この世界に来て一週間ほどが経った。
意外にも俺は、この世界に順応していた。
この身体は、俺のものではない。脳だってそうだ。魂だけが、俺のものだと断言できる。
心は、どこに宿るのか。そんな益体もない、哲学的なことを考えてしまう。
セズマールさんの忠告通り、俺はひたすら地下一階で稼いでいた。一階は対処しやすい怪物が多く、比較的安全らしい。
それでも死亡する冒険者は多く、ほぼ毎日どこかの
六人パーティでも、誰かしら殺られるのが迷宮の日常だった。そんな魔窟に、
怪物への対処法がなんとなくわかるのだ。そしてこの短剣だ。かなりの業物のようで、尋常の切れ味ではなかった。
セズマールさんは、一階に出てくる怪物は特殊攻撃をしてこないから楽だと言った。それはつまり、地下二階からは、特殊攻撃をしてくる怪物が出てくるということだろう。
毒、麻痺、眠り、混乱あたりか。
混乱は大丈夫だろう。仲間に攻撃することはないし、さすがに自傷はしないと思う。
眠りはちょっと怖いな。自分が使うから、その効果はよく知っている。一階の敵には、ほとんど《
毒は即座に治療すれば問題ない。麻痺は厄介だな。《
一階には毒や麻痺攻撃をしてくる怪物はいないようだが、毒針や麻痺毒の罠が仕掛けられている宝箱は存在する。
そんなときのために、毒消しや気付け薬は持っているが、幸いにして使う機会はなかった。
地下二階へは行こうと思えばすぐにでも行ける。玄室を通らなくてもいいからだ。
そろそろ進んでもいいかもしれない。延々と一階にいるわけにもいかないしな。稼ぎだって違うだろう。借金は早めに返しておきたい。
何しろ一階の宝箱から出てくるのは、とても財宝とは呼べないような代物ばかり。このままでは借金の完済までに何ヵ月かかるかわからない。利子はつかないから、いつかは完済できるとはいえ、このままだと本来の目的を忘れそうになってしまう。
「そんなわけで、そろそろ二階へと進みたいと思います」
「ふむ」
セズマールさんは顎に手を当ててうなった。酒場に行くと彼が食事をとっていたので、借金の返済がてら相談してみることにしたのだ。相談というよりも報告に近いが。
「まあ、おまえさんなら大丈夫だろう。だがひとつ、忠告しておこう。ウサギには気をつけろ」
ウサギ? ウィザードリィでウサギといえば……。
「ボーパルバニー……ですか?」
「おっ、知っていたか。二階からは、そいつが出てくる。初めて二階に進んだパーティは、大抵そいつに一人二人殺される。そんで、死体を担いで
「警戒していてもですか?」
「警戒していてもだ」
セズマールさんが、至極まじめな顔で告げる。
ボーパルバニー、あるいは殺人ウサギとも呼ばれている怪物。その可愛らしい外見に反して、驚異の跳躍力と素早さ、そして異常発達した門歯で人間の首を掻っ斬る残酷な怪物……だったかな。
「進むなら最大限警戒することだ。それよりもおまえさん、最近話題になってるらしいじゃないか」
からかうように、セズマールさんは微笑を浮かべた。
「ちゃんとお代は頂いてますよ」
俺は迷宮で回復屋のようなことをやっている。傷を負った冒険者に"
回復を買う冒険者の理由は様々だ。傷薬を使い果たした、あるいは節約したい。もしくは、僧侶はいるが"
買ってくれる冒険者は結構いた。そもそも傷薬というものが、気休め程度にしかならないのだ。
そしてこの街では、どういうわけか薬の価格が妙に高い。魔法薬の一瓶二瓶で、
需要と供給、迷宮で手に入るかどうか、あるいはドロップ率か、まあそういうものが関係しているのだろう。
「"善"の僧侶に会えたやつは幸運だな」
善と悪。性格というよりは戒律。行動指針と言ってもいい。
不要な戦いを避けるとか、友好的な怪物を見逃すとか、その程度のことだ。
だが些細な意見の違い、少しのすれ違いから、危機に陥ることもある。それが迷宮という場所だ。だから、戒律の違う者とは、組まないことが多い。善でも悪でもない、中立というのもある。
「"偽善"のジョンと呼ぶ者もいますが」
借金のある身は辛いのだ。それに押し売りはしていない。だというのに、偽善とは酷い話だ。ただの商売なのにな。
「くくっ、いつの世も暇人はいるものさ」
暇人か。自分では何もしないくせに、他人の行動にケチをつける輩がいるのは、こちらの世界でも同じようだ。
「だがおまえさん、
「限界を感じたら、そうしますよ」
浅い階層ということもあるだろうが、今のところ苦戦らしい苦戦はしていない。パーティを組めば、たしかに
「即席パーティってのも危険だしな。それに、
そう言って、セズマールさんはエールを呷った。
◇
セズマールさんと酒場で別れて、いつもの宿へと急ぐ。その途中で、奇妙な視線を感じた。この街で、知り合いは少ないはずなんだがな。
俺のことを"偽善"と蔑んでいるヤツらかもしれない。毎夜毎夜つけられるのも面倒だし、要件くらいは訊いておくか。
大通りを外れて、路地へと入る。しばらく歩き、立ち止まった。
「俺に、なにか用かい?」
振り返ると、黒いローブの……男? が立っていた。大通りから灯りは漏れているが、逆光のせいで顔は良く見えない。
男は慌てた様子もなく、落ち着いた様子でフードを取った。
銀髪……いや、灰色か。鋭い目付きに、ローブの下には軽鎧を着込んでいる。いや、違うな。あれは……具足? 甲冑か?
「おまえが、セズマールの拾ってきた男か」
「……まあ、間違いではないが」
そんな犬コロみたいに言わなくてもいいじゃないか。
「俺の顔を知っているか?」
「うん?」
なんだその質問。意図がわからんが……いや、こいつ、セズマールさんの言っていた、最初の記憶喪失の男か?
だが当然、『俺』は知らない。
「……わからない」
「わからない、か」
男が含み笑いを漏らす。
「あんたが、イアルマスか?」
「ああ、そうだ。なにか思い出したら、教えてくれ」
そう言い残して、イアルマスは去って行った。