今年も残すところ二週間を切った。
だと言うのに、ルメイン旧市街地の一画は、異様な熱気と緊張感に支配されていた。新年を祝おうという気配が微塵も感じられない。
一見静かな路地を音もなく渡るのは、灰色を基調としたモザイク柄の隊服に身を包む、保安部隊の兵士達ばかり。地元住民は、死んだように息を殺して閉じ籠もっていた。
町並みは、先日シンクが訪れたサロン周辺よりも、輪をかけて胡乱だ。
如何にも旧世紀的な、石造りで窓の小さい一軒家が連なる一方で、上を見ればクモの巣状に張り巡らされた送魔線が息苦しく蓋をしている。心做しか快晴の空まで灰色がかって見えた。
辛うじて整備された石畳の路地には、ところどころ地下のパイプラインが剥き出しになり、腐食によって黒ずんだまま放置されていた。立ち上る悪臭は、下水道を流れる汚物由来か。
中途半端な発展と、放置されたままの設備。まるで現代の都市が抱えた矛盾を凝縮したようだ。
しかし、一見すると死んだような街のそこかしこにも、生活の痕跡も見て取れる。
今朝水をやったばかりの植木鉢、残飯を漁る野良猫、風に揺れるカーテンの隙間から覗く不安げな視線、取り残されて転がるボール。
自らの安寧のみを祈って、じっと嵐が過ぎるのを待っていた。
ラマシュトゥ師団基地のある郊外から都市部まで、馬車で一時間。
そこから同じぐらいの時間を掛けて網の目のような街中を抜け、シンク達はようやくイエスマン中隊のキャンプ地へと辿り着いた。
旧市街地にあって、中心街で見られた鉄筋コンクリート造の建物は、旅行者向けの素泊まり宿だった廃ビルを丸ごと借り切ったものだ。
もう営業はしていないようで、内装は建材が剥き出しで寒々しい。最低限のエーテル灯や水道、給湯器などは修理され、一通り使えるらしい。
「予定より1時間20分遅れたな。まあいい、歓迎しようラマシュトゥ師団の同志諸君」
イエスマン中尉と簡素な挨拶を交わして、リノに案内されたのは最上階の角部屋だった。
向かい合った片方をシンクが一人で使い、もう片方に残りの5人が押し込められることとなった。
……シンクとしては女性との同室を避ける配慮のも多少はあった、と明記しておく。
「さて、貴様ら」
荷物を置いて、長旅(というほどでもないが)の疲れを備え付けの粗末なシャワーで流そうか、なんて呑気していたヨルド以外の4人が、シンクの声に背筋を伸ばして硬直した。ほとんど条件反射に近い反応だ。
「名目上は保安部隊との合同作戦だが、貴様らにはキャンプ地の慰問を命じる。掃除、設備の点検、食事の用意、やることは山程あるぞ」
「お、お待ちください!」
ソニアがすかさず声を上げる。予想していたが、話を遮られたシンクが分かりやすく表情で怒りを表すと、顔を青くして押し黙った。
「ふん。なんだ、ソニア。質問か?」
「は、い……その……わ、我々は軍事作戦の一環として送りこまれたと、アンスリアム様は仰られました! なのに慰問係だなどと……そ、それではまるでメイドではないですか!」
ひっくり返った声で、徐々にヒートアップしながら進言するソニアに、背後から三人の令嬢騎士までが「そうですよ」「納得できません」と姦しく追従する。
だが、もちろん取り合ってやる道理はない。
「口を慎め。貴様らが本職のメイドのクオリティなんぞ望むべくもねえんだよ」
魔力を集束させた掌をかざしただけで、猿のように五月蝿かった令嬢騎士が、一瞬で沈黙する。
「貴様らでもギリギリ実行可能な仕事を、頭を捻って絞り出してやったんだ。自分一人じゃ着替えも出来ねえグズの甘ったれが、軍事行動なんざ百年早い。ヨルド」
「ひゃいっ!?」
名前を呼ばれ、それまで傍観者に徹していたヨルドが目を見開いて露骨な挙動不審となる。「なんで!?」とでも聞きたげな表情だが、問答無用。
ぎこちない足取りで近づいてきたヨルドに、シンクはボードに挟んだ紙束を押し付けるも同然に手渡した。
「やることはここに書いてある。分からねえことはリノ一等兵か、基地にいる誰かに確認しろ」
「わ、分かりましたけど、どうしてわたしに!?」
「班長のお前が、こいつらに指示を出すんだ。従わねえなら構わん、腕尽くで黙らせろ。俺が許す」
いよいよ顔面蒼白になったヨルドだが、それ以上に顔色を変えたのは他でもない。ソニアだった。
「承服出来ません!!」
薄い壁を超えて隣室に届く、悲鳴に近い叫び声だった。ヨルドのみならず、他の3人まで身を竦めるが、シンクはまるで動じない。
「ヨルドは我が家の……いえ、私の従者なのですよ!? ひ、人に指示を出す器ではありません! 家格から考えても、私こそが−−」
「仕事がない時は自由にしてろ。ただし宿からは出ないこと。作戦完了まで大人しくしてるのが、お前ら最大の任務だ。じゃ、頼んだぞヨルド」
「わ、私−−」
必死に何かを訴えようとするソニアに、返事どころか一瞥すらくれず、シンクは部屋を出て行った。
廊下に出たシンクは、そのまま正面の自分用の部屋へ向かう。半分だけ扉を開き、室内を見て固まった。
内装を確認するだけのつもりだったのだが、部屋のド真ん中に居座った珍客の姿に、思わず顔が凍りつく。
備え付けられた丸テーブルには湯気の立つカップが置かれ、背もたれの深い椅子に腰掛けたボニーが、分厚い書物を片手に我が物顔で寛いでいた。
「……自由だな、おい……」
「あら、シンクはん。遅いお着きで。予定の時間やのに宿におらんかったから、心配してたわ」
ボニーは紙面に目を落としたまま、空いている手をヒラヒラ振った。心配していたのなら、もうちょっと態度に出してほしい。
「部外者がキャンプに入るなよ。捕まえちまうぞ?」
「真面目やねぇ。みつかってまうおっちょこちょいやあらへんよ、うち」
「こないだ蜂の巣にされかけてたのは誰だったっけ?」
「もう、いじわるやわぁ。遊びたい盛りの年頃やのに馬車馬も同然に働かされるうち、カワイソって思わへん? あ~あ、どっかにうちを拾って養う甲斐性のあるイケメンおらへんかな〜。チラッ、チラッ」
ロリ巨乳を両手で押し上げ、挑発するボニー。
あまり見ていると理性が危ういと判断して、シンクは強引に本題に入った。
「んで、何の用事だ? また伝書鳩か?」
「そんな照れんといてよ、可愛えなぁ。はい」
ニマニマと悪戯な笑みで、読んでいた本を手渡してくる。
……いや。それは本ではなく、わざわざ製本された広告とメモ書きの束だった。
「うち、あの日から何もせぇへんかったんやないよ? ルベルオルクについて、あちこち探っとったん。アンスリアムも『こいつらヤバい』って気にしはりますからね。うへへへ、褒めてくれてええよ?」
「ああ。すげーな、あれから一週間だろ。大したもんだぜ、惚れ直した」
「……………………ぁぅっ〜〜〜♪」
望み通りに褒めちぎると、ボニーは褐色の頬を仄かに染めて、自分の両肩を抱きしめるようにしてクネクネしだした。笑い方も普段のニンマリではなく、締りのない崩れた雰囲気だ。
しかし実際、分厚いレポートは中身も濃く、旧市街地を含めた周辺の地図に始まり、怪しい店舗の広告、さらには建物外観のデッサンと内部の見取り図にいたっては手書きで仕上げられている。
特にデッサンの出来栄えは秀逸で、
一軒一軒の情報量も凄まじいが、それが20件以上も連なった資料は、ちょっとした図鑑か辞典のだ。
「絵、上手いんだな」
「まぁね。よかったら似顔絵描こか?」
「おう、そのうちな。おっ、ルメインにもあったんだな、マーメイドパブ。懐かし……ハっ!?」
魅入るようにページを捲っていたシンクの手が止まった。しまったと口を噤むも手遅れで、ニンマリと目を細めたボニーが視界の中に割り込んでくる。
「えぇ〜、シンクはん、この店知ってはるん? どない店なん? うち、よう分からんかったんよ」
「……あ、あれだよ。女の人がお酌してくれるタイプの店だ。紳士の社交場ってヤツ」
「へぇ〜、社交場? 客の男が店の女と狭〜い部屋に閉じ籠もって、溺れた犬みたいな息吐いとるところで、どういう
気付けばシンクの二の腕が、ロリ巨乳の谷底深くへと沈んでいた。近づく気配すら察せない。
髪から香るのは石鹸だろうか。
しなだれ掛かるのは、吹けば飛ぶような軽さだというのに……抵抗できず、気付くとシンクは床に尻もちをついていた。
大きな金色の瞳が、至近距離から見上げてくる。
「子供のうちでも分かるよう、手取り足取り……優ぁしく教えておくれやす……うへへへぇ♪」
「ちょ……っと、待って!? ここじゃマズ……そ、外に聞こえ−−」
「聞こえんとこなら、ええの?」
ゾクリ。
頚椎を氷に浸したような、寒気にも似た感覚が這い上がってくる。
熱い吐息の詰まったボニーの声が、耳朶から全身の力を奪っていく。
「ねえ。外に聞こえんとこなら、うちのこと、
「あ……く、ぅぅっ!!」
言葉が詰まる。
自分から少し距離を詰めれば、柔らかそうな唇を啄める。
「それとも、このままいっそ押し倒して、うちをメチャクチャに壊してまう?」
「…………っ」
「うちはね、それでもええんよ?」
頭の中に砂嵐が吹き荒れているようだ。自分の心臓の音が耳元でがなり立てる。
ボニーの言葉、一粒一粒が、外周からシンクを溶かして染み込んでいく。
自分の意志とは無関係に、右手がふらふらと彷徨うよう自然と持ち上がった。
その指先が触れるのは、雪の中で幼い自分を見上げて微笑む、白い肌をした黒髪の少女の幻だ。
「ぬぐっ!?」
「は?」
突然食いしばった表情になるシンクに、ボニーも顔をしかめた。
シンクの右手はボニーの肌に触れることなく、愛用の魔剣を抜いて左掌に突き刺していた。
結界は郊外の隅々まで広がっているので、装甲が展開されることはない。激痛が霞む意識に喝を入れるだけだ。
「いけず。意地張らんと、流されたらええんどす」
シンクの左手を取ったボニーが、滴る血に舌を這わせようとするのを、頭を掴んで抑えつけた。
「むぅ」
「膨れるな。さすがに子供に手ぇ出すほど見境なくないの、俺は。……もう5年ぐらい待って、気が変わってなかったら、また誘ってくれ」
色素が薄い金髪を撫でて、可愛らしく頬を膨らませるボニーを宥める。だが、このまま密着していると手の痛みですら忘れそうだ。悔しいが、ボニーに魅力を感じているのも確かである。
一刻も早く物理的に距離を置かないと。
「すいません、準騎士殿。返事がないので勝手に入りま……す…………うわぁ」
が。
実はさっきからずーっと鳴りっぱなしだったノックの主が、勝手にドアを開けてしまった。
入ってきたリノが目撃したのは、床に座って投げ出されたシンクの脚を跨ぐように覆い被さる、褐色肌のロリ巨乳美少女。
頬が上気し、上着まで微妙に開けさせた少女に手を伸ばすシンクの姿は、魔剣で貫かれた左手を含めてさえ、どう見たものだろうか。
あまつさえ、床にはマーメイドパブの広告紙を収めるページを開いたままで、先の資料が放置されている。
人形めいて無機質だったリノの顔が、もう一目で分かる侮蔑に染まった。
「……き、来て早々に
「違ぁうっ!!」
自分が常日頃、令嬢騎士に向けているのと同種の視線に晒されたシンクは、苦し紛れに声を張るのであった。