理科室の人体模型が走る、音楽室の肖像画が動く、といったものだ。
しかし、そんなものは『真実』を隠すための欺瞞にすぎない。
いや、真実などというものは、隠されてすらいない。
その入り口は、恐ろしいほど身近にある。
本の中に誰かが忘れていった、古い栞のように。
机の奥底で忘れられてしまった、走り書きのメモのように。
それは巧妙に隠されているようで、堂々とそこにいる。
だから、誰も気づかない。
だから、気づいた者は導かれる。
だから、導かれた者は——。
茶色いセーラー服に身を包んだアルセは、手にした本の隙間に、何かが挟まっていることに気づいた。
開いてみると、それは砂だった。
ダートの砂ではない。まるで星のように煌めく、淡い青色の砂だ。
「まったく。悪戯か」
背表紙を見る。
——ウマ娘史概論。
表題を見たアルセは眉間に皺を寄せた。こんな小難しい本を、わざわざ外で読むような傾奇者がいるだろうか。
「……それ」
急に後ろから声をかけられて、アルセは尻尾を跳ね上げた。慌てて振り返ると、銀色の髪をした、背の高いウマ娘が立っていた。
その瞳は薄い薄い灰色をしていて、まるで焦点があっていないようだった。
こんな生徒、同輩にいただろうか?
アルセは訝しみながら、本を差し出した。
「これ、君が借りていたのか?」
心の中で、そうだと答えたら砂で本を汚したことを詰問してやろう、と身構える。
「……違う」
そのウマ娘は、茫洋とした瞳をゆっくりとこちらへ向けた。
「……探して、いる」
なんだ、探し物か。無理矢理自分を納得させたアルセは、脇に抱えていた文書挟を取り出した。図書委員長をしていれば、生徒が読みたがりそうな本には見当がつく。
「で、どんな本だい?」
「名前……」
「名前?」
ポケットから短い鉛筆を取り出したところで、アルセの手が止まる。名前を探すなんて、そんな雲を掴むようなことをするだろうか。
「名前を、探している」
彼女がもう一度呟く。それはまるで諦観のような悲しみを帯びていた。
「ああ、何かの由来に関することかい? 辞書なら右の」
「違う」
不意に、灰色の瞳がアルセをぴたりと見据えた。
「あなたの、名前は、誰のもの?」
突然の問いに、アルセは言葉をなくした。
なぜそんなことを聞く。
私の名前は私のものだ。誰から奪ったものでも、誰から強制されたものでもない。
その時、足の甲に何かが当たる感覚に目を落とした。
さらさら、さらさら。
青い砂が溢れている。
手に取った本の中から、次々と、無限の砂粒がこぼれ落ちている。
「なんだ、これ」
アルセの手から書類挟が落ちた。ぱたんと音がして、青い砂が舞い上がる。
「それは、記憶」
それが当然のことだと言うように、彼女は答えた。
「……記憶?」
舞い上がった砂が青い煙になって二人を包む。夕日が砂煙を靄のように光らせて、視界が青と黄色だけに染まる。
「誰かの、記憶。あなたの、記憶。私たちの、記憶」
舞い上がる煙の向こうに、姉の姿が見えた。
母親の姿が見えた。
顔も知らない誰かが見えた。
晴れた青空が見えた。
青々としたターフが見えた。
満員の観客、舞い散る紙吹雪、ゴールに届いた誰かの感動、届かなかった者の悔恨、立つことすら許されなかった者の屈辱。書ききれないほどの誰かの記憶が、はっきりと見えた。
何人分か、何百人分かもわからない。あらゆる感情が、打ち付ける波のようにアルセの心を揺さぶっていく。
「うっ……」
吐き気を催しながら、アルセはその灰色の瞳を見つめ返した。
「……君は、名前を見つけて、それからどうするのだ」
「……わからない」
「今までずっと、こうやって、探してきたのか」
彼女が寂しげに首を頷いたことで、アルセは気づいた。
人ならざる彼女は、こうしなければ、自らの存在する意味を失ってしまうのかもしれない。それとも、その意味を終わらせるために探しているのか。
だとしたらそれは、あまりにも悲しすぎることではないか。
「なら、そんな辛いことは、ここで終いにしよう。私が君を導き、君の記憶を後世に伝えよう」
彼女はゆっくりと首を振った。
「記憶は、増える。増えるから、忘れられていく。降り積もる冷たい雪の底を、誰も知ろうとしないように」
彼女は淡々と語り続ける。
「あの子達が生まれた時、私は名前を失った。三つに分たれた今、私を探す者は、もういない。だから、私は探す。私を探してくれる、誰かを。それだけが、私の証明」
その切ない言葉に、アルセは自らの名前の意味を理解した気がした。その意味は、大切な思い出。
彼女を再び、悲しみの中へ帰らせてはいけない。アルセはぐっと顔を上げた。
「ここは図書室だ。記憶が眠る場所だ。君も曖昧な『記憶』で居続ける必要はない。書き記せ、忘れられぬように。書き残せ、忘れられるように。そして、彼らと共に眠るがいい。私が君の、記憶を守る門番となろう」
「……ありがとう」
彼女は本当に小さく微笑んだ。それは、永い永い、ただ待つだけの時間を受け入れてくれたようだった。
「……鍵を、あげる」
彼女はアルセの腰のあたりに目を向けた。ポケットを探ると、いつの間にか、重厚な鉄の鍵と、金色に輝く真鍮の鍵が入っていた。
「……それは、私へ繋がる鍵。そして、この世界へ戻るための鍵」
アルセは二本の鍵をじっと見つめた。
「あなたに、託す」
途端に靄が晴れはじめた。
砂粒が、重さを思い出したように降り積もる。忘れられた記憶が、降り積もっていく。
「私は私を憶えているために、この学園に眠る。いつか、私を探す誰かが現れたら、それを渡してあげて。でも、長く居させては、だめ」
ざあっと音がして、砂煙が急速に晴れていく。それに合わせるように、彼女の声が遠くなっていく。
「赤くなる前に、そこから離れて。私は、私を探そうとする誰かを囚らえることを、きっと止められないから。それが、記憶である、私の、望みだから」
どんどん声が遠くなる。夕暮れの図書室の柔らかな空気と、本の香りが返ってきた。
これで終わりなのか。
アルセは、自分が生きているうちに彼女と再会することは、きっと無いと悟った。遠くなっていく気配に向けて手を伸ばす。
「もしも! もしもいつか、あなたとまた、見えることがあったなら!」
分たれた悲しみはきっと癒えることはない。なら、一つであったと思い出せる、一つであったと誰かが気づける名を贈ろう。
「私は、あなたをこう呼ぼう!」——その名を贈ることが、分たれた記憶を再び結ぶ祈りになることを信じて——
「あなたの名は、Adiairetos!」
途端に猛烈な風が吹いて、砂煙が舞い上がる。アルセは手で顔を覆った。顔を上げた時、目の前には何もなかった。ただ、二本の鍵と、一握りの青い砂だけが、そこに残されていた。
——こうして私は、彼女を守る門番となった。
残された夥しい記憶を整理するための、彼女の手となった。
今、それがどこにあるかは、もはやどうでも良い。
確かなのは、あの砂と鍵が、ここにある限り——
彼女はまだ、誰も囚えていない、ということだけだ。
……また一つ、知ってしまいましたね。
あの人には、感謝しています。
私に居場所をくれたことも、私に名前をくれたことも。
でも、あの人は今も恐れています。
誰かが入り口を見つけてしまうことを。
誰かが鍵を手にしてしまうことを。
そして、誰かが私と出会ってしまうことを。
私はもはや、探されようとも、誘おうとも、導こうともしていません。
それはすべて、あなたの選択。
それはすべて、あなたの決断。
私は、そう決めたあなたを愛おしく思います。
私は、あなたのままでいてほしいと思っています。
だから、私は願っています。あなたの手のひらに、あの青い砂が残っていることを。
それがまだ──あなたのままでいられるように、守ってくれることを。