騎士道は死んだ。
ソニア・オーランジュの憧れた気高き騎士像は過去の偶像と成り果て、現実に活動するのは公社の保安部隊だ。
守るべきは民ではなく、公社の支配秩序。それが悪政ならば反抗の一つも企てたが、無駄がなく合理的な統治は他でもない一般市民にこそ広く受け入れられている。
騎士になれないならば、せめて貴族令嬢の役割だけでも真っ当しようと一時は考えた。だが家の発展の手駒となるには、鍛えた剣技も身体も邪魔にしかならない。
しかも、婚姻相手の候補は公社に与する商人や木っ端貴族ばかりで、それがソニアのプライドをさらに傷付けた。
以前ならばとても公爵家と釣り合う身分ではない連中ばかりだ。金があっても地位が低い彼らが欲するのは、歴史や家柄というステイタス。別にソニアである必要性すら、そこにはない。
独立しようにも、無駄に格式高い
実家からの扱いにも、不満を覆せない自分自身にも鬱屈とした思いを溜め込む日々。気付けば二十歳を過ぎた部屋住み令嬢だ。
当主となった弟から露骨に軽んじられ、使用人からの腫れ物扱いにも疲弊していた。
そんなソニアに転機が訪れる。アンスリアム王女が、貴族令嬢を集めて伝統的な騎士団を復活させるというのだ。
古代の女魔の名を冠したラマシュトゥ師団は、貴族の復権を目指して組織された、温故知新の新部隊であるという。
知らせを聞いたソニアは、すぐに荷物をまとめた。行き場を失っていた
邪魔者が自分からいなくなってくれるならと、止める家人は一人もいなかった。
『ラマシュトゥ師団、全団員に通達します。現在の作業を中断し、グラウンドに集合してください。繰り返します――』
騎士団の事務職に就いている一般職員女性の声が、拡声魔法によって基地中に響き渡る。
凛々しい銀眉を険しく歪めたソニアは、片手を上げて取り巻きである令嬢騎士に止まるよう促した。彼女の思い描く理想の騎士像に共感した、可愛い
近づいている薄紅の髪色をした見慣れぬ騎士に振り向くと、ソニアは表面的には友好的な微笑みで迎え入れる。
あれが新任の副師団長だというのは、すぐに分かった。先日アンスリアムが直々に顔を出し、さるやんごとなき
……やんごとなき家柄の傭兵などいるのか甚だ疑問だが、きっと没落したとかそんな理由だろう、と気にするのを止めた。よくある話だ。
数歩分の間合いを置いて立ち止まった副師団長は、まるで神話の世界から抜け出してきたように美しかった。
高貴さと気品が感じられる双眸、引き締まった表情は凛々しくも、立ち姿には荒々しさが垣間見える。同じ女性にも関わらず、つい見惚れてしまいそうだ。
だが呑まれてはいけない。傭兵に身をやつした以上、生まれがどこの誰であっても下民なのだ。
「新任の準騎士ですか」
階級章を一瞥して、ソニアは腕組したまま尋ねる。相手に自然と立場を理解させるのも、力のある貴族の在り方だ。あのデカいばかりな師団長も、そうして平服させた。
「貴様、敬礼はどうした?」
僅かにざわついていた令嬢騎士達が、副師団長の一言で静まり返った。ソニア当人でさえ、何を言われたか理解できずに眉を潜めている。
やや間を置いて、令嬢騎士達の間からクスクスと押し殺した嗤い声が出始めた。
どこか侮蔑のこもったせせら笑い。下品だが、仕方ない。彼女達は後で嗜めるとして、先に目の前の無知な輩に道理を教えておこう。ソニアは殊更に声を張り上げた。
「知らないのなら覚えておきなさい。わたくしはオーランジュ公爵家のソニア。連合時代以前から陛下に仕える由緒正しき高貴な身の上です。上官と言えども下民なら分を弁えなさい。敬礼とは下の者が上の者にする行為です」
涼やかに言ってのけるソニア。我ながら決まったと、口角が上がりそうになる。令嬢騎士からも小さくない歓声が上がる。
無知であることは罪ではない。身分を表せば相手は正しく立場を認識し、ソニアとオーランジュ家への敬意を示す。
そう考えた彼女の常識は、
「ふげっ!!」
副師団長の掌から放たれた光の塊によって打ち砕いた。
ソニアの顔面で炸裂し、衝撃で鼻を潰して血を噴出させたのは、圧縮した魔力を撃ち出す『気弾』という攻撃魔法だ。かなり手加減して放っていたが、それでも大の男に殴られるぐらいの威力が込められていた。
(う、撃たれた……?)
仰向けにぶっ倒されたものの、ソニアの意識は辛うじて保たれている。
(撃たれたの……こ、このわたくし、が?)
胸中は経験したことがないほど混乱の嵐だ。
しかし答えを見出す暇は与えられない。
「貴様の出身など聞いていない! 俺は『敬礼はどうした』と聞いたのだ!! 上官からの質問に不明瞭な回答を返すな!!」
ソニアの疑問など些末事だと言わんばかりに、大気を震わせる副師団長の怒号が押し流していく。
令嬢騎士達もまた、恐ろしさで頬を張られたように竦み上がった。
再びの沈黙が訪れるが、緊張感は先の比ではない。
倒れたまま動かないソニアの顔面を鷲掴みにした副師団長は、そのまま片手で持ち上げて強引に立ち上がらせた。
「誰が休んでいいと言った!!」
「ひぐぅぅぅっ!?!?!?」
掌が電気ショックを発し、遠のきかけたソニアの意識を無理やり引きずり出す。
強制的に背筋を伸ばされたソニアを、副師団長はこれまた器用に直立させた。
そうしてから右腕を垂直に掲げた副師団長は、握った拳を自らの左肩へ力強く押し当てる。
「これがヴィステージ王国騎士団式の敬礼だ。覚えたか?」
「あ、うぁ……っ」
「覚えたかと聞いたんだ!!」
「はっ、はひっ!!」
銀髪の先端を焦げ付かせたソニアの返事は悲鳴のようだ。恐怖と激痛に涙を流して、たった今教わった通りの敬礼をする。
「ふん。顔と同じく不細工な敬礼だ。これからは毎日鏡の前で練習しておけ。……で、貴様らはどうなんだ?」
呆然と立ち尽くしていたその他の令嬢騎士へも、副師団長の冷徹な視線が向いた。
特に睨まれた訳ではないが、形容しがたい威圧感を覚えた彼女達もまた、一斉に敬礼の姿勢を取っていく。
タイミングもバラバラで腕の角度も不揃い、そもそも拳の位置が左胸だったり上腕だったりと、正しいやり方を知っているのは一人しかいなかった。
副師団長は舌打ちこそすれ、敬礼の不格好さには触れずに、基地本営の建物へ顔を向けた。
「他の団員が集まるまで時間が掛かりそうだな。貴様ら、全員集合まで腕立て伏せ!」
「……えっ」
「復唱ぉっ!!」
有無を言わさない迫力に、真っ先に屈したのは他でもないソニアだ。
「はっ、はい! 全員集合まで腕立て伏せを続けます!!」
その場で地面に手を付いて、言われた通りに腕立て伏せを始めた。
取り巻いていた令嬢騎士達は互いに互いの顔を見合わせ、どうしたらいいのか分からない有り様だ。
それでも半数が渋々という表情ながらも腕立て伏せの態勢に入ったが、残りは地面に直接寝そべる行為自体に激しい拒否感を抱いている様子だ。
見かねた副師団長が、また右手をかざして魔力を充填させていく。
「じゃあ医務室にでも行ってろ。俺だって鬼じゃねえ、怪我人に運動しろとは言わねえよ」
バチバチと電光火花を生じる気弾を見せつけられて、ようやくその場全ての令嬢騎士が地面に両手を付いた。
「あの、わたくし……」
既に顔面がボロボロなソニアは、縋るように副師団長を見上げる。
「その程度が怪我の内に入るか!!」
「うえぇぇぇ〜〜〜んっ!!」
無下に跳ね除けられたソニアは、痛みと屈辱と悲しみと怒りから、とうとう大声で泣き出した。それでも、この日一番多い回数の腕立て伏せをこなしたのも彼女であった。
「クズどもが。これを鍛えるのは骨が折れそうだ」
副師団長の呟く声は、全員の耳にしっかり届いていた。