下北沢のライブハウス、STARRY。その日、そこでライブしたのは下北沢を中心に活動しているガールズバンドだった。知名度は高くないもののコアなロック好きに刺さる演奏で根強いファンが多い。
喜多郁代は、帰っていく客の満足げな表情を眺めていた。
――いいなあ。
そう思いながら、喜多はステージを片付ける。片付けと掃除が終わったところで彼女らは椅子に腰かけ談笑する。
「今日のバンド、凄く良かったですね! お客さんもみんな笑顔で!」
喜多が興奮気味に言うと、伊地知虹夏は力強く頷いた。
「知名度でいえばあたしたちと同じぐらいかもしれないけど、リピートしてくれる人の数は全然違うよねー。今度フェスにも出るみたいだし、一気に伸びちゃうかも」
「私たちも負けてられないですね!」
彼女らも「結束バンド」という名で活動をしている。高校生バンドとしては有名で、ロックフェス「未確認ライオット」で注目を浴びたことをきっかけに、音楽レーベルにスカウトまでされた実力派だ。喜多はそこでギターボーカルを務めている。
「でも不思議。演奏とか凄く上手いのに、今まであまり注目されてないですよね」
「去年は受験で全然活動してなかったんだって。お姉ちゃんが言ってた」
受験。その言葉を聞いた喜多の顔は青ざめた。
「で、みんな一区切りついたからこの春から活動再開したんだって。偉いよねー。それに比べて……」
伊地知は目を細めて山田リョウを見た。
「その代わりに大事なものを失った」
山田は顔色ひとつ変えずに言った。
「何よ、失ったものって」
「JKというブランド」
「いやあたしとあんたはもう高校生じゃないでしょ」
「先輩さすがです! 正直私たちってJKっていう物珍しさで成り立ってますもんね!」
「喜多ちゃん、そこまで言わなくてもいいんじゃない?」
喜多が山田に同調すると、伊地知は呆れたように頭を抱える。
「次のMVは全員制服にしよう。大バズ間違いなし」
「キャー! リョウ先輩の制服姿!」
「もう、変なところで盛り上がらないの。でも……MVかあ」
結束バンドの現在の状況は、以前と比較して芳しくなかった。デビューシングル発売で一時的に注目を浴びたものの、一時の熱は長く続かない。数か月も経てばライブに来るファンの顔ぶれはそれほど今までと変わらなくなった。
次の一手が必要だった。それはもちろん新曲である。しかし、その新曲制作に彼女らは苦戦していた。
「新曲、どう?」
恐る恐る、伊地知は山田に聞いた。結束バンドの作曲は山田が担当している。
「メインのメロディーは大体できた。あとはぼっちの歌詞見て詰める」
「おーいいじゃん! ぼっちちゃんは? 進捗どう?」
伊地知の声に、名前を呼ばれた後藤ひとりは肩を跳ねた。
「す、すいません。全然進んでないです……」
後藤は俯きながらそう言った。彼女は結束バンドの作詞を担当している。
「私の曲、聞いた?」
山田が言った。
「は、はい。サビに合わせて明るい歌詞にしようと思ってるんですけど……そしたらAメロとかどうしようってなっちゃって」
「無理に明るくしようとしなくていいよ。好きに書いて、ひと通り書き上げたら見せて」
「は、はい……」
そう言うと後藤はまた顔を俯けた。長い前髪の奥には酷い隈を覗かせている。レーベルから新曲の催促もあったからか、その顔はいつにも増してやつれているように見えた。
結束バンドの楽曲制作は山田と後藤の二人に任せられている。必然的に山田と後藤のやり取りは多くなり、話によると二人で遊びに行くこともしばしばあるようだった。楽曲制作に関われない喜多はその話を聞いて、自分の無力さを感じていた。
「ひとりちゃん! 何かあったら私も手伝うから、何でも言って!」
喜多は後藤の手を取った。すると彼女は、一瞬目を見開いてまた俯くのだった。
「あたしたちは曲作り出来ないからねー。そこは二人に任せて、サポートに徹しよう!」
「はい!」
「その調子で頼む。今日はハンバーグね」
「あんたは調子乗んな! っていうか、また泊まるの?」
「最近金欠で、ヨモギしか食べてない」
「卒業してからまた金遣い荒くなってない? しょうがないなあ、お姉ちゃんに言ってくるね」
伊地知は楽屋の方へ歩いて行った。
「じ、じゃあ私、帰ります」
「ひとりちゃん、一緒に――」
喜多が一緒に帰ろうと言うよりも先に、後藤はそそくさと帰ってしまった。
「リョウ、お姉ちゃんがいいって。買い物付き合ってね」
「はいよ」
「じゃあ私も帰ります」
喜多が席を立った時、テーブルの上にノートが置かれているのを見つけた。自分のものかと思って見てみたが、表紙には後藤ひとりと記名されている。
「これって……」
――歌詞ノート、じゃないわよね。確か後藤さんの歌詞ノートってでっかくサインが書かれていたし。
「あれ、ぼっちちゃんの忘れ物かな? まだ近くにいるなら届けてあげたら?」
「そうですね! それじゃあ、お疲れさまでした!」
「お疲れさまー。まだ練習頑張ろうね!」
六月も下旬となれば、気温が三十度を超えることもしばしばある。日中の焼けるような日差しもさることながら、日が沈んでもじっとりと肌にまとわりつくような熱気も気分の良いものではなかった。
――そういえば海開きっていつだったかしら。今年もみんなで行きたいな。
STARRYを後にした喜多はすぐ後藤に電話した。後藤は慌てた様子で「すぐ取りに行きます!」と言って電話を切る。電車の都合もあるから明日学校で渡そうかと喜多が提案する間もなかった。そこまで急ぐならと後藤にメッセージを送り、二人は近くのコンビニで落ち合うことにした。
喜多は一足先にコンビニに着くと、後藤の名前が書かれたノートの表紙に目を落とす。
――ひとりちゃんが家で勉強するわけないわよね。じゃあこのノートって……
なんとなく、見られたくないものだということは想像がついた。だから見ない方がいいことは理解していた。しかし喜多の好奇心は止まらない。
葛藤の末、喜多はぐっと目を閉じながらページを捲った。
そこに綴られていたのは、これまで結束バンドで演奏してきた曲の歌詞だった。ギターと孤独と蒼い惑星、忘れてやらない、星座になれたら。見出しの一行目にタイトルが、その下にはずらりと歌詞が書かれている。ただいつも後藤が見せる作詞ノートと違うのは、書き込みの量と何度も消しゴムで消した跡があるということ。
そしてそのノートには、喜多が知らない曲のタイトルがあった。フラッシュバッカー、秒針少女。そのタイトルの下にはフレーズが二、三並んでいるだけだ。
――ひとりちゃん、本当に苦労してるのね。
幾らかページを捲ると白紙が続く。段々と申し訳なくなってノートを閉じようとしたその時だった。
偶然開いた最後のページに喜多は目を止める。
――このページ凄いわね。量もそうだけど、何度も消した跡がある……
びっしりと書き連ねられた白紙は所々黒ずんでいる。書いている途中、手に着いた黒鉛が汚したのだろう。相当な時間、後藤がこのページに向き合っていたことが伺えた。
そのページの見出しには何も書かれておらず、名もなき曲の最初のフレーズはこうだった。
ああ、また今日が終わっちゃうのか。何か一つでも僕を変えられたかい?
もう戻ることのない 時が怠惰な眼で僕を見てる。
そこから続く言葉は彼女の人生を顧みるような、とても明るいとはいえないものだった。そして空欄のように挟まる数行の余白の後には、
いっそ朝が来なければ 丸めた背中がまた小さくなる
そんな暗い気持ちになるような言葉と数行の余白を繰り返している。
言葉と余白。その余白にもまた、何か書いては消した跡が残っていた。そして今、そこには何も書かれていない。幾重にも重なる言葉の中で、その余白と何も書かれていない見出しには、どこか空虚さがあった。
「喜多さん」
すぐ傍で名前を呼ばれた喜多は小さな悲鳴を挙げる。顔を上げるとそこには後藤がいた。頬を伝う汗を手で拭い、荒く呼吸をしながら「ご、ごめんなさい」と彼女は言う。
「ひ、ひとりちゃん」
反射的にノートを畳み後ろ手に隠す。いつになくじっと見つめてくる後藤の目に、喜多は息を呑んだ。
「あ、あの、ノート」
「ああそうよね! はいこれ……」
喜多は隠したノートを差し出す。ノートが手から離れる瞬間、喜多は彼女の目は見られなかった。
「見ました?」
どくんと心臓が脈打った。彼女の声が、いつになくはっきりと聞こえた気がした。
「……ごめんなさい」
信号が青に変わり、次々と車が走り出した。夜闇を照らすライトが目まぐるしく通りを過ぎ去っていく。
――後藤さん、怒ってるわよね。
長い沈黙と前髪に隠れた表情は、喜多にそう感じさせた。しかし後藤から返ってきた言葉は思いもよらないものだった。
「……すいません。早く作詞しないといけないのに、こんな落書きばかり」
後藤はそう言って頭を下げたのだった。それはあまりにも唐突で、喜多は驚きと「落書き」という言葉に混乱した。頭の中で糸が絡まっているようだった。
「そんな、やめてよこんな所で。私なんて作詞どころか、ギターだってまだまだなんだから」
宥めるように喜多は言った。
「き、喜多さんは可愛くて、歌も上手くて……ぎ、ギターも凄く上手くなってるし」
後藤がそう言った瞬間、喜多は何も言葉が出なかった。そして下唇を噛み、ぐっと押し黙る。
「じ、じゃあ帰ります……」
「……おやすみ」
ノートを抱き締めてとぼとぼと歩いていく後藤の姿を見届けて、喜多は帰路を急いだ。
――可愛くて、歌も上手くて……ぎ、ギターも凄く上手くなってるし
後藤が時折口にするその言葉が好きではなかった。
彼女に習ってギターを本格的に始めた頃、いつかギタリストとして胸を張って彼女の横に並び立てると思っていた。しかし彼女と共に過ごした二年間という時は、寧ろその差がどうしようもなく埋めがたいものだと喜多に感じさせた。
ライブをしていると、後藤の演奏技術と比べたら自分なんて足元にも及ばないといつも思う。最初に感じたのは一年の頃。聞くだけでは分からなかった彼女のギタリストとしての奥深さに、自分もギターに触れることで初めて気づいた。それでもいつかは、そう思っていた。
しかし後藤は喜多が上達する以上の早さで進化する。他のメンバーに合わせる為に敢えて抑えていたのだろう。山田が作る曲を後藤はいつも求められていた以上のクオリティで弾いてみせた。ならばと山田も曲を作り直し、喜多は高め合っていく二人について行くので精一杯だった。
同じ道を走っていても、その速度は同じではない。見えていたはずの彼女の背中はあまりに遠くて、今はもう見えなくなっていた。暗いトンネルの中を走り続けているような気分だった。
そんな彼女に「上手くなった」と褒められると、純粋に嬉しい気持ちがある反面、その姿がより遠くなっていく気がした。いっそ「まだまだ」と言ってくれたなら、どれだけ気が楽になるだろうか。それは彼女への嫉妬なのかもしれない。しかし自分と後藤がギターに打ち込んできた時間を考えれば、嫉妬するのはお門違いなのだ。それが分かっているからこそ、喜多は何も言えなかった。
喜多を悩ませているのはそれだけではない。勉強との両立も大きな課題だった。バンド活動を始めてから露骨に成績が下がり、一時は赤点を取って補習を受けたこともあった。今後どの大学を選ぶにせよ、せめて元の点数はキープしておきたい、そう思った喜多は練習の後に毎日机に向かっている。趣味だったSNSの更新が滞っているのはその影響だ。
ため息を吐いて喜多はシャープペンを転がした。そして広げたノートと教科書を鞄に仕舞って、ベッドに横になる。
――今日はもういいや。
就寝前、毛布に包まってSNSに目を通すのが日課だった。友人の投稿をひと通りスクロールし終えると、次は決まって結束バンドについて検索する。大抵は喜多の投稿やライブに対するポジティブな反応だが、
(結束バンド、燃え尽きた? 新曲全然出ないけど)
そんな内容もある。そしてそれは、日を追う毎に増えていっている気がしていた。マネージャーの司馬都には「気にし過ぎないように」と繰り返し言われているが、SNSが日常の一部である喜多にとっては簡単ではなかった。
(ボーカルの子って、可愛いけど正直ギター上手くないよね)
その投稿を見た時、頭がかっと熱くなり反射的に返信欄を開く。そこで数度指を動かしたところで、我に返ったかのように打ち込んだ文字を削除した。
――何やってんだろ、私。この人の言ってることは本当なのに。
喜多は部屋の電気を消した。
憂鬱な水曜日の翌朝にしては、カーテンの向こうでやけに澄んだ青空が広がっていた。しかしニュースによると明日から関東は梅雨入りするらしく、それを聞いて喜多はまた肩を落とし、もぞもぞと食パンを齧る。
――昨日のこと、もう一回ひとりちゃんに謝っとこう。
そんなことを考えながら教室で後藤が来るのを待つ。しかし始業五分前のチャイムが鳴っても彼女は姿を表さない。
――またどこかに隠れてるのかしら。それとも……
とうとう始業のチャイムが鳴った。しかし後藤は姿を見せない。そしてそのまま、何事もなかったかのようにホームルームが始まった。あたかも最初からそんな人はこのクラスにいなかったかのように。