ノルンエースは広くなった部屋を眺めて、ベッドに座り込んだ。
もう11月。空気はどんどんと寒さを増してきていたが、今日は一段と冷えた様に感じた。
彼女の同室だったオグリキャップは、つい先日中央へと転校していった。
それを悲しいと思う。
それを嬉しいと思う。
彼女の栄光への道の傍にずっといられなかった事。
彼女の栄光の始まりを近くで目撃出来た事。
あまりにも鮮烈で、強烈な足跡をこの笠松トレセン学園に残して、彼女は去ってしまった。
重力に任せて、そのまま後ろへと倒れこむ。
いつも通りの天井と、いつも通りのベッドの感触を確かめて、彼女は目を閉じた。
そう、彼女との出会いは半年前の事であった。
初めの出会いは最悪であった。
いや何故かあの天然極まりないあいつは、それを良い記憶だと思っている様であったが、しかし今思い返すだけでもベッドに転げまわりたくなる程に恥ずかしく、後悔だけが募った。
何せ私たちはあいつを泥ウサギだと馬鹿にして、物置小屋に押し込めたのだ。
あの時あいつが着ていたジャージは入学して間もないのに泥だらけで、新入生のピカピカのジャージの中で彼女一人だけがみすぼらしく浮いていた。
そんなもの、彼女の努力の証に過ぎなかったというのに。
そうして私たちは彼女の事をバカにし続けて、そしてあの日を迎えた。
笠松はあの日、どこまでも揺れた。世界最強と呼ばれた3人のウマ娘がやってきたのだ。
全国のウマ娘の憧れの的。どれだけテレビに映る彼女たちを目に焼き付けただろうか。
彼女たちが世界に己の牙を突き立てる度に、私たちは次の日学校でいかに強くて格好良かったかを話しあった。
だから誰かが叫び声をあげた後に、クラスの全員が窓に群がった。*1
教師すらクラスを窘めずに、それが事実なのかを確認しようと窓辺に向かった程である。
恐らく向こうから見れば、校舎中の窓にウマ娘達が張り付いていた事であろう。
それを見て、マルゼンスキーは手を振ってくれたし、シンボリルドルフは軽く手を掲げてくれた。シリウスシンボリはこちらを眺めるだけだったが、それすらも「天狼」*2らしくて、私たちはただ歓声をあげた。彼女たちを生で見れた、それだけで私たちは嬉しくて。
そして距離の離れた校門にいてすら分かる、纏う空気の違い。
あれが世界の高みなのかと、心底に痺れたのを覚えている。
すぐに彼らは校長に連れられて校門から去っていったが、何が起こったのだとか、いやこれからきっと何かが起きるのだとか、誰もが口々に言いあった。
その後少ししてあいつが呼ばれて教室を出て行った。だけどその時はまだ誰も別の用事で呼ばれただけだと思っていたのだ。
そして次の日の朝にはもう学園中に噂は広まっていた。
そりゃあ特に口封じも無かったのだ。恐らく大人たちも、それはもうカーリングの如く口を滑らせ続けたのだろう。
尾ひれ背びれのついた噂がすでに出回っていて、何が本当なのかも分からなかった。
ただ恐らく事実だろうと思われたことは、彼がこの笠松のウマ娘をスカウトしにきたのだという事。
そのために笠松に編入してくるという話も聞いたが、それはあまりにも胡散臭い話で、どこかでついた尾びれだろうと一笑に付された。
そして私たちにとって最も受け入れがたかった事は、そのスカウトされたウマ娘が、恐らくあの泥ウサギだろうという事であった。
私たちは反射的に否定しようとして、そこで昨日彼女が教員に呼び出された事を思い出して、息を呑んだ。
まさか、本当に?
真偽を確かめようと、他のクラスや学年からも私たちの教室へ詰めかけたが、しかしあいつが来たのはいつも通り授業が始まるほんの数分前だった。
それでも彼女が現れた瞬間に、皆が彼女を囲んで、それが事実なのかを問いただした。
そして彼女は本当に軽く答えた、スカウトは確かにされた、と。
その時、教室は声で揺れた。歓声に、それが事実なのか改めて確認しようとする声、彼らがどんな風だったかを確かめようとする声が入り混じった。
彼女はそれぞれの質問に答えようとして、しかしそれ以上になだれ込む質問に困惑していた。
授業開始のチャイムが鳴って、それで教師のなだめる声が耳に入って、ようやく皆は各自のクラスに戻ろうとした。
そして、その熱狂を見てあいつは零したのだ。
「彼の事は知らないが、そんなにすごいトレーナーなのか?」と。
ノルンエースは今思い返しても、オグリキャップの天然エピソードは数あれどこれが極めつけなのは間違いないと断じられる。
あれだけ騒がしかった教室中が、一瞬で液体窒素でもぶちまけたかの様に冷め切ったのだから。
もしこの発言を中央のウマ娘が聞いたならば、呪い殺すなんて間接的な手段はやめて、物理的な手段の行使に踏み切ったかもしれなかった。
そうして、その日からあいつは笠松の伝説になったのだ。
・・・・・・いろんな意味でヤバい奴として。
ただ私たち3人はその後の昼休みに、彼女の話に沸く学園と違って、青い顔をしてこそこそと内緒話する羽目になった。
踏みつけた小石が、どういう訳か核爆弾のスイッチになったのだと理解した。ここで対応を誤れば、そのまま日本を巻き込んだ騒動へと発展しかねなかった。
ただもうどうしようもなくて。とりあえず出来た事は彼女に誠心誠意謝って命乞いする事だけであった。まああいつはどうやら嫌がらせをされたとすら認識していなかった様で、私たちの首は無事に繋がったままでいられた。
そしてそれから二日後に、彼は本当に笠松へと編入してきた。
彼らが、放課後にあいつと並んで笠松の運動場に立っている光景の、なんて信じがたくて、衝撃的な事だったか。
そこに、中央のウマ娘すら霞んで見える、至高の才能の持ち主が3人も並んでいて。
世界を相手に無敗で駆け抜けて、日本最強、別格の化け物としての評を確たるものとしたトレーナーが何かを話していて。
本当の事なのだと、実感が湧いた。オグリキャップというウマ娘はスカウトされたのだ、彼女たちの後継者として。
地方のウマ娘が、中央に数多いる綺羅星の様な才能の持ち主を差し置いて、その才能を欲されたのだ。
地方のウマ娘は、中央のウマ娘に敵わないんじゃなかったのか?
彼女らが華のエリートで、自分たちはただの雑草ではなかったのか?
もしかして・・・・。もしかして・・・・!
こんな寂れた地方のウマ娘が、中央を蹴散らして、世界を蹴散らして、無縁だったはずの栄光を手に入れるのか!?
私たちが夢見たシンボリ姉妹の栄光のその続きを、中央のウマ娘ではなく、お前が描くのか!?
そんな輝かしい未来が、今ここから始まるのかもしれないのか!?
それはこのどこか諦めの漂っていた笠松にはあまりにも眩しい光景だった。
そして、そこから週に2、3回程シンボリの二人がやってきて彼女と併走する日々が続いた。勿論毎週二人そろってという訳ではなかったし、一人の場合の方が多かったが。
しかしそれでもこれ以上もない贅沢である。三冠ウマ娘が併走してくれるというだけでも、私たちにとっては一生ものの思い出だというのに。それが何故か二人もいる時があるのだ。
何度か成り行きで彼女たちと、集合写真を撮れる機会があったが、これがどれだけに嬉しくて、夢の様だったか。笠松寮の、ほとんどの部屋にその写真が大切に飾られているだろう。
中には感激のあまり泣き出すウマ娘だって少なくは無かった。
じゃあ代わりに自分がオグリキャップの立場となって、併走したいかと言われれば絶対にNOであったが。
それとこれは、話が別だ。あの二人の暴虐っぷりを
いやまあ、あいつが粘るからあそこまで酷くなったのは理解しているが、それでも脳にこびり付いた恐怖と魂に刻み込まれた畏敬が、全力で警鐘を鳴らすのだ。
夏を越えてからの最終盤はあまりにも酷くて、下手に近くで見過ぎると体調を崩しかねないレベルでやばかった。
威圧感という言葉で済ませて良い物じゃない何かによって、思考がまるで針金の様に細くなって、平衡感覚を失っていくのだ。
あれを心の底から楽しめるのは、本当に理解できないが、でもそれが才能なのだろうなと思う。
あの併走を考えれば、当然の事なのかもしれないが、彼女は進化し続けた。四月の頃ですら、私たちはその走りに圧倒されたというのに。
そこから彼女は進み続けていた。より鋭く、より速くなって。
自分にはもう彼女が今どこの高みにまで辿り着いたのか、分からなかった。
あれだけあれば、中央でも勝てるのだろうか、G1でも勝てるのだろうか。私の物差しはそれを測るにはあまりにも短くて。
ああ、彼女に比べて、私は全く進んでいなかった。
オグリキャップはがむしゃらなまでに、未来を切り開こうとしているのに。
ああまで苦しそうにしながら、彼女は魂を解放させていった。
走れることが楽しいのだと。見る者にそう伝えて彼女は疾走した。
ウマ娘の宿縁。きっと私たちは走るために生まれてきた。それを知っていたはずなのに。
彼女の姿は、なぜ私たちは走るのかを教えてくれた様だった。
彼女の走りは、きっとこの笠松に熱を吹き込んでいた。
ノルンエースは、ベッドから起き上がった。
そして自身のジャージを箪笥から取り出した。最近洗っても取れない土汚れがだんだんと付いてきたそれに着替える。
トレーナーから伝えられた目安の距離を思い出して、彼女は広くなった部屋から出て行った。
栄光は眩しいけれど、けれども彼女は走れるから走っているのだ。
☆
彼女は嬉しそうに手紙を撫でて、封を開けた。
最近笠松のトレセン学園に行った娘からの手紙だった。
娘はどうやら元気そうにやっている様だと笑顔を浮かべて、その笑顔が固まる。
何か訳の分からない事が書いてあった。日本語としては分かるのだが、言ってる意味が良く分からない。
中学生の妄想ノートみたいな内容がそこには書いてあった。もしかして、彼女も親元を離れた事でそういう心が芽生えたのだろうか。
いやでもあの子がそれはないかと思いなおす。それじゃあ学園で何かあったのだろうかと脳裏に不安がよぎる。
娘は良い子ではあったが、正直ちょっと、いやかなりの天然だった。
だんだんと何か良くない事があったのかもしれないと不安が募って、彼女は休日にトレセン学園を訪れる事にした。
そこで、彼女は見た。
自分の娘が、何故か街中でよく見る顔のウマ娘と走っているのを。
というか、シンボリ姉妹だった。
それが何故か笠松にいて、しかも娘と併走していた。
手紙に書いてあった通りの出来事なのだが、衝撃的な光景は容易く処理能力を凌駕して、彼女は娘のレースが終わるまで立ち尽くしていた。
飛ばしていた意識が戻ると、彼女の目の前にはやはり見知った顔のトレーナーがいて。その後ろには世界最強のウマ娘が3人控えていて。
彼は自分の娘と契約したと話している。
そして彼の頭が下がった。それはもう深々と、頭が腰の位置に来るまで。
つまり、どういう事なのだろうか。彼女の頭は働かないままだった。
そして徐々に現実感が返って来るのと同時に、意味を理解して。
彼女は、倒れた。
ベルノは描写することがそんなに無くて・・・。
まあトレーナーに脳を焼かれてスタッフ研修生コース受けて、中央でもオグリと仲良くはやってるって事で。