午後七時。中隊キャンプ地。
四角い形で底も深い、どっしり構えた掃除用のバケツが、余所見していた令嬢騎士の太足に蹴り倒された。
ドロドロに黒ずんだ水が、せっかくキレイに磨いたばかりな床一面に拡がっていく。
「貴っ様ァ!!」
即座にリノから怒号が飛んだ。小柄で痩身な体躯から、開け放たれた窓ガラスがビリビリ震えるほどの声量が放たれる。
「これで何度目ですかコノヤロウ、モップ掛けすら満足にできんのですかコラァ!!」
ノシノシと威圧しながら、リノがバケツを倒した従士カタラーナに詰め寄っていく。
相手は天井スレスレの身長に、年齢はリノの倍、体重は3倍はありそうな従士カタラーナだが、臆する素振りは一切ない。
「ふ、フン! あ、あたくしのせいではありませんわ! 邪魔くさい位置にバケツがあったのが悪いんですの!」
従士カタラーナは反省どころか、不愉快そうに目尻を釣り上げた。太い身体に相応しいふてぶてしさである。
「そこに置いたのは貴様だってんですよ馬鹿野郎! 3分前の自分を省みることすらできねえんですか、コラ!!」
が、一層強く怒鳴り返され、カタラーナは今度こそデカい図体を縮こまらせた。
たじろいだ肥満体を下から睨みつけ、リノは窓の外を指差した。
「床全面を拭くってだけの作業が、なんで半日掛かって終わらねーんですか!? もう外は真っ暗ですよ、おい!! 貴様らの仕事が終わらねーと、私も夕食が摂れねーんすよ!」
「そ、掃除なんて本来、あたくしの仕事では……あ、ありませんのよ! 侍女やメイドがするべき――アギャっ!!」
安定性の悪かったカタラーナの右脚の膝を刈り取るよう、リノの足払いがあっさり決まった。
濡れた床の上を派手に尻餅をついた肥満体を見下ろして、腰もホルスターから抜いた銃を突きつける。
軍用のゴツい大型ハンドガンではなく、小さな手にも収まる小型のリボルバーだ。
レムナント大陸の銃器は、発明当初から
軍事技術の主流が魔法である影響で火薬が発達していない社会。銃は魔剣の機能の縮小化と限定的な再現を目指して発明された。弾倉には薬莢ではなく、使用者の魔力を気弾に整形するカートリッジコンバーターが挿入される。
機能美と量産性の両立を目指した結果、回転式の弾倉という段階を経ず銃床からマガジンを挿入する形態として成立したのだ。
にも関わらずリボルバー形式が存在するのは、極限られたニーズに応えるためだ。
リノが撃鉄を起こし、薬室に込める魔力の質と量をマニュアルで設定する。
その弾質の自由な設定こそが、リボルバーの醍醐味だ。習熟の難易度は高いが、極めれば前衛も支援も一丁で賄うことが出来る。
「ピギャアァっ!?」
カタラーナから再度、聞くに耐えない悲鳴が上がった。両手足を突っ張って反り返り、背中から倒れて後頭部を打ち付ける。
弾丸は暴徒制圧用のスタンショック、つまり電撃だ。それを気絶できない低い出力で放った。
「抗議したいんなら、やること果たしてからにしやがりください。喚くだけなら豚にも出来るんですよ。それとも、本当に
「う、撃つなんてヒドい……」
「酷いのは貴様らの仕事っぷりだっつってんですよ! シフォンはハタキで窓枠ごとぶち抜くし、タルトは床板を踏み抜いてハマるし! 掃除一つ出来ない分際で、いったい何なら出来るつもりですか!?」
刺々しいリノの痛罵は、廊下の角を曲がった先にまで届いた。
そちらでもまた、カタラーナと似たりよったりな体型の令嬢騎士がもう二人、不承不承の態度でモタモタと清掃作業に従事していた。
意欲もなく、学習しない彼女らの仕事っぷりは、自分の割った窓や貫通させた床にシートを被せるだけの応急処置に数十分を掛けるほど。いい加減にリノの我慢も限界だ。
正直、自分でやった方が何百倍も早く片付くのだが……原則として部隊の運用に支障がない限り、個人に与えられたタスクは個人でこなすのが隊規である。
任務に微塵も関わらない令嬢騎士の作業をリノが肩代わりするには、イエスマンよりさらに上の指揮官から、承認をもらう必要があった。
細々とした理由あっての規則だが、煩わしいことこの上ない。
(づあぁぁぁ〜、マジで面倒くさい! どうしてこんな連中と帯同せにゃならんのですか!? ……まあ、ムカついたら殴っていいだけ、よく分からん公社のお偉いさんよかマシですがねぇ……)
銃を収め、叩きつけるようカタラーナにモップを投げ渡したリノは、鬱憤と一緒に大きな溜め息を吐いた。
「あ、あの〜」
「ン?」
控えめな声に足元を見る。階下から続く階段から恐る恐る様子を伺う、素朴な顔と目が合った。
そばかすの目立つ「The田舎娘」といった雰囲気の令嬢騎士、ヨルドだ。元から侍従だったらしいヨルドは、与えられた各部屋のベッドメイクという仕事を手早く終わらせている。
本人はその後も仲間の手伝いをする気まんまんだったが、規律を第一に断固として退場いただいていた。
「すみませんね。こっちはまだまだ終わりそうもありません」
彼女を含めた令嬢騎士の部屋は、たった今汚水に塗れた廊下の突き当りだ。
リノは何とも言えないどんよりした気分を言外にありありと発しつつ、苦笑とともに軽く頭を下げる。
「あなたと、もう一人の……ソニアさんでしたか。お二人には申し訳ありませんが、もう少し下で寛いでいてください。消灯時間までには片付けますので」
「それならやっぱり、私が――」
「だから駄目ですってば。初日だからこそ、甘やかしは厳禁なのです。明日ちょっとでも
良いこと言った。無表情から察せるぐらい、リノはまっ平らな胸を堂々と反らす。
「あっ、明日!?」
しかしながら、残念なことに心身ともに肥え太ったカタラーナには伝わらないようだ。
目を見開き、歯茎を剥き出しに食いしばった形相は、本当にオークのようだ。雑巾じゃないのに絞られるモップの持ち手がミシミシ鳴いた。
「あ、あ、明日もこ、こ、こんな小汚い作業をさせるっていうんですの!? こ、こ、このあたくしに!?」
「何を勘違いしているのです? 明日はもっと早い時間から、もっと広い範囲の掃除です」
「ふっざけんじゃありませんわ! あたくしをだ、誰だと心得ますの!? ブリスティン伯爵家の令嬢、カタラーナ・ブリスティンですのよ!? こ、このような下働きをさせて、何様のつもりですの! は、恥を知りなさい!!」
カタラーナは、へし折れなかったモップを怒りに任せて投げつける。
それをあっさりキャッチしたリノは、流れるように相手の鳩尾を柄頭で一突きした。
「ギュボっ!?」
大根足が両方とも床から離れ、カタラーナは背中から壁に叩きつけられた。ショックで逆流した赤銅色の反吐を撒き散らし、その場にズルズルと崩れ落ちる。
「オ、ゴ……ゲェェェっ!?」
「こらこら、こんなところで吐いてるんじゃありませんよ。立って働きなさい、ほらほら」
モップの先端を顔面に押し付けて追撃しながら、リノは廊下の端からコワゴワと自分を見ていた、シフォンとタルトを睨み返した。
「手ぇ止めてんじゃありませんよ。貴女方も今のを喰らいたいのですか?」
真っ青になった二人は猛烈に首を振り、すぐに自分の作業に戻っていった。
「まったく。準騎士殿の教育はどうなってんだか。甘やかすタイプとも思えませんが」
「……えーっと、リノ一等兵?」
苛立ちを抑えようと頭を掻くリノの横を通り過ぎたヨルドが、カタラーナの顔に覆い被さったモップを、端っこを摘んで持ち上げた。
「カタラーナ様、完全に失神しているのですが。起きるまで待ちますか?」
「HolySHIT!!」
「ひっ!?」
豹変したかのように、激しく地団駄を踏むリノであったが……それでも表情の変化はあまりにも微細で。
能面のような顔で怒り狂う様は、ヨルドに未知の恐怖を抱かせて余りあるものだった。