BanG Dream! It's MyGoD? 作:YUEG
昔、神を聴いたことがある。
それは形を持たず、色も重みもなかった。
目には見えない、美しい旋律。
それは神だった。
そう確信させるだけ神秘と力があった。
ここが密室であり、設計段階から作成された最新の音楽スタジオであることなど何の意味もなかった。
分厚い吸音材の壁を超え、彼方から聞こえていた音色が近付いてくるのだ。
俺はその美しさにぼろぼろと涙を流しながら、その恐怖にがたがたと震えた。
それは、その現象が音響学的にはあり得ないものだからじゃない。
どんな音の並びより幽玄な音列は、『これに比べたら』と人として大切な判断基準を歪ませていくのだ。
現実のあらゆるものが重みを失っていく恐怖に、泣きながら聞き惚れていた。
神秘的で支配的な旋律。
あらゆる音の組み合わせを超越した恐怖の旋律は、千の言葉より強烈に神の実在を信じ込ませた。
だから、その後。俺は至極当然のように『
神を聴くために必要だと思うことは何でもやった。
神を聴くために不要だと思うことは何もしなかった。
脳と肉体すべてを傾けて技術と経験を磨き上げていった。
あの日、神を聞いた時とは見違えるほどに音楽への造詣も深まっただろう。
しかし、ただ技巧を積み重ねるだけで
煌びやかなシャンデリアが眩い光を放つホテルのボールルーム。
豊川の関連会社が主宰するこのパーティーには、政財界の重鎮や名のある文化人たちが集まり、静かなざわめきと微かな笑い声が空間を満たしていた。
磨き上げられた大理石の床が、シャンデリアの光を反射し、煌めく波紋を描いている。
ホテルスタッフたちは静かにグラスを運び、手際よく食事を提供している。
香ばしい料理の香りと、高級ワインの芳醇な香りが微かに漂う。談笑する人々の間を、ドレスやタキシードに身を包んだ紳士淑女が優雅に歩く。
この夜の宴会は、豊川グループ傘下の広告代理店の創業記念を祝う特別なものだった。会場の一角には、歴代の業績を振り返る写真や、会社の歩みを記したパネルが飾られ、来場者たちは時折それを眺めながら語り合っていた。豊川祥子は父や祖父の知人と時折挨拶を交わしながら、展示の前を通り過ぎていく。
「睦、御機嫌よう」
気持ち大きくなる声を抑えながら幼馴染に話し掛ける。
「祥…」
「遅刻ですわよ。もう祝辞どころか来賓挨拶さえ終わってますわ」
「ごめん」
「もう、良いですわ。みなみさんと隆文さんはどちらに?」
「わからない」
「ふふ、わかりましたわ。ご飯食べましょう?」
無言で肯定する睦の手を引いて、席に向かう。
睦が来ると聞いた時から用意したテーブルには、既に幾つかの料理が並んで湯気を立てていた。
食事が始まってからおよそ二十分。
客たちはメインディッシュにナイフを入れながら談笑を楽しんでいる。
祥子や睦もグラスを傾けながら、デザートの到着を待っていた。
その時、会場の中央に設けられた小さな舞台に、司会者がゆっくりと歩み寄った。
微かにマイクがノイズを発し、ざわついていた会場が次第に静まっていく。
「皆様、本日はお忙しい中、豊川広告グループの創業記念パーティーにお集まりいただき誠にありがとうございます。
さて、ここでこの素晴らしい祝宴を盛り上げる催しとして、津亜優弦氏をお招きしております。
世界的ヴァイオリニスト
そんな津亜さんが、本日は特別にこの場で演奏を披露してくださいます。
どうぞ皆さま、特別な演奏を心ゆくまでご堪能ください。
それでは――
司会者の言葉と共に、後方のカーテンが静かに開き、視線が一斉に舞台に注がれた。
そこに立っていたのは、一人の青年だった。
祥子と睦の、古くからの友人。
少年から青年へと踏み出したばかりという年齢の男。
彼は幼馴染の少女達と比べてもふたつしか違わない。
多くの聴衆は、この場に招待されるヴァイオリニストとしては若すぎると思うだろう。
背筋を伸ばし、静かな気配を纏った彼は、黒いタキシードを身に纏い、手にはヴァイオリンを持っていた。
淡い照明が彼の姿を照らし、研ぎ澄まされた雰囲気を際立たせる。
前髪が邪魔にならないようにと、後ろに流した短髪。
高い頬骨が目立つ顔立ちは、何の感情も感じさせない冷めきった目を強調している。
長時間の演奏によって培われた広い肩幅は、踏み込むたびに確かな重みを感じさせる。
がっしりとした肉体は四角いシルエットを形作っており、ある種のクラシック楽器のように見えた。
「睦、優弦ですわ!」
「あ~優君だ。久しぶりだね!」
「……そうだね」
祥子は、彼を見るのは半年ぶりだったが、特に驚きはなかった。
むしろ、彼が変わり始めたのはずっと前──七年前に、彼の祖父が亡くなったときからだった。
優弦の祖父は、彼にとって最も大切な存在だったのだろう。
その死を境に、優弦は劇的に変化した。
彼は自らの心境を語ることこそなかったが、変化は音に現れた。
優弦は昔から天才だった。
同世代の誰よりもうまく弾けたし、どんな曲でもすぐに覚えた。
でも、それはあくまで天才の範疇だった。
彼のヴァイオリンは、祖父が死んでからまるで別物になった。
表現の幅が増え、世界的な天才が時に恐ろしさを感じるほどの音を紡ぐようになった。
彼がヴァイオリンを持つその姿を見て、祥子は改めて思う。
彼はあの時から、音楽に全てを捧げるようになったのだ、と。
拍手がまばらに響く中、優弦は一礼し舞台中央へと歩みを進めるがその顔には緊張も笑顔もなかった。
機械の様な無表情。
それは感情を宿していないのでなく、強すぎる感情を押し殺しているのだと祥子は知っていた。
優弦は、祥子と睦を見て、意識して目をそらして、弓を構える。
一瞬の後、静かに言った。
「演奏するのは《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ》です」
それだけを告げ、すぐに弓を弦に滑らせる。
冒頭の低音が沈み込むように響き、それが鋭く跳ね上がる。
一瞬にして空気が変わった。
音は規則正しく、しかしどこか自由で、端正でありながらも力強い。
澄み渡る高音、深く響く低音、まるで光と影が交差するような旋律が人々を包み込む。
音が会場を満たし、先ほどまで談笑していた人々の口が、次々と閉じられていく。
一音一音の粒立ちは明確で、弦を捉える弓の圧力は的確だった。
和音が響くたびに、音の厚みが変化し、まるで目の前の空間が揺らいでいくかのようだった。
音の軌跡は明快でありながら、どこか即興性を孕んでいるようにも思えた。
会場は静まり返り、誰もが彼の演奏に飲み込まれていた。
指先は正確無比に弦を押さえ、弓は迷いなく音を紡ぐ。
音は軽やかで明るく、聴衆の気分を持ち上げる。
しかし、弾く彼自身には何の表情も浮かんでいない。
彼の顔には一切の熱も揺らぎもない。
歓びも、激情も、陶酔も、何も浮かばない。
ただ額を伝う汗だけが、彼が機械ではないと証明していた。
演奏を聴きながら、祥子は些細な違和感を覚えた。
確かに無伴奏ヴァイオリンのための楽曲であることは間違いない。
しかし、その旋律はどこか記憶とは異なる雰囲気を持っている。
弓を跳ねさせるスピッカートの切れ味が妙に鋭く、重音の運びがより劇的だ。
技巧の極致に挑戦するかのように高速で動く弓と指の運び。
それに合わせるように、音楽の構造そのものが彼女の記憶にあるものとは微妙に異なっている。
微妙な音の変化、フレーズの構成。
聴衆の多くは気づいていないだろうが、それらが意図的に変えられている。
技術的な正確さと表現の巧みさがあまりにも自然なため気づくのが遅れたが、彼が演奏すると告げた《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ》とは違う。
演奏は約二時間にわたり、聴衆はその圧倒的な音楽の流れに酔いしれた。
そして最後の音が静かに消えると、会場は一瞬の静寂の後、割れんばかりの拍手に包まれた。
「前よりもずっと上手くなってる~怖くて、綺麗で、目が離せない。本物……」
演奏を終えた優弦はパーティーの招待客と幾つか言葉を交わすと、まっすぐに祥子と睦のテーブルに向かってきた。
祥子は優弦を迎え、笑顔で話し掛ける。
「ごきげんよう、優弦」
「久しぶり。サキコ、ムツミちゃん。元気してた?」
睦無言で首肯して、祥子が着席を勧める。
「おかげさまで、とても元気に過ごしておりますわ。
相変わらず素晴らしい演奏でしたわ。でも……聴衆を試すのは辞めたほうがよろしいですわ」
祥子は、どこかいたずらをたしなめるような口調で言った。
その発言に、優弦は一瞬目を細めたがすぐに微笑を浮かべ軽く肩をすくめる。
「どうしてそう思うの?」
「まず、優弦の言っていた《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ》。
これはバッハのものを指すのが一般的だけれど、あなたが弾いたのはバッハのものではありませんでしたわ。
ウジェーヌ・イザイの作品。それも大分アレンジしたものだったでしょう?」
クラシックにおいて同名の楽曲があることは珍しくない。
無伴奏ヴァイオリンソナタという名前の楽曲をとっても、《ヨハン・ゼバスティアン・バッハ》《バルトーク・ベーラ》《セルゲイ・プロコフィエフ》《ウジェーヌ・イザイ》《マックス・レーガー》と名立たる音楽家たちのものがそれぞれ別個に存在しているのだ。
優弦が弾いたウジェーヌ・イザイのものに関しても、バッハのものに触発されて作曲されてはいるものの、聴衆には全く異なる喜びを与えるものだろう。
無論それは
「イザイのものをベースにしつつも、第2番第3楽章の部分が明らかに違いましたわ。
終盤の第6番にしても、オリジナルよりずっと不安定で、意図的に緊張を高めるように変えてましたわ。
イザイの原曲にはあんな異質な響きはなかったはずですわ。
多くの観客がバッハとイザイの違いを分からなかったとしても、意地が悪いですわよ」
彼女の指摘は鋭く、優弦の演奏が単なる解釈の違いではなく、明確な改変を加えたものであることを見抜いていた。
優弦はそれに嬉しそうに頷くと悪びれもなく答える。
「やっぱりサキコは耳が良いね。
自分の工夫がわかってもらえるのはすごい嬉しいな」
「優弦ってば、本当に……」
演奏時の無表情が嘘のような笑顔。
祥子は言葉を探すように優弦の顔を見つめ、諦めたように小さく頷いた。
「優弦こそ元気にしていますの?」
「まぁまぁ、何とかね」
「高校をおやめになったとお聞きしましたが、本当に大丈夫ですの?」
「そうだね。まぁ生活する分には問題ないよ。幸い爺さんからは財産も才能も引き継いだからね」
「そう、ですわね。もう優弦はプロの音楽家ですものね。
今は……何をしてるんですの?」
「次のコンクールへ向けて練習だよ。呼んでもらえる時はこういう場所でも弾くけどね
サキコとムツミは?今は中学生だよね?」
「えぇ、近頃は私も睦もバンド活動をやっていますわ。
メンバーも集めて、練習もしていますの」
「バンド?」
「最近ようやく形になってきましたわ。
今度初ライブを企画しているので足を運んでいただけると嬉しいですわ。ねぇ睦?」
「うん、来て」
彼女の言葉には、ほんの少しの期待が滲んでいた。
優弦は瞬きを一つして、思考を巡らせる。
協奏。
確かに、それは単独演奏とは異なる面白さを持つ要素だ。
個々の音が重なり合い、混ざり合い、単体では生まれない響きを作り出す。
即興性、相互作用、それ自体は、興味を引かないわけではない。
ただ、それが果たして自分の
目の前の少女達のバンド活動が、自分の信仰の道に繋がる可能性を考える。
「……そうだね。日程が合えば顔を出したいね」
それが本当に価値のあるものかは、まだわからない。
けれど、一度見てみるのは悪くないかもしれない───そんな風に、結論を下した。
主人公カスです