翌年の日本ダービーにて、シリウスシンボリは大歓声を浴びながらぐっと拳を握りしめた。
彼女こそが今年のダービーの輝かしき勝者であった。
万雷の拍手と歓声に酔いしれながら、しかし彼女の視線は遠くにある一点のみを見つめていた。応援席の中でも高い位置にある、関係者席。
そこに座る彼女の因縁浅からぬ幼馴染を睨みつける。
「やっと。やっとだ・・・・・!これでようやくスタート地点だ・・・・・!
待っていろよ、ルドルフ!すぐに追いついてやるからな!」
まるでダービーを勝利したとは思えないほどの、重く血反吐を吐くような声でシリウスは叫んだ。
その声は彼女とシンボリルドルフの間にこの一年間で出来た、途方もなく深く暗い谷の底へと吸い込まれて行くように感じた。
約一年前、シンボリルドルフもシリウスと同じ様にダービーを制した。
余裕綽々と2本指を立て、菊花賞を勝つことを予言した彼女はそのまま多くのファンの予想を裏切って、海外へと飛び立った。
海外志向の強いシンボリ家の戦略であった。シリウス自身もこのダービーで勝った後には同じように海外遠征する予定となっている。*1
そしてルドルフはそのまま勝った。あの世界に名高き「KGVI & QES」も「凱旋門賞」も。
まるで国内と何も変わらない様に、最終コーナーですっと抜け出して約一バ身差の芸術的なゴール。
世間はそのマルゼンスキーに続く偉業に沸いた。まだまだこの時代日本のスポーツは海外と比べてもレベルが低いと思われていたし、実際に3年前から開催されたジャパンカップは3回とも海外ウマ娘が優勝している。そんな中でルドルフは世界の強豪を蹴散らして勝ったのだ。
しかもマルゼンスキーとは違って、完全な日本古来からのウマ娘名家が成し遂げた偉業であるからこそ、より強く世間は彼女を称えた。
日本のウマ娘が世界最強の座に就いたのかは、熱狂を持って人々の間で語られた。
その熱狂が冷めやらぬまま行われた菊花賞は誰もが予想した通りにルドルフが勝って、去年のシービー以上の歓声の中彼女は3本指を京都レース場に突き立てたのだ。
その光景は今でもシリウスの目にこびり付いている。
その後それはそれは盛大に行われた三冠祝いのパーティーに、堂々と凱旋する皇帝の姿も。
不敵な笑みをしていた。ここ数年奴がしていた貼り付けたような気味の悪い笑顔ではない。
自分こそが頂点だと信じて疑わない、獅子のごとき笑顔。
それを見た時の感情をシリウスシンボリは処理しきれていなかった。
昔のギラギラとしたあいつが戻ってきたのだという、自覚のある歓喜と。
誰よりも強いと内心認めていた好敵手が実際にそれを世界へ証明した、自覚のない歓喜と。
置いて行かれるのではないかという、認めたくない恐怖と。
その他にも様々な感情がぐつぐつと溶けあって、マグマの様な闘争心へと形を変えて彼女を熱く駆り立てていた。
だからこそ彼女には余裕なんてものは無かった。
不良ウマ娘の面倒を見たりだとか、トレーニングを自分で決めるためにちょっと頼りないトレーナーと契約するだとか、そういう本来彼女がしていた行動は、世界の頂点にまで手を掛けたルドルフに追いつくのに必死で出来るわけが無かった。
勿論それは彼女が意図して切り捨てた訳ではなく、視界に入れるだけの視野の広さを持てなくなったからなのだが。
そうして死に物狂いの努力と、(シリウスのトレーナーはシンボリ家の者がする事になったが)ルドルフのトレーナーに直接指導を求めに行くほどのなりふりの構わなさを以て、彼女は皐月賞とダービーを制覇したのだ。
これでようやく同じスタート地点に並べたのだ。
関係者席のルドルフとシリウスの目線がぶつかる。シリウスは握りこんだ右手の指を2本解いて、頭上に掲げる。
シリウスは笑う。あいつの様に不敵にではなく、獰猛に。認めよう、今はこちらが挑戦者だ。
二つの意を込めての宣戦布告であった。
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「おう、婆様。言わなくても分かるとは思うが、まだパーティーはいらねえぜ。
3つ揃ってからで良い」
シンボリの家にて、シリウスは当主にそう言い放った。去年と同じくダービーを勝った為に、軽い祝宴会を開いているのだ。
他家の者を呼ばない、身内だけのパーティーなのも同じである。だがしかし、パーティーの参加者は前年と比べて明らかに増えていた。
間違いなく今はシンボリ家の絶頂期である。ルドルフがこの1年でシンボリ家にもたらした名誉は計り知れないレベルだ。
少しでもシンボリ家に関りがあるというだけで社交界でのステータスになる。
さらに2年連続でのシンボリによる三冠にリーチをかけたのだ。あと一つ勝てば一体どれほどの名誉になる事か。
故に声を掛けていない様な遠戚がわざわざ向こうから来ているのだろう。
最小限で良いといったはずのパーティーも、人数が増えたが為に少しばかり豪勢になっている。だがまあ些細な事かとシリウスは思考を打ち切った。
「・・・・・言うまでもない事ですが。
負けるのは許しませんよ?シリウス」
「はっ。誰に言ってやがんだ。
心配せずとも全部勝ってやるよ」
そういってシリウスは胸を張ったが、彼女の祖母は内心ため息をついた。
シリウスの事を信じていない訳ではない。彼女もこの1年で大きく能力を高めたし、例年ならばたやすく三冠を取っただろう。
だがしかし今年は時期が悪かった。あのミホシンザンがいるのだ。
2代目三冠ウマ娘シンザンの家の秘蔵っ子であり、彼女も例年ならば三冠を取れるだけの実力があった。
今の所皐月賞は一騎打ちに勝ったし、ダービーは怪我でそもそも向こうが出てこれなかった。菊花賞には戻ってくるだろうが、怪我明けならば今のシリウスはそうそう負けはしないだろう。だがやはり怖い。
かのトレーナーからもらったデータにも、明確に頭一つ抜けた実力者であると記されていたのだから警戒心は止むことはなかったが、当主である彼女はそれを今飲み込んだ。
去年派手にルドルフが暴れたせいで、今年のシンボリへの期待というのは飛びぬけて重い。
既に今の時点でダービー勝利を祝いつつ、今年はシリウスの三冠祝いパーティーへ参加したいという旨を匂わせた手紙が一体どれほどに送られてきたことか。
誰もが去年の焼きましを望んでいた。負ければそれは大きな失望の津波となって、シリウスを飲み込むことだろう。
だがまあ彼がいれば恐らく大丈夫かと、彼女はシリウスを信じる事に決めた。
「・・・・まあいいでしょう。
それでシリウス、この後のレースですが」
「勿論当初の予定通りキングジョージだ。去年と同じ様に婆様の腰を抜かしてやるよ」
「・・・・・・。
全く冗談ではありませんよ。本当に次は心臓が止まりかねません」
「はっはっ、最近ボケ防止トレーニングも始めたそうじゃねえか。そろそろ隠居した方がいいんじゃないか?」
シリウスの嘲笑を恐らくは本当にこちらの健康をいくらか気遣っての発言なのだろうと理解しつつ、彼女はそれもありかもしれないとぼんやりと思った。
去年ルドルフがあっさりと凱旋門賞まで勝ってしまった時など、驚きのあまり一人では立てず寄り添ってもらいながら授与式に参加したのだ。
当主である彼女はシンボリ家でも有数の実力者ではあったが、しかし当時日本最強と言えたかは怪しい。世代最強とは言いたい所ではあったが。
そんな彼女にとって、世界最強の座はもはや想像すらつかぬ程の大偉業である。
それを涼しい顔をして手に入れたという結果は、欧州の歴史あるウマ娘の名家とシンボリをある程度対等な立場で扱わせる程に衝撃的であった。ルドルフのその芸術的な勝利は、欧州でも名誉を大量に呼び込んだのだ。
今でも朝起きてはたまに自身がボケたのではないかと思って、部屋に置いてある記事を見て事実であったと再確認する日々である。一年前まではまだまだ現役だと自負していたはずなのに、この1年で急に自分の体を信じられなくなってしまった。
勿論シンボリの家が盛り上がるにつれて、それを差配する当主の仕事も激増している。
そういう意味でも当主を譲るのは悪くない手段ではあった。一つ下にこれはという人材はいないが、あと10年もすればルドルフに継がせればいい。それ位なら自分もまだ生きて影響力を発揮できるだろうし、代打なら任せられるのは何人かいる。
「・・・・・確かにそれも悪くないかもしれませんね」
「あ?・・・・・おいおい、婆さんがらしくねえな。
どこか具合が悪いのなら、あいつのトレーナーに見てもらった方が良いんじゃねえか?」
「この前診てもらいましたから問題はありませんよ」
ふてぶてしいクソばばあとシリウスが評する当主のかなり珍しい弱音に、本格的にシリウスに心配の色が浮かび上がる。
そこで医者ではなく、ルドルフのトレーナーが出てくる辺りが今のシンボリがどれほどに彼に信を置いているかの証拠であった。この1年でシンボリは彼の目が如何に非凡で、非常識的な物であるかを理解した。
夏に集めたシンボリ家のウマ娘約50名のデータは、たった1日の集まりであったのにも関わらず非常に膨大で確度の高い物であった。
さらに疑わしき適性のデータすら、そのデータに沿った育成をしたシンボリ家のトレーナー達から「恐らくさほど間違ってはいない様に感じられる」と驚嘆と絶賛の声とともに伝えられたのだから、もうそういう物として受け入れる他なかった。
シンボリ家のトレーニングは既にある程度彼のデータを元に行われるようになっている。シンボリ家が有していた代々のノウハウは、彼の目にあっけなく白旗をあげたのだった。
だからこそ彼が見て問題ないと言ったのであれば、シリウスも気にすることはないかと心配をひっこめた。自身もトレーニングをそれなりに付けてもらったから分かる。
あれは常識の埒外にいる。その手の判断については、疑うだけ無駄だ。
「そうか。それで、そのキングジョージの後は、凱旋門だ。
・・・・・・あいつも出るんだろ?」
「ええ、何事もなければその予定です」
くっと、自身の頬が吊り上がるのをシリウスは自覚した。
世界最強になったあいつとこれ以上に相応しい勝負の場があるだろうか。彼女の中の闘争本能は、直接対決までの道を明確にした事によって益々猛っていた。
それはルドルフの奴も同じだろう。ダービーの時のあいつの顔が脳裏によぎる。
幼い頃の記憶にもないほどの、周囲を威圧する覇気を巻き散らした笑顔。心の底から楽しみだと伝えてきていた。
自分はまだあの獅子の首元に嚙みつけると認められているのだ。
分かっている、クラシックの自分では恐らくまだ届かない。あのトレーナーの元での1年はあまりにも大きい。
あくまで今回はどれだけ差があるかを調べるための前哨戦にすぎない。本番は来年の凱旋門だ。
だが、獣は飢えていて、収まりそうにもなかった。
その笑みを見て広間は静かにどよめいた。
一流のウマ娘の闘志は、時にして空間を塗りつぶす。シリウスは十分すぎる程にその資格を手に入れていた。
まだそれは色を付けて形を成してはいなかったが、その場にいた人を容易く飲み込んでいた。
それを受けて、当主である彼女には間違いなくシリウスは今年の凱旋門で、あの
ルドルフにいたっては、目覚めかけているのにも関わらず全力を出し切るだけの激闘が無いから覚醒していないという状況である。そのあたりのもどかしさが、彼女の内に眠っていた獅子を暴れさせているに違いなかった。
その二人が凱旋門でぶつかる姿を想像して彼女も笑みを深くした。
自分は領域の入り口までしか踏み込めなかったが、この二人ならばきっとその最奥まで、ウマ娘の真髄まで辿り着けるのだろう。
ああ、凱旋門すらシンボリの領域で塗りつぶせたのなら。
愚かしい妄想は、栄光に照らされて。
彼女は切り捨てる事が出来なかった。