彼女の向かった方向から見、推測するに国道を真っ直ぐに歩いて役場方面から、最戸へ向かうのだろうか。一番近いルートから考えると、そうに違いない。この暑さでわざわざ遠回りする必要もないし、ましてや先ほど自分と約束をしたのだから当然早く行こうとも思う筈だ。
道の駅の駐車場を右折すると、これまた遠方にまで広がる水田風景が広がり、真横にあるコンビニとの境目に小さな町道がある。車1台がギリギリ通れる幅なのだが、案外見通しもよく防犯的にも使いやすい事から地元民が犬の散歩をしたり、この時期だとコンクリートで出来た側溝との間にあるまだ未整備の側溝や、道を少し下った場所にある水田などで子ども達がザリガニ釣りなどをして遊んでいる光景をよく見る。⋯⋯あのまま国道側に戻ってしまえば、出庫する車列に引っかかりすぐに変わる信号もあって10分近くは時間を食らってしまうだろう。
さてこの道は町道とは言いつつも、半分を越した辺りから舗装のされていない農道のような道となっていく。ガタガタと軋む音を立てながら車を進ませていく最中、ふと右側の水田に囲まれた畦道を見ると誰かが歩いているのが見えた。陽炎が揺らめき立つあの道を、制服を着た1人の少女が歩いている。まだつい先ほど会ったばかりで、すでにあの位置まで歩いていることに驚きを隠せなかった。
えっ、と軽く声が出てしまう。
端から見てみれば、通常の歩行速度に見えるかもしれない。だが、まるで彼女に追いつくことが出来ない。同じ道ではなく、水田を挟んで数十メートルほど離れている位置なので多少は誤差と言うべきか目の錯覚のようなものとも言えないのだが、それでも車を持ってしても一向に同位置に並ぶ気配を感じることが出来ない。次第に遠ざかってゆく彼女をただ見送ることしか出来なかった。
あちらは徒歩、こちらは車だ。どう考えても⋯⋯おかしい。
───────────────────────
車を走らせる事20分ばかりだろうか、以前停めた場所と同じ位置に停車させてから周囲を見回してみる。時刻は15時より少し前、車内の温度計はクーラーを切った途端ぐんぐんと上昇していく。バインダーを抱えつつ、車を降りてから少し身体を伸ばす。連日の猛暑で夏バテ気味になっている身体を休めたいものだ。
次の休みは温泉にでも行こうか、とちらほら考え耳を劈くような蝉の鳴き声に囲まれつつ、あの山へと向かう。流石に彼女はまだだろう。先に行って待っているとしようか。
畦道を進み、正面を視界で捉えると見えてくる石段。僅かな部分だけがこの暑さによって映し出されているかのように、数段上がった先、4段目などから上は木々に覆われまるで別世界へと誘われているかのようにも見えてしまう。水路を流れる涼しげな水の音、土を踏みつける自身の足音、蝉の鳴き声、一歩一歩進むごとにそれらが消えてゆくかのような静寂がやってくる。
その静寂を進み、階段を一歩、また一歩昇る。以前来た時にあった湧き水による泥濘も、端の辺りが欠けた石段も全てがあの日見たままの様にも見える。
石段を登りきると、目の前にあの朱色の鳥居が現れる。陽炎に揺れる下界の暑さとは裏腹に、ここではひんやりとした空気が肌を撫で、まるで時間が止まったかのような静寂が辺りを支配している。蝉の鳴き声も、水路の音も、すべてが遠ざかり耳に届くのは自分の呼吸と、時折木々の間で揺れる葉擦れの音だけだ。穏やかすぎる、ある意味真空にでも囚われたような錯覚をしてしまうこの空間に居た、その時だった。
「佐藤さん」
突然、背後から声が響く。心臓が跳ね上がり、思わず肩をすくめて振り返る。そこには瑞樹が立っていた。制服を着た彼女は、汗一つかかず涼しげな笑みを浮かべている。だが、その笑みにはどこか不自然な硬さがあり、目が異様に鋭くこちらを捉えている。
まるで、心の奥まで見透かすような視線だ。
「み、瑞樹さん⋯⋯。もう、着いてたんですか?」
「はい、さっき着いたところです。佐藤さんが来るのを待ってました」
彼女の声は柔らかく、まるで歌うように滑らかだ。だが、言葉の端々に妙な重みが感じられる。「待ってました」と言うたびに、なぜか背筋に冷たいものが走る。歩いてここまで来たはずなのに、彼女の制服は皺一つなく、髪も乱れていない。まるでこの場所に「ずっと」いたかのような、不自然な清潔さだ。畦道で見たあの異常な速さ――車で追い越せなかった光景が頭をよぎる。おかしい。どう考えてもおかしいんだ。
「そ、そうなんですね。いや、それにしても早いなって⋯⋯。あの、歩いてきたんですよね?」
「はい、歩いてきましたよ。佐藤さんは車でしたよね?」
彼女は首を軽く傾げ、微笑む。その仕草は一見愛らしくも見えるが、目が一瞬もこちらから離れない。一度たりとも瞬きをしていない。まるで、こちらの反応を一言一句逃さず観察しているようだ。陽炎の中、彼女が畦道を歩く姿が、まるで現実から浮いているように見えたあの瞬間がフラッシュバックする。
「ま、まあ、はい。あの公用車で⋯⋯。そ、そうだ。で、今日は案内してくれるって話でしたよね?」
「そうですよ。佐藤さんが来てくれて、ほんとに嬉しいんです。この神社、誰も知らないんですから」
彼女は一歩近づき、こちらとの距離を詰めてくる。その動きはあまりにも滑らかで、まるで水面を滑るように自然だ。だが、近づくたびに、彼女の周囲の空気がさらに冷たく、張り詰めたものに変わる。まるで、彼女自身がこの神社の静寂を体現しているかのようだ。彼女の目が、自分の顔をじっと見つめ、まるで逃がさないと宣言しているように感じられる。
「誰も知らない⋯⋯って、でも、平安時代からあるんですよね?そんな古い神社なのに?」
「そう。とても、とても古いんです。佐藤さんが興味を持ってくれて、ほんとに嬉しいんです。」
彼女の声が一瞬低くなり、妙な抑揚⋯⋯まるでお粗末な邦画のようなアクセントが耳に入る。まるで、言葉にその感情以上の何かが込められているように。
「⋯⋯⋯じゃあ、早速案内して頂いてもいいですか?観光名所として、どんな感じか見させて貰えればと。」
「ふふ、もちろんです。ついてきてくださいね。私、ちゃんと案内しますから。」
瑞樹はくるりと背を向け、石段の先、拝殿へと続く道を歩き始める。彼女の後ろ姿を見ながら、あの末社での体験、人形を壊したこと、遺跡で出土した同じ人形、増田の失踪――すべての不穏なピースが何故か頭の中でぐるぐると回り始める。
だが、彼女の軽やかな足音に引き寄せられるように、自分も嫌に軽い足取りで進んでゆく。拝殿に近づくにつれ、空気はさらに重く、冷たくなる。まるで秋の森に迷い込んだかのようだ。拝殿の古びた建築模様は、初めて見たときと変わらず、薄暗い中にどっしりと佇んでいる。由緒板も、案内板も、何一つない。まるで、この神社が存在しないことを⋯⋯この土地、いや町が望んでいるかのようだ。
「ここが、攫門神社の拝殿です。佐藤さん、初めて来たときもここまで来たんですよね?」
彼女が振り返り、微笑む。その目は自分の顔をじっと見つめ、まるで「本当に覚えているのか」を確かめるようだ。彼女の声には、どこか試すような響きがある。
「え、うん、そうですね。石段登って、鳥居くぐって、ここまで⋯⋯。」
「迷わずに?」
彼女の質問は、電話でのやり取りを思い出させる。あのときも「迷わずに来られたか?」と聞かれた。なぜそんなことを聞くのか。畦道は一本道だし、石段も何も迷うようなものではない。
「う、うん、迷わずに。普通に登ってきただけですけど⋯⋯。」
「ふふ、そうですか。佐藤さん、運がいいんですね。この神社、迷う人もいるんですよ」
「迷う?でも、一本道ですよね?」
「そうなんですけど⋯⋯ね」
彼女が意味深に笑い、言葉を濁す。声が一瞬、遠くから聞こえるような錯覚に陥る。まるで、彼女の存在自体がこの神社の空気と溶け合っているかのように。ごくりと唾を飲み込み、話題を変える。
「そ、そういえば、瑞樹さん、この神社の歴史とか、どんな神様が祀られてるか知ってるんですか?観光名所にするなら、そういう情報が必要で……。」
「神様?うーん、そうですね……。この神社は、平安時代からあるんです。昔、都から遠く離れたこの地で、旅人を『導く』神様が祀られたって言われてます」
「⋯⋯導く?」
「はい。旅人を、道を、そして運命を。だけど、導かれた先は、誰も知らない場所なんです。そう、戻ってこれない場所とか。」
その言葉に、背筋が冷える。そして彼女の声には、どこか遠い時代を思わせるような、奇妙な響きがある。
「平安時代って……どんな由来なんですか?何か伝承とか?」
「ふふ、興味を持ってもらえて嬉しいです。じゃあ、もっと教えてあげます。この神社は平安の時代、都から追われた貴族や、戦に敗れた武士がここに来て隠れる場所だったんです。だけど、隠れるだけじゃなくて、『消える』場所でもあったんですよ」
「消える?」
「はい。この神社の神様は、選ばれた人を別の世界に連れていくって言われてます。逃げ込んだ人達は二度と戻らなかった。そんな伝承が残ってるんです」
彼女の言葉に、胸がざわつく。
「そ、それは⋯⋯ちょっと不気味ですね。ハハ、観光にはちょっとアレかも⋯⋯。」
「不気味?でも、佐藤さんは興味あるんですよね?そ れ に私のこと、とかも。」
彼女がまた一歩近づき、自分の顔に顔を寄せる。距離が近い。あまりにも近い。彼女の息遣いが頬に触れ、冷たい空気とともに、奇妙な甘い香りが鼻をつく。この瞬間、心臓が早鐘のように鳴る。
「み、瑞樹さん、ちょっと近い⋯⋯。」
「ふふ、ごめんなさい。佐藤さんが来てくれるの、ほんとに楽しみだったから、つい」
彼女は一歩下がるが、その目はいまだに自身捉えて離さない。まるで、鎖で縛りつけるような視線だ。一旦場を白けさせるような咳払いをして、話を進める。
「えっと、その⋯⋯拝殿の中とか見せてもらうことはできますか?調査用の写真とかも撮れれば⋯⋯。」
「拝殿の中?うーん、今日はちょっと⋯⋯。でも、もっと面白いところ、案内しますね」
彼女はそう言うと、拝殿の横、木々がさらに深く茂る小道へと歩き出す。これは、一瞬ためらう。まるであの末社での体験が頭をよぎる。⋯⋯あの人形、壊れた感触、訳の分からぬ時間の歪み。
前からこちらに浸透するような、彼女の軽やかな足音と、「こっちですよ。」という声に、なぜか逆らえない。
─────────────────────────
小道を進むと、木々の隙間から差し込む光がとうとうなくなり、まるで夜のような暗さが広がる。道は狭く、足元には苔むした石が転がり、湿った土の匂いが鼻をつく。
彼女はと言うと、まるで慣れたようにローファーといういかにも滑りやすいような靴で軽やかに歩いていく。あの制服が、暗い森の中で妙に浮いて見える。あまりにも場違いすぎる。
「瑞樹さん、この道、どこに続くんですか?」
「ふふ、秘密の場所です。佐藤さんが好きそうなところですよ」
「好きそうとは⋯⋯?」
「佐藤さんこういう場所、好きですよね?誰も知らない、静かなところ。」
彼女の言葉に、また胸がざわつく。確かに「厳かな場所が好き」とは言ったが、こんな具体的な言い回しはしていないはずだ。なのに、まるで心を読まれているかのようだ。
そしてその声が、遠くから山彦のように響いている。森全体が彼女の声を反響させているかのように。⋯⋯小道の先で、木々が開け、ぽつんと小さな社が現れた。⋯⋯勘違いだろうか?いや違う。違うはずだ。絶対に。
目の前にあるのは、あの末社だ。朽ち果てた屋根、風化した虹梁、開ききった御扉。足が止まり、水中で頭を押さえつけられたように呼吸がままならない。あの、人形を壊した場所だ。