更新頻度は落ちることになると思います。ご了承ください。



【イベント参加予定】

 ちなみに夏コミに関してなのですが…落選しました。畜生……(_・ω・)_バァン…

 その代わり、ここで予告になりますが、私、2026/09/22(火:祝日)に東京ビッグサイト 西3ホール(東京都江東区有明3丁目11−1)において開催される

『結サク 19th ぼっちざろっくオンリー同人即売会』にて参加予定です。

 そこではぼっち・ざ・ろっく!フラッシュバッカー(販売名『SEIRIOS ぼっち・ざ・ろっく!フラッシュバッカー』)を同人小説版 第3巻(#04『リライト』メイン&特別書き下ろしエピソード&挿絵 自家製)を再販の1巻、2巻と併せて販売予定です。

 その日が仕事が休めたり、とか、体調がちゃんと整えば…など参加できるかまだ未確定なところもありますが、一応その予定です。もし難しければ追ってまた別のイベントへの参加も予定しています。

 リアルタイムの情報は私のプロフィールのTwitterでも更新予定です。
 よろしければぜひ、来ていただけると嬉しいです。お待ちしております。

 それでは長くなりましたが、これにて。
 またお会いしましょう。そらやまれいくでした。



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